第十一段 寝言

 

 由紀恵はいびきの音で目を覚ました。薄闇の中、壁時計の夜光の針は午前二時を示している。

 孝志のいびき。同棲してから二ヶ月になるが、由紀恵はまだ馴染めなかった。孝志より先に寝つければいいのだが、一度目が覚めてしまうといびきがうるさくてもう眠れない。

 やっぱり耳栓を買っておくべきかな、と由紀恵は思う。でも耳栓をしていることが孝志にばれたら、結局いびきのことを説明しなければならなくなる。孝志は傷つくかも知れないし、いびきはわざとやってる訳でもないんだし、このいびき以外は孝志は優しくていい男なのだ。

 それにしても、ガガ、ゴゴゴ、と、本当にうるさい。睡眠時無呼吸症候群とかいって太り気味の人はいびきが多いとかも聞くけれど、孝志は痩せている方なのに。

 このいびきさえなければ、二人の生活も言うことなしなのになあ。

「ガガー、ゴー、ゴ……」

 いびきが止まった。由紀恵は静かになったので眠れるかもと思いながら、孝志の呼吸が止まってないかと心配になる。耳を澄ますとちゃんと息をしていたので安心した。

「おい」

 突然野太い声がして、由紀恵は凍りついた。

 反射的に目を開けると、常夜灯の薄闇の中で孝志の横顔が見えた。安らかな顔で眠っている。

 今のは寝言だったのだろうか。夢の中で怒鳴ってるつもりとか。それとも、ただのいびきをそんなふうに聞き間違えたのだろうか。孝志が起きている時に「おい」などと荒っぽい言葉を使うことはなかったし……。

「おい、お前だよ」

 寝顔のまま孝志の口が動いて、悪意に満ちた台詞を吐き出した。

「目ン玉、抉り取ってやろうか」

 それで寝言は終わり、少ししていつものいびきに戻った。

 由紀恵は結局、朝まで眠れなかった。

 朝の孝志はいつもと変わらなかった。いつものように穏やかな笑顔でおはようを言って、由紀恵の作った朝食を食べ、いってきますのキスをして仕事に出かけていった。

 気にすることはなかったのかも知れない。由紀恵は早く忘れようと思った。

 だがその夜、由紀恵はいびきでなくドスの利いた声で起こされることとなった。

「おい。おい」

「お前だよ」

 孝志はやはり眠っていた。安らかな寝顔のままで、別人のような恐ろしい言葉を吐き連ねているのだ。

「お前。自分が安全だなんて、思ってないだろうな」

「次はお前の番だ。分かってるか。次はお前の番だぞ」

「手足を切り落としてやるからな。腹を裂いて、生きたまま内臓を引き摺り出してやる」

「お前。俺を口だけだと、思うなよ。このまま大人しくしていると、思うなよ」

 孝志の寝言は十分ほどでやんだが、由紀恵は朝まで震えて過ごした。

 一体何が起きているのだろう。孝志に悪魔が取り憑いたのか。それともやっぱり単なる寝言なのか。自分はどうすればいいのだろう。孝志をお祓いに連れていくべきなのか。でもどうやって孝志を説得すればいい。「あなたの寝言が不気味で怖いから」なんて言える筈もない。由紀恵は混乱するばかりだ。

 もう一日様子を見よう。この二晩は、たまたまだったのかも知れないし。結局由紀恵は決断を保留することにした。

 その晩、孝志が寝言を喋り出す前から由紀恵は起きて待っていた。

 午前二時を過ぎると派手ないびきが一旦止まり、静かな寝息に変わる。

 このまま終わって欲しいという由紀恵の願いも空しく、突然に激しい罵倒が始まった。

「おい。お前だよ、お前。分かってるのか」

「まさかお前、このままやり過ごせるなんて、勘違いしちゃいないだろうな」

「ぶち殺してやるぞ。目玉くり抜いて耳鼻削ぎ落として、顔の皮を剥いでやる。脳味噌を鷲掴みにしてやる」

「ぶち殺す。ぶち殺すぞ。丸太でケツから口まで串刺しにしてやろうか」

「どいつもこいつも殺す。皆殺しだ。ガハハハハハハ」

「まずはお前からだ。由紀恵」

 

 

 孝志は訳が分からなかった。朝になって目が覚めたら、由紀恵は泣きながら荷物をまとめているのだ。

「別れましょう。私、出ていくわ」

「ちょ、ちょっと待ってくれよ由紀ちゃん。一体どうしたんだ」

「テーブルにICレコーダーがあるから。夜中のあなたの寝言、録音したの」

 それだけを言って由紀恵は去っていった。

 何が起こったのか。孝志は首をひねりながらもレコーダーの再生ボタンを押した。

 五分後、孝志は呆然と言葉を絞り出した。

「な……何だこれ。こんな……僕の、声なのか……」

 孝志は頭を抱え込んだ。

 

 

 

 

「こんな……僕の本音が全部洩れてたなんて」

 

 

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