乾いた音。
古い扉が軋むような音が黒い静寂を破り、榊原智美は濁ったまどろみから現実に引き戻された。
目を開けても何も見えない。周囲は完全な闇に閉ざされていた。顔に触れる布の感触は、どうやら目隠しをされているらしい。ここは何処だろうか。智美は状況を把握するために、自らの記憶を探った。部活の帰り道、いつもの細い坂を下っていたところまでは覚えている。だがそれ以降については曖昧だ。視界を埋める白い手袋の映像が急に脳裏に浮かび、智美は慄いた。自分が誘拐されたのではないかという不安から、黒い悪寒が次第に彼女の内臓を冒していく。あれからどれほどの時間が過ぎたのだろう。一時間か、四時間か、それとももう丸一日くらいは経過しているのだろうか。
饐えた臭いが鼻につく。何かの腐ったような強い臭いだ。気分が悪くなり、吐きそうになったが、喉元には何も上がってこない。かなりの空腹を智美は自覚した。
智美は椅子に腰掛けた姿勢になっていた。立ち上がってみようとしたが、案の定と言うべきか、彼女の体は椅子に固定されており動けなかった。肘掛けに両腕を、硬い背もたれに腰の部分を紐で括りつけられている。足は、両の足首を纏めて結ばれていた。痺れるほどきつく縛られている訳ではないが、かといって引き抜けるほど緩くはない。縛った者はこういうことに熟練しているらしい。
それでもなんとか抜け出そうと身じろぎを繰り返す智美の耳に、再び軋み音が聞こえてきた。今度は短い。ビクリとして彼女は動きを止める。
ギシリ、ギシリ、と、軋みは近づいてきた。どうやら木の階段をゆっくりと降りているらしい。片足が悪いのだろうか、足音は微妙に交互のテンポが異なっている。
足音が、智美のいる床に到達した。彼女は息を潜めて眠っているふりをしようとしたが、全身の小刻みな震えは止めることが出来なかった。
パチン。相手がスイッチを入れたらしく、黒い闇が黄色の闇に変わった。部屋の電灯が点いたのだ。
「目が覚めたようですね」
若い男の声がした。声は意外に穏やかだが、くぐもっているのと同時に何処かから息が洩れているような、聞き取りにくいものだった。
智美は返事が出来ずにいた。心臓の鼓動が聞こえる。凄いペースだ。百メートルを全力で走ったところでこうはならない。彼女が陸上部でやっているように。相手は彼女をどうするつもりなのか。男が女子高生を攫ってきて、やることといえば選択肢は幾つもない。彼女の家は金持ちではない。ならば……。
「い、いやっ。来ないで」
智美は叫んだ。激しく身をよじるが紐は外れない。
彼女の懇願に関わらず、気配がヒタヒタと近づいてきた。湿った足音は、床が濡れているのだろうか。何で濡れているのか。
「ここは地下室です。大声を出しても外には届かないよ」
男の声が冷静に告げた。
「いや、いや。お願いだから……」
男は、もう、智美の、すぐ前に、いた。
智美の後頭部に男の手が触れた。何をするのかと思えば、智美の視界を遮っていた目隠しが外れ、眩い光が差し込んできた。
やがて明るさにも目が慣れ、智美の前に立つ男の姿が浮かび上がった。男は鍔の広い帽子を目深に被り、サングラスをかけていた。口元は大きな風邪用のマスクで隠れている。背丈は百七十センチほどだろうか。男は屋内にも関わらず長い灰色のコートを着ていた。両手に白い手袋を填めている。薄汚れたクリーム色のズボンの下から覗く素足に、智美は息を呑んだ。
男の右足には、指がなかった。生まれつきという訳ではない。それぞれの指があったと思われる箇所には、火傷の痕のように見える凹凸が残っていた。
男の左足は、暗い紫色に変色していた。皮膚は歪み萎縮し、指のない右足よりも全体的に小さく見えるのは、筋肉さえも縮んでいるのかも知れない。足の甲に幾つか覗く白いものは、露出した骨なのだろうか。
余りにも禍々しい男の両足から目を離し、智美は部屋の中を見回した。
地下室は割合に広く、十メートル四方はあった。壁も床も剥き出しのコンクリートで、装飾性はまるでない。天井に備え付けられた蛍光灯は真っ直ぐの長いタイプのものだ。四本の内の一本が切れかけていて、時折パチパチと音を立てて光を揺らした。
だがそんなことはどうでもいい。智美は、部屋中に設置された品々に目を奪われていた。彼女は自分の顔から血の気が引き、目の前が暗くなって危うく失神しそうになるのを感じていた。
それは、異形の器具類だった。
向かいの壁には数本の錆びた鎖が吊られていた。先端の原始的な手枷足枷に付着する、乾いた赤い塗料が何であるかはすぐに予想がついたし、それが予想通りであることは間違いないだろう。すぐ下の床には小さな肉片のようなものが転がっていた。部屋を埋め尽くす腐った臭いの、元凶の一つであろうが、それが一体どの部分なのか、智美はすぐに目を逸らしたため確かめることは出来なかった。
智美の座る椅子の左横に、大きな木製のテーブルが置かれていた。粗雑な作りだが太い足は頑丈そうに見え、テーブルの上で何が行われようとも、そう簡単には壊れないだろう。即ち、磨き上げられていないざらざらしたテーブルの表面には、全体に赤い染みが広がっていたのだ。四隅に打ち付けられた太い釘の頭は輪になっていて、手足を紐で括りつけるのに役に立ちそうだ。
その先、左側の床に、小さな携帯式のガスコンロがあった。中華鍋が上に乗っている。中に満たされた濁った液体は、どうやら油らしい。この湿った地下室で料理をすることはないだろう。ならば何に使われるのか。
右側の壁には幅の広いスチールの棚があった。無造作に並べられた薄汚れた道具達が、この部屋の本質を最も的確に示していた。それらは包丁や大型のペンチや植木鋏や鋸や金槌やその他諸々の凶器であった。大きなものではチェーンソーがあった。小さなものでは医療用のメスらしいものやスプーンがあった。そう、スプーン、コーヒーに砂糖を入れたりアイスクリームを食べたりする時のあのスプーンだ。他にはただの鉄の棒や、何か得体の知れない液体の入っている瓶があった。それらの殆どが、誰かの血に塗れていた。
そして、部屋の中央に、智美の想像を絶するような代物が、設置されていた。
それは工事現場で見かける、セメントを捏ねる機械にも似ていたし、エアコンが入る前には彼女の家にもあった旧式の扇風機にも似ていた。ただそれが特殊なのは、三枚の大きな金属の羽が、水平に据えられていることだった。真下には血で汚れたポリバケツが置かれ、羽との隙間から大型のモーターかエンジンのようなものが覗いていた。鋭利な鋼鉄製の羽は、かなり勢い良く回ることだろう。羽とモーターを固定する台は脚を四方に広げて倒れないようにしっかりと立ち、台の上に斜めに延びる、高い柱の先端は滑車になっていた。フックの付いた太いワイヤーがその滑車を通り、操作パネルの近くの別のモーターに繋がっている。操作ボタンは四つほどだった。
水色のポリバケツが光で透け、中に何かが堆積しているのが見えた。
「いやあああああああああっ」
智美は自分でも驚くほどの大きな悲鳴を上げていた。喉がひどく痛み、破れるかと思ったが、悲鳴はどうしても止まらなかった。こんなことが自分の身に起こるなんて信じられない。本当なら家に帰って、母親の作った夕飯を食べながら音楽番組を見ている筈なのだ。それが何故、地下室に監禁されてこんな目に遭わねばならないのか。確かに世界中で残酷な事件は続いているし、新聞やテレビのニュースで見ることはある。だがそれはあくまで智美とは関わりない別世界の出来事であり、彼女には平穏な日常が用意され、幸福な未来が待っている筈ではないか。退屈な授業を聞きながらノートに書き留め、休み時間は友達と他愛ないお喋りに興じ、陸上部の部活は苦しいけれど遣り甲斐はあるし、何よりも憧れの先輩と一緒に過ごせることが喜びだったし、ぼんやりとテレビを見ているのも楽しいし、弟とは喧嘩もするけどたまには一緒にテレビゲームもするし、勉強はあまり好きじゃないけれどテストの結果が良ければ嬉しかった。将来はそれなりの大学に入学して、素敵な男性と恋をして、結婚して幸せな人生を送ることになっているのだ。そうに決まっているのだ。それが、何故、こんな目に。そりゃあ中学の頃には万引きもしたことがあるけれど、客観的に見て良い子として過ごしてきた筈だ。こんな目に遭わねばならぬような悪いことはしていない筈だ。それが、何故。
ああ、私は殺されるんだ。ただ殺されるだけじゃなくて、飛びきり残酷なやり方で。手足を切り落とされたり目玉を抉られたり耳鼻を削がれたり焼けた油をかけられたり肉を捻じ切られたり生皮を剥がれたり内臓を引きずり出されたりしてじわじわと殺されるんだ。恐慌状態に陥った智美の頭の中を、これから自分に加えられるであろう拷問に関する数々のおぞましい想像が駆け巡っていった。
男は黙って、身じろぎもせずに、智美の悲鳴を聞いていた。サングラスとマスクに隠れ、表情は全く読み取れない。
智美の肺が痛むほどに空気が出し尽くされ、第二弾の悲鳴の準備として大きく息を吸い込む合間に、男が静かな声で告げた。
「落ち着いて」
落ち着いてなどいられる筈もない。智美はもう一度、大声で叫んだ。
「助けてえええええええええっ」
喉が痛かったが我慢して、精一杯の声を出した。外に声が届かないと男は言ったけれど、万が一ということもある。諦めて為すがままになる訳にはいかない。
やはり男は動かずに、智美が叫び終わるまで待っていた。
智美が再度息継ぎに入った時に、男が言った。
「怖いのは分かるけど、怖がることはない。君に危害を加えるつもりはない。まずは、僕の話を聞いて欲しい」
三度目の悲鳴を上げかけて、しかし、智美は一旦中断することにした。男の態度に害意が感じられず、彼女に対して何の行動も取っていないこともあったし、喉が痛いことも理由の一つだった。何日かガラガラ声が続くのではないか。勿論、生きていられればの話だが。
「あ……あなたは誰なの。なんで私を……」
「それも説明しますよ。少し長くなるけど」
男はそう言って帽子を取った。
智美は絶句した。男の髪は手入れされておらずボサボサだったが、その左半分は手入れする必要自体がなかった。何故なら、その部分はケロイド状の皮膚で覆われて、全く毛が生えていなかったからだ。
男は続けてマスクを外した。色の薄い唇の左端から、刃物で裂かれたような醜い傷痕が耳の下まで蛇行していた。縫い目も汚くて、藪医者がやったとしか思えない。右の頬は、肉が抉り取られてぽっかりと大きな穴が開き、上下の歯列と歯茎がそのまま見えた。しかも、歯の何本かは抜けている。そして男の鼻は存在せず、赤い肉の穴が開いていた。
「な、ちょ、ちょっと……」
「驚くのも無理ないけど、落ち着いて」
もう一度男は言った。マスクを取ると、右頬から洩れる空気の音が目立つ。
続けて男はサングラスを外した。男の左目には瞼というものが存在せず、しかも、当然中に収まっているべき眼球もなかった。男の左の眼窩はピンク色の空洞と化していた。右目は無事だったが、何かを訴えかけるようなその澄んだ黒い瞳の中に智美は、苦悩と歓喜の混じり合ったような複雑な感情を認めた。
男は白い手袋を外した。手袋に詰め物をしてあったのだろうか、左手には小指と薬指が存在しなかった。右手の甲にはナイフで刺されたまま縫わずに固まったような、不気味に盛り上がった傷痕があった。
最後に男はコートを脱いだ。コートの下は上半身裸だった。その胸に腹に、幾つもの傷痕が残っていた。刃物によるものだけではなく、火傷の痕に見えるものもあった。腹の右側面にある異様な凹みは、ごっそりと肉を抉り取られたのだろうか。
何なんだ。
この男は、一体、何なんだろう。
惨過ぎる男の肉体から目を離せぬまま、智美は凍り付いていた。もし自分がこの男と同じような目に遭えば、途中で耐え切れずに舌を噛んで死んでしまうのではないか。こんな状態でもし生き残っても、きっと人生に絶望して自殺してしまうだろう。この男はどれほどの拷問を受けてきたのだろう。
「もしかして君は」
男が頬から息を洩らしながら言った。
「僕が誰かに酷い目に遭わされて、その復讐のために、無差別に他人を拷問にかけているなんてことを、思ったんじゃないですか」
この地下室が男のものであり、これらの残酷な道具を男が使ったのであれば。勿論、智美はそう考えた。
「でも、実際は、逆なんです」
男は長い溜息をついた。体内に溜まった嫌なものを念入りに吐き出しているような、そんな疲れた溜息だった。
何が逆なのか、この時点の智美には、想像も出来なかった。ただ、智美の中で、男に対する恐怖は少しずつ薄れていき、男への同情と興味が湧いていた。
「順を追って話していこうと思います。最後に縄も解くし、君は自由になれる。君には僕の話を聞いて欲しいし、僕がやることを見ていて欲しいんだ。そのために、君をここに連れてきたのだから」
男は穏やかな口調でそう説明すると、血の付いたテーブルの縁に腰をかけ、ゆっくりと、話し始めた。
僕は須永陽一といいます。両親がどんな願いを込めて僕にこの名をつけたのかは知りません。ただ、実際のところ、僕は太陽のような男にはなれませんでした。
幼い頃の僕は傍から見れば、親や先生の言いつけを良く守る、大人しく扱いやすい子供だったと思います。授業をよく聞いて宿題も忘れずにこなし、成績も良く真面目だったので先生には可愛がられました。喧嘩をしないこと、どの子とも仲良くすることを心がけていたので、クラスメイトにもそれなりに人気がありました。学級委員に選ばれたことも何度もあります。
優等生として過ごす僕を、両親は自慢し、先生は褒め上げ、クラスメイトは羨望の眼差しで見ていました。
でも、僕は、押し付けられたルールを好きで守っている訳ではなく、常に、不安と恐れに苛まれていたのです。
僕には、世界というものが分かりませんでした。
そもそも人は皆、生まれる時は何の知識も持っていない訳ですよね。見知らぬ環境にいきなり投げ出され、右も左も分からない状態から、どうやって世界というものを認識していくのでしょう。そんな状況では、生活する家の中が世界の全てで、すぐ側にいる人達の言葉は絶対の真実となるのではないでしょうか。
だから僕は、これだけは生まれつきの安全を求める本能によって、両親の言いつけを信じ、それに全力で従いました。
先生の教えることをよく聞きなさいと言われ、それに全力で従いました。
人に会ったら挨拶をしなさいと言われ、それに全力で従いました。
食べた後は必ず歯磨きをしなさいと言われ、それに全力で従いました。
友達と喧嘩してはいけないと言われ、それに全力で従いました。
真面目に勉強しなさいと言われ、それに全力で従いました。
他人のものを盗ってはいけないと言われ、それに全力で従いました。
自分にとって嫌なことを他人にしてはいけないと言われ、それに全力で従いました。
僕は、それらの言いつけを、冒すべからざる絶対のルールとして、細心の注意を払い、あらゆる誘惑に耐え、全身全霊を打ち込んで、守り抜いてきたのです。
何故なら親達は、守るべき内容は教えてくれたけれど、もしそれを破ってしまったらどうなるのかは、教えてくれなかったからです。もし破ってしまったら、一体どんな恐ろしい運命が待ち構えているのか、僕は怯え、その恐怖によって、全ての行動を支配されていたのです。
その代わり、数々の決まり事をきちんと守ってさえいれば、自分は安全だと思っていました。また、人生という素晴らしいものが僕にもちゃんと用意されていて、ルールを守り続けた褒美としていずれ自分に与えられるものだと信じていました。当時、人生というものについての色々な良い噂を耳にしていた僕は、栄光とか財産とか恋愛とか勝利とか友情とかそれら全てを、自分がこの先きっと体験し手に入れることが出来ると疑わなかったのです。
ですから僕は自分の中に作り上げられた飴と鞭によって、期待と不安に焼かれながら、盲目的にルールを守り続けました。怯え続け、安定した日常に必死にしがみついていた僕は、他のクラスメイト達が何故あんなに自信満々な顔で生きていられるのか不思議でたまりませんでした。何故ああも簡単に宿題を忘れたり始業時間に遅れたり喧嘩したり先生に向かって生意気な言葉を吐いたり出来るのでしょう。彼らはルールを破って世界から脱落し、底の見えない奈落の闇へと突き落とされることが恐くないのでしょうか。馬鹿だ。僕は彼らが羨ましいと思うと同時に、軽蔑と憎しみを感じていました。今振り返ってみると彼らは彼らで、ルールを守る優等生の僕に対し、同じような感情を抱いていたのかも知れませんけどね。
僕は友達と外で遊ぶよりも、独りで家の中に篭って折り紙を折ったり粘土遊びをしたり本を読んだりすることの方が好きでした。同年代の友達……いやそれが本当に友達と呼べるのかどうかは分かりませんが……の考えと行動は僕には理解不能で、親しげに遊びに誘っておきながら、急に暴力的な側面を見せ、僕の足をつねったり、水風船を投げつけたりするのです。市営プールに一緒に泳ぎに行った時などは、溺れさせられそうになったこともあります。自分にとって嫌なことは他人にもするなと教えられた僕には信じられないことでした。自分の身を脅かされる外へ出るよりも、家の中が最も安全で、僕には最後の砦でした。また、家族で何処かへ出かけたりする時は、慣れぬ場所で迷子にならないように、隠れた危険に遭遇しないように、僕は常に親の側にくっついて、はぐれないため細心の注意を払っていました。
僕は自分の人生の参考とするために、他人の人生について興味を持ちました。その頃には人生というのは自分だけのものではなく、他の人も皆持っているということを知っていました。つまり他人の人生であり得ることは、自分の人生にもあり得ることなのです。生きていくためには働いてお金を稼がないといけないので、それぞれの職業について思いを巡らせました。サラリーマンは決まった時間決まったやり方で働いていれば決まったお金が手に入るようですが、例えば家の近くの駄菓子屋はどうでしょうか。小学生の頃の僕は週に何度か小銭を持って出かけ、その店でお菓子を買っていましたが、一度に使う金額は三十円とか五十円で、百円も使ったら贅沢な方でした。でも店の立場で考えてみると、それがどれほどの利益になるでしょう。一ヶ月に必要な生活費は二十万円とか三十万円とか聞きます。それに届くまでに何人の客が必要となるでしょうか。駄菓子屋はそれほど繁盛している感じではなかったので、僕は心配になりました。またある時、何かの会場で、水を使って同じ用紙に何度も繰り返し練習が出来るような、習字セットの実演販売をやっている人を見ました。その人は一生懸命に、この習字セットがどんなに役に立つかを説明していましたが、足を止めて話を聞いてくれる客はいませんでした。軽蔑したような目で通り過ぎる人もいました。僕は心配になりました。この人は一日にどれだけのセットを売ることが出来るだろう。一つも売れなかったらどうしよう。この人は生活出来るのだろうか。僕は心配になりました。他の人にもあり得ることは、僕の人生にもあり得ることなのですから。僕は両親に頼み込んで、一セット買ってもらいました。これで少しはあの人の助けになっただろう。僕は安心しました。習字セットは二、三回使ったら飽きて捨ててしまったけれど。僕は彼らの境遇を思い、きちんと収入が得られ安心して生活出来るような仕事に就かなければならないと肝に銘じました。そのためには真面目に勉強して良い高校に入学して良い大学に入学して順調に卒業しなければならないのです。僕はますます勉強に追われました。
僕ら家族は、盆や正月には両親のそれぞれの実家に行くことになっていました。特に母の実家は本当に田舎で、当時は豚や鶏を飼っていました。ある時、僕らのために御馳走をと、祖母が飼っていた鶏を一羽潰しました。生きている鶏の首を掴み絞め殺し、解体するのを見て、僕は慄きました。鶏だって生き物だし、鶏の人生がある筈です。もしかしたら僕も一歩間違えば鶏に生まれていたかも知れません。鶏にあり得ることは、僕にもあり得ることではないでしょうか。僕もああいうふうに絞め殺されて、解体されることになるかも知れません。豚だってそうです。僕は食卓に並んだ豚肉や牛肉を平気な顔で食べていましたけれど、僕だったら食われるために飼育され、殺されるのは御免です。でも、僕は食べている、人間のやることを黙認しているのです。自分の身にもそれがあり得るということに、僕は怯えました。自分にとって嫌なことを、他人にしてはいけないのです。ならば牛や豚にすることを自分がされても、文句は言えないではないですか。
それでも、彼ら動物と違って自分が人間であるということは、僕にとって救いでした。人間を殺して食べるということは、一般には行われていないらしいからです。
その偽りの安心が脅かされてきたのは、新聞やテレビのニュースなどをよく見るようになって、世界に関する情報が増えてきた頃からです。
世界中で人間に起こっている出来事は、必ずしも良いことばかりではありませんでした。交通事故で死者が出たとか、海水浴で溺れて行方不明になったとか、飛行機が落ちたとか、通り魔に刺されたとか、火事で焼け死んだとか、メディアは様々な恐ろしいニュースを毎日のように伝えてきました。僕は彼らに降りかかった運命を思い、恐怖しました。当時の僕の貧困な想像力からしても、もし自分が彼らの立場だったら、到底耐えられそうにないことばかりでした。溺れて息が出来なくなるのはどんなに苦しいだろう。自分で数十秒の間、呼吸を止めてみただけでこんなに苦しいのに、その限界を超えたらどうなるのか、僕には見当もつきませんでした。刃物で刺されたらどんなに痛いだろう。縫い針が指に刺さっただけでも痛いのに、大きな包丁が自分のお腹に突き刺さり、破れた部分から内臓が飛び出したりするのは、どんなに恐ろしいことだろう。僕は自分の中身が外に飛び出すことなんて考えられませんでした。全身が火傷して、皮がずるりと剥けたりしたらどんなにか痛いことだろう。テレビでその傷を見ているだけで体がヒリヒリと痛くなりました。死ぬとはどういうことだろう。死んだらどうなるのだろう。消えてしまうのだろうか。自分が消えてしまうとはどういうことなのか。それとももっと恐ろしい暗闇に呑み込まれることになるのだろうか。
そんな不幸な目に遭った彼らは、一体どんなルールを破ったのでしょうか。どんな悪い罪を犯して、罰せられたのでしょう。ですが僕が両親に尋ねても、彼らは別にルールなど破っていないというのです。僕は信じられませんでした。ルールを破らなくても、こんなことが人の身に起こるのか、と。ルールさえ守っていれば、安全な筈ではなかったか。ルールさえ守っていれば、素晴らしい人生が与えられるのではなかったのでしょうか。
ならば、ルールを守る以外にどのようにすれば、あんな恐ろしい目に遭わずに済むのでしょうか。一体何をすれば、僕は安全でいられるのでしょうか。パニックに陥った僕は、何度も何度も両親に尋ねました。でも両親は、注意していれば防げることもあるけれど、幾ら気をつけても防げないような、偶然に起こるようなこともあるというのです。
偶然。サイコロを振って、一以外ならば大丈夫だけれど、一が出たら死刑。死刑になどなりたくない。でも、どんなに努力しても、一の出る可能性はなくならないのです。親は、自分がそんな目に遭う確率はとても低いので、そんなに心配しなくても大丈夫だと言いました。大丈夫な筈がないではありませんか。僕は毎日、自分の身を偶然に委ね、安全を賭けて強制的にサイコロを振らされるのです。そんなことにはとても耐えられそうにありません。
それだけではありませんでした。怯える僕を納得させようとしたのか、その後で父がこう言ったのです。
「どうせ生きている限り、絶対いつかは死ぬんだから」
なんと、人間は皆、いつかは必ず死ぬというのです。百年以上生きた人なんてごく僅かで、二百年生きた人は一人もいないというのです。なんということでしょう。僕がどんなに安全を求めて努力しても、あの得体の知れない恐ろしい死というものが、いずれは僕の身にも降りかかってくるということなのです。僕は絶対に、死というものを味わわねばならないのです。
なんて恐ろしい世界に僕は生まれてしまったんだ。こんな世界に生まれてこなければ良かった。僕は震えが止まりませんでした。僕は怖さのあまり、泣き出してしまいました。
両親は不思議そうな顔で、僕を見下ろしていました。いや、その目には、鬱陶しがっているような、僕を憎悪するような感情が含まれていたと思います。何故そんな目で見られなければならないのか、当時の僕には分かりませんでした。今ならはっきりと分かりますけれどね。
「大丈夫だと言ったら大丈夫なんだ。もうそんなことを聞くな」
父の一喝で、僕の疑問はうやむやにされたまま、片付けられてしまいました。僕は先生や友達にも同じことを尋ねましたが、やはり僕の不安を取り除いてくれるような答えは返ってきませんでした。先生は困ったような戸惑ったような顔をしていました。僕は解決出来ない苦しみを抱えたまま、それでも自分に課されたルールを強迫的に守っていきました。僕に出来ることは、それくらいしかなかったのです。
いえ。
僕は考えたのです。
もし、恐ろしいことが自分の身に起こり得て、その可能性がゼロにならないのならば、いざ遭遇してもきちんと対応出来るように準備する必要があるのです。耐えられないことを、耐えられるようにしておかねばならないのです。
ホラー映画をよく観るようになったのは、中学生になってからでした。父親がレンタルビデオ屋に行く際についていき、一本選ばせてもらうのです。ホラーの中でも、怪物や殺人鬼が犠牲者を残酷な方法で殺し捲るような、スプラッターものが多かったと思います。両親は僕のことをホラー好きと言ってからかいましたが、僕は真剣でした。好きだから観ていた訳ではなく、実際はその逆で、怖くて味わいたくないからこそ観ていたのです。追い詰められ、肉体を引き裂かれる恐怖に繰り返し接することでそれに慣れ、克服しなければならなかったのです。
何十本もホラー映画を観続けたことで、慣れたかと言われると、確かに慣れた部分はあります。でもそれは、ホラー映画を観ることに慣れただけであり、自分自身が実際に追い詰められ、無惨に引き裂かれることに慣れた訳ではありませんでした。僕は自分の身にそれが起こったらどうしようと、そればかり考えていました。
学校の帰り道にいきなり殺人鬼に捕まって地下室に閉じ込められ、手足を縛られて、酷い目に遭わされるかも知れない。僕が幾ら助けてと叫んだって、冷酷な殺人鬼は容赦せずに僕の体を引き裂くだろう。指を捻じ切られるかも知れない。目を抉られるかも知れない。耳や鼻を削ぎ落とされ、アイスピックを突き入れられるかも知れない。硫酸で顔を溶かされるかも知れない。ドリルで歯をほじくられるかも知れない。生皮を剥がれるかも知れない。炎で焼かれるかも知れない。手足を切り落とされるかも知れない。腹を裂かれて内臓を引きずり出されるかも知れない。そして最後には、あの恐ろしい死が待っているのです。
僕は、怖くて、怖くて、怖くて、怖くて、怖くて、怖くて、たまらなかったのです。
中学二年の夜、僕は、自分の部屋で机に向かい、カッターナイフを見つめていました。刃が次々と折れるような使い捨てのタイプではなく、一枚のしっかりした刃になっているタイプのものです。宿題を終え、夜中の十二時を過ぎていて、両親は既に床に就いていました。僕は机のスタンドだけを点けた薄闇の中で、暫くの間、カッターナイフの先端に見入っていました。
僕は、自分の体を使って、実行に移してみることにしたのです。体が傷ついても大丈夫であることを、死んでも大丈夫であることを、自分に証明しようとしたのです。僕はその時、死んでもいいと思っていました。怯えながら生き続け、ある時突然想像を絶するような苦痛を受けるよりは、自らの手で死んだ方が楽ではないかと考えていたのです。やれる。きっとやれる。僕は怯える自分を激励し、説得しました。感覚がなんだか鈍くなり、生温かいような力の抜けるような、奇妙な感触に包まれたことを覚えています。僕は、自分が死ねることを実感しました。
僕は二段階の計画を立てました。まずは実験的に、自分の手の甲にナイフを突き刺してみることにしました。それが成功すれば、次に頚動脈を掻き切るのです。後になって思えば、それはやっぱり死にたくないがためにそんな手順にしたのでしょう。僕は逆手にナイフを持ち、左手の甲の真ん中に切っ先を当てました。え、右手のこれですか。これは違います、その時の傷じゃありません。その時の左手の傷は、これです。そんなに目立たないでしょう。
そう、結局のところ、僕は死ねませんでした。ナイフを持つ手に少しずつ力を加えてみましたが、意外に弾力のある皮膚は凹むばかりで、それを突き破ることは出来ませんでした。少しずつ肉に減り込んでいけば、怖くなったら途中で止めることも出来るだろう。多分僕はそんな姑息なことを考えていたのでしょう。でも皮膚は破れません。僕は内心少しホッとしながら、そんな自分に腹が立ち、刺さねばならないという使命感と、傷つくのを恐れる気持ちとの板挟みになりながら、尚も力を込めていきました。
突然、ビュッという音がして、ナイフが突き抜けました。限界を超えた皮膚は一気に裂け、ナイフはかなり深いところまで刺さっていました。筋肉は予想以上に柔らかいものでした。痛みは何故か、殆ど感じませんでした。僕はぞっとしてナイフを抜きました。長さ二センチほどの傷から、じわじわと血が洩れ出してすぐに血玉を作りました。僕は慌ててティッシュペーパーで盛り上がった血を拭き取りました。でも手を離すとすぐにまた血が洩れてくるのです。僕は出血を止めようとして左手を握り締めました。そのせいで皮膚が引っ張られ、傷がパクッと開いて中の肉が覗いたのです。
ああ、僕はその時、自分にも中身があることを実感したのです。まだ僕はその時まで、自分は特別な存在で、傷ついたり死んだりすることはなくて大丈夫なんだと、自分を安心させようとしていました。それが、自分もただの肉の塊であると思い知らされたのです。何度もティッシュを代えて、出血はなんとか止まりましたが、僕はもう自殺する勇気を失っていました。ただただ元の安全な日常に戻ることを願いました。もう僕は二度と自殺など出来ないと思いました。
翌朝、左手の甲に貼られた絆創膏を見て、どうしたのと母が尋ねました。僕は、カッターをいじっていて間違ってちょっと刺さったんだと答えました。馬鹿だねえと言われ、話はそれで終わりました。傷は自然に塞がってくれ、痕もそんなに目立たなくなりました。僕は日常に戻れたことに安堵しました。
それから僕がどうしたのかというと、不安を解決しなければならないとする気持ちから目を逸らし、日常に没頭していったのです。僕はただ勉強を続け、成績に一喜一憂し、寝転がってマンガを読み、バラエティ番組を見て笑い、それだけの生活を延々と続けていきました。僕は良い高校に入り、そこでもまずまずの成績を修めて、良い大学に合格することが出来ました。コンパにも慣れ、酒を飲みながら馬鹿話に興じている内に、いつしか僕を支配していた疑問は忘れ去られていました。
いや、実際には、心の深い部分に押し込めていたのでしょう。僕は相変わらず、得体の知れない焦燥感のようなものにいつも駆り立てられていたのですから。僕は何をやっていても心底から楽しいと思ったことはありませんでした。能天気な友人達に話題を合わせながらも、何処かで彼らに軽蔑と憎悪を抱いていました。優良企業に内定が決まり、友人達から羨ましがられても、僕の焦りはやむことがありませんでした。サラリーマンとして上司の叱責に耐え、得意先に頭を下げ、自分がミスを犯していないか、ルールを破っていないかを執拗に確認しながら、僕は懸命に日々を生き抜きました。休日はやりたいことも思い浮かばずに、自分のマンションでぐったりしていることが殆どでした。たまに大声を上げて駆け出したくなるような不気味な衝動を堪え、部屋の中を無目的にただグルグルと歩き回るようなこともありました。
封印されていた不安が、再び圧倒的な質量で表出してきたのは、二年前、両親が交通事故で死んでからになります。僕はマンションで一人暮らしをしていて、盆や正月の休みなどに実家に帰る程度でした。両親は、僕が順調な人生を送っていると信じて、安心していたと思います。寿命が来たテレビに替わり、大型電気店で新しいテレビを注文してからの帰りだったようです。昼間から酒を飲んでいた運転手のトラックが対向車線を越えて、父の運転する軽自動車に突っ込んだということでした。父は両足を潰され肋骨を折り内臓破裂を起こしました。助手席にいた母の顔はフロントガラスを突き破ってずたずたになりました。それだけでは終わりませんでした。洩れたガソリンに火が点いて、車が燃え始めたのです。変形した車体に閉じ込められ、両親は悲鳴を上げてもがきながら、生きたまま炎に炙られていきました。居合わせた人々は助けることも出来ず、彼らの前で両親は、五分近くもかけて焼け死んだのです。
やっぱり大丈夫じゃなかったじゃないか。知らせを聞いた僕の頭に真っ先に浮かんだ言葉がそれでした。僕の不安を頭ごなしに叱りつけ、平穏な生活に甘んじていた両親が、今ここに偶然という魔物によって恐ろしい断末魔を晒すことになったのです。同時に重石が取れたように、人生の苦痛に対する不安と恐怖が爆発し、僕の全身を駆け巡っていきました。やはり、どんなに恐ろしいことも、生きている限り、僕の身にも起こり得るのです。僕は両親の味わったような苦痛を絶対に味わいたくない。ならば、やはり、起こり得る苦痛は克服しておかねばならないのです。そうでないと、安心して生きていけません。何故こんな大事なことを僕は、両親が死ぬまでの間、十年以上も放ったらかしにしていたのでしょうか。
その時になって僕は、自分の経験とも重ね合わせ、真実の一つを知りました。
さっき君は、この地下室の様子と僕の姿を見て、自分が酷い拷問を受けて殺されると思ったでしょう。その時、こう感じませんでしたか。
自分がこんな目に遭う筈がない、信じられない、と。
ね、そうですよね。
大部分の人間は、普段から自分の心を操作して、都合の悪い可能性から目を逸らすことが出来るんですよ。恐るべき出来事をニュースなどで知っても、彼らはそれを他人事として、自分には起こる筈のないこととして忘れ去ってしまう。その恐ろしさを正視して、なんとか解決しようとは考えないのです。よく不吉な話をすると、縁起が悪いといって嫌われます。彼らは悪い可能性は忘れておきたいんです。僕が幼い頃、自分の身にも起こり得る恐ろしい出来事について尋ねた時、両親が嫌な顔を見せたのは、そういうことだったのです。恐いものには目をつぶって心の安定を図り、確率という魔物に身を委ね、そしていざ自分自身にそれが迫った時に、信じられない、約束が違うと泣き叫ぶのです。誰も約束などしていないのにね。自分は安全だと勝手に思い込んでいただけなんです。
事実、両親が死ぬまでの僕自身がそうでした。僕は、もう目を逸らさないことにしました。目を逸らして偽りの安心を保ち、いざその時が迫ってから泣き叫びたくはない。いや、別に、泣き叫んでもいいけれど、耐えられないほどの苦痛と恐怖を味わいたくないんです。
僕の思索は再び中学生の頃の結論に戻りました。どんなに注意していても、確率はゼロにはならない。いきなりトラックが家の中に突っ込んでくることもある。地震でマンションが潰れることもある。道を歩いていて後ろから刺されることもある。核シェルターの中で生活していても、突然の心臓発作で息絶えることもある。何より、人間は、いつかは必ずあの恐るべき死に包み込まれることになるのです。
つまり、避けることが出来ないのならば、遭遇しても耐えられるようになっておかなければならないのです。
僕は実家の屋敷を売り払いました。生まれ育った家には苦い思い出だけではなく良い思い出も残っていたけれど、それよりも重要なことがあるのですから。家族は僕だけだったので、文句を言う人はいませんでした。それで得たお金と僅かな遺産を使って、地下室のある郊外の一軒家を借りました。なるべく近所に詮索されないようなところを選んだつもりです。そう、ここのことです。
その時点では、仕事を辞めることは出来ませんでした。実験に専念したい気持ちもありましたが、生活費を失うこともまた僕の恐れるものの一つでしたから。僕は仕事を続けながら、休日に少しずつ実験のための道具を揃え、地下室を整理していきました。また、自宅の周囲を念入りに歩き回って観察し、出来る限り安全な時間帯やルートを考えました。
用心深い僕の性格のため、最初の実験を始めたのは、引っ越してから三ヶ月後のことでした。
僕は夜中にライトバンを運転し、十五分ほど行ったところの、予め下調べを済ませていた公園の脇に車を停めました。裏は空き地ばかりだし、滅多に人が通らないことは分かっていました。僕は帽子とマスクをつけ、サングラスをして手袋を填め、コートに身を包んでいました。
その小さな公園には、一人のホームレスが住み着いていました。中年の、髭を蓄えた、よく日に焼けてテカテカした肌の男でした。彼がいつもベンチを占領していたため、昼間も公園で遊ぶ者は殆どいませんでした。僕は以前、彼に話しかけてみたことがありました。ホームレスという状況は僕の恐れるものの一つだったためです。どうやって生活しているのかと僕が尋ねると、僕が持ってきた日本酒を嬉しそうに飲みながら彼は答えてくれました。近くのコンビニのゴミ箱から、期限切れになった弁当を漁っているというのです。また、自動販売機のお釣りの出てくる場所に手を突っ込んでみると、たまに取り忘れられた十円とか五十円とかが出てくるそうです。それを集めてビールを買うのが彼の楽しみのようでした。風呂には滅多に入らないので酷い臭いでしたが、本人は慣れてみれば何ともないということでした。そして、ホームレスは辛いかという僕の質問に、彼は幸福だと答えてくれたのです。僕の不安の一部が少し解消されたような気がして、僕は彼に感謝しました。
ですが、今回知りたいことは、別のことなのです。その夜、彼はベンチに横になって既に眠っていました。僕は何度も周りを見回して、誰も見ていないことを確認した後で、金槌を取り出しました。尖ってない方で彼のこめかみを殴りつけると、気絶するかと思ったのですが、逆に彼は目を覚ましました。
「う、何するんや」
彼は確か、そう言いました。僕は慌てて、もっと強い力を込めて殴りました。今度は成功したようで、彼はガクンと頭を落とし、動かなくなりました。死んでしまったのではないかと心配になりましたが、息はしています。僕はその体を引きずってバンの後部座席まで運ぶと、彼の手足を縛り上げ、猿轡を噛ませました。後部座席の窓にはカーテンをかけてあります。僕はバンを運転して自宅まで戻り、彼の体を地下室まで運び、手足をテーブルの上に括りつけ、猿轡を外しました。何度か声をかけ、揺さぶってみると、彼は意識を取り戻しました。
「一体何なんだ。助けてくれ」
彼は全身をガタガタと震わせながら、僕に哀願しました。僕は顔を隠したままなので、相手には僕ということが分からないようでした。或いは顔を見せても、僕の顔など忘れてしまっていたかも知れません。
「怖いですか」
僕は聞いてみました。でも彼は、助けてくれと言うばかりで答えてくれません。
僕は数々の道具の中から、まずはペンチを選びました。それを見て彼の震えが一層強くなりました。僕はもう一度質問しました。
「怖いですか」
「ああ、怖い。やめてくれ。お願いだから助けてくれ」
僕はちょっとがっかりしました。ホームレスになっても生きていけることを教えてくれた彼のことだから、もしかしたら怖くないと答えてくれるかも知れないと期待していたのです。もし怖くなかったら、何故怖くないのか、どうやったら怖がらずにいられるのか、その秘訣を尋ねるつもりでした。
次に僕は、ペンチを彼の体に近づけました。最初は手の指にしようと思ったのですが、彼が懸命に拳を握り締めて手を開かなかったので、僕は足の指の中で、まず小指を掴みました。彼は激しく身悶えして、右足の紐が緩み出したので、慌てて結び直しました。改めて右足の小指を掴み、ペンチで挟んで少し力を込めてみました。
「いででででで」
彼はみっともない声を上げました。
「痛いですか」
僕が聞いてみると、彼は大声で返しました。
「痛い痛い痛い痛いっ。やめてくれ」
僕はまたがっかりしました。痛くないと答えてくれたなら、僕は喜んでその秘訣を教わろうと思っていたのです。
ペンチを握る手に、僕はもう少し力を込めてみました。ゴリッという嫌な感触があって、彼の叫び声が大きくなりました。
「痛いですか」
「痛いーっ。痛いーっ。お願いだ、助けてくれえ」
僕は不安になってきました。自分が相手に紛れもない苦痛を与えているという事実と、自分も味わう可能性のあるそれが、間近で見てもやはりとても耐えられないほど辛そうに見えるということに、僕は怯えました。それを認めたくなくて、痛くないという返事が返ってくることを期待して、僕は更に力を込めました。
今度はメチメチ、という音が僕の手を伝って響いてきました。
彼は目を剥いて絶叫しました。もう意味のない獣じみた叫びでした。彼の声で、地下室が震動しているような気がしました。
「痛いですか」
僕が手を休めて聞くと、彼は涙をポロポロと零しながら言うのです。
「痛いぃぃぃぃぃぃぃ。だじげで。たちげて」
右足の小指は、紫色に腫れ上がっていました。骨が砕けたのかも知れません。ちょっと僕が触っただけで、彼は凄い悲鳴を上げます。見ている僕の目からも涙が滲んできました。
でも僕は、見極めなければなりませんでした。
「ごめんなさい」
もう一度その小指にペンチを当て、力一杯握り締めました。ギジャリという音がしました。砕けた骨の欠片が互いに擦れ合う音だったのかも知れません。彼は顔をクシャクシャに歪め、更に大きな悲鳴を上げました。さっきの悲鳴が人間の限界だと思っていた僕には驚きでした。僕はまだそこまでの悲鳴を上げたことはありません。ということは、僕の想像を絶するような痛みなのでしょう。僕は益々怖くなりました。
「痛いですか」
「……痛い……」
悲鳴を上げる時以外の彼の声は、消え入りそうに弱くなっていました。
小指はもう潰れ変形し、破れた皮膚から血が流れ出ていたので、僕はそれを諦めることにしました。
だから僕は、隣の薬指を掴みました。
「も……もう……やめてくれ。お願いだ……」
彼が言いましたが、答えが出るまでやめる訳には行きません。
僕は再びペンチで挟み、力を加えました。また絶叫。僕はまた痛いかどうかを確認します。言い方は変わっても、やはり彼の答えは同じでした。僕は薬指も潰してしまい、今度は中指に移りました。また同じことでした。
そうして僕は、彼の両足の指を全て潰してしまいました。
なんて恐いことをしてしまったんだろう。僕は怯えました。なんて簡単に、他人を苦しめることが出来るのだろう。僕は怯えました。ということは僕も、誰かの手によって簡単にこんな目に遭わされることがあり得るのです。
僕は焦り、なんとかして痛くないという答えを得るために、実験を継続しました。次に選んだのは針でした。彼はどうしても手を開こうとしないし、開いてもすぐ拳を握ってしまうので、まずは大きめの釘を手の甲に打ちつけて、無理矢理に開いたままで固定しました。
そして僕は、彼の指先の、爪と肉の間に、針を刺し入れました。
また彼は叫びました。ペンチを使った時と微妙に違う叫び方でした。でも僕が尋ねると、やっぱり痛いというのです。僕は彼の全ての指に、順番に針を刺していきました。その度に彼は、僕が耳を塞ぎたくなるような声で悲鳴を上げるのです。
右手から始め、左手の中指くらいの時でした。
「……い……痛くない……」
獣のような叫びの後、掠れた声で彼がそう言ったのです。
「え、本当ですか」
僕は嬉しくなって聞き返しました。これが解決への糸口になるかも知れない。僕は彼の顔を覗き込みました。
「……本当だ……本当だから……もうやめてくれ……」
血の気のない、疲弊しきって十才も老けたように見える彼の目は、台詞と違う内容を語っていました。
僕はがっかりしました。
「嘘だ。あなたは嘘をついていますね」
僕はちょっと腹が立ちました。僕は針をやめて、次の道具を選びました。カナノコといって、金属を切るのに使う頑丈な鋸でした。
「怖いですか」
僕が尋ねると、彼はアヒイイという声を洩らすのみでした。彼の目元は涙でグシャグシャになっていました。僕は彼の右足の脛に刃を当てて、ゆっくりと前後に動かしていきました。また悲鳴が上がりました。もう僕が尋ねても、彼から言葉としての返事は戻ってきませんでした。結局僕は彼の両足を切断してしまいました。血が沢山出たので、僕は根元を縛って出血を防ぎました。まだ実験は終わっていないのです。
それから僕は、彼の腕を切り落とし、鼻と耳を削ぎ落とし、眼球をスプーンでほじくり出し、ペンチで歯を引き抜き、ガスバーナーで熱した焼きごてを押し当て、硫酸をかけて肉を溶かし、メスで皮膚を丁寧に剥いでみました。他にも色々とやってみましたが、結果は同じで、彼から痛くないという答えを得ることは出来ませんでした。
ただ、気がついたのは、実験を続けるごとに、彼の悲鳴が段々小さくなっていくということでした。これはもしかしたら苦痛が軽減しているのかも知れません。僕は作業を中断し、そのことを彼に聞いてみようと何度も声をかけてみましたが、彼はぐったりとしたまま動きませんでした。瞼を押し上げてみても、もう両目ともなくなっていてどういう状態なのか分かりません。僕は慌てて水を飲ませてみたり毛布をかけたりして、彼が答えられるまでに回復するのを待ちましたが、結局その夜の内に彼は死んでしまいました。
僕はがっかりしたのと同時に不安になりました。今回の実験では望ましい結果が得られませんでした。僕は死体を幾つかに分け、庭の焼却炉で焼きました。焼け残った骨は夜中に庭に埋めました。
僕はここで諦めることは出来ませんでした。再び僕は慎重に時と場所を選び、顔を隠して、新しい素材を地下室に運びました。今度は中学生くらいの少女でした。悶え苦しみ叫び声を上げる彼女に、僕は同じ質問を繰り返し、あまりの残酷さと恐ろしさに涙を流しながら拷問を加えていきました。やはり有力な手がかりを得ることなく、そのまま彼女は死んでしまいました。
僕は自分が無駄なことをしているのではないかとの無力感に襲われながらも、次々に対象を選んで実験を繰り返しました。拷問の内容も様々なバラエティを考えました。その中に何かしらのヒントが隠されているかも知れないと思ったからです。また本を読んで勉強し、苦痛を軽減するための手段を模索しました。麻薬の使用は最も簡単なものですが、僕はそれは違うと感じていました。麻薬は苦痛を遮断するものであって、苦痛を受け止めてそれに耐えられるようにするものではありません。麻薬で遮断出来ない苦痛があり得るとすれば、意味がないではありませんか。
休日には実験を繰り返し、平日は真面目に仕事をこなしました。幾ら気をつけていてもやっぱりミスをすることがあり、上司に傲慢な口調で長い時間をかけて絞られるようなこともありました。僕は冷や汗を流して頭を下げながら、内心は上司を軽蔑していました。その目に僕が指を突っ込んでみせたら、彼は苦痛と恐怖に泣き叫ぶだろう。彼の自信は偽りのものであって、重要なことから目を逸らしているのです。
僕は実験を続けながら、彼らを生かしたまま元の日常に戻してみることも考えました。苦痛には耐えられたけれど、元の生活が送れなくなって不幸な人生を辿ることになったら、僕は嫌だからです。
後のフォローが必要なので、僕は予め、観察が続けられるような対象を選びました。
一人は定食屋の後継ぎで、その青年を僕は拉致して片腕を切り落とし、こちらの身元を知られないように細心の注意を払って解放しました。僕は時々その定食屋で夕食を摂ることにしました。青年は一ヶ月ほどは姿が見えなかったのですが、やがて以前と同じように料理を運んだりして働くようになっていました。彼がちょっとした冗談で笑顔になるところを見て、僕は安心しました。
一人は駅への道沿いに住む、六十才くらいの老人でした。その穏やかな印象の夫婦とは、時に簡単な挨拶を交わすことがあったので、後の観察も容易だと判断しました。僕は夫の方を拉致し、両目を抉り取って解放しました。その後二ヶ月ほどして、杖をつき、妻に寄り添われて歩く彼の姿を見ました。僕は素知らぬ顔で話しかけてみました。本人は性格が変わったように渋面を作っていましたが、妻の方は大して困った様子は見せませんでした。元々二人の関係がどうであったかは分かりませんが、僕はどう判断したものか迷いました。
一人は近くの高校に通う、綺麗な顔立ちの少女でした。僕は彼女を拉致し、その美しい顔を硫酸で焼いて解放しました。この事件は日本中が大騒ぎになりました。覚えてますか、八ヶ月ほど前のことです。僕は暫くの間行動を控えなければなりませんでしたが、その代わり、彼女についての経過は新聞で知ることが出来ました。彼女は転校した後、結局は自殺したそうですね。やはり顔を失っては生きられないのだろうか。僕はまた不安になりました。
色々と実験を繰り返しても、何ら芳しい結果は得られませんでした。その内に僕は、やっぱり他人の体では参考にならないと思うようになりました。何といっても、僕自身が耐えられるようにならないといけないのです。
僕は他人への実験を中断し、次の段階に移りました。つまり、彼らにやったのと同じことを、今度は自分に試してみることにしたのです。
そうです。僕の体の傷は、全て、僕が自分でやったものなのです。
最初に手をつけたのは右足の指でした。半年前になります。この部位を選んだのは、他人に見られることは少ないだろうし、僕の人生に対してあまり大きな影響がないだろうと思ったからです。つまり軽いところから始めてみたのです。
この地下室で独り、僕はかつて最初の実験台であるホームレスに行ったように、右足の小指をペンチで挟み、力を加えていきました。自分でやることですから、どうしても手加減してしまいます。慎重に力をかけていき、段々痛みが強くなって、もう耐えられないと思った時点で、僕は手を離してしまいました。自分の小指が駄目になってしまうという恐怖も強くなっていました。なんといってもこの指は、生まれた時から二十年以上も僕についてきてくれたのです。失ってしまえばもう二度と戻ってはこないのです。
ああ、僕の指。手を離しても、まだジンジンする痛みが響いてきました。ペンチの細かい網目状の跡も残っていました。
でも僕は思い直しました。失う可能性のあるものは、失っても大丈夫であることを証明しておかねばならないのです。僕はもう一度小指をペンチで挟み、今度は思い切っていきなり全力で締めました。少しずつなら痛くなって力を入れられなくても、断崖絶壁から飛び降りるように、後先考えずに一気に力を入れることは出来るのです。
ゴリッという嫌な感触と共に、全身を電気のような光のようなものが走り抜け、僕は大声を上げていました。こんな痛みがあるとは信じられませんでした。何も考えられず、世界の全てが痛みだけになってしまったみたいでした。
僕が我に返ると、小指は赤黒い色になって膨れ上がり、脈動が痛みと共に伝わってきました。叫び過ぎて喉も痛みました。僕は泣きながら、もう二度とこんなことはしたくないと思いました。
でも、だからこそ、僕は、もう一度ペンチを持たねばならなかったのです。何故なら、僕がそう感じていても、実際にそれが起こった時は相手がそこでやめてくれるかどうか分からないのです。僕は最悪の状況を考慮しなければなりませんでした。
またあの恐ろしい痛みを体験しなければならないと思うと、自然と涙が零れました。僕は何度も自分に言い聞かせました。克服しなければならない。もしそれだけの苦痛に自分が耐えられるのならば、今後は心配する必要がなくなるのだ。だから克服しなければならない。
触りたくもない状態の膨れた小指に、もう一度僕はペンチを当てました。それだけで指が痛みました。
僕は、泣きながら、力一杯ペンチを握り締めました。
骨の砕ける感触などもう分かりませんでした。先ほどの分を更にもう一回り凌駕する痛みの爆発に、僕の頭の中は滅茶苦茶になってしまいました。獣のような叫びを自分が上げていることに、少し経ってから気づきました。悲鳴が終わっても、ヘケヘケと妙な笑い声が、僕の口から洩れてきます。僕は自分が狂ってしまったかと思いました。
小指は肉がひしゃげて、破れた皮膚から出血していました。僕は自分に休む暇を与えませんでした。今度は出刃包丁を取って、小指の根元に当て、大きく息を吸った後、吐くのと同時に力を込めました。
ゴジリ、と、嫌な音がして、僕の小指が僕の体から離れました。もう感覚が麻痺してしまったのか、さっきのペンチよりは痛くありませんでした。
僕は自分の愛しい一部分が破壊されたことの喪失感と、もう後戻り出来ないという恐怖を感じていました。
でも、それと同時に、不思議にも、別の感覚が、僕の中に、溢れてきたのです。
それは、素晴らしく甘美な、感覚でした。
僕はやり遂げたんだ。僕は耐え抜くことが出来たんだ。これでもしペンチで指を捻られるようなことがあっても、大丈夫なんだ。だからそれについては安心していいんだ。
僕は、これまでべったりとのしかかっていた重石の一部がなくなり、少しだけ軽くなったことを感じました。自分が人生における重要なテーマの一つを解決した、偉大な英雄のような気分になっていました。
最後に傷口に焼きごてを、これまた泣きながら当てて出血を止め、僕はこの日の実験を満足しつつ終えました。その夜は久しぶりに熟眠出来ました。
でもすぐ次の日、冷静になって考えてみると、僕は自分が甘かったことに気づきました。小指を切り落とした時点で僕は消耗し尽くしており、自分のやったことに満足したせいもあってそこでやめてしまいましたが、実際の場面では小指一本で終わるより、複数の指を潰すことの方が多いのではないでしょうか。小指一本で疲れ果てた僕は、すぐ次の指に移った時に耐えられないのではないでしょうか。
僕はそれを確かめなければなりませんでした。右足は歩くだけで酷く痛んだし、傷口の周囲は腫れて熱を持っていましたが、それ故にこそ僕はやらなければなりませんでした。僕は夜になると、再び地下室でペンチを取り、今度は右足の薬指にペンチを当てたのです。
昨夜と同じ行為によって、昨夜と同じかそれ以上の痛みがありました。また僕は悲鳴を上げながら、涙を流しながらやるべきことを済ませました。その夜の内に、右足の指を全て潰して切り落とし、焼きごてを当てたのです。
僕は再び達成感に酔いました。以前の僕ならばとてもやる勇気はなかった筈のことを、僕は出来るようになっていたのです。僕は克服している。あの恐るべき苦痛と恐怖を相手に戦い、打ち勝ちつつあるのです。
その後の僕はことあるごとに自分の肉体を痛めつけ、自分が耐えられるということを自分自身に証明していきました。左足を硫酸に浸けてみたり、ガスバーナーで頭を焼いてみたり、顔の肉を切り取ってみたり、鼻を削ぎ落としてみたり、自分が恐れているありとあらゆることを実行に移してみたのです。歯をドリルでほじくるのは、その中でも一、二を争う痛みでした。手が震えて口の中がずたずたになったりもしました。眼球を抉り出すのは苦痛と同時に、見えなくなるという恐怖の方も強くありました。ただ、両目が見えなくなれば残りの実験を続けることが出来なくなるので、この克服は中途半端に終わりました。焼いたペンチで横腹の肉を捻り取った後は、一週間ほど高熱を出して倒れました。僕は叫びながら、泣きながら、時には狂ったように笑いながら、自分の体を破壊する痛みと恐怖を味わっていきました。僕を支配していた不安という怪物が少しずつ小さくなっていき、同時に歓びが増えていきました。他の人達が耐えられなかったことを、自分の努力で克服していくのは快感でした。ざまあみろ。僕は、脆弱な一般の人々を嘲いました。僕は自分が人生の勝利者であり、特別な存在だと思い始めていました。
大概の苦痛は体験し、僕は不安の大部分を解決したと思いました。体が傷ついた後の生活も、慣れてしまえばどうということはありませんでした。勿論この姿では会社に通うことは出来ません。僕は退職し、これまでの蓄えを食い潰して暮らしています。老後の心配については、僕は感じていませんでした。
何故なら、体験して、克服しておかねばならない、最大の課題が、残っていたのです。
それは、死、です。
一度死んでみて、死んでも大丈夫だということを確認するまでは、安心して生きられないのです。
須永陽一はここまで一気に話し終えると、深い息をついた。知的で穏やかな彼の右目に、不安と緊張と、ある種の熱狂のようなものを智美は認めた。
「死に方は色々と考えました。僕がこれまで話に聞いたり小説で読んだりテレビで見たりした数々の死に方の中で、一番印象に残っているのが、これでした」
須永はそう言うと、部屋の中央に設置された、鋼鉄の刃を持つ不気味な機械を指差した。
「僕はこれを『ミキサー』と呼んでいます。特注して作らせたもので、かなりのお金がかかりましたが、きちんと役目を果たすことはもう実験済みです」
つまりそれは、誰かをその機械にかけたということなのだ。
「この手のものを最初に見たのは中学生の頃だったと思います。アクション映画なんかで、高速で回転する刃に主人公は巻き込まれそうになりますが、間一髪で助かるんです。でも僕は、現実にこれに巻き込まれたらどうなるかについて、ずっと考えていました。僕が想像する中で、これに巻き込まれ少しずつ削られて、ミンチになって死んでいくのが、最も恐ろしく、最も痛そうな死に方でした。だからこそ、これを使って死ななければならないのです」
智美は、何と言えば良いのか分からなかった。いや、須永は、彼女に何の言葉も求めていないのかも知れなかった。彼は完全に自分の世界に入っており、自己完結しているように見えた。
「君は、僕が狂っていると思っているでしょうね」
須永は醜い顔を僅かに動かして、微笑した。それは、やや皮肉な感じのする笑みだった。
「でも違うんです。狂っているのは僕じゃないんです。自分を騙し、現実の恐ろしさから目を逸らしている、君達の方なんです」
水はけが悪いのかじっとりと濡れた床を、零れ出た血を洗い流したのであろうその床を、須永はベチャベチャと音を立てて、棚に向かって歩いた。彼はそこから血の付いた鋏を手に取って、智美のほうに近づいてきた。何をするつもりなのか。智美の体にビクンと震えが走る。
だが須永のやったことは、智美を縛った紐をその鋏で切ることだった。体を傷つけないように丁寧に切断し、そして智美は自由になった。
「これで君はここから逃げ出すことが出来る。だから、事が済んだ後はその足で警察に駆け込めばいい。何なら一階にある電話機で警察にかけてもいい」
鋏を棚に戻して、須永は言った。
「その代わり、僕の死に様を見届けて欲しい。そして皆に伝えて欲しい。耐えられない苦痛も恐怖も存在しない。いざその時が来ても心配ないことを、大丈夫だということを、僕が証明したんだって。僕は不安という怪物によって、苦悩の人生を歩かされた。そんなことは僕で最後にしたいんだ。彼らの多くは目を逸らすことに長けているから、僕の言葉など必要ないのかも知れないけれど。でも、僕が苦労して得た真実を、誰かに伝えないと勿体ないと思うんだ。そのために、君を連れてきたんです」
それは、自分の中の不安ばかりを見つめ続けた須永の、唯一の、外界に向けた働きかけだったのかも知れない。
智美は椅子から立ち上がった。ずっと同じ姿勢でいたせいで体の節々が痛んだが、走って逃げられないほどではない。しかし智美は動けなかった。目の前に立つ異形の須永陽一の、不安と恐怖と熱狂と歓喜の入り混じって張り詰めた瞳に見据えられ、その魔力にがっしりと捕らえられてしまったように。
「じゃあ、頼んだよ」
智美が何も言えずに立ち尽くす前で、須永はその『ミキサー』に歩み寄った。
彼はやや無様な格好ながら、斜めに突き出した鉄柱をなんとかよじ登り、滑車を通して垂らされたワイヤーの先端、鉄製の鉤に両手で掴まった。ぶら下がった須永の、傷だらけの足先が、水平に据えられた鋼鉄の羽の真上、十センチほどの位置に浮いていた。
「あ、しまった」
その時になって須永が呟いた。
「スイッチに手が届かないよ。済まないけれど、君がスイッチを入れてくれるかな。そこの赤いボタンなんだ」
「え……」
当然のように見下ろす須永に対し、智美は凍りついたまま動けなかった。
須永が、再度、声をかければ、或いは、智美は、魔に魅入られたように、動いてしまったかも、知れない。
だがすぐに、須永は思い直して呟いた。
「いやそれじゃ駄目だな。僕が自分の手でやったことにはならないな。やっぱりこういうことは、自分の力で克服しないと。悪いけど、棚の奥の方にある、長い棒を取ってくれますか」
智美は黙ってそれに従った。コンクリートの骨組みに使うような、鉄製の細長い棒だった。長さは一メートル半ほどか。先端に近い部分は変形して血が付いていた。
須永は左手を伸ばしてそれを受け取った。ぐらぐらと不安定に揺れながら、須永はなんとかその先端を、土台にあるパネルへ近づけた。
「怖い。怖くてたまらないよ」
須永は言った。
「でも、心配ないんです」
須永の声は震えていた。その右目は、恐怖を意志力で捻じ伏せようとする強いせめぎ合いで渦を巻いていた。
そして須永はスイッチを押し、鉄の棒を放り捨てた。
唸りを上げ、小刻みに台を振動させながら、鋼鉄の刃が回り始めた。空気が流れ、吹き出した生温い風が智美の足元を通り過ぎる。あっという間に羽の回転は、目で追えないほどになっていた。
同時に、須永を吊るしたワイヤーが、少しずつ、本当にゆっくりと、動き出し、須永の体が、下降を始めた。
須永は、引き攣った笑みを浮かべてみせた。彼は冷や汗をかき、血の気のない顔になっていたが、両手でしっかりと鉤を掴み、両足は真下に伸ばしたまま動かさなかった。
智美は、目を逸らすことが出来なかった。
須永の爪先が高速で回転する刃にかかった。ガガッ、と、音がして、小さな欠片が飛んだ。殆どは下のバケツへ落ちていったが、一部は撥ねて周囲に飛び散った。
「ぎゃあああああああああああ」
須永が目を剥いて、空気を引き裂くような声で叫んだ。実際に壁が震動した。人間に、こんな声が出せるのか。人間に、こんな顔が出来るのか。智美は心臓を冷たい手で鷲掴みにされたような感覚に支配され、息をすることも忘れていた。
ビビッ、と、智美の頬に何かが付いた。それは、血に塗れた、須永の細かく刻まれた肉片だった。
「うげああああああああああああ」
悲鳴は続いていた。ワイヤーは着実に下降を続け、今や須永の両膝から下が消失していた。悲鳴を上げ、顔をグシャグシャに歪めながらも、須永は決して両手を離さなかった。
「だいいいいいいいいいじいいいいい」
須永の叫び声が、次第に何かの言葉のように聞こえ、智美は耳を澄ました。
「だいいいじょううううううぶううううううええええええ」
腰の辺りまでが、回転する刃に呑み込まれていた。ポリバケツにはミンチとなった須永の下半身が堆積していた。刃が肉を削る無情な音に混じって、須永の叫びは続いた。
「だああああいじょうぶなんだああああああああ」
大丈夫なんだ。
須永は、そう言っているのだ。
智美は、既に自分の顔と同じ高さに来ている須永の顔を見た。それは涙を流し、凄まじい苦痛のため恐ろしい形相に歪みながらも、ある種の酔ったような歓喜を湛えていた。
「だいじょううぅぅぅぅぅぅ」
腹部から胸部へと分解されるにつれて、須永の声は小さくなり、そして聞こえなくなった。それでも須永は口をパクパクさせて、智美に向かってしきりに訴えかけようとしていた。既に智美の制服は、血と肉片を浴びてドロドロになっていた。それでも智美は動くことが出来なかった。瞬きもせず、沈んでいく須永の顔を見つめていた。
両肩がなくなると、支えを失った須永の首は、ふらりと前のめりに落ちていった。須永の目は、最後まで生き生きと、最大の苦痛と至高の歓びを語っていた。
須永の首が、刃の上を転がって、うまい具合に少しずつ削れながらその場をコロコロと回っていった。有名な芸人が、傘に物を載せて回す場面を智美は思い出した。
やがて須永の頭は脳味噌を零しながら、どんどん小さくなっていき、とうとう全てが刃の下に呑み込まれた。
ワイヤーの降下が止まった時、先端の鉤をしっかりと掴んだ、須永の両手首だけが残っていた。
智美は、悲鳴を上げることも出来ず、その場に立ち尽くしていた。テレビのニュースとか新聞とかで、あらゆる残酷なことが世界中で行われていることは知っている。だが、それを彼女が自分にも起こり得る身近なこととして実感したのは、今夜が初めてであった。
静かな地下室で、三枚の羽の唸りだけが、いつまでも聞こえていた。
榊原智美は二ヶ月間、精神病院に入院し、完全に回復して元の日常へ戻っていった。あの夜の記憶は封印され、二度と思い出すことはなかった。
須永陽一の借家は捜索され、掘り返した庭から二十体近い白骨死体が見つかった。彼の部屋にはその考えを綴った日記が発見され、テレビのニュースや新聞や週刊誌で大きな話題となった。だが、彼は狂人と判断され、その言葉はやがて人々から忘れ去られた。