混沌へ

 

  一

 

 村長の病気の娘を治療して頬っぺたにキスしてもらったんだが、別においらはロリコンって訳じゃあない。相手が誰だろうと感謝されるのは嬉しいもんだ。だから七つの女の子にキスされて喜んだからといって、おいらはロリコンではないのだ。

 ついでに寝たきりの爺さんとか片腕ちぎれたおっさんとか治療して、帰ろうとしたら溺死したての子供が運び込まれてきたのでそいつも治療した。どうやって治すかっていうと、相手に触って気合を込めて、ポワーッて感じだ。原理は自分でも分からん。飯を沢山食わせてもらって、皆に見送られて帰りの馬車に乗った。今回もまあ、悪くない仕事だった。

 おいらが助けた人達も、明日には事故かなんかであっさり死んでいるかも知れない。おいらにもそこまで責任は負えない。彼らの人生は彼ら自身のものだ。

 三日かけて宿屋に戻った。早速酒場で飯を食っていたら、居合わせた他のカイスト達がチラチラとおいらを見ている。これでも一応Aクラスだから注目されるのには慣れていたが、この間の終戦以来色んな奴らが声をかけてくる。と、今回も戦士っぽい男がやってきた。

「グランさん、ありがとよ。俺はイダン・ロウ。ジー側だったんだ。参加してすぐ死んだけどな。あんたのお陰で勝利側になれたから、ここの飯は俺に奢らせてくれよ」

「そうかい。ありがとさん。あ、酒も頼んでいいかい」

 てな感じで飯と酒を奢ってもらった。別に金は余ってるんだが、それなりに嬉しい。でもこの男の名前はすぐに忘れそうな気がする。

 ほろ酔いのまま近くのガルーサ・ネット出張所に立ち寄る。おいらはどんな怪我や異常もすぐに治るが、酔うのは例外で、許してる。そうじゃないと勿体ないからな。

 出張所の店員は女性で美人だった。カイストは自分の姿を割と好きなようにいじれるのだからあんまり価値がないのは分かってる。だがどうせなら美人の方がいいよな。このホロケステスの第七出張所に二年くらい入り浸ってるのはそういう理由だった。

「お疲れさーん。おいら宛てにメッセージとか来てるかい」

 アリュー・ハラクワという名の彼女はニッコリと微笑んで、「はい、一通届いてますよ」と言った。

 終戦以来、知り合い以外からもめったやたらにメールが届くようになった。殆どは大戦の元参加者で、ジー側だった者の感謝のメッセージが多いのだが、意外なことにエトナ側だった奴らからのメッセージも感謝だったりする。百億年もかかった戦争は、大変だったんだなあとおいらはしみじみ思うのだ。

 ああ、勿論罵倒のメッセージもある。エトナ側からは、不死身の奴が戦争に参加すんなよというもので、まあこれはどうでもいい。ジー側からは、おいらが一般人の人質を取られて勝負を捨てようとしたことについてのものが多かった。その非難は正当なものだとは思う。でもおいらはそんな奴で、生き方を変える気はないのだ。

 終戦からもう八千年経ったので、そういうメールが届く頻度もかなり落ち着いてはいた。

「へえ、誰からだい」

「ガリデュエ様からです。五日前の送信ですね」

 ぐえっ、と、おいらはそのまま口に出してしまった。

「ガリデュエって、あのガリデュエ」

「ええ、カイストでガリデュエと名のつく方は、『裏の目』のガリデュエ様だけです」

 この姉ちゃんはえらく楽しそうだな。自分も検証士なのかね。

 『裏の目』ガリデュエといえば、検証士の双璧の片方で、『裏側を知る男』とか『改変師』とかも呼ばれる。色んなイベントや闇に葬られた秘密を後から覗き見してコンテンツにするのは検証士の性分だが、ガリデュエが厄介なのは、気に入った情報の痕跡を完璧に消し去ってしまい、他の検証士に読み取れなくさせて、自分だけで独占してしまうことだ。双璧のもう片方『図書館長』ルクナスは世界の全ての情報を揃えて巨大なデータバンクを作ろうとしていて、ガリデュエとは犬猿の仲だとか。

 それだけなら検証士以外にはどうでもいい話だが、ガリデュエは消すだけでなく、いじるのだ。カイストの記憶さえも。ガリデュエに依頼して嫌な記憶を消してもらう奴もいるし、スタイルの再構築の手助けをしてもらう奴もいる。だが、ガリデュエにいじられて馬鹿になったり化け物になったり、墜滅させられたりした奴も多いのだ。そのためガリデュエは検証士だけでなく滅殺士として扱われることもある。

 おいらがこれまでガリデュエと関わったのは多分二十回くらい。たまたま会って挨拶を交わして、「戦争に参加する気はないかね」とか「何か面白いことはあるかね」とか、当たり障りのないことを聞かれただけだ。向こうにとっておいらは単なる無数の観察対象の一人だろうし、こっちから向こうに何かを頼んだこともない。おいらの自己治癒力で、記憶をいじくられてもすぐ元に戻る自信はある。自信はあるが、正直あんまり関わりたくない相手だった。

 どうも、嫌な予感がするな。

「メッセージには特にセキュリティレベルは設定されていませんが、シェルタールームでお読みになりますか」

「……いや、ここで読むわ」

 店員はガラス板状のパネルを差し出した。手を触れると自動認証されておいら用の受信トレイが表示される。ガリデュエからのメッセージ、タイトルは『仕事の依頼』。

 おいらはメールを開く。手書きの文章だった。

 

 

ジーの『不死者』グラン様

 

 よう、ガリデュエじゃ。お主に手紙を出すのは初めてじゃが、これまで二十七回ほど会っとるから充分じゃろ。

 まずは終戦、お疲れさん。これでお主の株も随分上がったのう。今回の戦争は『百億年戦争』と呼ぶように、検証士の間で話がまとまってきておる。ルクナスの奴は従来の『エトナ・ジー戦争』を主張しとるが、お主が折角区切りの良いところで終わらせてくれたし、ここで『百億年戦争』を使わんと勿体ないからのう。

 さて、仕事の依頼なんじゃが、実は依頼人は別におるんじゃ。わしはそのサポートといった役どころでな。昔フロウにも頼んだことがあるが、奴は三回やったら飽きたと言うて逃げおった。今回はフロウの推薦もあって、お主に頼りたいのじゃ。

 根性があってタフな奴にしか頼めん仕事じゃ。報酬もお主向けに特別なものを用意するつもりじゃ。

 詳細は直接会ってからにしたい。わしのようなか弱い老人の願いを、男気のある『不死者』グランなら叶えてくれると信じとるぞ。

 連絡を求む。

 

        あなたの友人 ガリデュエ

 

 

 何だ、こいつ。

 なんでこんなに馴れ馴れしいんだ。文体もそのまんまの話し言葉だし。

 ガリデュエは知人ではあるのだろうが、おいらはこいつと友人になった覚えはない。

 内容については、まあ、戦争の呼び名なんかはおいらにはどうでもいい。

 問題は、依頼がフロウの推薦で、具体的な内容は書かれてないってことだ。別にいる依頼人ってのも、とても気になる。

 凄まじい厄ネタの匂いがする。普通に考えればお断りの返事を出して、数万年くらいは身を潜めるべきだろう。ガリデュエに追われたら逃げきれないのだけれど。

 ところで、おいらは普通じゃあない。戦いはしないが逃げるのも嫌だし、根性があってタフな奴にしか頼めないなどと期待されてしまったら、つい応えたくなってしまうじゃあないか。

 店員の彼女はニコニコしていた。パネルは覗き見られない角度だったが、カイストだから多分読まれているのだろう。

「すぐお返事をお出しになりますか」

「……ああ、そうするよ」

 溜め息をついておいらは頷いた。

 

 

  二

 

 六年後のシャーエ。太陽がなく電灯と魔術の光に頼る、暗い世界だ。ガルーサ・ネットの支店がやっている酒場の個室でおいらはガリデュエと再会した。

「久々じゃの。二億年ぶりくらいか」

 日数まで細かく語って自分のこだわりを披露する検証士は多いが、ガリデュエは割と大雑把だ。少なくとも、表面的には。

 ガリデュエは足首までかかるロングシャツを着た老人で、白髪は腰まで伸びているし髭もかなり長くて、首を振るたびに髪と髭がフワフワ揺れる。白い布を巻いて目元を隠し、代わりに布に簡単な目を描いている。頬や額の筋肉を動かして、ガリデュエは自在に絵の目の表情を変えてみせる。噂では、彼の眼窩は空っぽで、本来の目玉は何処か別の場所にあるらしい。多分、裏の方に。いつも手袋を填めているが、本気で『いじる』時には脱ぐそうだ。

 彼はちょっとした拍子に背が伸びたり縮んだり、太ったり痩せたりして見える。髪や服の色が変わったり、牙が生えたりすることもある。実際に姿が変わっているのではなくて、相手の感覚をずらしているという噂だ。その気になればこれを取っ掛かりにして『いじる』のだろう。幸い、おいらの感覚はすぐ治るようで、ガリデュエが変わって見えるのも一瞬だけだ。

「で、依頼ってのは何だい。それと、本当の依頼人は」

 おいらが尋ねると、ガリデュエはニヤニヤ笑って答えた。

「うん。そこまで来とるから、話は向こうでやろうか」

 ガリデュエが左手を上げ、宙を撫でるように下ろしていくと、光の筋が残った。それは輪になって静かに広がっていき、輪の中に別の景色が見えた。亜空間への入り口を開いたらしい。魔術士はこういうのをよくやる。

 向こうの空間も部屋だった。酒場の個室よりも無機質で殺風景で、家具はテーブルと椅子しかない。クッションもない硬そうな椅子の一つに、黒衣の男が姿勢を正して座っていた。おいらは一目見て凄まじく嫌な予感がした。いや、まさか、な。

 男はこちらを不安にさせるようなキリキリと緊張感のある空気を纏っていた。……いや、違うな。緊張しているのはおいらの方で、男が緊張している訳じゃない。圧力を感じるけれど、威圧してくる感じでもない。どうも妙な気配だ。おいらも相当に色々な奴らを見てきたから、Aクラスの、多分魔術士だろうというのはなんとなく分かる。整った顔だがロボットみたいに無表情で、感情というものが窺えない。悪意もなく、善意もない。ただただ冷徹な感じ。

 ああ、その顔。おいらは見覚えがあった。直接会ったことはない筈だが、有名人だから顔写真は出回っている。カイストの間で、絶対に関わりたくない相手トップスリーを挙げたら、必ずエントリーされる魔術士。

 それでも念のため、信じたくないのでおいらは尋ねてみた。顔が似ているだけの別人という可能性も、ゼロじゃあないからな。

「ええっと……。誰」

「ザム・ザドルだ」

 男が名乗った。無表情のままに口だけ動かして、やはり感情の全く篭もっていない、冷たい声音だった。

「マジかよ……」

「うん、マジ」

 ガリデュエがケラケラ笑って追い打ちをかけた。

 ザム・ザドル。『究極の黒魔術師』とか『暗黒塔』とか呼ばれる化け物。何を研究しているのかは知らないが、こいつの実験のせいで四千世界にどれだけの災厄がもたらされ、どれだけの人が地獄の苦痛を味わって死んでいったか。犠牲者は一般人だけでなくカイストにも及び、拉致されて消息不明になった者、狂って墜滅した者も数知れずだ。

「安心せい。別に罠とかじゃなくてまともな依頼じゃよ」

 ガリデュエが光の輪を潜って先に部屋を移動した。

 だがおいらはどうも気に入らなかったので、その場を動かずに言ってやった。

「別に罠を疑ってる訳じゃねえよ。ただ、噂を聞く限り、ザム・ザドルって奴はおいらの嫌いなタイプでね。虐殺者の依頼なんてお断りだぜ」

「うむ、まあお主ならそう思うじゃろうな。じゃが断るのは依頼の内容を聞いてからでも遅くはないじゃろ。最終的にお主が断って出ていくことになっても、わしらはこの件においてお主にあらゆる種類の危害や嫌がらせを加えんことを約束しよう。依頼をこなす場合のリスクもちゃんと説明するしな。お主も良いか、ザム」

「同じことを約束する」

 ザム・ザドルが言った。

 黒い瞳。本当に真っ黒な瞳が、瞬きもせずにじっとおいらを見つめていた。最初からずっと、こいつはおいらを観察していた。

 気に入らないな。

 気に入らないが、逃げるのもおいらは嫌いだ。逃げるくらいなら、何かを怖がるくらいなら、わざわざ不死身なんかになったりしない。

 だからおいらは渋い顔をしながらも光の輪をくぐって亜空間に移った。

 ガリデュエはザム・ザドルの隣に座り、おいらは向かいの椅子に座った。通ってきた光の輪が勝手に閉じた。

「一応、な。念のため、万が一の間違いがあるかも知れんから確認しとくが。本物の、ザム・ザドルか」

「本物だ」

 ザム・ザドルが答えた。

「そうか。本物かあ……」

「……」

「……。あのさあ。昔、おいらは何度か正体不明の魔術士に攫われて、何万年だったか何十万年だったか監禁されて、実験台にされてたことがあったんだよな。毎日毎日切り刻まれて百分割されたり千分割されたり、狭い壺の中にずっと詰め込まれてたこともあったな。……あれって、あんたじゃなかったのかい」

「私ではない」

 ザム・ザドルは表情を変えずに否定し、それから同じ口調でつけ足した。

「私が把握している限り、過去に私の弟子が四人、各自異なる目的で君を拉致している」

「あー。弟子かあ」

「……」

「師匠として、弟子のやったことに責任を感じたりしないのかい」

「弟子達の行為に関し、私自身が責任を負う必要性を認めていない」

「ああ、そう」

 やっぱり気に入らない。おいらは別にこいつに責任を取らせたい訳じゃあないし、謝罪の言葉なんかを期待してたのでもない。ただ、こいつの話し方、言葉の使い方……何か違和感がある。感情を交えず、論理だけで喋っているような。

 ロボットみたいな奴。それも、疑似的な感情表現が可能になる前の、旧式のアンドロイドみたいな。

 これが本物のザム・ザドルというなら、巷で噂されている『邪悪の権化』とはちょっと方向性が違っている気がする。

「どうも、なあ。何というか、ザム・ザドルを相手にしてるって実感が湧かないんだよなあ。本当に、本物なのかい」

「本物だ」

「自分をザム・ザドルと名乗るようにプログラムされたロボットとかじゃなくて。いや、おいらってさ、他のカイストみたいに感覚が鋭くないからさ」

「ロボットではない。本人だ」

「そうかあ。……。念のため、飽くまで念のためなんだが、顔を触ってみてもいいか」

「了承する」

 ザム・ザドルはあっさり許可した。

 自分でも突飛なことを言い出したと思うが、この男の反応を引き出してみたいというのもあった。そして、ザム・ザドルの即答はおいらの予想外だったが、彼らしいという気もした。実際のところ、彼にとっておいらの存在は脅威でも何でもないのだから。

「じゃあ遠慮なく」

 おいらはテーブルに乗り出して両手を伸ばし、ザム・ザドルの顔に触れた。普通の人より体温が低いようで、少しひんやりしているが、生身の感触だった。いや、アンドロイドでもこのくらい人間に似せることは出来るしなあ。

 頬をグニグニされてもザム・ザドルは平然としていた。おいらは彼の反応を見ていたが、彼の方もおいらを冷徹に観察していた。

 うーむ。いまいち分からん。仕方がないので頬肉をつまんで引っ張ってみる。

 ザム・ザドルの頬は、割とよく伸びた。

「はあー。こんなもんでいいかぁ」

 これ以上やることもないので、おいらは手を離して椅子に戻った。

 ガリデュエは布に描いた目を歪め、ニヤニヤして見守っていた。

「うむうむ、堪能したぞ。お主はザム・ザドルの頬をつねった史上初の男になったな」

「話を進めていいか」

 ガリデュエの軽口を無視してザム・ザドルが尋ねた。

「分かったよ。おいらに依頼したいことってのは」

「世界の外に潜ってもらいたい」

 ザム・ザドルはよく分からないことを言った。

「世界の外ってのは……」

「混沌だ」

 そして、沈黙。

 何だ、こいつは。この一言で説明が済んだと思ってるのか。おいらがこれだけで全て理解して頷くと。

「ええっと……」

「いやあ、すまんすまん。わしがちゃんと説明する。ザムは口下手でな。いいじゃろう、ザム」

 ガリデュエの提案に、ザム・ザドルは「頼む」と返した。

「口下手か。実験対象に親切に説明する必要もないだろうしな」

 おいらが皮肉っても、ザム・ザドルは眉一つ動かさない。というか、最初から身じろぎすらしていない。

「ザムは、実験対象以外にもこんな感じじゃぞ。必要なことしかせんし、喋らん。必要と判断したら何でもやるがの。そのせいで、早とちりした弟子が勝手に暴走したりするのう」

 それって必要なことが喋れてないんじゃないかとおいらは思った。

「さて、何処から話すかの。そうじゃな、グラン、さっきザムが言ったことは置いといて、世界の外には何があると思うかね」

 おいらはそういうことをあまり考えたことがなかった。おいらの目標は不死身の男になることで、世界について知ることじゃあない。

「別の世界に繋がってるんじゃないかという話は聞いたことがあるな。ほら、元々ゲートで繋がってる訳だし」

 ただし、世界の外に出るのはとても難しいとも聞いたことがあった。世界の縁に近づこうとするとどんどん抵抗が強くなって進めなくなるとか。

「うむ。中央側世界ではその傾向が強いようじゃのう」

 ガリデュエが手袋を填めた右手を翻すと、掌の上に世界群地図が浮かび上がった。四千世界群接続地図とも呼ばれる、小さな球が少しだけ隙間を空けて寄り集まり、大きな球状になった立体映像模型。小さな球はあちこちが細い線で繋がり合っている。

 ガルーサ・ネットや文明管理委員会が作っている情報端末には、世界同士の位置関係をこうやって立体表示する機能がついている。拡大縮小回転自在で、指を近づけたり名前を唱えたりすればその世界の情報が表示されるし、今いる世界から目的の世界までの最短ルートを表示してくれたりもする。

 ただ、四千世界の構造が本当にこの模型のようになっているのかは分かっていない。飽くまでゲートの繋がり具合から頭のいい奴らが勝手に考えたものだ。実際のところ、遠い位置を妙に長いゲートで繋いでいるような、無理に当て嵌めているっぽいところもあった。

 さて、ガリデュエが言った中央側の世界とは、この世界群地図の中心に近い世界のことだ。ど真ん中の世界は『完全なる秩序』と呼ばれるラ・ルークで、文明管理委員会が支配して部外者を締め出しているので、何があるのかは長老と呼ばれる大幹部連中しか知らないらしい。

「この世界群球の深いところ、中央側世界からどの方向にはみ出しても、近くの別の世界に繋がるじゃろう。そう考えるのは妥当じゃ。……じゃが、辺境側世界ならどうじゃろうな」

 ガリデュエの左手人差し指が、球の表面にある世界の一つに触れた。宙に吹き出しで表示されるテラウィムという世界名。

「地図上ではここは最も外側にある訳じゃが、ここから更に外側に出ようとしたら、何に出くわすと思うね」

「分からんね。何もないんじゃないか」

 おいらは適当に思ったことを答えた。

「何もないというのはどういう状態かね。何もないのなら空間もないということじゃろ。なら、そこには行けんのじゃないかな。行けんのなら、何もない状態かどうかも分からんのじゃないかな」

「哲学の話かい。おいらは頭が悪いから意味が分からん。さっさと答えを言ってくれねえか」

 ガリデュエは絵の目を曲げてニッと笑い、掌の上の地図を消す。

「まあ、待て。次の質問じゃ。今は正暦二百十二億年じゃが、四千世界の成り立ちがそれより古いという話は聞いたことがあるじゃろ」

「ああ。少なくとも十億年以上はあるってな」

「今の時点で判明しとるのは三十億年以上前ということじゃな。じゃが、四千世界がどうやって始まったか、そもそも、『時』というものがどうやって始まったか、分かるかの」

「さっぱりだ。あんたらは知ってるのかい」

 ザム・ザドルは無反応。ガリデュエがわざとらしく肩を竦めてみせた。

「分からんのじゃよ。時がどうやって始まったか。もし原因があるとすれば、ならば今度はその原因がどうやって出来たのかということになる。原因は更なる原因を必要とするため、何処まで突き詰めても疑問はやむことがない。世界の外には何があるのか。時の始まる前には何があったのか。何故物理法則があるのか。どうやって運用されとるのか。魂とは何じゃ。生まれるのか。消えるのか。不変なのか。我力とは何じゃ。何故法則を曲げられるのか。分からん。何も分かっとらんのじゃ。じゃが、世界の外に何もない筈がない。時の始まる前に何もない筈がない。何もないというのは、あり得んのじゃ。何もなければ何も生まれんのじゃからな。……で、結論。全ては混沌から生まれた」

「その混沌ってのは、どういう意味で……」

「混沌とは、何でもありの、あらゆるものが混じり合った、グチャグチャの闇鍋のようなものじゃ。世界の外には何もないのではない。混沌がある。時の始まる前には混沌があった。混沌から法則が生まれた。何でもありなんじゃから、たまたま生まれることもあるじゃろう。その法則を元に世界が組み上げられた。組み上がった世界にわしらは泳ぎ着き、必死にしがみついておる。世界とは、混沌という巨大な海に浮かぶ小さな筏であり、わしらは筏に乗った漂流者なのじゃよ」

 ガリデュエの声には妙に力が入っていた。布に描いた目も興奮したように見開かれている。きっと何か大切で、凄いことを話しているのだろう。

 だが、おいらは正直に言った。

「はあ。さっぱり分からん」

「うむ、そうか。まあ、分からんでも構わんよ。とにかく世界の外にはグチャグチャの混沌があるから、お主にはそこに飛び込んで調査して欲しいのじゃ」

 ということで、依頼の話に戻った訳だ。

「で、なんでおいらに頼むんだ。自分で行ったらいいじゃんか」

「うん、無理。すぐ死ぬから」

 ガリデュエは絵の目をねじ曲げて最高の笑みを作った。

「混沌は世界の法則から外れておるから、法則に従って生きておるわしらはあっけなく崩れる。一般人なら本当に一瞬で死ぬ。カイストは我力でなんとかこちら側の法則を持ち込もうとするが、Aクラスでも浅いところで数分持てば良い方じゃな。……じゃが、『不死者』グラン、お主ならもっと深いところまで潜れる筈じゃ。Aクラスで、全ての我力を自分というシステムの維持だけに使っとるんじゃからの」

 ふうむ。よく分からんが、頼りにされているのは分かった。確かにおいらは不死身の男を目指し、そのためだけに努力してきた。他人にその力をお裾分けすることも出来るが、それはまあ、おまけだ。他には何も出来ない。戦うことも出来ないし、感覚も鋭くないし、頭も良くないし、これといって便利な術も使えない。ただ、不死身だけだ。即死の魔境にぶち込むには最適の人材って訳だ。

「なるほどね。で、あんたらはなんのために混沌を調べたいんだ」

「混沌を知り、世界を知るためだ」

 答えたのはザム・ザドル。相変わらず無表情に。

「じゃあ、何のために知りたいんだ。そもそもあんたの目的は何だ、ザム・ザドル。あんたは色々と残酷な実験をしてるらしいが、無数の犠牲者の山を積み上げて、そもそも何のために研究してるんだ」

 ザム・ザドルは瞬きもせずにおいらを見据えていた。『究極の黒魔術師』、『暗黒塔』と呼ばれる怪物。目的を聞かれても答えないだろうとおいらは思っていた。きっと奥深くておいらなんかには理解不能なものなのだろう。それとも、実は単純で、ただただ知りたいだけ、ということなのかも。とにかく、ザム・ザドルは、おいらなんかに自分の目的を、話す筈がないと思っていた。

 だが、ザム・ザドルは答えた。さらりと、あっけなく、冷たく、簡潔に。

「世界を守るためだ」

 おいらは信じられなかった。

 まさか、この残酷で冷酷で悪評ばかりで、人の命など何とも思ってない、極悪非道の腐れ魔術士が。そんな目的で。信じられない。

 でも、嘘をついてはいない筈だ。カイストはごく一部の例外を除いて嘘をつかない。我力の積み上げは真実の積み上げだからな。ザム・ザドルの悪い噂は沢山流れているが、嘘をついたという話は聞いたことがない。だが、カイストは基本、エゴイストの筈だ。それが、こんな……。

「わしの保証が欲しいかね」

 ガリデュエが言った。確かに、ガリデュエの保証なら疑う余地はなくなるだろう。ただ、こう聞いてくること自体が既に保証しているようなものだった。

 おいらは溜め息をついて、答えた。

「要らん。で、具体的にどうやって潜るんだ」

 ガリデュエがまたニッと笑った。

 ザム・ザドルは無表情のまま、必要最小限の言葉で説明を始めた。

 

 

  三

 

 最初の実験世界はミストロスだった。選ばれた理由の一つは、ここが中央側の世界で、世界の外の混沌も比較的弱いと推測されること。もう一つは、世界の境界がはっきりした壁になっていて、外に出るつもりなら力ずくでぶち破れば済むことだった。実際に壁を破ったAクラスは何人もいるらしい。ただし、開けた穴から世界の外に出た奴は少ない。っと、そうそう、ミストロスはザム・ザドルの混沌調査で何度も使われ、ある程度のデータの蓄積があるとか。

 一通りレクチャーを受けて準備を終え、ゲートを通ってミストロスに到着。宙に浮かぶ大陸の一つからザム・ザドルの船で移動し、世界の境界に辿り着いたのは依頼を受けてから百十二日後だ。

 船は外から見ると径五メートルくらいの黒い球なのに、中に入ると異様に広かった。ザム・ザドルは説明しないからどういう原理で動いてるのかも分からない。多分魔術なのだろうけれど。

 境界を裏打ちする壁に船が取りつき、足場を展開していった。ミストロスの重力は一方向だがゆっくりと変化していて、大陸から落ちたゴミがその時点で下に相当する境界に積み重なって内壁を形成しているのだとか。今回取りついた壁はオーバーハングしている場所で、どうにも圧迫感がある。

「ミストロスのこの場所から出て別の世界まで着いたのはフロウの一回だけじゃな。先はエンソアじゃった。ゲートも繋がっとるし、妥当といえば妥当じゃの」

 飯を食いながらガリデュエが喋る。おいらは五日間飲まず食わずだった。混沌の中では腹に入った異物がどうなるか分からないためだ。別に食事なしで百年でも千年でも大丈夫なんだが、だからといって断食しているおいらの目の前で平然と飯を食われるのは気分のいいもんじゃない。ザム・ザドルは食ってないが。というかこの魔術士が飲み食いしているところを見たことがなかった。最小限の説明以外は船室に篭もってたし。

 足場を組み終わるとザム・ザドルは世界の内壁に触れ、魔術っぽい力でトンネルを掘っていった。その間にガリデュエがおさらいする。

「感覚というものは法則によって感覚器から神経を経由し脳まで届いて処理されるものじゃから、混沌の中ではまともに感じられる見込みは薄い。視覚であればオーバーフローを起こして視界が真っ白になるか、或いは暗黒か。ノイズの嵐になることもある。我力で感覚を得ている場合は多少はましのようじゃが、それでも深く潜って法則確度が下がるにつれ、感覚は崩れていく。お主は我力による感覚補助はないが体内の感覚処理機構は維持されるじゃろうから、また少し違うかも知れんの。まあ、気楽に潜ってくれ。わしが後で読み取ってデータに起こすからの」

 ザム・ザドルの混沌調査をガリデュエがサポートする理由がこれだ。混沌の中での体験をおいらが語ろうとしても、そもそもまともに感覚が働かないのだから大した情報は得られないだろう。代わりにガリデュエが、おいら自身も気づいてなかったことまで限度一杯に引き出してくれるって訳だ。混沌調査以外でもガリデュエがザム・ザドルの実験を手伝うことはちょくちょくあるとか。

 法則確度というのは四千世界共通の法則が、混沌の中でまだどの程度通用しているかをパーセンテージで示す指標らしい。世界の境界を出たばかりではまだ数十パーセントくらいは残っているが、深く潜るごとに減っていく。『蜘蛛男』フロウがなんとかうまくやって潜った最深部の法則確度は、二.七一パーセントだったそうだ。

「レオバルドー製の服も脱いでおけ。最後まで持たんじゃろうからな。命綱は我力強化が何重にも施されたものじゃが、正直なとこ、これが通用するのは法則確度十パーセント台までじゃろう。それ以前に、綱がお主の体から抜ける可能性も高いしの。今回はまだ心配要らんじゃろうが」

「ひでえ話だぜ。ちなみにフロウの奴の二.七一パーセントってのは、命綱なしでどうやって帰ってきたんだい」

「フロウは特別じゃな。法則の欠片が残っとるところをうまいこと伝って戻ってきた。お主に同じことは無理じゃから、帰れんと思ったら迷わず我力を切って自殺することじゃな。その時にまともな思考が残っておればの話じゃが」

 おいらは不死身だが、不死身だけでは逃れられないハマリ状況という奴がある。例えばタチの悪い魔術士にとっ捕まって、狭い容器の中に永遠に閉じ込められるようなことだ。おいらの一般人並みの力では脱出不可能で、助けも期待出来ない場合、選択肢は二つしかない。いつになるか分からない解放を待って寝るか、生命維持の自分の能力を切って死ぬかだ。

「二十一億年の自己最長生存記録をリセットすることになるか。いざとなったらまあ、仕方ねえがなあ」

 やっぱりこの依頼、受けなきゃ良かったかなあ、とおいらはちょっと後悔する。だが、記録にこだわって逃げるのも本末転倒だしなあ。

 ザム・ザドルが船内に戻ってきて、「準備が出来た」と言った。

 船から一歩出るとムチャクチャ寒かった。皮膚が凍りついては瞬時に治るチリチリという音が続く。空気も薄い。真空の宇宙空間ほどじゃないが。おいらは全裸で腰と胸に命綱を巻き、冷たい足場を歩いた。ガリデュエがロープリールを抱えてついてくる。

「そういやこの命綱、長さはどのくらいあるんだ」

「魔術的に質を変えずに延長可能じゃから理論上は無限じゃ。実際はザムのストックした我力量によるがの。それに、混沌の中では理論など通用せんからのう」

 岩壁に開いたトンネル。入り口に計三メートルほどの円盤が浮いている。

「乗れ」

 ザム・ザドルが告げる。ということはこの円盤は移動用装置のようだ。おいら達が上に立つと、円盤は音もなく斜めのトンネルを昇っていった。先の見えぬ闇の中で円盤の周辺だけが明るく、なめらかな壁を照らす。壁が整い過ぎて景色が全く変わらず、慣性も感じないのでどのくらいのスピードが出ているのか分からない。いつになったら着くのかな、と考えているうちにザム・ザドルが「着いた」と言った。

 トンネルの先に闇があった。これまでと違うのは、明かりに照らされたトンネルの内壁が、途中からスッパリと切れたように闇に変わっていること。

「この闇に入ったら混沌って訳か」

「そうだ。少し待て」

 ザム・ザドルが円盤から降り、闇に手を伸ばした。闇の領域。そのままめり込むかと思ったが、手は硬いものに触れたように闇の表面で止まった。そこから先には空間がないのだから、めり込む筈はなかったか。

 呪文を唱えたり怪しげな道具を使ったりはしない。ザム・ザドルはただ片手で闇に触れたまま動かない。そのうち、触れた部分を中心にして光の輪が広がっていき、直径一メートルくらいになったところで魔術士は手を離した。

「通れるようにした。行け」

 本当にまあ、こいつはもうちょっと気の利いたことを言えないのかね。「頑張ってくれ」とか「無理するなよ」とか、何かあるだろ。

 まあ、いいや。

「じゃあ、行ってくるわ」

「うむ、頑張れよ」

 ガリデュエが手を振った。おいらの心を読んだのかも知れない。

 光の輪の中は相変わらず真っ暗闇で、他の部分とどう違うのかはよく分からない。おいらの感覚は常人並みだからな。ただ、何か変な感じがした。空気が微妙にざわついているような。

 おいらは右手を伸ばし、輪の中の闇に触れた。何の抵抗もなく指が入り、むず痒いような感触が上ってきた。痛みも、混じってるな。強くはないが。引き戻してみる。指が再生する直前、グズグズに崩れて骨が見えていた。

 やっぱ、安全なとこじゃないわな。

 これこそが、カイストの醍醐味、だよなあ。

 よし。

 おいらは混沌に頭から突っ込んでいった。ズルリと引っ張られる感覚。おいらは一気に全身を何かに包まれていた。

 

 

 混沌。

 浮かんでいるような感覚。プカプカと。いや、もしかしたら沈んでいるのだろうか。

 ザラザラする。

 視界がザラザラする。大部分は闇だが、あちこちにチリチリチリチリと小さな点が、出たり消えたりする。色んな色が、出たり消えたり。出たり消えたり。出たり消えたり。

 聞こえない。いや、聞こえる。耳鳴りのような。ノイズ。何か感じるとしても混沌の中にある何かを感じているのではなくて、体内の感覚機構の不具合による可能性が高いとか何とか。ピー、という音。高い。耳を澄ます。ピー、という音。

 急にバニラの甘い匂いがして、すぐに消えた。その後はもう、匂わない。

 苦い味が背中の方でした。舌でなく背中の方で感じている。右の、肩に近い部分だ。体の感覚。確かめる。ちゃんと揃っている。腕が二本、足が四本。いや、足は二本だ。うむ、間違ってないよな。

 おいらは浮かんでいるような落ちていくような感じで浮かんでいる。

 チリチリチリチリ。痛みは、感じるがひどくはない。拷問されている時ほどじゃあない。たまに、躍起になって拷問してくる奴がいるからな。魔術士に監禁されて休み休み延々と拷問された時はさすがにうんざりした。不死身なのはいいが痛みは感じるんだよな。だから痛みには慣れてる。

 泡立つ。熱い。冷たい。チリチリチリチリ。

 おいらは混沌の中を進んでいるのだろうか。向こうの世界に近づいてるのか。手足を動かして泳いだ方がいいのか。でも方向が分からん。

 ザラザラ、チリチリ。ピー音は消えたがたまに変な雑音が聞こえる。どうも、気持ち悪いな。

 まだ大丈夫だ。余裕はある。我力はあまり減ってない。後百万回全身が溶けても大丈夫だ。それにしても、どのくらい時間が経ったのだろう。あれ、時間ってのも法則で、混沌の中では通用しないんだったか。

 どうも、気持ち悪い。

 何かおかしな感触があった。突っかかるような、何かに当たったみたいな。ザリリッ、とノイズが強くなった。

 腹。腹。あ、そうか。命綱だな。引っ張られる。これは分かる。引っ張られてる。

 ザラザラザラ、チリチリチリチリ。

 おいらはよく分からないまま引っ張られて元の世界に戻った。

 

 

「どうじゃったね」

 布に描いた目でニヤニヤ笑いを浮かべてガリデュエが尋ねた。

「うん。なんか、よく分からんが気持ち悪かった」

 おいらは答えた。戻ってから意識がシャキッとするまでの短い時間に体も再生していたので、どんなふうになってたのか分からない。ただ、足元に溶けた肉汁が溜まっていた。

「まあまず船に戻ろう。お主は寝とってもいいぞ。情報は直接読むからの」

「それはいいけどよ、結局向こうの世界に着かなくて戻ってきちまったな。おいらのミスかい」

「いやいや、わしも失念しとったが、お主には世界の境界を自力で破る手段がなかったからの」

「えっ。マジで忘れてたのか。訂正するなら今だけだぞ」

 おいらが突っ込むと、ガリデュエが応じる前にザム・ザドルが円盤を指し無表情に告げた。

「乗れ」

 ねぎらいの言葉は期待してなかったが、おいらはやっぱり、なんだかなあ、と思った。

 

 

  四

 

 おいらが混沌に潜ってた時間は、二十一日と三時間だったらしい。感覚的にはほんの数時間くらいだったが。

 ガリデュエの透明な素手で体のあちこちを調べられた。細かい情報はおいらにはどうでもいいから聞いていないが、混沌の中で別の世界の外殻に触れていたらしい。フロウが到達したエンソアではなく、最短ルートでも十七のゲートを通らないといけないベルデデルグだった。世界群の構造モデルを再考することになるかも知れないとガリデュエは言っていた。

 それから、おいらは休息を挟みつつ混沌へのダイブを繰り返した。ミストロスからは計五回。そのうち一回はエンソアに当たり、二回がベルデデルグ、残り二回は外れだった。ミストロスの次はやや辺境側世界に移動してのダイブ。混沌の中ではやっぱり浮かんでるようでいて沈んでるようで、ザラザラチリチリしたノイズを感じた。辺境側で混沌が強いせいなのか、変なノイズを強く感じることもあったし、逆にいきなり感覚が途絶えることもあった。意識が飛んだ感じがすることもあるが、おいらは自分で寝る気にならない限り意識がすぐ戻るから、単に時間そのものが狂ってるだけかも知れない。

 気持ち悪さは何度潜っても消えなかった。モヤモヤフワフワした、得体の知れない嫌な感じ。この話をしたら、ガリデュエが答えを教えてくれた。

「混沌の調査を手伝ったカイストは皆同じことを言いよったわ。ああ、フロウを除いてな。……本質は、不安じゃよ」

「不安か。ふうん……」

「当然と思っとった法則、世界に対する信頼が、土台から失われることの不安じゃな。カイストとして積み上げてきた力も結局は何かに依存しとった訳じゃからそりゃ不安になるわな。それと、寂しさ、じゃな。孤高の道を歩んどるつもりでも、何もないところに独りでおって、ひょっとすると二度と帰れんかも知れんと思うと、やっぱり人恋しくなるようじゃ。ああ、何もないのではなく、実際には混沌が詰まっとるのじゃがな」

 なるほど、不安と寂しさか。おいらが何万年か閉じ込められてた時も、いつかは終わると分かってたし、魔術士が拷問に来てて独りじゃなかったもんな。

 そして、混沌に『何もない』訳じゃないのを思い知ったのは、十二回目の調査の時だ。

 

 

 スカーダからの最初のダイブ。相変わらずザラザラチリチリの中を漂っていたら、何かが右腕に触れた。一瞬のノイズではなく、ちょっとした形のある感触だった。おっと思った次の瞬間には腕に激痛。肘から先の感覚が消える。

 食われた。ノイズの中でもすぐに分かった。でかい獣に食いちぎられた感触だ。混沌の中に生き物がいるのか。カイストか。分からない。カイストならまず声をかけてきたりするよな。いや、ここは混沌の中だからな。ノイズばかりでまともに見えないし聞こえないし感じないので分かりにくい。腕の感覚もすぐ戻ったので再生したのが分かる。と、また食われた。今度は腹だ。命綱が無事かおいらは気になった。と、また食われた。食われる食われる。一匹じゃない。数が多いぞ。

 チリチリチリチリしたノイズの嵐の中に、何かが見えた。大きなグニョグニョした影。グニョグニョ動いている。気配を感じた。途轍もなく大きい。あれっ、これは一匹なのか。おいらは食われる。どんどん食いつかれる。どんどん食いちぎられる。食われる食われる食われる食われる。体は治ってるっぽいから大丈夫だ。だが、本当に、大丈夫か。

 おいらは延々と食い散らかされた。いい加減諦めてくれりゃあいいのに。再生する片っ端から食われる。終わらないなこりゃ。

 と、引かれる感覚。命綱を引いてくれてるようだ。おいらは何度も粉々のバラバラになったが、命綱はちゃんと繋がってくれていた。

 おいらは食われながら引っ張られていき、やがて、諦めたのか攻撃が唐突にやんだ。ザラザラチリチリの中をおいらはスカーダに戻った。

 

 

「バエスクじゃな」

 おいらの話を聞いて、透明の手で直接読み取りながらガリデュエは言った。

「聞いたことあるな。触手の化けもんだろ」

 随分昔から、あちこちの世界に出没している触手の塊みたいな怪物。大小の触手の先端に、牙の並んだ口がついている。凄く、噛みつく触手だ。おいらも一度食いつかれたことがある。我力の防壁を破るとかで、普通の怪物だと思って近づいて食われるカイストも多いらしい。

「うん。あれな、世界の外から来とるんじゃないかという話があってな。まあ、実際のとこ、そうなんじゃが」

「ええっと、つまり、混沌の中に棲んでるってのかい」

「そういうことになるの。実際に調査で遭遇するのは初めてじゃが」

 ガリデュエはあっけらかんとしていた。そういうことは事前に話して欲しかったなと思ったが、知ってたところで対策出来た訳でもないし、文句を言うのはかっこ悪い気がしたので黙っていた。カイストってのは自分の責任で生きるべきで、他人のせいにしちゃダメだよな。意図的に騙されたんでない限りは。

 バエスクにはその後の調査でも何度か遭遇し、そのたびにおいらは食われることになった。どちらかというと法則確度二十パーセント以上の、比較的浅い混沌に棲んでいるようだとガリデュエは言った。ザム・ザドルの方は、相変わらず必要な時以外は自室に篭もっていた。

 そんなこんなでつき合って千数百年。予定の百回の最後となるダイブは、四千世界の外の世界が出発点だった。

 

 

  五

 

 そこは614973115Xと呼ばれていた。ザム・ザドルが便宜的につけた名称だ。正式なゲートも繋がっておらず、魔術で亜空間のトンネルを作る裏技的な移動で、辿り着いた最果ての世界。世界とも言えない世界。

 元々四千世界というのは、生物が存在可能な世界をぎりぎりのとこまで含めて、合計で四千くらいあるということでそう呼ばれているだけだ。実際にはカイストならなんとか行けるような世界はもっと沢山ある。有力なカイストにはそんな世界の一つを自分専用にして使っている奴もいる。そういう世界はムチャクチャ寒かったり暑かったり、何もなかったり空間が歪んでいたり、基本的な法則が通用しなかったりする。

 なんちゃらXは世界群地図の辺境側を通り越した先の先にある、世界として解釈可能な限界点らしかった。つまり、混沌に最も近い場所。世界の境界が曖昧で、まともに法則が機能する空間は精々数メートル四方だった。そこからちょっとはみ出すと、あっけなく混沌に落ちる。闇の中にポツンと浮かぶ床は、ザム・ザドルが以前作っておいたという。

「ここから一歩出ると法則確度は九パーセント以下じゃ。つまり、命綱は端から役に立たん」

 ガリデュエが言った。

 おいらのこれまでのダイブで、法則確度の最低記録は十二.四パーセント。命綱が抜けたのは五回で、そのうち偶然元の場所に戻ってこれたのが一回。これは、本当に、偶然だ。三回は別の世界になんとか流れ着いた。ガリデュエがおいらから読み取った結果、中から外に出るのは難しいが外からは入りやすい世界というのがあるらしかった。そして残りの一回は、バエスクが世界に入る際に食われながら一緒に入った。

 九十九回も潜ってきたが、別に混沌を泳ぐのが得意になった訳じゃあない。相変わらずノイズばかりでまともに見えない聞こえないさっぱり分からないのないない尽くしだ。ガリデュエが言うには、ダイブを繰り返した他のカイストも上達していったのではなく、逆に色々と崩れていったとか。長い歳月をかけて積み上げた自分という強固な枠組みが、混沌に溶かされて崩壊していく。それはカイストにとってどんなに恐ろしいことだろう。ガリデュエの手で修復されたが、一部のカイストはそのまま墜滅してしまったという。フロウが三回で逃げたのは賢明だったのだろう。だから、おいらは崩れていないというだけでありがたい話なのだ。崩れてないよな。多分。

 とにかく、混沌では何も分からないままなので、自力で戻ってくるのは無理だ。ここは四千世界の果ての果て。そこから更に深い混沌へ飛び込もうというのだから、他の世界に流れ着くことも期待しない方がいい。

「いよいよおいらも死に時という訳か」

 おいらが溜め息をつくと、ガリデュエは絵の目を悲しげに曲げてみせたが口元は笑っていた。

「うむ。ヤバいと思ったら自殺してくれ。わしらには介入しようがないからタイミングはお主に任せる。転生した後ガルーサ・ネット経由で連絡してくれれば良い」

「その時に自殺が出来れば、だろ」

「そうなんじゃが、実のところ、わしはそれほど心配しとらんのじゃよ。そもそも死んで肉体を失った魂は、混沌を漂って世界間を移動しておる筈じゃからな。混沌というのはそれほど恐れる必要はないのかも知れん」

「あ、そうなんだ。……あれ、なら、おいらがわざわざ潜る必要もないんじゃね」

「生身でないと分からんことも非常に多いでな。というか何が分かって何が分からんのか何が分かるべきかもまだ分からんのじゃが。ともかく、健闘を祈るぞ」

 何か誤魔化されたような気がするな。飛び込んで墜滅したカイストもいたんだろ。魂自体は不滅なのだろうけれど。

 ザム・ザドルの方はやっぱり無言の無表情で見守るだけ。これまでも説明の大部分はガリデュエが代わりにやってきたし、どっちが本来の依頼人か分からない。

「最後の危険なダイブになるが、何か言うことはあるかい」

 おいらは尋ねてみた。

 ザム・ザドルは狭い床の外、右方を指差して言った。

「そこから出ろ」

 おいらはこいつをぶん殴りたくなった。カイスト相手に腹を立てるなんて久しぶりだ。

 だがおいらは殴ったりしない。戦うことより不死身であることを優先したからだ。

 いいさ。

 おいらは不死身の男だ。やってやろうじゃないか。

「じゃあ、行ってくるわ」

 助走出来るほど床が広くなったが、おいらは勢いをつけて跳ぼうとした。足が滑ってつんのめり、ありゃっと思ったところで闇に飛び込んだ。

 

 

 最初はいつものようにノイズの嵐だった。ザラザラした視界。チリチリした体中の違和感。たまに入る耳鳴り。痛み。体が崩れながら治っていく感触。

 いつもと違うのは、命綱を巻いてないことだ。

 おいらは沈んでいく或いは浮かんでいく。潜っていく。無駄に手足をばたつかせたりはしない。勝手に流れていく。ような気がする。

 と、今、光が見えたような気がした。

 と、今、光が見えたような気がした。

 さっき何か変わったことが起きた気がした。でも錯覚だったかも知れない。どうせノイズだ。

 そういえば十パーセント未満は初めてだった。これまではなんとか肉体も精神も維持出来ていたが、崩れていっても不思議はない。我力も結局は法則で

 今、記憶が飛んだような気がした。一瞬。いや、もしかすると長い間だったのかも。おいらの力は意識が意識がすぐに戻る治る筈。でも法則が。何かが起きるには決まりごとが必要なのだ。ガリデュエが言

 チリチリチリチリ。

 ザラザラザラ、ザラ。

 おいらは浮かん でいる。

 おいらはまだ無事だ。おいらはおいらという形をまだ保っている。右腕、ある。左腕、ある。右腕、ある。右腕、ある。ちゃんと全部揃っている。

 今何か、おかしかった気がする。

 何かがおかしかったろうか。チリチリチリチリ。相変わらずだ。ノイズ。何も感じないんじゃなくてずっとはっきりしないザラザラした感じを感じている。気持ち悪い。

 寂しさがどうたらとガリデュエが。

 おいらは自分の腰を触ってみる。触ってみたつもりになる。感覚はない。腰がないのかも。いや、命綱がないのだ。だから命綱がないので安心していい。

 あ、光が。

 何かが触れたような気がする。バエスクか。いや、奴だったら食    おいらは眠っているのだろうか。眠っている時に自分が眠っているとは考えないな。夢なら夢と気づくことがあるが。これはともゆ   いた。

 音が聞こえる。ドゥル、ドゥル、という感じの篭もった鈍い音だ。大型のエンジンを吹かすような    ここははさみ いやここは混沌だったな。だからてよせゆくひみのますみかいいえちがいます   さくといいえいや幻聴だ。いや幻聴ともちょっと違うな。つまり、ええっと光だ。

 そうだ、どうでもいいのだ。

 何か見えさもといくすれりのひおいらは何をやっていたっけ。

 そもしはまりのくひいみ           しともりああああああそそしのりもあれいやおかしいそねりいやりりりり

 今、意識が飛んだ気がする。

 あ、今、意識がふたのくにしなひはくひつと九もには

    おいらは何だったっけ。

 チリチリチリチリチリチリチリチリ。ザラザラする。

 溶けている。溶けている。溶けている。おい         あ、そうだ。おいらはグランだ。これだけは忘れちゃとしそくとしのいずのいずツなのとしさそそしまみ      腕がない。足がない。腕がない。足が

        そしりいとくまらはうて

   つとのここ神かみかみみみしとなにくつさく

      そさにりくおいらはだれだつのくしやじーのむらのさそなみのろわれるしのくつ

 グランだ。そうだグランだ。グランだ。グランだグランだグランだグラインクラインインベルドベルドレッドボルトオルロクスベネドットロクスエルスグラコロとそすえるぷぷぷぷめめめめもとますねつそりのもりさひは

 

     つさりまといらはく

   とそものつるとよんまけたくなかったのかつりくそひさはじゆうがつさもいしまらにとはおいらはなにがほしかったのかてちさりのまこしにりほしかのはつもさにりくひほしかったのはつさてまひさすなんだろうさにりひますいらきなんだったつのそまこしすきひほしかったつとそくいすらひおかしおかしおかしくなっているおかしくなっているおかしくなってるぞおかしくなってるおかしくなっているいまおかしいおかしくなっているあれっおかしくなっている

 

 おっ。今、意識がさそひみしはなさなみひみてらふぬわなしはもりひ  戻っつそさもてまはさそしもにらしすまとちさくふみりめひそもの

 

ひか

 

 

 あ、今しもひに  あ、今さっきんらにまら        あ、いまつさまゆいけこ  あ、いませゆちさくすそ  あ、いまつそもらうてくあ、いまつみみそりねあ、いしもりにさそにらまいまつさみれみひいまさそもゆせまそしついまされみにとはいにら いまつそくませ   みにいまさつれみいまつさみいまそまゆもけ     らいまさつみになせいまつさきさそりにれま

 

 

 

 

 寒い。

 

          あべべさもともらにそあへほこはもらにしまらそねれしひれ寒いぬふとくつそももひりれはひねつさゆよえうかねれ

 

            おちる

 

てさらくあうよせはくのつみ

       ささささささなゆうよのまささせらさのつまさそ

                       ねにまうよはとさらせにまあうまはさけせり     そさもあらまうさよひわえおくきなよみもちとし

          はくしすかになみそいせらのぞれこか  すねもそつしになくてさまゆひかすけせり    さももさゆふまはこかこかすいもぬせそしらせの

 のこすわよとじいほそもあ         にまりきそはね   れきひせまに     みもまよやくはんかせありぼゆかきおうねきれま    こわい  ちさそすらひしはみにねらえはらせすしゆはらねんかくせんくなく

 

 

 グラン。そうだおいらはグラングラングラグラグラグラクラクラララララアババババええあえええろろろろろろろろえうはひそさみとそくにしりひらにしはらまに

 

 

 

 

 

 

   み。

 

                      みみみみみみ。みみみみみみみみみみ。

 

        ふわまはせのせねそれきはごわねせせらのまそわあまうせもそはせはそもうらくまひそよまはらひもういにらもはれさねひもせ           さそひれりさねひせらむしのすひせまわゆあうふへほはらしせらささぬふあくすよはほゆくいらき     ましれもひねせさもそせらつあがくにげたいつひよもひはひまもいやおい    らはつさらひわもれりてそ

             たしそまひこくきのかみ

            あしゆよそいまらそもりひせらのはひのらはひきねりれそはき

 ふぬゆやそす        みになひかねらこらわほひはははき

              ふたよせゆしひまみそいせ        らのひしはわよにみく      わほつれるこんもにり

    さたてやゆあうみなにはか  ああ、そ  たらくもによわはよせのおえくほゆ

 

 

       とふあよゆくしひかす

 

 

  そすさこかえす

 

                                だれ、か

 

 

 

 あ あ   あああ   あ       ああああ         あああああ        ああああああ

 

  ろろろろろ  ろろ

      何も てひしすやひたしはもさは   さとくやふあ  なにも         してまはうんうあにらまこねれりさそみこにな   なに        てまにひいすよくひはもり     なにも ちさいはみ     ひしはせそと すべて    しとそみそと       せらそすべて          みさ  なにくてにいは    すべてそねとましひ        ももいすてまか ここはも    らし          とまいすべててこ      そにいすべてて          なそみとのみい すべてがとしそもふ         あゆも     きひんすべ       てみみいしさもそ

 

 

              もそはお       いらはてこなつ  しりの もとし    りそも          もつそと      あああ     けるとすは みらにみ                とけるみせそとにく         おいらはみ         さたこや             ゆみつなにつみれ   ろろろ ろ   にいまて      すべてがそ     つもみ  とそれ   るね

 

     ろ

 

 

          なに  も

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ああ

 

 

 

 

 なにか

 

 

                    ぐじゅ

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

                             なに

 

 

 

 

             それ

 

 

                     だれ

 

 

 

    ああ                  あああ

 

 

 

 

 

               ぐらん

 

 

 ろ

                              ぐらんだ

 

 

                ろろろろろろ  ろ

 

   あああああ

 

 

                     いた

 

 

      いた

 

 

 

 

 

 

 

                                 いる

 

 

          あん ろ た

 

 

 

 

 

                              お

 

 

                                 ああ

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 おいらは砂の上に立っていた。

 おいらはベッドの上に寝ていた。

 おいらは……光が見える。

 おいらは……グラン。

 ああ、そうだ。おいらは、グランだ。『不死者』グランだ。

 グランであるおいらの横に男が座っていた。椅子に腰掛けて足を組み、男がおいらを見守っていた。見守っている筈なのだが、男には目がなかった。顔に布を巻いて、目が描いてある。

「うむ。立ち直ったな」

 『裏の目』ガリデュエが言った。長く伸びた白髭を手袋を填めた手で根元から先までつまみ撫で、彼はニッと笑ってみせる。

 意識すると急速に頭が冴え渡り、ザム・ザドルの仕事だったことを思い出した。

 ここはザム・ザドルの船内だろうか。見覚えのない部屋だが。別のアジトか。それとも臨時に用意された亜空間か。まあ、そんなことはどうでもいい。

「おいらは死んでたかい」

 尋ねてみる。死んじまったのならやっぱりジーの村の名は背負わない方がいいかな。契約は生きている間だけというのが基本だ。カイスト同士なら転生後も続く契約もあるが。今回のおいらのみたいに。ああ、でもこれで予定の百回、丁度終了だったな。

「いや、死んどらんぞ」

 ガリデュエは意外なことを言った。

「なら生身で帰ってきたのかい。どうやって。おいらは覚えてないぞ」

「うむ。お主は深みへ落ちていった。法則確度0.0一九パーセントの、混沌の深淵の深淵じゃ。おめでとう、新記録達成じゃ。これはおそらく、誰も破れんのじゃないかな。アロロア以外は」

「アロロアってのは」

「お主から読み取って、わしが名づけた。あれは自分の名前を持たなかったようじゃからな。法則確度0.0一九パーセントの混沌に、何かがおった。バエスクどころではない。意思を持った混沌じゃ。まさかあんなところに生き物が存在し得るとはのう。……いや、生き物とは呼べんか。ともかく、お主はあれに触れた。あれはお主に触れた。会話でないような会話を交わした後、アロロアはお主を世界の方へ投げ返した。お主はカガズトゥンの外殻を貫いて世界の中へ入り、わしらが回収したという訳じゃ。お主がダイブしてから四万七千年が経っとる。ああ、『投げ返した』というのは飽くまで比喩じゃからな」

 ああ。そうか。

 おいらは思い出した。

 確かに、何かがいた。

 何かがいて、おいらに興味を持っていた。

 あの時、おいらは独りだった。孤独だった。

 あの時。あいつも独りだった。だが、自分が孤独ということに気づいてなかった。他人の存在を知らなかったのだ。

 交わした言葉は覚えていない。多分、言葉じゃあなかったのだろう。ただ、混沌の只中に棲んでいたあいつはおいらという客に興味を持ち、助けてくれた。

 あいつはあれからどうするのだろうか。こちら側に来ようとするのだろうか。来れるのか。混沌の深みから。深海魚は浅瀬で生きていられるのか。

 分からない。おいらは頭が悪いので何も分からないが、あいつのことは、覚えていよう。

 ドアが開いて黒衣の魔術士が現れる。『暗黒塔』ザム・ザドル。『究極の黒魔術師』とも呼ばれる男。

「回復したな」

 彼は言った。

「ああ」

「君の仕事は終了した」

 彼はいつでも素っ気ない。

「報酬の件、覚えてるだろうな」

 おいらは念を押す。

 最初に会った日、契約を結ぶ前においらの方から報酬を提案した。

 人体実験をやめろとか、災害を引き起こすなとか、そういうことはおいらも期待していなかった。この男は、必要なことなら何でもやる。誰にもそれを止められないだろう。

 だからおいらが提案したのはこうだ。

 今後はあんたの研究と実験で起きた被害を、出来るだけ元通りに回復させろ。後で被害者をちゃんと治療しろ。完全には無理かもしれないが、出来るだけ、それをやれ。

 おいらの要求に、ザム・ザドルは一千万年の期限で承諾した。カイスト相手に永遠を要求するのは無理だ。普通はな。

 これで一千万年の間、ザム・ザドルによる被害を少しは防げるだろう。取り返しのつかない被害も沢山あるだろうが、そこまで責任は持てない。こんなのはおいらの自己満足だと分かっているし、それ以上を期待されても困る。おいらは世界を守るヒーローではなく、ただただ不死身を追求するだけの男だ。

「覚えている」

 ザム・ザドルは無表情に答えた。ならば、よし。

 ……あれっ。世界を守るヒーローって、もしかして、ザム・ザドルの方いやいや、ないな。

「それからこれはわしからのおまけじゃがな。お主にちょっとした技を教えてやろう。というか、もう教えておいた」

 ガリデュエが手袋を填めた手をひらひらさせた。おいおい、まさか……。

「おいらをいじったのか」

「うむ。いじったが、別に大したことではないぞ。取っ掛かりとなるアイデアと習得法を刷り込んだだけじゃ。練習せず、使わずにおれば忘れるし、モノにするまでは何万年か、何億年かかかるじゃろうな。お主次第じゃよ」

「どんな技だい。おいらは別に、今のままで間に合ってるんだけどな」

「お主、不死身なのはいいが、ハマッた時に自力で脱出する手段を持たんじゃろ。拘束された時、閉じ込められた時、何もない空間に放置された時。お主にはどうしようもないからの」

「まあ、それは……寝てればいつかは状況が変わるだろうし。本当にいざとなったら自殺するから……」

 ガリデュエはケラケラと笑った。おいらの心を見透かしたように。

「ほーん。それでいいのかのう。誰かが助けに来てくれるのを期待したり、困った時は自殺するようなのが、お主の目指しとった不死身の男なんかのう」

 グサリと来る指摘だった。いつかは対策すべきとは思っていた。だが、不死身以外に力を注ぐのは、本来の不死身を弱めてしまいそうで怖かった。そう、おいらは、怖かったのだ。従来のやり方に固執して変化を怖れる、多くのカイストがかかる病に、おいらもかかっていたということだろう。

「そこでじゃよ。脱出に使え、攻撃にも使えんこともない必殺技、名づけて『ゆっくり動く』じゃっ」

 ガリデュエは自慢げに言った。

 いやそのネーミングはどうかと思ったが、おいらは、ちょっと真面目に考えてみることにしたのだった。

 

 

  六

 

 あれからもたまにザム・ザドルからの依頼があり、おいらは実験の被害回復期間の延長を報酬に引き受けた。

 ただし、混沌の調査の頻度は減っていった。バエスクの研究が進んで、世界に入ってきたバエスクを通じて混沌の調査が出来るようになったらしい。それからいつの間にか、バエスクを信仰するバエスキアという組織が出来てしまっていた。構成員はバエスクの肉を取り込んで同化しているとか。ガリデュエによるとザム・ザドルはそいつらも捕獲して混沌調査に使っているそうだ。

 混沌に棲む存在は、バエスクとアロロア以外にも二種類見つかった。トットゥットロートゥットと名づけられたアメーバみたいな奴と、いるのかいないのかはっきりしないような、ィユーンという微かな存在。アロロアに会ったのは、あの時一回きりだ。

 おいらが他にザム・ザドルから受けた仕事は、延々と肉を削られるものだったり、感覚を遮断されたカプセルの中で過ごすものだったりした。魂の本質を調べるためとか、魂と我力の繋がりを調べるためとか。結果の検証のためにガリデュエがついていることもあったが、いないこともあった。

 ザム・ザドルの活動目的。おいらはてっきり、仕事を済ませたらそれについての記憶は消されるかと思っていた。だがガリデュエはそうしなかった。ザム・ザドルの目的を知っている者は割と多いのだそうだ。しかし皆、タチの悪い冗談だと思っているのだとか。

 混沌についての研究がどの程度進んでいるのか、彼の目的にどの程度近づいているのか、おいらにはさっぱり分からない。分からないし、あんまり興味もない。皆、それぞれ自分の荷物を背負って、自分の道を歩くしかないのだ。カイストなら誰もがそれを知っている。

 『ゆっくり動く』は、空間座標確保と、触れたものをほんの少しだけ自分と同一化する技術を組み合わせた必殺技だ。いや、別に必ず相手を殺す訳じゃないのだけれど、かっこいいから必殺技でいい。他人に押しつけられた技なんてと最初は反感もあったが、ガリデュエはこっちの好みも読み取った上で提案したのだろう、おいらに合っていると思う。

 なんとか使えるようになるまで二億年かかった。ハマり状況から脱出するのにたまに役に立っている。この先、戦いに使う機会があるかどうかは、おいら自身にも分からない。

 この四千世界では色んな奴が色んなことを考えて生きている。無数の一般人と、強いカイスト、訳の分からない化け物。良い奴もいるし邪悪な奴もいる。そんな中で、相変わらずおいらは不死身で生きている。出来ることは不死身であることと、おまけで他人を治すこと。

 おいらには、それで充分だ。

 

 

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