ブラディ・ハイウェイ〜愛の条件反射〜

 

  一

 

「行ってしまうの」

 女が問う。

「ふむ、あなたもお腹が空きましたか。奇遇ですねえ、私もなんですよ」

 男が答える。

「あなたは勝手な人。フラリと現れて、嵐のように何もかもぶち壊しにして。私の心を奪っておきながら、独りで去っていくのね」

 女は美しかった。ローズ・ブロンドの長い髪に、染み一つない白い肌。青い瞳が熱を帯びた視線を男の背に投げていた。

「近くに食べ物屋さんはありませんかね。ただ、私はこの辺の地理に疎くて、お金も持ってないんです。あなたの奢り、なんてのはいかがでしょうか」

 男は長身で、端正な顔立ちをしていた。ボサボサの黒髪に、白さを通り越して死人のような肌。薄い唇は何か面白がっているような淡い微笑を浮かべている。

「でも、私のことを忘れないで。きっと、いつかまた会えるわ。そんな予感がするの」

 女は広げた自分の左手をじっと見つめる。掌の中心から黒い靄が滲み出してくる。女が軽く息を吹きかけると、靄は少しずつ大きくなっていく。

「いやいや、私には食人趣味はないんですよ。ここの皆さんは人間の丸焼きがお好きみたいですが。やっぱり食文化の違いというのは大変なものですなあ。ご飯は家に帰ってからにします。ここまで泳いで流れ着いたんですから、きっと泳いで帰れ……」

 喋りながら振り向いた男に女が接吻した。女の左手が男の後頭部に触れ、離した時には黒い靄は消えていた。男の頭に染み込んでしまったように。

 男はちょっと驚いたように目を瞬かせた。女が言った。

「また私の身に危険が迫ったら、助けに駆けつけてね。いえ、私には分かってるのよ、愛しい人。あなたはきっといつでも、何処からでも駆けつけてきてくれるわ」

「なるほど、バーバラさんとおっしゃるんですか。良いお名前ですな。では、お腹が大変なのでこれで失礼しますね」

 男は血塗れの丸太を抱えたまま歩き出した。本人もまた血塗れで、腹が裂けて腸がゾロリと垂れ下がっている。

 荒野にはグチャグチャに潰れた死体が散らばっていた。男は血みどろの荒野を抜け、断崖から暗い海に飛び込んだ。浮かぶ丸太にしがみついてバタ足で泳ぎ出す。派手な飛沫が波間を遠ざかっていくのを、女は最後まで見守っていた。

 女は英語で喋っていたのだが、男の方は日本語だった。

 

 

  二

 

 アメリカ西海岸、サンフランシスコ。聖フランシスコにちなんで名づけられたこの都市を、今はどす黒い影が覆っていた。

 夕方、仕事の終わったサラリーマン達はそそくさと家路につき、公園で遊んでいた少年達も走って帰り始める。彼らの顔にあるのは、怯え、だった。

 午後六時を過ぎる頃には、街に殆ど人影が認められなくなった。住民は窓を閉め、分厚いカーテンで内部を隠す。鉄格子の填まっている窓も多かった。スーパーマーケットから飛び出した女が買い物袋を車に積み、大急ぎで発進する。店員は腕時計を確認しながら気忙しげに入り口のシャッターを下ろす。

 午後七時、陽の落ちた都市を街灯が照らす。明かりの間隔が不規則なのは、街灯の多くが割られ、破壊されているためだ。

 午後七時二十五分、サンフランシスコの北二キロに位置するアルカトラズ島から、輝く船が動き出した。ずっと観察していた灯台守はすぐさまいつものボタンを押す。低く唸る警告のサイレンは市全体に響き渡り、市民達を震え上がらせた。

 船は大型フェリーだった。ゴテゴテに飾りつけたイルミネーションが明滅し、夜の海を染める。フェリーから流れる大音量のハードロックがサイレンを掻き消した。時折リズムに乗せて銃声が続く。更には甲板に据えつけられた大砲の轟音が空を割り、市内に建つビルの壁をぶち破った。同じように壁に穴の開いた家屋は幾つもあった。

 甲板に立つ男達は酒瓶をラッパ飲みしながら笑っていた。光沢のある黒い革ジャンに革パンという服装で、手錠や鞭を腰に下げている者もいた。そして、これ見よがしにベルトに取りつけられた拳銃のホルスターと、肩掛けされたショットガンにライフル。彼らの一部は曲に合わせ、空に向かって銃をぶっ放している。

 電飾フェリーは港に到着した。陸への斜路が渡されると、途端にエンジンの爆音を鳴らして次々とバイクが飛び出していく。派手な大型バイクが多く、乗り手のファッションはやはり黒で統一されていた。二十代の若者がメインだが、たまに混じる三、四十代の男達は妙に鋭い目つきをしていた。

 バイクに続いて軍用のごついジープが躍り出る。後部の荷台に立つ大きな黒い旗は、イルミネーションを縫いつけて文字を作ってあった。『Hell Jailers』……地獄の看守という意味だが、おそらくはこの集団の名称なのだろう。

 フェリーから滑り出たバイクや黒塗り車両は千台近かった。彼らは酒を飲みながら、或いは適当に銃を乱射しながら市内へ繰り出していく。人気のないストリートを我が物顔で進む。キャデラックからは大音量の音楽が流れていた。

 彼らの一部は閉店したスーパーマーケットを取り囲み、大型のハンマーや斧でシャッターをぶち開けた。警報のベルが鳴るが近所の住民は顔を出さないし、パトカーがやってくる様子もない。男達は酒や食料品を好き放題に運び出し、トラックに積んでいく。奥の部屋にいた店長が裏口から逃げだしたところを男達は遊び半分に撃ち始めた。誰かのライフルが命中して店長の胸に風穴が開く。転がる死体に見向きもせず、男達は店を空にしていった。

 別のグループは適当に目をつけた家屋に乗り込んでいった。ショットガンで玄関を破り、悲鳴を上げる住民を殴り倒す。若い女がいれば攫い、そうでなければ住民を殴り殺したり撃ち殺したり家に放火したりした。

 彼らはハードロックとクラクションを鳴らしながら警察署の周りを何度も回ってみせた。わざわざ中指を立てて走る者もいる。警官達は苦虫を噛み潰したような顔で見守るが、誰も出ていって彼らを逮捕しようとはしなかった。

 彼らは騒音を撒き散らしながら市内を練り進む。先導していたハーレーが酒場の前で停止した。本来は今からが稼ぎ時であろうが、店のネオンサインは電気が消え、暗い静寂に埋もれている。ただし、駐車場には幾つか車があった。

「多分、開いてますぜ」

 ハーレーの男がヘッドセットのマイクに喋って誰かに伝える。後続のバイクやジープも連なって停車していった。

 列の中央に黒いリムジンがあった。ボンネットにイルミネーションで『Hell Jailers』の文字が、リアガラスには『Fuck』の文字がリズミカルに明滅していた。

 側面のドアが開き、大柄な黒人が降りた。身長二メートル、体型は太い寸胴だが肥満ではなく全て筋肉だ。彼の上着は革ベストで、剥き出しの腕は古い銃創や刃物傷に覆われていた。色の薄いサングラスの下、左の頬にも抉れたような傷跡が横に走っている。

 黒人は右腰に拳銃を、左腰に大鉈を下げていた。自動小銃を肩に掛けながら周囲を見回した末、車内に軽く合図をする。

 続いて降りたのは二十代前半の男だった。他のメンバーと同じ黒い革ジャン、革パンに加え、奇妙な帽子をかぶっていた。

 後頭部を削ぎ落とした、人間の髑髏だった。顎関節は改造して金属軸を通し、自由に動くようになっている。汚れ具合や細部のヒビからおそらく本物であろうそれを、男は斜めにかぶっていた。

 男はストレートの金髪を肩まで伸ばしていた。白目は充血し、目の下に不健康な隈が出来ている。男は痩せた舌をペロリと出して、自分の唇を舐めた。

 いち早く店内を覗いた男が「オーケー」と腕を回す。男達はバイクやジープから降りて向かい合わせに二つの列を作り、リムジンから店の入り口まで道を繋いだ。

 黒人の巨漢と髑髏帽子の若者は悠然と列の間を歩く。巨漢が入り口の扉を開け、髑髏帽子が先に入った。それから巨漢と他のメンバーがゾロゾロと続く。

 バー『ノートン・ザ・ファースト』内部は控えめにBGMが流れ、二十人ほどの男女が飲んでいた。千人近い来客に彼らは動揺するが、席を立とうとしたカップルはすぐに取り押さえられた。男は袋叩きにされ、女は服を剥かれる。店の用心棒は何も出来ず俯くだけだ。

 リーダー格の二人はカウンターについた。髑髏帽子が「バーボンだ」と告げる。巨漢の方はペプシ・コーラを希望した。初老のマスターは震えながら用意する。

「いい店じゃねえか。俺達に見つからねえようにネオンを消してるなんざ、配慮も行き届いてる」

 髑髏帽子の皮肉に、マスターはプルプルと腕を震わせながら二つのグラスを置いた。

「お代は結構ですので」

「ほう、お代は結構と来たか。なあ、バグナム、お代は結構だとよ」

 ニヤつきながら髑髏帽子は隣の相棒に言う。バグナムと呼ばれた巨漢は無表情にコーラに口をつけるだけだ。慣れているらしく、髑髏帽子は一人で話を続けた。

「爺さん、お前の命を助けてやることでお代の代わりにしようと思ってたんだがな。いやあ、残念だぜ。お代が要らないとはなあ」

「い、いや、ではお代を頂きます」

 マスターが泣きそうな顔で言うと、髑髏帽子はサディスティックに口元を歪めた。

「ほーう、俺様から金を取るのか。ヘル・ジェイラーズのヘッド、このマクシマム・ドラッガー様からなあ」

「ヒイィ、お許し下さい」

 マスターは頭を抱えてしゃがみ込んでしまった。

「ヒャハハッ」

 髑髏帽子のマクシマム・ドラッガーは高い笑い声を上げた。他のメンバーはカウンターを乗り越えて勝手に好きな酒を持ち出している。一部は奥の厨房や倉庫にまで押しかけていた。

「てめえっ、このアマッ」

 弛緩した喧騒を破る本気の怒鳴り声に、バーボンを飲みながらマクシマムは振り返る。

 隅の方で、メンバーの一人が頬を押さえて女を睨みつけていた。どうやら女に平手打ちされたらしい。

 女は小さなテーブルに一人でついていた。並べられたカードはトランプでなくタロットだ。何かを占っていたのだろうか。

 ヘル・ジェイラーズの男達は一斉に銃を抜いた。数百の銃口が向けられても女は平然と座ったままだ。

「おい、待ちな」

 マクシマムが片手を上げると男達はすぐに銃口を下げた。

「随分と勇敢なお嬢さんのようだが、死ぬのが怖くないのかい」

 言ってからマクシマムは嘆息していた。女の美貌に気づいたためだ。

 女は二十才前後であろう。黒いワンピースの胸元は大きく開いて豊かな隆起を見せつけ、ローズ・ブロンドの長い髪は先端をカールさせている。切り揃えた前髪の下からややきつい切れ長の目が覗く。化粧は薄めで、肌は信じられないくらいに白くなめらかだ。少し厚めの唇は妖艶な赤い紅で光っていたが、下品さは感じさせなかった。世の中に美人女優やスーパーモデルは数多いが、バーの隅でタロットを広げる女の陰性の美は、遥かに抜きん出ていた。

「こいつは驚いたな。こんな安い酒場に絶世の美女が隠れてるとは知らなかった」

 マクシマムはバーボンを一気に飲み干して女のテーブルに歩み寄った。

「その絶世の美女に、あなたは釣り合うつもりなのかしら」

 女は赤い唇で薄く冷笑を浮かべた。その落ち着いた声音はゾクリとする色気を持っていた。

 マクシマムの眉がヒクリ、と動くが、怒り出したりはしない。

「ヘル・ジェイラーズを知らないのかい、お嬢さん。サンフランシスコで俺達に逆らえる奴はいないんだぜ」

 マクシマムは女の向かいの椅子に腰を下ろし、ブーツを履いた両足をテーブルの上に投げ出した。女は広げていたタロットを手早く回収する。

「知らないわ。この都市には今日着いたばかりだから」

「そうかい。なら、このナタリーを紹介してやろう」

 マクシマムは帽子にしていた髑髏を外し、テーブルに置いた。ニヤニヤしながら下顎を掴み、動かしてみせる。

「ハーイ、私ナタリー。トッテモキュートナ女優ノ卵ダッタノ」

 マクシマムは裏声で髑髏を代弁し、男達はゲラゲラと笑った。

「マクシマム様ニ見初メラレテ、アルカトラズデ三ヶ月、性奴隷トシテ飼ワレテタノヨ。私ガ馬鹿ダッタノ。逃ゲ出ソウトスルナンテ。大人シクマクシマム様ニオ仕エシテイレバ、贅沢三昧デ幸セニ生キテイラレタノニ」

 下手な腹話術を終え、マクシマムは髑髏を再びかぶった。

「この帽子は役に立っているよ。これをかぶるようになってからは他の奴隷が逃げないようになった。死んでから役に立つなんて、ナタリーも奇特な女だ」

「それで。私を何人目かの性奴隷に加えたい訳ね」

 女は冷静だった。青い瞳は半眼になってマクシマムを見据えている。

「俺専用のは二十六人目かな。だが筆頭の性奴隷にしてやってもいいぜ。今抱えてるストックの中ではあんたが一番だからな」

 マクシマムのそれは提案ではなかった。相手の意志など彼の決定には何の関係もないのだ。

「……。思い出したわ。ヘル・ジェイラーズ。サンフランシスコのモーターサイクル・ギャングね」

 女は言った。

「リーダーが大統領の一人息子で、随分と権力を笠に着て我が侭放題やっているとか。でも、おかしいわね。確かリーダーの名前はトム・ドラッガーと……」

 マクシマムの目の色が変わった。革ジャンの内側から大型リボルバーを抜いて女の顔面にポイントする。

「トムじゃねえ。マクシマムだ。マクシマム・ドラッガー。トムなんて平凡でかっこ悪い名前は捨てたんだ。もう一度トムなんてほざきやがったら、その可愛らしいツラをグシャグシャの肉塊に変えてやるからな」

 マクシマムの握るリボルバーはスミス&ウェッソン社の誇る『世界最強の拳銃』M500だった。彼の右腕が震えているのは怒りのためか、それとも全長三十八センチ、重量二キロを超える大型拳銃に筋肉が耐えられないのか。

 タブーに触れられたリーダーの激昂具合に、男達も身を強張らせていた。黒人の巨漢・バグナムが歩み寄り、マクシマムの肩に触れた。

「やめとけトム。また自分の手に負えん銃を……」

 マクシマムの顔がグワリと歪んだ。振り向きざまに引き金が引かれ、M500は物凄い反動に跳ね上がる。銃口からは瞬間的に火炎放射器のような火花が伸びた。

 バグナムは両前腕を顔の前に立ててシールドを作っていた。左前腕の皮膚に穴が開き、血を滲ませている。

 常人の太股ほどもある腕が、力を入れて更に太くなった。傷口から金属片が押し出され、床に落ちる。本来なら腕がちぎれ飛ぶような.50口径のマグナム弾を、この巨漢は筋肉だけで受けきったのだった。

「今度はちゃんと当たったな」

 バグナムが言った。

 マクシマムは舌打ちして拳銃を懐に戻した。右手を振っているのは発射の衝撃で痺れたのだろう。

「私には、恋人がいたの」

 緊迫したやり取りなど他人事だったように、タロットカードをシャッフルしながら女が言った。

「それがどうした」

 マクシマムが聞き返す。

「約束したの。私がピンチになったら何処からでも助けに駆けつけてくれるって」

「へえ。妄想じゃなければいい話だな。妄想じゃなければだが」

「本当よ。だから私は今とても、ワクワクしてるのよ」

 女の唇は不吉な笑みを形作っていたが、青い瞳は夢見る乙女のように輝いていた。

「そいつは楽しみだ。もし本当にやってきたら、穴だらけになった元彼氏の死体を飾ってやるよ」

「一枚引いて」

 女はずらし広げたカードをマクシマムに差し出した。『愚者』から始まり『世界』で完結する二十二枚の大アルカナが背中を向けている。

 仲間達の見守る中、マクシマムはニヤつきながら一枚を引いた。

 モノクロームの陰鬱な絵柄で、大きな鎌を持つ骸骨が描かれていた。『XIII DEATH』の文字にマクシマムは眉をひそめる。

「おめでとう、それがあなたの運命よ。私の名はエメリア。人には『コールドアイ』と呼ばれているわ」

 エメリア・ザ・コールドアイは冷たく微笑んだ。

 マクシマムは不機嫌な顔でカードを睨んでいたが、やがてニッと昏い笑みを浮かべ、仲間達に命じた。

「攫え。持ち帰りだ」

 男達が女の腕を掴んだ太平洋標準時にして午後九時十三分十六秒、『それ』が発動した。

 

 

  三

 

 同じ頃、アメリカ東海岸のニューヨークでは、一人の男が気色悪い笑い声を上げていた。

「ムヒョ、ヒョヒヒヒヒ、ニョハハハ、ヒョネッ、ミョメメメメ」

「クロちゃーん。働いてよー」

 若い女の呆れたような叱責が飛ぶ。男はアメコミ雑誌から顔を上げ、弁明を試みた。

「いやあ、それがですねえ優紀子さん、英語で笑うというのはなかなか難しいので練習していたところなんですよ。ですから私は別に、アメリカンなコミックを読んで笑っていた訳ではないんです」

「それはどっちでもいいから、少しは手伝ってよ。遊んでばかりで何もしてないじゃん。隣の区まで配達頼んだらメキシコまで行っちゃうし。クロちゃん、このままだと私のヒモになっちゃうよ」

 それは心外だ、と言いたげに男の両眉が上がった。

「いけませんな。私は『くらに』ですからクラちゃんなんです。つまり、優紀子さんのヒモになりそうなクロちゃんという男は私ではないんですよ」

 女は一旦ヘラを置き、腰に両手を当てて溜め息をついた。

「いい加減、そのボケもやめたら。一日何十回やれば気が済むの」

「いえ、今日はまだ三回目ですよ」

 男は澄ましたものだ。

 二人が経営するお好み焼き屋『バーン・イット・アズ・ユー・ライク』はマンハッタンの一角にあった。ヘルズ・キッチンと呼ばれる治安の悪い区域だったが、今は治安どころか殆ど人の気配がない死の街と化している。隣のスターバックスは焼け落ちたまま放置され、向かいのアパート前には瓦礫が山と積まれていた。お好み焼き屋の入ったビルも、二階より上は窓ガラスが割れ壁も亀裂が走り廃墟同然だった。なのに深夜の店内には数人の客がいて、一人などは自分で鉄板で焼いている。

 クロちゃんと呼ばれた男は二十代後半から三十代前半に見えた。身長はおそらく百九十センチを超えているだろう。筋肉隆々ではないが骨格はがっしりしている。それなりに手入れされた黒髪に、血の気のない蝋のような肌。黒い瞳は眠たげ或いは気だるげに見え、薄い唇は常に何かを面白がっているような淡い微笑を浮かべていた。よれよれのブラックスーツの上に『Burn it as you like!』の店名が入ったエプロンを着けているのだが、どちらも銃創らしき穴があちこちに開いて新旧の血痕が染みついていた。

 優紀子と呼ばれた女は十八、九であろうか。スレンダーな体型にエプロンを着け、ショートカットの髪をタオルで包んでいる。ちなみにエプロンは血塗れでなく清潔に保たれていた。ほぼスッピンだが、すっきりとした目鼻立ちの清楚な美貌は殆どの客に好印象を与えるだろう。彼女はふと諦めの混じった苦笑を浮かべ、持ち帰りの客のためのデラックス焼き作成作業に戻る。そんなちょっとした表情や仕草にあどけなさが垣間見えた。

「それで優紀子さん、そろそろお腹が空いてきたのですが、私の分も作って頂けませんか」

 男が自分の腹を撫でながら言う。

「もうちょっと待っててよ。今日の夕食は店閉めてから一緒に食べるって言ったじゃん。クロちゃん、今のうちに店の前の掃除でもしてくれないかな。朝から行き倒れの死体があったのに、警察呼んでもまだ来てくれないし」

「そうですなあ。お店の前に人間の死体なんかあったら、食材に使われてるんじゃないかってお客さんも勘違いしてしまいますよね。しかし明日から港の方で『永遠のジェイソン展』が開催されるんですよ。ですから残念ながら、下手に死体を片づける訳にはいかないんです」

「またそんな訳の分かんないこと言って誤魔化す……」

「ぬおっ、おりょりょりょっ」

 いきなり男が頭を押さえて叫び出し、女も目を瞬かせた。

「え、何。そんなに掃除が嫌なの」

「電波が。電波が届きましたぞ。バーバラさんが危ない。助けなければっ」

 男の髪がざわつき、静電気を帯びたように逆立っていた。リズミカルにピク、ピクと動いて全体が一定の方向を指している。

「えっ、何それ。バーバラって誰。誰よそれ」

 女の眉間にミ、シ、リ、と、深い縦皺が寄っていく。

「バーバラさん、今行きますから」

 男は厨房に飛び込んで壁に掛かっていたフライパンを掴み取り、全速力で出口に向かう。丁度扉を開けて客が入ってくるところだった。

「ヘーイ、元気にやっブバベッ」

 常連と思われる中年の客は、フライパンの底で顔面を叩かれ頭部が爆発した。髪骨肉と脳の欠片が店内を汚す。

「バーバラさーん」

 男はそのまま店を飛び出していった。断続的な破壊音が遠ざかっていく。

「バーバラって誰よ。誰よそれ。私は浮気なんて許可した覚えはないわよ」

 プルプルと全身を震わせると、女はカウンターの下から大型の銛撃ち銃を取り出した。両手で抱え上げて出口へ走る彼女に、持ち帰りを待つ太った客が聞いた。

「ユキコ、俺のお好み焼きは」

 女はニコリと笑って答えた。

「勝手に食えよ、豚野郎」

 女は駆け出していき、客達は放置された。

 

 

  四

 

 午前一時過ぎ、ニューヨークとサンフランシスコを結ぶルート80を十三台の大型トレーラーが東進していた。側面に同じ業者のロゴが点滅するライトで照らし出され、連携して順番に汽笛を鳴らす。都市部でないとはいえ、真夜中には相応しくない遊びだった。

 先頭のトレーラーを運転する男は毛むくじゃらの太い腕に、目元を黒帯で隠された耳の大きなネズミのキャラクターがそのままに刺青されていた。

 点々と続くハイウェイランプを眺めながら、男は通信機のマイクを掴み取り、後続の仲間にメッセージを伝えた。

「ヨッホーイ。こちらミック。皆元気か。俺は眠いぜ」

 ザザ、とノイズの後で返事が来た。

「こちらジェリー。二時間前に寄った店でノンアルコール・ビール買ったよな。どうやらあれ、ノンアルコールじゃなかった」

 スピーカーから聞こえる声は微妙に呂律が悪かった。

 刺青男は苦笑する。

「おいおいジェリー。酔っ払ってるのか。俺のケツを掘るなよ」

「こちら六号車のチャーリー。ラジオ聞いてたか。なんかニューヨークで騒ぎがあったらしいぞ」

 別のトレーラーからの声は妙に興奮していた。

「ほう、どうしたって」

「殺人鬼が暴れてえらい犠牲者が出たとか。凄い勢いでニューヨークから西に走ってったってよ」

 刺青男は大声で笑い飛ばした。

「そりゃまた大変だな。眠気も吹っ飛んじまった。ジェイソン展前夜でハッスルしちまったのかね。……と、誰か逆走してるぞ」

 刺青男は目を凝らした。東進ルートの遥か先から光が近づいてくる。ヘッドライトか。いや、激しく揺れる光の筋は一本で、上を向いていた。

 みるみる迫ってくるそれが、懐中電灯をハチマキに挿した人間であることを認めた次の瞬間、刺青男の運転するトレーラーは爆発した。猛速で叩きつけられたフライパンがトレーラーのフロントをぶち破り、更にあり余る衝撃が車両全体に伝播して完膚なきまでに変形断裂飛散させたのだ。宙に浮いてつんのめる刺青男の頭頂部に、改めてフライパンの縁が打ち込まれた。鉄板の厚み三ミリ強のオムレツ用フライパンは、ゼリーでも切るように男の頭蓋骨に脳にめり込んでいき、あっさり頭部を分断した。

「バーバラさーん」

 爆裂した肉片と鉄片の中をブラックスーツの男が突き抜けていく。飛び散った積荷は大量のスパムミート缶だった。男は幾つか掴み取り、素早く開けて塩漬け肉をフライパンに落とし込む。と、飛散したガソリンの爆発爆炎を浴び、すぐに振り払って脱出した時にはフライパンのスパムミートも程々に焼けていた。すかさず開けた大口に肉を流し込む。それら一連の動作が凄まじいスピードで行われた。

「ムグモグ、モーモラふぁん」

 後続のトレーラーが迫っていた。あっけに取られたドライバーの顔。再び男はフライパンを振った。ドグギャバッ、とトレーラーが爆発する。次の荷は大量のコンビーフだった。再び幾つか掴み取って爆炎で焼いて食べる。三台目のトレーラーはソーセージだ。それも食べる。

「ふむ、ステーキはないんですかね」

 男は食べながら図々しいことを呟いていた。

 男は次々に真正面からトレーラーをぶち抜いて、十三台を破壊し終えるまで実際には五秒もかからなかった。最後尾の積荷のミネラルウォーターを浴びて服とエプロンに絡む火を消し、ついでに水分も補給する。

「バーバラさーん」

 男が駆け去った後のハイウェイは肉と鉄の残骸が散らばるだけとなった。と、そこに新たなライトが近づいてくる。これも東からの逆走で、強力な一本の光線が道路を照らしていた。

 残骸をあっさり轢き散らして通り過ぎたのは重量一トン近くありそうなモンスターバイクだった。転倒すれば人間が起こすことは出来ないだろうが、横幅が五十センチほどもある大型タイヤと低い重心で膨らんだボディのため不気味な安定を保っている。カウルの先端には鉄の棘が幾つも取りつけられていた。側面についたバイクの名称は『The Slaughter』だった。

 モンスターバイクを駆るのはエプロンを着けた若い女だった。太いハンドルを左手だけで操り、右手は銛撃ち銃を握っている。ゴーグルの奥で瞳をギラつかせ、怒りに震える唇が言葉を吐いた。

「バーバラって誰よ……クロちゃんは私だけのものなんだから……」

 

 

  五

 

 港からアルカトラズへ戻る大型フェリーのVIP用ルームで、エメリア・ザ・コールドアイは縛られてベッドに転がされていた。マクシマム・ドラッガーは鼻息を荒くして革ジャンを脱ぎ始める。

「さあて、どんなプレイがお好みだ。道具は一通り揃ってるぜ。それとも、皆に見られながらやりたいか」

 ニヤつきながら見下ろすマクシマムに、エメリアは冷たい視線と微笑を返した。

「そろそろテレビを点けることをお勧めするわ。臨時ニュースが流れてるでしょうから」

「どういう意味だ。時間稼ぎをしたって誰も助けにゃ来ないぜ。もう逃げられねえ。諦めなよ」

「別に時間稼ぎでもないし、逃げる必要もないのよ。テレビを点けて。それとも、怖いの」

 美女の挑発に、目を細めて数秒間吟味した末、マクシマムはテーブルのリモコンを掴んで電源ボタンを押した。壁掛けの大型液晶テレビが映像を浮かび上がらせる。

 市街地に散らばった車の残骸を、警察がのろのろと片づけているところだった。テロップはニューヨーク・マンハッタンとなっている。

 若い男のインタビュー映像に切り替わる。男は泣きそうな顔で唾を飛ばしながら喋った。

「あいつは壁をぶち破って通り過ぎてった。壁を壊していきなり入ってきて、フライパンを振り回して、反対側の壁を破って出ていったんだ。見ろ、あれを見ろ」

 男は半壊したビルを指差した。残った壁に、綺麗な人型の穴が開いていた。

 女性キャスターの言葉が続く。

「現在のところ判明している死傷者は五百四十二人です。倒壊した四つの建物内にまだ二千人以上がいると思われますが、救出作業は難航しています」

 カメラは瓦礫となった建物を映し出した。ショベルカーが少しずつ掘り返しているが、数日がかりとなりそうだ。運良く助け出された住民は担架で救急車に乗せられ、潰れた死体は黒い袋に包まれる。

 更に別の場面となった。小さな島にある星形のようなギザギザのフロアが、上空から撮影されている。その中央はライトで照らされているのだが、フロアごと剥ぎ取られたような土のクレーターが残るだけだった。

「ブラックスーツにエプロンの男は、両腕で抱え上げて投げ飛ばしたとのことです。落下した場所は判明しておらず、まだ空を飛んでいる可能性もあります。西に向かって投げたとのことで、視聴者の皆さんもお気をつけ下さい。……えー、信じられないとは思いますが、私自身、信じたくないのですが、その男は、総重量二百二十五トンの自由の女神像を投げ飛ばしたのです」

「な、何だこりゃ……」

 マクシマムは唖然として呟いた。キャスターの声が続き、積荷の散乱した夜のハイウェイを映す。

「それから男はルート80を逆走して、出会った車両を残らず破壊しながら西に進んでいます。いいですか、男は自前の足で時速二百キロ以上で疾走し、フライパンを振り回して破壊と殺戮を続けながら西に向かっているのです。視聴者の皆さんも、どうかお気をつけて……」

 キャスターの声は最後、溜め息になっていた。

 マクシマム・ドラッガーは、馬鹿みたいにポカンと口を開け、絶句していた。

 縛られたまま上体を起こし、エメリアはとろけそうな声で言った。

「ダーリンは相変わらずだわ。嵐のように何もかもぶち壊して突っ走るんだから」

「何……。何を言ってる。これがお前の元彼氏ってか」

 振り返ったマクシマムの目は、更に充血して黒味を帯びていた。

「西に向かってるって言ってたでしょ。目的地はサンフランシスコよ。私を助けに駆けつけてくれるの」

「ふ、ふざけるなよ。時速二百キロで走って、自由の女神をぶん投げるような化け物が、なんでお前の彼氏だったんだよ」

「言ったでしょ。絶世の美女に釣り合う男はとても希少なのよ」

 エメリアの目は、マクシマムを見上げながらも完全に見下していた。

「う、嘘だ。ハッタリだろ。たまたまだ。偶然だ。そんなデタラメを俺が信じると思って……」

 その時、ドォグウゥゥウゥゥッ、という凄まじい轟音が聞こえフェリーが激しく揺れた。マクシマムもよろめいてテーブルを押し倒してしまう。

「何だ。何が起こってる」

 ドアがノックされ、バグナムの声がした。

「トム、来てくれ。とんでもないことになっている」

「トムって呼ぶな……ああ畜生、分かったよ」

 マクシマムはエメリアを置いてVIPルームを出た。バグナムはサングラスのため表情が分かりにくいが、彼もどうやら慌てているようだ。

 甲板ではヘル・ジェイラーズの酔っ払い達が騒いでいた。皆、港の方を指差している。

「な……」

 サンフランシスコに巨大な何かが突き刺さっていた。細長い石の塊で、全長百メートル近くありそうだ。少し斜めになって夜空にそびえ立つその先端側が、台座のように大きく膨らんでいる。

「自由の女神だ」

 バグナムが正体を告げた。

「ニューヨークから誰かが投げ飛ばしたとニュースに出てたが、アメリカ大陸を横断してここまで飛んできたらしい」

 マクシマムは黙っていた。ただ顔を真っ青にして、全身を小刻みに震わせていた。

「なかなかのコントロールだと思わない。ちょっと前まで私達はそこにいたんだから」

 エメリアがマクシマムの横に並んで言った。どうやってかあっさり縄をほどいて抜け出したらしい。

「お前の元彼氏とやらは何者だ」

 バグナムが尋ねると、エメリア・ザ・コールドアイは、大切な宝物を披露するように綺麗な顔を輝かせた。

「あら、まだ言ってなかったわね。ジャパニーズなの。レイタロー・クラーニ。日本の呼び方では黒贄礼太郎になるの」

 その場にいたヘル・ジェイラーズのメンバー達は、一気に血の気を失ってそのまま倒れそうなくらいになっていた。バグナムの眉がひそめられ、顎の咀嚼筋が盛り上がる。

「クラニレイタロウか。あのヤツザキ・シティ大虐殺の。あのジゴクザカとのハルマゲドンで世界を滅ぼしかけた、最悪の疫病神の」

「う、嘘だ。嘘だ。嘘だ。嘘だ。嘘だ……」

 マクシマムの目は裏返り、うわ言のように同じ言葉を繰り返すだけだ。バグナムがその肩を揺さぶり、両手で顔を挟んで自分へ向けた。

「トム、この女を放り出せ」

「トム……トムじゃねえ。俺はトムじゃねえ」

 マクシマムの目が現実に戻ってくるが、まだ声は弱々しかった。

「トム、この女を殺して海に投げ捨てろ。俺達が助かる道はそれだけだ」

 すぐそばで聞いていたエメリアは平然と止めを刺す。

「無駄じゃないかしら。もうあなた達はロックオンされているのよ。私を攫ったのが何者かなんて、サンフランシスコの住民なら誰だって想像つくでしょうしね。無関係の人を何億人巻き添えにしてでも、あなた達を一人残らず殺し尽くしてくれるわ」

 バグナムは素早く腰の大鉈を引き抜き、エメリアの首筋に当てた。よく使い込まれ、手入れされた刃だった。

「何が望みだ。ビッチ」

 エメリアは微笑しながら一歩前に出た。バグナムが反射的に大鉈を引いたが、エッジに少し血がついていた。

 白い喉に出来た浅い傷から、ゆっくりと血の玉が盛り上がり、滑り落ちていく。

「私のために最愛の人が頑張ってくれるとしたら、それは幸せなことでしょ。たとえそのために世界が滅びの業火に包まれるとしても……いえ、そうなればなるだけ、私のことを愛してくれているという証明になるんだから」

 エメリアは歌うように、柔らかな声音で抑揚をつけて語った。その瞳には狂気すら宿っていた。

「チィッ。とんだ地雷女に関わっちまったな、トム」

 バグナムは鉈を鞘に戻し、携帯電話を取り出した。

「どうすんだよこれ。どうすんだよバグナム」

 マクシマムは泣き声に近くなっていた。

「俺の雇い主……お前の親父に連絡する。女は閉じ込めとけ。人質に使えるから絶対に逃がすなよ。それから津波が来るかも知れん。皆船内に入れ」

「ちょっと驚いたわ、バグナム」

 エメリアは馴れ馴れしく相手の名を呼んだ。

「レイタローに人質が通じると思ってたなんてね」

 冷笑するエメリアを数瞬、黙って見返した後で、バグナムは携帯電話のボタンを押した。

 

 

  六

 

 今度はアメリカ東海岸、ワシントンD.C.にあるホワイトハウスで、現職大統領のウェイン・ドラッガーが白髪頭を抱えて唸っていた。

「どうしてこんなことになった。あのレイタロー・クラーニが、どうして我が国にいるのだ」

 小太り卵顔の大統領補佐官が書類をめくりながら答える。

「三年前に移民として我が国に入っていますね。本人は亡命を希望していました。理由は『凄く恥ずかしいことをしてしまったので、日本にはいられない』とか」

「恥ずかしいことか。世界を滅ぼしかけたことか。あのハルマゲドン事件以来、レイタロー・クラーニの名を知らぬ者はおらん。史上最強の殺人鬼。最悪の破壊者。異世界アルメイルの元魔王。第一回世界殺人鬼王という馬鹿げた称号もあったな。なのにどうして我が国は、そんな化け物の入国を許可したんだ」

「それがどうも、申請書にレイタロー・クロニェと書いていたため分からなかったそうです。後で本人から『突っ込み待ちだった』と改名要求が出ましたが、却下されていますね。つまり我が国では彼は、レイタロー・クロニェな訳です」

「馬鹿げている。何もかも馬鹿げたことだ」

 大統領は首を左右に振り、重い溜め息をつく。

「確かにご子息を甘やかし過ぎたのは馬鹿げたことでしたね」

「四十五にもなって出来た一人息子なんだ。トムは私の全てだ。合衆国の最高権力者になったからには、可愛い息子に都市の一つくらい与えてやってもいいじゃないか」

 大統領はこめかみに指を食い込ませて愚痴るばかりだ。補佐官は事務的な口調で続けた。

「レイタロー・クラーニは平均時速二百十五キロでルート80を逆走中です。バグナムの言うように彼がサンフランシスコを目指しているとすれば、後十六時間程で到着します」

「どうすればいい。どうすれば息子を殺人鬼の魔の手から救ってやれる。今更その女を解放して、ドゲザして謝ったところで、どうせあの殺人鬼は許してくれまい。……いや、大事な息子にドゲザなど、させたくもない。トムのプライドはどうなる」

「それより我が国そのものが危ういんですが」

 ソファーに腰掛け嘆く大統領に、補佐官は見返されない角度から徹底的な侮蔑の視線を送っていた。

「ご子息を守りたいのでしたら、『魔王』を使ってはどうですか」

 大統領の白髪頭を掻きむしる動きが止まった。顔を上げたその瞳に浮かぶのは不安と期待。

「そうか。我が国にも『魔王』がいたな。しかし、あれは……」

「事態を更に悪化させる達人ですが、今回はこれ以上悪化しようがないのではありませんか。レイタロー・クラーニに対抗出来るとすれば彼しかいないでしょう。不死身の殺人鬼と『魔王』、案外うまく噛み合うかも知れませんよ」

「そ……そうだな。私はトムが救えるのなら、後はどうなったっていいんだ。たとえそのためにアメリカが滅んだとしても」

 大統領の妄言に特に突っ込みは入れず、小太りの補佐官は告げた。

「では、ロサンゼルスの工作員に至急連絡します。報酬は大統領の私費でよろしいですね」

 

 

  七

 

 電波のような何かに導かれた黒贄礼太郎の殺戮行は、対向車を残らずぶち壊したり途中寄り道して町を滅ぼしたり、マクドナルドでハッピーミールを頼んで一息ついたりオマケのミニ地獄坂人形にちょっと喜んだりしながら、着実にサンフランシスコに近づいていた。ちなみにミニ地獄坂人形は五分後に捨てた。

 太平洋時間にして午後六時。破壊された車両千八百二十台、攻撃を受けた町七つ、突破された警察の検問四十四ヶ所、大破した戦車三十七両、撃墜された攻撃ヘリ五十二機、死者合計六万七千人というのが、現時点で判明している被害だった。

 アメリカ北方陸軍を主軸とした最終防衛ラインは、サンフランシスコの北東に位置するタホ国立森林公園を貫くルート80に敷かれていた。二千人を超える兵士に十六両の戦車、上空をホバリングしている六機の戦闘ヘリ。樹上に二十名のスナイパーも配置してあるが、兵士達の顔に滲むのは暗い絶望ばかりだった。南西を振り向くと彼方に巨大な像が見える。サンフランシスコに逆さに突き刺さった、自由の女神像。

「ターゲットはそのままソーダスプリングスを抜け、森林公園に入りました。二十分以内にここに到着する筈です」

 通信兵が報告し、大佐は苦々しげな表情で頷いた。

「それまでに間に合えばいいがな」

 大佐は振り向いて、大型トラックから降ろされたばかりの荷物を見やった。

 それは、直径三メートルのアスファルトの地面ごと抉って運ばれた、木製のベンチだった。ロサンゼルスの公園のベンチで、そこに寝ていた男を刺激しないよう細心の注意を払って輸送されたものだ。

 CIAのエージェントは膝をつき、さっき目覚めたばかりの男に説明を繰り返していた。

「ですから、これからここにやってくる男を食い止めて頂きたいんです」

「ふうん。で、誰が来るって」

「レイタロー・クラーニです。あの化け物が時速二百キロで走りながらサンフランシスコに迫っているんです」

「誰だそれは。知らんな」

「えっ、あのレイタロー・クラーニですよ。ジゴクザカと戦って世界を滅ぼしかけた、不死身の殺人鬼の」

「ふうん。そんなことがあったのか。こっちは酒を飲んで寝てばかりいたんでな」

 大儀そうに伸びをした男はホームレスのように汚れたコートを着ていた。年齢は四十代か、全く手入れされていない髪はチラホラと白髪が混じり、顎髭も伸ばし放題になっている。左手は紙袋で包んだ酒瓶を握り、酔いと疲労で濁った瞳がエージェントを見返していた。

「ネフィルクさん、あなたがご存知かどうかはともかくとして、化け物がこちらに向かってくるんです。その迎撃をアメリカ政府として依頼アガッ」

 エージェントは悲鳴を上げて額を押さえた。ホームレスのような男が無造作に酒瓶を押しつけたのだ。シュキュッ、と奇妙な音がして、紙袋と酒瓶は底から三分の二ほどがエージェントの額にめり込んでしまっていた。

「え、何、これ。どうなって……」

「いけないな、君。私はネフィルクサンザ・アークテム・レスハイドだ。私の名前を略す権利を、まだ君には与えていない」

 寝起きから立ち上がりつつあるのか、『魔王』ネフィルクサンザ・アークテム・レスハイドの疲れた掠れ声は自信に満ちたものに変わっていた。ただし、辛辣なニュアンスが混じっていたが。

「は、はい、申し訳ありません。ネフィルクサンザ・アークテム・レスハイド様」

 泣きながらエージェントが言い直す。

「よろしい。私をネフィルクと呼ぶことを許可しよう。それで、君の名前をまだ聞いていなかったな」

「はい、ご無礼をお許し下さい。私はアレックス・コールと申します」

「よろしい」

 ネフィルクは改めてエージェント・アレックスの額を叩いた。キヒュッ、と瓶が更に押し込まれて蓋部分だけが出っ張りとして残った。

「おめでとうアレックス君、今後は水筒を携帯する必要がなくなったな。試しに、ちょっとお辞儀をしてくれないか」

 ネフィルクは蓋を回して外し、アレックスに告げた。いつの間にか左手にグラスを持っている。

「は、はい」

 アレックスがやはり泣きながら頭を下げると、瓶の口から零れた酒がグラスに注がれていった。頭に瓶が丸ごとめり込めば生きていられない筈だが、どういう訳か脳は無事らしい。兵士達は緊張した顔でやり取りを見守っている。

 最後の一滴がグラスに入ったところでネフィルクは蓋を閉めてやった。それから一気にグラスの中身を飲み干して、ついでにツルリとグラスまで丸呑みした。グラスの形の膨らみがなめらかに喉を滑り落ちていった。

「さて。それで、レイタロー・クラーニという男が人を殺しながらサンフランシスコに向かっているので、それを迎え撃てばいいのだね」

「はい、その通りでございます。どうかお引き受け下さるようお願い申し上げます。報酬は一千万ドルをお支払い致します」

 額の蓋を気にしつつもアレックスは職務を果たそうと努める。ネフィルクは髭に覆われた頬に残酷な笑みを浮かべて頷いた。

「いいだろう。引き受けた。ちなみに君達、あれを見てくれたまえ」

 アレックスを含め、その場にいた兵士達は皆ネフィルクの指差す先を見た。木々が生い茂るばかりで特に目立つものはない。

「あの、どれですかウオッ」

 向き直ったアレックスが驚きの叫びを上げた。ベンチに腰掛ける薄汚れたホームレスが、ちょっと目を離した隙に高級スーツの紳士に変わっていたのだ。

 ネフィルクサンザ・アークテム・レスハイドは数秒前より十才は若返って見えた。白髪混じりの蓬髪は艶のある黒髪となって綺麗にセットされ、頬顎は髭の剃り立てのようになめらかだ。顔の造りは整っているが、何処か国籍不明な印象を与える。スーツはダークグレイ、シャツは真紅のシルクで、同じ素材のハンカチを胸ポケットから覗かせている。ネクタイは藍色で、ネクタイピンとカフスボタンには大きなダイヤが輝いていた。

 優雅に立ち上がり、ネフィルクは言った。

「ふむ。問題の人物が近づいているね。アレックス君、どうやら君の情報には誤りがあるようだ。君は時速二百キロと言ったが、実際には時速二百四十二キロで走っている」

 ネフィルクの瞳は獲物を求めるしなやかな野獣のように、不吉な生気に満ちていた。

 銃声。連続し、次第に大きく聞こえてくる。防衛ラインより前に詰めていた兵士達が攻撃しているようだ。爆発音。まだ銃声は続く。

「君達、どいてくれたまえ。ゲストを迎える主賓は中央に立つのが礼儀だろうからね」

 大勢の兵士達が道を空け、ネフィルクは悠然とハイウェイまで歩いた。大佐は渋い顔で部下達に攻撃中止の指示を出す。

 赤く染まる夕陽を背に、ネフィルクサンザ・アークテム・レスハイドが乾いたアスファルトに立った。緩くカーブしたルート80東進ライン。森林の陰になった先から標的が出現した。

 時速二百四十二キロで疾走するのは赤い化け物だった。元は黒服にエプロンだったものが、無数の銃創と血でドロドロになっていた。右手に握るフライパンは、腕の凄まじい往復スピードのため残像の帯となり、振られるたびに血の滴が前後に散っていく。

 黒贄礼太郎の顔の右上部分は吹き飛んで、容積の減った大脳が露出していた。それでも彼の左目は殺意に輝き、血みどろの不気味な笑みを浮かべていた。

 不死身の殺人鬼と『魔王』は、一本の道路上で対峙した。

 待ち受ける軍隊など見当たらぬように、黒贄は一直線に向かってくる。特に身構えもせず立っているネフィルクが、まず一言告げた。

「待ちたまえ」

 途端に黒贄のスピードが鈍った。ネフィルクから十メートルほどの距離で停滞してしまう。手足は変わらぬペースで往復しているのだが、体は殆ど進んでいないのだ。

 両者の間の景色が、陽炎のように歪んでいた。兵士達は呆然と異常現象を見守るばかりだ。

「ほほう、愛の追跡行に割って入るあなたは何者ですかな。私は忙しいんです。私の到着が一秒遅れるごとに、バーバラさんも一秒年老いてしまうんですよ」

 手足を振り続けながら黒贄が尋ねた。声は妙に遠く聞こえた。

「受けたばかりの仕事を一秒で片づけてしまったら、退屈だと思わないかね。ひねり潰す前に名乗り合うくらいはしておきたいところだ。私と君の間の空間は擬似的に千倍に引き伸ばしてある。私はネフィルクサンザ・アークテム・レスハイドだ」

 ネフィルクは余裕たっぷりに名乗ると、指をパチンと鳴らした。次の瞬間には左手にシガレットを、右手にライターを持っていた。

 黒贄は無駄に走りながらお辞儀して答えた。

「これはわざわざどうも。私は黒贄礼太郎、通称クラちゃんです。それで、どんな奇声がお好みですか」

「ふむ、奇声とは」

「フンガラバーなんていかがでしょう」

「えっ」

 ネフィルクが目を瞬かせた。黒贄も不思議そうに小首をかしげてみせる。

「えっ、駄目ですか。平凡過ぎましたかな。ではホンダラバーで」

「えっ」

「む、これも駄目ですか。贅沢なお人だ。では奮発して、ハンバラパピポパというのは」

「えっ」

「そんな……。すると、ご所望なのは、ま、まさか、『ク』で始まり『レ』で終わる、あの……う、うああああああああ」

 血みどろの顔を苦痛と恐怖に歪め、黒贄が急に叫び出した。

「えっ、何を……」

 ネフィルクが喋る途中で黒贄の姿が霞んだ。ビョジャボャーンという凄い音がしてネフィルクの首から上が消失していた。その後ろに待機していた兵士達数十人の首もまとめて消えた。ブォバッ、と、細かくなった肉片と血が霧状に飛び散っていく。

 首を失ったネフィルクの手はライターを点火して、優雅な仕草でシガレットの先端に近づけた。それから彼の体はゆっくりと、後ろざまに倒れていった。

 数百メートル先に着地した黒贄礼太郎は勢い余って転びそうになりながらも持ち直し、再び地面を蹴って駆け出した。

「仮面がないので手っ取り早くやっちゃうのは仕方ないんですよ。しかもあの奇声を所望されちゃったら私には、ああ、とても耐えられませんからね。決して手抜きした訳ではないんです。いや本当ですって。そう、一秒の遅れが一秒の老化に、バーバラさーん」

 誰にともなく呟きながら黒贄は走り去っていった。

「あああああ。まさかこんな……」

 エージェントのアレックスは、首を失ったネフィルクに歩み寄っていく。

 と、ネフィルクがムクリと身を起こしてアレックスに悲鳴を上げさせた。爆裂した頭部は完全に元通りになっている。

「いかんな。二秒も死んでしまった」

「あわああ、ネフィルク様。ご無事でしたか」

 微妙な距離で立ち止まり、アレックスは駆け寄るべきか離れるべきか迷っているようだ。

「意味不明な乗りにやられてしまった。それに、油断した。十キロの距離をひと跳びで超える者がいるとはな。生きていれば面白いこともあるものだ。悔しいが、実に、面白い」

 ネフィルクの澄まし顔が崩れ、面白そうで悔しそうな生き生きした表情を見せた。彼は涙さえ滲ませていた。それが悔し涙なのか嬉し涙なのかは分からない。もしかすると両方かも知れない。

「あの、今からでも追いかけて、奴を食い止めて頂けませんか。ネフィルク様ならばそれが可能では」

「いやそれはない。一度死んだからには負けを認めるべきだろう。帰って酒飲んで寝る」

 面白悔しい表情はあっけなく本来の疲れきったそれに戻ってしまった。ネフィルクは立ち上がると、火の点いたシガレットを咥えて深く吸い込んだ。

「し、しかし私達の依頼は……」

 食い下がるアレックスに、ネフィルクは煙を目一杯吹きつけた。煙が蛇のように数メートルも伸びて、エージェントの顔に撫でる。

「報酬は不要だ。ただし、彼がサンフランシスコに到着することはない。市を丸ごと消しておくからね」

「ゴホッゴホッ……ゴホッ。……えっ」

 パチン、と指を鳴らすとシガレットとライターが消えた。同時に大変なものが消えた。兵士達が南西を指差してどよめいている。

 深い森林の向こうに見えていた、逆さの自由の女神像がないのだ。

「ま、まさか本当に……ネフィルク様」

 その時にはネフィルクサンザ・アークテム・レスハイドも消えていた。アレックスは他の大勢の兵士達と同じく、放心状態となってその場に膝をつく。

 と、ヘッドライトの光が東から近づいて、時速二百二十キロで走るモンスターバイクがアレックスを潰れた肉塊に変えた。

「あっ、ごめんなさい」

 謝罪しながらもライダーの女はスピードを緩めなかった。慌てて左右に散る兵士達の間を抜け、バイクは黒贄礼太郎を追って西へと去っていった。

 アレックスの割れた頭部から、紙袋に包まれた酒瓶が抜け落ちてアスファルトをコロリと転がった。

 

 

  八

 

「大変です。自由の女神がなくなっています。それどころか、港が見えません。町も全く見えません。サンフランシスコが……」

 手下の叫ぶ声を、マクシマム・ドラッガー、本名トム・ドラッガーは黙って聞いていた。白目は血を塗ったように赤く、顔は興奮で上気したかと思えば血の気が引いて青くなるということを繰り返している。

 アルカトラズ島の刑務所跡地を改造したヘル・ジェイラーズのアジトは、豪奢な生活エリアと奴隷用の監獄エリアに分かれていた。中央の広間はたまに奴隷同士を殺し合わせて楽しむ闘技場として使われる。千人を超えるメンバーと二百人の奴隷を収容可能で、地下貯蔵庫には略奪した大量の食料が備蓄されている。そして、大量の武器弾薬も。島の要所要所には重機関銃を据えつけた監視所があり、いつもは男達が酒でも飲みながら脱走者や通りかかった船を銃撃しているのだが、今夜は皆青ざめた顔で恐怖に身を固くしている。

 刑務所長の寝室を拡張したマクシマムの部屋に、彼とサブリーダー兼ボディガードのバグナム、他にも傭兵上がりのメンバーが数人いた。エメリア・ザ・コールドアイは後ろ手に手錠を掛けられ、微笑を浮かべて立っている。

 携帯電話と話していたバグナムが、投げ遣り気味な口調で報告した。

「『魔王』がレイタロー・クラーニの迎撃に失敗したそうだ。ついでにサンフランシスコは消滅したらしい」

 一際大きく目を見開いて、マクシマムは何か言いたげにバグナムを睨む。エメリアは後ろ手のまま拍手して喜んだ。

「あのネフィルクに勝つとは、ダーリンの株も益々上がるわね」

 また手下の叫び声が届く。

「何かが走ってきます。誰かが海の上を走ってきます。海の上を生身で走ってる」

「……。どうすんだよ、これから」

 唸るような、或いは泣くのをこらえるような声でマクシマムは問う。

「手はなくなった。後は玉砕するだけだ」

 バグナムは平然と答えた。

「そんなのありかよ。いいか、死ぬんだぞ。化け物の殺人鬼にぶち殺されるんだぞ。それでもいいのか、てめえ」

「いいとは言えんが、仕方がない。親父の権力に頼って散々人を殺しておいて、自分が殺されることを覚悟していなかったとすれば、トム、お前はどうしようもないヘタレのクズということになるな」

 バグナムの冷静な非難にマクシマムがM500を抜いた。リボルバーの重みに耐えきれず、マクシマムの右腕が震えている。

「扱いきれない銃は持つな。俺は何度も忠告した筈だぞ」

 バグナムが言った。もし撃たれても彼の人間離れした筋肉は弾丸を通さないだろうが。

「バグナム。てめえは死ぬのが怖くないってのかよ」

「怖いが、少なくとも覚悟はしている。俺達は傭兵だ。死ぬことも給料のうちさ。コンゴにいる家族が潤うと思えば死に甲斐もある」

 色の薄いサングラスの奥で、バグナムの瞳は涼しげに見えた。他の側近達も同様で、この部屋で怯えているのはマクシマム一人だった。

「うおおおっ、来ました。奴が、化け物がああっ」

 外の叫びは断末魔に近かった。銃声が連続する。また別の場所から悲鳴。時折ゴワシャッ、という異様な破壊音が混じる。微かな震動が部屋を揺らす。マクシマムはずれてきたナタリーの髑髏帽子を直す。棚に飾っていた誰かの髑髏達が床に転がり落ちてきた。

 銃声と悲鳴が近づいてくる。バグナムは「ここにいろ」とマクシマムに伝え、傭兵達を連れて部屋を出ていった。

 次の瞬間ブジャボバッ、という凄い音がして、バグナムが室内に戻ってきた。潰れた生首だけが。コロコロと転がって、マクシマムのブーツに当たって止まる。

 サングラスは割れ、半ばはみ出した眼球がマクシマムを見上げていた。

「バーバラさーん」

 囁くように優しげな、声がした。他の傭兵達も発砲する暇さえなく瞬殺されたのだろう。外の銃声も悲鳴も聞こえなくなり、不気味な死の静寂が島を支配していた。

 マクシマムの全身が震え出した。大型リボルバーを片手で支えきれず、両手で握り締める。それでも銃口は震えながら下がっていく。

「私はここよ。それから私の名はエメリアだから。覚えておいてね、レイタロー」

 寛大にも名前の呼び間違えを許し、エメリアは言った。

「これは失礼しました。何しろ四百年ぶりですから仕方ありませんよね」

 血みどろの黒贄礼太郎が現れた。血みどろのブラックスーツに血みどろのエプロンを着け、血みどろの右手に血みどろのフライパンを持っている。黒贄は右上四分の一を失った顔で苦笑し、左手で頭を掻いた。

 この瞬間が午後七時十二分六秒。エメリアが拉致されて、黒贄がアメリカを横断して駆けつけるまで、二十二時間未満であった。

 ヒィッ、と細い悲鳴を洩らし、マクシマムは人質に向けるべきリボルバーを取り落とした。

「あら、四百年も経ってないわ。たったの二百九十一年ぶりよ。魔女狩りで火炙りにされるところをダーリンに助けられて以来」

「えっ」

 マクシマムは唖然として、推定三百才以上の若々しい魔女を振り向いた。

「そうでしたかな。物忘れが激しいと時の流れなどあっという間ですからねえ。記憶から消し去りたいことも……いやいやそれは置いといて、あなたを攫っちゃった極悪非道の大悪党はそこの御仁ですかな。それはもう世界を破滅させかねない物凄い超能力とか、色々とお持ちなんでしょうな」

 黒贄の血みどろの左目が、マクシマムの血走った目を射た。

「あう。あああうあう」

 マクシマムの震えが更に大きくなった。頭の髑髏帽子が落ちてバグナムの生首に衝突した。マクシマムの革パンツの裾から黄色い液体が流れていく。彼は失禁したのだ。

「そうなの。お願いよダーリン、この悪魔を倒して私を助け出して。そして再会した二人の愛は激しく燃え上がるの」

 エメリアの瞳は歓喜に潤み、同時に底光りする情念が滲んでいた。

「あうう。ああーう。あうあああううう」

 マクシマムは今にも崩れ落ちそうになり、口からは涎が垂れていく。

「了解です。そこのアウウ・アアーウさんをスパコンとやっちゃいますね」

 黒贄が右手のフライパンを振り上げた時、ビジュッ、と肉を裂いてエプロンの胸部分から金属の輝きが顔を出した。鋭い返りのついた銛の先端。すぐに引かれて返りが肉に食い込んでいく。

「ありゃ」

 黒贄は自分の胸元を見た。エメリアも意外そうにそれを見た。

 黒贄の背後から、怒りに満ちた若い女の声がした。

「クンドラベッタラドッポレクンドラベッタラドッポレクンドラベッタラドッポレ」

「うああああやめて下さい許して下さいうああ恥ずかしい」

 あっけに取られるエメリアとマクシマムの前で、黒贄は両耳を押さえてしゃがみ込んでしまった。

 不死身の殺人鬼の背後に、大型の銛撃ち銃を抱えた優紀子が立っていた。殺意にも似た敵愾心を視線に込め、エメリアを睨む。それはすぐに勝利の優越感に変わり、彼女は黒贄に告げる。

「クロちゃん、帰るわよ。つまらない電波を受信して迷子になっちゃうなんて、本当にお茶目さんなんだから」

 優紀子が銛撃ち銃を持って歩き去っていく。ワイヤーが引かれ、黒贄は蹲ったままズルズルと引き摺られて退場していった。

 やがてエンジン音が聞こえ、エメリアは部屋の窓から外を覗く。一本のヘッドライトの光線と水音が海を遠ざかっていく。モンスターバイクは水陸両用だったらしい。

「助かったのか……。助かったのか、俺は……」

 マクシマム・ドラッガーはその場に膝をつき、誰にともなく呟いた。白い顔に血の気が戻っていく。

 エメリアの声を聞いて、再び彼の顔から血が引いていった。

「……ねえ、何よこれ。周到に準備して都市一つを魔窟に変えて、糞ガキ共を操ってこんな演出までして、昔の男を呼び戻そうとしたのに。その結果がこれなの。……こんなのって、ないでしょ」

 声はどす黒い憤怒と憎悪に染まっていた。ミキ、ミキ、とエメリアの腕から不気味な音がした。細く優雅な腕が、骨格ごと太く膨れ上がっていくのだ。あっけなくねじれちぎれた手錠が床に落ちる。

 ローズ・ブロンドの長い髪が前に垂れて、振り向いたエメリアの顔を隠していた。髪の間から、赤く光る二つの瞳が覗く。

「あ、あわうあ」

 マクシマムは慌ててリボルバーを拾い上げた。向けようとしたM500を、握った両手ごとエメリアの左手が包み込んだ。鉤爪の生えた青黒い、怪物じみた手が、グギュウウッと拳銃とマクシマムの両手を握り潰した。鉄塊と混ざった肉をあっさりちぎり取って投げ捨てる。

「うああああああああっ」

 両手首の断端から血を噴きながらマクシマムが叫ぶ。エメリアの巨大な右拳がその顔面を粉砕し、そのまま後頭部までぶち抜いて爆裂させた。

「フシュウウウウウウ」

 野獣の吐息を洩らしながら、エメリアはナタリーの髑髏帽子を拾い上げる。マクシマムの胴体はまだ膝をついた姿勢を保っていた。エメリアは彼の首が元あった場所に髑髏帽子を叩き込んだ。

 髑髏の載ったマクシマムの死に様は、タロットカードの死神の絵に似ていないこともなかった。

 

 

  九

 

 アルカトラズ島を捜索した特殊部隊により息子の死亡が確認されると、アメリカ合衆国大統領ウェイン・ドラッガーは虚脱した表情で頷いた。

「そうか。よし、世界を滅ぼそう」

 大統領は核ミサイルの発射ボタンのカバーを外し、ためらいなく押そうとした。

「いい加減にしろこの馬鹿」

 小太り卵顔の補佐官が左ストレートを放った。大統領の右顔面が砕け、首が折れる。

「グヘッ」

 補佐官の右手首が折れ曲がると三つの銃口が現れる。内蔵された機関銃の高速連射が大統領を蜂の巣に変える。更に右の蹴りが大統領を浮き上がらせ天井をバウンドさせた。

 サイボーグ補佐官の両目から光線が伸びて左右に往復し、大統領の死体を空中で八つに分解した。

 

 

  エピローグ

 

 お好み焼き屋の店内で朝刊を読んでいた黒贄礼太郎は、難しい顔で嘆息した。

「優紀子さん、大統領が補佐官に暗殺されたらしいですよ。アメリカって、物騒な国なんですねえ」

 エプロンを着けながら優紀子は言った。

「そんなことよりクロちゃん、店の前の死体を片づけといてね」

 

 

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