青髭未満

 

 我が家の食卓はとても静かだ。向かいに座る両親はゆっくりと箸を運び、モシャ、モシャ、と時間をかけて食べる。会話は殆どないが別に重苦しい雰囲気という訳でもない。淡々と流れる時を、私は料理と一緒に味わっているのだろう。

「ごちそうさま」

 スープを飲み干して先に立ち上がろうとすると、珍しく母が喋りかけてきた。

「ねえ、そろそろ結婚とか、してみる気はない」

 いきなりな内容だったので私は咄嗟の返事が出来ずにいた。今度は父が言い出した。

「父さん達ももう年だしな。生きてるうちに孫の顔を見ておきたいんだが。お前は彼女とか連れてきたことないし、どう思ってるんだ。何もしないとどんどん年だけ取っていくぞ。見合いとかする気はないのか」

 父は相変わらず無表情だったが、穏やかに見据える瞳がプレッシャーとなって私をチクチクと刺した。

「考えてみるよ」

 私はなんとかそれだけ答えて席を立った。重い足を引き摺って自分の部屋に戻る。

 結婚か。三十才を超えてくるとその言葉が頭に浮かぶことも増えた。だが私は人間嫌いだったし他人と一緒には生きられないのではないかと思っていた。年を取ると人は変わる。自分が変わっていくのはなんとか耐えられるだろうが、結婚した相手が変質して本来の魅力が失われた時、私はどう感じるだろう。

 まあ、しかし、考えてみるのも悪いことではない。私は想像するのが得意だ。ちょっと試してみようか。

 私は机に向かい、目を閉じた。

 

 

 母は見合い候補の写真をちょくちょく持ってくるようになった。「この子は気立てがいいそうよ」とか「この子は笑った顔が凄く可愛いでしょう」とか、「この子は○○の女子大を出ててね」とか適当な説明をつけて、何かを期待するように私の反応を窺っている。

 見合い写真なんてどうせ修整が入っているだろうしあまり参考にはならない気がする。しかし彼女達のうちの誰かが私の妻になるのかと思うとちょっとドキドキしてくる。いやまだ決まった訳ではないのだが。一枚目の女性は長髪の美人だけれど性格が悪そうにも見える。二枚目の女性は二十四才ということだがなんだか老けて見える。三枚目の女性は普通で、写真からは特にピンと来るところもない。四人目は顔は美人ではなかったが全身写真ではスタイルが良かった。

 自分に合った相手というのはどんな人だろうか。私は美人が好きだし胸も大きな方がいい。明るい女性もいいと思うし、儚げで翳りのある女性に惹かれることもある。しかし結婚して一緒に生活するとなるとどうだろうか。あれこれ想像しながら吟味していると、ふと自己嫌悪に陥る。まるで家具でも選ぶように配偶者を選ぼうとしていないか。愛しているなら細かいことはどうでもいいのではないか。

 しかしそもそも愛する相手がいないから見合いを考えている訳で、人生はうまくいかないものだ。

 母が持ってきた十四人の見合い写真を睨み続け、私は気になる女性を一人ピックアップした。一流大学卒の二十七才。今はOLをやっているらしい。美人なこともあるが、ちょっと面白そうに笑っているような口元が魅力的だなと思った。

 いよいよ行動に移るべき時なのか。

「この人と会ってみようかな」

 私が勇気を出して伝えてみると、母はあっさり首を振った。

「ああ、この子ね、先月お相手が決まっちゃったみたいで、お断りの電話が入ってたのよね」

 私はがっかりした。やはり見合い写真を抱え込んで一年も吟味するのは良くなかったらしい。

 

 

 最初の想像はいきなりの挫折に終わった。自分に裏切られたような気がする。

 しかしここでやめるのも負けたような気がするので、想像を続けることにする。時間だけはたっぷりあるのだ。

 

 

 私は改めて預かった見合い写真の束から一人の女性を選び出した。二十四才。目元の涼しげな美人だった。私とは年が離れ過ぎているかも知れないが、折角なので会ってみても損はない。何事も経験だろう。

 母が相手方に連絡を取り、ホテルのレストランで会うことになった。私は久々にきちんとしたスーツを着た。緊張も加わってとても窮屈に感じる。父もスーツだが母はおめかしした着物姿で、息子の見合いが嬉しいのは分かるがちょっと統一が取れていないのではないかと思う。

 相手の女性は写真の印象とはちょっと違って頬のラインがポッチャリしていた。しかし涼しげな目元はそのままだし、修整写真ではなく単に写り方の問題かも知れない。最初のご挨拶と簡単な自己紹介を済ませ、双方の家族が向かい合わせになってテーブルにつく。

 私は緊張してしまって彼女とまともに目を合わせられなかった。彼女は見合いにも慣れているのか、そんな私を見て微笑しているようだ。私は見合い写真で彼女と会うことにしたのだけれど、彼女の方は何を思って私と会うことを承諾したのだろう。

「あの、お仕事は何をなさってるんですか」

 彼女が私に尋ねた。

「ええっと、何かやっている筈です。多分。詳しいことは思い出せませんが、気にしないで下さい」

 私が答えると、彼女はフッと笑った。それが私を馬鹿にしているように感じたので、とても腹が立った。

 私は椅子の下に隠していた斧を持って彼女の脳天に叩きつけた。

「ギョブッ」

 彼女が変な苦鳴を洩らして右の眼球が飛び出した。

 

 

 いかん。殺してしまった。私は自分の想像に慌てた。思わずカッと来てやってしまった。

 今回の教訓は、見合いの席に斧を持ってきてはいけないということだな。

 まあ、見合いの席まで漕ぎつけたのだから前回よりはましになっている。想像を進めてみよう。

 

 

 私は再び相手を選び、今回の見合いは無事に終了した。彼女は二十六才で、お嬢さんらしいおっとりした雰囲気だった。向こうの両親も気さくそうな人達で好印象だ。

 その後、彼女とは携帯で連絡を取り合い、デートというものをした。一緒に映画を観て、洒落たレストランでディナーを食べながら話をする。互いに当たり障りのない話題を出して相手の中身を探ろうと試みる。そのぎこちなさがちょっと息苦しく、同時にゾクゾクするような楽しみにも感じられた。もしかすると自分の生涯の伴侶になるかも知れないという意識が特別な感覚を与えているのだろうか。彼女もおそらくそういう気持ちでいるのだろう。彼女の微笑がとても美しいものに感じられ、彼女の瞳が輝いて見えた。

 デートが三回目となる頃には、彼女が私の運命の人だと感じていた。もうプロポーズするべきだろうか。いや性急過ぎては嫌われてしまうかも知れない。しかしあまりズルズル先延ばしにしても、気がないと思われてしまうだろう。どんなタイミングがいいのだろうか。まずは婚約指輪を用意しておくべきなのだろうか。こういうことは初めてなので悩んでしまう。

 彼女を駅まで送るため夜道を歩いていると、ビルの隙間でホームレスが寝ていた。汚れたシャツを着た中年男で、段ボールで囲いを作って新聞紙を毛布代わりにしている。

 ホームレスから視線を戻すと、丁度彼女もホームレスを一瞥したところだった。その瞳の奥に冷たい侮蔑が潜んでいるのに気づき、私はモヤッとした。

 私自身ホームレスに対し何の好感も持っていない。その辺に死体となって転がっていても構わないだろう。しかし、運命の女性はホームレスをそんな目では見ない筈だ。理想の女性は何処までも優しくあるべきではないか。いや、侮蔑は彼女の顔にはっきり表れたものではなかった。私が単に過敏だっただけかも知れない。でも、私の生涯の伴侶となるべき女性なら、そんなそぶりを欠片ほども見せてはいけないのだ。

 さっきまでの高揚が嘘のように消え失せていた。輝きも全く感じられなくなり、ただの通りすがりの女がそこにいた。どうして私はこんな生き物と結婚さえ考えていたのだろう。

 私は女に告げた。

「もう別れよう。さようなら。二度と会わない」

「えっ」

 豚のような顔で凍りつく女をそのままに、私は逆方向に歩いていった。次の相手を探さなければ。運命の女性は別にいる筈だ。急がなければ。人生は止まってはくれないのだ。

「ま、待って」

 女が追いかけてくる足音。かなり狼狽しているようだ。

「待って、どうしてよ。理由を教えて」

 女は私の腕を掴んだ。私はその手を乱暴に振り払い、相手がよろめいた隙に無言で去ろうとした。

「キャッ。待って」

 足を引っ張られた。女は前のめりに倒れた状態で私の左足首を掴んでいる。

「待ってよ。ちゃんと理由を教えてよ。そんな、勝手じゃない。私だってその気になりかけてたのに……」

「うるさい」

 私は剥がそうとするが、女は両手でしっかりと掴んでおりどうしても離れない。無理矢理歩くと女は膝をアスファルトに擦らせながら引き摺られてくる。

「離せ」

 私は右足で女の手に蹴りを入れた。それでも女は力一杯握って離さない。何度も何度も蹴るうちに女の手は血塗れになり何本か指も折れていた。それでも女は手を離さず、力が入り過ぎて足首が痛いくらいだ。血がズボンについてしまい、汚いなと思う。

「離せ」

 私は今度は女の頭を踏みつけた。「ギャッ、ギュエッ」と不様な悲鳴を洩らすが女はまだ手を離さない。髪が乱れ、顔が何度も地面にぶち当たった筈だ。しかし女は手を離さなかった。私は苛立たしく感じると共に怖くなってきた。

 私は仕方ないので女を引き摺ったまま暫く歩いた。ゴズ、ズズ、と女の引き摺られる音にザラザラした衝撃が伝わってくる。気持ち悪い。とっとと離れろ。どうして離れないのか。この化け物め。

 二百メートルくらいは歩いただろうか。息切れがしてきた。ズキズキと左足首が痛む。女は低い呻きを洩らすだけで言葉も悲鳴も出ないが、やはり手は離さない。

 女がふと顔を上げた。街灯の下、それは血みどろの肉であって顔ではなかった。おろし金ですり下ろしたみたいだなあと私は思った。鼻も唇もなく、血のついた歯列が見えている。前歯は折れていた。テラテラと光を反射する赤いものが眼球だろう。瞼は見当たらない。角膜も削れているかも知れないが、それは呪い殺そうとするかのように私を睨んでいた。

 私は車道に出た。女はズルズルとついてくる。充分に引き摺り出したところで私は歩道に戻った。女の体の大部分は車道に残ったままだ。足首を掴む力は強いのに起き上がる余裕はないのだろうか、女はそのまま倒れていた。

 ヘッドライトの光が近づいてきて、大型のトラックが女を轢き潰していった。ブヂジュッ、と嫌な音がした。

 トラックの過ぎた後に、女のねじれた胴が転がっていた。片足がちぎれてかなり遠くに飛んでいる。

 両腕もちぎれてくれれば良かったのだが、まだ胴に繋がっていた。私の足を掴む力も緩まずそのまま固まってしまったようだ。首も変なふうに曲がっているが潰れてはいない。ピクッ、と動いたのはただの痙攣か。

 私は右足で女の頭を踏みつけ、左足を力一杯引いた。関節の繋がりが脆くなっていたらしく、ブヂヂッ、とやっと腕がちぎれた。

 

 

 ……ゴリ……ゴリ……ゴリ……

 ……ぶぶぶ……ぶぶぶぶぶ……ぶぶぶ……

 今変な音が聞こえたような気がしたが、多分いつもの想像だろう。私は想像は得意なのだ。

 それにしてもひどい結果になったものだ。今でも左足首が痛むような気がする。

 今回の教訓は、お断りは電話でするべきだということかな。

 私は少しずつ成長している。先に進んでいるぞ。

 今度こそ結婚に漕ぎつけたい。

 

 

 新たな相手は二十九才で、シャキシャキとした頭の回転の速い女性だった。見合いも無事に終わりデートも重ね、漸く私からプロポーズした。彼女はとびきりの笑顔を見せてそれに応えた。私は彼女を幸せにしたいと思った。私の選択は正しかったのだ。

 式の日取りと式場の設定は彼女主導で決まった。披露宴の招待客は百人程度で設定され、人付き合いが苦手な私も親戚やら昔の友人やらを総動員することになり、ああ、面倒臭いなあとちょっと思った。

 当日、結婚式に来てくれた親戚一同に私は挨拶をして回る。わざわざ来て下さってありがとうございます。親戚はいかにもな祝いの言葉を述べる。おめでとう、やっと相手が見つかったね。私は苦笑する。ああ、どうもどうも。意味のない相槌だ。

 久々に会った叔父はもう酔っ払っていた。この人はネチネチ言うタイプの酒乱だから嫌だったのだが、呼ばない訳にもいかなかったのだ。

「お前の嫁さん、あんま大したことなさそうだな」

 叔父は笑いながら私に言った。

「この年になって焦るから変な相手を掴むことになるんだ」

 私は黙っていたが、内心はらわたが煮えくり返っていた。このおっさんは昔から嫌味しか言わなかった。こいつの顔なんて見たくなかったのに。だから結婚式は面倒なんだ。

 それでも結婚式は無事に終わり、披露宴となった。新たに到着した親戚や、控え室にやってきた古い友人にも挨拶しなければならない。顔も覚えていないような友人もいて、人数合わせとはいえこんな奴まで呼ばなければいけなかったのかなあと私は思った。

 打ち合わせ通り、ホテルの係員の指示通りに披露宴は進行していった。妻と共に入場すると満場の拍手で迎えられた。妻はとてもはしゃいでいたし、私もちょっと幸せな気分になった。

 しかし互いの両親や恩師のスピーチが始まるとまた鬱陶しくなってきた。特に妻の恩師という爺さんの話が長い。一体何を喋っているのかと思えば結局は自分の自慢話なのだ。ああ、全く、面倒臭い。しかしこの日だけの我慢だ。一生に一度のイベントだ。この日だけ耐えれば済むことだ。

 ウェディングケーキのカットも済ませ、私達は再び拍手を受けた。しかしこれで終わりではない。妻はお色直しに退出し、私はビールを持ってやってきた叔父の陰湿な嫌味に耐えねばならなかった。

 妻の友人連中はギターを鳴らしてオリジナルという祝いの歌を歌っていた。私達の見合い結婚をからかうような下手糞な歌だった。皆笑っていたが私にそんな余裕はなかった。そして、よくよく見ると、彼らは私の方の知り合いだった。

 妻はまたお色直しに行った。これで五回目だったか。披露宴が晴れの舞台だといっても、ちょっと多過ぎないだろうか。その分時間が長くかかるし私もくたびれる。端のテーブルでは友人達もしらけてきているようだ。どうせ向こうも私のことなど覚えてなかっただろうし、早く帰りたいと思っているのだろう。私の中に憎しみが積もり始めていた。また酒乱の叔父が騒いでいる。父も止めてくれればいいのに。いや、もういっそのこと叩き出してくれないだろうか。ああ鬱陶しい。私の中の憎悪は明確な殺意に変わりつつあった。

 妻が七回目のお色直しに出た時、私の我慢は限界を超えた。

 私は黙って退出すると、新郎用控え室からガソリンの入ったポリ容器を持ち出した。ノックせずに新婦用控え室に入る。

「あら、どうしたの」

 着替え中の妻はちょっと驚いた顔で私を見た。私はポリ容器を目一杯持ち上げて逆さにし、ガソリンをたっぷり妻に注いでやった。

「え。これ。何」

 頭からガソリン塗れになっても妻はキョトンとしていた。

「うん。ちょっと火を点けようと思って」

 私は答え、キャンドルサービス用のキャンドルソードで妻に点火した。

 ボファッ、と風圧を感じるくらいの勢いで妻が燃え上がった。厚化粧があっという間に溶けて、肉の焦げる匂いが漂ってくる。どうして焼肉の匂いは美味そうなのに人肉の匂いはきついんだろうなと私は思った。ガソリンが悪かったのだろうか。

「ぎゃあああああああ、あああああああ、ゲフッ、ゲフォッ、あああああ」

 妻は火だるま状態で踊り出した。控え室を飛び出して式場へ駆けていく。私もキャンドルソードとガソリンのポリ容器を持って後を追った。

 妻は扉を押し開けて入場した。しらけた拍手がどよめきに変わる。一部歓声も混じっていたのは火だるまの妻をアトラクションと思ったのかも知れない。

 私もなんだか幸せな気分になって、テーブルの見知らぬ友人達にガソリンをぶち撒けた。「ま、お一つどうぞ」と言いながら火を点けてやる。新しく火だるまになって踊り出す友人。ガソリンは良く燃えるなあと私は感心する。

 妻は叫び声を続けながら突っ走り、式場の隅にいた女性進行役に飛びつき押し倒した。火が燃え移り進行役が悲鳴を上げる。

 酒乱の叔父は他人の席に座って呆然とこちらを見ていた。グラスが傾いてビールがズボンを濡らしている。

「叔父さんもどうぞどうぞ」

 私はポリ容器を逆さにして残りのガソリンを全てかけてやった。キャンドルソードで火を点けると叔父は座ったまま大人しく燃え上がった。

 私は披露宴をやって良かったなあと思った。

「なんてことを。なんてことを……」と父が虚ろに呟いている。母は失神していた。

 阿鼻叫喚の式場を私は退出した。壁や天井に火が燃え移っている。煙たくなってきた。

 背中が熱い。いつの間にか背中に火が点いていた。私はスーツの上着を脱いで投げ捨てた。すっきりした気分になっていた。

 ロビーを出て、暫く道を歩いてから振り返ると、ホテル全体が燃えていた。

 私はざまあみろと思った。

 

 

 ちょっと気持ち良かったがこれが本来の目的ではなかった筈だ。ということはやはり失敗というべきだろう。

 今回の教訓は、結婚式にガソリンを持ち込んではいけないということだろうか。……いや、結婚式と披露宴は我慢が肝心ということかな。もうちょっと我慢していれば無事に終わったのに。勿体なかった。

 火傷した背中がヒリヒリする。想像力が豊か過ぎるのも困りものだ。

 さあ、次も頑張ろう。

 

 

 次の相手とは結婚式も滞りなく終了した。これで私は本当に生涯の伴侶を得た。私は人生で最高の幸せを感じた。愛する妻と死ぬまで幸せに暮らすつもりだった。妻は二十三才で、おしとやかな可愛らしい女性だった。

 その筈だった。

 最初に違和感を覚えたのはハネムーンから戻ったその翌日だったろうか。はっきりしたものではない。ただ、口調や態度から控えめさが薄れたように感じたのだ。

「お給料の管理は私がやるから」

 ニッコリ笑って妻は言った。それ自体は悪いことではないと思う。だが毎月の私の小遣いが二万円というのはどういうことだろう。愛妻弁当を作ってくれるなら昼食代が浮くからいいが、実際にそうしてもらったらご飯に目玉焼きが乗っているだけの恐ろしい手抜き弁当だった。それで小遣いを五千円にするというから私は弁当を断った。

 私は趣味に金をかけられなくなった。以前は気軽に買っていたDVDもレンタルで済ませるようにした。本や雑誌は立ち読みが増えた。時の止まってしまった自分の部屋の本棚を私は侘しく見つめるのみだ。

 どうにも窮屈になってしまった気がする。しかし愛する妻と暮らす幸せな生活なのだ。このくらいは我慢しなければ。

 でも、なんだか妻が私を愛していないように見えるのは何故なんだろう。私との会話もあっさりした感じで以前ほど真面目に聞いていないような気がする。結婚前にも何度か彼女の手料理を食べたことがあったが、結婚してからは手間のかからないメニューばかりになり、オカズの品数も少なくなった。

 更に数週間のうちに明らかに妻の体重が増え始めた。夕食でそんなにバクバク食べている訳ではないから、私のいない昼間に食べているのだろう。レストランなどで自分だけ美味しいものを食べているのだろうか。夜、ベッドに入る前に彼女が宝石箱を開けてウットリしているのを見たことがある。私が買ってあげたものではない宝石が増えているように見えた。

 三ヶ月が経ち、妻の体重は十キロ増えていた。掃除もたまにしかやっていないようで床に菓子クズが散らばっている。

 我慢の限界に来た私は妻に言った。

「家計簿を見せてくれないか」

 妻は即答した。

「つけてないわよ」

「……。じゃあ、毎月の給料からどのくらい貯金してる。通帳を見せてくれ」

「明日にしてくれない。面倒臭いし」

「もしかして、貯金なんかしてないのか。……いや、まさか、元々の俺の貯金も使い込んでるとか……ないよな」

 図星だったようで、妻は不機嫌な顔になった。

「私に家計を任せたあなたの責任でもあるんだから……」

「俺のことをただの金蔓と思ってないか。俺のことを愛してるから結婚したんだと思ってたが」

「愛してるわよ。これでいいでしょ。じゃ、お休みなさい」

 吐き捨てるように言って、妻は先にベッドに入ってしまった。

 こいつは何なんだ。私はこんな生き物を養うためにわざわざ結婚したのか。私への愛情などそもそもなかったのだ。こいつは最初から金目当てで、猫をかぶっていただけなのだ。私は仮面を相手に恋愛をしていたのか。

 なんとか維持していた妻への愛情が急速に冷めていき、どす黒い憎悪が抑制を解かれてムクムクと湧き上がってきた。

 私は翌日、ホームセンターでロープを購入した。更に今月分の残りの小遣いを銀行で両替えした。十円硬貨六百六十枚。合計で三キロ近い重量となる。

 私は帰宅するといつも通りに過ごした。妻は不貞腐れた態度で夕食も更に手抜きになっていた。昨夜馬脚が現れてしまったので、演技する必要が全くなくなってしまったのだろう。

 妻は先に寝た。私は用心のため午前二時まで待ってから動き出した。長めの靴下を二重にして補強し、両替えした十円玉を中に流し込む。靴下の口を結ぶと手作りのブラックジャックが完成する。本来は革袋に砂を詰める鈍器だが、これでも充分な威力を発揮するだろう。

 私は薄暗い寝室に戻った。起こさないように気をつけながら、妻の両手首をまとめてロープで結わえつけた。続いて両足首を縛る。ベッドの脚に固定するよりももがく余地があった方がいいだろう。そっちの方が楽しい。

 さて。私は部屋を明るくして布団を剥ぎ取った。ネグリジェの似合わなくなった妻の肥満体が露わになる。妻はまだ気づかず、豚のようないびきをかいている。

「起きなさい」

 私は優しく告げた。

 妻は目を覚まさない。

「起きなさい」

 私は忍耐強く告げた。

 妻は寝返りを打っただけだ。手足を縛られていることも分からないようだ。

「起きなさい」

 私は最大の寛容さをもって告げた。

「んー」

 妻は低い唸りを発したが、やはり目覚めなかった。

「起きろ。起きろ。……起きろ、この豚」

「もー。何よ」

 妻は鬱陶しげな言葉を返した。だが目を開けることなくまた眠ってしまったようだ。

 私は十円玉を詰めた靴下を持ち、妻の弛んだ腹に力一杯振り下ろした。

「ぐべうっ」

 妻は重い苦鳴を洩らし、漸く目を開けた。部屋の明るさに何度も瞬きしながら、ベッドの横に立つ私を見る。そして、縛られている自分の両手首を。

「何。何よこれ。何のつもり」

「目が覚めたか。いいだろう。これから大事なことを言う。嬉しい話だ」

 私はにこやかに告げた。

「お前は俺じゃなくて、金を愛していたんだ。だから俺はお金をプレゼントしてあげようと思うんだ」

 私は妻の目の前で靴下のブラックジャックを平手で叩いてみせた。中の十円玉がぶつかり合ってチャリヂャリと鳴る。

 妻は目を丸くして手作り凶器を見ていた。それから無言で身をもがかせてベッドから降りようとした。

「ほら金だーっ」

 私は靴下を両手で持って妻の背に叩きつけた。ヂャヂン、と中の硬貨が鳴り、同時にゴギュッ、という異様な音がした。肋骨か背骨が砕けたのかも知れない。

「ぎゃああああああ」

 妻は悲鳴を上げてベッドから転げ落ちた。随分嬉しそうな声を上げるなあと思いながら私はまた靴下を振り下ろした。妻の肩に命中してヂギッと硬貨が鳴った。

「ぎゃあああ。助けて、やめて」

 妻は手足を縛られたまま床を這って逃げようとした。芋虫みたいだなあと私は思った。

「ほら食え、金だ。金だ、金だ、ほら食らえーっ」

 私は何度も何度も靴下を振り下ろした。硬貨の鳴る音と、肉が潰れ骨の砕ける感触が心地良かった。

 妻の獣じみた悲鳴は次第に弱々しくなり、ウネウネとしたもがきも目立たなくなってきた。血みどろの肉塊に私は靴下を振り下ろし続けた。

「ほら金だぞ。嬉しいだろう。ほら食らえ。食らえ。食らえ」

 突然靴下が破れ、中の十円硬貨がジャラララと溢れ出してきた。重かった靴下がみるみる軽くなっていく。それで私は殴るのをやめた。

 妻の手足は妙な方向に曲がっていた。折れた肋骨が二本、皮膚とネグリジェを裂いて突き出している。血はそこからと、妻の顔から出てきたようだった。

 妻の頭部は陥没していたが、顔面は赤紫に膨れ上がっていた。眼球は二つ共飛び出してしまったようで何処に行ったか分からない。鼻は潰れて横向きにへばりついているし、折れた歯が自分の頬に何本も突き刺さっていた。

 もう妻は動かない。いつの間にか失禁と脱糞をしていたようで、血臭に混じってひどい匂いが漂っている。臭いなあと私は思った。

 

 

 ……カツーン。カツーン……カツーン……

 ……ズズ……ズリ……バリッ……ズズ……ゾリ……

 また殺してしまった。

 しかし今回は結婚生活まで進んだし、次はまた工夫すればいいさ。金目当ての女は除外しなければならない。

 私はちゃんと成長しているぞ。

 

 

 新しい妻は金目当てではなく私のことを愛してくれている様子だった。ずっと私のことを見て、私のことばかり話す。他人の存在など目に入っていないようだった。

 彼女こそが私の生涯の伴侶であり、運命の女だと思った。仕事から戻ると妻と同じ部屋で過ごし、大部分の時間を見つめ合った。まるで世界が二人だけになってしまったように。彼女にとってはそれが真実らしかった。

 そして妻は私にもそれを要求した。

「私だけを見て」

 それが妻の口癖だった。外出は常に一緒で、通りすがりの女性に私が目を向けるだけで妻は露骨に嫌な顔をした。一秒以上相手を凝視すると妻は私の腕をつねってきた。携帯電話に登録した番号は全て妻が直接かけて確認するし、家に電話をかけてきた相手が女性であれば職場の同僚であっても即切りだった。私の部屋も毎日きちんと掃除してくれるが、浮気の証拠を隠していないか確かめているのだろう。

 私は次第に息苦しさを覚えた。向かい合って過ごしていると妻の瞳が強い圧力を放ち、彼女の意識が私の中にグイグイ押し入ってくるような気がする。私を守る殻は失われ、愛情という美名の下に私の自我は完膚なきまでに蹂躙されるのだ。

 窮屈さは恐怖へと変わり、私は妻から目を逸らす。すると妻は必ず厳しい口調で尋ねてくる。

「今、どうして目を逸らしたの」

 私は答える。

「いや、なんとなくだ」

「何か後ろめたいことがあるんじゃないの」

「そんなことはない」

「何を隠してるの。正直に言って。何も隠し事はしないって約束したでしょう」

「何も隠していない。ただ……いや、何でもない」

 妻の目が大きく見開かれる。瞳孔の開ききった澄んだ瞳は、虚ろな暗黒を湛えている。

「何。言って。言ってよ。言わないと……」

 言わないとどうする気だ。また包丁を持ち出すのか。

「本当に何でもないんだ。ただちょっと、疲れてるだけだ」

 そう、お前に疲れてきただけだ。

「どうして疲れてるの。私はあなたの疲れを癒すためにこんなに頑張ってるの。私はあなただけを愛してるのよ」

 妻の瞬きしない大きな瞳から涙が溢れ出す。彼女はそれを拭いもせず、容赦ない視線で私を責め立てる。

「私も君を愛してる。愛してるのは君だけだよ」

 少しタイミングが早かったかと思いながら私は告げた。切り札を急いで使ってしまうと最後の締めがうまくいかなくなってしまう。

「本当に。本当に私のこと愛してるの。私だけ」

 おっ、今回は大丈夫かも知れない。

「ああ、そうだ。君だけだ」

「なら抱き締めてよ。強く抱いて。それから『愛してる』と言って、キスして」

 私はその通りにした。かつては私自身最高の幸せを感じたその行為も、今は化け物に触るような気持ち悪さを感じるようになっていた。

 このままでは息が詰まって死んでしまうと私は思った。ならば、殺られる前に殺れ、だ。

 真夜中、妻が眠っているのを確認して私はこっそりベッドを抜け出した。前回使ったロープが物置部屋に残っている。私はそれで輪を作った。

 寝室に戻り、私は寝ている妻の首にロープの輪をかけた。

「んー」

 今度の妻は目覚めるのが早かった。だが私の勝ちだ。私はロープを渾身の力で引っ張った。一気に輪が縮んで妻の喉に食い込む。

「ぐっ、ふっ、うっ」

 妻がバタつき始める。両手で喉元を掻くが食い込んだロープはもう外れない。私は緩まないように全力でロープを引く。

 引っ張られた妻の体がベッドからずり落ちそうになり、私は妻の頭を右足で踏んで押さえつけた。今妻はどんな表情をしているのだろう。明かりを点けて見てみたいがそんな暇もなかった。

「苦しいだろう。息が出来ないだろう。私もそうだったんだよ」

 私は妻に教えてあげながらロープをグイグイ引いた。妻はまだもがいている。しぶといな。腕が疲れてきた。

「そうりゃ」

 私はロープを腕に巻きつけ、勢いをつけて背筋を伸ばした。ゴキュン、と何かが折れる感触が右足の裏に伝わる。

 妻は動かなくなった。頭を踏まれたままロープで引かれ、首が折れたらしい。

 寝室の明かりを点けると、妻の眼球は前にせり出して、今までで一番大きく見えた。だが虚ろな暗黒はもう私を見てはいない。私は晴れ晴れとした気分になっていた。

 私は翌日セメントを買ってきて、妻を壁に塗り込めた。これから窮屈な思いをするのは妻の方なのだ。

 

 

 どうも殺し癖がついてしまったようだ。しかし運命の女を手に入れるためには仕方のないプロセスだろう。

 そう、何事も経験が大事だ。

 今度は束縛しない妻がいいな。

 

 

 新しい妻は物静かで大人しい女性だった。家事も料理もしっかりこなしてくれるし特に不満はない。会話は私が向けた話題に相槌を打つ程度で、反対意見を出したり自分から新しい話題を出すことはない。勿論私を束縛するようなことはない。

 植物のような女性。最初に私が受けた印象はそれだった。ゆったりと静かに流れる時間を彼女は生きていて、きっと充分に幸せなのだろう。私は妻を愛しいと思った。熱さも激しさも必要ない。変化のない人生、それでいいではないか。私も妻と共にゆったりと年老いていきたいものだ。

 ただ少し気になるのは、妻が怒るところを一度も見たことがないということだった。残業で遅くなるのに電話連絡を入れ忘れていた時も、彼女の大事にしていた料理皿を間違って割ってしまった時も、彼女はただ穏やかな微笑を浮かべて「いいんですよ」と言う。

「どうして君は怒らないんだ」

 私は聞いてみたことがある。だが妻はやはりいつもの微笑を浮かべて静かに首を振るだけだった。

 違和感。完璧な人間など存在しない。喜怒哀楽というのは人間の基本的な感情なので、怒りを持たないというのは不自然だ。その抑え込んだ怒りを何処で発散しているのか。私は気になってきた。

 外出中でもテレビを観ていても、妻が不機嫌になったり腹を立てるような場面はない。私はちょっと試したくなった。自分から約束をしておいてわざと破ったり、毎日のように部屋を散らかしたりした。しかし妻が怒ることはなく、あの穏やかな微笑を浮かべている。私は料理がまずいと言って投げ捨てた。それでも妻は微笑している。理由もなく頬を叩いてみた。それでも妻の微笑は変わらなかった。

 私は恐怖を感じ始めていた。妻の怒りは何処へ流れているのか。妻の外出中に彼女の部屋を漁ってみた。しかし憎悪を吐き綴った日記や呪いのヴードゥー人形などは出てこない。何処だ。何処に怒りを隠している。私はこっそり仕事を休んで妻を監視してみた。窓から覗いてもおかしな様子はなく、静かに掃除をしている。外出を尾行してみたが、普通に買い物をしただけで妙な寄り道もなかった。

 おかしい。どうして悪意が見つからない。私はキッチンを調べてみたが、毒物らしいものも見つからなかった。調味料に偽装しているのかも知れない。私は幾つかをパンに染み込ませて野良猫に食べさせてみた。死なない。毒ではなかったのか。天井裏に何か隠しているかも知れない。だが見つかるのはネズミの死骸くらいだ。

 おかしい。憎しみを持っていない人間など存在してはいけないのだ。私を絶対に恨んでいる筈だ。私を憎み、呪っていなければいけないのだ。何処だ。呪いの文句を何処に隠している。

 真夜中。私は眠っている妻の首に剣鉈を振り下ろした。死体の腹を切って内臓を漁ってみるが、変なものは見つからない。てっきり何かを飲み込んでいるかと思ったのに。私は鋸で妻の頭蓋骨を開け、脳をまさぐってみた。しかし何も見つからなかった。

 結局、妻の憎しみは見つからなかった。

 殺し損だったなあと私は思った。

 

 

 ……ゴリ……ゴリ、ゴリ……ゴリッ、ゴギッ……ゴジッ……

 ……許して下さいお願いです許して下さい……うああ許して下さい……

 想像から我に返り、私はもう少し頑張ってみようと思った。理想の女を手に入れるためには努力を続けないといけない。そのためには何十人、何百人殺そうが構わない。

 どうせ想像なのだから。

 

 

 新しい妻は凄い美人だった。整形したのではないかと疑ったので取り敢えず殺した。後で中学校の卒業アルバムを見たら元々美人だったので、焦って殺して損したなあと思った。

 次の妻は普通の女性だったが、顎の左のラインが右より少し出っ張っていた。気になったので私は金槌で叩いて修整を試みた。妻が抵抗したので殺した。

 次の妻は料理がまずかったので殺した。次の妻は私より背が高かったので殺した。次の妻はタメ口だったので殺した。次の妻は卑屈だったので殺した。次の妻は私の誕生日を忘れたので殺した。次の妻は笑い方がなんとなく気に入らなかったので殺した。次の妻は私より先に寝たので殺した。次の妻は前の妻より不細工だったので殺した。次の妻はくしゃみをして唾が私にかかったので殺した。次の妻は馬鹿だったので殺した。次の妻は私より頭が良かったので殺した。次の妻は病弱だったので殺した。次の妻は活発だったので殺した。次の妻はカルト宗教に入っていたので殺した。次の妻は包丁を砥いでいたので殺した。次の妻はコンタクトレンズをしていたので殺した。次の妻は鼻毛が出ていたので殺した。次の妻は化粧が濃かったので殺した。次の妻は服のセンスが変だったので殺した。次の妻は手つきが怪しかったので殺した。次の妻は「カレー味のウンコと」とか言い出したので殺した。次の妻は特に欠点はなかったけれど長所もなかったので取り敢えず殺した。

 私は結婚したら妻をどういう理由で殺すべきかをまず考えるようになった。

 運命の女はなかなか見つからないなあと思った。

 

 

「ようこそ。ここが今日から君の住む家だよ」

 私は新しい妻に告げる。

「まあ、綺麗なところね」

 妻は笑顔を見せる。私は妻を愛しいと思う。

「じゃあまずは、地下室を見てくれないか」

 私は妻の手を引いて廊下を進む。妻の手は温かい。でもまたすぐに冷たくなるのだろう。

 地下への扉を開けると妻は眉をひそめる。

「何、この匂い」

「見れば分かるよ」

 私は妻の手を離さず、階段を下りていく。

 地下室の明かりを点けると妻は目を見開いて凍りつく。

 かつての妻達の死体が積み重ねられているのだった。三日前に死んだばかりのものから悪臭のする腐乱死体、そして肉が溶け落ちて白骨化したものまで、既に百体を超えている。

「な……何、これ」

 妻は震え声で尋ねる。

 妻はいつも同じことを聞くなあと思いながら、私は金槌を妻の頭に振り下ろす。これで一丁上がりだ。

 最近は結婚生活が五分で終わってしまう。

 

 

 妻の死体がどんどん増えていく。地下室が一杯になったので仕方なく壁に塗り込めるようになった。最初のうちは丁寧にやっていたが、次第に面倒になって体の一部がはみ出していても気にならなくなった。私の家の壁には頭蓋骨の一部や白骨化した手があちこちから生えている。ちょっとした芸術作品のようだ。

 私は妻達の死体に囲まれて幸福を感じている。しかしこいつらは所詮まがいものだ。まだ理想の妻には出会えていない。非の打ち所のない完璧な、私が殺す必要のない妻は何処にいるのだろう。

 

 

 ……ガヅン……ドギュ……グジ……ゴツ、ガツ……グジャ……

 ……うぎゃああああ……ぎゃああああ……ぎゃあああああ……ぎゃああ、うっぎゃあああああ……ぎゃああブフッ……

 ……ブヅン……ズズ……ビジッ……ズズ……ズズズ……

 それにしてもうるさくて集中出来ない。私は想像から現実に引き戻された。

 そろそろ夕食の時間だ。遅れると大変なことになるので私は立ち上がった。机とベッドだけの殺風景な部屋を出て、重い足を引き摺ってリビングへ向かう。

 廊下の白い壁はデコボコしている。良く見ると頭蓋骨や手足の一部がコンクリートからはみ出しているのだ。剥き出しの壁のあちこちに、白骨死体が乱雑に塗り込められているのだった。

 そうか。私は本当に妻を殺していたのかも知れないな。ふとそんなことを思う。

 それにしても足が重い。左足首が痛む。私は見下ろしてみた。

 私の左足首には錆びた鉄枷が填まっていた。皮膚に深く食い込んで、脛の骨が一部露出している。

 鉄枷には鎖が繋がっており、その先端に鉄球がついている。だから足が重いんだなあと私は思った。

 リビングでは既に両親が食卓についていた。いや、両親ではないかも知れない。乾燥してミイラ化した死体と首の曲がった骸骨が座っているだけだ。

 死体の服はボロボロで随分年月が経っているようだ。やっぱりこれが両親だったのかも知れない。いや、赤の他人を両親と思い込んでいたのかも知れない。

 まあ、どちらでもいいか。とにかく間に合って良かった。私は自分の席についた。火傷痕が背もたれに触れて痛んだ。以前、食事の時間に遅れたために受けた傷だ。

 私は思う。夢と現実の違いはなんだろうか。或いは、幻覚と現実の違いは。想像も入り込んでしまえば現実同様のリアリティを備えることが出来る。人間は自分の感覚によってしか世界を認識出来ない。今見ているこれが夢でないことを証明することは不可能なのだ。夢の中の理屈や夢の中の登場人物の言葉は信用出来ないのだから。

 ならば何を現実とするかは自分の好きなように選んでいいのだ。今のこれが『現実』なのか『想像』なのか。私は都合の良い方を選べばいい。思い込んでしまえばいいのだ。

 私は想像するのが、得意だ。

 足音が近づいてくる。夕食の時間だ。

 リビングに現れた妻は、大きな鍋を抱えていた。さっき捌いた肉だろう。生煮えかも知れないが、私は想像するのが得意だから大丈夫だ。きっと美味しく感じることが出来る。それが人肉であっても。

 妻は身長二メートルを超える屈強な女だった。エプロンには古い血と新しい血が混じり合って芸術的な模様を作っている。腰のベルトに差した血塗れの大きな斧。妻はそれを使うのがとても上手だ。

 妻は鉄製の仮面で顔を隠していた。目の部分だけが開いた無表情な仮面にはやはり返り血が付着している。瞬きせず見開かれた瞳。恐ろしいほどに冷たく、澄んでいる。

 私がここに監禁されて何年になるだろう。頻繁に新しい獲物が入ってきては殺されていく。私もいつかは彼女の機嫌を損ねて鍋に入ることになるのだろうか。

 いや、違う。それは現実ではない。私は愛されている。彼女は私の妻だ。運命の女、理想の伴侶なのだ。私に迷う余地を与えない、抗うことなど考えさせない絶対的な支配。それこそが究極の愛なのだ。

 私は、想像するのが、得意だ。

 私は、自分の現実を、選択する。

「愛しているよ」

 私は妻に微笑んだ。

 仮面の奥で妻は微笑を返した。とてもいい笑顔だ。私の妻はとても美人で、優しい女性だった。

 

 

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