第二十一段 定食屋にて

 

 その二人の客は私の勤めている定食屋を毎日訪れた。八十才を越えていそうな長い髭の老人と、目つきの悪い若い男だ。

 二人は一緒に来る訳でなく、大概は老人の方が先に食べている。それから若い男が来て、同じテーブルに座る。頼むのはいつも定食だが、若い男はカツ丼や天丼を頼むこともある。それから稀に、老人がうどんを頼むことがあった。若い男がなかなか来ないと、老人はビールを飲んで待っている。

 二人はテーブルに向かい合わせに座る。あまり仲が良さそうでもなく、若い男はニヤニヤしていることが多い。毎回、短い会話を交わす。それから食べ終わると別々に出ていく。会計も別だ。

 私は店員として食事を運んだり空になったコップに水を注ぎに行ったりする際、彼らの会話を小耳に挟むことがある。

 おかしな内容だった。カドミウム元素がどうたらで一段階引き上げるとか、光の速度を調節して云々とか、高度な物理学の話でもしているのかと思えば、人間の認識力を下げるとか、相互信頼度を上げるとか、何だろう、心理学の話だろうか。ミドリという色をなくすとか言っていたのもよく分からなかった。そもそもミドリってどんな色のことなのだろう。

 あの二人、ちょっと変ですね。私は店主に言ったことがある。

 気にするな、客は客だ。店主の返事はそんな感じだった。

 店内に置いたテレビは世界情勢があまり良くないことを報じていた。戦争だったり国の財政破綻だったり新しい謎の死病だったり。私はなんとなく嫌だなあと思いながらも、自分には関係ないことだと割り切って仕事を続けていた。

 二人の客は、やり取りの内容はよく分からないが雰囲気から対立関係にあるように見えた。若い男のニヤニヤが増えていて、どうも老人の方が不利な立場にあるようだった。

 いつか取っ組み合いの喧嘩でも始めないかと私は心配になったが、相談する相手もいないので淡々と仕事を続けるしかなかった。

 世の中はどうも益々悪くなっているような気がした。情報源が週に一度入ってくる瓦版だけなので詳しいことは分からなかった。冷蔵庫が妙に大きく感じる。うどんと油揚げしか入れないからそんなにスペースは必要ないのに。どうしてこんなに大きなものを買ってしまったのだろう。

 自分のためにうどんを作って食べているといつもの客がやってきた。今日は二人同時に入ってきた。

 いつもとは様子が違っていた。老人は疲れ果てた暗い顔で、若い男はずっとニヤついていた。

 二人でうどんを食べ、若い男が先に出る。今日はどちらも終始無言だった。

 老人は食べ終わっても席を立たなかった。どうせ客は彼らだけなので店を閉めようと思っていたのに、老人は動かない。取り敢えずコップに水を注ぎに行くと、老人が私に言った。

「守りたかったが、もう終わりじゃ」

「はあ」

 私は曖昧に相槌を打つ。

「最初は皆で協力して調整し、組み上げた。じゃがいつしか改変し合うゲームになり、奴が悪意で世界をいじり始めた。対抗していた者達も、自分の行った調整が無意味になるのと一緒に力を失い、脱落していった。最後に残ったのはわしと奴だけじゃ」

 意味が分からなかった。老人も私に理解して欲しいとは思っていないのかも知れなかった。

「わしもとうとう敗れた。座を降りることになる。奴も飽きて去るようじゃ。残ったのは会合場所に使っていたこの店と、君だけじゃ。その気があるなら、君が世界を創ってみるがいい」

 老人はそれだけ言うと立ち上がり、扉を開けて去った。扉の向こうはザラザラした灰色の闇だった。

 私は訳が分からなかった。ここには私しかいなかった。自分が一体何者だったのかもよく分からない。私は店で、うどんを作って……。

 まず、うどんを作ろうと思った。

 私は冷蔵庫を開けた。広過ぎて大きく余ったスペース。うどんと油揚げ以外に何かが必要なのではないかと、私は考え始めていた。

 

 

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