ゲバッ!

 

  1 いつもと違う朝

 

 斎藤進は走っていた。

 朝の八時。通りは通勤の人々で溢れている。

 その人込みを掻き分けるようにして、彼は走る。

 肩がぶつかって、むっとした顔を向ける人もいる。

 だが斎藤はそんなことには構っていられない。

 もう、かなりの距離を、斎藤は走っていた。運動不足の心臓が悲鳴を上げている。

 苦しい。

 でも、休まない。

 得体の知れない不安が、彼を急き立てていた。

 今朝、斎藤は見知らぬ公園のベンチで目を覚ました。一時間ほど前のことだ。

 自分のマンションの寝室ではなく、どうしてこんな場所で目覚めたのか、彼にはさっぱり訳が分からなかった。

 昨夜同僚と酒を飲んで酔っ払い、帰り道も分からなくなってこんな所で寝込んでしまったのだろうか。いや、斎藤は今まで自分を見失うほど酒を飲んだことはない。みっともない姿を見せないように、常に気を配っているのだ。

 それに、昨夜は・・・。斎藤は頼りない記憶を探った。昨日は、仕事が終わった後、何をしていたっけ。飲み屋になんか行っただろうか。

 どうしても思い出せず、斎藤は頭を掻いた。

 ふと自分の手を見て斎藤はぞっとした。

 両手に、べったりと血が付いている。

 何だ、これは。斎藤は自分の体を隅々まで見回した。

 どこにも痛みはないし、傷もない。自分の血ではないようだった。

 とすると誰の・・・。

 斎藤の足元に、一本のナイフが落ちていた。背にギザギザの付いた、大きめのサバイバルナイフだ。

 刃の部分には、どす黒い血がへばり付いていた。

 どういうことだ、これは。斎藤の眼球が、忙しなく無意味に動き回った。

 もしかして、俺が・・・。俺は一体何を・・・。斎藤は必死で昨夜のことを思い出そうとしたが、霞がかかったように何も掴めなかった。彼は背筋から力が抜けていくような、生温い恐怖の感触を味わっていた。

 斎藤は公園の水道で、手に付いた血を洗い落とした。

 懐を探ると、財布が失くなっていた。マンションの鍵もない。

 どうなってるんだ。

 警察へ行こうかとも思ったが、斎藤の心には別のことが引っ掛かっていた。

 会社だ。きっと会社に行けば分かる筈だ。

 斎藤は何故か、強い確信を持っていた。

 彼は通りかかった学生に道を聞き、会社に向かって走った。金がないので、こうして走るしかなかった。

 そして今。

 赤信号を無理に渡ろうとして、斎藤は危うくトラックに轢かれそうになった。

「馬鹿野郎!」

 運転手が凄い形相で怒鳴ったが、斎藤は振り向きもせずに走り続ける。

 上司の上田課長の顔が斎藤の心に浮かぶ。

 最近、課長は妙な目付きで斎藤を見ていた。あれはどういうことだったのか。課長は何を知っていたのか。

 同僚で恋人の神野京子。悲しむような、憐れむような表情は、何を意味していたのか。

 あの時、彼女は何と言ったのか。思い出せない。

 そうだ。二週間前に出向してきた、水無月という男。奴だ、奴が来てから全てはおかしくなったのだ。奴は、いつも嘲るような目で俺を見ていた。俺が課長と話している時に、よく課長に目配せをしていた。

 この水無月も俺に向かって何か言った。

「君はもう・・・ですよ」

 あれは何と言ったのだろう。

 クビか。クビと言ったのか。いや、クビとか左遷とか、そんな単純なことではなかった。奴の台詞を聞いて俺は耳を疑い、そしてせせら笑った筈だ。なんと馬鹿なことを言う男だろう、と。

 思い出せない。記憶の、大事な部分が、抜け落ちてしまっているようだ。

 俺は罠に填められたのか。それとも俺は狂ってしまったのか。斎藤は頭の中で同じ疑問を繰り返していた。

 全ては会社に着けば分かる筈だ。そうとも、きっと分かる。斎藤は走り続けた。

 よたよた歩く老婆を斎藤は突き飛ばしてしまった。老婆は尻餅をついて悲鳴を上げたが、疲れ果てた斎藤には構う余裕はなかった。今、立ち止まれば、二度と進めなくなってしまうだろう。

 大量の汗を滲ませて見上げる斎藤の前に、彼の勤める会社のビルが漸く姿を現した。

 斎藤は幽鬼のような形相でふらふらと玄関を潜った。受付嬢が怪訝な顔で斎藤を見守っていた。

 彼の仕事場は六階にある。課長も、京子も、水無月も、そこにいる筈だった。

 斎藤はエレベーターに乗ゲバッ!

 

 

  2 二人

 

「さっきの映画、凄く面白かったね」

 裕子が言った。二人で映画を見た後、レストランで食事をしている時だった。

「ああ」

 俊夫は生返事をしながら、心は別のことを考えている。僕は目の前で微笑みかけている裕子を見ているのだろうか。それとも、裕子を見ている自分自身を見つめているのか。

 そして俊夫は、上着の内ポケットにしまってあるもののことを考える。三十秒に一度は思い出してしまう。気にかけまいと努めているのに。

「あの主演の俳優ね、二ヶ月前に交通事故で死んじゃったんだって。この映画が遺作になったって話だわ」

「ふうん」

 それは知識だ。俊夫は思う。会話とは何なのか。それは単なる知識の交換に過ぎないのか。或いは、親愛の情を示すために会話が必要なのか。ならば、話すことが失くなったらどうするのか。愛があれば、何も話すことがなくてもやっていけるのではないのか。

 上着の内ポケット。

 そうでないとしたら、愛とは一体どれほどの価値があるのか。いや、そもそも愛とは何なのか。僕が目の前の女に対して抱いているものは、愛なのか。愛でなければ何なのか。

 上着の内ポケット。

「ねえ俊夫、聞いてるの」

 裕子がちょっと非難するような目付きになった。

「ああ、聞いてるさ」

 俊夫は答えた。こんなことでいちいち目くじらを立てるなんてね。僕の探し求めている宇宙の真理に比べれば、君の怒りなど大したことではない。僕がこの内ポケットのものを出して見せれば、裕子はどんな顔をするだろう。俊夫は心の中でほくそ笑んだ。

「今日の俊夫、なんだかおかしいわ。何か心配事でもあるの」

 裕子は一転、不安げな表情を見せた。

「いや、別にないよ」

 上着の内ポケット。

「でも私に何か隠してるでしょ」

 う、うわぎいいいのおうちぽけええええええっとおおおおう。

 今だ。今が見せる時だ。俊夫の心は歓喜に打ち震えた。

「大したことじゃないんだけどね」

 言いながら、俊夫は上着の内ポケットにさりげなく手を伸ばし、中のものを取り出してみせた。

 それを見た裕ゲバッ!

 

 

  3 尾けてくる男

 

 奈津美は振り返った。

 やはりいる。

 十メートルほど後ろに、あの男が。

 黒いコートにサングラス。いかにも怪しげな男だ。

 奈津美の後を、ずっと尾けてくるのだ。

 全力で走っても、わざとゆっくり歩いても、奈津美の歩調に合わせて、常に十メートルの距離を保ってついてくる。列車の中でもだ。

 もう三十分近くも、奈津美と男の不気味な追っかけっこは続いていた。大声を上げて周囲の人に助けを求めるか、その足で警察に駆け込むことも考えたが、奈津美には躊躇われた。

 サングラスの下の男の顔に、何処か見覚ゲバッ!

 

 

  4 流れ星

 

 綺麗な星空だった。

 直子は、五才になる娘のチィちゃんを連れ、銭湯から帰るところだった。

「あ、流れ星だわ」

 夜空を斜めに滑り落ちていく流星は、直子には、天の流す涙のように見えた。

「チィちゃん、早くお願い事しなくちゃ。流れ星が見えなくなる前に、三度唱えれば願いが叶うのよ」

 娘に言いながら、直子は口の中で素早く三度願い事を唱えた。それは、失踪したことになっている夫のことだった。床下に埋まっている夫。

 彼がもっとまともな人だったら、私もこんなに苦労することはなかったのに。直子の心を苦い流星が掠めた。

 直子は気を取り直して、明るく娘に聞いた。

「チィちゃんは何をおねゲバッ!

 

 

  5 無人島にて

 

 夕陽が、沈んでいく。

 加村仁志はぼんやゲバッ!

 

 

  6 結局、私は何を訴えたかったのか

 

 わたゲバッ!

 

 

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