重い枷

 

  一

 

 トウクがスイングドアを押し開けて酒場に入ると不審げな視線が集中した。トウクのことを知らない者はその容姿が気になったのだろうし、知っている者はその標的が誰なのか気になったのだろう。

 入る前から把握していたが、酒場にいたカイストは十二人。その中にトウクの標的がいた。

 こちらを見た店主に軽く掌を向け、飲み食いに来た訳ではないことを示す。歩くたびに腰に吊るした道具がチャリチャリと金属音を立てる。静かに歩くことも出来るが、標的の前では敢えて鳴らすようにしている。相手の反応を見るためにも。

「あいつ、まさか『首枷』トウクか」

「お前、最近悪さしてないだろうな」

 テーブルの客達が小声で話している。その横を抜け、トウクは左隅のテーブルのそばで立ち止まった。

「……俺になんか用かい」

 酒を飲んでいた男が眠たげな目でトウクを見上げた。鍛えた肉体だが、まだあちこちに隙や緩み、バランスの悪さが残っている。また、右脛の傷が完治しておらず、三十年以上右足を庇っていたため姿勢に僅かながら歪みが来ていた。武器は右腰の短剣と、ベルトに挿した投げナイフ八本、それから左靴底に内蔵した仕込み針だ。針は自身の力ではない強化品で、更に錬金術士の作成したカイスト殺しの毒が塗られていた。格上相手で不利になった時に使ってきたようだ。

 初対面だが、トウクは男のことを知っていた。

 男も『首枷』トウクを相手にしていることを理解していた。他のカイストの呟きを聞き、噂通りの枷と鎖を見た上で、最低限の知識と照らし合わせたようだ。標的が自分であることも理解し始めており、その瞳には反発心と不安が滲んでいた。まだ、反発心の方が強い。トウクに勝てる、或いは逃げられる可能性があると考えているのだ。

「ベルデクス・コールだな」

 トウクは形式上確認する。

「そういうあんたは誰だい」

 男は逆に問い返す。

「トウクという。人には『首枷』と呼ばれている。それでお前はベルデクス・コールだな」

「仕事の依頼かなんかか。悪いが今は忙しくてな。また今度にしてくれや」

 口の端ににやけ笑いを浮かべて男は言った。名前の問いにまともな答え方をしないのは、肯定する行為がトリガーとなって術に掛けられる可能性を用心しているようだ。トウクの能力はそういうものではないのだが。また、トウクが個人特定に確信が持てず去ることをごく僅かながら期待してもいた。さすがに嘘をついて自分の格を大幅に下げるほどの覚悟はないようだが。

 実際に対面しての感知とこれまでの反応から、彼がベルデクス・コールであることは確定していた。だからトウクは次の段取りに映る。

「お前への復讐依頼を受けた。三十七日前にカリラマの村を襲撃し、住民を虐殺した件だ」

「……。カリラマ、ねえ。村の名前なんかいちいち覚えてねえな」

「お前が二つ前に襲ったところだ。二十二日前に襲った村がタシキストで、カリラマはその前になる」

「んー……」

 ベルデクスはわざとらしく指先でこめかみを掻いてみせる。余裕を演じながら彼はまだ逃れる方法を考えている。

「あのさあ、随分と決めつけた物言いだがよ、その襲撃とやら、本当に俺がやったって証拠はあるのかい。冤罪で潰されちまったら、こちとらたまったもんじゃねえんだけどなあ」

 トウクはベルトポーチから四枚の紙片を取り出して、テーブルの上で広げ、並べてみせた。

「Bクラスの検証士四人の証書だ。そのうち二人は世界図書館の正規会員だ。それから俺自身もAクラスの検証士・探知士としての力を持っている。依頼人、他の生き残りの村人、カリラマの現場、お前がサマルータ入りした六年前から現在までの足取り、そして今この瞬間のお前を調査して、依頼の案件が事実であることを確認した」

 ベルデクスは絶句して証書を睨んでいたが、内容は頭に入っていないようだ。ここまで手間をかけた事実確認を行うとは予想していなかったらしい。

 だが、必要な手順だった。トウクはこれからこの男に、カイストにとって最悪の罰を与えることになるのだから。

 トウクは告げた。

「ベルデクス・コール。お前のカイストとしての二百二十六万年、無に帰してやる」

 ベルデクスの頬がビク、ビク、と痙攣する。不安は恐怖に変わり、同時に生存本能として攻撃へのボルテージが上がっていく。が、まだ行動には移らない。

 既にこの男は最大の機会を逸している。トウクの姿を認めた瞬間に自殺すれば、ひとまずは窮地を脱することが出来ただろう。実際にそうやって逃げ続け、契約期間を過ぎてしまい諦めた例もある。

 何もかも中途半端な男、というのがトウクがベルデクスに抱く印象だった。向上心も、悪意も、生存への執着も。そもそもベルデクスが村人を殺戮したのは、宿に泊まったが支払う金がなかったので、という馬鹿げたものだったのだ。

「周りに迷惑をかけたくないので、外に出るぞ」

 トウクが言うと、ベルデクスは誤魔化しのにやけ笑いを浮かべた。

「あーあ、仕方ねえな」

 ベルデクスが席を立つ。トウクが酒場の出口へ向き直った瞬間、背後から蹴りが飛んできた。靴先から毒塗りの針が顔を出している。

 トウクは振り返る動作でついでに針を躱し、突き出された短剣はその手首を右手で弾いて軌道をずらす。トウクの右手は既に枷を持っており、鋼鉄の半円をベルデクスの喉に押し当てた。蝶番で繋がっているもう半円が首を回り込み、完全な輪となってカチャリとロックされる。同時にもう一つの首枷をトウクは自分の首に当てた。カチャリと、ロックされ、これで、お互いに、逃げられなくなった。

「あー、終わったなあいつ」

 見ていたカイストがボソリと呟いた。

 二つの首枷は鎖で繋がっていた。トウク自身の我力でガチガチに強化されたそれらを伝って、トウクの『法則』が二人の全身を包み込んだ。

「な、何っ、しやがっるっ糞がっ」

 咳き込みながらベルデクスが悪態をつく。首枷は対象の首の太さに合わせて伸縮し、絶対に抜けられず且つ息苦しくない程度に保たれている。錠は枷に内蔵され、鍵穴は存在しない。鎖の長さは二メートル七十センチで互いの体が触れずに動ける余裕があるが、トウクはベルデクスの首枷に近いところの鎖を握って引き寄せ、告げた。

「外でやろう」

 ベルデクスは顔を激しく歪め、予想外の苦痛に悲鳴を上げることも出来ずにいた。バタつかせた足がトウクの左太腿に当たり、カイスト殺しの毒針が刺さったのだ。肉を焼きながら抉り取るような痛みにトウクは慣れていたが、ベルデクスはそうでなかったらしい。

 トウクはベルデクスを引き摺って周囲に気を配りながら歩く。他のカイストは興味深そうに或いは嫌悪を滲ませて見守っているが、手出しはしてこない。標的の仲間がいて攻撃された経験も多いので、トウクは用心していた。

 困惑顔の店主に軽く一礼し、トウクは酒場を出た。

 夕闇が迫りつつある通りはまだ多くの人々が行き交っていた。ベルデクスを引き摺るトウクの姿に彼らはギョッとするが、カイスト案件と理解し黙って通り過ぎる。衛兵も見て見ぬふりをしていた。

「一通り説明しておく。この首枷と鎖は、俺が生きている限り破壊出来ないようになっている」

 マズランの正門へ向かって通りを歩きながらトウクは話す。マズランは人口百十万の都市国家で、現在のサマルータでは十指に入る規模を誇っていた。ガルーサ・ネットの出張所があることがその繁栄に貢献している面もあるだろう。

「この拘束状態では、我力を込めた攻撃や防御、術の行使などは殆ど出来なくなる。我力が苦痛の共有と生命維持に最優先で消費されるからだ。俺達二人の間で全く同じ苦痛が共有される。お前が今味わっている痛みはそういうことだ」

 ある程度の距離を保ってついてくるカイストが三人いる。二人はマズランに雇われた治安維持担当で、一人は検証士のエムミス・ユーシュムだった。エムミスはトウクが依頼して証書も作成してもらったうちの一人で、自分の仕事の結果を見届けるためトウクについてきていた。

「生命維持に回される我力は、重要器官を優先して保護と再生を行う。互いを攻撃しても自傷しても、自殺を試みても、拘束状態が続く間は意識を失うこともなく、死ぬこともない。体の表面の再生は二の次となるから傷は残るがな」

 実際のところ、トウクの全身は傷痕だらけだった。古い傷も敢えて残しているため一般人からは化け物に見えるだろう。頭皮の大部分も傷痕で覆われているため髪は疎らにしか生えていない。

 カイストとして生きた五十八億年の大半を、トウクはこの姿で過ごしてきた。後悔はしていない。何よりも優先すべきことをトウクは理解しており、そのために生きているのだから。

 正門には衛兵がいたが、既に上から指示が伝わっており無言で二人を通した。

 草原を貫く広い街道。その道から外れ、周囲に迷惑のかからない場所でトウクは立ち止まった。ついてきた三人のカイスト以外に、通りかかった一般人が何人が見物しているが、充分な距離があるため問題ないだろう。

「今からお前を延々と痛めつけることになるが、質問はあるか」

 トウクは鎖から手を離して尋ねた。質問がなければこちらから追加説明するつもりだった。

 ベルデクスはその場に崩れ落ちる。毒の苦痛のため口から泡を吹いていたが、トウクの話を聞いていることは分かっていた。ある程度覚悟が固まって、トウクを打ち破る気になっていることも。

「どう……どう、やったら、拘束は解けるんだ。あんたが死んだ時か」

「死なないと言ったぞ。拘束が解けるのは、どちらかの心が折れた時だ。お前の心が苦痛に負けて、カイストとしての生を投げ捨てて墜滅すると本気で思ったら、拘束を解く。逆に俺の心が苦痛に負けるか、お前を屈服させることを諦めた時、拘束を解いて俺が墜滅する」

「……あんたの言ってることは信用出来るのかい。本当は、痛みを味わってるのは俺だけじゃあねえのか」

「俺は自分の名を名乗って、宣言したぞ。それを信用しないのなら、お前のカイストとしての生は随分と軽かったんだな」

 それでベルデクスは黙った。口についた泡を吐き捨てる。トウクを襲う毒の痛みは続いていたが、少しだけましになっていた。ベルデクスにとってもなんとか動けるレベルになっただろう。

 キリキリ、キリキリ、と、空気が硬質化していくような錯覚。短剣は酒場で取り落としていたが、まだベルデクスのベルトには投げナイフが八本ある。しかし本命は靴先の毒針であることも分かっていた。これだけ痛い目を見て同じ攻撃をしてくるとはトウクも予想していないだろう、とベルデクスは考えているようだ。

 躱されることが前提のナイフ二本の投擲と左手に握り締めた一本の刺突、そして本命として右足首を狙った毒針。トウクは動かずに全て受けた。

「グッウッ、てめえっ」

 トウクの痛みを共有してベルデクスが呻く。投げたナイフはトウクの右腕と左頬に、突き出したナイフは左脇腹に刺さったがそもそも致命傷になるようなものではなかった。針に残っていたカイスト殺しの毒は再びトウクの肉体を破壊しようとして、激痛に変換されていく。局所的に神経と筋肉組織が崩壊するが、僅かなタイムラグの後再生を始め、浅い潰瘍に収束する。

 説明を聞いてもベルデクスはまだ実感出来ていなかったのだろう。いつも通りのやり方でトウクを殺そうとし、自分の生み出した痛みに苛まれることになったのだ。トウクは覚悟もしていたし、慣れていたので眉一つ動かさずに耐えた。そうやって平然としていることが相手へのダメージとなることも理解していた。

「こ、このっ、糞が」

 またナイフ。ナイフ。更に毒針。ただし毒はほぼ落ちてしまいそれほどの痛みではなかった。トウクは突っ立ったまま防御もせず受けた。心臓を刺されても頸動脈を切られても避けなかった。刺すたびにベルデクスの方が「アヅッ、グヒッ」と苦鳴を上げた。出血はすぐ止まり、心臓はナイフが刺さったままでも動き続ける。

 フェイントを挟んでの目突きも、トウクは目を閉じずに受けた。指に眼球を抉られる硬い感触。痛みはそれほどでもない。さすがにトウクが避けると思っていたようで、ベルデクスはまた驚いていた。視力はゆっくりと戻ってくるが出血のため視界は赤かった。ベルデクスは目を押さえながらトウクの股間を狙いかけ、諦める。反動で自分に来る痛みを想像したらしい。

 ベルデクスの攻撃は脳や首や心臓などの、即死させるための急所ばかりを狙うようになった。首を切り落とそうともしてきたが、生命維持の力に抵抗され刃は半ばほども進まず、ナイフを抜くとすぐに再生してしまう。攻撃のたびに自身も受ける痛みが、トウクが平然として微動だにしないことが、少しずつ、ベルデクスを躊躇させ、手を鈍らせていく。

 十五分ほどでベルデクスは疲れきり、苦痛に震える手から最後のナイフを落とした。彼が勝つことをほぼ諦めたのをトウクは感じ取った。向上心の薄いBクラスらしく、負け慣れ、死に慣れている。負けて死んで転生して続きを生きられるとまだ信じているのだ。また、時間を稼いでいれば第三者が介入したりトウクの気が変わったりして解放される可能性も期待しているようだ。

 現在サマルータに邪魔するような者がいないことは確認済みだし、トウクは気を変えるつもりもなかった。

「では、こちらの番だな」

 トウクが告げると、ベルデクスはヒッと細い悲鳴を上げた。

 二人の首を繋ぐ鎖を右手で掴み、勢い良く振り上げる。ベルデクスが引っ張られ軽々と浮き上がる。トウクはすぐ鎖を下へ引き、ベルデクスの全身を地面に叩きつけた。

「グッ……ヒュ……」

 ベルデクスはまともに呼吸も出来ず細く呻いている。受け身を取らせず地面に潜らせず、最大の痛みを与える叩きつけ方にトウクは熟達していた。仰々しい拷問や高度な攻撃技より、こういうシンプルで原始的な痛みの方が結果的には有効だと分かっていた。

 苦痛が和らぎかけるとトウクは再び鎖を操って地面に叩きつける。急ぎ過ぎず、淡々と、繰り返す。地面に擦れて皮膚が削れ、血塗れになっていく。骨や内臓へのダメージは蓄積しないペースで回復していく。

 体の芯まで響く衝撃。脳を抉られ神経を焼かれるような痛み。視界は回り、歪み、絶え間ない吐き気に襲われる。痛覚以外の感覚は鈍麻していき、思考力も衰え、世界が痛みだけになったような錯覚に囚われていく。同じ苦痛を感じながら、トウクはベルデクスがそうなっていくのを冷静に観察していた。

 カイストは死に慣れている。数えきれないほど死を経験し、特に戦士にとって肉体的損傷と苦痛は日常茶飯事だ。平然と受け止め、平然と死ねる。苦痛と死に耐性がついているともいえる。

 だが、彼らが本当の苦痛を知っているのかというと、必ずしもそうでないことも多いのだ。自身のダメージ把握に役立ちさえすれば良いので余計な痛みは不要として、我力で苦痛を軽減させている者や、神経を調整して苦痛のレベルを下げている者がどれほどいることか。そういうやり方を邪道として忌避している者達も、無意識のうちにある程度感覚を調整していたりする。そのため、トウクの拘束によって改めて素の苦痛を味わった時に、自分の痛がり具合にショックを受ける者も多い。

 勿論、本当の苦痛に耐えてきた真の強者達も存在する。しかしそれは、死んだ後もやり直せること、次があることが前提で耐える苦痛だ。トウクに繋がれ、墜滅……カイストにとっての真の死を実感した時、彼らの心に恐怖が忍び寄る。恐怖は苦痛を化け物に変える。強者の魂を根底から揺さぶり、食らっていく化け物に。

 トウクは目を逸らさない。瞬きもせず、ずっと相手の目を見つめている。相手を痛めつけながら責め続ける。お前は道を間違ったのだと。お前の長き生に誇りなど存在しなかったのだと。

 ベルデクスの反撃はただ一度。立ち上がり、苦痛から逃れるために死に物狂いで鎖を引っ張り、トウクを振り回した。トウクはされるがままに、頭から地面に叩きつけられる。頭蓋骨が割れ、脳がひしゃげる感触にベルデクスはまた悲鳴を上げ、トウクは黙って立ち上がる。額を流れる血を拭いもせず、ただベルデクスを見つめる。

「……降参だ。殺せよ」

 血の混じった唾を吐き捨て、ベルデクスが言う。

「殺さない。死なせないぞ。お前が墜滅するまでな」

 トウクは告げる。

「……なあ。どうしたら俺を助けてくれるんだ。土下座して謝りゃいいのか。ガルーサ・ネットに預けてる全財産支払ったっていいんだ。……あ、そうか、依頼人だ。依頼人に謝罪して賠償する。村の一つや二つ、いや町の十や二十余裕で再建出来る額だ。それで、手打ちにすりゃあいいじゃねえか」

 卑屈さの増したベルデクスの瞳に、助かるかも知れないという希望の光がギラつき始めた。

 トウクは飽くまで淡々とした態度を崩さずに事実を告げた。

「依頼人は死んだ。俺と契約した七分後にな。瀕死だったのを若い治療士がぎりぎり持たせていたんだ。イーナという少女で……名前を言っても分からないか。お前が面白半分に両足を切り落とした少女だ。彼女は隣の村まで助けを求めて、十五キロの道を腕だけで這っていったんだ」

「……へえ。そりゃ、大したもんだったな」

 ベルデクスは血塗れの顔に苦笑のようなものを浮かべた。彼の中で何かが折れるのをトウクは感じ取っていた。

 カリラマの村には他にも四人の生き残りがいた。重傷の年寄りや、火傷を負った幼児。イーナは彼らを助けてもらうために血を流しながら這い続けた。

 ベルデクスも他の生き残りがいる可能性は考えている筈だった。しかし、許してもらうために彼らと交渉したいと言い出すほど恥知らずでもなかったようだ。

「一応言っておくが、依頼人が後になって中止を申し出ても俺は契約を遂行する。依頼人が脅迫されることを防ぐためでもあるが、そもそも半端な覚悟の依頼は受けないようにしている」

 そしてトウクは苦痛の行を再開する。ベルデクスは宙を舞い、地面に叩きつけられ、また宙を舞う。同じ痛みに耐えながら、相手の目を見据えながら、トウクはただ繰り返す。これが一年続いても、千年続いても、たとえ一億年になっても、トウクは耐える覚悟があった。そのためだけに、トウクはカイストになったのだから。

 剣一振り、山一つ。

 傲慢なカイストに、思い知らせるために。

 遠巻きにして見守る人々がいる。はた目にはトウクが一方的に残虐行為を働いているように見えるらしく、非難の視線を感じる。止めに入ろうと思い立つ者もいるようだが、張り詰めた鬼気を感じて結局近寄れずにいる。そのうちマズランの衛兵がやってきて彼らを追い払った。

 もっと遠くからひっそりと見物しているカイストは増えていた。酒場にいたカイストもほぼ全員が来ている。彼らは嫌悪の情を顔に滲ませ、或いは無表情で、互いに短い言葉を交わす者もいるが多くは腕組みして沈黙を守っている。彼らが何を思うのか、トウクは感知力の大半をベルデクスに集中していたので探る余裕もなかった。

 ベルデクスの反応が、少しずつ弱くなっていく。トウクの与える苦痛に対して瞬間的に生じる反発力・抵抗力。それは我力の輝きであり、魂の持つ純粋な意志力ともいえた。それが、鎖を振るうたびに削れ、崩れていくのが分かる。もう長くない、おそらく後三十分以内に勝負がつくだろうと予測しつつ、トウクは油断せずベルデクスを見据えていた。

 二十四分後。体中の骨を失ったように力なく横たわったベルデクスは、疲れきった声を絞り出した。

「俺が……悪いってのかよ……。カイスト、なんだぜ。折角、カイストに……なったんだ。好き勝手、やらなきゃあ、意味が、ねえだろうが……」

「そうか。なら俺も、好き勝手にお前のような屑を叩き潰せるな」

 トウクが告げると、その言葉でベルデクスがまた一段階崩れた。

「……。あの村。……ちゃんと、皆殺しに、しとくんだったぜ……」

 最期の捨て台詞を吐くと、ベルデクスの我力の輝きは薄れていき、一般人とほぼ変わらないレベルにまで落ちていた。

 トウクは鎖を振るった。引き上げられたベルデクスは無抵抗のまま地面に叩きつけられる。グニャリ、という柔らかく不気味な感触がトウクの腕に伝わってきた。

 ベルデクスの肉体は粘液の詰まった革袋みたいになっていた。耳や鼻の穴からドロドロの血液が少しずつ流れ出している。もしナイフを突き刺せば中身が一気に溢れ出てしぼんでしまうだろう。幾つかある末路の一つだった。長く耐える強いカイストには塵になって崩れていく者が多い。

 墜滅した。ベルデクス・コールというカイストはいなくなった。死ねたのは、そういうことだった。

 カキリと音がして二つの首枷のロックが外れた。トウクは鎖を引き戻して畳み、腰のベルトに掛ける。

 全身の激しい痛みは鈍く変質していくが、すぐには消えない。死体を埋葬するためポーチから折り畳みシャベルを出したところで、近づいてきたマズラン所属のカイストが声をかけた。

「埋葬はこちらでやる。行き倒れと同じ対応だ。……一人のカイストの終着点、ということになるか」

「場所は決められたところで構わないが、埋葬自体は出来れば俺にやらせて欲しい。仕事は最後までやる主義でな」

 トウクがそう伝えると、相手は少し考えた後で「いいだろう」と頷いた。

 離れて見ていたカイストの一人が、溜め息をついて低い声で呟いた。

「屑一人消すのに、そうまでしてなあ……」

 分かっている。はた目からすれば馬鹿馬鹿しいことなのだろう。

 だがトウクはやり方を変えるつもりはなかった。そのためだけに、カイストになったのだから。

 

 

  二

 

「正しく生きるために、最も重要なものは何じゃと思うかね」

 少女の墓に花を添えながら、トウクは師の言葉を思い出す。

「信念を曲げない根性……意志の力だと思います」

 当時のトウクはそう答えた。Bクラスになったばかりの三万才頃。親しくもなかったカイストにそそのかされ、信念のまま潰しに行ってメタメタの返り討ちにされ、極めて運の良いことに気に入られ、弟子にされてすぐのことだった。

「違う。違う。全然違ーう。信念とか意志の力なんてものより、重要なものがあるんじゃなあ、これが」

 師は目元を覆った白い帯を顔の筋肉で歪め、帯に描かれた目をにやけさせた。トウクはムッとしつつも、師には逆らえないので真っ直ぐに問い返した。

「それは何でしょうか」

「ジャジャーン。それは、『疑う心』でーす」

「……。はあ」

「うん。トウクよ。お前さんは馬鹿じゃから、そんな反応になるじゃろうと思っとった。じゃがな、疑いを持つというのは本当に重要なことなんじゃ。人は自分の信じたいことを信じてしまう生き物じゃからな。自分を正しいと信じ込み、相手を悪と信じ込む。カイストになって一億年経とうが百億年経とうが、それは変わらんよ」

「はあ」

「つまりのぅ、もっと分かりやすく言うとじゃ、自分が正しいと思っていることが本当に正しいのか、常に疑問を持って確認する癖をつけろということじゃよ。そうでなければ、自分を正しいと信じながら極悪非道を行うクッソ化け物になるんじゃ。特にな、善悪なんかどうでもいいと割り切っとる奴より、正義の味方を目指す自称善人の方がそういう馬鹿な罠に嵌まりやすいんじゃ。お主はそうなりたいのかな」

「いいえっ。俺は本当に、正しいことを……」

「ならば疑え。用心しろ。妥協せず確かめろ。不安を投げ捨てるな。安易に逃げるな。考えろ。視点を変えてまた考えろ。自分が本当に正しいのか、相手が本当に悪なのか。疑って悪を罰せられぬことより、疑わずに自身が悪を成す可能性を怖れよ。完璧はない。しかし、限りなく完璧に近づくように努力せよ。お主が本当に、正しいことを目指しておるのなら、な」

 偉大なる師・『裏の目』ガリデュエの言葉をトウクは魂に刻み込んだ。

 だから師の下で修業を積み、Aクラスの検証士として認められるまで、トウクは本来目指していた活動を控えた。その後、多角的な視点を得るために『図書館長』ルクナスにも師事しようとしたが断られた。ガリデュエと共に検証士の双璧と呼ばれる大物だが、世界の動きに干渉することを嫌い歴史の記録係に徹するスタンスが、トウクの生き方とは相容れなかったようだ。ルクナスがガリデュエを嫌っているせいも、多少はありそうだったが。

 探知士の力は『風』ショーリィに学んだ。標的の足取りを辿る技は『捜し屋』リドックに鍛えてもらった。リドックの師はガリデュエで、トウクにとっては兄弟子であった。他にも有能な検証士や探知士には頭を下げて技術指南を頼んだ。意外なことに、高名なカイストの方が自分の技術を隠さず教えてくれることが多かった。技を知られることを怖れるような心性では高みに上がれないということらしい。

 そして、カイストを潰す技術は、完全にトウク自身のこだわりで積み上げたものだった。

 五十八億年の歳月を重ね、十万を超えるカイストを墜滅させてきた滅殺士・『首枷』トウクは、相変わらず誰かを救えた訳でもなく、ただ依頼人の墓に復讐を終えたことを報告するのみだ。

 既に、少女の魂がここにいないことをトウクは知っている。

 死者がまた生まれ変わり、新たな生を歩むことも。

 命は無限に巡る。古い生を捨て新たな生に。いつまでも。いつまでも。喜びも苦痛も無限に消化され、古いものはただ薄れて消えていく。それだけのこと。だからもしかすると、善行にも悪事にも、大した意味はないのかも知れない。

 しかし、トウクは決して忘れない。理不尽な力に踏み潰された、自身の原点を。

 墓石には少女の名と、十一才にして不幸な死を迎えたことを悼む短い文章が刻まれていた。その手前に花束と共に、小さな箱が置かれていた。我力で固定されているためカイストでないと動かせず開けられないようになっている。固定したのはトウク自身だ。

 箱を手に取って開けると、中には一房の髪の毛が糸でまとめられていた。

「依頼は達成した。報酬を頂いていく」

 聞く者のいない言葉を呟き、トウクは後払いにしていた報酬をベルトポーチに収めた。

 墓場には依頼人の少女のもの以外にも新しい墓が百以上並んでいた。この先、参りに来る者はおそらくいないだろう。僅かな生き残りは隣の村に引き取られた。

 廃墟となったカリラマの村をトウクは去った。

 

 

  三

 

 滅殺士とは、カイストを墜滅させることを本分とするカイストのことだ。戦士や魔術士のように得意とする手段からでなく、相手の墜滅を目的として実行することからそう呼ばれる。そのため魔術士であり且つ滅殺士であったり、トウクの師のように検証士且つ滅殺士であったりすることになる。

 トウクの場合はAクラスの滅殺士であり検証士であり探知士であり、一応戦士ということになる。トウクが培ったのは相手を殺すための戦闘技術ではないため、積極的に戦場に出ることはない。培ってきたのは標的の攻撃を躱して首枷を填める技術、そして鎖の繋がった状態で自身と相手をコントロールしつつ最大限の苦痛を得る技術だった。

 探知士としての能力は標的の現在位置を探り、追跡するためと、近くに邪魔する者がいないかを確認するためだ。検証士としての能力は最も重要で、あらゆる情報の真偽を見極めるために必須であった。

 そして今、トウクは目の前の依頼人に虚偽や作為の気配がないか見極めようとしていた。

「もう一度確認するが、検証士のエムミス・ユーシュムは、実行犯の具体的な名前を出さなかったのだな」

「そう聞いております。『まだ確定ではない』と」

 依頼人タクセント・ファロンは頷いた。いや、実際の依頼人はベケン・トゥラム王を中心としたトゥラム王国そのもので、タクセントはそのエージェントということになる。カイスト担当局長官という肩書き通り、彼はトウクの異相にも殆ど動じることなく要件と経緯を述べた。やはり嘘は言っていない。少なくとも、彼自身が自覚しているような嘘は。

 その後方、部屋の隅に黙って立つのは王国所属のカイストで、Bクラスの戦士だった。タクセントの護衛としての役割に徹しており、口出しをする気はないようだ。

 依頼人が被害者と親しかった者でなく、更に代理人というのはあまりトウクの好みではなかった。提示された報酬が金であることもそうだ。バハモーラの惨劇に対するタクセントの心情は飽くまで他人事だ。それでも心の奥底に恐怖と怒りが潜んでいるのは被害のひどさ故か。

 今から二十一日前、トゥラム王国に属する都市バハモーラは一晩で壊滅したという。検証士エムミス・ユーシュムによると、十二万人の住民が互いに殺し合って。剣だけでなく包丁や鍋、木の棒や煉瓦のブロックを用い、或いは素手で、互いにグズグズの肉塊と化すまで斬り合い、刺し合い、殴り合ったのだと。

 トウクがベルデクス・コールを追っていた間にそんなことが起きていたとは。ここはフリーゾーンのサマルータで、世界を渡ってくるカイスト達によっていつどんなトラブルが生じても不思議ではないのだけれど。

 問題は、現在サマルータにいるカイストで、バハモーラを滅ぼした犯人として思い当たる者が、Aクラスであることだ。

 『血の幻影師』モースラン。八十七億才。現在の幻術士の中では五本の指に入ると言われている。

 ないものをあるように見せかけるのが幻術であるが、極めればそれは人生観を根底から覆す芸術にもなり、千年の波乱に満ちた生涯をほんの数秒で体験させ、あり得ない筈の事象を現実化し、一つの異常なる世界を丸ごと構築さえしてみせる。Aクラスの幻術士ともなれば、格下のカイストに死んだと錯覚させ本当に死なせることだって出来るのだ。

 また、彼らは幻術の効果を確認するために相手の心を読むことにも熟達している。標的としては非常に厄介な存在であった。

 トウクはモースランと何度か会ったことがある。相手にこっそりちょっとした幻術を掛けてからかうのが好きな、しかし邪悪という訳ではない男。トウクはそういう印象を受けていた。からかうという名目で相手の幻術耐性を調べつつ、更に強い幻術を浸透させやすくする下準備をしていることも分かっていた。しかし、それでも、邪悪ではなかった。

 カイストの集まったイベントで、モースランのショーを観たこともある。天が紫色に渦巻き雷鳴が轟き、かと思えば会場を貫く幾本もの虹の上で無数の妖精達が踊る。そんな派手で美麗な演出に紛らせて、少しずつ観客の五感を支配していき、いつの間にかおかしなことになっていた。視界が裏返り方向感覚が逆になり、高音と低音が逆転した。感覚のずれは種別の境界を越え、トウクは匂いを見て、景色を舌で感じた。音を嗅ぎ、全身の皮膚で甘さと辛さを味わった。違和感のない自然な感覚で、観客の一人が叫び出すのを嗅いでからトウクもやっと異常現象に気づいたのだった。

 あれはかなりのものだった。幻術の強さも繊細さも。エンターテインメントとしても。僅かな悪意も混じっていたが、独特の美的センスもあった。

 モースランに墜滅させられたカイストの噂を聞いたことがあった。幻術によって感覚を狂わされ、記憶を狂わされ、自分を見失った末に墜滅したと。しかしそれはモースランの術を馬鹿にして挑発した男のエピソードで、そういう痛烈なしっぺ返しはカイスト間なら当然ともいえる。

 カイストの常として戦争に参加したことも数多いが、特に邪悪なことをやったという話は聞かなかった。貧しい善人の依頼を格安で引き受けたというエピソードもある。

 つまるところ、トウクのモースランに対する評価は、トップクラスの幻術士であり、普通のカイストであった。

 モースランなら十二万の一般人に同時に幻術を掛け、互いを恐ろしい化け物に見せつつ精神のストッパーを外し、肉体の限界を超えた殺し合いをさせることが充分に可能だろう。しかしモースランがそんな程度の低い虐殺を行ったとすれば、カイストとしての長い旅の末に精神の均衡を失ってしまったのだろうか。そして怪物と化した心は肉体をも怪物に変えていき、無意味な破壊と殺戮を撒き散らして他のカイストに討伐され、消えていく運命なのか。

 いや、それを決めつけるのはまだ早過ぎる。トウクは確かめなければならなかった。

 エージェントのタクセント・ファロンは嘘をついてはいなかったが、誰かの意図に操られている可能性も考えておくべきだ。彼に染みついたカイストの痕跡を探る。ここ三十日前後で十九人のカイストと接触しているが、多くはトゥラム王国に所属するカイストで、他はガルーサ・ネットの従業員、検証士のエムミス・ユーシュム、カイストの集まる酒場で少し話をしたフリーの戦士、くらいだった。タクセントの精神に影響を与えるような術の痕跡はない。彼の体を包む防壁に似た我力を感じるが、これは王国所属の魔術士が作成した護符で、所有者の肉体をある程度の我力攻撃から守る以外の効果はなかった。護衛の戦士も探るがやはり怪しい痕跡はない。

 これ以上は、現場で確かめる必要があるだろう。

「実行犯に相応の報いを、ということだったが、俺が滅殺士であることは理解しているな」

「はい。カイストを完全に殺す……墜滅させるというタイプの方とお聞きしております。バハモーラ滅亡の報復として単に殺害する以上のことをやって頂く訳ですから、我が国としても報酬は相場より上乗せさせて頂こうかと」

「報酬の額にこだわりはない。王国のしきたりや面目の問題もあるだろうが、国の予算に負担をかけない程度で構わない。ただ、俺がしくじった場合、雇い主のトゥラム王国が更に報復されるリスクも考えておいた方がいい。相手はAクラスの可能性がある」

 護衛の戦士から微妙な緊張が伝わってきた。彼もその可能性を薄々は感じていたようだ。

「は。……はあ、Aクラスのカイストとなりますと、トウク様とも、同格の……」

 タクセントは言葉に詰まる。これまでAクラスのカイストと関わった経験はないようだが、話には聞いている筈だ。Aクラスが本気になれば、どれほどの災害が生じ得るのかを。

「Aクラスを正式に敵に回したら、今のトゥラム王国所属のカイスト達では全く歯が立たず蹂躙されるだろう。王国丸ごと、王国民全員が消されるかも知れない。それだけの覚悟がトゥラム王国にはあるだろうか」

「え、ええ……それは……」

 ここで明確な返事をするほどの権限がタクセントにないことは分かっていた。

「俺も独自に調査させてもらう。調査の結果、別の可能性や新たな選択肢が生じることもあり得る。ひとまずは十日ほどを予備調査に充てるので、その間にそちらも方針を話し合っておくことを勧める」

 トウクは告げ、ガルーサ・ネットのシェルター・ルームを出た。

 トゥラム王国は契約を結ぶだろうか。トウクは考える。タクセント経由で得た国王の情報からは、冷静な判断力を持った無難な君主、という印象だった。

 キャンセルする可能性の方が高そうだ。そう思いつつも、トウクは調査に手を抜くつもりはなかった。

 

 

  四

 

 バハモーラは肥沃な土地にあり、中心部は城壁に囲まれていたが外部には広大な耕作地が広がっていた。暫く国同士の戦争はなく、外敵も少なかったのだろう。サマルータで有名な六本足の狼も、Cクラスのカイストが数人いれば普通に対処出来る程度の脅威だ。

 しかし今は死の気配に満ちた廃墟だった。百キロメートル以上離れていても既に恐怖と怨念の色合いをトウクは感じ取っていた。

 新たに派遣されたトゥラム王国のカイストが死の都市を守っており、街道沿いに歩いてきたトウクを出迎えた。

「連絡を受けたのが一時間と少し前で、こんなに早く来るとは思っていませんでした」

 ナック・ポースと名乗ったCクラスの戦士は、トウクに対する羨望と恐怖を隠そうと努力していた。

「途中まで加速歩行で来たからな」

 トウクは簡潔に答えた。

「その、やったのはやはり、モースランですか」

 タクセント・ファロンとトウクのやり取りが伝わって、あっさり候補が特定されてしまったようだ。

「それはこれから調べる」

 トウクはそう返し、まずは広域の探知をかけた。都市周辺にいるのはカイストが四人、一般人が百三十六人。皆トゥラム王国所属で、現場の調査と保全に来ているようだ。空になった都市に新たな移住者を入れられるか。そうでなければ勿体ないのだろうが、住民が全滅したいわくつきの都市に住みたがる者がどれだけいることか。

 住民の死体は数ヶ所に分け、畑だった土地に埋葬されていた。大きな穴にまとめて放り込んだのではなく、一体ごとに埋めて墓標を立ててあるのは王国の誠意を感じさせた。

 中心部へ向かってゆっくりと歩きながら、トウクはこの地に残った痕跡を読み取っていく。

 やはり目立つ感情は、恐怖、だった。住民の感じたそれが無数の大きな塊となって空間に残っている。紫色の靄のようなそれの一つにトウクは手を触れ、『覗き込む』。

 怪物が見えた。青黒い皮膚、人型ではあったがあちこちがボコボコと膨らみ、腕の先には大きな鎌のような刃がついている。顔は胸部と腹部にもあり、訳の分からない叫び声を上げていた。

 寄ってくる怪物に対し、『俺』は強い恐怖を感じている。怪物の長い牙から赤い液体が垂れている。既に何人か食い殺しているのだろうと『俺』は思う。自分の右手を見る。鍬を握る手が震えている。いや体中が震えて力がうまく入らない。だが殺さないといけない。殺さないと……。

 「殺さないと殺される」という囁きを『俺』は聞いた。『俺』は自分の考えが声になったものと解釈していたが、トウクはそうではないことに気づいていた。

 『裏の目』ガリデュエ直伝の、主観視点での読み取りから一旦離れ、トウクは近くにある別の靄に触れた。

 怪物が見えた。やはり二足歩行ながらいびつな青黒い怪物が異様に長い腕を振り上げていた。『私』は強い恐怖に体が竦んで逃げられない。きっと殺される。怪物に八つ裂きにされて食い殺されてしまう。『私』は手に持った小さな鎌を見る。こんな武器では怪物に太刀打ち出来そうにない。でも戦わないと……。

 「殺さないと殺される」という囁きがまた聞こえた。

 トウクは靄から手を引き、改めて視点を切り替える。空間から掘り起こした無数の断片を、第三者視点の疑似映像に脳内で再構築する。所謂『神の視点』と呼ばれるその様式が、検証士が得た情報を他人にも分かるような形にした一般的なテンプレートでもあった。情報が多く正確なほど鮮明で精細な映像になり、曖昧な情報はぼやけて見える。駆け出しの検証士は足りない部分を勝手に想像で補ってしまいがちだが、それは絶対のタブーだ。情報を捏造してしまうくらいならぼやけたままの方が良い。

 遠い過去の出来事を探ろうとすると情報が劣化しており精度が下がるが、二十一日前であれば全く問題はなかった。

 その晩の景色をトウクは見る。そこに怪物はおらず、鎌と鍬を持った農民の夫婦が凄い形相で睨み合っていた。何かに背中を押されたみたいに互いにぶつかり合い、凶器を相手の肉に突き刺していく。

 凄惨な殺し合いを横目にトウクは周辺の痕跡を探る。神の視点では囁きが聞こえなかった。怪物の姿と合わせて脳内に響かせる幻術であろう。その術の痕跡を辿れば実行者のことも分かる筈だ。

 あった。宙にユラユラと漂う透明な糸。物質ではない。トウクは能力を集中させつつ映像を調節し、見えやすくする。この辺だけでも何百本という糸が漂っていた。無差別に放射して、接触した者に一定の指向性を持った幻を見せるタイプのようだ。

 トウクは糸の出どころを求めて歩く。近づいたエリアは歩きながら掘り出しと映像化を行っていく。術に掛かった人々が狂乱状態で殺し合っているのが見える。口から泡を吹いた母親が、幼い娘の首を力一杯に絞めている。我に返った時、自分の所業に気づいたら彼女は何を思うのだろう。幸いにして、気づく前に死んだようだが。

 ジクジクと、腹の中を炙られるような鈍い熱さを感じる。それが怒りであることをトウクは自覚して、長く息を吐き冷静になろうと努める。今最も優先すべきは、事実を確かめることだ。

 情報収集力を糸に集中して辿っていく。漂う糸は合流していき、その先に術者がいる筈だった。

 正門を抜け、城壁内の市街に入った。そこら中で住民が殺し合っている。腹が破れて内臓を零したり腕がちぎれたりしてとっくに致命傷になっているのにまだ動いている。過去の映像を現在の景色に重ねながら、トウクは大通りに面した酒場の前で立ち止まる。

 市内に広がる無数の糸はそこに収束していた。

 映像の中の扉をすり抜け、現実には外れて落ちた扉を踏んで進み、酒場の中に入った。

 何人かの酔客と店主が殺し合っている。店主は包丁を持ち出しているが客も椅子を振り上げて対抗している。既に全員が傷だらけで、テーブルも倒れ料理がぶち撒けられていた。

 糸が見えなくなった。建物の中に入ると唐突に。術者らしき者もいない。

 隠蔽されているな。トウクはすぐにそう判断して僅かな痕跡を探す。

 カウンター席の隅に上塗り跡を見つけた。そこだけ小皿が残っていたのでおかしいと思ったのだ。意識して調節するとヴェールが剥がれるように、椅子に座る人影が浮かび上がってくる。

 灰色のローブを着た男だった。ウェーブした艶のある黒髪は、光を反射して様々な色に変化している。細い指がグラスを掴み、中の酒を少し飲んだ。

 男の顔はローブと同じ灰色で、目以外のパーツが存在しなかった。口もないのに酒は減っているので、実際は幻術で隠されているのか。……いや、集中すると細いスリットのような口はあったが、唇の厚みはなく、やはり鼻もない。幻術で上乗せしやすいように、顔を最小限の凹凸にしているのか。

 眉もまつ毛もない細い目は、僅かに目尻を下げて笑っているように見えた。暗い灰色の瞳。幻術の透明な糸はその瞳から生えて、無数に枝分かれしているのだった。

 男の肉体に付随した情報と、魂の印影が嘗て会った時のそれと同一であることから、トウクは彼が『血の幻影師』モースランであるとひとまず結論づけた。

 これが魔術によって歪められた情報でないか、『名優』ギノスクラーレのなりすましでないか、トウク自身が無意識に情報を修整していないかなど、まだ確認すべきことはある。彼の行動を巻き戻し、または進めつつ連続した観察を行い、破綻がないか見極めなければならない。

 そして、このバハモーラを滅ぼしたのが本当にこの男なのかも確かめなければならなかった。

 動機。彼の行動の理由が読み取れれば、有力な材料の一つとなるだろう。トウクは過去の映像のモースランに手を伸ばし、『覗き込もう』とする。

 だがすぐに肩透かしのような感覚に襲われて失敗した。

 主観視点に入れない。そこに誰もいなかったみたいに。或いは……魂のない人形に入ろうとしたみたいに。モースランの肉体はそこにあっても中身はなかったのか。いや、魂の印影を識別出来たのだから中身もそこにいた筈だ。

 幻術で、思考や感情を読まれないように隠蔽していたのか。日常的にそうやって過ごしていたのか。それとも、今回の事件に検証士が出てくることを予想して対策していたのか。姿を隠蔽していたことも含め、自分がやったとばれないつもりだったのか。……いや、姿の隠蔽処理はBクラスの検証士が手間をかければ剥がせるくらいの強度だった。ならやはり読心防止処理は日常的なものか。魔術士にはそういうタイプが割といる。

 モースランに最後に会ったのは六億年前だ。トウクは必要な時以外は検証士としての力を乱用しないようにしているため、当時のモースランがどうであったかは分からない。

 しかし、モースランの心情がどうであれ、虐殺の実行犯であるのなら、トウクが滅殺する根拠にはなり得る。

 神の視点に戻り、映像の再生を進めていく。モースランは横で行われている殺し合いを放置して、ひっそりと酒を飲み、たまに小皿の煮物をつまんだ。店内の者が全員動かぬ肉塊に変わっても、特に何かコメントすることもなく感情も滲んでこない。

 酒場を出たのは二時間ほど後で、モースランはカウンターに金を置いていった。肉塊ばかりが転がるようになった通りを歩いていく。トウクはそれを追跡し、北の門を抜け、広がっていた無数の糸も回収されてモースランが完全に都市を去ってしまうところで今度は時間を巻き戻した。

 後ずさりするモースランを、異常なところがないか注意しながら追い、また酒場に入る。モースランを発見した時点よりも巻き戻し、店主と酔客達の傷が消えていき、武器を置き、恐怖の形相が平静に戻る辺りで巻き戻し速度を抑え、じっくり観察する。

 彼らに触れていた透明な糸が離れ、モースランに引き戻されるところで時間の流れを正常にして、糸が彼らに触れてからの影響を確認する。

 最初に読み取った通り、他人を怪物に見せ、襲ってくるように感じさせる感覚歪曲と、恐怖感と攻撃性を増大させ痛覚を鈍麻させる効果が認められた。「殺さないと殺される」という囁きも自動的に繰り返される仕組みのようだ。人々の顔が恐怖に歪んでいき、奇声を発しながら武器を手に取り始める。

 その時のモースランの様子を、トウクは至近距離で観察したが、やはり感情は読み取れなかった。

 再び時間を巻き戻す。モースランは最初は普通に客として入ったようだ。店主も挨拶し、料理と酒をカウンターに置いている。しかし実際にはモースランは一言も喋っていない。店主はモースランの注文を幻聴として聞き取っていた。

 店主からはモースランは一般人の旅人として見えていたようだ。更に巻き戻していき、モースランは通りを後ずさりしていく。のんびりした歩みだが、他の店に立ち寄ることもなく、カイスト専用の酒場兼宿にも入らなかった。とうとうそのまま正門を抜けて街道沿いに離れていくのでトウクは巻き戻しを打ち切った。彼のサマルータ来訪まで遡って確認する作業も必要だが、ひとまずは後回しだ。

 都市全体の検証に入る。トウクは隅々まで歩き回って見落としがないか確認していく。当時、他にどんなカイストがいたか。異変が起きた時に何をしていたのか。何かが隠蔽・偽装されていないか。広がっていた幻術の糸は本当に全てモースラン由来か。他の術が使われていないか。モースランを認識した者はいないか。幻術に踊らされて殺し合いをしている以外の行動を取っている者はいないか。当時寝ていた住民はどんな反応をしたか。衛兵達の心理、都市の有力者達の心理におかしな点はないか。モースランの動機の手掛かりとなるようなことを思考していないか。領主の屋敷は特に念入りに確認した。

 死体は片づけられているが、バハモーラの市街のあちこちに血痕や破壊の跡が残っていた。そして住民達の感情の残滓も。

 時刻を遡れば、彼らは苦痛や恐怖よりもずっとましな感情を抱えて、懸命に生きていたのだ。雑多な悩みと、喜びと愛情を抱えて。一般人の命は軽く、ちっぽけだが、その人生の輝きは、カイスト如きが遊び半分で吹き飛ばして良いものではない筈だ。

 剣一振り、山一つ。その言葉がトウクの頭に浮かび、ゆっくりと息を吐き出して冷静さを取り戻す。感傷は判断を鈍らせるのだから。

 一通り、バハモーラの検証を済ませると、トウクは携帯情報端末を取り出して近隣のBクラス検証士達に依頼を飛ばした。最後に頼るべきは自分の力だが、他人の意見を軽視するつもりもない。正しく生きるために最も重要なのは、『疑う心』なのだから。

 区切りがついたことに気づいたようで、遠くから見守っていた警備のナック・ポースが近寄ってきて尋ねた。

「それで、やっぱり、モースランでしたか」

「まだ確実ではない」

 トウクは慎重に答えた。

 

 

  五

 

 七日後、トウクはガルーサ・ネットのシェルター・ルームでBクラス検証士のエムミス・ユーシュムと会っていた。

「まずは、事実を聞こう」

 トウクが促すと、エムミスは口元に薄い笑みを浮かべ、肩を軽く竦めてみせた。

「僕の結論は、バハモーラを滅ぼしたのは、『血の幻影師』モースランに間違いない、ということになるな」

 彼は完全な傍観者・記述者に徹するタイプではなく、イベントに少しばかり貢献しながら近くで見物したがるタイプだ。トウクがベルデクス・コールを滅殺するのを見守っていたのもそうだし、バハモーラの惨劇をいち早く検証したのも、それがトウクへの新たな依頼に繋がり、更に自分へ依頼が回ってくると見越してのことだろう。しかし悪人ではないし、検証士としての仕事ぶりにも妥協のない、信頼出来る相手ではあった。

 トウクは重ねて尋ねる。

「動機の方は」

「動機は僕にも掘り出せなかった。過去のバハモーラとモースランとの因縁は特にない。バハモーラ自体、精々二百四十年の歴史しかない新しい都市だしね。当時バハモーラにいたカイストとモースランとの因縁も、それらしいものは見つからなかった。一般人の旅人の方にもサマルータでモースランと関わりのあった者はいない。サマルータ自体への恨みという線も考えてみたが、モースランの過去のエピソードにそれらしいものは見つからないな。ただしモースランの内面を読み取れた訳ではないから、やはり動機については不明としか言いようがない」

 トウクが出した結論と全く同じだった。一つの答え合わせが出来たが、気になる点は残っている。

 エムミスも気づいていたようで、また、トウクから今読み取ったらしく、片眉だけを上げて頷いてみせた。

「そうなんだよ。隠蔽がね、どうも中途半端なんだ。別人に偽装したりもせず姿を塗り潰しただけなんだから、検証士なら気づくし躍起になって掘り出そうとするさ。Aクラスの幻術士『血の幻影師』なら、僕程度の検証士には読み取れないような、もっと強力な隠蔽処理が出来る筈だ。なら、自分の仕業だと知られても構わなかったのか。でもそれだったら、中途半端な隠蔽なんてせず堂々と姿を晒していればいいじゃないか。……そこにね。彼の心は読み取れないけれど、そこに、意図を感じるんだ」

 それからエムミスは、トウクが尋ねるつもりだったことを先に聞いてきた。

「なあトウク、僕に幻術の掛けられた痕跡はあるかい」

 分かっていてもゾワリ、とする。

 『血の幻影師』にしてはあまりにも中途半端で、お粗末な隠蔽。ならば既に巨大な幻術に囚われていて、その中でモースランを看破した気にさせられているだけなのでは。

 そしてトウクは首を振った。

「俺の感知出来る限りでは、この百五十日間において、お前に幻術の掛けられた痕跡はない」

 エムミスの見せた笑みは自嘲に近かった。

「ありがとう。僕もお返ししておこう。僕の感知出来る限りでは、この六十日間で君に幻術の掛けられた痕跡はないよ」

「そうか」

 トウクは頷いた。

 その保証はトウクを安心させるものではなかった。もし今幻術に掛かっているのなら、幻術の中の人物の言うことなど信用出来ないのだから。

 エムミスの自嘲も、そういうことだった。

 

 

 別のBクラス検証士から同様の報告も受けたが、後二人に依頼した分は別の世界から招聘したためまだ結果が出ていなかった。そのうちの一人はまだサマルータに到着もしていないだろう。

 トゥラム王国のカイスト担当局長官タクセント・ファロンに告げた十日が経過したので、トウク自身の検証作業も一時中断し、マズランのガルーサ・ネット出張所に戻っていた。

 待っていたのがタクセントだけでなく、現職の王ベケン・トゥラムまでいたことで、トウクは見立てが違っていたことを悟る。

 外から覗かれることのないシェルター・ルームで答え合わせをする。護衛のカイストは三人いて、新顔は渋い表情だったり面白がっていたりした。

「まだ調査の途中で最終的な結論を出した訳ではないが、バハモーラを滅ぼしたのはAクラスのカイスト・『血の幻影師』モースランでほぼ間違いないと考えている」

 トウクが告げると、まずタクセント・ファロンが頭を下げた。

「調査を進めて下さりありがとうございます。あれから国内でも色々と議論がありましたが、予定に変更なく、バハモーラを滅ぼしたカイストに正当な罰を与えて頂きたい、というのが、我が王とトゥラム王国の結論でございます」

「俺が失敗した場合に報復されるリスクについても、充分に議論を尽くしたということか」

「その通りです。最終的な決断は我が王が下されました」

 タクセントの言葉を継いで、王ベケン・トゥラムが喋り出した。

「一般人にも、一般人なりの意地があるということです」

 ベケン王は公式行事向けの煌びやかな礼装ではなく、高級品ながら地味な服装であった。ただし、王冠の代わりに着けたサークレットは、錬金術士作の強力な防御結界を発生させる名品で、トゥラム王家を示す紋章がデザインされていた。

 四十三才。カイストが好き勝手に遊ぶフリーゾーンのサマルータで、千六百万の国民の命運を背負わされた男。雇われて協力してくれるカイストもいるとはいえ、並大抵の苦労ではないだろう。開き直って過激なことをやり出したり、完全にやる気をなくして全てカイスト任せにしたりする為政者も多いが、ベケン王は相当にまともな部類に感じられた。二百年以上宰相を務めているカイストの教育が良かったようだ。

 そのカイスト、Bクラスの戦士でありながら行きがかり上宰相をやらされているウルド・ファリソンは、皺深い顔を苦渋に歪めてトウクを見つめていた。

 ベケン王が続ける。

「私達は無力で、カイストの圧倒的な力には蹂躙されるだけの存在です。しかし、だからといって諦めて成すがままになるのは、遊び半分で人を殺すカイスト達を益々増長させることになります。それは我が国の未来にとって、そしてこの世界の未来にとっても良くないことです。たまにはガツンと反撃して、一般人を舐めると痛い目を見ることもあると、示さなければならないのです」

 王は穏やかな表情で淡々と語る。だがトウクは彼から仄かに滲む怒りを感じ取っていた。

「と、いっても、結局はそのガツンもカイストのあなたにお願いすることになるのですがね。ならば、一般人として私達が出来るのは、命を賭ける覚悟を見せることでしょう。今回がそうすべき時であると、私は判断しました」

「その一つの『ガツン』に、千六百万の命を丸ごと賭けることになるぞ」

 トウクの言葉に、ベケン王は淡い微笑を浮かべた。

「私達の代がその役目を負ったということでしょう。私は守るべき民を殺し国を滅ぼした愚かな王として、地獄に落ちるかも知れませんが、仕方のないことです。既にバハモーラの民は地獄に落とされたのですから。私は彼らに追いついて詫びることになるでしょう」

 そして王はトウクに向かって深く頭を下げた。

「トゥラム王国の命運と国民の命をあなたにお預けします。出来れば勝って頂きたいですが、もし失敗なさったとしても、責めるつもりはありません。どうか、バハモーラの民の無念を晴らして下さい」

「……結果については約束出来ない。しかし、全力を尽くすことは約束しよう。負けたら俺も地獄で詫びたいが、生憎首枷を使って負けたら俺は跡形もなく墜滅しているから、それは叶いそうにない」

 トウクは告げた。王に、幻術や精神操作を受けた痕跡は感じ取れなかった。

 情に流されるべきでないことは肝に銘じていたが、ベケン・トゥラム王の言葉にはグッと来るものがあった。

 一般人の意地を見せる。Aクラスの幻術士相手のハイリスクな滅殺勝負で、トウクの存在を賭けるに相応しい理由であった。

 

 

 更にその十八日後、トウクは予想外の来客として『光の王』ハイエルマイエルを迎えていた。

 バハモーラとモースランに関する調査依頼を引き受けた検証士の一人は絶対正義執行教団の所属だった。教団の設立は正暦九十八億年と古く、団員が狂信的であることを除けばかなり信頼出来るカイスト組織ではあった。しかし所属の検証士だけでなく、設立者であり団長のハイエルマイエルが何故わざわざサマルータまでやってきたのだろうか。

 正暦六十七億年出立で、現在二百五十九億才。恐ろしく速い光の剣を放ち、近距離から超遠距離まで、超高速超広域の殲滅能力を有するAクラス戦士。『剣神』ネスタ・グラウドが不動の一位となる以前には、カイスト・チャートで一位を獲ったこともある男。

「トウク君、随分と久しぶりですね」

 ハイエルマイエルは慈しむような穏やかな目でトウクに語りかけた。

「七億六千万年ぶりです」

 トウクもつい丁寧語になってしまっている。ハイエルマイエルはトウクの師であった訳ではないが、彼の真摯な姿勢をトウクは尊敬していたし、トウクも彼に気に入られ、応援されていた。

 外見的な年齢は四十才前後だ。整った顔の造作は細部まで左右対称で、それは体形に姿勢、髪の毛の一本に至るまで完璧にコントロールされていた。それが『正しいこと』であるかのように。その思想は内臓にも適用され、ハイエルマイエルには心臓が二つ、肝臓も二つあった。利き腕はなく、どちらかが上になってしまうため指を組むこともなく、その代わりに胸の前で左右の指先同士を合わせる仕草をよく見せる。武器を帯びていないのは必要ないからで、彼の光の剣は両掌から何十本も伸びるのだ。

 『正義』を成すことに凝り固まった狂人でありながらそれを自覚し、冷静に行動出来る男。トウクが感じ取るハイエルマイエルは、恐ろしく真っ直ぐで、強固で、長い旅路に疲弊し、それでも変わらずに強固だった。

「今回、『血の幻影師』モースランと墜滅を賭けて戦うのですか」

 ハイエルマイエルはストレートに尋ねる。

 教団は設立時から百億年以上をかけて、『真に正しいこと』を求めて壮大な社会実験を繰り返してきた。しかしその試みは失望と挫折と苦渋と徒労を無限に積み重ねただけだった。そして、彼らはひとまずの結論を出した。『正しいこと』を成したからといって、それが必ずしも皆の幸福に繋がるとは限らない、という、至極真っ当で、限りなく重い結論。その後教団は一般社会に積極的に介入することをやめ、明らかな『悪』を成すカイストの抹殺を主な活動としている。

 ただし、抹殺といっても殺すだけだ。ハイエルマイエルはAクラスの殺人狂『千の刃』のフィロスを何百回となく殺しているが、それはフィロスを墜滅させていないということでもある。

 他人の魂を磨り潰すためには相応の邪悪さか、自分が同じ目に遭う覚悟が必要だ。それを理解しているが故に、ハイエルマイエルは「モースランを墜滅させるのか」ではなく、「墜滅を賭けて戦うのか」と尋ねたのだ。

 トウクは答える。

「もう少し事実関係の調査を続けても結果が変わらなければ、そうなります」

「そうですか。トウク君、Aクラスの幻術士相手は初めてでしたね」

「Aクラス自体は、八十七人墜滅させています。そのうち十一人は魔術士でした」

「しかし、幻術のみでAクラスになった者は初めてでしょう。気をつけて下さい。モースランは、次元が違います」

 今回モースランの行った虐殺は、充分に教団の誅殺対象になる。だが教団に情報が伝わったのは所属する検証士にトウクが調査依頼を回したからであり、トウクが先に動くことになったため教団は手出しを控えている状況だ。ハイエルマイエルとしては思うところがあるのだろう。

「ご忠告、胆に銘じます」

「……。トウク君、モースランを打ち倒す自信がありますか」

 ピリッ、とトウクは危険の兆しを感じる。

 教団が悪と断じることの一つは、不必要な殺戮を行うことで、もう一つは、不必要に著しい苦痛を与えることだ。

 そして三つ目が、偽り、騙すことであった。

 もしここでトウクがその場しのぎの適当な答え方をすれば、次の瞬間には真っ二つにされているだろう。ハイエルマイエルは変わらず穏やかな目でトウクを見据えていたが、敵を殺す時にも同じ目をしていることをトウクは知っていた。

 先にトウクへの報告を済ませ、後方で直立不動の姿勢を保っていた教団の検証士ラダポール・ウェイも、団長から死の気配を感じ取って身を固くしていた。

 トウクは答えた。

「正直なところ、分かりません。モースランとは直接会ったこともありますし経歴や能力も調べていますが、彼の本質を掴んでいる訳ではありませんから。ただ、全力で当たるのみです」

「……。トウク君。君の原点は、恨みと怒り、でしたね。それは今でも変わっていませんか」

 原点についてはハイエルマイエルに初めて会った時に聞かれたことだった。それは今も尚トウクの中で燃えている。

「はい。変わっていません」

「それ故にこそ、君はここまで辿り着いたのでしょうね」

 ハイエルマイエルから死の気配が薄れていった。トウクを殺す理由の一つには、モースランに破れて墜滅するくらいなら先に殺してあげようという善意があったのかも知れない。

 だがそれは、やるべきではないお節介だ。

「トウク君。君が己を貫き通せることを祈っていますよ」

 ハイエルマイエルはそう言って微笑んだ。

 

 

 その三十一日後、トウクは最終結論を出した。

 ・バハモーラの十二万の住民を殺戮したのは『血の幻影師』モースランで間違いない。

 ・動機は不明のままだが、モースランがサマルータに到着してから事件を起こすまでの間、彼にバハモーラ襲撃を促すような外的要因は認められなかった。

 ・よって、バハモーラ襲撃の責はモースランにあり、トゥラム王国の依頼によってモースランを墜滅させる正当性があると結論する。

 検証作業は、限りなく真実に近づいても、完璧にはなり得ない。しかしこれ以上検証に時間をかければモースランが他の世界に移動する恐れがあり、トゥラム王国に結果を示せなくなる。

 だから六十日間の調査で見切りをつけたのだが、幸いにしてリドックが仕事を引き受けてくれたことも大きな理由になった。

 『捜し屋』『追跡者』リドック。Aクラスの探知士であり検証士。どんな小さな痕跡も見逃さず、世界を跨いで転生先まで辿ってみせる男。トウクの兄弟子でもある彼の能力の凄まじい点は、捜す対象が我力の痕跡に乏しい一般人であっても、転生先まで追跡してしまうことだ。トウクが知るリドックの最高の記録は、十八万年前に死亡した一般人を、七百二十二回の転生を順に辿って見つけ出したというものだった。

 不愛想で偏屈なところはあるが、悪人ではない。トウクが最も信頼しているカイストの一人であった。

 リドックはいつも厳しい顔をしていて、細めた目で鋭い視線を投げる。喋っていない時は口がややへの字に曲げられ、近寄りがたい雰囲気を醸し出していた。細身ながら恐ろしく強靭な肉体は、必要とあれば真空の宇宙でも恒星の内部でも、多数のカイストが殺し合う戦場でも猛スピードで駆け抜けてみせる。武器は腰に下げた短剣と、鋼線を混ぜてより合わせたロープ。積極的に戦うタイプではないが、いざとなればAクラス数人を相手に大立ち回りを演じられる男だった。

「トゥラム王国成立の七百年前まで遡って調べてみたが、モースランとの因縁は特に見つからなかった。サマルータ自体との因縁も、モースランの出立世界がここってだけで、動機となりそうなものは特にない。ただし、それはモースランがまともな思考様式を持っていればの話だ。まともな言動をしているからといって、中身が本当にまともとは限らないからな。……奴の本心を読むのは俺でも難しい。師匠なら出来るだろうが」

「充分です。ありがとうございます。本心がどうであれ、モースランが一般人を虐殺したのは変わりありませんから」

 カイストは巨人だ。悪意がなくても、気づかぬままに村の一つくらい滅ぼしてしまえるのだから。

 リドックは煙草を取り出し、古いライターで火を点ける。儀式のようにゆっくりと吸い、ゆっくりと煙を吐く。それから彼は言った。

「今回、大赤字じゃないか。仕事を受けるたびに持ち出しで他の検証士に依頼してるようだが、今回は特に張りきったな」

 検証士仲間には興味を優先し、低額や無料で引き受けてくれる者もいる。ただし、リドックへの依頼は非常に高額で、兄弟弟子といえど容赦はなかった。

「相手が大物でしたから。暫くはガルーサ・ネットの依頼でも受けて稼ぐことにします」

「お前が墜滅しなかったらな」

 皮肉でも冗談でもなく、リドックは言う。

 まだ何か、伝えたいことがありそうだった。トウクは静かに待つ。

 吸い終えた煙草を携帯用の灰皿に落とし込み、やがてリドックは告げた。

「モースランだが、ホドラクにいた二十二ヶ月前とテクラトンにいた七ヶ月前に、ガルーサ・ネットでお前の居場所を検索している」

「俺の居場所ですか」

 意外な情報だった。ガルーサ・ネットにおける他人のサービス利用状況を知ることは条件次第では可能だ。検証士であれば本人の記憶から読み取ってしまうのが手っ取り早いが、支店・出張所のカウンターでやり取りしたものなら、好まれないことながらそこで過去の場面を掘り出して確認することも出来る。しかし相手が対策してシェルター・ルームで端末操作やサービス利用をすれば掘り出しは不可能で、無理にでもやろうとすればガルーサ・ネットに処罰されることになる。

 ちなみに他のカイストに居場所を知られたくない場合は、ガルーサ・ネットに既定の料金を払っていれば秘匿事項に設定することは可能だ。トウクは必要性を感じていなかったので自身の現在位置を秘匿設定にはしていなかったし、誰かが検索をかけた場合にトウクに知らせてくれるようなサービスも頼んでいなかった。

 トウクがサマルータでのモースランの足取りを辿った際には、ガルーサ・ネット出張所に立ち寄った様子も掘り出している。しかし自分宛てのメールが届いていないかカウンターで確認しただけで、シェルター・ルームも使わなかった。

「お前はカイストから恨みを買いやすい生き方をしているからな。お前が滅ぼしたカイストに、モースランの知り合いがいたとしてもおかしくはない」

 厳しい表情を変えず、リドックは続けた。

「これからお前はモースランを本気で滅ぼしにかかる訳だが、もしかすると、モースランの方も同じかも知れんな」

 トウクは自分が独りであることを理解している。一人のカイストを墜滅させるのに自分一人で当たるのは、当然の義務であり筋だ。いつかは敗れ果て、跡形もなく消え去るのだろうが、それも含めてトウク自身で選んだ道だ。

 ただ、不愛想な兄弟子が自分を気遣ってくれていることは伝わってきた。それはトウクがいつもやり取りする苦痛よりも、妙に痛かった。

「重要な情報を、ありがとうございました」

 二度と会えなくなるかも知れない兄弟子に、トウクはただ礼を言うしか出来ない。

 

 

  六

 

 荒野。

 タクセント・ファロンによって話が持ち込まれてから六十三日、トゥラム王より正式に依頼を受けてからは五十三日が経過していた。

 嘗て大ガハルサ帝国という巨大国家の首都が存在していた場所。戦争でAクラスの魔術士によって滅ぼされた際に毒素が充満し、後に浄化されたが敢えて住み着く者もなく廃墟となった。六万年が経過した今となっては殆どの痕跡は砂の下に沈み、絢爛であった宮殿の傾いた尖塔上部が、ボロボロに風化して僅かに顔を出しているくらいだ。

 そんな荒野で、『血の幻影師』モースランは一人、待っていた。

 空は暗く濁っている。中天を少し過ぎた太陽は紫色の雲に隠れているが、それが幻術であることにトウクは気づいている。ただし全ての雲が幻という訳ではない。現実の雲に幻術の雲を加え、薄暗い空を更に暗く修整し、一部の雲は逆に消している。真と偽を混ぜ込むのが幻術の極意であることをトウクは知っていた。意識して見分けようとすること自体が幻術に嵌まり込む入り口なのだ。トウクは探知の触手を広げつつも過度に意識しないように努める。

 六本足の群れ。何百億年も種を保ち続けているサマルータの名物狼。四つの群れが遠くからトウクとモースランの様子を窺っている。ただし群れの一つは幻で、他の群れにも何頭かずつ幻が混じっている。

 他のカイストの気配。前回と同じく検証士エムミス・ユーシュムが見守っているが、モースラン相手であることを考慮しているのだろう、かなり距離を取っている。それから同程度の距離で別方向に、絶対正義執行教団の検証士ラダポール・ウェイもいる。おそらくハイエルマイエルに指示されて見届けに来たのだろう。彼らは戦いがどう転んでも途中で介入してくることはない。それから更に遠くに何人か、隠蔽結界で隠れている。向こうは感覚を最小限に閉じて探知されるリスクを下げている。かなりの使い手だ。もっと精密に探ろうとするとカウンタースキャンを食らうかも知れない。ひとまず、トウクへの敵意はなさそうだが。

 標的の仲間に攻撃される可能性は常に考えておかねばならない。首枷を填める前に奇襲を受け殺されたことは一度や二度ではない。標的に首枷を填めて繋がってしまえば死ななくなり、攻撃されて生じた苦痛は標的にも渡るので、仲間も手出しを諦めるようになる。ただし、圧倒的な強攻撃を第三者から食らった場合、首枷と鎖を破壊されてしまう危険もないとはいえなかった。

 実際、墜滅業の最中に通りかかった『千の刃』フィロスにやられたことがある。殺戮しながら歩いてきて、ついでのようにトウクは切り刻まれ、鎖を叩き斬られ、そして標的ごと殺された。

 四千世界から消し去るべき凶悪カイストとして、フィロスは上位二十位以内に入るだろう。Aクラスの無差別大量殺戮者という厄介極まりないカイストでありながら、それでも一位でないことがカイストの業の深さを感じさせる。フィロス相手の墜滅依頼をトウクは二度受け、二度とも完全に失敗した。首枷を填める前に斬られて終わってしまうのだ。死ぬ間際に聞こえた「弱い」というつまらなそうな呟きをトウクは覚えている。

 いつか必ず墜滅させるつもりだが、勝てる算段がつかぬまま気軽に再挑戦するほどトウクは恥知らずではなかった。

 いや、今は、フィロスよりモースランだ。

 この地には幻術とその種がばら撒かれているが、トウクが依頼を受けてからこの日まで、モースランは新たな事件を起こしてはいない。誰も殺さず、ガルーサ・ネットの出張所に立ち寄りもせず、他のカイストとも接触しなかった。徒歩で荒野を歩き、たまに都市や村を訪れて食べ物を買うが長居はせず、そして八日前からこの地に留まっていた。

 意識してトウクを待ち構えていることは、もう間違いないように思えたが、相変わらずモースランの思念は読めないままだ。

 トウクはモースランに向かって歩く。さりげない幻がトウクの感覚を少しずつ歪めようとしているが、本格的な攻撃はない。

 モースランは一抱えほどの大きさの岩に腰掛けている。灰色のローブ姿で、今日はフードを目深にかぶっており、幻術による隠蔽処理も加わって顔が見えない状態だ。しかし、自身に向けられた視線をトウクは感じ取っていた。

 心を読まれている。幻術の陰から感知の目がトウクを覗いているのがわかる。読心は幻術士にほぼ必須の能力だ。モースランと直接会ったのは六億年前が最後だったが、その時は感じ取れなかったから、トウクも少しは成長しているということだろう。……いや、そう思わせるためにわざと感知の目を気づきやすくしている可能性もあった。

 混乱させ、疑念を抱かせ、決意を弱めさせる。それは墜滅を賭けた勝負においては有効な攻撃だった。

 重要なのは、疑う心。

 トウクは自身の鍛え上げた能力を信頼しつつ疑いを残し、繊細に感知しながら情報に頼りきらず、固く冷えた平常心を保ちながら歩いていく。

 特に派手なことは起きぬまま、トウクはモースランの前に立った。

「モースランだな」

 トウクは形式上確認する。

「……私はここにいた。最初……ここにいた」

 声が聞こえた。力のない呟くような声で、フードの中から聞こえたが、やはりモースランの肉声ではなかった。魔術士には使い魔に喋らせたり幻術で相手を聞こえた気にさせたりして、自分は喋らない者がいる。嘘を直接口にすると格が下がり弱くなってしまうためで、幻術士であるモースランも以前から肉声は使っていなかった。

「モースランだな」

 トウクは再度尋ねる。

「剣一振り、山一つ」

 唐突なその台詞がトウクの心臓を突いた。

 心を読まれていることは分かっていたから驚きはしない。この痛みにも慣れている。

 ただ、トウクの体の奥に、炙られるような鈍い熱が生じていた。熱はトウクの冷静さをほんの僅かながら揺らがせ、だがすぐに元に戻る。

 トウクは自分の確立した様式に則って言葉を続ける。

「お前への復讐依頼を受けた。八十四日前にバハモーラの住民を幻術で殺し合わせ、全滅させた件だ」

「全滅はしていない。厳密にはね」

 モースランは平然と返した。

「私があの時幻術を使う前にバハモーラを出発した者が何人かいた。彼らは今も生きているんじゃないかな。それに、当時別の都市に滞在していたバハモーラの住民もいたことだろう。だから、バハモーラの住民は全滅はしていない」

「そうか。なら訂正しよう。八十四日前にバハモーラにいた十二万千五百十七人を殺し合わせた件だ」

「まあ、どちらでもいいことだ。大した違いはないんだ」

 声は笑みを含んでいた。

「快楽も苦痛も、生も死も、ただ、泡のように浮かんでは消えていく。それだけのことだよ」

「なら、お前がカイストとして歩んだ八十七億年の生も、泡のように消えてもらうとしよう」

 トウクが告げると、フードの中から赤い液体が漏れ出した。ドロドロ、ドロドロと、袖からも裾からも溢れ出し、灰色のローブを赤く染める。濃厚な血の匂いがした。鉄臭さと生臭さと、そしてバニラの香りが混じっているのはモースランのセンスか。足元に赤い血溜まりが出来、更に加速しながら広がっていき荒野はあっという間に暗い血の海と化した。空も赤く染まり、中天にどす黒い渦が巻いている。モースランの幻術は本格稼働した。

 足首まで血の海に浸かり、靴の中に入り込む粘っこい感触を無視してトウクは尋ねる。

「始める前に検証士の証書を見せようか。四枚あって、一枚はAクラスのものだ」

「必要ないな。君の段取りは分かっているからね。首枷の説明も不要だ」

 血の滝を流しながらフードから声がした。トウクの背後の血の海から続きの台詞が飛んでくる。

「ああ、そうだ、始める前に一つ言っておこう。私は君に恨みや因縁はないよ」

 更に赤い空が大気を震わせて語った。

「ただ、君は選ばれたんだ。特別なショーの特別な観客としてね」

 それは本音かも知れないし、丸っきりの嘘かも知れなかった。トウクにはどちらでも良かった。

「そうか」

 トウクは簡潔に答え、腰の首枷に右手を伸ばした。畳んだ鎖と一緒にいつもの場所にある筈が、素通りする感覚があった。トウクは構わず見えない首枷を握り締め、鎖を引っ張る。

 予め少しずつ感覚を狂わされていることは分かっていた。だが、鎖と首枷を扱い標的の首に填めるのは師のアドバイスで何十億年と鍛錬を積んできた動作だ。間違える筈はなかった。

 血の滝に右手を突っ込み、フードの中にある首に鋼鉄の半円を押し当てる。グニョリとした妙に柔らかい感触と、カチャリといういつものロック音が重なった。

「そこは私の首じゃない」

 ローブの右袖が笑った。

「いいや、首だ」

 自分にも首枷を填めながらトウクは断言した。機転の利いた駆け引きが得意でなくても、戦いの胆は理解していた。

 鎖は見えないままだが、相手と繋がるいつもの感覚があった。小さな驚きの気配をトウクは感じ取った。トウクが間違えず首枷を繋げたのが想定外だったのか。それとも苦痛を共有し我力が生命維持に向かう特殊な拘束状態を実感したためか。これまで相手の感情は感じ取れなかったが、鎖で繋がったことが感知の鋭敏化に寄与したのか。或いは、驚きの気配は意図的に伝えられた幻術の可能性もあった。

 この拘束状態では我力を込めた攻撃や術は大幅に弱められる。だが、モースランは強力なAクラスで、幻術を見せる相手はトウク一人だけだ。普通に掛かることをトウクは覚悟していた。

「さあ、やってみせてくれ。君のお得意の拷問をね」

 赤い空が嘲笑した。中天のどす黒い渦が大きくなり、その奥に血走った巨大な眼球が見えた。虚ろな視線はトウクに向けられていた。

 魔術士であれば、高度な幻術に対抗して結界とか妨害魔術とか、感覚や意識の固定・分割とか、幻術を逆手に取って逆流させるとか、色々な手段があるのだろう。それがモースラン相手に通用するかは別にして。

 トウクに出来ることは一つしかなかった。

 握った鎖を振り上げる。引っ張られたモースランの体が浮き上がり、いやローブが伸びて、伸び続けて赤くなった岩に腰掛けたまま上半身が十メートル以上も伸びた。構わずトウクは鎖を下へ引き、地面に叩きつける。伸びきった胴が頭からドプリと血の海に落ちた。粘液のような鈍い感触は幻術で、頭頂部から右額にかけての硬い痛みは本物だった。一瞬、フードからトウクの首に繋がる鎖が見えた。

 その時、理解した。モースランも、本物の痛みに慣れていないカイストの一人だった。

「ハハッ。痛い。痛いぞっ。痛みだ、ハハハハッ」

 長い胴体のままモースランが身を起こす。血でドロドロのフードから狂ったような笑い声が洩れた。苦痛を笑いで紛らそうとしているのか。いや、声音には歓喜の響きがあった。幻術で強がってみせているのか。或いは……。

 トウクが再度鎖を振り上げようとした時、赤いフードがベラリとめくれ返った。頭頂部から幾筋もの亀裂が入り、花が開くように……と、フードは赤い花びらとなりローブから離れて宙を舞う。次々に新たな花びらが生えては舞い、長いローブの胴体も花びらになって舞い散っていく。どんどん増える。

 あっという間に視界が赤い花びらで覆い尽くされる。それに紛れて何らかの攻撃が来るかと思ったが、特におかしな感触も苦痛もなかった。

 五秒ほどで花びらは落ちていき、地面に溶けて消えた。先程までの血の海と赤い空はなく、草原が広がっていた。モースランの姿は座っていた岩ごと見えなくなっている。鎖で繋がっているので痛めつければ反応は得られるだろうが。

 彼方に山が見える。頂きまで木が茂った、それほど高くはない山だが特徴的なところがある。左側の中腹部が不自然に大きく抉れている。その抉れ方にトウクは覚えがあった。

 アラクワ山。

 そういうことか。トウクはモースランの戦略を理解した。

 アラクワ山はトウクが一般人の頃に住んでいた場所だった。サマルータとは別の世界の話だ。山の麓に小さな村があったのだ。アラクワナ村という名称を生前は意識していなかった。トウクは少年だった。狩人である父の跡を継ぐことに何の疑問も持っていない、普通の少年だった。

 山の中腹の抉れは何百年も前にカイストがやったのだと聞いていた。強大な力を持った神様みたいな存在。あまりにも自分達からはかけ離れていて、憧れを抱く余地もなかった。狩人としてこの村で生き、年老いて死んでいく。それだけで充分だったのだ。

 カイストの力の痕跡が残った山を、別のカイストが試し切りに使うことなど、一般人には想像も出来なかったのだ。

 剣一振り、山一つ。

「ガザット・サルの位置からは、君の村は山の裏側にあって見えなかったんだよね。彼は、特に悪気はなかったんだ」

 トウクの耳元で囁き声がした。声音は猫撫で声のように優しく、悪意に満ちていた。

 草原に人影が二つ浮かび上がる。屈強な、異常に太い腕の男と、痩身の男。前者がAクラスのガザット・サルで、後者がBクラス上級のエリエンスルークであることをトウクは知っていた。ずっと後になって調べたのだ。

「あの山までは二千六百メートルといったところだな」

 エリエンスルークがアラクワ山を指差して言った。

「『二口(ふたくち)魔導』はこの辺から光弾を撃ったんだろ。狙いが逸れてるじゃねえか」

 ガザット・サルが野太い声で笑う。

 『二口魔導』というのはラライミィのことだ。Aクラスの魔術士で、百億年戦争でも活躍した記録が残っている大物だった。

「いや、別に狙った訳じゃない。戦闘中に撃った魔法を相手がよけて、あそこまで飛んでったという話だ」

「あー、そういうことかよ。しっかし中途半端な痕だよな。俺なら……」

「ここから届くかい」

 エリエンスルークがちょっと意外そうな顔で尋ねる。

「届かせるさ。Aクラスの剣士ともなりゃ、やっぱりこれが出来ねえとな」

「ふむ。剣一振り、山一つ、か……」

 エリエンスルークの言葉にガザット・サルはニヤリと笑い、腰の剣を抜き放つ。一見無造作であったが練達した動きだった。

 この会話はわざわざ師匠に頭を下げて掘り出してもらったものだ。別に有名な事件でもなく、世界図書館にも記録はなかった。事件の概要は調べられても、細かい会話や彼らの仕草まで今更掘り出すのは無理だ。ということは、モースランはトウクの記憶から読み取っているのだろう。

「『やめろ』とは言わないのかい」

 囁き声が問う。

「過去は変えられない。それより、こんなもので俺を打ち負かせるつもりなのか」

 トウクが鎖を振らずにいるのは、相手からの攻撃を一通り受けてみせることも心を折るためには必要な工程だからだ。ただし、大抵はトウクの肉体を破壊し殺しにかかる直接攻撃ばかりだった。精神を破壊するような術も食らったことはあるが、モースランの幻術は妙に迂遠で、いやらしさを感じさせた。

「君は自覚していないのかな。憎悪が煮えたぎっているじゃないか。いけないな、この程度で動揺していては。君が殺すべきはガザット・サルじゃなくて、私の筈だろう」

 チャリチャリと音がする。鎖を握るトウクの右手が小刻みに震えている。左手も固く握り締められ、やはり震えている。

 幻術だな。トウクは気づいている。動揺しているように錯覚させることで動揺を誘おうとしている。そもそもこんなことで動揺する筈がないのだ。これまで何万回、何億回、何兆回と脳裏に焼きつけてきた場面なのだから。

 ガザット・サルは右手の剣を右斜めに差し上げ、左手を柄に軽く添えると、ヒュッという鋭い呼気と共に剣を振り下ろした。

 斬撃。衝撃波のようだが、実際には剣に宿らせた我力の塊を飛ばす技術で、距離が遠くなるほど我力も減衰していくため同格相手には使いどころが難しい。しかし、我力のないただの物体には飛ばし方次第で絶大な破壊力を発揮する。

 二千六百メートル先のアラクワ山に斜めの線が入る。単純に切断しただけでなく、断面の形状をある程度固定しつつ摩擦力を弱める効果を加えており、ズズ、ズズ、と、山の上部が、斜めにずり落ちていく。

 そこで再度ガザット・サルが剣を振る。崩壊しかけていた山はX字に裂かれ、三つの巨大なパーツとなって滑り落ちていった。

 その下にはトウクの村があったのだ。山に潰される寸前まで、普通の暮らしをしていたのだ。

 平凡な人生で、良かったのに。

「ほら、やっぱり動揺しているじゃないか」

 嘲笑う囁き声。トウクは自身の歯が軋む音を聞いた。これは幻術ではなかった。この場面を思い出す時は、いつもそうだったから。

 動揺はしていない。ただ、苦痛であり、激烈な怒りが湧き上がってくるだけだ。いつものことだ。耐えられるし実際に耐えてきたし、そのたびに自分の決意を再確認することが出来た。それだけのことだ。だから動揺はしていない。

「ざっとこんなもんだな」

 ガザット・サルは何でもないような口調で、しかし得意げな表情で横のエリエンスルークを見る。その顔が……。

 顔が、トウクの顔になっていた。傷痕だらけで、頭髪が疎らにしか生えておらず、割れた唇に陰惨な笑みを浮かべていた。昏い瞳はどす黒い憎悪と、敵を潰した喜びに燃えていた。

 自分はそんな悪意に満ちた表情をしているのか。カイストの墜滅を達成した時に、どうだろうか。トウクは自問するが、探知士として自分の顔も見えているのでそうでないことは分かっている。

 ただ、本当にそんな表情をしていたとしても、おかしくはない気がした。トウクの原点は復讐であり、隠すつもりもなかった。

「それだけか」

 トウクは言った。確かに少し驚きはしたし、痛みもあった。だが、好き勝手に暴威を振るうカイスト達と、一般人の依頼に私怨を乗せてカイストを殺す自分が本質的には大して違わないことを、トウクは既に知っていた。だからわざわざ幻術による演出でそれを意識させられたところで、根幹を揺るがされるほどではなかった。

「まだあるが、そろそろ君の番でもいいよ。先は長いからね」

 トウクの顔をしたガザット・サルが言った。彼の首に首枷が現れ、トウクの首まで繋がる鎖が浮かび上がった。本来の二メートル七十センチよりも長い。

 ただの幻術だ。本当の首枷は今もモースランに填まっている。トウクは躊躇なく鎖を振り上げた。トウクの顔をした男があっけなく浮き上がる。勢いをつけて地面に叩きつけると、全身の痺れるような痛みと共にグシャリという嫌な感触があった。

 我力防壁のない、一般人の肉体を潰したような感触だった。

 トウクの顔をしたガザット・サルだったものが、別の姿になって這いつくばっていた。

 十代半ばの少年。両足が太股の半ばまでしかなく、左腕も数ヶ所でおかしな方向にねじ曲がって役に立ちそうになかった。粗末な服はボロボロで、体中が傷だらけで、無事な右腕だけで地面を掻いている。腹這いからこちらを見上げた顔。その苦痛と憎悪が染みついた顔に見覚えがあった。額から左頬にかけての傷痕で確信した。

 アラクワナ村に住んでいた、ただの村人だった頃のトウクだった。滑り落ちてきた山によって潰された村の、唯一の生き残り。両親も小さかった妹も、好きだった幼馴染みも皆土砂に呑み込まれた。木の上で弓を構えて狐を狙っていたトウクだけが両足と片腕を潰されながらもなんとか助かった。腰も砕けて這うことしか出来ず、片手で山菜などや木の実を漁って必死に食い繋いだ。

 獣のような生活を続けていたある日、通りかかったカイストが教えてくれたのだ。山の崩れ具合からこれは強力なカイストに斬られたものだろうと。『剣一振り、山一つ』という決まり文句があって、戦士は自分の力量を見せつけるために山を斬ることがあるのだと。

 アトゥー・ホールンというそのカイストは別にトウクを助けてはくれなかったが、トウクは深く感謝していた。この身を焼き尽くす怒りを、向けるべき対象が分かったのだから。

 そんな嘗てのトウクが、今のトウクに憎悪の眼差しを向けていた。幻術と分かっていながら、その視線は魂を抉る痛みとなってトウクを襲った。今のトウクはもう理不尽な災害に憤るだけの一般人ではない。理不尽な力を持つAクラスのカイストなのだ。

「昔の君に恨まれるような心当たりがあるのかな。そうだよねえ、君だって、一般人を一人も殺さずに生きてこられた訳ではないよねえ」

 耳元でモースランが囁く。

 五十八億年も生きていれば当然のことだ。襲ってきた盗賊を殺し、悪徳領主を殺し、殺し屋を返り討ちにし、国同士の戦争で防衛戦に雇われ敵兵を殺した。

 そして、勘違いから罪のない一般人を殺してしまったこともあった。自動車の運転操作を誤って轢き殺してしまったこともあった。投げた石が偶然人に当たって死なせたこともあった。深く考えず発した非難の一言で相手が自殺したこともあった。カイストの強大な力のせいで殺してしまったこともあり、一般人でもよくやるミスで殺したこともあった。どちらにしても、トウクは無罪ではなかった。犯した罪は出来る限り償ってきた。悪を滅することで結果的に救われた人の数が、殺した人の数より圧倒的に多いと自負もしている。しかし、それでも、トウクは無罪ではなかった。

 少年のトウクは瞬きもせずトウクを見据えながら、首に繋がる鎖を右手で握り締めた。その傷だらけの細い腕で、這いつくばった姿勢からトウクを投げることは出来るだろうか。いや、これは幻術だから……。

 鎖が引っ張られ、トウクの体が浮き上がった。少年の砕けた腰がブヂッと鳴るのが聞こえた。

 逆さまに落ちる。トウクは受け身を取らず、頭と右肩から地面に叩きつけられる。痺れに似た痛み。裂けた頭皮からの出血はすぐに止まり、トウクは立ち上がった。

 今の痛みは本来感じるものとは微妙に違っていた。やはり幻術で、実際のトウクはずっと立ったままなのだろう。

 少年が再び鎖を振るう。トウクはまた首から引っ張られ、地面に叩きつけられる。トウクが滅殺対象にいつもやるように。トウクが立ち上がると、また少年が鎖を振る。トウクはまた立ち上がる。何度も、何度も繰り返す。

 トウクの反応を見ながら幻術を微修整しているのだろう。少しずつ痛みはリアルなものに近づいていたが、トウクを脅かすレベルのものではなかった。少年の憎悪の視線はトウクの胸を刺し続けたが、それでもトウクの心を揺るがすものではなかった。

「それだけか」

 二百回ほど受けた後で、トウクは言った。

「次の段階に進もうと思うんだ。君も遠慮なく君自身を痛めつけるといい」

 耳元の囁きに応え、トウクは鎖を振り上げた。トウク少年の幻が浮き上がり、地面に叩きつけられる。ベジャッ、と少年のいびつな肉体が砕け散り、ちぎれた肉片はすぐに集まって再生されていくが、元の半分程度しか戻らなかった。破れた腹から腸をはみ出させ、あちこちの筋肉を露出させ血を流している。トウクの罪悪感を強めるための意図的なものだろう。顔の左側が髑髏になり左の眼球が視神経の糸を引いて垂れ下がっていても、少年は歯を食い縛り、右の目でトウクを刺し続けていた。

 幻術による体中の痛みに紛れ、頭と首に本物の痛みがある。トウクの振った鎖はモースランの肉体を痛めつけている筈だ。幻術で何を見せられようと、平然と耐えて鎖を振り続ければいい。魔術を使う者、小細工を弄する者、様々なカイストを相手にしてきた。トウクは彼らを、ただ一つの単純な方法で打ち砕いてきたのだ。

 また鎖を振るうと、少年の肉体が潰れる時に苦鳴が聞こえた。少年の声ではなかったし、モースランの囁きとも違っていた。

 肉の部分が三分の一ほどに減った血みどろの少年の下。その地面に人の顔があった。少女の顔。いつの間にか生えていた、いや今幻術で浮かび上がったのか。トウクが少年を叩きつけた際にぶつかったのだろう、その顔は右目と頬が陥没して曲がった鼻から血を流していた。

「うう……痛い……ひどい……どうして、こんなことを……」

 地面の顔が泣きながら、弱々しい声で非難した。その声に覚えがあった。陥没しているが、よく見るとその顔にも覚えがあった。

 ユナ。

 少年であったトウクの幼馴染み。アラクワナ村の村長の娘。好きだった。彼女もトウクを好いてくれていると思っていた。結婚の約束まではしていなかった。彼女を狙っている村の男は他に何人もいた。狩人の息子と一緒になることを村長は許してくれるだろうか。トウクが有能な狩人になって大物を仕留めればもしかしたら……。

 彼女は山に潰された。土砂の下から掘り出すことも出来なかった。好きだったのに。

「そんなつもりはなかったんだ。そこに君がいるなんて……」

 知らなかったんだ。と、トウクは我に返る。これは幻術だ。ユナがいたのは五十八億年も前のことだ。だからユナの顔が潰れたのはトウクのせいではないのだ。

 ズタボロの少年が怨嗟に満ちた声を吐き出した。

「絶対に、許さない……地獄の果てまで追いかけて、絶対に、報いを受けさせてやる。……何年かかっても……必ず……」

 その台詞は、アトゥー・ホールンに真相を教えてもらった時にトウクが唱えたものだった。

 アラクワ山を斬ったのがガザット・サルというカイストであることを知ったのは千八百才の時で、なけなしのルースを払って検証士に依頼した。そして仇に追いついたのは二千二百才の時で、本当に偶然だった。ガルーサ・ネットの支店でふとガザット・サルの居場所を検索してみようと思いついた時に、丁度その場に本人がやってきたのだ。

 トウクの恨み言を一通り聞いた後で、ガザット・サルはニコリと笑い、両腕を上げて言った。

「そうか。そいつはすまなかったな。好きなところを百回刺していいぜ」

 トウクは怒り、ちゃんと勝負しろと要求した。そしてあっさり負けて死んだ。

 ガザット・サルとの件はそれで終いだ。消化不良だが、自分が要求したやり方で負けたのだから、その後も蒸し返すのはフェアではなかった。

 だから、トウクは、この怒りをぶつけるべき相手を、ずっと探し求めているのだった。

 少年の怨嗟の声は、トウクに苦い思い出を甦らせた。その恨みと憎しみが自分自身に向いていることを皮肉に感じながら、トウクは再び鎖を振った。

 血みどろの少年が浮き上がり、叩きつけられ、潰れて肉片を散らした。少年は呻き声一つ上げなかったが、また悲鳴が聞こえた。

 転がる少年の下の地面にまたユナの顔が生えていた。折れた歯を吐き出しながら「痛い、痛い」と泣いている。

 トウクは遅滞なく鎖を振るう。肉が減ってほぼ骸骨となった少年が宙を舞い、また落下地点に顔が生えて悲鳴が上がる。それでもトウクはまた鎖を振るう。

 また顔が生える。苦鳴が聞こえる。また鎖を振る。ユナの顔が地面を埋めていく。あちこちで苦鳴と怨嗟が洩れる。フィードバックされた苦痛がトウクを襲う。髑髏となった少年の、眼球が抜け落ちた眼窩からまだ視線を感じる。トウクは急がず、一定のペースで鎖を振るい続ける。

 僅かながら苛立ちの感情をトウクは感じ取った。苦痛を与える瞬間、モースランの心が耐えきれずに本音を洩らしてしまうようだ。或いはモースランが弱っているとトウクに思わせて、気を緩ませる策かも知れないが、トウクは緩んだりしない。

 少年の骸骨がぶつかっていないところにも顔が増えていき、既に大地は無数の顔で埋め尽くされている。ユナの顔だけでなく様々な人の顔があった。村人だったトウクの両親の顔もあったし、妹の小さな顔もあったし、トウクが事故で死なせてしまった男の顔もあったし、間違って殺してしまった女性の顔もあった。彼らは「痛い、痛い、やめて」と呻いていた。

 トウクの足元にグニャリとした感触があった。

「やめ、て……下さい……」

 トウクの足が少女の顔を踏んでいた。数ヶ月前にトウクに復讐を依頼して死んだ、イーナという名のカリラマ村の少女。

「あなたが、動くたび、に……痛いんです、とても……お願いです、やめて……」

 トウクはやめなかった。鎖を振り回し、骸骨を叩きつける。顔達が悲鳴を上げる。ユナの顔が弾ける。足の下のイーナの顔が歪み、皮膚が剥げてめくれる。

「痛い、痛い痛い痛いギャーッ」

「お前のせいだ、お前のせいで俺は、お前のせいだっ」

「や、やめて、痛い……やめ……」

「どうして、どうしてやめてくれない。どうして、どうして……」

 無数の悲鳴を聞きながら、トウクは苦痛の行を繰り返す。繰り返し、繰り返し、鎖を振り、相手と自分に痛みを与え続ける。

「どうせ、全て幻術だから。そう思ってるよね」

 笑いを含んだ囁きが耳元で聞こえた。

「ないものをあるように見せるのが幻術だけれど、あるものをないように見せるのもまた、幻術なんだよね」

 恐ろしい指摘に、トウクは鎖を握る手を止めていた。すぐに意味を理解した。モースランの待ち構えていた荒野には、遠巻きに見守るカイストや六本足の群れ以外に人はいなかった。だが、トウクの探知に引っ掛からなかっただけで、捕獲した一般人を巧妙に隠蔽していたのだとしたら。幻術の顔に紛らせて、地中に首まで埋められた人々の顔に、モースランの体を叩きつけているのだとしたら。

 探知士としての自分の力量に不安はないが、物事に絶対はない。ごく僅かな可能性でも、疑わねばならなかった。

「さあ、どうする。拷問を続けるかい。それとも降参するのかな」

 トウクは静かに腰を下ろし、地面に胡坐をかいた。尻の下で少女の呻き声が聞こえていた。

 モースランは知らなかったのか。トウクは一ミリも体を動かさなくても相手に激痛を与えることが出来るのだ。自分の痛みが相手の痛みにもなるのだから、自分の体内をいじれば良い。

「ギャッ、ウッ」

 右前方二メートルで悲鳴が発せられ、途中から左後方七メートルに移動した。予想外の苦痛にモースランの本体が悲鳴を上げたのか。発声器官を持っていなくても、反射的に幻術の声を洩らしてしまったようだ。途中で誤魔化したが、おそらく本体は右前方から移動していない。

 だが本体が何処にいようとトウクは動くつもりはなかった。

 体中の感覚神経を自分で損傷して激痛を生む。人間の有名な激痛には、ドリルで目の奥を抉られるようだと表現される群発頭痛、腎臓で出来た石が膀胱に繋がる細い管内をゴリゴリと降りていく尿管結石、血中の過剰な尿酸が関節を冒す痛風などがある。トウクはそれらと同じ痛みを順に作り出していく。

「ギャーッ、痛いっ痛いっ」

「アガガガガ、イッイイイイイ」

「やめろやめろ痛いやめろ痛い」

 地面の顔達がこれまで以上に喚き散らす。

 トウクは群発頭痛よりも尿管結石よりも痛風よりもひどいものを知っている。拷問でも有名なものだ。

 それは、麻酔なしで歯の神経を削る痛みだった。

「ゴッ」

 一瞬景色が揺れ、顔達の悲鳴がやんだ。幻術の世界が凍りついた。

「……お……おかシい。変だ、こんナ痛み、が、知っテイる痛みと違う」

 漸く喋り出した耳元の声はイントネーションがおかしく、モースランの動揺が察せられた。

「モースラン。お前は八十七億年間、本当の痛みからは逃げていたのだろう」

「いイや、痛ミは知っている。ちゃんト経験しテイる」

「違うな。自分の痛みを誤魔化し、他人の痛みを横で眺めていただけだ」

「ソんな、そんな筈はアアアグッ」

 トウクは神経損傷の対象を別の歯に移した。トウクにとっては耐え慣れた痛みだが、モースランにはそうではなかった。

「やめろやめろやめろ」

「やめろやめろやめてやめろ」

「おい貴様やめろおいやめろ」

 顔達が凄い勢いで叫び始めた。トウクがやめないでいると地面から顔が飛び出し、血塗れの肉を引き摺りながらトウクに殺到してくる。

 トウクはドロドロの肉の海に呑み込まれた。押し流され、体中を齧りつかれ、押し上げられて肉の海から顔を出せたと思ったら、赤い空からボダボダと血の雨が降り注いでくる。

「やめろやめろやめろやめろ」

「やめろやめろやめろ」

「やめろやめろやめろやめろ」

 トウクはやめなかった。七秒苦痛を生み、七秒休む。また別の場所に七秒苦痛を生み出す。また七秒休む。それを延々と繰り返す。延々と、延々と。

「やめろやめろ、やめないと……おい、これは何だ。さっきから、痛みとは違うこれは、おいやめろ、これは」

 顔に喋らせていた叫びがモースランの声に変わった。トウクは答えない。喋らない。口を閉じて上咽頭も意識的に塞ぎ、呼吸を完全に止めている。

「おいこれは、苦し、何だおい、やめろ、息が、こんな……」

 酸欠の苦しさは痛みとは別次元のえげつなさがある。一般人なら限界を超えれば気絶して、その後死ぬだけだ。カイストでも死ぬし、対策して酸素をあまり必要としない体に作り変えたり我力で補ったりしてしまう。際限なくエスカレートする酸欠の苦しさを味わったことのある者は殆どいないのだ。

「ああああうあうあうあああっ」

「べべべべべべべべべべ」

「べにゃばふっげにょっ」

 顔達の叫びがおかしくなった。苦痛のあまり幻術のコントロールが狂ったか。肉の海は激流となってトウクをメチャクチャに振り回す。

「やめやめろやめろやめやめろ貴様っひ人質を殺すぞっ」

 血の詰まった耳にモースランの声が届く。いつもなら「その手の脅迫には応じないことにしている」と答えるところだが、呼吸を止めたままなので黙っておく。モースランもトウクを調べた際に基本方針は知っている筈だ。それにそもそも人質が本当であれブラフであれ、そんな駆け引きに乗る馬鹿は『不死者』グラン・ジーくらいのものだ。モースランは少々錯乱気味になっているらしい。

「ほほほら一人死んだぞお前がやめないからだっこの人殺しめっほら二人目が死んだどんどん死ぬぞお前がやめないからハハハハハハおいやめろやめろどうしてやめないほら三人目が死んだぞ四人目だやめろやめろいい加減にしろこの人殺し人殺しめ」

 今更な指摘だった。トウクはやめない。体は動かさぬまま酸欠の苦しみと各部の激痛を生み出し、首枷と鎖を介してモースランに共有させる。

「あああああああこの糞っ垂れがあああああ」

 トウクは血肉と顔の海から射出され、巨大な壁に叩きつけられる。全身が潰れたところに追い討ちでもう一枚の壁が挟み込んできて、トウクの体は数ミリ厚までプレスされた。巨大な壁は巨大な手に変化し、平らになったトウクの体を丸めて肉団子にする。投擲された先に火山が待っていた。見事なコントロールで火口にぶち込まれ、煮え滾るマグマに沈み全身を焼かれていく。跡形もなく焼き尽くされた後は今度は凍らされる。マグマも火山も消え、トウクの五体は元に戻っているが氷漬けになっていた。周囲は暗黒で、彼方にちらほらと小さな光が見える。星。真空の宇宙空間にトウクは浮かんでいた。それが何処かに引き寄せられ、どんどん加速していく。前方の小さな点であったものが大きくなり、恒星であることが分かる。引力には抗いようもなく、トウクには抗うつもりもなく、高熱によって瞬時に氷が溶けた後は一気に恒星内部に突っ込んでいった。強烈な熱さと光に包まれ、トウクの体はまた消滅したが熱さだけは続いていた。

 幻術が雑になっていることにトウクは気づいている。本来モースランが見せる幻術は悪趣味だが精妙で、工夫を凝らしていた。やはりトウクから伝わる苦痛のために余裕をなくしているようだ。

 再び体が戻り、トウクは超高速で飛んでいる。自力で加速歩行可能な限界を超え、訳が分からないレベルのスピードで飛ばされている。突然何かにぶち当たりトウクは爆発する。また体が戻り、超高速飛行と激突爆散を繰り返す。

「貴様、貴様っ、どうしてそんな、生の苦痛に、耐えられるっ。……どうしてそんな、自分で、そんな痛みを、苦しみを、自分に課せるっ。どうして、カイストになってまで、わざわざそんな、ことをっ」

 耳元でモースランが絶叫した。そこで漸くトウクは口を開いて答えることにした。

「目的があるからだ。俺がカイストをやっている根本の目的だ。それがあるから俺は耐えられる」

「復讐か。ガザット・サルへの復讐はとっくの昔に失敗しているじゃないか。後はただの八つ当たりだ。五十八億年を八つ当たりに費やす人生は楽しいかい」

「確かに八つ当たりだろうな。だが、この熱い怒りは今も俺を衝き動かし続けている。お前にはないのか、そんな熱は」

「……。ハハ、ハハハハ」

 耳元の声は高笑いを上げた。

「喋ったな。呼吸したな。これで私も一息つけた。では改めて、特別のイリュージョンをお見せしよう」

「そうだな。そろそろお前の番だからな」

 トウクの返事に、一瞬絶句する気配があった。

 相手の心を折るためには、相手の攻撃を一通り受けてみせなければならない。トウクはその原則を守っているだけだった。

 

 

  七

 

 トウクは荒野にいた。

 感覚を狂わされ、どれだけの時間が経ったのか分からなくなっている。十日か、十ヶ月か、或いは十年か。それとも、ほんの数時間しか経っていないのかも知れない。

 極限の幻を味わわされた。

 宇宙がねじれるのを見た。世界が軋みながら溶け合うのも見た。数億の人間が踊りながら合体融合して巨大な肉塊になるのを見た。巨大な惑星一つがニヤニヤ笑って血の海に沈むのも見た。トウクの体が無数の肉片になって散らばりながら、それぞれの肉片を視点にした景色を同時に見せられたりもした。全長五百キロの細長い肉紐となって酸の海を泳いだ。体内と体表面がひっくり返り、パーツの配置がメチャクチャになった状態で歩かされた。吐瀉物と排泄物の中を進み、食わされ飲まされ体中から糞尿を噴出させた。脳に痒みを感じさせられた時は辛かった。景色を見ながら山が痛く、川が温かく、空が酸っぱく感じた。五次元、七次元の球体を見た。五感が入れ替わり混じり合い、道が苦く聞こえ足が澄んでざわつき目の吐き気が尖り背中の指先でものを見て空がチクチクと匂った。

 逆に感覚がなくなったこともあった。何も見えず、聞こえず、触れず、体内感覚もなく虚無の中で時間の経過も分からない。しかし、痛覚だけはあった。トウク自身が生み出す本物の痛みだけは消し去れなかった。

 トウクの罪悪感を抉るための演出もしつこかった。死なせた一般人や墜滅させたカイスト達の顔がトウクを囲んで延々と怨嗟の言葉を述べた。顔が小さくなってトウクの耳の中に入り込んで脳内で暴れたり、彼らの潰れた体がトウクの口や目や鼻や耳から這い出したりした。動かぬトウクの前で人々が巨大なローラーに潰されていった。球状に丸められて転がるトウクに轢き潰されることもあった。勝手に指が動いてボタンを押させられ、毒ガスや巨大ギロチンで何千人も死んだ。トウクが息を吸えば百人死に、息を吐けば千人死に、瞬きしただけで一万人死んだ。演出がエスカレートして気持ちが麻痺しかけた後で、いつの間にか傍らに餓死した赤子の死体が転がっていた。

 それから首枷が外れてしまう感触。ロックが解ける音を聞かされた。モースランが蛇のように細長くなって首枷を抜けるのを見た。首枷が壊れ、鎖がちぎれる幻覚を執拗に見せられた。勝利してモースランが消え去る場面。敗北してトウクが無の闇へ溶け落ちていく場面。トウクを錯覚させ、諦めさせるために執拗に、執拗に、繰り返される。トウクは『疑う心』でその全てに耐えた。

 トウクの感覚を少しずつ歪めるような巧妙な幻と、世界観を根底から揺るがすような過激な幻が、幾重にも幾重にも積み重ねられる。

 それに対しトウクは、唯一の武器である大切な苦痛だけで反撃し続けた。単純で激烈な痛みを、自身で感じつつ、送り込む。延々と、延々と。

 そして、幻の果てに、トウクは今、再び荒野にいる。地面に座っている。

 岩がある。最初にモースランが座っていた岩だ。しかしローブとフードに身を包んだ男の姿はない。

 代わりに、痩せ細った少年が、岩の前に倒れていた。

 粗末な服を着た少年の首に、鋼鉄の首枷が填まっていた。そこから二メートル七十センチの鎖がトウクの首枷まで繋がっている。

「僕は……ここにいた。最初、ここにいた」

 少年が呟いた。虚ろな目で、幼さが残るが疲れた声で。

 それが肉声なのか幻聴なのか、トウクには分からなくなっている。少年が現実に存在しているのか幻なのかも分からない。しかし、現実ではなくても真実ではあるかも知れない。

 モースランはサマルータ出身だった。首都があったという大ガハルサ帝国は数万年前の話だから、彼の出立時にはこの場所に別の都市があったのだろう。或いは小さな町か、村が。

「貧しかった。何もなかった。……ずっと、夢を見ていたんだ。何も、なかったから。色んな夢……長い、長い、夢を、見ていた……。欲しいものを、手に入れたと思っても、消えてしまうんだ。夢だから。……長かったから、そろそろ、覚めないといけないんだ」

 少年は喋りながらもトウクを見てはいなかった。

 トウクは黙って、少年を見守っていた。

「でも、本当は、夢じゃなかったのかも。でも、消えてしまうから、やっぱり夢なのかも。……。結局、何もかも、夢で……」

 ふと、今になって気づいたように、少年はトウクを見た。

「君は、欲しいものを、手に入れられたのかい」

「いいや。多分、永遠に手に入らないのだろう。それでも俺は、歩き続ける」

 トウクが答えると、少年は無言で、乾いた薄い唇を少しだけ、笑みの形に曲げた。

 少年は目を閉じて、動かなくなった。乾いた皮膚が更に乾燥していき、細い体が益々細く、ミイラのようになっていく。

 パキ、と、少年の体に亀裂が入る。亀裂は全身に広がっていき、内部の粉末状になった肉が見えた。

 風が吹く。少年の体は塵になって、風に乗って散っていく。

 終わった。『血の幻影師』モースランは墜滅した。

 と、トウクは思ったのだが、ひょっとすると、まだ終わっていないかも知れなかった。

 痩せ細った少年は跡形もなく消えたが、その場所に、別の少年がいた。

 両足が太股の半ばまでしかなく、左腕もねじ曲がって役に立ちそうにない。ボロボロの服を着て、体中が傷だらけで、無事な右手は鎖を握っていた。鋼鉄の首枷がその首に填まっている。

 額から左頬にかけて残る傷痕を憎悪に歪め、少年はトウクを睨みつけていた。

 おそらくは、幻術を食らい続けて感覚のタガが緩んだことで、トウクの心象風景がリアルに見えてしまっているのだろう。トウク自身が作り出した幻影という訳だ。

 だが、モースランが健在でまだ幻術を掛けている可能性が万が一にもあるのなら、やっておかねばならないだろう。トウクにそう思わせる布石として、勝利する幻覚を執拗に見せられたのだと理解していても。

 正しく生きるために、最も重要なのは、『疑う心』、なのだから。

 トウクは体を動かさぬまま、再び自分の感覚神経をいじって激痛を生み始めた。

 

 

  八

 

 荒野で座り込んだまま動かぬトウクを、ぎりぎりトウクの精密探知圏外から二人の男が見守っている。

「モースランはまあ、自殺じゃな」

 『裏の目』ガリデュエは言った。

「幻術士は長生き出来ないという説があったな。見たいものを自分ででっち上げられるから、情念の維持が難しいと。ただ、カイストなんて、毎日何処かの世界で新しい奴が生まれ、古い奴が消えていく。幻術士に限った話じゃないか」

 『捜し屋』リドックが冷めた口調で師に応じる。

「……どうしてトウクが自殺の相棒に選ばれたんだ。調べた限りでは特に因縁はなかった」

「うん、後であそこに行って読み取ればはっきりするじゃろうが、推測は出来るぞ。トウクが滅殺士で、地味で根暗で糞真面目で、モースランとは正反対だったからじゃろうな。そんな奴に自分の痕跡を刻みつけてから消えたかったんじゃろう」

「自分の弟子にひどい言い草だ」

「ひどくはないぞ。事実じゃからな。それに、わしはトウクのそういうところが気に入っておる。もしわしが墜滅する時が来るなら、トウクに看取ってもらいたいと思うくらいにはのう」

 さすがに驚いたらしく、リドックは眉をひそめて師を見た。ガリデュエは顔に巻いた布を歪め、描かれた目の絵を笑みに変えてみせた。

「……。それにしても、自殺目的でトウクを呼ぶために、わざわざ都市一つ滅ぼしたか。迷惑な話だ」

「カイストとはそもそも迷惑なものじゃよ」

 リドックは煙草を口に咥えた。古いライターを取り出す前に、ガリデュエが右手を伸ばして煙草の先で指を鳴らしてみせる。生じた摩擦熱で火が点いた。礼は言わず、吸いかけたところでチョイチョイと人差し指を曲げて催促され、ガリデュエにも一本渡す。

 二人でゆっくりと紫煙を吐き出した後で、リドックは師に尋ねた。

「で、あれ、いつまで放っておくつもりだ。モースランはとっくに消えて勝負はついてるのに、自分で作った幻のループに嵌まり込んでいるようだが。疑う心が大切なんて、あんたが教えるから」

「大切なんじゃからしょうがないじゃろ。本人の気がすむまでやらせときゃいいんじゃないかの。根性もつくし、修行にもなるじゃろ。まあ、一億年くらいしたら覚ましてやっても良いか」

「……相変わらず、弟子に厳しいな」

 トウクは荒野に放置され、結局一万年後にリドックに蹴り殺されるまで、自分を苛み続けていた。

 

 

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