血塗られた老後

 

  一

 

 今年もまた、ここへやってきた。生き続けるために。

 看護婦の南京子に車椅子を押してもらいながら、向井邦彦は、近代的な、悪く言えば冷たい印象を受けるその建物を見上げた。

 人口調整特別対策センター。糖尿病性網膜症で視力の落ちた彼の目にも、その大きな文字は読めた。

 ここを訪れるのは、十九回目になるだろうか。七十才の定年の時が最初だから、きっとそうだ。

 入り口の自動ドアを抜けると、殺風景で金属的なロビーだ。正面の受付に、制服の女性が立っていた。向こうの待機エリアでは、今日の参加者達を運んできたのであろう家族や看護婦達が座り、することもなくただ戦いの結果を待っている。参加者の中には自分の足では来られないほど衰弱した者も少なくない。向井もその一人だ。

 彼らの顔は一様に無表情だ。彼らの目には老人達の足掻きはどう映っているのだろう。自分の親でさえも、ただもう醜いと感じているだけなのか。自分達もいずれこの関門をくぐらねばならないというのに。今日の肉親の戦いに、彼らはどちらの結果を期待しているのだろう。

 この制度が始まった頃は、それでも多くの家族がここで参加者を見送り、激励し、別れの涙を流したものだが。今では動けない参加者を渋々運ぶ家族だけで、見送りに来る者は殆どない。そして、向井もその一人だった。

 受付嬢が事務的な口調で尋ねた。いつの時代も公務員は愛想がない。

「生存資格更新のために来られた方ですね。国民証をお見せ下さい」

 看護婦が向井の国民証を受付に差し出した。その磁気カードには彼の名前と国民番号、そして顔写真がついていた。

 受付嬢は手慣れた仕草で機械にカードを通し、確認した。

「一九五二〇八五七九三六、向井邦彦様ですね。確かに更新日は今日になっております。七十三番のお席です」

 看護婦が車椅子を押して、静寂の廊下を奥へと進んでいった。向井の両腕は、ここ数年で車椅子の車輪を回すどころか箸を持つことすら出来ぬほどに弱っていた。

 鋼鉄の自動扉が滑らかに動き、向井には見慣れた広い部屋が現れた。

 眩い光。部屋の中心には、円柱形の巨大なコンピューターがそびえている。

 それを囲むように、ゆったりとした寝椅子が並んでいた。全部で百脚ある筈だ。椅子は、頭側がコンピューターの方を向くようにして丸く配置されていた。

 大半の寝椅子には既に参加者が座り、ゲームが始まるのを待っていた。全員が定年を過ぎた老人だ。大部分は七十代で、八、九十代は滅多にいない。この制度が始まってから数年のうちに、脳の働きの鈍った彼らは淘汰されてしまった。八十八才の向井は最古老といってもよかった。

 目を閉じて戦いの前の瞑想をしている者。初めてなのか恐怖と緊張に顔を歪めている者。虚ろな瞳で宙を睨んでいる者。人口呼吸器に繋がれ、無数の管を体中に挿している者もいた。意識があるのかどうか分からないが、ここにいるということは少なくとも脳死ではないのだろう。そして、少数ながら、ある期待に目を輝かせている者。

 寝椅子の傍らの台には、ヘルメットのようなものが置かれていた。ただ普通のヘルメットと違うのは、数本の電極と一本の太いコードが付いていることだ。コードは巨大コンピューターへと延びていた。

 七十三番の席を求め車椅子は進んでいく。車輪の立てる軽い音に、老人達の何人かが向井の方を見た。向井の顔を知っているのか、怯えと嫌悪の表情を露にする者もいる。

「おうおう、チャンピオンのお出ましかい。車椅子とは情けないことだ」

 嘲るような声がした。目を向けると、がっしりした体格の老人が狂暴な笑みを浮かべて向井を睨んでいた。

「俺は坂田大祐。去年まで自衛隊におった。東南アジアじゃあ二百人は殺したぞ。勲章だって七個も持っとる。素人を殺し回って天狗になっとるようなあんたに、わしが本物の戦争というものを思い知らせてやるわい」

 向井は何も言わなかった。返事をするのも億劫だった。慢性の肺気種に冒された胸は短い会話をするのも辛い。

 自衛隊は既に『自衛隊』ではなくなっていた。二〇二三年に新法案が成立して以来、自衛隊は飢えた日本の軍隊として、様々な国に侵略を行っていた。現在もたしか樺太の辺りで局地戦が続いている筈だ。

「殺戮王の名は今年からわしが貰うぞ」

 通り過ぎる車椅子の背に、坂田の挑発的な言葉が浴びせられた。向井は振り返りもしなかった。

 坂田の席と近いところに、七十三番の椅子があった。看護婦がその横に車椅子を停め、向井の足にあたる部分にかけていた毛布を取り去った。

「おっ」

 坂田が驚きの声を上げた。

 向井の両足は、共に太股の途中から先が消失していた。

 糖尿病でね、足が腐っちまったのさ。向井はそう言ってやろうかとも思ったが、面倒だから黙っていた。

 看護婦と係員が力を合わせ、向井の体を寝椅子に横たえた。

「じゃあね、また会えるといいわね」

 看護婦の南京子が言うと、向井は小さく頷いて見せた。四十七才の南は、十年以上、向井をここまで運ぶ役割を受け持っていた。

 南が去り、向井はクッションの効いた椅子に背を預け、目を閉じて待っていた。

 残りの席にも次々と老人達が到着しているようだった。隣の参加者に戦場での自慢話を続ける坂田の声が煩わしかった。何処からか、死にたくないという弱々しい呻きが聞こえていた。

 やがて、広い室内にアナウンスが流れた。

「それでは、全員揃いましたので、始めたいと思います。係員の指示に従って、DBCアタッチメントを頭に装着して下さい」

 向井は目を開けた。老人達はガチャガチャとヘルメット状の機械を頭に被り始めた。幾つか抜けた席があるが、既に事故か何かで死んでしまったのか、生存権を自ら辞退したのだろう。

 向井には係員がアタッチメントをつけてくれた。ロックして、ずれないようにする。

 機械の仕組みは向井にはよく分からなかったが、人間の脳に直接アクセスして、現実と変わらない感覚を与えるものだ。逆に本人の意思も感知して、それを感覚にフィードバックさせる。つまり、完全な仮想現実を造り出す装置なのだ。

「それでは、開始致します。プレイ時間は六時間です」

 アナウンスの声が遠くに聞こえ、向井の意識は次第にぼやけてきた。個々の脳の性質の差異に合わせるため、機械と脳の間で微調整を行っているのだ。

 再び、こちら側の世界に戻ってこられるだろうか。

 闇の底へ落ちていくような感覚を味わいながら、向井の心にそんな感慨が浮かんだ。

 

 

  二

 

 光。

 闇のトンネルを抜けると、明るい部屋に出た。

 扉も窓もない、狭い部屋だ。四方の壁際に据えられた陳列台には、様々な武器が並んでいた。

「五分以内に装備を選んで下さい。持ち点は千ポイントです」

 女性の声がした。コンピューターの声だ。

 向井は、自分の足で立っていることに気づいていた。失った筈の両足は迷彩服を着てちゃんと彼の体重を支えている。視覚も鮮明で、部屋の隅々までがはっきりと見えた。

 彼は二、三度屈伸して、足の感触を確かめた。両腕も振ってみる。現実の世界の彼の肉体とは違い、その逞しい腕は素早く、力強く動いた。

 向井は皺のない若い顔で、口元をにやりと綻ばせた。表情も自由自在だ。仮想空間中のプレイヤーの体は、二十才くらいの肉体に戻っている。体の思うように動かない老人のままでは戦闘にならないからだ。事前に採取したDNA情報に従い、ある程度は個人の資質も反映されているということだった。

 自分の足で歩き、向井は一通り、台の武器を検分していった。突撃銃から短機関銃、拳銃、手榴弾の類まで、個人で使用出来る武器は大体揃っていた。最新の装備が少ないのは、個人の能力が結果に関わる余地を入れるためだ。

 品揃えは前回とあまり変わっていない。向井はいつも通り、日本の軍事メーカー稲光の、十四型ライフルを選んだ。必要ポイントは八百と高価で、単発でしか使えないが、射程距離と精度、殺傷力はずば抜けている。

 手に取ると、壁にかかっている電光掲示板の数字が、心地好い電子音と共に一〇〇〇から二〇〇へと減った。向井は、人間工学に基づいたこのライフルの滑らかなフォルムと凶器の重みを楽しんだ。

 付属の百発の弾薬に、更に百ポイント払って予備の弾薬を百発加えた。これで残りは百ポイントしかない。

 そして向井は、黒塗りのコンバットナイフを選んだ。弾薬が尽きた時の用心だ。刃渡り二十センチのこのナイフで、向井は今までに十数人を刺殺している。

 コンバットナイフの隣には、全長五十センチ近い奇妙な形状の刃物が置かれていた。緩く湾曲した刃は重心が前にあり、叩き切るのに向いている。ククリナイフ。向井はそのナイフを知っていた。筋力と技量があれば人の首くらい一撃で切り落とせるかも知れないが、重いし刺しにくいし、こんなものを使う奴は余程の物好きだろう。

 最後に、隅の棚に置かれていたマスクを手に取った。その表情のない白い仮面は、彼が特別に申請して得たものだ。ゲームには何の影響もない、ただのオプション。

「あと三十秒でスタートします」

 声が言った。

 向井は少ない装備を身につけ、仮面を被った。彼の表情は完全に隠れる。

 軽い緊張感と、もう一つ別のものが、彼の心の中に満ちていく。

「ゲームスタートです」

 それは、殺戮への期待。

 仮面の下で、向井は野獣めいた笑みを浮かべた。

 

 

 部屋の照明が次第に暗くなり、ついには真の闇になる。

 そして彼方から一筋の光が差し込んできた。

 朝陽だ。地平線から顔を覗かせている。

 ここは戦場だった。

 急いで周囲を見回す。向井が立っているのは疎らに草の生えた平地だった。右手に高い岩場、左手に深い林が見える。ここにいるのは危険だ。向井はすぐに岩場へと走った。

 スタート地点は各自ランダムに定められる。始めた途端に相手と出食わさないような配慮はされているが、やはり運不運がある。出来るだけ早く安全な地点を確保せねばならない。そして、攻撃に有利な地点を。

 戦場にいる自分の感覚とは別に、向井の頭の中に映像のイメージがあった。四角いフィールド。

 戦場の地図だった。林や沼、平地などは色分けされ、自分の現在位置が青い点で示されている。

 同時に数字のイメージもある。今は百。これが現在の向井の生命力だった。攻撃を受けるとダメージに応じてこれが減っていき、ゼロになると死ぬ。その数値設定はややシビアで、頭部や心臓などの急所に当たれば現実同様に即死もあり得る。

 岩場の窪みに身を屈めると、改めて彼は戦場を見渡した。

 そう。まるで現実の世界と違わない。木々は一本一本違うように見え、葉の一枚まで区別出来た。この岩の感触も本物同様だ。本当に戦場にいるようだった。

 これだけのことをやるのに、一体どれほどの技術が必要なのだろうか。この広い戦場を仮想空間上に造り出すには、とてつもなく膨大なデータとメモリーを必要とするだろう。それとも、単純な情報を脳の記憶が再構成しているのだろうか。

 いや、そんなことはどうでもいい。今は、わしが生き残ることだ。向井は心の中でそう呟いた。

 晴れ渡った空では、偽の太陽が少しずつ上昇を続けていた。この六時間に、フィールドでは二十四時間が経過する。夜になり、再び朝陽が見えた時がゲームの終了となる。

 まだ、誰も、姿を見せない。

 始まった時から感じていた興奮を、向井は強い意志の力で抑えていた。すぐに走り出して銃を乱射したくなるような殺戮への衝動。戦闘を促進するために、興奮剤が使われているという噂があった。

 だがそれをやれば負けだ。生存は不確実になる。我慢するのだ。

 まずは一人殺すことだ。彼は考える。一人殺せば、危険は確実に減る。怖じ気づいて隠れたままで時間が経過すれば、自分の居場所が敵の地図上に表示されるようになるのだ。更にじっとしていれば、今度は戦場のランダムな地点への移動をコンピューターに指示される。そのために頭の地図には升目が引かれ区域分けされているのだ。敵の待ち伏せているかも知れない戦場を走らねばならないのだから、かなり危険な行為だが、逆らえば死あるのみだ。

 とにかく一人でも殺せば、そのペナルティを課せられることはなくなる。後は地図上に位置を暴露された間抜けな敵を各個殺すなり、好きにするさ。

 遠くの平地に数個の影が見えた。やはり迷彩服を着て、軽機関銃や突撃銃を抱えた者達だった。他の参加者達だ。

 遮蔽物もない場所に突っ立って雄叫びを上げながら、何も考えずに互いに弾をばら撒いている。素人丸出しだ。

 向井はライフルを肩づけし、照準を合わせて、引き金を引いた。二秒置きに、五発。綺麗なフォームだった。

 五百メートル以上離れていたが、銃弾は全て敵に命中した。それも頭部に、正確に。

 彼らの頭が熟柿のように破裂して血と脳漿が散らばるのが見えた。即死。何故か不必要なほどにリアルで、向井も以前は口の中に嫌な味が残っていたほどだ。

 まず五人。

 向井は殺人の美酒に酔った。

 まだまだだ。沢山殺してやる。皆殺しにしてやる。

 白い仮面は、残忍な笑みを隠すためのものだった。

 

 

 向井邦彦は、驚くほど精密な狙撃能力と、相手の殺気を鋭敏に感じる獣じみた危険察知力を持っていた。

 平凡だったサラリーマン時代には、自分でも気づかなかった能力だ。

 最初の二年ほどは運の比重が大きかったが、戦闘に慣れてからは危なげなく、毎年三、四十人を殺した。

 そう、血に目覚めた、といってもよかった。

 

 

 向井に心臓を撃ち抜かれて倒れた男が惨めに呟いた。現実と違って即死でも数十秒は喋ることだけは出来るのだ。

 死にたくない。死にたくない。

 白い仮面は、男を冷たく見下ろしていた。

 

 

 本能的に伏せた向井の頭上を、無数の銃弾が掠めていった。

 素早くライフルを背後に返し、向井は二人を射殺した。

 

 

 強襲に来た男達を、林の暗闇の中で逆に向井は待ち伏せていた。慌てて散開する彼らを、健康だった頃の夜目の利く向井は次々に射殺していった。

 

 

 人を殺すというのは、なんて楽しいのだろう。

 引き金にかけたこの指の僅かな動きだけで、数十年にわたって積み上げられてきた人生を、無にすることが出来るのだ。

 素晴らしい。

 自分が神にでもなったような気がする。

 このちっぽけな自分が。

 

 

「向井、何処だ。姿を見せろ。この俺と勝負しろ。俺はもう十五人殺したぞ」

 立ち上がった大柄な男が自信満々に叫びながら、銃を小刻みに乱射していた。

 十七型突撃銃。十二年前まで陸上自衛隊の制式装備だったものだ。

 顔は若返っていたが、その狂暴な顔には見覚えがある。坂田だった。現れない向井に痺れを切らしたのだろう。彼は慎重なタイプではなかった。

「この臆病者が。出てこい」

 遠くの物陰で、向井は仮面の下に冷酷な笑みを浮かべ、引き金を引いた。

 ただ一発。

 坂田の顔が弾けた。

 

 

 月が隠れ、地平線の彼方から太陽が顔を覗かせた。

「ゲームを終了します」

 頭の中にコンピューターの声がした。

 その声を聞いてやっと、向井は緊張を解いて立ち上がった。

 彼は四十六人を殺していた。

 向井の残り生命力は、七十二。左腕に一発食らっただけだ。痛みはあるが、軽い。

 手練れのグループに襲われたのだ。おそらく同様の仮想現実戦闘ゲームで訓練を積んだのだろう。向井だけを優先的に狙っていた。裏の世界で向井が賞金首になっていることは噂に聞いていた。政治家などの有力者も無差別に殺し捲ったつけが回ってきたのだ。だが向井は、それを何とも思っていなかった。彼には失うものがなかったからだ。

 心地好い解放感と共に、殺戮の宴の後の虚しさと後味の悪さが彼の中に淀んでいた。

 また、わしは生き残ってしまった。

 奈美恵……。

 許してくれ……。

 

 

  三

 

 向井は目覚めた。

 視力の落ちた目で周囲を見回して、そこが現実の世界であることを確認した。

 並んだ寝椅子の幾つかでは、帰還した老人達が惚けたような顔で部屋を眺めたり、頭の機械を外そうと苦心している。

 だが、殆どの参加者達は、寝椅子に横たわったまま、ぴくりとも動かなかった。

 彼らは、死んでいるのだった。

 仮想空間での戦いは、遊びではない。生存する権利を賭けた本当の殺し合いなのだ。

 頭に装着されたアタッチメントは、被った者の延髄を破壊して呼吸を停止させる機能も備えていた。ゲーム上のプレイヤーが死亡した時点で、それは実行される。生命維持装置も電源を切られる。

 これらの死体が、これからどうなるのか。

 引き取りたいという家族がいれば、死体は棺桶に入れられてまともな葬儀が行われることだろう。別れを悲しんで涙を流してくれる人も、いる、か、も、知れない。

 そうでない場合は、死体は公務員の手によって『処理』されるだけだ。

 向井の中には、今は黒い罪悪感だけが残っていた。

 やがて係員が来て、向井のヘルメットを外してくれた。

 アナウンスの声が告げた。

「生き残った皆様はおめでとうございます。あなた方は今後一年間の生存権利を獲得致しました」

 生き残ったのは十数人程度だった。向井が参加した集団はいつもこうだ。

 自分では動けない向井のために、看護婦の南が車椅子を持ってやってきた。

「また生き延びたわね」

 淡々と、南は言った。

 向井は、ただ頷いた。

 彼が殺した者が、死ぬ前に他の者を殺した人数も合わせ、向井は、六十八人分の年金を手に入れた。

 

 

 老人が、増え過ぎたからだ。向井は考えている。

 昔は病が老人を減らしてくれた。

 今は自らの手で……。

 でも、こんなことが、いつまで続くのだろう。

 

 

  四

 

 電気自動車に乗せられて病院への道を戻る間、向井は流れ行く町並みを見つめていた。

 世界は変わってしまった。

 天まで届くかとも思われるような高層ビルが立ち並び、その間を流線形の自動車が忙しく行き交っている。今ではガソリン自動車は絶滅寸前だ。電力の主源は原子力だが、何やら水素を使った発電法が現在研究されているということだ。

 ピエロのような奇妙な服装の若者達が生気のない顔で歩いている。彼らは何を考えて生きているのだろうか。向井の世代にはさっぱり理解出来ない。

「最近はゲームセンターにも、あなた達がやってるのと同じような、バーチャルリアリティの対戦ゲームが増えているみたいね。勿論、死を賭けてのものではないけど。若者の間で流行ってるそうよ」

 運転は自動車のコンピューターに任せて、南が言った。一緒に人口調整センターに乗せられてきたもう一人の患者は、もういない。向井が殺したのかも知れなかった。

 だが、そのことで、南は向井を責めたりしない。

 通り過ぎるビルの側面に、巨大な看板がかかっていた。銃を持った兵士が微笑んでいる絵だ。

 『若人よ、聖戦に集え』。

 向井の見ているものに気づいて南が言った。

「ああ、自衛隊ね。大々的にキャンペーンをやってるわ。中国と同盟を結んで今も戦争をやってるもの。もしかしたら、百年以上も前みたいにまた徴兵制度なんて出来るかも知れないわね」

 南は寂しく笑った。

 現代の冷めた若者達が、そう簡単に戦争などに乗せられるとも思わないが。

 でも、そのために、ゲームセンターでサバイバルゲームを広めているのかも知れない。向井は思った。

 都会の空は、昼間なのに暗く濁っていた。太陽が滲んでいる。自動車の排気ガスはなくなったが、大気汚染は際限なく進み、今は田舎の夜空でも星が見られないそうだ。

 若い頃の空は、綺麗だった。

 あの澄んだ空を眺めながら、人生に何を夢見ていたのだろう。

 向井はふと、架空の戦場で見た空を思い出した。

 

 

 病院に着いた。南が車椅子を押して向井を運んでいく。

 病院内は白い色彩で埋め尽くされていた。あらゆる事柄がコンピューターで管理され、機械化されていた。診断はコンピューターの力を借り、手術も簡単なもの以外は機械の手で行われる。コンマ一ミリの超精密な手術が可能だった。外科医はそれを監視し、制御するだけの技術屋でしかない。現代の労働は機械に任されており、国民の殆どは技術者かサービス業だった。

「向井さん、あんたまた死ななかったのかい」

 顔馴染みの患者が親しげに声をかけた。向井は薄く笑う。

 ここは老人病棟だった。以前は無数の管を繋がれ、死ぬことも出来ぬ老人達で一杯だった。それが膨大な医療費の主因であったのだが、今は重症の患者は少なく、空き部屋もあるほどだ。

 病棟の端に、向井の個室はあった。彼の名前の表札は色褪せ、埃を被っていた。

 向井は、この病室で十五年以上も暮らしているのだ。

 狭い病室には、ベッドの他には冷蔵庫や、電話機を兼ねた立体テレビ、窓際には花が飾ってある。壁のカレンダーは二〇四〇年三月となっていた。

 南が向井の体をベッドまで抱え上げ、毛布を被せ、向井のこめかみに吸盤状の電極を当てた。患者の大まかな意思を電気機器やナースステーションに伝えるためのものだ。電磁波を使うのでコードは必要ない。

「じゃあ、何かあったら呼んで下さいね」

 南はそう言って、病室を出ていった。

 そして、向井は独りになった。

 彼は電極を通して立体テレビのスイッチを入れた。彼の目には多少ぼやけて見えるが、特に不満はない。今日の戦闘のように、脳の視覚野に直接映像を送り込むタイプのテレビも売られているが、まだまだ高価な代物だった。

 テレビでは、ニュースキャスターが戦争のことを伝えていた。極東の軍事施設を爆撃して、多大な戦果を上げたと言っている。次の話題は、日中共同で火星に建設中の観測基地のことだった。

 向井はチャンネルを娯楽番組に切り替えた。タレント達が馬鹿馬鹿しいパフォーマンスを続けている。これだけは、昔からあまり変わっていない。

 テレビを見ることと、看護婦に車椅子を押してもらう、病院の庭の散歩。それだけが、向井の生活の楽しみだった。

 

 

  五

 

 久し振りに、息子の勝良に電話をした。

 勝良は、五十四才になる。向井が戦場で得た年金の余分は全てこの一人息子に送っていた。

「元気、か」

 苦労して、向井はそれだけ口にした。

「ええ。で、何か用ですか」

 返事は声だけしかなかった。それも、何処となく冷淡な口調だ。こちらからは向井の映像が送られている筈なのに、向こうからは送られてこない。最近のテレビ電話は、プライバシーの問題もあり、声だけのやり取りも可能になっている。でも……。

「いや、特に、用という、ほどではないんだが」

 遠くに「あなた、誰なの」という嫁の声が聞こえた。

 勝良の「父さんだよ。まだ生きてたんだ、全く」という返事が洩れ、向井を凍りつかせた。勝良は、父親には聞こえないように言った積もりだったのかも知れない。でも、小さくだったが、聞こえてしまった。

「用がないなら、切りますよ。父さんと違って、まだ私も忙しい身ですからね」

 ひょっとすると、聞こえるように、わざと言ったのかも、知れない。

「いや、このところ、ずっと会ってないから。たまには、孫の顔も、見たいし」

 まさか、お前は、知っているのか。

 わしが、母さんを……。

「今も言ったように、私は忙しいんですよ。それに孝志も美紀子も、とっくにサラリーマンになって働いてるんですよ。悪いですけどそんな暇ありませんからね。じゃあ、切りますよ」

 電話は切れた。

 向井は、暫くの間、動かなかった。

 やがて、立体テレビのスイッチを入れた。

 

 

  六

 

 日常が、過ぎていく。

 テレビのニュースによると、政府は本当に徴兵制を考えているらしい。

 病院の庭の紫陽花が咲いた。時の流れるのは速い。近頃は、本当に。

 税金がまた上がったそうだ。消費税は既に三十パーセントを超えた。

 原子力発電所の事故で、四国一帯が死の灰に晒された。テロの可能性もあるという。

 毎日、テレビだけを見て過ごしている。毎日、テレビテレビテレビ。

 わしは、何のために、生きているのだろう。

 

 

  七

 

 雨の夕方。気象庁の予告通りに午後三時から始まった人工降雨だ。

 向井の病室のドアをノックする者があった。

 一瞬息子達かと思い、慌てて起き上がろうとして失敗し、次の声を聞いた途端に向井は失望した。

「あたしだよ。入るよ」

 返事を待たずにずかずかと入ってきたのは年老いた老婆だった。顔は数限りない皺で覆われているが、目は異様な生気を帯びてぎらぎらと光って見える。背筋はしゃんと伸びて、物腰は自信に溢れていた。

 老婆は船越小夜子といった。九十六才。日本最年長の怪物だ。短機関銃を撃ちまくりながら獣のようなスピードで走り回る、乱戦の王者。成績は向井には及ばないにしろ、毎年二十人以上は殺していた。一緒の戦場で戦ったことはないが、二、三度の面識はあった。

 小夜子の他にもう二人の人物が、病室に入ってきた。

 背の低い、陰湿そうな顔をした老人が、秋山直樹。八十二才。その極めて慎重な戦闘術には定評がある。

 秋山は、『ガード』だった。船越もたまにやるが、秋山は本職だ。

 同じ戦場に参加することになった金持ちや重要人物を、報酬を貰って護衛する仕事だ。自分のノルマの他に依頼人のノルマも考慮しつつ、狂暴化した素人の依頼人を守るには、かなりの腕が要求される。

 五年ほど前、向井は秋山がガードしていた高級官僚を撃ち殺したことがある。秋山は自分の命を優先し、安全な場所から動かなかった。それ以来、秋山は向井を恨んでいた。

 最後は、向井の見たことのない男だった。中肉中背の、温和な顔をした男だ。艶のある皮膚は若く見えるが、髪は真っ白だった。

「こいつが真田誠だよ」

 船越が男を紹介した。

 その名前には、向井も聞き覚えがあった。

「五月にあったD地区の戦闘で、四十四人を殺した男さ。ククリナイフ二本だけでね。あんたに会ってみたいと言うから連れて来たんだよ」

 銃器を相手に刃物だけでそれだけの人数を殺すというのは、到底信じ難いことだ。しかし、それは事実としてデータに残っている。

 戦闘結果の情報は、その方面の雑誌や新聞でも紹介されていた。何度か向井にもインタビューの依頼が来たことがあるが、全て断っている。

「よろしくお願いします」

 真田はそう言って穏やかな笑みを浮かべた。

「それで、何の、用だ」

 向井がマスク越しのくぐもった声で船越に聞いた。八月頃から向井は呼吸困難が強くなり、酸素マスクの世話になっていた。

「あんたはまだ知らないだろうけどね。あたし達は皆、来年の六月、同じ戦場で戦うんだよ」

「……。地区、が、違うだろ。わしは、B地区だ」

「あたしはC地区だよ。それがね、二十五年もこんなことを続けてちゃあ、当然七十才以上の人口は減るわけさね。だから来年から東京A区からD区まで、まとめてやることになったのさ」

 減ったのならやめればいいのに。二年や三年置きにするとか。向井は思った。

 政府は、老人を絶滅させる気でいるのか。

「それで。挨拶に、来たのか」

「わざわざそれだけのためにこんな辛気臭いとこまで来るもんかね。いいかい、参加者の中には、現総理の日暮道明がいるんだよ」

 その台詞は、向井にとっても衝撃的だった。

 そうか。

 四十三才で総理に就任した傑物。国民の若返りを謡い文句に七十才以上の人口の淘汰システムを造り上げ、日本を戦闘国家に仕立て上げた、二十一世紀の妖怪。

 奴が、とうとう、七十才になるのだ。

 自分の造り上げた残酷な制度に、自らが晒されることになるのだ。

 ざまあみろ。

「それが、どうした」

「あたしと秋山がガードをやることになった」

「だから、わしに、見逃してくれ、という、のか」

「いや、違う。あたしの言いたいのは、あんたも総理のガードをやらないかってこと」

「……」

「今回参加する百人のうち、九十四人については不可侵の裏契約が取れたけど、やっぱり本番になると興奮した素人は何をするか分かんないからね。田島派も総理を始末するいい機会だといって陰で動いているっていうし。総理からあたし達への報酬は、それぞれ三千万。あんたには一億出してもいいって総理側は言ってるよ。どうだい、危険を冒してあたし達と殺し合うより、よっぽどそっちの方が利口だとは思わないかい」

「……」

「返事は」

「断る」

 きっぱりと、向井は答えた。

「なんだって」

 船越の顔色が変わった。秋山が暗い目で睨みつけた。何故か真田だけが微笑んでいた。

 向井の目は、憎悪に燃えていた。

「奴は、わしを、人殺しにした。奴は、わしの、平凡な、人生を、真っ赤に、血で、染めて、滅茶苦茶に、しやがった。殺してやる。わしは、奴を、絶対に、殺してやる。奴にも、そう言っておけ」

「ふん、今更何言ってんだい」

 船越が鼻で笑った。

「人間は所詮、人殺しさね。どんな生き方をしたって、絶対誰かを犠牲にして生きてるのさ。綺麗事を言ってんじゃないよ」

「無駄足だったな。帰る」

 秋山が口を開いた。

「お前を殺すのに、いい理由ができた。覚悟しとけよ」

 捨て台詞を残して、秋山は病室を出ていった。

「まあ、いいさね。勝手にすればいい。じゃあ次に会うのは戦場だね」

 そう言って船越も去った。

 病室は、向井と真田の二人だけになった。

「あんた、は、かたらなかったのか」

 総理のガードのことだ。

「いえ、私は他人を守ったりするのは得意じゃないんです」

 では何が得意なのか。分かっているさ。

 向井が何か言うより先に、真田がにこやかに話し始めた。

「わたしは、最近まで中近東にいたんですよ。日本を出たのは四十年以上前になるかな。最初は時効を待つだけの積もりだったんですが、仕事が病みつきになって離れられなくなりましてね」

「なんで、わざわざ、こんな、国に、戻ってきた」

「向こうでちょっとやり過ぎまして。色々な方面を敵に回してしまいました。それに、日本でも面白い制度が出来ているという話を耳にしましてね。だったら中近東にこだわる必要もない、と」

 真田の表情は、終始穏やかだった。

「時効、と、いうのは」

「日本で昔、三十人ほど人を殺しました」

 真田は、平然とそれを言ってのけた。

「……」

「私は、若い頃から殺しが好きだったんですよ。幸せそうな顔をした奴らを、斧で滅多斬りにしてやるのが趣味でした。人生がそんなに甘くないということを、身をもって教えてやる偉大な教師のような気分でしたよ」

 喋りながら真田は、うっとりと自己陶酔に浸っていた。口の端から涎が溢れかけ、真田は慌ててそれをすすった。

「中近東でもゲリラに入って沢山殺しました。そうですね、ざっと三千人は、斧や鉈や鋸なんかで殺しましたね。政府の指導者や幹部なんかも、二、三十人は暗殺しましたよ。逆に銃弾も二百発以上食らいました。でもなかなか死ねなくてね。困ってるんですよ、本当に」

 クックックッ、と、真田は笑った。温和な色は消え、邪悪な魔性の笑みがその顔を覆っていた。

 向井の背筋を冷たいものが撫でたが、それはすぐに消えていた。

 そう、彼自身も、この真田に劣らぬ、殺人鬼なのだから。

「……。それで」

「日本にも、私のような方がいらっしゃることを知りまして。これはきっと死ねなくてお困りに違いない。だから私がその手助けをして差し上げようと。私があなたを楽にしてあげられるにしろ、あなたが私を解放して下さるにしろ、どっちに転んでも悪くはない」

「……」

「あなたは、死にたがっている筈だ」

 突然真田は真顔になった。

「この世界が、どんなに冷酷で無意味なものか。あなたには分かっている筈だ」

 ベッドに横たわり酸素マスクをつけた殺戮王と、白髪の悪魔とは、数秒間、無言で視線を交わしていた。

「それでは、戦場でお会いしましょう」

 真田は微笑んで、病室を出ていった。

 それは、何処か寂しげな笑みだった。

 

 

  八

 

 外は、強い風が吹いている。月は、スモッグに隠れて見えない。

 ただ、時だけが過ぎていく。

 三日前に、田島派の交渉人がやってきた。総理を殺してくれれば向井の口座に一億を振り込むと言う。向井は断った。確かにわしは総理を殺す積もりだ。でもそれはあんたらのためではない。糞汚い政治家共め。

 ベッドに横たわる向井の頭に、無数の思い出が走馬灯のように巡っていた。この頃はよく思い出す。別にもう、どうでも良いことなのに。

 小学校の頃は、大人しくて、よく苛められた。でもガキ大将が庇ってくれたっけ。そうだ、あの頃はガキ大将ってのがいたのだ。名前は何といったか……思い出せない。

 よく友達同士で、裏山へ行って遊んだものだ。チャンバラごっこをして。彼らは、今はどうなったのだろう。もうとっくに死んでいるさ。

 狭い家に八人家族だった。おふくろは忙しく家事に追われていた。親父はいつもしかめっ面で新聞を読んでいた。皆死んだ。皆。

 大学では学生紛争の真っ最中だった。自分達の力で社会を変えられると思っていた。ハハ、何も変わらない。全体主義から個人主義、そしてまた全体主義へ。社会は振動するだけで、何も変わらない。ただ悪くなっていくだけだ。前よりも悪く、どんどん悪く。システムの渦に、抵抗出来ずにただ呑み込まれていく。

「必ず君を幸せにしてみせる」

 それが、プロポーズの言葉だった。奈美恵は微笑んで、頷いた。平凡でも、幸福な人生を。

 五才の勝良が三十九度の熱を出して、休日に病院を探して駆けずり回った。二十回目の結婚記念日に、勝良がわしらに揃いのセーターを買ってくれた。

 孫が生まれた時は、もうこれでいつ死んでもいいと思ったのに。

 動かない筈のこの手が、人を殺す。自由に体が動くということは、なんと気持ちの良いことだろう。若い頃は気づかなかったのに。

 何故そんな目でわしを見る。奈美恵。

 わざとじゃない。お前だと分からなかったんだ。

「ど、どうして、あな、た……」

 ううう、やめろ、やめてくれ。

 奈美恵は、見ただろう。わしの、残忍な笑みを。白い仮面を使うようになったのは、それからだ。

 わしは、この手で自分の妻を撃ち殺したのだ。

 平凡な、それでも、幸福な、人生、を。全てが崩壊した。全てが。

「母さんには、戦場で、会わなかったのかい」

 勝良、何故そんな目をして。

「ああ。会わなかった」

 わしは、嘘をついた。

 今までわしの積み上げてきたものは、全て、無意味になった。

 何をやっても、何も変わらない。悪くなっていくだけだ。

 人生は、何のためにあるのか。何のために、人は生まれてきたのだろう。

 戦場の空は、美しく澄んで……。あの頃の空は……。

 老人は、皆、人殺しだ。

「どんな生き方をしたって、絶対誰かを犠牲にして生きてるのさ」

「この世界が、どんなに冷酷で無意味なものか」

 その夜、向井は、脳梗塞の発作を起こした。

 

 

  九

 

 二〇四一年六月。

 人口調整特別対策センターの入り口を、向井を乗せたベッドがくぐっていった。

 無数の管を繋がれて。

 ベッドの側部に取りつけられた機械は生命維持装置だった。

 南ともう一人の看護婦が手伝って、ベッドを押していった。

 向井は、もう長い間、昏睡状態が続いていた。

 南が向井の国民証を受付に渡してチェックを済ませた。

「三十四番のお席です」

 静寂の廊下を進み、意識を失った向井の肉体は死の戦場へと運ばれていく。

 鋼鉄の自動扉が開き、円柱形の巨大なコンピューターと、それを囲む寝椅子の列が姿を現した。

 多くの参加者が既に席について、審判の時を待っていた。

「あれあれ、殺戮王・向井邦彦も、今度こそお終いかもね」

 目ざとく向井を認め、船越小夜子が楽しそうに笑った。

「もう死んでるんじゃないのかい」

 南は船越を一瞥したきり、何も言わなかった。

 向井の席が見つかった。南が、向井を寝椅子に横たえた。向井の体は驚くほど軽かった。諸々のチューブや生命維持装置は繋いだままだ。

「また会えるといいわね」

 南は、自分に言い聞かせるように、小さく呟いた。

 彼女だけが、向井のことを理解していたのかも知れなかった。せん妄状態に陥った時の向井のうわ言を、彼女は聞いたことがあった。

 南達が去り、向井は独り、取り残された。近くの席の参加者達は恐る恐る、半ば期待を込めて、動かぬ殺戮王の様子を観察していた。彼がリタイアしてくれれば、自分達の生き残る可能性は格段に増すのだ。

 やがて、何処からかアナウンスの声が告げた。

「それでは、全員揃いましたので、始めたいと思います。係員の指示に従って、DBCアタッチメントを頭に装着して下さい」

 向井の頭に、係員が装置を被せた。

 

 

  十

 

 光。

 わしは何故ここにいるのだろう。向井は狭い装備室をぼんやりと見回しながら考えていた。

 夢か。もう何度もここに来て、ぞくぞくしながら武器を選んだから。

 いや、違う。

「五分以内に装備を選んで下さい。持ち点は千ポイントです」

 女性の声がした。

 これは、現実の仮想現実だ。向井は悟った。

 両足の感触も、全身に漲る力も本物だ。

 いつの間に、こんなに時が流れてしまったのか。わしの覚えているのは二月くらいまでだったが。

 でも、今はやるべきことをやるだけだ。

 向井はいつも通り、稲光の十四型ライフルと、予備の弾薬百発、そしてコンバットナイフを選んだ。

 そう、これだ。この感触だ。これでこそ、生きているという実感がする。

 コンバットナイフの横の、ククリナイフ。向井は、真田のことを思い出していた。

 そして、日暮道明総理のことも。

「あと三十秒でスタートします」

 声が言った。

 向井は白の仮面の下で、来るべき地獄の戦いに備え歯を剥き出した。

 

 

 スタートは荒野だった。頭の中の地図で自分の位置を確認し、向井は獲物を求め慎重に足を進めていった。地形は勿論昨年のものとは違っている。

 日暮道明。

 奴を、探さねばならない。

 若くなってはいても、あの整い過ぎた、蛇のようにも見える顔は、間違えようがない筈だ。

 奴を、殺してやる。

 全てに決着をつけるために。

 

 

 向井は日暮の姿を求め、最初から積極的に移動した。本来狙撃手である彼にとって、まだ敵の多い序盤から動き回るのは危険だったが、目的意識が優先した。二十年のキャリアが向井を守ってくれた。

 十七人を殺した時、向井は草原に真田の姿を見た。

 髪が黒くなっている以外は、現実の世界で会った時とあまり変わっていなかった。

 真田は七、八人のグループを相手に白兵戦をやっていた。彼は本当に二本のククリナイフしか持っていないようで、白兵戦しか出来ないのだ。相手のグループは、総理を殺すための田島派の兵士達だったのかも知れなかった。或いは向井を殺すための。

 グループの中に知った顔があった。村野聡。七十八才。平均殺害数で全国七位にランクされる戦士だ。一度だけ同じ戦場で戦ったことがあった。

 その村野の率いる戦闘グループが、たった一人の真田に翻弄されていた。

 いや、それは、翻弄ではなく、一方的な殺戮だった。

 真田の動きは踊っているようだった。彼らは、真田に魅入られたように、真田に首を差し出しているように見えた。重いククリナイフが振られ、彼らの首が宙を飛んだ。

 村野は何か叫んでいた。数百メートルの距離があったので向井には聞き取れなかったが、大して意味のある言葉には思えなかった。村野の顔は恐怖に歪み、涎を垂らしていた。無抵抗に殺されていくメンバーの内で、村野だけが発砲していた。だがそれは、怯えた素人の乱射に等しかった。

 真田の体が優雅に動き、村野の首が飛んだ。真田は傷一つ負っていないようだった。

 それは、異様な光景だった。仮想空間であっても、およそ正常な戦場であり得ることではなかった。

 悪夢を見ているような気分から脱し、向井は冷酷な心を取り戻した。片膝をつき、ライフルを肩づけする。チャンスは利用する。それだけだ。

 スコープの丸い視界に、両手に血塗れのククリナイフを握って仁王立ちする真田の姿が映った。

 真田はこっちを向いて微笑んでいた。血に飢えた獣に似た、凄い微笑だった。

 彼は向井の存在に気づいたのだ。

 既に敵は全滅していた。真田は伏せもせず、軽く上体を屈めて一直線に向井の方へ走り出した。戦場で狙撃の名手を相手に、狂ったとしか思えないような行動だった。

 だが引き金に指をかけたまま、向井の体は凍りついていた。

「向井いいいいいいい。向井いいいいいいいいい」

 狂喜する真田の声が聞こえていた。既に二人の距離は百メートルを切っていた。異常な真田の脚力だった。

 まだ向井の指は動かなかった。まるで真田という魔物の狂気に、心をがっちりと掴まれたように。真田は馬鹿ではない。向井は悟った。向井が真田の目を見てしまったことを、真田は知っているのだ。

 このまま首を刎ねてもらえ。向井の耳に、誰かの声が聞こえた。死ねば、楽になる。全ての苦しみから、解放されるのだ。

 それは、向井自身の声をしていた。

 両者の距離が三十メートルになった時、銃声が鳴った。

 真田がもんどり打って地面に倒れた。

 向井が引き金を引いたのだ。

 銃弾は真田の心臓を貫通した筈だった。

 真田の狂気の魔力に打ち勝ったのは、向井という殺戮者の持つ、真田と同レベルの狂気だったのだろう。

 向井は無表情に真田の頭部を狙った。念のためのとどめだ。

 命中した。

 

 

 月が沈みかけていた。

 向井は、四十八人を殺していた。

 日暮道明の姿は、まだ見えない。

 地図上には、未殺人者を示す光点は一つも残っていなかった。

 もしかすると、もう死んでしまったのか。

 いや。

 向井は、ガード達がよく使う手を知っている。

 ガードが複数の場合、素人を一人捕獲して、抵抗出来ないようにして運び、依頼人に撃ち殺させるのだ。ガード達は交替で出稼ぎに行き、一人のノルマを果たして帰ってくる。だから依頼人は、安全な場所から動く必要はないのだ。

 もう、あまり時間が残っていない。

 地図上の殆どのエリアを歩いた。かなりの危険を冒して。

 残っているうちで怪しいのは、隅の森林地帯だけだ。

 今のところ、まだ生命力は百のままだ。

 日暮を殺せる機会は、今回が最初で最後だろう。

 だから、やらねばならない。

 何のために。

 向井は自問する。

 本当は、何のために。

 答えはない。

 向井は森へ入っていた。

 落ち葉の敷き詰められた地面。乗せた右足の下に、異様な感触があった。

 総毛立つ思いで向井は足を引いた。

 遅かった。ガチャリという金属的な音がして、向井の右足首は鋼の顎に挟み込まれていた。激痛が走った。ギザギザになった刃が肉を破り骨にまで減り込んでいた。仮想の骨だが痛みは本物だった。

 何だ、これは。向井は両手で罠を外そうと試みたが、顎は凄い力で食らいついていてびくともしなかった。

「トラバサミだよ、向井」

 遠くから陰気な声が聞こえてきた。秋山の声だ。

 気配が近づいてくる。二人。向井は罠から手を離してライフルを構えた。

「お前が殺気に反応するのは有名だ。だから俺は罠を仕掛けることを考えた。罠には殺気がないからな。地雷の許可は下りなかったが、そんな原始的な罠でも充分役に立つだろ、ええ向井。お前の武器倉庫にもあった筈だ。点検してみなかったのか」

 木々の間を戦闘服姿が掠めたが、向井が発砲しようとした時には見えなくなっていた。

「ここら一帯に百個、トラバサミを仕掛けた。一個につき五十ポイント取られるので、五人のガードを丸腰にする必要があった」

「彼らはあたし達のノルマになってくれたよ、はは。騙したのは悪かったけど、彼らの家族の口座にはちゃんと慰謝料が振り込まれてるさ」

 近くで女の声が言った。船越だ。

 二つの気配は向井から数十メートルのところに立つ大木の陰で止まった。

「精々あがいて見せなよ向井」

 船越が嘲笑った。

 向井の右足は完全に固定され、その場から動くことが出来なかった。向井は地面に仰向けになった。出来るだけ的を小さくするためだ。

 木の陰から秋山と船越が顔を出してフルオートで乱射した。若い頃はモデルだったという船越は、美しい顔を残忍に歪めていた。向井の足元の地面から土埃が舞った。向井も応戦したが、ライフルは単発の上、二人はすぐに陰に隠れて狙いを定めることが出来なかった。二人とも向井の射撃の正確さを知っているのだ。

 二人はもう顔を出さなかった。位置の分かっている向井の方へ向けて、銃だけ出して乱射を繰り返した。

 応射する向井の脇腹と左の太股、右の肩から血が流れていた。向井はただ待っていた。彼は船越の持っている武器を知っていた。

「チィッ」

 木の陰で秋山が舌打ちした。

 陰から出した、銃を持つ手を向井に撃たれたのだ。

 右掌がずたずたになり、指がちぎれかけていた。

「こっちの方が早いよ」

 船越が胸に吊るしてあった手榴弾を手に取った。

 安全ピンを抜き、一呼吸おいて木の陰から向井へ投げつけようとした。

 その瞬間を向井は逃さなかった。

 十四型ライフルの銃弾は、船越の握った手榴弾を、彼女の手から離れる前に撃ち抜いていた。向井の神業的な技量だった。

 手榴弾が爆発した。悲鳴が上がった。

 それきり、攻撃は止んだ。

「畜生……」

 船越の悔しげな声が聞こえた。

「目が……目が見えない。助けてくれ」

 秋山が呻いた。

 向井は、コンバットナイフを抜き出した。

 その鋭い刃を、自分の右足首に振り下ろした。

 何度も何度も繰り返して、向井は自分の右足首を切断した。仮面の下には脂汗が滲んでいたが、彼は無言だった。脳裏の生命力の数字は五十二を示していた。

 向井はライフルを杖代わりにして、よろめきながら歩いた。

 大木の陰に、血と肉片が散らばっていた。

 船越は、殆ど原形を留めていなかった。胸につけていた残りの手榴弾も誘爆を起こしたのだろう。秋山は、顔面を血に染め、片手と片足を失っていた。

「向井、頼む、見逃してくれ」

 近づく向井の気配を感じて秋山が叫んだ。

「見苦しいよ秋山、死ぬ時くらい潔くしなよ」

 とっくに死んでいる船越の肉片が言った。

「頼む、助けてくれ。一千万払う。いや、俺の全財産を払う。助けてくれ。お、俺は死にたくない。死ぬのが恐いんだ」

 秋山はすがりつくように、見えない向井へと這い出した。

 向井は無言でライフルを構え、引き金を引いた。

 そして再び歩き出した。罠に注意しながら、慎重に。

「死にたくない。死にたくない」

 死人となった秋山の、虚ろな声が響いた。

「地獄で待ってるよ、向井……」

 船越の呪いの言葉が向井の背に浴びせられた。

 

 

 森の中に小さな草地があった。

 総理大臣、日暮道明は、何も持たずに堂々と立っていた。

 総理の横に立っていた二人のガードは、微かな物音に銃を構えた時には、頭を撃ち抜かれて死んでいた。

 それを見ても、総理は何の動揺も示さなかった。

 やがて、片足の短い男がライフルを構えたまま草地に現れた。

「やっと会えたな。日暮道明」

 向井邦彦は厳かに言った。白い仮面はあらゆる表情を隠していた。

「君が向井君か。噂は聞いているよ」

 日暮は冷たく言った。いつも何かを怒っているような顔は、若くなっていても健在だった。この男は昔からこんな表情をしていたのだろうか。

 丸腰の総理大臣は、殺意ある熟練の兵士を前にしてもその威厳を保っていた。

「何故武器を持っていないんだ」

 右足首の切断面で直接地面を踏んで、向井は総理の前に立った。痛みなどはもうどうでも良かった。

「醜く足掻いてまで生き延びようとは思わない。世界にそれだけの価値はない。ガード達が敗れればそれまでのことだ」

 日暮は答えた。

「……」

「君の人生の目標は何かね。少なくとも今は、私を殺すことのようだな。……私の人生の目標は、安穏と偽善に満ち溢れた社会に罪悪感の鉄槌を下すことだった」

「どういうことだ」

「人間の本質は悪である。肉を得るために牛や鶏を養殖して殺し、科学の進歩のためだと言ってどんな残酷な動物実験だってやっている。僅かな利益のために人を殺し、自分に関わりがないからといって見て見ぬふりをする。今では臓器移植用に人体の培養までやっている始末だ。その恐るべき、想像力と思いやりの欠如。自分達を善良な市民だと思っている奴らのなんと多いことか。奴らは平気な顔で軍需に沸き、肉を食らい、進歩した医療を享受している。生きているということは、絶対に何かを犠牲にしているということなのだ。分かるかね」

 日暮はいつしか演説口調になっていた。

「だが誰もが自分は善良だと勘違いし、必要なことを実行することが出来なかった。私がいなければ、日本はどうなっていたと思うのかね。死ねない老人が増え続け、医療費は高騰するばかり。とっくに財政は破綻して日本は滅んでいただろう。誰かが決断すべきだったのだよ。罪悪感を背負いたがらず、自ら手を下すことの出来ない国民に代わって。ただ、それだけなら強制的な安楽死を導入するだけで良かったが、私は老人同士を殺し合わせることにした。更に、現実にも戦争を起こして人殺しを奨励した。自分達は生きるために他の者を犠牲にしているのだということを悟らせるために。少しでも、彼らに罪悪感を植えつけるために。本来背負うべき、正当な罪悪感のほんの一部を」

 向井は、この仮想の戦闘のグロテスクな映像や、死人にも喋らせるシステムに、初めて納得がいった。

「史上最悪の首相。二十一世紀の妖怪。こんな批判を浴びながら、何故私が総理を続けていられると思うかね。奴らは、皆の非難を一身に受けて必要なことをやってくれるような存在が欲しかったのだよ。自分達は罪悪感を感じずに済むからな。……そう、結局は失敗だったのかも知れない。社会は、老人達の罪悪感を分け持とうとはせずに、彼らを人殺しとして排除し始めた。戦争だって他人事だ。奴らは、自分達の罪悪感を放棄してしまった。だがいずれ奴らも年を取り、この生き残り戦争に参加することになる。ざまあ見ろだ、ハハッ」

 日暮は、総理らしくない言葉を使い、顔を歪めて笑った。

「私は、人間が憎くてたまらない。この狡くて汚い人間が、憎くて憎くてたまらないのだ」

 総理の演説を聞く向井の胸に、暗い疼きが生じていた。それはどういう感情であるのか、自分でもよく分からなかった。

「向井君、君は今まで何人殺した。五百人か。それとも千人かね」

「……。お前がわしに人殺しをさせたんだ」

「いや、それは違うな」

 日暮の目は、冷たく、厳しかった。

「殺したのは君だ。君自身の意志なのだ」

 向井はもう答えなかった。無言でライフルの先を総理の心臓に合わせた。

「そうそう一つ、言い忘れていたことがある」

 日暮が言った。

「君が知らないこと、或いは、忘れたふりをしていたことだ」

「……」

「私は以前の記録を調べた。プレイヤーの行動はその思考や感情も含め、逐一データとして残っているのだよ」

「それがどうした」

「君は自分の妻を殺した」

 日暮は冷酷に言った。

「だが君の妻も、銃を向けて君を殺そうとしていたのだ。その殺気に反応して君は反射的に撃っただけだ。君は自分が血に狂って妻を殺してしまったと思っているようだが、血に狂っていたのは彼女の方だったのだよ。君はそれを忘れようとしていたのだ」

 向井の心に、重い痛みが走った。

 その認識は、向井の罪悪感を少しも軽くはしなかった。より絶望的な気分にさせただけだった。

 向井はライフルを構え直した。

 日暮は勝ち誇ったように言った。

「さあ私を殺すがいい。その血に塗れた手で私を地獄へ送るがいい。人間は皆地獄へ行くのだ」

 向井は引き金を引いた。

 日暮総理の胸が弾け、血が飛び散った。総理はよろめいて、地面に前のめりに倒れていった。

 動かなくなった総理の死体が、誰にともなく呟いた。

「何故……何故、両親は、学校は、善を教えるのだろう。何故テレビでは、正義のヒーローが活躍するのだろう。『自分にとって嫌なことを、他人にやってはいけません』なんて、到底不可能なことを。……最初に善を教えられなければ、こんなに苦しまずに済んだのに……」

 それきり、日暮は何も言わなくなった。

 

 

 森を出て、月が地平線の彼方に沈むのを、向井はずっと見つめていた。

 何もかもが、ただ虚しく感じられた。

 後は、『東』の方角から、太陽が昇ってくるのを待つだけだ。あの、若い頃に見た朝陽に似た、美しい……。向井は振り向いた。

 目の前に、真田の血みどろの笑顔があった。

 咄嗟に後ろに跳んだが、遅かった。

 向井は首筋に鋭い打撃を食らっていた。芯まで透るような一撃だった。生命力が二まで一気に減った。向井は自分の首からほとばしる血飛沫を見た。だが向井は同時に発砲していた。弾丸は真田の胴体を貫通した。ライフルが真田のククリナイフに引っ掛けられて向井の手から離れた。

 向井は地面に仰向けに倒れた。

 真田は、ククリナイフを持った両手を熊のように振り上げたまま立っていた。真田の胴体には大きく二つの穴が開いていたし、顔の左上は消失して脳が見えていた。だが真田は生きて立っていた。

「目的を果たせて良かったね。俺はずっと見守っていたよ」

 真田が笑った。彼は自分のことを、俺、と呼んだ。

「最初に言っておいた筈だ。俺は二百発以上の弾丸を食らったって」

 仮想空間上の肉体には、ある程度、プレイヤーの肉体の資質が反映される。そのルールが向井の頭を掠めた。真田は、正真正銘の、怪物だった。

 愛用のライフルは向井から一メートル以上離れた地面に落ちていた。向井はコンバットナイフを抜いた。

 真田は言った。

「二十四才の時、俺と妻子を乗せた自動車がダンプカーと正面衝突した。ダンプカー側の飲酒運転が原因だった。俺の体はぐちゃぐちゃになったが完全に再生した。妻と二才の息子は即死してただの肉の塊になった。その時に、俺は世界の本質を知ったんだ」

 向井はナイフを投げた。たやすく真田がククリで叩き落とした。向井はその隙に自分のライフルに飛びついた。残った力を振り絞る、必死の跳躍だった。真田が魔性の速さで向井に飛びかかった。

 銃声。

 真田の首がちぎれ飛んでいた。

 向井の額にククリの重い刃が突き刺さっていた。

 脳裏に浮かぶ生命力の数字が、零になったことを向井は知った。

 真田の首のない胴体が、うつ伏せに倒れた。彼の体もさすがに動かなかった。

「相討ちか。わしの人生も、ここで終わりだ。長かった」

 死体となって横たわり、向井は呟いた。恨みはなかった。ただ虚無だけが彼の心を占めていた。

「世界は……ただ何処までも冷酷で……無意味だ……私は……この世界には……生まれてきたくなかった……」

 真田の声は、泣いているようにも聞こえた。彼の生首がどんな表情をしているのか、向井には見えなかった。

「人間は、何のために生まれてくるのだろうな」

 向井は言った。向井には空だけが見えていた。地平線の彼方から……。

「なあ、あんたは若い頃、何になりたかった。パイロットか、歌手か、それとも総理大臣とかな、ハハ……。おい、死んだのか。おい、真田……」

 返事はなかった。

 太陽が、顔を見せ始めていた。

「朝陽が、綺麗だ。若い頃の空は、こんなふうに澄んでいたよな。なあ、真田……」

 全てのことが自分の手で可能になると信じていたあの頃……。

 望む全てのものが手に入ると信じていたあの頃……。

 あの頃の自分に、申し訳ないと謝らなければならない。

 でも、わしは頑張ったんだよ。向井は心で呟いた。

 何も手に入らなかったけど。全てを失ってしまったけど。

 わしは、ずっと頑張ってきたんだよ。

 もう。

 奈美恵のことも。勝良のことも。

 この、血塗られた手のことも。

 全ては……。

「あなたは死亡しました」

 頭の中に、コンピューターの無感情な声が響いた。

 向井の意識は、暗い闇の中へ落ちていった。二度と戻らぬ、暗い闇の中へ……。

 

 

  十一

 

 ゲームが終了し、入室を許された南は冷たくなった向井を眺めていた。

「とうとう、戻ってこれなかったわね」

 南は小さく呟いた。

 百脚の寝椅子のうち、動き出す者は誰もいなかった。

 係員が、興奮気味に言った。

「今日は凄かったですよ。なにしろ、百人参加して、誰一人生き残らなかったんですからね。こんなことは初めてですよ」

 アタッチメントを外した向井の顔は、意外に安らかだった。

 

 

  十二

 

 その夜、向井勝良の家に電話がかかってきた。

「親父からじゃないだろうな。いつもこの時期にはかかってくるんだよな。いい加減、早く死ねってんだよ、あの人殺しが」

 音声のみにしてスイッチを入れた。

「向井勝良様でいらっしゃいますか」

 声は、女性のものだった。

「はい、そうですが」

「人口調整特別対策センターの者ですが。本日、あなたのお父様の向井邦彦様が、生存資格更新試験において失格され、残念ながらお亡くなりになられました」

「あ、そうなんですか」

 へえ、あの怪物がねえ……。

 勝良は、口元が緩むのを感じつつ、急に恥ずかしくなって引き締めた。こちらの映像を切っておいて良かった。

「ご遺体の方は、そちら様でお引き取りなさいますか。それともご迷惑なら、こちらで処理致しますが」

「あ、ああ……。そうして下さい」

 勝良は電話を切った。

「あなた、誰から」

 妻の問いに、

「ああ、親父が死んだってさ」

 何の感情も込めずに答え、勝良は自分の日常に戻った。今日中に片付けなければならない仕事がまだ残っているのだ。

 

 

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