「サディストといっても実際には色んなタイプがいるでしょうけれど、私はやはり、サディストが本質的に求めているのは安心だと思うんですよ」
私は支配人に持論を語る。目元を赤い帯状のマスクで隠した支配人は、二つの穴から覗く瞳で私を観察しつつ、チェックシートを指先で軽く叩いている。
「サディストは、実は弱い人間なんです。不安でたまらないから安心したいんです。相手を屈服させたら優越感で安心出来るんです。相手がもう反撃不可能で、後はこっちのしたいように出来る、完璧に安全な立場。身動き出来ない相手を傷つけるのは自分の優位性を確認し、更にその差を広げる手段なのです」
「ふむ。リッパー様は前回、手足を縛った獲物を生きたまま解剖するというサービスをお楽しみ頂きました。今回も同様のものをお求めですか。それとも、拉致対象のグレードを上げるなどなさいますか」
『リッパー』というのは会における私の呼び名だ。支配人は私の本名を把握しているが、ショーにおいて使う訳にはいかない。
「それなんですが、ちょっとやり方を変えたいと思っているんです」
「どんなふうに、でしょう」
「もう一つ前提の話をします。私はコンピュータゲームが趣味で少年時代から色々とやってきたんですが、多くのゲームにはやり込み要素として非常に難易度の高いステージや敵が用意されていたりします。一旦クリアしてしまえば勲章やレアアイテムは手に入るから、もう二度と苦しむ必要はない。でも勝つまでが大変なのです。失敗したらセーブポイントに戻り、長い手間をかけてやり直し。ちょっとしたミス一つが命取りになります。何度も何度も挑戦しますが勝てません」
私の回りくどい話を支配人は辛抱強く傾聴している。私の意図するところを出来る限り正確に読み取って、サービスを提供するのが彼の仕事だった。
「何百回と繰り返すうち、ごく稀に、運良くうまくいって、ひょっとすると勝てるかも知れないという時が来ます。このまま勝てば苦行から解放される。でもちょっとミスしたら終わりだ。また長い長い苦行を繰り返すことになる。だから絶対にミスをせず、勝たないといけない。そう思った時に、ゾワゾワ、と来るものがあったんです。息が苦しくなり背筋が気持ち悪くなり、手が痺れて力が入らなくなるような、そんな感覚です。私はあれが、期待と不安と緊張と焦りが混じり合ってギチギチに詰め込まれた、あの感覚が、忘れられないんですよ」
「リッパー様。それはスリル、ではありませんか」
支配人が確認する。
「そう、スリルなんでしょうね。ただし、私が求めているのはスリルではなく、スリルを乗り越えた後の、価値ある安心なんです。スリルの結果、私は実際には勝ったり負けたりした訳なんですが、勝った時のあの喜びと安心感は素晴らしいものでした。もう勝つ必要はない、もう二度とあの苦痛とスリルを味わう必要がないのだという」
「それでは、今回のサービスはそのような趣向をお求めになると」
「ええ。私にもスリルを下さい。不安と苦痛のリスクを。相手にも武器を与えて下さい。ぎりぎりで私が勝てるか、勝てないか、そのくらいの条件・制約を設定して下さい。相手のやる気を引き出すために、私を殺したら解放すると約束して下さい。約束が守られるかどうかは別にして。その時は私は死んでいるので関係ないですからね」
支配人の口元が微笑を浮かべた。赤い布の穴から覗く瞳は黒々とした悪意に輝いていた。
「かしこまりました。リッパー様の大いなる安心のために、ヒリつくような最高の舞台を用意致しましょう」
チェックシートの書き込みを終え、支配人は恭しく一礼してみせた。
甲高いゴングの音が鳴り響き、暗闇が取り払われた。
眩い光。拍手、拍手。怒涛の拍手が私を迎える。目が慣れて闘技場の様子が分かってきた。十メートル四方ほどしかない狭いフィールド。大勢の観客は一段高い位置から闘技場を見下ろしている。いや観客のことはどうでもいい。
闘技場の向こうの端に、対戦相手がいた。
素性は知らない。大柄な男だった。そして頭が悪そうな、粗野な顔立ち。私の嫌いなタイプだ。
こんな奴を嬲り殺せるとは、素晴らしいじゃないか。私の欲望が膨らみ始める。
男は膝を畳んだ状態でそれぞれの足をテープでグルグル巻きにされ、にじり歩きしか出来なくなっていた。
それは私も同じだった。
男の右手は金属光を放つ細いものを握り込んだ状態で、やはりテープでギチギチに巻かれていた。
それが何かは知っている。私の右手も同じだったから。医療用メスだ。鋭利だが、とても小さな刃だ。
お互いに足の動きを制限され、武器はメス一本のみ。そこまでは同じ条件だ。
私と男で違っている点が一つだけある。私の左手は拳を作った状態でテープを巻かれているのだが、男の左手はそれに加えて肘を深く曲げた状態のままテープで固められているのだ。攻撃にも防御にも使いにくいだろう。
私が有利なのはその点だけだ。きっと男の方がパワーもタフネスも上だ。うまく立ち回らねばならない。ちょっとしたミスで殺されるのは私になるだろう。もし死なずに勝てたとしても重傷を負ってしまえば今後の人生に支障を来たすことになる。ここには最高レベルの医師がいるが、それでも手足に麻痺が残ったり、顔に大きな傷跡が残ったりするかも知れない。そうなったら今の仕事は続けられなくなる。目が潰れたりなんかすれば大変だ。私の人生が台なしになってしまう。
だから、ミスなしで、うまく、立ち回らねばならない。
前回は私が金を払ったのだが、今回は皆が楽しめるコンテンツになるということで報酬が設定された。勝てば二千万。ずっと遊んで暮らせるような金額ではないが、暫くは生活に余裕が出来る。私の大いなる安心に貢献してくれる。一度勝てばいい。だが負ければお終いだ。勝っても後遺症や大きな傷跡が残っては駄目だ。だからうまくやらねば。ミスなしで、うまく、うまく、うまく。
そう思った時、ゾワゾワゾワ、と来たのだ。これまでの人生で最大級の強さだった。
ああ、これだ。この感覚だ。息苦しいけれど嬉しい感じ。緊張と不安で体が痺れてくる。こんな馬鹿なことを何故始めてしまったのだろうと後悔が湧いてくる。死ぬかも知れないのに。それがまた、ゾワゾワとさせる。勝たないといけない。勝てばいい。うまく殺せ。勝てば安心だ。一度勝ちさえすればいい。
だから殺せっ。
男が動くのとほぼ同時に私も動いていた。膝で砂地をいざって互いに近づいていく。向こうの方が頭一つくらい高い。男が怒ったような、でも少し泣きそうにも見える顔で私を見下ろしている。相手のメスから目を離してはいけない。特に首筋や顔を守らねばならない。膝や拳に巻かれたテープはワイヤー入りで、メスで切ることは相当に難しいらしい。だから相手のメスを防ぐのに左拳を使うことが出来る。相手は左腕の動きが制限されているためこっちは切り放題だ。いやそんなにうまくいくだろうか。最初は慎重に、ミスをしないように。
キリキリキリキリと緊張感が高まっていく。相手の荒い息遣いを感じる。敵の殺気を感じる。ゲームでは味わえなかったものだ。
距離が五メートルを切り、三メートルを切り、二メートル、一メートル半、一メートル。メスを握る男の右手が伸びてくるのに合わせ、私も右手を突き出した。ワッと歓声が飛び、その騒音は集中した私の耳から一気に遠ざかっていった。
チャイッ、と私のメスが男の右拳のテープに触れた。硬い感触。すぐに引っ込める。ゾクゾクと震えが走る。
本当は左拳を出して相手のメスを弾くべきだったな。いやこれはミスではない。別にこれでダメージを受けた訳でもないし、攻撃目標の一つとして相手の右手首を切ることも考えていた。メスを握った状態で固定されてはいるが、手首の腱や神経が切れたらうまく使えなくなるだろう。
胸や腹はメスで致命傷にはなりにくいから、進んで狙う場所ではないし第一に守る場所でもない。ただ、腹を裂かれ腸をはみ出させて戦うのは嫌だな。腕もなるべく守るべきだ。神経を切られるかも知れないからな。のしかかられ押し倒されるのもまずい。抜け出せないまま滅多刺しにされるかも知れない。緊張感に焼かれながら猛スピードでそんなことを考える。
来たっ。男が右腕をぶん回してきた。私は左手でそれを受け止めようとした。うまく右腕を抱え込めたら、相手はメスで刺せなくなってこちらが圧倒的に有利になる。
だが相手の力は予想外に強く、私の左手は吹き飛ばされた。あっとっ、咄嗟に頭を下げる。男の手が額を掠っていった。危ないところだった。いや、液体が垂れていく感触。出血だ。メスで額を切られたらしい。畜生。いきなりやられた。初手でミスッたか。いや、まだ大丈夫だ。メスによる切り傷なら綺麗に治る筈だ。攻撃しないと。
私は男の股間を狙って右手を突き出した。足の付け根の大腿動脈をうまく切断出来れば出血多量で殺せる。男は防ごうとして身を屈め右手で叩き落とそうとする。だが私のはフェイントだった。本命は首筋の頸動脈だ。右手首を返して上向きに切り上げる、が、メスは男の左頬を切っただけだった。刃が皮膚を裂く感触。微妙な抵抗は角度が悪かったせいもあるか。ちゃんと刃筋を合わせないと。
溢れる歓声のため男の唸りは聞き取りにくかった。男が怒りに顔を歪めた拍子に、頬の傷が開いて赤い肉が見えた。ざまあみろ。だが殆どダメージにはなっていない。ちゃんと弱らせなくては。首。手首。腕。目。股間。
男がまたメスを振ってきた。私も左手で応じる。今度は覚悟を込めていたので、弾かれずに受け止めることが出来た。こちらも右手で攻撃。だが男は私の狙いに気づいたようで、左肘の曲がった腕で首周辺を守っている。仕方なく私は男の左脇を切った。シャツが裂けて血が滲んでいく。客席がドッと湧く。
男の攻撃。向こうも大振りはやめてコンパクトで鋭い突きになっている。私も左拳で払ったりしつつ右手で攻撃する。急所をうまく防御されているため代わりに腹などを切ることになる。メスなのでやはり浅い傷にしかならない。
私もたまに防ぎ損ねて前腕を切られ、そのたびに痛みと恐怖でヒリつく。だが、まだ大丈夫だ。深い傷じゃない、ちゃんと治療出来る。まだ取り返しのつかないミスはしていない。
こちらのチクチク攻撃に男は最初のうちはビビッていたが、覚悟を決めてしまったようだ。腹を裂かれるのも構わずグイグイ迫ってくる。押し倒されそうなプレッシャーにゾワゾワして体が焼ける。おっ、いけた、か。男が首ばかり守っていたので顔面を狙ってみたのだが、左目を切り裂けたようだ。少なくとも瞼は切った。片目を潰せたならかなり有利になるぞ。
ぐああああ。男が叫んだ。その拍子に大きく開いた左目、眼球の黒目部分がパクッと割れているのが見えた。やったっ。勝ちに近づいたぞ。このまま有利に進めて勝つぞ。これで安心に一歩近づいた。
あっ。左腕を深く切られた。ビリビリ来る痛み。まさか、神経をやられたか。握力は、あるような気はするが。痛みが強い。まずいぞ。
いや、まだ致命的なミスじゃない。まだ腕は動くし、戦える。後遺症も多分、残らないだろう。残らない筈だ。だからまだ大丈夫だ。これ以上傷を負わなければ。負うな。ゾワゾワゾワと来る。
私は刺す。右に回り込みながら男の脇の下を切る。膝がザリザリ痛む。皮膚とテープの間に砂が入ったようだが気にする暇はない。次は腹を切る。これは深く入った。男が動くたびに腹の傷からプックリと、中身がはみ出してくる。赤い腸が。
私はうまくやっている。でもまだ勝てない。男は片目だけになって動きが粗くなっている。うまく首を切りたいが、まだそこまでの隙は見せない。息苦しい。まさか、このまま体力で押し切られるとか、ないよな。
左目に汗が入ったと思ったら視界が赤くなった。血だ。切れた額からの血が目に入ったようだ。まずいぞ。見にくい。あっ。
顔を切られた。斜めに切られた。鼻に刃がめり込んでいったのが分かった。顔の傷はまずい。深い傷は。傷跡が残ったら社会的に生きていけなく……いや大丈夫だ。きっと痕を残さず治る。ここの医者は名医だ。だからまだ大丈夫だ。そうであってくれ。
と、私の顔を切って勢い余った男がつんのめった。今だ。ぬわっ。私はそんな声を出していたようだ。男の右の首筋にメスを突き入れる。深く刺し、抉る。頸動脈は切ったか。頸動脈だ。何処だ。もっと抉るか。メスの刃は大丈夫か。グヂッと硬いものにメスが当たる。一旦引く。もう一度刺そうとしたが男が振り払った。
血は出ているようだが噴き出している訳ではない。ドロドロと出ている。それを男が曲がった左腕で押さえる。首も曲げて妙な姿勢となる。必死で右腕を振り回しているが、無理な姿勢も加わって私には届かない。
これは一気に有利になったか。このまま勝てるか。離れて待っているだけでも死ぬかも。ゾワゾワと安心が快楽となって忍び寄ってくる。いや、油断するな。ミスするな。私は膝を使って回り込み、メスでラッシュをかける。腹を刺す。切る。刺す。切る。男のシャツはもう血塗れのズタズタだ。首を抉った時に刃が欠けたのか、切る時に強い引っ掛かりを感じる。だが構わず切る。もう少し。もう少しで……。
ブリュッ、と男の腹から腸が飛び出した。男は気づいているのかいないのか、唸りながら右腕を振り回すばかりだ。
私はまた右に回り込もうとする。それに応じて男も回る。そこで私はいきなり左に方向を変えた。膝が痛むが気にしない。
男がまた慌てて対応しようとして体をねじる。私は左拳で男の右腕を押さえつつ、血みどろのメスで顔面を切りつけた。狙うのは残った右目。額、から、瞼へ、入っ、たっ。
男の叫び。観客の熱狂。私は少し後ずさる。膝が痛む。男の右目。潰れているか。潰れていろ。これで勝ちか。どうだ。
男の右目が潰れていた。これで両目を潰した。勝ちだ。油断しなければ普通に殺せるぞ。ああ、安心で体が溶けてしまいそうだ。いやまだだ、ここでミスってはいけない。
男は私の気配を探ろうとしているが、凄い歓声のため何も聞こえないだろう。私はゆっくり慎重に、回り込みながら近づき、男がまだ必死に守っている首の隙間にメスを突き入れた。男が叫んで暴れる。私はまた離れる。見当違いの方向に腕を振り回す男に、背後から近づいてまた刺す。
慎重に安全に男の命を削り取っていく。私の体を覆っていたゾワゾワ感は和らぎ、湧き上がる安心が酔いとなって回ってくる。男を刻むたびに、私の安心は大きくなる。まだだ。まだ油断してはいけない。もう勝ちだろうが、最後の最後にひっくり返されたら勿体ない。私は愉悦をこらえながら男の腕を首を切っていき、やがて、男の首がブラブラになり体がピクリともしなくなった時点で、大いなる勝利が訪れた。
闘いの終了を告げるゴング。客席から狂ったような拍手が飛ぶ。これで安心だ。私の人生はもう大丈夫だ。私は価値ある安心を手に入れた。
そう思ったら欲が出てきた。今回は大丈夫になったが、折角だからもっと大きな安心を味わってみたい。私の人生が完全に安泰となるような、完璧な安心が。そのためには次はどんな条件でやるべきだろうかと私は考え始めていた。