キューピッド

 

  一

 

 それが本当は何だったのか、最後まで結論は出なかった。

 それが最初に現れたのはニューヨークだった。もしかすると先に何処かの田舎を訪れていたかも知れないが、生きた目撃者がいなければ確認しようがないのだ。

 マンハッタン街を浮遊するそれを、人々は初めのうち鷹だと思っていたらしい。何種類かの猛禽が高層ビルに巣を作って生活していたからだ。だが殆ど羽ばたかず、フワフワと宙を漂うような飛び方は鳥とは違っていた。公園にいたバードウォッチャーは双眼鏡で確認し、戸惑い混じりの笑みを浮かべることになった。

 それは、翼の生えた全裸の男児だった。四才か五才くらいだろう。翼は純白ではなくスモッグで汚れたような灰色だ。髪はブロンドで、つぶらな目の可愛らしい顔立ちだった。

 幼児は左手に茶褐色の弓を持っていた。体格に不釣合いな大きさだ。右手に矢を一本握り、肩掛けした矢筒には十数本収まっていた。

 翼の色を別にすれば、神話のキューピッド、そのままの姿だった。

 気まぐれな浮遊は地上から識別出来る程度まで下がり、気づいた人々は立ち止まってそれを指差した。

「天使かな」

「頭の輪っかがないよ」

「キューピッドだ。弓矢を持ってるだろう。恋の手助けをしてくれるんだよ」

「そうそう、ハートを射抜く奴」

「映画の撮影か」

「悪戯じゃないか。糸で吊ってるんだろう」

「でもあれ、生きてるみたいじゃないか。あんな高いところで、本物の子供だったら虐待だな」

 勝手なことを言い合う地上の人々など知らぬげに、それは無邪気な微笑を浮かべ飛び回る。人々も自然と笑顔になっていた。

 それが右手の矢をつがえ、大きな弓を引き絞った。意外と堂に入った仕草に人々は歓声を上げ、拍手を送った。

 それが矢を放った。百メートル近くを一直線に飛んだ矢は、拍手していた若い男の額に突き刺さった。血塗れの鏃は後頭部から抜けた。

 若い男の目がキョリッ、と裏返り、ゆっくりと前のめりに倒れるのを見ても、人々はまだ拍手をしていた。

 やがて近くにいた一人が「あれっ」と言った。

 その十五分後、別の路地でホームレスの老婆が脳天から顎まで縦に射抜かれて死んだ。更に十分後、ハンバーガー屋を出たビジネスマンが心臓を貫かれた。肩甲骨の間から胸骨へと抜ける傷で、やはり即死だった。

 初日の犠牲者はその三人だった。二日後、それはフィラデルフィアに現れ、四人が射抜かれて死んだ。更に三日後のヒューストンではパトロール中だった警察のヘリがそれに遭遇した。矢がヘリの風防をぶち破って操縦士の頭を貫いた。同じ日に二人が射殺された。二日後、アリゾナで一人死んだ。翌日のロサンゼルスでは五人が殺された。その頃には警察がヘリで頻繁に巡回するようになっていた。三日後、サンフランシスコ上空でそれが認められ、七機のヘリによる追跡劇は四機の墜落、死者二十六人という惨事に終わった。警察は軍の出動を要請した。政府が対応に迷っている間にそれはカナダのバンクーバーに現れて四人殺した。アメリカ国民はハリケーンが過ぎ去ったと思い安堵したが、それは翌日アメリカに舞い戻ってきた。シアトルで六人、ソルトレイクで三人、デンバーで十三人死んだ。シカゴでは七人死んだが、そのうちの二人は一本の矢でまとめて頭を貫かれるという珍しいものだった。

 アメリカ全土がパニックに陥った。

 

 

  二

 

「由々しき事態だ」

「まあ確かに異常な事件ではありますが、一ヶ月で死者は百三十八人。殺人や交通事故の犠牲者数に比べれば微々たるものです」

「百四十三人だ。昨夜五人死んでいる。だが死者の数は関係ない。問題は、天使が人を殺しているということだ。信者が動揺している」

「臍はあるのか」

「え、臍ってのは」

「天使には臍がないという話だが」

「いやそれははっきりした結論が出なかった筈だ。絵画でも臍の辺りは曖昧に仕上げてあることが多い」

「あれは天使じゃないですよ。キューピッドです」

「……」

「キューピッドは天使だろう」

「いえ、キューピッドはローマ神話に登場する愛欲の神、クピドーです。ギリシャ神話ではエロスですね。ですからキリスト教とは全く関係ないんですよ」

「だが混同している信者も多いのでは。そもそも『あれはローマ神話のキューピッドで天使ではないから安心しなさい』などと発表出来るかね」

「矢が刺さって死んでいるだろう。全員が即死だ。キューピッドというのは恋心を起こさせるものではないのか」

「……」

「黄金の矢で心臓を射抜かれた者はそうだと言いますね。また、鉛の矢に射られた者は憎悪を催すとのことです。今回は鋼鉄の矢ですが、特別な効果はないようで」

「そんな神話の話をしているのではない。我々がここで問題にしているのは、現実に暴れている殺人鬼の話だ」

「奴は何故人を殺すのだろう」

「犠牲者は六才の少年から八十七才の老婆まで、人種、職業、信教などあらゆる事項を吟味しましたが、特に一定の傾向は認められません」

「無差別殺人か」

「遊び半分かも知れませんね。まだ子供のようですし」

「本物のクピドーであれば子供ではないのだが」

「科学者連中は生きたままの捕獲を希望しています。あの空中浮揚技術を解明すれば莫大な利益を生むでしょうね」

「あれは捕獲出来るものなのか。神出鬼没で、ヘリを矢で落とすような化け物だぞ」

「大勢の人が見ている前で天使らしきものを殺すのも問題がありますね」

「バチカンは何か言ってきているか」

「特にコメントはありません。事件の殆どが我が国の領土ですから、対岸の火事と思っているのでしょう」

「とにかく、あれをなんとかしなければならん。国家の威信が揺らぐ前に」

 その時、ずっと沈黙を守っていた男が声を発した。

「建設的な意見が出ないのなら、『魔王』を使おうと思うのだが」

「えっ」

 場が、凍りついた。

 

 

  三

 

 アメリカ西海岸、ロサンゼルス。人口約四百万、移民が多く犯罪発生率の高いこの都市に、『ダークサイド』という小さなバーがある。窓はなく壁は黒塗りで、掛かった看板も板にペンキで書いただけのものだ。錆の浮いた鉄のドアが外界との唯一の接点だった。

 ドアに手を伸ばす男が一人。年齢は三十代後半だろうか、燃えるような赤い髪の優男だった。ただし、丸縁眼鏡の奥の瞳は冷たく冴えている。スーツや靴は一見地味だが高級品で、左手に提げたスポーツバッグが男のファッションと調和していなかった。

 男は少しためらった後、ノブを回してドアを開けた。BGMのジャズが控えめな音量で流れてくる。

 内部は意外に広かった。カウンターの上に幾つかランプが吊られているだけで、端のテーブルはかなり暗い。客は数人だけだ。ダークスーツのバーテンダーが昼間なのに「グッドイブニング」と挨拶した。そういう趣向の店なのだろう。

「ミスター・ネフィルクがここにいると聞いたのだが。知っているかね」

 赤毛の男が尋ねると、バーテンは即答した。

「ミスター・ネフィルクサンザ・アークテム・レスハイド、です。無許可で省略すると命取りになりますよ」

「……。では、ミスター・ネフィルクサンザ・アークテム・レスハイドはどちらかな」

「そちらにいらっしゃいます」

 バーテンは微笑して一番奥のテーブルを示した。

 闇の中には誰もいないように見えた。赤毛の男は目を凝らし、やがて椅子の横から突き出したブーツの輪郭が浮かび上がる。その人物は並べた椅子をベッド代わりにしているらしい。

 赤毛の男は大きく深呼吸をして、慎重に歩み寄った。他の客達は気にするふうもなく静かに飲んでいる。

 テーブルにはウイスキーの瓶が一つ立っていた。グラスはない。中身が三分の一ほど残っていたが、テーブルの陰から伸びた腕が瓶を掴んで引っ込んだ。

 二秒後に空瓶が戻ってきた。乱暴にテーブルに置かれたと思いきや、スキュッ、という奇妙な音がして瓶が見えなくなった。まるで、ガラス瓶がそのまま木製のテーブルに押し込まれてしまったように。

 闇の中、赤毛の男がテーブルに顔を近づけようとした時、奥側の椅子に寝ていた男が言った。

「次をくれ」

 男の声は行き倒れ寸前のホームレスのように掠れ、投げ遣りで、疲れ果てていた。

 カウンターからバーテンが尋ねる。

「何にしますか」

「何でもいい。さっきと同じで。……いや、ジンジャーエールにする。どうやら客のようだからな」

 赤毛の男はブーツのそばに立った。

 問題の人物は椅子四脚を並べた上にだらしなく横たわっていた。薄手のコートは汚れて皺だらけで、髪も長い間手入れしていないようだ。こんな客がよく店を追い出されずにすんでいるものだ。薄闇の中で彼は、死人のように目を閉じていた。

「ネフィルクサンザ・アークテム・レスハイドさんですか」

 赤毛の男が声をかけた。

「そうだ」

 目を閉じたまま男が応じた。

「私はデビッド・ハイラーと申します」

「知らんな」

「国防総省の者です。政府からあなたに依頼したいことがありまして、その使いとして参りました。今からお話をよろしいですか、ネフィルクサンザ・アークテム・レスハイドさん」

「ネフィルクでいい。座れ」

 男が許可を出した。デビット・ハイラーは一礼して手前側の椅子に座った。

 モゾリ、と、ネフィルクサンザ・アークテム・レスハイドがゾンビのように起き上がり、正面を向いた。彼の目は開いていた。闇の中でも黒光りして見える瞳は、底知れぬ深みを湛えて国防総省のエージェントを観察していた。

 デビッドは身震いを一つして、ぎこちない微笑を浮かべてみせた。

 バーテンがジンジャーエールのグラスをテーブルに置いた。

「私にも同じものを」

 デビッドの言葉に頷いてバーテンが戻っていく。同時に他の客達が立ち上がり、黙って金を置いて出ていった。気を利かせたのだろうか。

 薄暗い店内はネフィルクとデビッド、そしてバーテンだけになった。

 ネフィルクがジンジャーエールのグラスを掴み、中身を一気に飲み干した。丸呑みした氷がぶつかり合いながら彼の喉を下りていき、カラコロと鳴る。テーブルに戻した空のグラスはシュキュッ、とまた奇妙な音をさせ、消えてしまった。

 テーブルを凝視するデビッドに、ネフィルクは意地の悪い笑みを浮かべた。

「何か気になるかね」

「い、いえ……」

「ほんの座興だよ。くだらない手品だ」

 ネフィルクが左手人差し指を立てると、頭上に吊られたランプが点灯した。寸前まで輪郭すら見えなかったランプだった。二人のいるテーブルが明るく照らされる。

 デビッドが目を見開いた。テーブルの表面は丸い模様で埋め尽くされていた。茶や緑や無色の、ガラスや金属の光沢。酒瓶やグラスや空き缶が物凄い力で圧縮されて厚みを失い、そのままテーブルに張りついてしまったように見えた。

「このテーブルの重量がどれほどか分かるかね」

「……いえ」

「五十六トンだ。ここの床は特別丈夫にしてある。さて、用件に入ってもらおうか」

 ネフィルクが告げた。明かりに照らされた彼の顔は三十代に見えた。黒い髪と瞳は東洋人を思わせるが、彫りの深さと肌の白さは西洋人らしくもある。頬はみっともない不精髭に覆われていた。今も黒光りする彼の瞳は、捕えた小動物をいつ食べるか吟味するような、冷たい視線を投げている。

 彼の分のジンジャーエールがやってきた。デビッド・ハイラーは手をつけずに話し始めた。

「今全米を騒がせている、キューピッドの件です」

「知らんな」

 ネフィルクはあっさり言った。

「酒を飲んで寝てばかりいたんでな。それで」

「……。先月から我が国の各地に出没している、空を飛ぶ幼児なのです。翼があって弓矢を持っており、神話のキューピッドそのままの姿なのですが、無差別に人を射殺しています。犠牲者の累計は昨日の時点で百七十一人です」

「ふうん。その程度の犠牲者なら大したことないな。この国じゃ、普通の殺人や交通事故死の方が余程多い。……それに、自殺かな」

 ネフィルクは髭面を歪め陰気に笑う。

「超常現象ですので。勘違いしたキリスト教の信者達も動揺しています。また、これを機にカルトが終末思想を流行らせたり便乗テロを起こさないとも限りません」

 デビッドはエージェントとしての冷静さを取り戻しつつあった。

「勘違いとは」

「彼らは天使が人を殺していると思っているのです。しかし、天使ならある筈の光輪が頭の上にありません。ローマ神話のキューピッドとキリスト教の天使を混同している人が多いのです」

「ほほう。なら、今暴れているのはローマ神話のキューピッドなのかね」

 またネフィルクは意地の悪い質問をした。デビッドは顔を赤らめ再びペースを崩す。

「い、いえ、その……ですから、我が国が正体不明の相手によって脅威に晒されているのは間違いないことでして。ビデオ映像を分析した結果、各地に出没する幼児は同一の個体である可能性が高いとのことです。しかし、出現した日時と都市間の距離から推定しますと、時速三百二十キロメートルで移動可能ということになります。……これをご覧下さい」

 デビッドはスポーツバッグを開け、細長いケースを取り出した。テーブルに載せて開ける。

 収まっていたのは一本の矢であった。全長七十センチほどで、通常使われるものより短めだ。返りのついた鏃から三枚の羽根まで、全て一体化した鋼鉄製だった。

「幼児の放った矢です。矢は必ず頭か心臓を貫いて即死させています。乗用車のフロントガラスやヘリの風防をぶち抜いて人を殺せる矢です」

「ふうん」

 ネフィルクは興味なさそうに鋼鉄の矢を一瞥する。

「二十三日前に使用されたものです。分析では均質な炭素鋼で、硬度はHRC六十五。組成としては工具用のハイスピード鋼に近いものです。あの……何か、分かりますかね」

 デビッドが尋ねると、またネフィルクは皮肉な笑みを浮かべた。

「国防総省が私に依頼したいのは、矢の分析かね」

「い、いえ。失礼しました」

 デビッドは慌てて首を振る。ネフィルクは彼をからかうのを楽しんでいるようだった。

「あれの正体が何であれ、二度と我が国を騒がせることがないように始末すること。無力化、抹殺、解体、消去……どのような形でも構いません。国防総省からの依頼は以上です」

「報酬は」

「二百万ドルお支払いします。申し訳ありませんが、成功報酬ということで。また、連絡役とサポートとして私が同行します」

「金は余ってるが、まあいいだろう、引き受けた。では行こうかね」

 ネフィルクサンザ・アークテム・レスハイドは立ち上がった。最初のやる気のなさからは想像出来ない機敏な動作だった。

「あ、ありがとうございます。本日の飲み物代は私が払いまベフッガハッ」

 矢を仕舞い、急いでジンジャーエールを呑み干そうとしてデビッドがむせる。ネフィルクは先に出口へ歩きながら人差し指を軽く振って、バーテンに何か合図をした。

 バーテンが一礼し、デビッドに向き直って告げた。

「お代は結構です」

「えっ、どうしてです。国としても契約者にこのくらいのサービスはしておきたいのですが……」

「この店のオーナーはネフィルクサンザ・アークテム・レスハイド様です。オーナーは店内のあらゆるものに対する支配権をお持ちです。生殺与奪から私の給料まで、自由自在なんですよ」

 バーテンダーは澄まし顔で答えた。

 ネフィルクが店を出て、すぐデビッドが続いた。そして「あれっ」と言った。

 横には汚れたコートと髭面のホームレスではなく、高級スーツの美男子が立っていた。ダークグレイのスーツにシャツは漆黒で、ネクタイはしていない。袖から覗くカフスボタンにはルビーが嵌まっていた。革靴も含めてメーカー不明ながら全て一流の素材を使い、持ち主を引き立てるために細部のデザインまで統制されていた。勿論、皺や汚れなど一つもない。

 胸に輝く銀細工のペンダントは、弓矢をつがえたキューピッドが心臓を逆に射抜かれているというものだった。

 男の黒髪は短くなり、綺麗に整えられていた。髭も消えて五才は若返ったようだ。虚無と疲弊の濁りは跡形もなく、瞳は生気に満ちている。

 ネフィルクサンザ・アークテム・レスハイドと同一人物らしい男は、ポカンと口を開けているデビッドに優雅な物腰で告げた。

「デビッド君、出発しようじゃないか」

「は、はい。はい、そうですね、はい」

 デビッド・ハイラーは何度も頷いた。

 

 

  四

 

「デビッド君、君はキリスト教徒かね」

 政府所有のVIP用小型ジェット機内でネフィルクは尋ねた。彼は最高級のシートに背を預け、長い足を組んでいる。窓の外には青空と雲海が広がり、キューピッドの資料は殆ど読まれぬままミニデスクの上に放置されていた。

「ええ、カトリックです。ただし、仕事に自分の信仰を持ち込むつもりはありませんよ」

 向かいのシートで礼儀正しく膝を揃え、背筋を伸ばしたままデビッドは答える。シャツの下に隠れた十字架のネックレスがネフィルクの質問のきっかけであることを、彼は想像も出来なかったろう。

 ジェット機はひとまずダラス・フォートワース国際空港へと向かっていた。ダラスは昨日キューピッドが出現した都市だ。もし特殊な痕跡が残っていればネフィルクがそれを識別出来る可能性のあることと、次の出現場所もそれなりに近い場所であろうことによる。デビッドがそれを提案し、ネフィルクは何を考えているのか表に出さぬまま、あっさり承諾した。

 ネフィルクは上品だがやはり辛辣な微笑を浮かべ、話を続けた。

「人殺しの化け物を追う仕事に信仰は関係ないと思うがね。ところで君は、自分がこの役に選ばれた意味を理解しているのかな」

 少し考えてデビッドは答える。

「私は事実上国防総省に所属していますが、公式には存在しない人間です。十二年前に事故死したことになっていますし、身分証もありません。万が一、あなたへの依頼が取り返しのつかない事態を招いたとしても、政府は関与を否定出来るでしょう」

 ネフィルクは右手人差し指を立て、軽く左右に振ってみせた。

「残念ながら、それでは五十点というところだな。私のことは一応聞いているようだが」

「……。『魔王』と呼ばれているそうですね。出来ないことはないとか」

「出来ないことは色々とあるさ。制約の次元が君達とは異なるだけでね。例えば私は全人類を幸福になど出来ないし、納豆も食べられない」

 最後は冗談なのだろうが、淡々とネフィルクは語る。対照的にデビッドは羨望の眼差しを『魔王』に向けていた。

「八年前は、原発事故の被害を最小限に食い止めたそうですね。報道規制で国民には知らされませんでしたが、本来ならチェルノブイリの五倍の規模だったとか」

「ああ、ネバダの件か。半径百五十キロ以内の放射能は全て処理したが、既に風でエリア外に流れ出ていた分は知らんね。ユタやコロラド辺りで今頃癌患者が大量発生してるだろうが、それもマスコミは報道していないのかな」

「そ……そう、だったんですか……」

 デビッドは唖然としたまま、なんとか台詞を絞り出した。

「あっ、そ、それから、残りの五十点は何なんでしょう」

「君は、これまでの依頼人の話を聞いていないのかね。様々な機関のエージェントが私に依頼に来るが、国防総省からも六、七人は来たな。彼らの一部がどうなったか……ふむ、君は注意事項としてどういうアドバイスを受けている」

「アドバイス、ですか。そうですね、上司からは、ネフィルクさんの命令には絶対服従しろ、と。それから、失礼のないように万全の注意を払え、とも言われました」

「なるほど。君にはこれをあげよう」

 ネフィルクはスーツの内側から小さなものを摘まみ出し、軽く放った。デビッドはテーブル越しに受け取め、意外な重さに目を丸くする。

 それは、直径二センチほどの球体だった。表面はなめらかで、光を反射して輝いている。大部分は黒かったが、薄ピンク色の模様の混じる箇所があった。デビッドは丸縁眼鏡をずらし上げて目を近づける。

 そこは、丸くデフォルメされた人間の顔写真になっていた。若い男の、今にも泣きだしそうな顔。歪み開きかけた口の中に、小さな歯並びや舌も見えた。更によく観察すると、黒い領域の所々に細い線やピンク色の部分がある。スーツの合わせ目や、手、と思われるもの。

「何ですか、これは」

 慎重に、デビッドは尋ねた。

「正確には『誰ですか』と問うべきだろうね。名前は確か、ボリス・クラッドマンだったかな。君の先輩だよ」

「……つまり、これは……」

「十五、六年前だったか。彼は仕事の依頼に来たんだが、私の前で『W』と『T』と『F』が頭文字の下品な台詞を吐いてくれてね。仕方がないので大人しくなって頂いた。素粒子間の距離を圧縮して丸め、勝手にほどけないようにロックしてある。無理矢理圧縮したものだから、ほどけてしまうとちょっとした爆発が起きるだろうからね」

「ええっと……その……彼は、生きて、いるのですか」

 デビッドの視線が掌の上の小さな玉とネフィルクを何度も往復する。

「さあ。どうだろう。物理的には全く活動していないことになるが、意識がどうなっているかまでは知らないな。まあ、折角だから大事にしてくれたまえ」

「は、はあ……あ、ありがとうございます」

 デビッドはぎこちなく礼を述べ、先輩職員の成れの果てをスーツのポケットに入れた。

 と、そのスーツから電子音が鳴り始めた。彼は「失礼」と言ってから携帯電話を取り出した。

「デビッド・ハイラー」

 自分の名を告げた後、会話していたのは三十秒ほどだった。通話を切って彼はネフィルクに言った。

「キューピッドがニューヨークに現れたそうです。最初に目撃された都市ですね。これで一巡したのか、それとも単なる気紛れなのか。到着までに標的が消えてしまう可能性も高いと思いますが、行き先を変更なさいますか。燃料は充分にあります」

「そうしてくれたまえ」

 ネフィルクは表情を変えず答える。

 デビッドは壁のボタンを押した。スピーカーから「はい」と操縦士の声が洩れる。

「行き先変更です。ニューヨークに向かって下さい」

「ここからですと三時間ほどかかりますが、よろしいですか」

「構いません」

 それからデビッドはネフィルクに言った。

「だそうです」

「そうかね。もっと早く着くような気がしたが」

 ネフィルクは窓の外を眺めていた。ジェット機は雲の中に入り、窓の向こうは薄暗い灰色に変わる。

 デビッドは元の席に座り、『魔王』に尋ねた。

「ネフィルクさん。あなたは、どうしてキューピッドが人を殺すのだと思いますか。あれが本物のキューピッドなのかは分かりませんが、何か意味があるのでしょうか。驕り高ぶった人類への警告のような……」

「さあ、どうだろうね。退屈だったのかも知れないな」

 ネフィルクの口元に浮かぶ薄い笑みは、冷酷で、何処かしら禍々しさを感じさせるものだった。

「退屈、ですか」

「そう、退屈は強敵だよ。あまりに長い間退屈に侵されていると、まともじゃいられなくなる。神だって例外ではないだろうね」

「神も……ですか。神が、退屈だからと人を殺せるのですか。そんな、乱暴で無慈悲なことを……」

「おや、意外だな」

 ネフィルクは片眉を上げてみせた。

「神が無慈悲なのは周知の事実と思っていたのだが」

 デビッドが返答に窮しているうちに、飛行機は雲を抜け出した。空は赤く染まりつつあり、下界を高層ビル群が流れていく。

「キューピッドの推定速度は時速三百二十キロ以上ということだったな」

 ネフィルクが言った。

「もしあれが直接飛んで移動していればの話ですが」

「どうやらもっと速いようだ。時速八百キロは出ている」

「えっ」

 その時窓の向こうに何かが見えた。フワフワと浮遊しているが、実際にはジェット機と並行して飛んでいるのだ。

 灰色の翼の生えた幼児だった。鉄の弓を持ち、矢筒を肩掛けしている。無邪気な笑顔がついと客室を覗き、硬直しているデビッドと目が合った。

 壁のスピーカーが操縦士の声を発した。

「おかしなことになっています」

「そ、そうです。奴が今……」

 デビッドは掠れ声で応じる。

「場所が変わっています。いつの間にかニューヨークシティに着いているんです」

「な……」

 デビッドは再び絶句した。

「三時間というのはあっという間だね」

 ネフィルクが面白そうに口元を歪めた。

 窓の外のキューピッドはフワフワと方向転換して離れていく。と、飛行機が旋回し、指示も出していないのにキューピッドを追う。操縦士の立場なら真後ろから追うのだろうが、何故かネフィルク達が窓から覗けるような位置関係を保っていた。互いの距離は百メートルかそこらか。

「ど、どうします」

 デビッドがネフィルクに尋ねる。

「おや、あれを始末するのが私の仕事だと思っていたが、違ったのかな」

 またネフィルクは意地の悪いことを言う。

 キューピッドが飛行機の方を振り向いた。無邪気な顔のままで矢筒から一本抜いてつがえる。すぐに放たれた矢の軌道は見えなかった。反射的にデビッドが身を竦める。

 破壊音は前の方から聞こえた。機体が揺れた。傾いてキューピッドから離れていくと思いきや、数秒で持ち直して追跡を再開する。

「ふうむ。単なる鋼鉄の矢ではここまでの威力は出ないな」

 ネフィルクが自分の顎を撫でる。

 デビッドは壁のボタンを押した。操縦士の応答はない。

「どうしたミック。ミック」

 スピーカーは沈黙を続けた。デビッドは席を立って前のドアを開け、コクピットを覗き込んだ。

 ジェット機の風防に亀裂が入っていた。ミックというベテラン操縦士は首を左に倒したまま動かない。装着したヘッドホンの右耳側から鋼鉄の棒が生えていた。端についた三枚の羽根も同じく鋼鉄製だ。彼のシートからポタリ、ポタリ、と血が滴り落ちる。

 ビキッ、ビシッ、と風防の亀裂が広がっていく。バギャンッ、と今度は後ろから破壊音がした。機体が揺れる。操縦士の死体が左に倒れた。

「どうかしたかね」

 客室からネフィルクが尋ねた。

「ミックが……操縦士が殺されました。キューピッドの矢に頭を射抜かれて……」

「それは奇遇だな。私も今丁度、そういう状態だよ」

 デビッドは振り向いてまた唖然とする。ネフィルクの右側頭部から左側頭部まで、綺麗に一本の矢が貫通していた。

「だ、大丈夫ですか」

「私は運がいい。矢は重要器官をうまく避けてくれたようだ」

 矢は脳のど真ん中を貫いている筈だが、冗談なのか本気で言っているのか判別しようもなかった。

 窓の穴から風鳴りがしていたが、みるみる亀裂が広がって一気に砕け散った。続いてコクピットの風防も全壊し、無数の破片が吹き込んでデビッドの横を通り過ぎる。燃えるような赤毛が揺れ、彼は反射的に頭を抱え上体を屈めた。

 バギャッ、キュグッ、とジェット機の壁が変形し、剥がれ飛んでいく。パネル類が、通信機器が、操縦桿が、そして操縦士の死体がシートごと後方へすっ飛んでいった。コクピットは消滅し、客室の壁もどんどんめくれていく。ギャゴンッ、とジェットエンジンが外れて落ち、更に翼も折れてグルグルと斜めに回転しながら遠ざかっていった。

 破壊音が一段落ついてデビッドが顔を上げた時、ネフィルクは相変わらずシートで優雅に足を組んでいた。頭を貫いた鋼鉄の矢もそのままだ。

 小型ジェット機は客室の床だけを残して全て吹っ飛んでいた。壁も天井も翼も、ジェットエンジンも燃料タンクもなく、ただ幅数メートルのフロアとテーブルと、向かい合わせになった二つのシートだけ。その状態でジェット機の残骸は飛行を続けているのだった。

 デビッドは進行方向を振り返った。百数十メートル離れてキューピッドの姿が見える。元ジェット機はまだ標的を追跡していた。

「こ、これはあなたがやっているんですか」

 デビッドは信じられないといった顔でネフィルクを見た。

「気をつけたまえ。キューピッドが次の矢をつがえているぞ」

 慌ててもう一度向き直ったデビッドの胸を矢が通り過ぎた。スーツの左胸を突き破り、あっけなく背中から抜けていく。鋼鉄の矢はそのままの勢いで後方へ消えていった。

「えっ、あれっ、痛、くない」

 デビッドが自分の傷を確認しようとシャツの合わせ目を開く。

「デビッド君。君も運がいい男だな。君の左胸に生まれつき穴が開いていなかったら、即死していたところだ」

 デビッドの左胸には直径二十センチほどの風穴が開いていた。背中側のシャツの、矢が突き抜けた破れ目が前から見えている。パンチで打ち抜かれたような綺麗なトンネルだが、内壁は赤い胸毛の生えたまともな皮膚で裏打ちされていた。まるでその部分の空間が歪められてしまったかのように。

「わ、私の心臓は何処に行ったんです」

「そんなどうでもいいことより、キューピッドがご機嫌斜めのようだ。どうやら私達が生きているのがお気に召さなかったらしい」

 キューピッドは宙に静止していた。灰色の翼がゆっくりと羽ばたいている。二人を乗せた鉄板も一定の距離を保って静止していた。風は容赦なく吹きつけ、デビッドは落下せぬようシートにしがみついた。

 可愛らしかった幼児の顔は、鬼のような醜い怒りの形相に変わっていた。

 ネフィルクは逆に楽しげで、歌うような口調で告げる。

「見たまえ。何やらとっておきの必殺技でも使いそうな雰囲気じゃないか。デビッド君、良いことを思いついたぞ。さっき君に進呈したマイケル・クラックマン君に役立ってもらおうじゃないか」

「ええっと……ボリス・クラッドマンではなかったのですか」

 うんざりした様子でデビッドが突っ込みを入れる。

「雑魚の名前などいちいち気にしてはいられないよ。君のその先輩エージェントをキューピッドに投げつけたまえ。折角の人間爆弾だ。有効に使おうじゃないか」

 デビッドは躊躇いながらもポケットから小さな球体を掴み出した。表面の凍った泣き顔を見つめ、震える息を吐く。

「特別な矢を出したようだ。早く投げた方がいいと忠告しておくよ」

 キューピッドがつがえたその矢は、鏃部分が眩い光を発していた。沈んでいく夕陽の代わりに現れた、新たな恒星のように。

「で、でも、あんな遠くまで投げられません」

「ふうむ。なら私が投げてやってもいいが。まずは君を圧縮して爆弾に変え……」

「投げますっ」

 デビッドは絶叫に近い声を発し、圧縮されたボリス・クラッドマンだかマイケル・クラックマンだかの球体を投げた。それは見事なコントロールで一直線にキューピッドへと飛んだ。同時に相手も輝く矢を放っていた。

 光が弾けた。夕闇の迫っていた空が白く染まった。

 高い爆発音が最初に、少しして低い唸りのような轟音が届いた。デビッドは耳を塞ぐ。ちょっとしたミサイルなどの威力を軽く超えていたと思われるが、爆風はやってこなかった。二人のいる場所だけ見えないバリアで守られたかのように。下界では建物の窓ガラス数千枚が割れ、人々が悲鳴を上げていた。

「ど……どうなりました。やっつけましたか」

 デビッドが尋ねた。

「蒸発したよ。分子レベルまで分解された。……が、死んではいないな。拡散した状態のまま逃げたようだ」

 自分の頭に刺さった矢を引き抜きながらネフィルクは答えた。

「一休みして作戦会議に移ろう。デビッド君、どのホテルがいいかね。この鉄製の魔法の絨毯で、目当ての部屋に突撃しようじゃあないか」

 何故か彼は上機嫌だった。バーで飲んだくれていた時の虚ろ具合とは大違いだ。

「……すみません。普通に地上に降りて頂けますか」

 デビッドは力なく言って、自分の左胸を確認した。いつの間にか、背中まで続くトンネルは塞がっていた。

 

 

  五

 

 グランドハイアット・ニューヨークの最上級スイートを陣取ったネフィルクサンザ・アークテム・レスハイドは、部屋にいる時間の大半を、酒を飲んだり読書したり眠ったり、或いはデビッド・ハイラーをからかったりして過ごした。

 宿泊料はデビッドの分までネフィルクが持っていた。フロントで彼が名乗ると慌てて老支配人が現れ、三十年ぶりの来訪を歓待した。

「料金は足りていたかね」

「はい、まだ五百年ほどはご滞在頂けますので」

 こんなやり取りを見てもデビッドは溜め息をつくだけだ。

 作戦会議らしきものは何も行われなかった。デビッドが今後の対策を尋ねても、ネフィルクはワインを飲みながら「今罠を仕掛けているところだから任せておきたまえ」と答えるのみだ。

 キューピッドとジェット機の残骸の異様な空中戦は、大勢のニューヨーク市民に目撃された。マスコミはいよいよハルマゲドンかと騒ぎ立てたが、政府の公式発表は何もなかった。

 キューピッドの再登場は四日後だった。早朝のデトロイトに現れ、十五分のうちに八十三人を殺してすぐに消えたという。目撃者によると特に傷を負ってはいなかったらしい。大量に殺して短時間で引き上げるようになったのは、ネフィルクに攻撃された腹いせと、再度の遭遇を怖れたためなのだろうか。キューピッドが人間みたいにそこまで考えているのかは、誰にもわからない。

 出現の報を受けたデビッドがそれを伝えると、ネフィルクは気楽に肩を竦めた。

「そうか」

「行かないのですか。あなたはこの間みたいにワープして、一瞬で行き来出来るのでは」

「行っても意味がないからね。デトロイトには罠を仕掛けていない」

「しかし……こうしている間にも、罪もない人々が殺されているんですよ」

 ネフィルクはページをめくる手を止め、デビッドを見て不思議そうに首をかしげた。

「それがどうかしたのかね」

「……。そ、それは別にしても、出来る限り早く依頼を果たして頂く方が望ましいのですが」

「ふうむ。無意味なことを敢えてやるのは気が乗らないな」

 ネフィルクが指を鳴らすと、次の瞬間には手にシガレットを持っていた。もう一方の手はいつの間にかライターを握っており、悠然と火を点ける。

 口をすぼめて吹いた煙は妙に濃く、数メートル離れたデビッドの前をわざとらしく漂って何度か咳き込ませた。

 またパチンと指を鳴らすと、シガレットもライターも消えた。デビッドに煙を吹きかけるためだけに出したらしい。

「デビッド君、こうしようじゃないか。君の手足のうちどれか一本を貰おう。そうすれば私もやる気になってデトロイトに向かう」

「そ、それは……」

「心配要らないよ。手足の一本や二本なくても人は生きていけるものさ。早く決めてくれたまえ。君が迷っている間にも、罪もない人々が殺されているのだよ。……それともまさか、デビッド君、大勢の人の命よりも自分の手足の方が大事、ということなのかなあ」

 デビッド・ハイラーは何も言わず、顔を真っ赤にして俯いてしまった。そんな反応を観察するネフィルクの瞳は、昏い喜びに溢れていた。他人の苦悩を見ることが人生唯一の楽しみであるかのように。やがて彼は立ち上がり、古いSPレコードの蓄音器でクラシックを聴き始めた。

 キューピッドは毎日何処かの都市に現れた。サンディエゴで百十三人死んだ。ポートランドで五十一人死んだ。ラスベガスで九十五人死んだ。ニューオリンズで七十九人死んだ。出現場所を急いでデビッドが伝えても、ネフィルクは「残念だったな。そこには罠を仕掛けていない」と澄まして答えるのみだ。マスコミはキューピッドによる虐殺を騒ぎ立て、政府の無策をなじっている。日中の都市部では警察のパトロールが増え、とうとう州兵まで動き出した。しかしキューピッドにはライフルもミサイルも通じなかった。反撃され矢で殺された警官は五十名を超えた。市民は出歩かなくなり、アメリカの経済は停滞し始めていた。カトリックとプロテスタントが罪をなすり合い殺人事件にまで発展した。幾つかの都市で住民の暴動が起きた。任務を急かす国防総省からの電話に、デビッドは言い訳を続けるのみだ。

 ネフィルク達がホテルに篭もって十二日目の午後三時。デビッドの携帯電話に新たな出現情報が届いた。ミズーリ州セントルイス。チェスの駒を一個一個真上に積み重ねていく偉業に従事していたネフィルクは、掌の一押しで駒も盤も圧縮消滅させて立ち上がった。

「行こうか」

 ついにその時が来たのだ。

 彼は蓄音器を止めて丸ごと消し去り、靴の下に敷いていた聖書は踏みつけて消した。それからワインの残りを高く差し上げたグラスに全部注いでしまい、溢れる端から口で受け止めて飲み干してしまった。空のボトルもグラスもパンッと掌を打ち合わせた時には消えていた。一連の動作は珍しくキビキビして、ネフィルクの黒い瞳は期待に輝いていた。

 待ちに待った進行にデビッドは安堵の表情を浮かべ、携帯の相手に告げる。

「ええ、今から出発します。……えっ、おかしな事態って、どうしたんです。とんでもないことに……とは」

 デビッドはネフィルクの方を見た。スイートルームの出口ドアまで歩き、ネフィルクが振り向いた。彼は微笑を浮かべていた。いつもの皮肉っぽいが優雅な微笑ではなく、どす黒い悪意の染みついたそれだった。

「セントルイスだ」

 ドアを開けた先はホテルの廊下ではなく、明るい平原が広がっていた。

 

 

  六

 

 セントルイスの平原から吹き込んだ強い風がデビッド・ハイラーの顔を叩き、彼は眼鏡を外して目を擦った。

 それから眼鏡を掛け直し、目の前の光景に短い感想を述べた。

「馬鹿な……」

 ネフィルクが平原へ足を踏み出した。途端にドアが消え、スイートルームが消え、デビッドも土の上に立っていた。

 デビッドが慄きながら見上げる先、晴れた空に巨大な球体が浮かんでいた。

 直径十キロメートルを余裕で超えていそうな球体は、表面を半透明の膜に覆われていた。歪みのない、完璧な球だ。下半分は茶色で、土の塊であるようだった。その上に建物が並んでいた。端の方では水が揺れている。あれはミシシッピ川だろうか。高さ百九十二メートルの有名なゲートウェイアーチまで見えた。

 球体の下の大地には、抉り取られた巨大なクレーターが残るだけだった。

「セントルイスを丸ごと隔離した。予め結界を張っておいた都市の一つだ。発動は一瞬だよ」

 ネフィルクが説明した。

「サービスで可視光線の一部は通しているが、他には何も通さない。キューピッドが拡散してももう逃げられない。これを消去して終わりだ」

「消去って……住民は……中に、セントルイスの住民がいるんじゃないですか」

 デビッド・ハイラーは問うた。いや、彼は答えを悟っていただろう。

 ネフィルクはにこやかに返した。

「それがどうかしたのかね」

 セントルイスを収めたカプセルに向き直り、ネフィルクは両腕を上げた。天を支えるかのように広げた両掌の間を、少しずつ狭めていく。

 球体が、少しずつ、縮み始めていた。下半分の岩盤に亀裂が走り、ずれていく。地表がめくれ返るのが見えた。ビルが揺れ、ぶつかり合いながら倒れていく。デビッドは耳を塞いだが、三十五万の住民の悲鳴は聞こえはしない。聞こえるのは風の音だけだ。空の領域が追いやられ、大地が窮屈そうにせり上がっていく。ゲートウェイアーチがひん曲がって崩れていくのが見えた。

 三十秒後、かつてセントルイスであったものは、ただの土の塊となった。加速度的に縮小を続け、既に最初の体積の万分の一もないだろう。あれだけの質量は何処へ消えたのか。それとも単に圧縮されているだけなのか。

「死んだ……皆、死んだ……」

 呆然と呟くデビッドの目から、涙が零れていく。

 ネフィルクが掌で手招きをした。百メートル程度まで縮んだ球体が滑るように近づいてくる。

 二人のすぐそばで静止した時、セントルイスは径二メートルほどになっていた。表面は黒褐色や茶色のまだら模様だ。

 ネフィルクが右手人差し指を立ててクルクル回すと、球体がその場で回転し、更に内部が掻き混ぜられて模様が流れた。

「フフ。いたな。君も見届けたまえ」

 ネフィルクが珍しく笑い声を洩らした。

 デビッドはフラフラと歩み寄り、それを確認した。

 球体の内壁に頬を押しつけられるようにして、キューピッドがいた。おそらくは内部の唯一の生存者であろう。時折姿が薄れるが、やはり球体からは出られないようですぐに戻ってしまう。

 血走った目が憎々しげに、ネフィルクを睨んでいた。右手は矢を握っていたが左腕は土に埋まり、身動きが取れずにいる。

 球体が更に、縮小していく。径一メートル半。一メートル。そして八十センチ。拡散も出来ず、手足を折り曲げてなんとか収まっている獲物を、ネフィルクは冷酷に観察していた。いや、彼の顔は熱い悦楽に緩んでいた。彼の体は小刻みに震えていた。全身に満ち満ちた歓喜を必死に堪えているように。

「終わりだ」

 ネフィルクが指を鳴らした。球体の表面に幾つも黒い線が生じた。突然内部が凄い勢いで回転を始める。高性能のミキサーにかけられたように。

 十秒ほどして攪拌が終了し、黒い線は薄れて消えた。

 球体の内壁には、赤い染みが無数に散っていた。

 圧縮された土に混じり、肋骨の一部や、脳の破片らしきものが見えた。

 血走った眼球が一つ、まだネフィルクを睨んでいた。それも、彼が再度指を鳴らすと弾けて消えた。

 球体はまた縮小を再開し、直径二十センチとなり、十センチとなり、一センチとなり、米粒程度の大きさとなった。ネフィルクが手を伸ばして指で摘まみ、セントルイスとキューピッドの成れの果てをプチュリと潰した。

 離した指には、何も残っていなかった。

 契約を果たした瞬間、ネフィルクの瞳から急速に生気が失われていった。これまでの歓喜が嘘であったみたいに、バーで飲んだくれていた時のような投げ遣りで虚ろな顔に戻ってしまった。

 デビッドはネフィルクのそんな変化より、別のものに気を取られていた。二人に注いでいた日差しが翳っている。

 五秒前まで快晴だった空が黒雲に覆われていた。降り出した大粒の雨は墨のように黒く、二人のスーツを汚していく。雷鳴が轟いた。連続して雷が落ち、同時に三か所で光るのも見えた。強風に煽られて二人のスーツがはためいた。落雷のペースは更に速くなり、世界は雷で埋め尽くされる。

「空が……泣いている……いや、怒っているのか……」

 異常な雷雨の真っ只中で地面に膝をつき、デビッドは呟いた。彼の赤毛は濡れて黒ずみ、額にへばりついている。

「あれは……キューピッドは、やはり、神の使いだったのでしょうか。もしかして、現代の腐り切った人類を戒めるために……もし、そうだとしたら、私達は、何ということをしてしまったのでしょう。ネフィルクさん……」

「知らんね。帰って酒飲んで寝る」

 素っ気なく答え、『魔王』ネフィルクサンザ・アークテム・レスハイドはエージェントを置き去りにして消えた。

 

 

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