悪魔の土地

 

 細く目立たない森の道は、通る者を不安にさせる。本当にこの道でいいのだろうか。平沢徹は額の汗を拭った。

 木々の間から差し込む強い日差しは平沢達の頬を焼く。彼らは黙々と歩いていた。もうどれくらい歩いたろうか。一時間は経っている筈だ。

 平沢の肩にはリュックサックが重く食い込んでいた。他の三人も、同じように荷物を運んでいた。一週間分の食料や着替えなんかが入っている。車が通れれば良かったのだが。平沢は思った。

 平沢徹と妻圭子、平沢の友人の黒木茂光とその妻早枝。彼らは夏の休暇をのんびり過ごすために、この地にやってきた。それがどうしてこんな苦行に耐えねばならないのか。平沢の脳裏に坂田の顔が浮かぶ。

 坂田は数ヶ月前に酒場で知り合った男だった。いつもにこにこした、人の良さそうな男だ。この男が平沢達に、自分の別荘を一週間使ってもいいと言ってくれたのだ。深い付き合いでもない相手にそれほどの好意を受けるのはどうかと思ったが、大学生の息子の孝志は友達と北海道に旅行に行っているし、無理矢理取らされることになった有給休暇を持て余していたところだったので、平沢は甘えることにした。一緒に酒を飲んでいた黒木も、この話には喜んで応じた。黒木は高校時代からの親友で、小説を書いている。サラリーマンの平沢と違い、暇な時間の多い黒木はちょくちょく平沢を誘って飲みに連れていく。

 話によると、海と山の両方が楽しめる素晴らしい避暑地ということだったが、僻地も僻地、車も通れないような山奥だ。ここに来たのは間違いだったのではないかと、平沢は思い始めていた。

「お、人がいるぞ」

 先頭を歩いていた黒木が声を上げた。平沢も疲れた顔を上げた。

 少し先の道端に、一人の老人が石の上に腰を掛けていた。地蔵か彫像のように、老人は微動だにせず座っていた。樵か農家の人か、とにかく田舎の服装だ。歩き疲れて休んでいるのだろうか。平沢は思った。

 一行が近づいてきても、老人は見向きもしなかった。

「あの、すいません」

 平沢は声をかけた。

 老人は動かなかった。平沢を無視してただ遠くを見ていた。

 平沢はむっとしたが続けた。

「ちょっとお尋ねしますが、坂田という人の別荘はこの近くですか」

「やめとけ」

 老人の口が動いた。

「え」

 圭子がポカンと口を開けた。

 老人は初めて平沢に目を向けた。無感情な、冷たい瞳だった。

「行かん方がいい。ここは呪われた土地じゃ。来た道を引き返してすぐ帰れ」

 何を言っているのだろう。平沢は呆れた。呪われた土地、そんな迷信めいた言葉を口にする人間が、この現代まで生きているとは思わなかった。

「ここが呪われた土地なら、あなたは何故ここにいるんですか」

 平沢は聞いてみた。

「わしはもう手遅れじゃ。わしはこの土地から離れられん」

 老人は淡々と答えた。

「そうは言われても、折角ここまで来たんだから、楽しんでいこうと思いましてね」

 黒木が薄ら笑いを浮かべて言った。

 少しの間、沈黙があった。

 やがて老人が言った。

「目当ての別荘なら、この先にある。後は勝手にするがいい」

「どうもありがとうございます」

 平沢達は頭を下げた。

 少しして黒木が言った。

「頭がおかしいのさ、あのじいさんは」

「でも小説の題材にはなるんじゃないのかい」

 平沢は言ってやった。

「そうだな」

「ちょっと気味が悪いわ」

 圭子が言った。黒木の妻の早枝も不安そうな顔をしていた。

「でもここまで来たんだから、行くしかないだろう。ここで引き返したら、使わせてくれる坂田さんにも悪いよ。少なくとも、別荘に着いてからにしよう」

 平沢は言った。

 

 

 更に二十分ほど歩くと、風に潮の匂いが混じり始めた。海が近くにあるのだ。

 そして漸く彼らは目的地に到達した。

 別荘は二階建ての木造の建物だった。色褪せ具合いがなかなか渋い感じを出している。手入れする者がいないのか、周囲には草が生え放題だった。

「ふうん。まあ、まあかな」

 黒木が顎を撫でながら言った。

「なんだか幽霊屋敷みたいね」

 圭子が唇を軽く歪めて言った。面白がっているような風情もある。

 平沢は建物を見た瞬間、理由もなくぞっとするような悪寒にとらわれた。帰った方がいいかも知れない。本気であの老人の言葉を信じ始めていた。ふと黒木の妻と目が合った。彼女はやや青ざめた顔をしていた。

 だが平沢が再び建物を見上げた時には、その不気味な感じは消えていた。

「じゃあ入ろうか」

 平沢は言った。彼は坂田から鍵を預かっていた。

 内部は意外と埃も少なく現代的だった。電気が通っているらしく、スイッチを入れると電灯がついた。圭子と早枝は冷蔵庫に食料を移した。一月分くらいの食料が収まってしまいそうな大きな冷蔵庫だった。水道も通っていた。

「外にタンクがあったろ。そこに一旦、水を貯めてから流してるみたいだな」

 黒木が言った。

 一階は広いリビングとキッチン、バスルームとトイレだ。トイレも水洗で、平沢は感心した。バスルームはシャワーもついている。

 二階は寝室が四部屋ほどあった。そのうちの二部屋を使うことにする。ダブルベッドには真新しいシーツも掛けてあった。

 ベランダの外は海が広がっていた。

「ひええ、見ろよ」

 黒木が下を指差した。

 ベランダの下は断崖絶壁になっていた。遥か下の岩場を波が洗っていた。

 着いた時は気づかなかったが、この別荘は、崖の上ぎりぎりのところに建っているのだった。

「こりゃあ、落ちたらひとたまりもないな。柵がぼろくなってるみたいから、気をつけろよ」

 黒木が冗談っぽく言った。

「しかしこれじゃ泳げないなあ。折角水着も持ってきたんだが」

「そうでもないさ」

 黒木が左手に見える浜辺を指した。

「あそこまで、林を伝ってなんとか下りられそうだ。一休みしたら行ってみよう」

 平沢達は荷物を整理してリビングで寛いだ。最初はどうなることかと思ったが、なかなか楽しくやっていけそうだ。

「坂田さんは、上の方にも山小屋があるって言ってたよな。明日は俺はそっちの方に行ってみようって思ってるんだ」

 まだ午後二時なのにビールを飲みながら、黒木は言った。

 

 

 緩やかな斜面になっている林を平沢達は下りていった。水着に着替えてビーチパラソルを抱えてだ。浜辺まで続く細い道が残っていた。

「本当に自然の豊かなところねえ。ここら辺一帯は全部坂田さんの土地なのかしら。誰も住んでいないみたいだし」

 圭子は言った。

「そうだな」

 平沢は答えた。それにしても、鳥の声、蝉の声一つないのはどういうことだろう。この土地は、死んだように静まり返っている。林の木々も、見ようによっては奇妙にねじくれて怪物のようだ。

 見回すうち、地面に何か白いものを認めて、平沢は目を凝らした。

 その細長く白いものは土にまみれ、地面から浅く突き出していた。地中に埋められていたものが、雨によって土を洗い流され露出したようだった。

 骨のようだと、平沢は思った。

 実際、それは人間の手の骨のように見えた。

 前腕の真ん中辺りから先が突き出している。残りの部分も埋まっているのだろうか。

「どうかしたか」

 立ち止まった平沢に気づいて黒木が声をかけた。

「い、いや。何でもない」

 平沢は答えた。言わない方がいい。平沢はそう判断した。言っても皆不安がるだけだ。何も良いことはない。

 しかし誰の骨なのだろうか。それに、埋めたのは・・・。

 

 

 平沢達は浜辺に着いた。誰も汚す者のない、美しい海岸だ。繰り返し打ち寄せる小さな波が、サンダルを履いた平沢の足に絡みついた。

 真夏の太陽の光は明るく降り注いでいるのに、海の色は意外に暗かった。

「泳ごう」

 黒木が言って、真っ先に海に飛び込んだ。平沢もサンダルを脱いで足を進めていった。圭子も早枝も、そろそろと後に続く。

 ビキニ姿の圭子は弛んで前にせり出してきた腹を隠そうともしなかった。結婚した当時は切れるような美貌を誇っていたが、最近では醜い皺が、その顔に本性を刻み始めていた。辛辣で自分勝手な本性を。

 早枝は控え目なワンピースの水着だった。体の線はまだ少しも崩れてはいなかった。平沢と目が合うと、早枝はちょっと寂しげな微笑を浮かべて見せた。

 本当は、早枝と結婚する筈だったのだ。平沢は思い出していた。圭子と早枝は親友同士だった。早枝と付き合っていた平沢を、圭子が無理矢理奪い取ってしまった形だった。気の優しい早枝は、親友と争うことが出来なかった。そのうちに黒木が早枝にプロポーズして結婚した。黒木はいい奴だ。早枝をきっと幸せにしてくれるだろう。平沢はそう思うことで自分の罪悪感を癒していた。黒木との間は現在もうまくいっているようだった。ただ子供が出来なかったことを除いては。

 黒木は既にかなり先を泳いでいた。圭子も早枝も、彼の方へ泳いでいった。平沢は泳ぎがあまり得意ではなかったので、慎重に歩いて進んだ。

 水面が首の辺りまできた時、平沢は誰かに右足を掴まれた。

「おっ」

 平沢は、悪戯好きの黒木の仕業だろうと思った。水中を潜って、気づかれないようにここまで近づいてきたのだ。

 だが前を見て平沢はぞっとした。黒木はいる。前方を泳いでいる。それどころか、圭子も早枝の姿も見える。するとこの足を掴んでいるのは誰なのか。

 掴まれた足を、物凄い力で引っ張られた。下へ。

「うわゴブッ」

 平沢は水を飲んでむせた。左の足も掴まれていた。容赦なく、ぐいぐいと引っ張ってくる。

 平沢は必死で両腕をばたつかせて顔を水面から出した。

「た、助けてくれ」

 黒木達がこっちを向いたのが見えた瞬間、再び水中に引きずり込まれた。大量に水を飲んだ。

 死ぬ。殺される。何者かに両腕も掴まれた時、平沢の頭にそんな思考が浮かんだ。平沢の体に狂気の力が走り抜けた。平沢は力ずくで腕を振りほどいた。自由になった手で、足を掴んだ手を引っ掻いた。暗い海水の中で、殆ど何も見えなかったが、相手の肉の裂ける嫌な感触があった。右足が自由になった。その足で、左足を掴む手を乱暴に蹴りつけた。三度蹴ると、手は離れた。

 ざまあ見ろ。

 水面に頭を出して荒い息をつく平沢の前に、心配そうな黒木の顔があった。

「どうした」

 誰かに足を引っ張られたんだ。危うく溺れ死ぬところだったよ。

 平沢はそう言おうとして止めた。どうせ信じてくれないだろう。きっと黒木は『また平沢が妙な冗談を言ってる。頭は大丈夫か。はっはっはっ』とでも言うに違いない。

「足が・・・足が、つったんだ」

 平沢は言った。

「運動不足だからよ」

 圭子がやや軽蔑の眼差しで言った。

「大丈夫か。無理しない方がいいぞ」

 黒木が言った。

「あ、ああ。俺は泳ぐのはあまり好きじゃないからね。ビーチでのんびり君達が遊んでいるのを見物していることにするよ」

 そう言って平沢は浜辺に上がった。

 今のは、本当にあったことなのだろうか。幻覚ではないのか。実際は文字通り、ただ足がつっただけではないのか。あの老人が変なことを言ったから・・・。平沢の思考が、物事の合理的な解釈を始めていた。

 だが平沢の足首には、動かぬ証拠が残っていた。

 紫色の、指の食い込んだ痕。

 あんなに簡単に、肉が裂けた。あれは何だったのだろう。

 とにかく、足首の痕を皆に見られないように気をつけよう。平沢は思った。

 何も知らぬ三人の、楽しそうな笑い声が聞こえていた。

 

 

 夕食は圭子と早枝が作った。男共は皿を並べただけだ。

 別荘は食器も揃い、ガスも通っていて、申し分なかった。

 楽しいひとときが過ぎ、一行は寝室に入って床についた。

 平沢は夢を見た。

 

 

 それは悪夢だった。

 空は黒かった。真昼の筈なのに暗かった。黒い太陽が浮かんでいた。

 一人の男が、叫びながら走っていた。男の両手には鎌が握られていた。

 男の顔は見えない。後ろ姿だけだ。

 男は疲れを知らず、道を全速力で駆け抜けた。景色には見覚えがあった。どうもこの別荘の近くらしかった。

 男はただ一つの言葉を、繰り返し、繰り返し、叫んでいた。

 彼は、死ね、と叫んでいた。

 村人達が男を見て慌てた。奴が出た。逃げろ。逃げろ。逃げろ。奴が出た。

 人々の服装は、何処か古めかしいところがあった。洋服を着てる者など誰もいない。

 逃げ惑う人々に、男は追いすがって鎌を振った。

 首が飛んだ。血が噴き出した。背中にざくざくと、男は鎌の先を刺しまくった。

 男の殺戮は、とどまるところを知らない。

 男は、笑っていた。笑いながら、叫んでいた。

 死ねえ。ズバア。首が飛ぶ。

 死ねえ。ズバア。首が飛ぶ。

 死ねえ。ズバア。首が飛ぶ。

 死ねえ。ズバア。首が飛ぶ。

 道には、無数の死体が転がっていた。

 男の服は、返り血を浴びて真っ赤に染まっていた。

 だが男はまだ満足していなかった。

 幼い子供の首が飛んだ。老人が八つ裂きにされた。妊婦の腹を男は笑いながら引き裂いた。男は血の滴る鎌を振り続けた。

 死ねえ。ははは。死ねえ。ははは。死ねえ。ははは。死ねえ。

 出し抜けに男がこっちを振り向いた。平沢はギョッとした。

 男の顔は・・・。

 男の・・・顔は・・・。

 黒木茂光の顔をしていた。

 

 

 ひどい朝だ。平沢は重い頭を振った。気分が悪かった。頭も痛む。そんなに酒を飲んだ訳じゃないのに。

 黒木は上機嫌だった。平沢は、黒木の顔を真っすぐに見ることが出来なかった。

 ハムエッグを食べながら黒木は言った。

「今日は上の山小屋に行ってみる積もりだ。きっと見晴らしもいいし、面白いものが見つかるかもな」

 黒木は平沢も誘った。

「ちょっと気分が悪いんだ。今日はここでのんびり涼んでいるよ」

 平沢は断った。早枝はすこし心配そうな顔をしていた。

 いや、それは平沢への心配だったのだろうか。それは迫り来る・・・の・・・。

 平沢の状態を見るということで、圭子は残ることにした。

「行ってくるよ。もしかしたら一泊くらいしてくるかもな」

 黒木達は元気良く出かけていった。

 平沢はベランダから崖下の荒れる波を眺めたり、リビングでソファに横になって、海から吹く心地好い風を味わったりして一日を過ごした。圭子は昼頃までリビングにいたが、午後は散歩してくると言って出ていった。

 平沢は一人になった。

 ソファでうつらうつらしていた時に、電話のベルが鳴った。

 もう太陽は西に沈みかけていた。

 平沢は起き出して、自分が疲れていることに気がついた。関節と筋肉が痛む。悪寒もする。風邪をひいてしまったのだろうか。

 平沢はふらつく足で電話に近づき、受話器を取り上げた。

「はい」

「父さんかい」

 聞き慣れた声がした。北海道にいる筈の、息子の孝志だった。

「孝志か。どうしたんだ。よくここが分かったな」

「父さんが教えてくれてたじゃないか。元気にやってるかなと思ってかけてみたんだよ」

 そうだったかな。よく覚えていないが。

「まあ、元気だ。そっちはどうだ。友達とは仲良くやってるか」

 平沢は痛むこめかみを撫でながら言った。

「まあね。母さんはいるかい」

「母さんは、今散歩に・・・」

 ガガ、ガ。

 急にノイズが割り込んだ。

「おおい。聞こえるか。どうも雑音が・・・」

「父さん・・・聞こえない・・・父さ・・・ザ・・・ザザザ・・・」

 ブツン。

 雑音が消えた。

 何も音がしなくなった。

「孝志。孝志」

 やがて、声が聞こえた。

「クックックッ。・・・殺してやる」

 受話器を持ったまま、平沢は凍りついた。

 それきり、何も聞こえなくなった。

 平沢には自分の心臓の鼓動だけが聞こえていた。

 今の台詞は、孝志だったのか。

 いや、違う声だった、と、思う。

 混線したのだろうか。

 平沢は受話器を置いてから、また耳に当てた。

 何の音もしなかった。

 試しに自宅の番号にかけてみたが、反応がなかった。

 電話線が切れてしまったようだった。

 外を見ると、空模様が怪しくなっていた。雨が降るかも知れない。

 暫くして圭子が戻ってきた。電話が使えないことを平沢は伝えた。圭子は別に困った顔も見せなかった。

 二人だけの夕食は、沈黙だけが支配していた。どちらも喋らなかった。圭子はずっと仏頂面を通していた。

 雨が降ってきた。遠くで雷が鳴っている。嵐になりそうだ。

 念のため雨戸を閉めながら、平沢は、黒木と早枝は大丈夫だろうかと思った。

 頭痛は、治まるどころか益々ひどくなっていた。

「きついから、もう寝る」

 平沢はそれだけ言うと、さっさと寝室に入った。

 

 

 悪夢。

 一組の男女が、テーブルに座ってコーヒーを飲んでいた。

 談笑している男を、女は好ましげに見つめていた。

 期待していることがあるのだ。

 やがて男の笑いが止まった。

 男は胸を押さえて立ち上がった。

 何か言おうとして開いた男の口から、血が溢れた。

 それを見た女の口が、邪悪な微笑をつくった。

 コーヒーには、毒を盛ってあったのだ。

 ドタン。

 男は目を剥いて倒れ、少しの間痙攣した後、動かなくなった。

 女はさも楽しそうに、からからと笑った。

 腹を抱えて笑い転げた。

 ドタン。バタン。

 女は男の足を抱えて、引きずっていった。建物の外へ。

 建物は、平沢のいる別荘だった。

 女は浜辺へと繋がる傾斜した林を進んでいた。男の頭と両腕は、土に塗れた。

 やがて道を外れ、堀りやすそうな地面のところで止まった。

 そこは、平沢が手の白骨を見つけた場所だった。

 女は一緒に持ってきたスコップを使い、穴を掘り始めた。

 人一人が入る穴だ。

 ドタン。バタン。

 作業の間、女はずっと笑みを浮かべていた。

 ドタン。バタン。

 二十分ほどで、女は穴を掘り上げた。

 女は、男の死体をその中に収めた。

 女は、スコップで死体の上に土をかけ始めた。

 ドタン。バタン。

 男は、この世界から締め出されていく。数十年、或いは数百年後に骨となって、平沢によって発見されるまで。

 ドタン。バタン。

 女は、圭子の顔をしていた。

 

 

 ドタン。バタン。

「ねえ。あなた、起きてよ」

 平沢は妻の声で目を覚ました。

 薄闇の中で、圭子の顔は、邪悪な笑いではなく、不安を示していた。

 ドタン。バタン。

 夢の中の音は続いていた。耳を澄ますと、吹き荒れる風の音と雨音が聞こえた。

「ずっと、あの音がしているの。一階の方よ」

 そうか。現実の音が、夢の中で聞こえていたのか。平沢は悟った。

「何処か戸を閉め忘れたんじゃないのか。そんな音だ」

 平沢は眠い目を擦りながら言った。腕時計を見ると蓄光の針は午前二時を指していた。

「いいえ。私、寝る前に確かめたもの。全部閉めたわ」

「じゃあ、何かが雨戸を叩いてるんだな。幽霊か。ハハ」

 平沢は言いながらも、黒木の言うような冗句だと思った。圭子の顔は、恐怖のためか怒りのためか強張った。

「あなた、見てきてよ。気味が悪いわ」

「心配ないさ。この強風で折れた枝か何かが叩いてるんだろう。放っておけよ」

 平沢は横を向いて寝ようとしたが、圭子は執拗だった。

 とうとう平沢が根負けして、見に行くことになった。

 一階のリビングの蛍光燈は、切れかかっているらしく光と闇を交互に映し出した。寝る前までは、ちゃんとついていたのに。

 ドタン。バタン。

 何かが雨戸を叩く音は、いまだに続いていた。

 或いは、誰かが。

 もしかすると、黒木達かも知れない。平沢の頭にそんな思考が閃いた。

 このひどい嵐にたまらなくなって、この夜中に急いで戻ってきたのかも知れない。

 開けてくれと叫びながら、必死で戸を叩いているのかも知れない。

 だが、音の方に近づくに連れ、その疑いは消えた。

 音は、リビングの、海側の雨戸からしていたのだ。そちら側はすぐ絶壁になっている。

 何が、雨戸を叩いているのだろう。雨戸の前に立ち、平沢は首を傾げた。

 確かめるには、開けてみなければならない。開けてみようか。だが、この嵐だ。一気に雨が雪崩込んでくるだろう。

 いや、理由はそれだけではない。平沢は。

 平沢は、何故か鎌を持った男のことを思い出したのだ。

 両手に鎌を持った夢の中の男が、今この雨戸の前で待ち構えていて、開けた途端に平沢の頭に鎌を打ち込んでくるような気がしていた。

 勿論、それは、妄想に過ぎない。

 それは分かっている。分かっているが、平沢には開けられなかった。

 ドタン。バタン。音は無慈悲に続いていた。

 鎌を持った男は、黒木の顔をしていた。

 このまま確かめずに戻ったら、圭子に何と言われるだろう。実際に、音は止んでいないのだ。

 拍動性の頭痛が平沢を襲っていた。悪寒も疲れも、ちっとも良くなっていない。

 平沢は、追い詰められていた。

 平沢は、サッシを開け、雨戸に手をかけた。このまま力を込めれば、雨戸は開く。そして全ては明らかになるだろう。

 雨と風と共に入り込んだ鎌の刃が、平沢の脳天に減り込むだろう。

 いや、きっと何でもないことなのだ。何も起こらないさ。きっと圭子のところに戻って『何でもなかったよ』と告げることになるのだ。

 死ねえ。と、黒木は、叫び続けていた。

 ドタン。バタン。

 平沢の額に、冷たい汗が滲んでいた。

 平沢は、決心した。

 まさに雨戸を開けようとしたその瞬間、しかし、唐突に奇怪な音は止んだ。

 平沢は、眉をひそめた。そのままの姿勢で、暫く待った。

 十秒待っても、一分待っても、音は聞こえなかった。

 ただ降り頻る雨の音と、幽霊の声のように吹き抜ける風の音だけが聞こえていた。

 平沢は、雨戸から手を離し、サッシを閉めた。

 無言でベッドに潜り込んだ平沢に圭子が尋ねた。

「何だったの」

「何でもなかったよ」

 平沢はそっけなく答えた。

 

 

 最悪の朝だった。頭痛は更にひどくなっていた。

 洗面所で何度も顔を洗い、ついでに喉が渇いていたので蛇口から水をがぶ飲みした。まずい水だった。

 平沢は青い顔で、圭子の作った朝食を食べた。

 風は収まっていたが、まだ雨は続いていた。雨戸はまだ開けない方がいいと平沢は提案した。

 黒木達は、結局向こうで一夜を明かしたのだろう。

「黒木さん達、心配ね。様子を見に行ってみようかしら」

 圭子が言った。

「大丈夫だろう」

 平沢はそれだけ答えた。頭痛と悪寒でやり切れなかった。トーストを噛むだけでズキズキと頭が痛んだ。

「ねえ、どうしてコーヒー飲まないの」

 圭子が不審げに聞いた。

 平沢は顔をしかめた。それは説明出来ないことだった。談笑しながらコーヒーを飲み、血を吐いて倒れる男。女の邪悪な微笑み。

 女は、圭子の顔をしていた。

「しょ、食欲がないんだ」

 平沢は、我ながら言い訳がましいなと思った。だが、食欲がないのは本当だった。

 圭子は黙り込んだ。何処か悲しそうな顔だった。

「やっぱり黒木さん達のところに行ってみるわ」

 朝食が終わると、圭子は言った。

「雨が降っているぞ」

 平沢は言ったが、圭子は黙って出ていった。

 平沢は一人になった。

 平沢は、テーブルに残されたコーヒーカップに手を伸ばした。

 彼は、冷めかけた中身を一気に飲み干した。

 十分経っても、一時間経っても、平沢は死ななかった。

 平沢は、長い溜息をついた。

 

 

 雨の音に混じって、チャイムの音が鳴っていた。

 ソファで寝ていた平沢は、はっと目を覚ました。既に午後の三時になっていた。

 雨は相変わらず降り続け、黒木達も圭子も帰ってきていなかった。

 チャイムが、また鳴った。

 どうやら玄関のチャイムらしかった。

 鍵はかけていないのに。どうやら黒木達や圭子ではないようだ。

 平沢はやっとソファから起き上がった。頭痛も疲労もちっとも取れてはいなかった。かえってひどくなっているようだった。

 足を引きずるようにして玄関まで辿りついた。

「どなたですか」

 扉を開け、平沢は驚愕した。

「平沢さん・・・」

 雨でずぶ濡れになった若い女が、思い詰めたような顔をして立っていた。

 女は、平沢の会社のOLの、仁科洋子だった。

 そして彼女は、平沢の不倫の相手でもあった。

「ど、どうしたんだ。こんなところへ」

 洋子が彼の居場所を知っているとは、平沢には予想外のことだった。

「坂田さんという人が教えてくれたの。平沢さんがここに来てるって。なんだか、いても立ってもいられなくなって、車を飛ばしてきたのよ」

 濡れた髪が洋子の顔にかかっていた。顔は青白く、目だけがギラギラと光を帯びていた。平沢は、彼女の精神状態が不安になった。

「しかし、ここには妻も来てるんだぞ」

 平沢は言った。それは、彼のような立場にある者なら、必ず使うであろう台詞だった。

 洋子は玄関から平沢の背後を見透かして言った。

「でも今はいないみたいね。それに、奥さんがいようといまいと関係ないわ。いいえ、いた方が好都合ね。私達のことを、奥さんに見せつけてあげられたのに」

 洋子はそう言って甲高い声で笑った。

 どうしてこんなことになってしまったのだろう。平沢は苦い思いで追憶した。四年前の彼女は新入社員で、よく気のきく、控え目で笑顔の優しい女性だった。だが深い関係になった途端に、彼女は変貌を始めた。態度が高慢になり、ちょっとしたことで平沢を呼びつけるようになった。妻と別れろと頻繁に平沢を脅しつけ、家の方にも電話をかけてくるようになった。妻は、彼女の存在に薄々感づいているようだった。

 不倫の関係が始まった時、平沢は、彼女が早枝に似ているから選んだのだと思っていた。だが、やがて彼は、圭子と同じ人間を選んでしまったのだと知った。

「帰るんだ。ここにいさせる訳にはいかない。もうすぐ妻も友人達も戻ってくる」

 平沢は厳しい口調で言った。

「嫌よ。ここにいるわ」

 洋子は言い張った。

「駄目だ。雨の中を悪いが、帰るんだ」

 平沢は扉を閉めて鍵をかけた。ドンドンと洋子が扉を叩いた。

「帰るんだ」

 平沢は扉越しに叫んだ後、リビングに戻っていった。こめかみがズキズキと痛んだ。暫くの間、狂ったようにチャイムの音が鳴っていたが、やがて諦めたのか聞こえなくなった。

 冷たくし過ぎたか。平沢は少し後悔した。かといって洋子を入れる訳にも行かなかったが。

 平沢はソファに戻った。洋子のこと、戻らぬ黒木達や妻のことを思いながら、平沢は再び居眠りを始めた。

 

 

 目が覚めた時は、夜の七時だった。

 平沢の疲労感は極限にまで達していた。体中の筋肉が熱く痛んだ。皮膚が所々チリチリと痛んだ。頭痛は脳を破裂させかねなかった。

 黒木も早枝も、圭子も戻っていなかった。

 雨は止むどころか、更に勢いを増していた。風も強くなっているようだ。

 ここに来る前は、こんな休暇になるとは予想もしていなかったのに。平沢は苦笑した。

 夕食を作ってくれる者は誰もいない。食欲もなかった。考えてみれば、圭子は一日も欠かさず、平沢のために料理を作ってきたのだ。勤務日における昼の弁当も、彼女が精魂込めて作ってくれたのだ。

 平沢は、ぽつんと一人、ここにいた。

 台所のテーブルの上には、肉や野菜、缶ビールなどが置いてあった。昼までは、そんなものは出ていなかったような気がした。全て、冷蔵庫の中に入っていたものだ。というか、冷蔵庫の中に収めておいた食料が、全てテーブルの上に出てしまっているようだった。

 平沢は、自分で料理を作る気力も、出しっ放しの食料を冷蔵庫に戻す体力もなかった。彼は風呂にも入らずに二階に上がって寝室で眠った。

 

 

 今夜の夢には、平沢自身がいた。

 彼はベッドの上に横になっていた。

 ドタン。バタン。

 またあの音が聞こえる。黒木が、平沢に鎌を打ち込もうと呼んでいる。

 夢の中で、平沢はうなされていた。顔をしかめ、荒い息をついていた。

 平沢の隣には、仁科洋子が眠っていた。

 いや、眠っているのではなかった。

 彼女の首は、胴体から離れていた。大量の血が、シーツに染み込んでいた。

 平沢さん、どうして奥さんと別れてくれないの。

 洋子は、血の涙を流しながら笑っていた。

 ドタン。バタン。

 平沢の首を、誰かが絞めていた。平沢は眠っていたが、誰が首を絞めているのか分かっていた。

 圭子が、平沢の首を絞めているのだった。圭子の両腕は、シーツを破って下から現れていた。

 平沢は苦しんでいたが、抗うことは出来なかった。

 平沢の首を、圭子の手がぐいぐいと絞めつけていった。

 ドタン。バタン。

 ベッドの傍らでは、早枝が何も言わずに立ち、平沢を見守っていた。

 彼女は、ひどい雨のせいか、全身がびしょ濡れだった。唇が紫色になっていた。

 早枝は、悲しそうに、平沢をじっと見つめていた。

 ドタン。バタン。

 

 

 平沢は全身に冷たい汗を滲ませて、目を覚ました。

 腕時計は、午前二時を指していた。昨夜もこの時間に、妻に起こされたのだった。

 ドタン。バタン。

 またあの音が聞こえていた。風が強くなったせいだろう。

 ドタン。バタン。

 疲労は少し取れていたが、頭痛の方は良くなっていなかった。

 喉がカラカラだった。何も飲まずに寝たからだ。

 平沢は、延々と続くあの音と喉の渇きに耐えかねて、下に降りることにした。テーブルの上に缶ビールがあった筈だ。ぬるくなっているだろうが、この際どうでもいい。

 黒木達は、まだ戻っていないんだな。階段を降りながら平沢は思った。

 台所に向かう途中、リビングで平沢はふらついて転んだ。

 顔が床にぶつかる前に、なんとか両手で支えて防ぐことが出来た。

 まだ寝惚けているらしい。平沢は床を振り返った。

 そこは、平沢が滑った拍子に敷板がずれて、細い隙間が見えていた。

「ん、何だ」

 ずれた敷板は、一メートル四方くらいあった。床下の隠し部屋か何かの蓋になっていたようだった。

 平沢は興味を持った。敷板の端を持って、脇にどけた。

 すぐに平沢は後悔した。

 切れかけてチカチカする蛍光灯の光でも、床下のものは、はっきりと見えた。

 ちょっとした貯蔵庫になっていたらしいその小さな空間には、十数体の死体が折り重なって入っていた。

 全て、半ばミイラ化した、古い死体だった。無念の形相のまま干からびた顔は、男女の区別さえ難しかった。

 一番上にあったミイラには、何処か見覚えがあった。特に、その高級そうな背広と腕時計に。

 平沢は気味悪かったが、ミイラの背広のポケットを探った。

 財布の中から免許証が出てきた。

 免許証には、坂田忠良、とあった。

「なんてこった・・・」

 頭痛がひどくなっていくのを感じていた。

 死体は、平沢達に別荘に行くことを勧めた、坂田のものだった。

 だがこの死体は、死んでから最低でも一年以上は経つように見える。坂田はほんの一週間前に元気な姿を見ているのだ。

「どういうことだ、これは」

 平沢は、蓋を閉めてミイラ達を視界から追い出した。

 もうビールを飲む気にはなれなかった。

 ここはおかしい。ここは危険かも知れない。平沢は混乱しながらも考えをまとめようとした。

 多数の死体が古いものであれ、殺人であることはほぼ間違いないだろう。警察に連絡した方が良さそうだ。しかし電話は今は使えなくなっている。もうこの建物を出て車でこの土地を出るか。だが黒木達と圭子はどうする。平沢だけ一人で勝手に出ていく訳にはいかない。黒木達が戻るのを待ってからにした方がいい。でも坂田はどういうことだ・・・。

 ドタン。バタン。

 額に油汗が滲んでいた。平沢は台所の流し台で顔を洗った。

 顔を洗う手に、何かが纏わりついた。

 平沢は目を見張った。

 長い髪の毛だった。自分のものではなかった。

 絡んだ髪の毛が、水道の蛇口から垂れ下がっていた。

 頭痛が更にひどくなった。背筋を悪寒が走っていた。平沢は懐中電灯を掴んだ。嵐の中を、平沢は外に飛び出した。心臓が早鐘のように鳴っていた。行き先は建物の横手の水タンクだった。平沢はずぶ濡れになりながらもタンクの側面につけられた金属製の梯を登り、タンクの天辺につくと、震える手で蓋を開け、懐中電灯の光を当てた。

 タンクの中には、水に浸かってふやけた早枝の死体が浮かんでいた。

「早枝・・・何故・・・」

 平沢は言葉を失った。早枝の恐怖に満ちた断末魔の顔が見えていた。頭痛が・・・。平沢の頭に閃くものがあった。平沢は雨の中を走り建物内に戻った。彼はリビングに行き、サッシを開けた。ドタン。バタン。音はまだ続いていた。平沢は雨戸に触れ、すぐに決心して雨戸を開いた。

 平沢の目の前に、ロープで吊られた黒木がいた。

 風に揺られて窓を叩いていたのは、黒木の死体だったのだ。ロープは黒木の首にかかっていた。だが自殺でないことは明白だった。腹に胸に、幾つもの刺し傷らしい血の染みがあったからだ。ロープは二階のベランダからかかっているようだった。誰が、いつの間にかけたのか。あの快活だった黒木の顔は、陰気な恨みの表情で平沢を睨んでいた。頭痛が。心臓が。平沢はよろよろと台所へ向かった。確かめなければならないことがあるのだ。平沢は、本来収まるべき中身がテーブルの上に出された大きな冷蔵庫を開けた。

 冷蔵庫の中には、血の滴る大きな肉塊が収められていた。

「うあああああああ。うあああああああああ」

 平沢は叫んだ。肉塊が、皮を剥がれてバラバラに切断された人間の死体であることは分かっていた。手足の細さからして、女性の死体らしかった。誰の死体か。圭子か、それとも・・・。頭蓋骨の露出した頭部は、もはや顔の区別もつけようがなかった。頭痛。平沢は突然思い出した。二階に駆け登り、自分と妻が使っていた寝室に入ると、ベッドのシーツをはぐり、その下の分厚いクッションをも剥ぎ取った。

 そこには、滅多刺しにされた圭子の死体が横たわっていた。

「俺だった。俺だったんだ」

 平沢は狂おしく叫んだ。平沢は今、全てを思い出した。全て、自分がやったことだった。「憎かったんだ。憎かったんだ」平沢は叫んだ。黒木達が出発した後、追いかけていって包丁で刺し殺したのは平沢だった。早枝の死体を水のタンクにぶち込み、黒木の死体をロープで吊るしたのも、平沢が自分でやったことだった。妻の圭子を殺してベッドの間に押し込んだのも、帰らないと言い張る仁科洋子を殺して皮を剥ぎ、バラバラにして冷蔵庫に詰めたのも、全部平沢のやったことだった。そういえば剥いだ皮はどうしたのか。平沢は思い出せなかった。「憎かったんだ。憎かったんだ」平沢は叫んだ。早枝を押し退けて自分と結婚した圭子が憎かったのだ。早枝を奪った黒木が憎かったのだ。自分を捨てて黒木なんかと結婚した早枝が憎かったのだ。高慢になって我侭の限りを尽くす洋子が憎かったのだ。「いいや。愛していたんだ」平沢は叫んだ。早枝を愛していた。圭子も心の隅では愛していた。黒木は親友だった。洋子も可愛いと思っていた。殺す筈がない。殺すなんて・・・。「いや、憎かったんだ」平沢は叫んだ。憎かったのだ。だからこそ殺したのだ。包丁で何度も何度も刺しながら、平沢は歓喜に心を震わせていたのだ。「いや、愛していたんだ」平沢は叫んだ。殺す筈がない。殺す筈が・・・。平沢は、いつまでも二つの台詞を交互に繰り返した。平沢は吐き気を覚えた。平沢は洗面所に駆け込んだ。平沢は吐いた。胃の中は殆ど空で、吐いても吐いても出るのは胃液だけだった。平沢は死人みたいに青ざめた自分の顔を鏡で見た。そして自分の首筋についた奇妙なものに気がついた。平沢は鏡を見ながら、それをはっきりさせるためにシャツを脱いでいった。

 平沢の裸の上半身には、人間の皮が、とぐろを巻くようにして縫いつけられていた。

「うあああああああ。うあああああああ」平沢は叫んだ。それは仁科洋子の皮であることは間違いなかった。平沢は洋子の死体から皮を剥いで、自分の体に縫いつけたのだ。チリチリした痛みは、自分の皮膚を貫通した無数の糸のせいだった。平沢の首筋には、キスをしようとでもするかのように、ペニャペニャになった洋子の顔の部分が縫われていた。鋭く輝いていた両目も今はただの平面的な穴に過ぎなかった。「た、助けてくれえ」虚空の瞳に睨まれているような気がして、平沢は恐怖の悲鳴を上げた。「ゆ、許してくれ」平沢は逃げた。階段を駆け登って上へ。だが洋子の皮はついてきた。どんなに逃げても、何処までもついてきた。「うあああああ。うああああああ」平沢は叫んだ。寝室に逃げ込んだ。だが洋子の皮は離れずについてきた。ベッタリと彼にまといついて決して離れようとしなかった。「許してくれえ。俺じゃない。いや、俺だ。いや、俺じゃない。いや、俺だ。いや、俺じゃない。いや・・・」平沢はベランダに飛び出した。柵に体がぶつかった。古くて腐りかけていた木製の柵はその衝撃で折れた。平沢の体は宙に投げ出された。洋子はそれでもついてきた。「うあああああああああああああ」叫びながら、平沢はこの地獄の惨劇に少しでも救いを見出そうとしていた。それは自分達の死んだ後もきっとめげずに生きてくれるだろう、一人息子の孝志のことだった。この僅か一週間後、他ならぬ平沢自身の姿をした男によって孝志がこの悪魔の土地に招かれることになるとは知らず、平沢は荒波の打ち寄せる奈落の底へと落ちていった。

 

 

 昨夜の嵐が嘘のような、穏やかな朝だった。

 別荘へ通じる細い道。その道端に、一人の老人が腰掛けていた。

 老人は、何をするでもなく、ずっとそこを動かなかった。

 老人は、まるで人形のように、微動だにしなかった。息さえしていないように見えた。

 老人の傍らを、一陣の涼やかな風が通り抜けた。

 同時に、老人の首が少し傾げられた。

 老人の、首が、それを機に、少しずつ、傾き始めた。

 何処までも、人間には不可能なほどに、傾いていく。

 パキッ。

 枯れ枝の折れるような音がした。

 老人の首が胴体から離れた。

 干からびた老人の首は、地面に落ち、森の斜面をコロコロと何処までも転がり落ちていった。

 残った胴体には、刃物で切られたような滑らかな首の断面が見えていた。

 鎌で切られた傷だった。

 首の皮一枚で繋がって、長い年月の間、風雨に耐え続けた老人の死体は、今漸く崩壊を始めたのだ。

 

 

戻る