定食屋に若い女が入ってきた。
「いらっしゃい。今日は大学は休みかい」
尋ねた主人に女は怯えた様子で「助けて下さい」と言った。
「誰も信じてくれないんです。警察も友達も。実家の母にも電話したんですがやっぱり信じてくれなくて」
「どうしたんだね」
「昨日の夜、怪物を見たんです」
女は血走った目でそう言った。
「マンションの隣の部屋から凄い悲鳴が聞こえて、私、顔を出して覗いてみたら、ドアが開いていて……。黒い怪物が、その部屋の女の人を殺して、食べていたんです。それで怪物が私の方を見て、『明日はお前だ』って言ったんです。『明日の夜、お前のところに行くぞ』って。つまり、怪物が来るのは今夜なんです」
定食屋の主人は曖昧な微笑を浮かべ、どう答えるべきか迷っているようだった。
「うーん。警察には通報したの」
「通報しました。でも、死体はなくなってたんです。血も残ってなくて」
「じゃあ、幻覚だったんじゃないのかね。いや、寝惚けてたというか、ね」
女は絶望した顔で店を出ていった。
フラフラと歩きながら女は携帯で知人に電話した。同じことを話すがやはり取り合ってもらえない。恋人に三度目の電話をする。「いい加減にしろ」と怒って切られた。実家にまた電話すると母はドラッグをやっているんじゃないかと心配を始めた。女は諦めて携帯を畳む。
派出所に入り警官に相談する。怪物が今夜自分を食い殺しに来るという話をすると、何処の精神科に通院しているのかと聞いてきた。女は黙って去った。
通行人に声をかけて助けを求める。化粧もせず髪をほつれさせ、目をギラつかせて奇妙な話をする女から誰もが遠ざかる。
公園のベンチでホームレスらしい不精髭の男がパンを食べていた。女は隣に座って「助けて下さい」と言った。
「どうした」
男が無表情に尋ねる。
「今夜、怪物が私を殺しに来るんです」
女は一通り話したが、男は「そうか」と言っただけだった。女は溜め息をついて公園を去った。
彷徨い歩くうちに女の母親が人を連れてやってきた。女は無理矢理車に乗せられ精神病院に連れていかれた。
女は必死に怪物の話をした。医師は真面目な顔で聞いていたが入院を告げた。女が抵抗すると看護師達に押さえ込まれて肩に注射された。
女は薄暗い部屋で目覚めた。狭くて片側に鉄格子が嵌まっている。寝具しかない部屋。精神病院の保護室だった。真夜中。
「全部、夢だったのかな……」
女はポツリと呟いた。涙が滲み出て頬を落ちていく。
その時、カリリ、と、物音がした。扉の向こうからだ。
不気味な音が連続した。水っぽい音に、扉を引っ掻くような音。
女は息を呑んで扉を見つめていた。
「キタゾ」
声がした。人間の声ではなかった。保護室の頑丈な扉が軋みを上げる。女は身を竦ませた。女の顔には自分が正気であったという安堵とこれから殺されるという恐怖がない交ぜになっていた。
だが今度は違う音が聞こえた。硬いものと肉がぶつかり合うような音。唸り声のようなものもあった。扉の向こうで気配が暴れている。
肉の潰れるような音が何十回も続き、やがて、静寂が訪れた。
「あんたの話は本当だったな」
扉の向こうから男の声がした。足音が遠ざかっていく。
変形した扉は蝶番が壊れている。女は扉を押し開けて廊下を覗いてみた。
グチャグチャになった怪物の死体が散乱していた。人影が暗い病棟を歩き去っていく。血塗れの鉄パイプを引き摺って、礼も求めずに。
怪物を殺した男は公園のホームレスだった。