ボーダー

 

 ボーダー。

 その一ミリが・・・。

 

 

 静かだ。

 医員室。いるのは私だけだ。

 壁の時計の、秒を刻む音だけが聞こえている。

 ボールペンの先。

 右目を閉じた私の前には、ボールペンと、それを握った自分の手だけが見えている。

 両手で、しっかりと、握っている。

 ボールペンの先を、自分の左目に向けて。

 私の、左の角膜と、どれほどの距離があるのか。

 十五センチか。十センチか。それとも・・・。

 遠近感が掴めないので、よく分からない。

 でも、ただ一つ、分かっていることがある。

 それは、その尖った先端が、じりじりと、近づいているということだ。

 銀色の円の中心に、黒いインクの着いた小さな球体が見える。

 それが、少しずつ、大きくなっている。

 何故、近づいてきているのか。

 私には分かっている。

 自分でやっているからだ。

 今、何時だろうか。

 九時には、術場に入らなければならないからだ。

 だから、九時になれば、この恐ろしい儀式から開放されるのだ。

 時計が見たい。壁の時計を・・・。

 いや、駄目だ。目を逸らすんじゃない。

 瞬きもするな。

 それは、どんどん、近づいているのだから。

 ピントが合わなくなり、ぼやけてきた。

 それくらい、近づいたということだ。

 五センチか。三センチか。それとも・・・。

 それとも、もう、一センチもないのだろうか。

 九時まで、あと、何分ある。五分か。三分か。いや、もっと短いかも。

 とにかく、それまで、持ちこたえていればいいのだ。

 ボールペンの先端が、まつげに触れ・・・。

 その瞬間、私の脳裏に『あの感覚』が蘇った。

 ボールペンの先端が一気に私の角膜を突き破り眼球を貫き眼窩も抜けて脳まで達する激しい痛み焼けるようだ今まで感じたことのないほどの強烈なそして私はそれだけでは飽き足らずボールペンをグリグリと掻き混ぜる私の脳が私の手により損傷されおおこれはもしかして自殺なのか私は痛みのためか恐怖のためか喜びのためか叫び出す笑い出す痛い痛い楽しい楽しいタノチー!タノチータノチータノチータノチー・・・

 それは電流のように私の中を走り抜けていった。

 思わず手に力が入りそうになるのを堪える。

 まだだ。

 まだ、境界は、越えていない。

 ボールペンの先は、私の角膜に接近を続けてはいるが、まだ、触れていない。

 一ミリ。

 一ミリくらいは、まだ、余裕がある筈だ。

 多分。

 でも、これ以上は・・・。

 畜生。

 あと何分耐えればいいのだ。

 腕時計が九時の時報を告げるまで、あとどれだけあるのか。

 一分か。三十秒か。いや、十秒もないかも。

 でも、もう、触れてしまいそうだ。

 取り返しのつかない。

 取り返しのつかない未来が、もう、すぐそこに、口を開けて待っているのだ。

 おっと、頭をのけ反らせてはいけない。

 逃げるんじゃない。

 正確な、ボーダーは、どの辺りになるだろう。

 触れるだけなら、まだ、大したことはないかも知れない。黒いインクが角膜に着くだけで、すぐに流れ落ち元通りになるかも知れない。

 それから、ほんの少し、力を込めれば。

 いや、まだ、大丈夫かも知れない。眼球の弾力と眼窩内の柔らかい筋肉と脂肪組織によって力が吸収され、ダメージはないかも知れない。

 更に、ほんの少し・・・。

 ほーんのー、すこーしー。

 ほおおおんのおおお、すこおおおしいいいいい。

 近づく。

 ボーダーに。

 触れる。

 ボーダーに。

 この一ミリが。

 こおの一ミリがああああああああああああああ。

 ボーダー世界が歪む歪む歪むいやまだ触れていないまだボーダーその先には何があるのか全く新しい世界真実の世界ボールペンの先が先が触れ・・・

「坂井先生」

 医員室のドアが開いて、誰かの顔が覗いた。

 私はすぐにボールペンを自分の目から離していた。

 見られたか。

 いや、大丈夫の筈だ。

 振り返ると、研修医の鎌田だった。今日の手術の患者の主治医だ。

「そろそろ九時になりますよ。術場へ行きましょう」

「そうだな」

 私はボールペンを置いて立ち上がった。

 ありがとう、お陰でボーダーを越えずに済んだ。

 畜生め、お前のせいで、またこちら側の世界に踏み留まってしまったじゃないか。

 

 

 その大動脈が。

 その大動脈が、気になる。

 肺癌の患者。左肺部分切除の手術。肋骨の間から切開、開胸。

 今、私は、左肺の上葉と下葉の間へと分け入っている。

 その下に横たわっている、胸部大動脈が、とても気になるのだ。

 心臓から上方へ出てすぐUターンし、脊椎の傍らを下降する、その大動脈。

 心臓の動きに合わせ、拍動しているのが見える。

 それが、とても、気になるのだ。

 もし万が一私の手が滑って電気メスでその太い動脈を傷つけてしまったら。

 凄い勢いで血が噴き出すだろう。

 取り返しのつかないことになる。

 取り返しのつかないことに。

 いや、急いで処置すれば助かるかも知れない。

 でも、私は、とんでもないことをしたと非難されるに違いない。

 今までの私に対する評価が、泥塗れになるだろう。

 まかり間違って、死なせてしまうことになったら、莫大な賠償金を請求されるだろう。

 そんな自分は、想像出来ない。それからどうやって生きていけばいいのか、見当もつかない。

 怖い。

 ということは、それは、決してやってはならないこと、やってしまったら取り返しのつかないことなのだ。

 皆が、私の指先を見守っている。助手達が、ベッドサイドの医学生達が、看護婦達が。

 おかしな真似は出来ない。

 だからこそ。

 気になるのだ。

 大動脈。

 いやあ、なかなか、つるんとしてきれいな大動脈をお持ちだ。

 大動脈。

 だーいどーうみゃくー。

 電気メスを助手に渡す際に、ふっとその先端を大動脈に近づけてみせる。

 微妙な動きだから、誰にもその意味は分からなかっただろう。

 次に電気メスを受け取った時にも、一瞬大動脈のすぐ近くでメスを踊らせてみせる。

 ほうら、ふらふら。

 今のは、分かったか。

 私の危険な行為が、皆に分かったろうか。

 いや、まだ・・・・。

 『あの感覚』が・・・。

 メスでその弾力のある太い動脈に力一杯切りつけると赤い血が噴き出し私達のマスクをつけた顔に返り血が飛び散り天井まで血の噴水が上がり胸腔内はあっという間に血で埋まりいやあよく出るよく出るよく出るなんてことを慌てて止血しようとする助手達に切りかかり私は暴れ出し笑い出し血は胸腔から溢れて手術台を伝って床に落ちていくなんてことをなんてことをなんてことをアーッハッハッいい気味だ死ね死ね死ね皆死ねなんてことをなんてことをなーんてことをーなあああんてええええ・・・

 ぐっ。

 ま、まだ、大丈夫の筈だ。

 でも、これ以上やると、皆に怪しまれるだろう。

 怪しまれては、危険だ。

 取り返しの、つかないことに。

 だから、この辺が、ボーダー。

 いや、まだ少し、余裕があるかも知れない。

 もう少し、切るような仕草を見せても、ばれないかも知れない。

 ボーダーを、ぎりぎりのラインを、見極めなければ。

 でも、一体、私は、何のために、こんなことをしているのか。

 何も考えずに手術だけに集中してしまった方がよっぽど楽ではないのか。

 でも、気になってしまうからしょうがないのだ。

 やりたくないけど、やらなければならないのだ。

 ぎりぎりの、ボーダーへ。

 極限まで、近づく。

 そして、越え、いや、私は・・・。

 この意気地なしめ。

 越えたいのなら、さっさと踏み出せ。

 いや、でも・・・。

 私は、本当は、何を望んでいるのか。

 そんなことは考えていても仕方がない。

 問題は、今ここにある、ボーダー。

 さあ、越えろ、いや、駄目だ、踏み出せ、いや、もう、触れ、いや、これは、だから、越え、触れ、また、戻る、それは、許されない、だからこそ、踏み、こら、私は、さあ、いや、もう・・・

 手術は、無事に終わった。

 私は、くたくたになっていた。

 多分皆は、私が、手術を丁寧にしようと気を遣い過ぎて疲れていると思っているのだろう。

 皮膚の縫合は助手達に任せ、私は独り手術室を出て、大きな溜息をついた。

 今回も、越えずに済んだ。

 今回も、越えられなかった。

 

 

 久し振りに家族一緒に夕飯を食べた。医師は忙しい。いつもポケベルをつけて歩いているほどだ。

 妻の百合枝は私と同じ四十二才だが、結婚当時の美しさを今も損なっていない。その優しさも。

 一人息子の祐輔はまだ小学五年生だ。この間、算数のテストが三十点だったと百合枝が嘆いていたが、私は祐輔には自由に生きて欲しいと思っていた。勉強と日常にがんじがらめに縛られて生きてきた私とは、違う生き方を・・・。

 今度の日曜は、友達と釣りに行くのだと言う。仲好しの友達がいるのはいいことだ。それに私は釣りなどやったこともない。

 お父さんにも教えてやるよと祐輔が言い、私は苦笑した。百合枝も微笑みながら見守っている。

 この幸福を、いつまでも守り続けていたい。

 祐輔が私の皿を見ているのに気づいた。

 私の皿には、まだハンバーグが一切れ残っていた。祐輔は、もう自分の分は平らげてしまっている。

 育ち盛りだからな。

「食べるか」

 私が聞くと、祐輔は照れ笑いを浮かべて頷いた。

 フォークで突き刺し、私は、

「よーし、アーンしろ、アーンと」

 と言った。こんなことをする年齢でもないのだが。

 私には、別の意図があったのだ。

 祐輔は口を大きく開けた。

 私はその奥を目掛け・・・

 ほら食えフォークを渾身の力で突き出し血のついた先端が首の後ろへ突き抜ける祐輔は意味不明な叫びを上げ手足を痙攣させ私はフォークを更にぐいぐいと抉り骨に当たる硬い感触が心地好い百合枝の悲鳴私は張り倒すほら食えほら食えほら食えほら・・・

 私は優しく祐輔の口の中へ入れ、祐輔は嬉しそうにパクリと食べた。

 その時の私が何を考えていたのか、妻も息子も、想像も出来なかったろう。

 

 

 薄闇の中、百合枝は私の隣で眠っていた。

 上半身を起こした私の手には、メスが握られていた。

 妻はすやすやとよく眠っている。安心しきっているように。

 柱時計。内部の槌が、金属の弦を叩いて時刻を知らせる。

 一回、二回。

 二時だ。

 その大きな音で百合枝が目を覚ましやしないかと、私は不安になった。

 十秒、二十秒、三十秒、待つ。

 妻は起きない。

 考えてみれば、それくらいで起きるようなら、人は三十分ごとに目を覚まさなくちゃならないじゃないか。

 よし、大丈夫だ。

 で。

 私は、何をしようとしているのか。

 このメスを、メスの先を、ゆっくりと、百合枝の首、首筋に、近づける。

 私は、何を・・・。

 鋭い先端が、妻の首にそっと触れた。

 頚動脈の辺りだ。

 突然妻が身動きした。

 私はぞっとしてメスを引く。

 妻は寝返りを打っただけだった。

 何も知らず眠り続ける妻の寝顔を見つめながら、私は自分の心臓の速い鼓動を感じていた。

 落ち着け。

 落ち着け。

 もう、一度、だ。

 慎重に、私は、再びメスを近づけていった。

 さっきと同じ場所。頚動脈の辺りに。

 先端が、触れた。

 今度は、百合枝は動かなかった。

 ここが、ボーダーか。

 いや、違う。

 まだ余裕がある。

 まだ、日常の範囲から出ていない。突然妻が目を覚ましたりしない限りは。

 取り返しのつかないことになってはいない。

 少し、力を込める。

 皮膚が浅くへこむ。

 でも、破れない。

 私は知っている。人間の皮膚は弾力があって意外と破れにくいものだ。

 もう少し、力を。

 まだ、破れない。

 おい、そろそろやめたらどうだ。もう一人の自分が警告する。

 いや、まだ余裕が。反論。

 もう少し。

 もう少し、力を。

 百合枝は、まだ気づいていない。

 気づかれたら、終わりだ。

 私の日常は、終わりだ。

 四十二年間守り続けてきた私の日常は。

 だから、もう少し、力を。

 もう少し。

 もうすこしいいいいいいいいいいいいいいいい。

 も、もう、限界だ。

 これ以上、力を込めると、一気に破れる。

 その時に頚動脈に傷がついたら終わりだ。

 つかなくても私は終わりだ。

 警察には、私の動機が理解出来ないだろう。

 きっと、私自身でさえも・・・。

 もう、やめろ。

 心臓が・・・。

 それ以上は・・・。

 突然破滅的な力が加わってメスが百合枝の首に深く潜り込み血が噴き出し百合枝は目を覚ましかけるがそのまま永遠の闇へ私は鋸でその首を切断し長い髪を掴んで最愛の妻の生首をぶんぶん振り回すよく回るよーくまわるよー髪が長いと便利だねああ楽しい楽しいタノチー!次は鋸で丁寧に頭蓋骨を切って外すと脳味噌が露出するああ脳味噌だ脳味噌だ愛する妻の脳味噌が目の前に見える私の愛した妻の人格が全てこの中にああ生命の神秘私は両手を妻の脳味噌に突っ込んで掻き混ぜる味噌を掻き混ぜるみたいにキャハハーなんてこった私は愛する妻を掻き混ぜているキャハハーなんか醜くなってしまった私の愛した妻は醜くなってしまったどうしてこんなになってしまったのだろうもうこんなものはいらない次は祐輔お前の番だ私の愛する一人息子愛するお前の脳味噌を掻き混ぜてやる掻き混ぜてやるぞ待っていろまさか部屋に鍵を掛けたりしてはいないだろうなお父さんはお前をそんな親不孝な子供に育てた覚えはないぞさあさあさあ・・・

 あ。

 私は我に返り、慌ててメスを引いた。

 危なかった。全身の体毛がそそけ立っていた。

 本当に、越えてしまうところだった。

 百合枝の首の皮膚に、小さな細い線が見えた。

 じわりと、少量の血が滲み出し、血の玉になる。

 だ、大丈夫だ。

 本人も気づかないほどの、小さな傷だ。朝になればただの小さな血の塊になり、剥がしても血は出ないだろう。

 私は急いでメスを引き出しの中に戻した。

 妻は小さな寝息を立てていた。

 私は声には出さずにおやすみと呟いて横になり、目を閉じた。

 

 

 私は夢を見ていた。

 これまでに何度も見た夢。私を苦しめてきた夢。

 記憶は長年の繰り返しによって微妙に歪められ、あれが本当のことだったのかどうか、私には分からなくなっていた。

 あれは、小学校・・・そう、低学年の頃だったと思う。

 私は道を歩いていた。いつもの通学路、見慣れた通り。

 一緒に歩いているのは同じクラスのひろくんだった。本名は忘れた。もしかすると、本名などなかったのかも知れない。

 工事現場があった。

 黄色と黒の縞模様の仕切りに囲まれ、マンホールの蓋が開いていた。

 私には、それはとても不思議なことだった。

 マンホールというのはただそこに存在するだけのマンホールであって、開くようなものだとは思っていなかったのだ。

 そして私は、この地面の下にも何かがあるなんて考えもしなかった。世界の一番底にあるものが地面だと信じていたのだ。

「あ、マンホールが開いてら」

 無邪気にひろくんが言った。

「う、うん。そうだね」

 私は遠慮がちに答えた。日常と異なる日常に、私は半分怯えかけていた。

「覗いてみようぜ」

 ひろくんが目を輝かせた。彼は悪戯っ子だった。

 丁度、工事の人はそこにはいなかった。通行人も私達以外にはいなかった。マンホールだけが口を開けて私達を待っていた。

 ひろくんが先頭になって仕切り板の間を抜けた。私は恐る恐るついていく。

 いけないことをやっているような気がしていた。怒られる。工事の人に、先生に、お母さんに、怒られる。でも、断ったりしたらひろくんに嫌われてしまう。友達とは仲良くしなさいってお母さんも言ってるよ。

 それに、興味もあった。世界の底と思っていた更にその下の世界があるなんて。下の世界は、どうなっているんだろう。

 何処かで、三十数年後の私が叫んでいる。やめろ、やめろ、やめさせるんだ。覗いてはいけない。世界の境界から外を覗いてはいけない。

「へへー」

 ひろくんが、マンホールの縁に近づいた。

 私はきょろきょろ周囲を見回して、工事の人が来ないことを祈っていた。

「ねえ、ひろくん、もう帰ろうよう」

 そう言って振り向いた先に、ひろくんはいなかった。

「あれ」

 ひろくんの姿が、消えていた。二秒前までは、マンホールの中を覗いていたひろくんが、ちょっと目を離した隙に、消えていた。

「ひろくん」

 落ちたのか。私は思った。マンホールの縁から、足を滑らせて、落ちたのだろうか。

「ひろくん」

 返事はない。何の音もしない。落ちるような音も聞こえなかった。悲鳴も聞こえなかった。呻き声も泣き声も聞こえない。

 ただ、マンホールだけが、ぽっかりと口を開けて待っていた。マンホールは、笑っているように見えた。

 ひろくんが、呑み込まれてしまった。ひろくんが、下の世界に吸い込まれて、消えてしまった。

 私は、泣きそうになっていた。

 どうしよう。ひろくんを助けに行かなければならないのだろうか。私もマンホールを覗かなければならないのだろうか。きっと覗いたら、私も吸い込まれて消えてしまうのではないか。何故なら、それは覗いてはならないものだからだ。下の世界は、私達が見てはならないものなのだ、きっと。

 帰りたい。このままひろくんのことを放り出して、帰りたい。家に帰ればいつもの日常が待っている筈だ。お母さんはいつものように私のことを迎えてくれる。テレビで憧れのヒーローが怪獣をやっつけるのを見て、夕食を食べて、お風呂に入って、宿題をやって眠るのだ。そう私の世界に戻るのだ。私の平穏な日常に。

 でも、ひろくんが・・・。友達とは仲良くしなさいって・・・。きっと、友達を見捨てたって、怒られる・・・。

 私は、じりじりと、マンホールへと近づいていった。

 遠くで未来の私の声がしていた。日常の世界へ戻れ。覗いてはならない。進め。世界の境界を越えてみせろ。二人の私が、正反対のことを喚いて幼い私を責め立てていた。

 私は、突然マンホールから現れて私の足を引っ張り込もうとする腕の幻影に怯えつつ、マンホールの縁に・・・。

 その時、『あの感覚』が・・・。

 縁に・・・縁を・・・覗き・・・いや・・・見え・・・ない・・・る・・・縁が・・・奥は・・・覗く・・・でも・・・怖い・・・一瞬・・・奥が・・・

「こら、何をしとるか」

 私はびくんと全身を震わせた。慌てて振り向くと、薄汚れた作業服を着た『工事の人』が私を睨んでいた。

 ヘルメットを被っていて顔はよく見えなかったが、その口元は怒っているようだった。

「危ないぞ。子供はさっさと家に帰れ」

 私は何も言わずに走り出した。家に向かって。ひろくんのことも、世界のことも、全てを放り出して。

 含み笑いが聞こえたような気がした。工事の人の笑い声。陰湿な、笑い声。あの人は、私を笑っていた。境界を踏み越せなかった意気地のない私を。

 一瞬。

 ほんの一瞬だけだったが、私はマンホールの奥を見たのだ。

 そこにあったのは、気絶して倒れているひろくんの姿だったか。

 そこにあったのは、無限の闇と渦巻く混沌だったか。

 違う。

 何もなかった。

 世界の外には何もなかった。

 『何もない』さえない、『空っぽ』さえない、『無』さえない。

 世界の外には何もなかった。

 私は家に帰りつくと、大声で泣き出していた。母がどうしたのかと聞いたが、私は何も言えずにただ泣き続けていた。

 次の日、学校に行くとひろくんはいなかった。

 ひろくんの机さえなかった。誰も何も言わなかった。

 ひろくんなど、今まで存在していなかったかのように。

 

 

 病棟内を、教授と並んで歩いていた。

「坂井君、今朝のプレゼンだが」

 カマキリみたいな細い顔に、冷ややかな視線を私に向け、教授は言った。

「はい」

「鎌田君や白石君は、いい加減にやっているようだね。勉強不足だよ。指導医は君なのだから、ちゃんとしてもらわないと困るよ」

「すみません。気をつけます」

 私は頭を下げた。

 私は、この真壁教授が嫌いだった。苦労して仕上げた論文を何度かパクられたことがある。いつも嫌味ばかり言うし、他人を褒めるところなど見たことがなかった。

 一度、あんたの頭の中を覗いてみたいものだ。ククク。

 階段を、真壁教授が先に降りていった。私はすぐ後ろをついていく。

 近くには、誰もいない。

 チャンスだ。

 私は、両手を上げて教授の背中に伸ばした。

 このまま力を込めて押せば、教授は無様に階段を転がり落ちるだろう。年齢が年齢だし、骨折するかも知れない。運が悪ければ首の骨を折ったりして死ぬこともあるだろう。

 勿論、私がそんなことをする筈がない。

 こちら側の私ならば。

 降りながら、私の手は教授の背中に触れるか触れないかの、ぎりぎりのボーダーをさ迷っていた。

 一階下に降りた。看護婦が歩いている。私はすぐに手を下ろした。

 私達はまだ下へと降りていく。

 背後の私の手は再び持ち上がる。

 触れるか触れないか、触れるか、触れないか、触れ、るか、触れ、ないか、触れ、る、か、ふ、れ、な、る、れ、ない、れる、れ、れ・・・

「そういえば坂井君」

 階段の途中で、急に教授が立ち止まった。

 あっ、と、勢い余った私の手が、教授の肩に触れた。

 教授は振り向いた。

 私は手を下ろし、

「糸屑が付いてましたよ」

 と微笑んでみせた。

「そうかね」

 教授はそっけなく答えた。

 そう。

 私には分かっていた。

 まだボーダーではなかった。

 

 

 実家から電話が掛かってきた。

「元気かね」

 父の声。

「ええ」

 私は答える。

「こっちは母さんと二人だけで、寂しいものだよ」

 父の声は、幾分弱々しく聞こえた。

 老けたものだな。

 ふん。

 何も知らずこの世界に生まれ落ちた私に『常識』を刷り込み『日常』を覆い被せ『正しいこと、やってはならないこと』を押し付けてがんじがらめに縛りつけた両親。

 それが絶対的価値観であるように、自信満々に。

 あんた達は私に、『枠』からはみ出てしまったら一体どうなるのかを、教えてはくれなかった。

 真面目で良い子。真面目で良い子。真面目で良い子。

 医者か弁護士。医者か弁護士。いしゃかべんごし。いしゃかべんごしい。いしゃかべんごしいいいいいいいいいいいい。

「そろそろ、なあ」

「何です」

「そろそろ、一緒に暮らさないか。毎日孫の顔も見ていたいし。百合枝さんにも相談しておいてくれないかな」

 いしゃかべんごしいいいいいいい。いしゃあああああかべんごおしいいいいいいいい。

 私は感情を押し殺して答えた。

「考えておきますよ。それから父さん」

「なんだね」

 死ね。

「し・・・、いや、何でもありません。じゃあ」

 私は電話を切った。

 もう、あまり時間がない。

 このまま、完全に、日常に呑み込まれてしまう前に。

 しまう前に・・・。

 

 

 日曜の夕食。

「それでねえ、尚君が、金魚を釣っちゃったんだよ。こんなに大きいの」

 祐輔は釣りの話を楽しそうに続けている。

 私達はそれをにこにこして聞いている。

 おかずの魚は祐輔が釣ってきたものだった。

 全く、素晴らしい、日常だ。

 この幸せな状態を、いつまでも留めておきたい。

 幸せというのは本当に脆いものなのだから。

 幸福と不幸の距離は、たったの一ミリしかないのだから。

 私の椅子の下にあるもののことを、百合枝、祐輔、君達は知らない。

 私が今日、刃物屋で購入した、斧。

 剥き出しにして、置いてある。

 君達の首を一瞬にして切断することが出来る代物だ。

 さあ。

 注意深く、周囲を観察して、これを、見つけるがいい。

 そして恐怖の悲鳴を上げるがいい。

 そうすれば私は自由になれるのだ。

 この、与えられた日常から、開放されるのだ。

 さあ。

「あ」

 私はわざと、箸を床に落としてみせた。

 百合枝が屈んで拾おうとするのを、

「いや、自分で拾うよ」

 私は制した。

 ククク。

 私は自分で箸を拾った。

 何故、拾ってくれなかったのだ。

 何故、見つけてくれなかったのだ。

 そのせいで、私は、この先もずっとこのボーダーで苦しまねばならないのだ。

 そう。

 ここが、ボーダーだ。

 たった、一ミリの、境界線。

 私は今、世界の境界に触れている。

 日常の枠を越え、この境界の向こうにはきっと新しい世界が・・・。

「あ」

 私はまた、箸を落として見せた。

 

 

 夜空は、ドームのようだ。

 月が出ている時などは、特にそう感じる。

 手を伸ばせば、空の天井についてしまいそうな気がする。

 本当に、宇宙なんてあるのだろうか。地球は本当に丸いのだろうか。夜空に見えるあの星々は、何十光年も離れた恒星の残像なのだろうか。

 本当は、私達は、騙されているのではないのか。

 実際に存在するのは人口数万の小さな都市だけで、空を覆ったドームには星々を張り付けて回転させ、存在しない世界中の捏造された情報をテレビや新聞で尤もらしく流しているのではないのか。

 私達の信じている現実は、その殆どが自分で体得したものではなく他人によって教えられたものではないか。

 海外に行ったなんて言う人がいるが信用出来ない。巧みに構成されたパノラマのセットを見てきただけかも知れない。記憶を操作されているということも考えられる。

 いや。

 それどころではない。

 もともと世界なんてものは存在しないのではないのか。

 全ては私の感覚に投影された幻ではないのか。外界の現実も、内部の思考と感情も、映画でも見るように私はただ受動的に感じているだけではないのか。

 自分の意思なんて、本当に存在するのだろうか。私はただ流れていく現実を眺めているだけではないのか。

 そう考えると、私は急に息苦しくなった。

 畜生。

 いや、この気持ちさえ・・・。

 夜空は私の苦悩など知らぬげに輝いていた。

 ふん。

 石でも投げてやれば、きっと空の天井が破れて真実の世界が顔を見せる筈だ。

 

 

 眩しい光。

 目が痛いほどだ。

 それが電気スタンドの光と気づくのに、かなりの時間がかかった。

 薄暗い、何もない部屋だ。

 私は椅子に座っていた。

 私は何故、ここにいるのだろうか。

 その時、声が聞こえた。怒りを含んだ乱暴な声だ。

「動機は何なんだ」

 私は目を凝らした。

 逆光になって今まで分からなかったが、机の向かいに男が一人いるらしい。

「何のことですか」

 私は尋ねた。

 突然私の目の前に顔が突き出された。鋭い目をした髭面の男だ。

「だから動機は何だと聞いてるんだ」

「だから、何の動機ですか」

 男は苛々したように舌打ちをした。

「何度言わせるんだ、坂井秀雄。何故殺したんだ」

「え」

 心臓がドクンと鳴った。

「誰をですか」

「皆をだよ」

 そう言うと男はスタンドの光を脇へ逸らせた。

 男の姿が見えた。背広を着ているが、何処か怪しげな雰囲気だ。

「皆って誰です」

「そこまで言わせるのか」

 男は憂鬱な眼差しを私に向けた。

「お前は、上司を階段から突き落として殺した。自分の妻を殺して首を切り取り、脳味噌をぶち撒けた。自分の息子を斧で滅多打ちにして殺した。手術中に患者の動脈を切って殺した。それだけじゃない。お前は、数え切れんほど人を殺してきたじゃないか」

 心臓が、早鐘のように打ち続けていた。

 苦しい。

 生温かい嫌な感触が、全身を覆っていた。

 私は、目の前の男が刑事であることを思い出していた。

 そして。

 私は、思い出した。

 全てが、本当のことだったのだ。

 全て、私が、実際にやったことだったのだ。

 ボーダーを、私は、既に越えていたのだ。

 私は、既に新しい世界へ・・・。

 動悸は、いつの間にか、治まっていた。

 生温かい感触は、私を焚きつける力強さへと変わっていた。

 そう、踊り出したいくらいだ。

 ク、ク、ク。

「刑事さん」

 声が上擦りそうになるのを必死で抑えた。

「話す気になったか」

「ええ。私の心境を説明するために、ボールペンか何かを貸してくれませんか」

「分かってくれればいいんだよ」

 刑事は、表情を和らげた。シャープペンシルを貸してくれた。

「さて、ここに一本のシャープペンシルがありますね」

「ああ、それで」

「その先端を、よーく見つめて下さい。そうですね、片目をつぶって頂けるとより分かりやすいと思います」

「ふんふん」

 刑事は左目を閉じた。

「さあ、この先を、よーく見て。これがだんだん近づいてくると・・・」

 私はシャーペンの先を、ゆっくりと刑事の右目に近づけていった。

「このように」

 一気に。

 一気に力を込めた。

「ウゴアアアアアアアアア!」

 刑事は獣じみた悲鳴を上げた。

 刑事の目の中に、シャーペンは半ばほどまで刺さっていた。

 まだ出ている部分を私は手のひらで叩いて、最後まで押し込んだ。

 くうう。

 この感触。

 刑事は床を転げ回った。

 電気スタンドを掴んで、私は刑事の上に馬乗りになって殴りつけた。

「死ね、死ね、死ね、死ね、死ね」

 電球が割れ、破片が散った。

 でもそんなことはどうでもいい。

 私は歓喜に踊り狂い、血塗れの刑事を殴り続けた。

「死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね・・・

 

 

 私は目を覚ました。

 柱時計は午前四時を指していた。

 私は、汗びっしょりになっていた。

 隣には、百合枝の微かな寝息が聞こえていた。

 夢だったのか。

 その時私の中に浮かんだのは、安堵だったのだろうか。それとも・・・。

 自分でも、分からなかった。

 

 

 朝。

 いつものように私は駅のホームで列車を待っていた。

 この単調な日常。

 画一化され、去勢されたこの世界。

 窮屈だ。身動きが出来ない。息が苦しい。

 私は、どうすればいいのだろう。

 誰か、私を救ってくれ。

 いいや、どうせお前らごときに私を救うことは出来ない。

 ぎゅうぎゅうのホーム。

 私は列の前から二番目のところに並んでいた。

 先頭は、六十才くらいの老人だ。何も知らずにぼんやりと立っている。

 列車がやってくる。

 私は、両手をそろりと上げ始めた。

 前の老人を、突き飛ばして線路に落とすことが出来るように。

 でも、周囲には私が何をしようとしているのかは分からない筈だ。

 怪しまれるほどには、手を上げていない。

 そういうふうに、やっている。

 ぎりぎり。

 怪しまれる、怪しまれない、ぎりぎり、日常と、非日常の、ぎりぎりの境界線を、探っている。

 この一ミリ。

 この一ミリが、ボーダーだ。

 このたった一ミリが。

 ああ。

 どうしても越えられないのだ。

 私は一生こんなことを続けて生きていくのだろうか。

 この一ミリが。

 こおのいちみりがあああああああああああああああああああ。

「あっ」

 人が、線路に落ちた。

 すぐ上を、列車が通り抜ける。

 皆が悲鳴を上げた。血が周囲に飛び散った。

 私は、私はやっていない。

 私は、まだ、ボーダーを越えていない。

 私じゃない。

「キャハハハー」

 誰かが狂ったように笑っていた。

 私の隣の男だった。

「やったやったー。ついにやったー」

 男は両手を上げて喜んでいた。

 この男が、前の人を、突き落としたのだ。

 わああと周囲の人達が、男を取り囲んで捕まえる。

 私は体を硬直させたまま立ち尽くしていた。

 ワタシヨリサキニボーダーヲコエヤガッテ・・・。

 

 

 私達は、流されている。

 私達は、踊らされている。

 私達は、枠に閉じ込められている。

 この圧倒的な流れに抗い外に飛び出すことが出来たならば、きっと新しい世界が見えてくる筈だ。

 それが、『無』であったとしても。

 

 

 気分が悪くなって、今日は早めに帰った。

 親子三人の夕食。

 テレビでは、今朝の事件のことがニュースになっていた。

「これって、あなたがそばにいらしたのよね」

「もういいじゃないか。祐輔だってこんな話は聞きたくないだろ」

 私は不機嫌だった。

 全く、私より先に・・・。

 こうなっては、負けてはいられない。グズグズしていたら、皆に先を越されてしまう。

 今夜こそは、出来るかも知れない。

 今夜こそは、越えられるかも知れない。

 椅子の下の斧。

 私は、何を望んでいるのか。

 私は、破滅を望んでいるのだろうか。

 それとも、真実を求めているのか。限りなく無情な、世界の真実を。

 私は、愛する妻と息子に囲まれて、幸せだ。

 でも、その幸せは、枠の中のものだ。

 枠。

 私は、何を、求めているのか。

 椅子の下の斧。

「あっと」

 私は、箸を、床に落としてみせた。

「自分で拾うよ」

 一ミリのボーダー。

 世界の境界線。

 私は屈んで箸を拾いかけた。

 その時私は見た。

 妻の椅子の下に、変なものが。

 あれは・・・。

「やっと見てくれたわね」

 百合枝がぞっとするような笑みを浮かべた。

 人間というたがが外れてしまったような笑みだった。

 どういうことだ。

 あれは、チェーンソーでは・・・。

 妻がゆらりと立ち上がった。

 私は慌てて自分の斧を拾おうとした。

「キェヒェーイ!」

 祐輔が奇声を上げて懐から何かを出した。顔が狂気に歪んでいた。

 刃渡りが二十センチほどもある、サバイバルナイフだった。

 ずっと、それを、隠し持っていたのだろうか。

 どういうことだこれは。

 考える暇もなく、後頭部に何かがぶつかって私は意識を失っていた。

 

 

 声が聞こえる。

 テレビの声だ。

 私は目を覚ました。

 私は俯せに倒れていた。頭がガンガンする。顔が痛い。両足も、膝の辺りに激痛。

 どうなったんだ、一体。

 テレビでは、ニュースキャスターが必死に喋っている。とても緊迫した雰囲気。

 夕食の時につけっ放しにしていたのだ。

 私は顔を上げた。

 百合枝と、祐輔の姿が見えた。

 二人とも、死んでいた。

 百合枝の胸にナイフが突き刺さっていた。祐輔の首は半分ちぎれかかっていた。

 互いに殺し合ったのだろう。

 幸福とは、脆いもの。

 たった一ミリの・・・。

「この他、世界各地で人々は殺し合いを続け、警察や軍隊までが・・・」

 立ち上がろうと思ったが、足に力が入らない。

 自分の足を見て、私はその理由を知った。

 両足が、膝の部分で切断されていた。

 私は、血で溢れた床を這って、テレビの方へと近づいていった。

 ニュースキャスターの顔は、殴られたような青痣がついていた。

「世界中の人々が、狂ってしまったとしか思えません」

 ククク。

 私には、分かっているぞ。

 皆、我慢していたんだ。

 皆、本当はボーダーを越えたかったのだ。

「あ、今情報が入りました。六十発近い核ミサイルが、日本各地に向けて発射されたようです。早いものはあと三・・・ウッ」

 背後に忍び寄った男が、キャスターの首筋に包丁を突き立てた。

 カメラが揺れた。誰かの叫び声。

 やがて、画面は白と黒の砂嵐だけになった。

 リモコンを拾って、チャンネルを変えてみたが、どれも同じだった。

 私はテレビを消した。

 そして見た。

 画面に映った自分の顔を。

 私の鼻と耳は、削り取られていた。口が耳の辺りまで裂かれて大きくなっていた。

 頭蓋骨の、額の辺りから上がきれいに失くなっていた。

 百合枝がチェーンソーでやったのだろう。露出した脳は所々が傷つき、欠けていた。

 そう。

 これが、真実の世界なのだ。

 真実の・・・。

 チクショウ。

 ミナドイツモコイツモ、オレヨリサキニボーダーヲコエヤガッテ。

 オレモコエテヤル。ボーダーヲコエテヤル。

 ミテロ。

 私は両手を上げた。

 そう、自分の脳へ。

 この一ミリが。

 この、一ミリが。

 このいちみりがああああああああああああああああああ。

 涙が、溢れ出した。

 私は、何を求めていたのか。

 あ、『あの感覚』が、やってくる。

 新しい、世界が。

 ボーダー。

 ボーダダダダダダダダダダダダダダダダグチュ!

 

 

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