挑む者

 

  一

 

「震えておるな」

 フィロスが告げると、ガルーサ・ネットのエージェントは震えながら答えた。

「あなたを前にして平静ではいられません。『八つ裂き王』フィロス」

 フィロスは薄い唇を歪め、苦笑した。

 カウンターに立つエージェントは、こちらを探ろうとする意識の繊細さから探知士と分かる。ただし、感覚の触手は今、過重な情報にショックを起こしているようだ。一般人が太陽を直視して目を傷めるのに似ている。感受性を高めることばかりにエネルギーを費やし、リスク対策を怠っていたのだ。

 つまるところ、この探知士はCクラスのそれも駆け出しで、フィロスにとってはただの肉に過ぎなかった。

 なのについ余計な言葉をかけてしまった。フィロスはいつになくうわついていることを自覚する。

「我はガルーサ・ネットに敵対してはおらぬぞ。こうしてサービスを利用しておるからな」

「のべ二万人以上の当商会所属員があなたに殺害されています。直近では二十七年前のキリガです。毎回ペナルティは払って頂いていますが、殺される側にとってはたまったものではありませんので。ちなみに私もこれまで六度、あなたに切り刻まれました」

 キリガでエージェントを殺したか。フィロスには覚えがない。まとめて殺戮した大勢の中に偶然エージェントが混じっていたのだろうか。有象無象のことなどいちいち気にしていられない。勿論、この探知士の顔も覚えていない。

「そうであったか。しかし案ずるな。今日そなたを殺すことはない」

 何故なら、現在フィロスは禁殺中なのだから。

 探知士は信じられないらしく、泣きそうな顔で小さく首を振った。

「我宛ての伝言は何か来ておるか」

「……い、いえ、ありません」

 小さなパネルつきの端末をいじりながらエージェントが答える。

「ディンゴは今、何処におる」

「ちょっと、お待ち下さい。……現在、サマルータです」

「そうか」

 ガルーサ・ネットは他のカイストがどの世界にいるか、基本的に無料で教えてくれる。死亡時の所持品回収サービスなどを利用している者は現在の状態を常時ガルーサ・ネットに送信しており、そうでない者も支店の利用やゲート通過から居場所が推定される。世界内の正確な位置情報は、本人の許可があればガルーサ・ネットのデータベースサービスを介して教え合うことも可能だ。逆に居場所を知られたくないカイストの場合は、金を払って情報の公開をブロックすることも出来る。そんな臆病者がAクラスまで上がることは滅多にないが。

「チャートを確認したい」

 フィロスの求めに、エージェントは羊皮紙に似せたディスプレイを差し出した。指先で触れるだけで意思を読み取り目当ての情報を映してくれる。

 戦士のチャートと無差別部門のチャート。前者は戦士を自認する者のみが参加しているランキングで、戦闘技術を競いたいならこちらも気にするが、やはりフィロスが重視するのは後者だ。強さを求める全てのカイストの指標。

 一位は当然『彼』だ。

 名なしの『彼』は二億年前に登場して以来ずっと一位の座をキープしている。うむ。フィロスは満足して頷く。誰にも負けずにいて欲しいものだ。フィロスが倒すまでは。

 もし、魔術士なんかのおかしな術で『彼』が敗れたりすれば、フィロスは発狂してしまうかも知れない。

 チャートの二位はやはり、ネスタ・グラウドだった。

 『剣神』或いは悪意を込めて『素振り王』と呼ばれるこの男と、フィロスはこれまで二度立ち合い、二度共敗れている。どちらの時も訳が分からぬうちに斬られていた。他の全てを投げ捨てたワン・スキル・カイスト。その究極に位置する男の強念曲理は凄まじい。

 ただ、『彼』の登場まで三百億年近く一位を守っていたこの化け物に対し、フィロス自身はあまり欲望を覚えなかった。一心不乱に素振りのみを続けるネスタの姿に、フィロスは自己陶酔の匂いを嗅ぎ取ったのだ。

 奴は、自分しか見ていない。殺してもあまり面白くない。

 しかし、いずれは倒さねばなるまい。『彼』との勝負の前哨戦として。

 三位以下も馴染みの名前ばかりだった。下手すると千回近くもやり合ってきたライバル達。三十七位に自分の名を認めてフィロスは舌打ちする。エージェントがビクリと身を震わせた。

 八ヶ月前にチェックした時より二つ下がっている。誰かが上位の者を倒してフィロスより上に割り込んだのだ。この短期間で二つとは、なかなか珍しい。近いうちにフィロスも上位を倒して順位を上げておかねばならない。

 だが今は、別のことだ。

 フィロスはチャートでディンゴの名を検索した。四千六百二十一位。前回確認した時から変わってはいないが、Aクラスと認められた時点でこの順位というのは、まあなかなかのものだろう。

 神の領域と呼ばれるAクラスの認定条件は内包する我力量など幾つかあるが、最も一般的で説得力があるのがガルーサ・ネットの無差別チャートを用いたものだろう。一万位以内をキープしている者がAクラス。つまり、四千世界においてAクラスのカイストは約一万人いることになる。

 BクラスからAクラスに上がる際には一万位以内のカイストを倒して順位を奪い取る必要があるのだが、運や相性の要素を除外するため認定までには他のAクラスと立ち合って十戦以内に五勝することが必要となる。勝率五割以上……Aクラスと対等ということ。それで初めて、自他共に認める『神の領域』となるのだ。

 ディンゴは六戦で五勝を決めた。一度の敗北はまだ前回の勝負のダメージが残っていた状態で立ち合ったものらしい。これもまあ、なかなかの成績だ。勝率五割がうまく達成出来ず、何億年もグズグズしている者も多い。

 フィロスは羊皮紙型ディスプレイをエージェントに返し、ガルーサ・ネットの出張所を出た。ガルーサ・ネットはカイストのためのサービス提供組織で、四千世界の殆どに支店や出張所を設けている。このスカーダでは他の世界と繋がる二つのゲート近くに一つずつと、世界の中央部に一つの計三ヶ所ある筈だ。

 スカーダの大地は円形でほぼ平面となっている。重力は全て一方向に向けられ、地面を掘り進めていくと次第に岩盤は強固になっていき、カイストでも破れない岩盤の向こうが世界の限界線となる。上方と水平方向は進むほどに大気が希薄になっていき、最終的には物質も光も存在出来ない空間に変わり、その向こうが世界の限界線だ。淡い光は真上から降り注ぎ、夜はない。大地の直径は百四十二万キロ。そこに六千億の人間が住む。文明管理委員会の手が入っていないフリーゾーンであるため、カイストの数は多い。

 ただし、Aクラスがこの世界を訪れる場合、目的はほぼ一つに絞られる。

 この場所からも、針のように細く切り立った山が見えていた。スカーダの大地の中心で、天を突き破ろうとするかのようにそびえるその山は、アースト山と呼ばれている。語源はアーンスト、『究極を目指す者』だ。

 フィロスはそのアースト山へ向かって歩いた。ガルーサ・ネット出張所のあるこの町は石造りの建物が並び、大勢の一般人が行き交っている。農業と手工業が主で、機械工業はあまり発達していないようだ。フリーゾーンは文明進度の抑制をしないのが建前だが、大概は中世を基本として新旧入り混じる混沌とした社会となる。永い時を生きるカイストと一般人が共に暮らすには、それが最も適しているのだろうか。或いは護包士などがコントロールしているのかも知れないが、フィロスはそんなことには興味がない。

 興味があるのは、いかにして相手を切り裂くかということだけだ。

 約束の期日まではまだ余裕があるし、スカーダには『流れ砂』がある筈だ。急ぐこともないのでフィロスは適当に時速百五十キロほどで歩いた。すれ違う一般人は驚いて振り返るが、彼らが風の正体に気づく前にフィロスは彼方にいる。出くわしたカイストがフィロスの姿を認めて硬直することもある。慌てて身構えたのはBクラスの上級だろう。Cクラスの一部は腰を抜かして這っていた。探知士などはとっくに町の外に逃げていることだろう。

 本来のフィロスなら、通りすがりに彼らを皆殺しにしている。呼吸するように殺戮するのがフィロスの存在証明なのだから。だが今のフィロスはちょっとした奇妙な愉悦を覚えながらも、溢れ返る獲物達を無視して通り過ぎた。

 大事な勝負を前に、飢えを高めておきたいからだ。豪華な料理が待っているのに駄菓子を食う馬鹿がいるだろうか。

 今回は、特別だ。それだけの価値がある、特別な、勝負だ。

 歩きながら、フィロスはふと『彼』のことを考える。暇があれば考える。何千万回となく、夢にまで見る。

 正暦三百九十五億年。世界が次々と消滅しているという情報に、四千世界そのものが崩壊を始めたのではないかと、当時のカイスト達はちょっとした恐慌状態に陥ったものだ。たったの五日間で十二の世界が消え、その三日後にもう一つ消えた。更に十七日後に最後の一つが消え、その前に『裏の目』ガリデュエが、世界消滅の原因が一人の男であると発表していた。『図書館長』ルクナスが同じ内容を発表したのはもう少し後のことだ。検証士の双璧による公式発表、しかも黒い方が出し惜しみせず、白い方がこんなに急いで発表するというのは前代未聞の事態だった。

 世界を消し去った男。それは強さというものの究極に違いない。一体何者で、どうやってそれほどの強さを手に入れたのか。自分ならそいつに勝てるか。Aクラスの戦士も魔術士も、野次馬気分のBクラス連中も、先を争って『彼』を見に行ったものだ。

 そして、大半があっさり殺された。

 フィロスが『彼』と戦っていた時間は二秒半だった。当時の『彼』に対峙したカイスト達の死亡までの平均時間が七百分の一秒だから、これは非常に長い時間であったと誇ることは出来よう。

 ほぼ全ての刃を飛ばして『彼』の肉に打ち込んだ。手応えはあった。ダメージは与えた筈だったが、同時に底なしの何かに吸い込まれたようにも感じた。そして、ズタズタに裂けた肉塊が全体として人の形を保ったまま、フィロスに襲いかかってきたのだ。右手の剣で四回、左手の剣で三回斬ったのも覚えている。だがその後は腕を引きちぎられ、『八つ裂き王』たるフィロスが素手で八つ裂きにされたのだ。『彼』の歯が額に食い込んだ感触は強烈だった。このフィロスが、生きたまま頭から、貪り食われたのだ。

 あの時フィロスが感じたのは、熱、だった。圧倒的な熱さ。圧倒的な痛み。圧倒的な、激情。フィロスを貪りながら、『彼』は血みどろの顔に泣き笑いのようなものを浮かべていた。

 Aクラスにも、『彼』に食らったダメージが大き過ぎて今でもまともに動けない者がいる。全く攻撃が通用しないことに心が折れ、そのまま墜滅してしまった者も多い。

 フィロスはそうはならなかった。途方もなく強い者が存在するのなら、それは実現可能ということなのだ。ならば自分もその高みに追いつき、追い越せば良いだけのことだ。

 もう一つ、強く確信していることがある。

 あの時の『彼』は、喜んでいた。泣き喚きながら、感謝していた。

 『彼』は、全力で、求めていた。

 フィロスは、全力で、求められた。

 世界最強の化け物に、全身全霊を込めて、求められてしまったのだ。ああ、狂おしく、奮い立つではないか。

 もう、思い出しただけで刃が疼いてくる。

 敗れたという悔しさは、勿論ある。悔しくて悔しくて、たまらない。だが同時に、喜びがある。百億年以上、殺戮の道を歩んできて良かったと思えてしまうほどに。

 『彼』の渇望に応えるためにも、強くなって強くなって、更に強くなって、ぶち殺してやらねばならない。『彼』が喜ぶように、丁寧に、切り刻んでやらねばならない。それを想像すると、血がざわめく。

 勝てる自信がつくまで、フィロスは自分から『彼』に仕掛けるつもりはなかった。それを逃げ腰とする考え方もあるが、フィロスは自分なりの誠意だと思っている。

 八十時間ほど荒野を歩いたろうか。『流れ砂』が見つかった。幅数キロに及ぶ砂の川で、スカーダの中心へ向かって流れている。川の中央になるほど速い流れとなり、最速部は時速三千キロに達するという。空気も一緒に流れるため、一般人でも吹き飛ばされたり摩擦熱で焼け死んだりすることはない。人々は砂に沈まない船を使って広大なスカーダを渡る。逆にスカーダの中心地から辺境へ流れる砂もあるという。

 フィロスは砂の上を歩き、川の中央に立った。足が砂に沈むことはない。空間座標確保……世界上の絶対座標でも特定の物体との相対座標でも意識して自分の体を固定出来る技術は、戦士なら習得しておくべきものの一つだ。左右の景色はみるみる流れていくが、アースト山は遠いままだ。一直線の流れ砂は森や都市の中をも走っていた。川に入ろうとしている船もたまに見える。川端の巨大な立て札が現在地を示す。

 フィロスは腕組みをしたまま、アースト山を見据えていた。

 流れ砂に乗って単調な時間を過ごすうち、むず痒さを感じ始めた。どうにも落ち着かず、刃がざわつく。

 その理由を考えていて、急に気づいた。

 殺しの禁断症状だ。禁殺などやったのは数十億年ぶりだったので忘れていた。宇宙空間を移動する際など獲物なしで何日を過ごすことはあったが、一ヶ月を超えることはなかった筈だ。

 もう八十七日も、殺していない。予定の日まで百日の禁殺をやるのは、流石にムチャだったようだ。これまで意識して抑えてきたが、ふと気の緩んだ拍子に欲望が這い上がってきた。

 素振りなどやるか。いや、逆に殺戮欲が高まってしまいそうだ。息苦しさを感じる。フィロスは何度か深呼吸した。それから細く長い呼吸に変え、続いて暫く止める。そんなことで気を紛らそうと試みるが、息苦しさは次第に強くなっていった。

 人を殺すためだけに研ぎ上げた肉体であり、精神であった。そうなると逆に、不便なこともあるものだ。フィロスは苦笑していた。

 不殺の苦しみと戦いながら流れ砂で七日が経ち、川縁に終点の立て札が見えてきた。フィロスが使っている懐中時計はガルーサ・ネットの職人が作ったもので、どの世界でも正確な時刻を教えてくれる。世界時計はカイストの殆どが持っているが、フィロスのは特別頑丈に出来ていた。裏側の凹みは『死神』サイア・ハースと立ち合った時に出来たものだ。

 フィロスは流れ砂を出た。川は先をカーブして下りに入っているようだ。

 アースト山は既に、空の半ばを覆うほどにそびえていた。

 丁度近くに麓の町が見える。ガルーサ・ネットの支店がある筈だ。フィロスはひとまずそこへ向かった。

 町の名はアスタルといい、観光都市のようだった。アースト山を見に訪れた大勢の客が土産物を求め、通りは賑わっている。

 獲物の中を歩き、フィロスの苦しみは爆発的に強くなった。殺したい。誰か一人でもいい。いや、自分で課した百日不殺の行だ。これを破れば真実が傷つく。我力が落ちてしまう。しかし、耐え難い苦しみだ。誰かが仕掛けてきてくれないか。自分から殺しはしないが、相手が攻撃を仕掛けてくるなら正当な殺害理由になろう。誰でもいい、そこらのカイストを挑発してみるか。いや、それはやはり行に対して不誠実となる。苦しい。誰かが挑発してくるなら乗ってやってもいい。それはフィロスのプライドに対する攻撃だ。だが、決めたことは、守らなければ。ああ、百日は、長過ぎた……。

 フィロスの体から滲み出る殺気に、人々は身を震わせて振り向くか、そのままの姿勢で凍りついていた。恐怖で心臓発作でも起こしたか、胸を押さえて倒れる者もいる。カイストがギョッとした顔で立ち止まる。来い。仕掛けてこい。フィロスは思わずそう叫びそうになり、なんとか我慢した。

 深呼吸だ。深呼吸だ。ゆっくりと、深呼吸だ。

 全く、トイレが遥か先にあるのに腹を下してしまった一般人のようじゃないか。フィロスは自嘲した。

 アスタルにあるガルーサ・ネットの支店は酒場と宿屋を兼ねていた。フィロスが向かったことは既に伝わっていたようで、エージェントは震えながらも落ち着いた応対だった。フィロスの本質を見極めようとしながら焦りのない視線は、Bクラスの検証士。アースト山の頂きで行われることを記録するために、ここに詰めているのだろう。フィロスは燃え狂う殺意を押さえつけながらディンゴの居場所を問うた。

「現在このスカーダにいます。……ディンゴ本人から許可を得ていますのでお教えしますね。四日前にスカーダ第二出張所を訪れ、現在こちらに向かっているようです」

 後半はフィロスにしか聞こえない小声になっていた。

 うむ。フィロスは頷いた。目標が形を取り、苦痛が少し和らいできた。

「いつ到着する」

「流れ砂を利用しているようですから、アスタルへの到着は約三十四時間後となりますが、他の移動手段を使った場合は前後する可能性があります」

 よろしい。充分間に合うだろう。

 検証士の視線。もう彼も状況を理解しているのだろう。ハイエナのようについてくるかも知れない。鬱陶しいことに。再び殺戮衝動が燃え上がり、フィロスは深呼吸した。手が、プルプルと小刻みに震え、それを見た検証士の顔から血の気が引いていく。

 その顔をスライスしてやりたくなる。刃が疼く。

 深呼吸だ。深呼吸だ。

「大丈夫か、フィロス。何か、調子が悪いようだが」

 『八つ裂き王』を前に静まり返っていた酒場スペースから、男が声をかけてきた。客である三十六人のカイストのうち、最も強い気配を持つ男。戦士、Bクラスの上級。フィロスがその気になれば、刃の一撫でで終わる相手だ。

 フィロスは左目だけを動かして、斜め後方から慎重に歩み寄る男の姿を確認した。男は冷や汗を滲ませながらも少しばかりニヤケていた。恐怖と緊張と、そして期待。この『八つ裂き王』が弱っていて、ひょっとすると倒すチャンスなのではないかと考えているのだ。

 その目を抉り取って千分割してやろうか。……いや。フィロスは細く長く息を吐き出して震えを止め、低い声を絞り出した。

「我は今、欲望に耐えておる」

 男は立ち止まった。大量の汗が男の顔を洗っていく。

「我の自制を邪魔するのなら、それはそれで構わぬ。代償は払ってもらうがな。手足を切り落とし、目耳鼻舌を削ぎ落とし全ての骨格筋を丹精込めて切り離し、百万年かそこらは何も出来ぬナメクジにしてやろう」

 男は何も言えず、震えながらゆっくりと、後退していった。フィロスはガルーサ・ネットのエージェントに告げた。

「一晩、宿を借りたい」

 エージェントも全身汗だくになっていた。

「お、お食事は、どうなさいますか」

「要らぬ」

 案内役の一般人は腰が抜けて立てなかったので、エージェントが直接部屋へ案内することになった。酒場からフィロスの背に、畏怖で凍る視線が集中する。魔術士らしい男の呟きが聞こえた。

「まさか、アースト山に登るのか。あのフィロスが……」

 カイストのための部屋は広く、余計な調度品のないシンプルな内装だった。ガルーサ・ネットの情報端末も置いてあるが今は必要ない。

 フィロスは左右の腰に下げた剣を抜いた。右のは鎌状に湾曲した分厚い片刃剣で、左のは更に厚い両刃の直剣だ。決まった形に慣れてしまわないよう、時折得物を替えている。刃欠けや亀裂のないことを確認し、鞘に戻す。

 浴室も充分な広さがあった。フィロスは久々にシャワーを浴びた。カイストは普通、新陳代謝をコントロールしたり、垢や汚れを飛ばしたり、そもそも汚れを付着させないような技術を持っている。フィロスは固定していた刃を外していき、敢えてこびりつかせていた血を丁寧に洗い落とした。続いて水滴を飛ばし、刃を戻す。

 浴室を出てズボンを履き、鞘を吊るしたベルトを締めてフィロスは姿見の前に立った。

 フィロスの腰から上は隙間なく刃が重なって張りつき、銀色の鱗のようになっていた。人が見れば鎖帷子を着ていると勘違いするかも知れない。

 フィロスは改めて、刃を順番にほどいていった。勾玉のように緩く曲がったもの、鋭い鉤状のもの、星形のもの、三角形のもの。光を反射して煌めくそれらは細い針金に支えられている。

 鋼鉄の刃も針金も、フィロス自身の肉体だった。殺戮のため常時我力を注がれる刃はそれ自体が強化品となっている。針金はフィロスの意志によって自在にうねり、ミクロン単位で操作可能な繊細さと、半端な戦士の剣など余裕で弾く強靭さを併せ持つ。数キロ先まで伸ばすことが出来るが、やはり本体から離れるごとに支配力は弱まっていく。フィロスの得意な間合いは半径五百メートルほどで、相手が強敵になるほど有効半径は小さくなる。

 フィロスは意識を集中させながら、浮遊させたそれぞれの刃が思い通りの位置にあることを確認する。体性感覚と視覚の答え合わせ。全ての針金と刃に触覚があり、その感覚容量は刃一枚と針金一本のセットが一般人の腕一本に相当する。

 針金同士を絡ませないようにしながら刃を室内一杯に広げていく。姿見に映るフィロスは、銀色の葉を茂らせた一本の樹木のようだった。

 刃の数は一万四千八百三十二。一瞬で数万人を殺戮出来る、フィロスの『八つ裂き王』たる所以。強敵相手の戦闘で刃が破壊されることもあるため総数は変動するが、今のこの数はベストに近い。

 点検を進めるごとに狂おしい殺戮衝動は去っていき、フィロスの意識は一枚の刃のように研ぎ澄まされていった。

 広げた刃を戻していき、再びフィロスの胴は銀の鱗に包まれた。その上に赤いマントを羽織る。これで良し。

 フィロスは鏡の自分の顔が笑みを浮かべるのを見た。所々が跳ねた緋色の髪に細い頬と顎。左右に離れた、常人の二倍もある眼球は半ばほどまで突出している。口は大きいが唇は薄い。微笑は自分の目にも残忍冷酷なものに見えた。

 百四十三億年つき合ってきた、殺人狂の顔だった。

 

 

  二

 

 刃の点検作業で八時間以上が過ぎていた。フィロスはベッドを使わぬまま宿を出た。眠らず百年でも活動出来るし、わざわざここまでコンディションを整えたのに休むことはない。

 カイスト達は息を潜めてフィロスを見送っていた。フィロスが訪れた時にいた三十六人のうち十七人が既に町を逃げ出し、新たに四十九人が入ってきている。フィロスの滞在と異状を聞きつけて興味本位で見物に来た馬鹿共だろう。全員、町ごと五秒以内に殲滅出来る。そう考えた瞬間、抑えていた殺戮欲が猛烈な勢いで跳ね上がってきた。いかん、深呼吸だ。ゆっくりと息を吐く。吐く。震えを、静める。

 アスタルの町を出発し、アースト山へ向かった。ここから見える山の幅は約一キロ半。斜面などといったものではなく、柱のようにほぼ垂直にそびえる山。不毛の岩質は青みがかった黒で、頂上は遥か彼方にあった。

 標高は五十七万キロということだった。

 フィロスは山の側面に足をつけた。空間座標確保で取っ掛かりのない場所を踏み締め、重力も無視して山に対して直角の姿勢で登っていく。

 普段の速度では何ヶ月もかかってしまうため、フィロスは加速歩行を使った。空気抵抗など移動の邪魔になる要素を排除し、空間を蹴り続けて何処までも加速していく技術だ。直線軌道ならばこのやり方で光速に近づくことも出来る。

 アースト山の頂上は、Aクラス同士の決闘場として有名な場所だった。ここで歴史に刻まれる勝負をすることは、多くの戦士にとっての憧れであったのだ。

 形式を嫌うフィロスはこれまでアースト山に興味を持たなかった。だがディンゴから果たし合いの手紙を受け取った時にはニヤリとさせられたものだ。

 なるほど、Aクラスになった『鋼のディンゴ』の挑戦は、それほどの重みがあるという訳だ。

 発端は六百九十万年前に遡る。場所はサマルータ、バザム神聖帝国の首都で行われた所謂『御前試合』で、フィロスの相手の一人を務めたのが当時Bクラスのディンゴだった。対決は一対三、いや、一対多数であったため、カイスト・チャートに響くような勝負ではない。だが、負けは負けだ。

 そう、『八つ裂き王』フィロスは、ディンゴ達に敗れたのだ。『彼』にズタズタにされ、九千万年かけて二十八世界の住民を殲滅して立て直したのに、Aクラスが混じっていたとはいえ格下相手に敗北したのだ。『ゴールデン・マーク』……常にカイスト・チャートの百位以内をキープしている強者にとっては、手痛いダメージだった。

 別の世界で転生したフィロスがガルーサ・ネットの出張所を訪れると、ディンゴからのメッセージが届いていた。

 多対一の勝利には納得しておらず、Aクラスになった暁には改めて、一対一で立ち合いたい、と。

 加えて、戦いの場でフィロスを「馬鹿」と面罵したことについて、「ちょっと言い過ぎだったような気がしないこともない」ため、次の立ち合いには「馬鹿」の撤回を賭けたいということ。これにはフィロスも苦笑させられたものだ。

 それから六百九十万年の間、フィロスは、待っていたのだった。

 高速移動する物体や波動の軌道をねじ曲げる、ディンゴの特殊能力は非常に珍しいものだ。Aクラスとなった彼がどのように成長しているか、フィロスは楽しみだった。八百三十万才というかなり若い年齢でのAクラスということに、少し不安はある。あっさり手に入れた高みは、転げ落ちるのもあっけない。

 いや、他人の心配までする柄ではないな。フィロスは自嘲した。

 あの時ディンゴと共に戦っていたキルマの方は、髑髏の顔が戻ったという噂以外はあまり耳にしない。生真面目で不器用な男に見えたから、Aクラスに上がるまではまだかなりかかるだろう。だが、最終的にはそういうタイプが手ごわくなることを、フィロスは知っている。

 キルマの乗馬を務めていた『竜人』ベイオニール・トラサムスや錬金術士のイスメニアスも、噂は聞かないが今も自分の道を進んでいるのだろう。戦士であるフィロスにとってはあまりそそられる対象ではないが、自分に勝った相手なのだから気にかけてはいる。少なくとも、彼らがみっともなく落ちぶれていくことは許さない。

 弱者はただの、肉の塊だ。切り刻むために存在する。

 だが、強者は……強者は、確固たる、強者、なのだ。

 フィロスは強くなりたかった。とにかく強くなりたかった。強くなるためなら何を犠牲にしても良かった。実際そうしてきた。

 そしてここまで強くなって、次に思ったのは、手応えのある敵が欲しいということだった。

 強い敵が欲しい。研ぎ上げたこの刃を全力でぶつけられる相手が欲しい。『彼』はフィロスにとって救いだ。『剣神』ネスタ・グラウドもまあ、良いだろう。他にも百位以内にフィロス好みの強敵はいる。だが、もっとだ。もっと、欲しいのだ。もっと、もっと、殺し甲斐のある敵が。

 自分が一番でありたい。しかし、キリキリとした緊張感に震える勝負の出来る、強い相手が欲しい。

 欲望は、果てしのないものだ。そのお陰で、フィロスは長い道を歩き続けていられる。

 アースト山を登る間、下界を振り返ってはならないとされている。そういう伝統だ。だがフィロスは自分の本質を省みながら登っている。考えるうちに欲望が高まっていく。両手が剣を握りたくて震え、一万数千枚の刃が血を求めて疼く。口の中に唾が溜まってくる。ああ、斬りたい。早く斬りたい。ディンゴよ、遅れるでないぞ。

 山頂が見えてきたのでフィロスは減速を始めた。五十七万キロを走破したのは十六時間ほどだった。山腹の反対側では同じようにディンゴも登っている途中かも知れないが、今のところ気配は感じない。気温は地上と変わらないが空気は薄い。風はなく、静かだ。

 頂上は平坦だった。直径は二十六メートル七十センチ。行われてきた戦いの名残か、藍色の地面はあちらこちらが凹んでいる。

 その地面に黒い服の男が横たわっていた。ここで戦って敗れたカイストの死体が残っているのかと思ったが、次の瞬間、正体を悟ってフィロスは久々に総毛立つ感覚を味わった。

「フロウ。何故ここにいる」

 仕方なく、フィロスはその名を呼んだ。

 『蜘蛛男』または『気まぐれフロウ』と呼ばれる男。フィロスも他のカイストに相当嫌われているが、この男ほどではあるまい。実力はAクラスでも間違いなく百位以内、しかしカイスト・チャートにはランキングされていない。フロウの行う殺しは正式な勝負とは程遠いし、彼自身もチャートの枠に収まらないことを喜んでいる節がある。そもそも、死んだ瞬間に転生して肉体を手に入れ、加速成長して四十五分後には報復の奇襲を仕掛けるような者を、本当に倒したと言えるのか。

 フィロスが知る限り、フロウが本当に敗れたのは正暦二百十二億年、あの有名な百億年戦争で『不死者』グラン・ジーに対し敗北宣言をした時だけだ。

 フロウが目の前にいるということは、血の糸で作った結界の真っ只中にいるということだ。おそらく既に何十本、何百本もの糸がフィロスに絡まっており、フロウがその気になれば、一瞬でフィロスをバラバラの肉塊に変えられるだろう。糸は魔術でなく武器であるため、フィロスの『ブレード・エリア』でも変換されない。

 この男が結界に使う糸は極めて細く、柔軟で、Aクラスでも気づける者は殆どいないのだ。そして、フロウの指のちょっとした動きで、糸は恐ろしく鋭利な凶器と化す。相手を縛るのも切断するのも自由自在だ。

 不殺の行もこの非常事態には吹っ飛んでしまった。フィロスはすぐさま一万数千の刃のうち七割を高密度で展開させた。体の表面に浅く刃を這わせると、糸の切れる微かな感触が幾つもあった。ひとまず、瞬殺は免れたか。ただし、フィロスがそうする前に、フロウはいつでも彼を殺すことが出来た。単に、その気がなかったというだけだ。非常なる屈辱。フロウは他人にそれを味わわせるのが趣味なのだ。

 フィロスは刃の展開範囲を十メートル程度まで広げた。もし糸が襲ってきても刃や針金が切断される感触で知覚し、別の刃で迎撃出来るように。

 『蜘蛛男』フロウはヒョコリと上体を起こした。ポケットのない粗末な黒い服に、靴は履かず素足だ。彼の足の指は手と同じくらい器用に動く。肌は闇に隠れるため浅黒く、痩身で手足も細長い。蓬髪に半ば隠れた顔は不吉な微笑を浮かべていた。

「おや、フィロスか。久しぶりだな。何億年ぶりになるか。ちょっと痩せたようじゃないか」

 フィロスの接近にはとっくに気づいていただろうに、フロウはわざとらしく驚いてみせた。一見隙だらけの大きな伸びまでやってのける。距離は十五メートル。フィロスは仕掛けない。フロウの敏捷さは知っている。気配を完全に消すことが出来、姿が見えているのに気づけない時もある。空間に張り巡らせた無数の糸を操るが、手から伸ばした太めの糸二本だけでも充分に戦える男だ。これまでフィロスがフロウを殺したのは十七回。そして、殺されたのは六百八十二回だ。『八つ裂き王』フィロスを殺した回数においては、フロウは群を抜いて一位だった。

 二度、フロウには粘着された。まだBクラスであった時期に一度。ゴールデン・マークとなってからも一度。どちらも『エトナ締め』した集団をフィロスが殺戮したことがきっかけだ。予告なしの不意打ちで殺され、転生したらまたすぐ不意打ちで殺され、また転生して不意打ちで殺され、とにかく転生しても追いかけられて、殺され、殺され、殺されまくったのだ。フロウのこの手の粘着で墜滅してしまったカイストも多い。平気で約束を破り味方を殺す『気まぐれ』のくせに、『エトナ締め』に関してだけは異様なこだわりを見せるのだった。そのため流石のフィロスも、『エトナ締め』という言葉を聞くとつい警戒してしまうようになっていた。

 殺しても勝った気がしない、こちらが気づかないうちにサクッと殺してくる。本当に、嫌な相手だ。

「何故ここにいる。そなたも待ち合わせか」

 フィロスはまた問うた。これは偶然なのか、それとも何者かの意図が絡んでいるのか。ディンゴが呼んだ訳でもあるまいが。

「俺は日なたぼっこしてただけさ。退屈だったからな」

 日なたぼっこ出来るほど快適な場所ではないのだが。この場所は、長い歴史を背負って張り詰めている。

 フロウが続けた。

「お前こそアースト山に何しに来たんだ。『八つ裂き王』がまさか、伝統の場所で、決闘とか、ねえぇ」

「そのまさかだ。じき相手が来る。場所を空けよ」

「嫌だね」

 予想通り、あっさりフロウは拒否した。

「場所取りは早い者勝ちだろ。うん、お前は順番待ち第一号でいいぞ。俺がどいたらお前の番でいい。ところで、俺は後二百年かそこらはここでのんびりしようと思うんだが、お前も昼寝とかしながら待ってていいぞ」

 こいつはそういう、嫌な男なのだ。こちらの神経をわざわざ逆撫でしてくる。「ならばずっとおっても良いぞ」など言えば拍子抜けして去っていくかも知れないが、フィロスはそういう言葉の駆け引きは苦手だし、敢えて使いたくもなかった。ならば……。

「おっと」

 フロウが上体を起こした姿勢から急にひっくり返って俯せに寝転んだ。そこから首を急角度でひねり上げてこちらを見返し、言った。

「あれえ、もしかして、力ずくで来ちゃったり、するの、かなあ」

 ゾクリ、と、一瞬の悪寒が駆け抜けた後、フィロスは刃の先端まで冷たく冴えていた。いつ攻撃が来てもおかしくない。こちらから仕掛けるか。いや、ここでディンゴを待つのだから予定を壊したくない。これだけ待った、楽しみにしていた立ち合いなのだ。諦めかけてはいるが、出来れば不殺の行も完結させたい。だが『蜘蛛男』相手に中途半端なスタンスでは危険だ。フィロスはこの時点で決断した。こちらからは仕掛けない。フロウが仕掛けてきたら全力で殺す。フィロスの得意は防御より攻撃だし、正直なところフロウの結界の中心で戦うのは不利だが、戦えない訳ではない。殺してもすぐ転生するだろうが、このアースト山の頂きまで戻ってくるには時間がかかるだろう。その間にディンゴが到着すればいい。

 黙っているフィロスの内心を窺うように、フロウはおかしな体勢のまま見上げていた。そしてフッと笑い、仰向けに転がり直して言った。

「そうか。来ないのか。そいつは残念だなあ」

 フィロスは油断しなかった。あらゆる角度からの不意打ちに備え、視覚と皮膚感覚、展開させた一万の刃と針金の感覚に集中する。

 フロウは両手を頭の後ろで組んで枕代わりにし、何もない天を見上げている。ふと足を組み、また戻し、と、急に両足を上げて頭上の地面につけ、グルリと一回転した。フィロスをからかって楽しんでいるのか、更には頂きの縁で立ち小便まで始めてしまった。

 戦いの場を汚しおって。フィロスは怒りで集中力を欠かないよう用心する。フロウの背中は無防備だが、フィロスが仕掛けることを計算に入れているだろう。この男の隙は隙でなく、殺気も見せないまま相手を殺す。

 フロウは小便をしながら口笛を吹いている。聴いたことのない曲だった。綺麗なメロディラインだが何処か暗く、哀切な曲。創美士の作なのか、それとも大昔の一般人の作なのかは分からない。フロウの出立時期は明らかにされていない。正暦成立以前ではないかという噂もあった。

 フィロスに口笛を聴かせながら、フロウは何を思うのか。他人の細やかな心理を察するような神経を、フィロスは持ち合わせていない。フィロスが今やるべきことは、この厄介な男のちょっとした動きと死角からの不意打ちに備え、集中力を維持することだ。

 フロウは小便を終えて地面に寝転がる。と、そのまま転がって頂きの端から落ちた。すぐに少し離れた縁から顔を出し、こちらを見てニヤニヤしていた。

 鬱陶しい道化め。フロウの逆立ちや宙返り、山頂から足を踏み外すふりなどを見ながら、フィロスは考える。ディンゴはいつになったら到着するのか。もう約束の日時を過ぎているのではないか。懐中時計を確認したかったが一瞬でもフロウから注意を逸らしたくなかった。全く、この男は何をしているのか。曲芸を観て欲しいのか。観客はフィロスしかいないのに。結局、こいつは構って欲しいのか。

 いや、そもそもフィロス自身は、何をしているのか。挑発されたら相手が誰であろうがすぐに殺す、それ以前に生きている者がいれば迷わず殺すのが自分ではないか。殺戮こそが、自分の存在意義ではないか。なのに今は、果たし状に舞い上がり、不殺の行まで自分に課して、目の前の男が攻撃してこないかと緊張して固まっている。何を期待しているのか。フロウの気が変わって去っていくのをのんびり待っているのか。それとも、到着したディンゴがフロウを追い出してくれるとでも思っているのか。なんと、情けない姿を晒しているのか。

 フィロスは自嘲しながら、少しずつ消耗していくのを感じていた。フロウを目の前にして使う集中力は並大抵のものではない。こういう持久戦は暫く経験していなかった。必要があれば何年でも耐える覚悟はあるが、ディンゴ戦の前に消耗するのは気に入らなかった。わざわざコンディションを整え、飢えを溜めてきたというのに。開き直って警戒を解き、座ってディンゴを待つか。いやそれは敵に命を委ねた、諦めた者のやり方だろう。

 反応しないフィロスに飽きたのか、フロウはわざとらしい寝息を立てて眠っている。フィロスは一万の刃を開いたまま立っている。もう迷いは消え、フィロスは血の色をした機械と化していた。

 下方から、気配が近づいてくる。

 来たか。加速歩行から次第にスピードを落としてくる。殺気も緊張もない、自然な気配だ。あの時のディンゴの気配もこんな感じだったろうか。いや、あの時は怒っていたな。

 フィロスの中に、ジリジリ、ジリジリ、と溜まっていく。喜びが。殺意が。欲望が。刃が疼く。口の中に自然と涎が溢れてくる。

 ああ、早く、来い。

 血臭を感じた。フロウが目を開けて、片肘ついて頭を支えそちらを見た。アースト山の平らな頂きの、フィロスが立つのとは反対側の端。

 ディンゴがそこに登場した。

 

 

  三

 

「悪い。ちょっと遅れた。加速歩行で挽回するつもりだったんだが」

 ディンゴは懐中時計を開き、フィロスに言った。真正面から見据えてくる視線。うむ。フィロスは頷いた。よく仕上がっている。筋骨隆々たる体格は基本変わっていないが、瞬発力に持久力、柔軟性のバランスを取り総合的に洗練されている。我力だけでなく、体術を鍛え込んできた肉体だ。なんとも、刻み甲斐のありそうな体ではないか。髪は短く、不精髭が少し伸びている。荒削りで野性的だが、何処か緩さも感じさせる顔。唇の左端が少しだけ上がって淡い微笑を浮かべている。外見年齢は三十代前半だが、彼が八百三十万才であることをフィロスは知っている。

「待ったぞ、ディンゴ。六百九十万年ほどな」

 フィロスはフロウへの警戒を解かぬまま、急速に膨れ上がる欲望に耐えながら告げた。

 正攻法を好みつつも、しぶとくしたたかに死地をくぐり抜けることから、『鋼』の二つ名を得た男。多対一ながらフィロスに勝利し、それに納得出来ず一対一での再戦を希望した男。『八つ裂き王』フィロスを真正面から見返せる男。歴史に残る最大級の暴言をフィロスに吐いてみせた男。虫けらに等しい一般人の部下達の死を、厳しい顔で見つめていた男。

 彼は強さを求めるカイストの戦士でありながら、他のカイストとは何処か違っているようだった。多くのカイストが、先に進むために何かを捨て、自分を削っていく。そうやって尖らせたものが、強さなのだ。だがディンゴは余計な何かを捨てず、削らぬまま、全体として完成されているように思える。血の欲求以外のあらゆる要素を捨て去ったフィロスが、どす黒い闇の殺戮機械であるとすれば、ディンゴは機能と美しさを両立させた、一振りの名剣であろうか。

 その名剣の切っ先がフィロスに向けられている。フィロスを殺すために。ゾクリ、と来る。

 待った甲斐があった。ああ、今すぐ切り刻みたい。殺したい。八つ裂きにしたい。殺したい。

「悪かったな。これでも急いだ方なんだぜ」

 さっきのフィロスの台詞に対し、ディンゴが苦笑して右手で頭を掻く。

 ディンゴの左手は、大きな網袋を引き摺っていた。男達の生首が詰まっている。鋭い刃で切断されたものが、十八個。血臭の元はこれだった。見覚えのある顔も混じっている。麓の町の酒場にいたBクラスのカイスト。

「これはな」

 視線に気づいてディンゴが言った。

「山に登る前に麓の出張所に寄ったんだが、こいつらがいてな。『フィロスは俺達を殺さなかった。弱くなった』なんて笑いやがったのさ。散り散りに逃げたから全員仕留めるのに時間がかかってね、そのせいで遅刻さ。言い訳の証拠として持ってきた」

 ディンゴは生首の詰まった網袋を後方に投げ捨てた。標高五十七万キロから落ちていくそれに目もくれず、彼はフィロスを見据えていた。

「俺が目指してる強者が、弱くなったなんて笑われちゃあ、許す訳にはいかんわな」

 ゾクリゾクリ、と、フィロスの背を熱い欲望が駆け上ってきた。

 いい。こいつは、素晴らしい。この男の台詞も、態度も、行動も。素晴らしい。実に、そそられる。

 殺したい。この男を刃でメタメタに切り刻みたい。この男の肉を裂く、骨を割る感触を味わいたい。全ての関節を分解し、苦痛に歪む顔を削ぎ落としたい。それはきっと、素晴らしい筈だ。

 フィロスの息が自然と荒くなり、殺戮衝動はもう爆発寸前だ。いや、まだだ。折角ここまで待ったのだ。フロウもいるのだし、冷静に、進めるべきだ。

「傷は、負っておらぬだろうな」

 フィロスは問うた。呻きに近い声音になっていた。

「心配するな、無傷だ。万全のコンディションじゃねえと負けた時の言い訳材料になっちまうからな。あっと、勿論、負けるつもりはねえぜ」

 期待させてくれる。またフィロスの背筋を快感が走る。

「ただ、そっちの方はちょっと消耗してんじゃないか」

 山頂で寝転がるフロウを一瞥してディンゴは言う。

「気遣いは無用だ。無傷で、消耗は誤差の範囲だ。そなたの寄り道と同程度であろう」

 フロウとやり合わないという決断は正しかったなとフィロスは思った。だが、フロウはこれからどうするつもりだろうか。二人まとめて糸で輪切りにするか。立ち合いの最中にいきなり片方を攻撃して、勝負を台なしにするか。いかにもフロウがやりそうなことだ。

 ディンゴがフロウに声をかけた。

「なあ、あんた。これから俺達はちょっと殺し合いをやるんでね。離れててくれねえか」

 フロウは欠伸しながら答える。

「勝手にやって構わないぜ。俺はここで見物しててやるよ」

「そうかい。なら見てな。ただ、とばっちりを食っても知らんぜ」

 ディンゴは平然としていた。相手がカイストであることは理解している筈だが。フィロスは念のため説明した。

「そやつは『蜘蛛男』フロウだ」

 他人に忠告するとは、自分はなんと親切になったことか。フィロスは自嘲する。いや、全力で刃をぶつけるべき折角の相手が、余計なことで死んでしまっては困るからな。

「知ってるさ」

 ディンゴはフィロスを見返し、左口角を吊り上げる独特の笑みを深めた。

「俺はお前さんとやり合うために来たんだ。その途中に『不慮の事故』で死ぬことになっても、まあ、しょうがないさ。改めて日取りを決めて、やり合う。それだけのことさ。フィロス、お前さんもそう思わないかい」

 ディンゴはもうフロウの方を見なかった。フロウへの注意力配分を完全に捨て去って、全ての力をフィロスに向けているのが分かった。欠片も迷いのない、自分の選択に何一つ恥じるところがないという顔。なんと、単純明快で、心地良く、そそられる生き様だ。

 良かろう。そなたの真っ直ぐさに乗ってやろう。

「その通りだな」

 答えた拍子に、フィロスの唇から涎が零れてしまった。啜る気もしない。カイストは強敵と相対していても、第三者の不意打ちに備えて全方向への注意力を残しておくものだ。だがフィロスは今、注意力の全てをディンゴに集中させていった。直前、フロウの嫌そうな顔が見えたがもう気にならなかった。

 世界は、フィロスとディンゴだけになった。

「では、やるか」

 フィロスが言うと、ディンゴは頷いた。

「感謝してるぜ、フィロス」

「何をだ」

「一つは、挑戦を受けてくれたことだ。Aクラスとして認められたら最初にあんたと立ち合いたかった。あんな皆で袋叩きにする形で、しかもひでえハンデつきで倒したのを、勝ったとは呼べねえからな。きっちりと、白黒つけておきたかった」

 ディンゴは二つの武器を手に取った。背中からと、腰から。右手に握るのは刃渡り一メートル二十センチの反りのある刀で、左手の得物は諸刃の剣を何十も連結したチェーンソードだった。折り畳まれたそれは伸ばせば二十メートルになろう。一つ一つの長さは二十センチほどで、通常のチェーンソードより短く作られている。長剣もチェーンソードも、我力強化の施されていない通常品のようだが、握られた二つの武器は今、持ち主の我力を帯びて淡く光って見えた。

 ディンゴは続けた。

「それと感謝はもう一つ。この六百九十万年、誰にも負けずにいてくれたな。それでこそ、倒す甲斐がある」

 ふふ、期待させてくれる台詞だ。

「我を本当に倒せると思うのか。Aクラスになったとて、我と同じラインに立ったと思わぬ方が良いぞ」

 フィロスもまた腰の武器を抜いた。鎌状の分厚い曲剣と、更に厚い両刃の直剣。格下相手に武器は握らないが、ここで使いたかった。フロウ対策で展開させていた刃に追加して、全体の九割を胴から遊離させた。

「さて、どうだろうな」

 ディンゴは強烈な笑みを浮かべ、左手のチェーンソードを頭上で振り回し始めた。すぐに回転は水平の円となり、更にスピードが上がっていく。浮遊させた刃や針金に円の縁が触れそうになり、フィロスは敢えて避けておいた。

 軌道を自在に曲げるディンゴの能力なら、チェーンソードのスピードを保ったまま複雑な動きをさせられるだろう。一万を超える刃に対抗するため、彼も考えているようだ。フィロスは感心し、殺意とない交ぜになった喜びが増していく。

 二人共、もうお喋りはしない。既に戦いは始まっている。両者の距離は二十四メートル七十センチ。フィロスにとっては刃の間合いだが、ディンゴもワンアクションで間合いに入れる。Aクラスにとっては間合いなどどうでもいい。しかし同じAクラスの戦士同士となれば、再び間合いが意味を持ってくる。鍛練に鍛錬を重ねて積み上げた技が、様々な技術が生きてくるのだ。それを更に吹っ飛ばすのもカイストではあるのだが。術者相手ではないため術を刃に変換する『ブレード・エリア』に意味はなく、フィロスにとって最も好みの戦いとなるだろう。アースト山の頂きにキリキリと、緊張感が高まっていく。

 まだどちらも動かない。ディンゴのチェーンソードだけが金属の擦れる音を微かに発している。どうやって攻めるか、相手の隙を感覚で探る。その気配を読み取って、どのように迎撃するかが瞬時に閃く。ならこの手はどうか。ならこう来るな。そんな感覚的なやり取りを続けていくうちに、相手の力量がはっきりしてくる。

 ディンゴは強くなった。フィロスは感じ取る。六百九十万年前よりも格段に。滲み出る我力の強さも、技の厚みも、Aクラスとして申し分ない実力だ。だが、このフィロスに勝つにはまだまだ力不足だ。どうやって仕掛けるつもりだろうか。注意すべきは軌道を曲げるディンゴの特殊能力だ。毒などは間違っても使ってはこまい。

 瞬間的な感覚戦を無限に積み上げながら、この男を八つ裂きにしたいという欲望が、フィロスの中で天井知らずに高まっていく。それはもう、愛情にも似ていた。

 フィロスには殺戮しかない。だからあらゆる感情は殺しという行為に結実してしまう。そう、『彼』のように。『彼』の場合はおそらく望んだ結果ではなかろう。フィロスは、自ら望んだ。

 素晴らしい。ああ、素晴らしい。欲望で体が張り裂けそうだ。血の甘さに体の芯が溶けてしまいそうになる。熱さが力となり全身に、刃の先端まで行き渡る。殺したい。殺したい。八つ裂きにしたい切り刻みたいバラバラにしたい内臓を目玉を抉り出し骨から肉を綺麗に剥ぎ取り耳鼻を丁寧に削ぎ落とし舌を切り取りたい。悲鳴が聞きたい苦痛の表情が見たい。そなたの中身が見たいのだ。そなたの死をこの手で味わいたいのだ。この手で。この刃で。刃の一枚一枚がフィロスの手であり指であり舌だ。そなたの血の一滴、苦痛の一欠片までを味わい尽くしたいのだ。

 フィロスの全エネルギーがディンゴを倒すためだけに注ぎ込まれ、フィロスはそのためだけに生きる存在となる。

 この時間こそが、真実なのだ。

 キリキリ、キリ。

 緊張感は殆ど物質と化して軋みを上げ始めた。だが、まだ破れるには早い。まだまだ、本当に始まるのは、更に更に積み上がってからだ。血の色をした喜びを、もっと長く味わわせてくれ。

 その緊張感を突然切り裂いて、ディンゴが飛び込んできたのだ。馬鹿なっ。これはないだろうがっ。流れをぶち破るセオリー無視のタイミングに、逆にフィロスは虚を衝かれた。ディンゴの左頬に浮かぶ強烈な笑み。

 うぉおうっ。

 驚嘆の叫びはフィロスの心中のことだったか。それとも、現実に口に出していたのか、自分でも分からなかった。喜びが弾け、刃が、剣を握る腕が、フィロスの全細胞が熱くなった。

 フィロスは好敵手に向かい、全力で、刃を打ち込んだ。

 

 

  四

 

 『八つ裂き王』フィロスは荒い息をつきながら、足元に崩れ落ちた相手を見守っていた。息が乱れたのは疲労ではない。興奮と喜びのためだ。

 『鋼のディンゴ』は、地面に突き立った自分の刀に手を伸ばそうとしていた。だが既に握力はなく、指先が刃を撫でるだけだ。

「まさかな、胴体が、そんなになってた、とは……やられたぜ……たった六百九十万年、で、自分の体を……再構築した、のか」

 ディンゴは呻くように台詞を吐いて、苦笑した。それから大量の血を吐いた。

 ディンゴの致命傷は、右首筋と左胸の傷だった。

 フィロスの負傷は、深いものは左前腕と額くらいだ。額は骨が削れたが脳にまでは達していない。

「弱点は克服しなければならぬ」

 フィロスは答えた。六百九十万年前まで、彼の細い胴には半透明の皮膜に包まれた内臓が収まっていた。今は、鋼鉄より硬い背骨だけが彼の肩と首を支えている。小型化した内臓は首の中にあった。胴の刃を全部は解き放たなかったのは、そのことを最後まで隠しておきたかったからだ。

 再構築……肉体・技を含めて自身のシステムを大幅に変更するのは、年を取ってから行うには辛いものがある。しかし、それだけの甲斐はあった。

 勝者は、フィロスであった。

 死相の濃くなっていく顔で、ディンゴは続けた。

「強いな、フィロス……そうでなくちゃあ……俺が目指す意味が、ない……だからこそ……Aクラスの最初に、選んだ……だからこそ……俺は上を、目指していける……ありがとうよ……ずっと、強いままで……いてくれ……俺が、倒すまで……な……」

「うむ。追ってくるが良い」

 フィロスは告げた。狂猛で甘美な殺意は去り、今は目の前の敵に対する感謝のようなものを覚えていた。そんな感覚は、滅多にないものだった。

 そなたが認めてくれるからこそ、我は生きられる。

 そなたが追ってきてくれるからこそ、我は強くあり続けられるのだ。

 相手を寸刻みにするまでもなく、フィロスは今、満たされていた。

 左の口角だけを曲げたいつもの笑みを浮かべて、ディンゴは目を閉じた。

 ディンゴは死んだ。

 いつの間にか、『蜘蛛男』フロウの姿は消えていた。結局彼は何もせぬまま去ったのか。フィロスには分かっている。この勝負は、『何も賭けぬ男』が気安く介入出来るものではなかった。

 ああ、我が前に広がる世界の、なんと、素晴らしく、果てしのないことか。

 次にディンゴと再戦出来るのは、いつになることだろう。

 伝統の決闘場・アースト山の頂きで、フィロスはそんなことを考えながら、強烈な笑みを留めたディンゴの死に顔を眺めていた。

 

 

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