地獄王

 

 この世に神はいない。

 だが地獄王はいる。

 

 

  一

 

 あっはっはっ。あっはっはっはっ。

 あはははは。

 紫色に重く淀む空を虚ろな高笑いが木霊する。

 ひらひらと木の葉の如く舞うのは水玉模様の衣装を着たピエロだ。反り返った木靴、先端に毛糸の玉のついた帽子。分厚い化粧が素顔を隠し、口紅は唇の端を延長させて異様な笑みを作っている。

 あははは、あっはっはっはっはっ。

 いや、ピエロの口は実際に大きく裂けていた。黄色く濁った歯が見える。ピエロのマントが翼の代わりを務めるかのように揺れている。

 あはっ。はっ。

 傘状に覆いかぶさる空の中心が世界で最も高い場所だ。そこに開いた小さな穴から光が洩れて世界を照らしている。人が昼と呼んでいた時間にはもっと大きな穴だった。今、少しずつ径が狭まり、光が弱くなっていく。いずれは完全に閉じ、世界に闇が訪れる。人が畏怖を込めて夜と呼ぶ時刻。

 あっはっはっ。はっはっ。

 ピエロはゆっくり円を描くように舞っている。その高さからは夕闇に沈みかけた世界のほぼ全てが見渡せる。

 大地の中心部には石造りの建物が並んでいる。清潔な衣服を纏った人々が路地を歩いている。母親が子供に「もうすぐ恐い夜が来るから早く家に帰ろうね」と諭している。活気に溢れていた市場も閉める準備を始めている。甲冑をつけた男達が馬に跨ってパトロールを続けているがそれほどの緊張感はない。酒場からは酔っ払った男達の喧騒が洩れる。

 あっははははっ、あははっはははっ。

 高い石壁に守られた都市の外では街道沿いに藁葺き屋根の民家が続く。畑や農場は柵で囲まれ、民家の壁には何本も槍が立てかけてあった。網目状に流れる川には源流が存在せず、世界を一周して同じところを巡っている。

 あはははははは。

 迫る闇にも構わず二つの軍隊が戦っている。騎馬隊の突撃に耐えられず相手方の軍が総崩れとなった。「殺せ、皆殺しにしろ」と将軍が金切り声で叫ぶ。投降した敵兵達の首を、大きな斧を持った兵士が次々と落としていく。職人達が敵兵の死体を吊るして内臓を抜いている。「これで二ヶ月分の食料が出来た」と彼らは笑い合う。

 はははは。はっはっはっ。

 中央から離れるにつれ城塞都市の数は減り、密林や砂漠が増えてくる。砂漠にキャンプを張った隊商。焚き火に当たりながら護衛の兵士が「盗賊が出なきゃいいが」と話す。別の兵士が「盗賊より恐いのは化け物共さ」と応じる。平らな胴の獣達が遠巻きに這ってそれを見つめ、夜の訪れを待っている。

 あっはっはっ。あーっ、はっはっ。

 岩山を越えた荒れ地に小さな集落が見える。住民は頭が二つあったり腕が二本共右側にあったり片足が異様に長かったり全身が剛毛で覆われていたりした。狩りに出ていた者達が集落に戻ってくる。あるグループは獣の死体を吊り下げ、別のグループは人の死体を吊っている。どちらのグループも意気揚々としていた。潰れた顔の女がふと「しあわせって言葉、聞いたことある」と男に尋ねている。「俺達にしあわせはない」と当然のように男が答える。

 あはははははは。

 黒い土地から黒い獣達の群れが押し寄せてくる。十一本の足がある獣や刃物のような長い舌の獣や体毛が鋼鉄で出来た獣や胴体だけで駆ける獣や無数の口を持った獣がいた。豊かな森に築かれた国。青い甲冑の剣士達が「俺達の国を魔物から守れ」と叫びながら黒い獣達を切り裂いていく。剣が折れ孤立した一人が「神よ」と最期の祈りを捧げる。それを容赦なく魔物達が踏み潰す。混戦の中、黒い肉が飛び散り、喉笛を食いちぎられた兵士達の死体が森の養分となっていく。

 あっはっはっ。

 世界の果てでは黒い土地に黒い獣達がひしめき合っている。何千万とも知れぬ彼らは互いに絡み合い引き裂き合い食らい合い殺し合い潰し合いながら、生きたり死んだりを果てしなく繰り返していた。

 はははははは。はははははは。

 そんな地上を、ピエロはマントをはためかせて見下ろしていた。

 ピエロは舞いながら少しずつ降りていく。描く円が次第に小さくなり、彼の目的地が明らかになってきた。

 中央にある城塞都市の一つ。規模は平均より少し上というところだろう。あちこちに松明の炎が揺れている。丘の上に建つ小さな宮殿は、民に負担をかけぬ程度の控えめさで輝いている。夜を目前にしても通りを歩く住民に急ぐ様子はない。彼らは憧れと尊敬を込めて宮殿を見上げる。丘の近くに白い煉瓦の敷き詰められた広場があり、ベンチに腰掛ける若いカップルや、篝火の横で談笑する兵士達が見えた。二十人前後がそこにいただろう。

 あっはっはっ。あっはっはっはっ。

 笑い声に最初に気づいたのはカップルだった。怪訝そうに見上げた顔が凍りつく。叫びながら指差すその先を兵士達の視線が追い、顔色を失う。矢をつがえる者はない。一人が「まさか、この国に……」と呻く。

 ははははは。

 広場の端のステージに、ピエロはふわりと音もなく着地した。

 両腕を差し上げて満面の笑みを浮かべ、芝居がかった口調で高らかにピエロは告げた。

「地獄王は次の生贄を求めておいでです」

 人々は息を呑んだ。「やはり。でもまさか」と呟く者。ピエロは彼らに喋りかけていたが、彼らを一瞥さえしなかった。

 ピエロはマントの内側から大きな布袋を下ろす。もぞり、と、袋が動いた。

「この玩具にはもう飽きたと、地獄王は仰っておられます」

 ピエロは袋の口を開き、重い中身をステージに転がした。

 女が卒倒した。横にいた男は恋人を支えもせず目を瞠っている。広場の空気が重く凍った。

 それは、長さ一メートル、幅三十センチほどの、肉の塊だった。表面は白くなめらかで、突起物も穴も、何もない。ただ、片側六分の一ほどの場所にくびれがあるだけだ。

 まるで、人間の胴体と頭部を模しているかのように。

 肉塊はステージの上で弱々しく身をくねらせた。目鼻も口もないが、それは生きているらしかった。

 この不細工な芋虫が何なのか、皆知っていた。西ハイネ一の美女、シェリーナ・エンデル。一年前に地獄王に召し出され、その間どれほどの苦患を味わってきたのか、今の変わり果てた姿を見れば想像に難くない。いや、人間の想像力など地獄王の嗜虐心には及ぶべくもないか。

「これは廃棄処分にします」

 偽りの笑みを湛えたピエロは軽やかに跳躍した。着地する先にのたうつ人間芋虫がいた。

 プキャリ、と、肉塊の頭部と腹部がピエロの靴で潰れ、破れた体表から赤いものがはみ出した。

 肉塊は、すぐに動かなくなった。

「さて、地獄王は次の生贄を指名されました」

 肉塊に靴を突っ込んだまま、ピエロは仰々しく上体をひねり斜め後方を指差した。

 丘の上の小さな宮殿がそこにあった。

「生贄は、ローソルド王国のエルレシア姫です」

 人々がどよめいた。「やはり」と蒼白な顔で頷く者もいた。

「毎度のことながら選択肢は二つあります。地獄王のお召しに従って姫を差し出すか、ゲームに応じるかです。ルールはいつもの通り。あはは」

「この野郎っ、姫様を渡すかっ」

 仲間の制止を振り払い、若い兵士の一人が剣を抜いてステージへ走った。戦火にも魔物の脅威にも遠いこの都市で育ち、地獄王の恐ろしさを実感出来ずにいたのか。或いは姫を守ろうとする気持ちの強さ故か。

 ピエロが口をすぼめてフッと軽い息を吐いた。それが銀色の風となり兵士の体を通り過ぎると、兵士は二、三歩進む間に数十に分解され地面に落ちた。鋼鉄の甲冑ごと、兵士の体は綺麗に輪切りにされていた。

「はははっ」

 ピエロはマントを大きく広げた。足首の動きだけで十メートルも跳躍する。羽ばたくように緩やかに両腕を振り、螺旋を描きながら上昇していく。

「また七日後の同じ時刻に参ります。お返事はその時に伺いましょう。あはは。あっはっはっ」

 あっはっはっ。

 あっはっはっはっ。

 ピエロは暗紫色の空へ消えた。笑い声もやがて聞こえなくなり、広場には黙ってうなだれる人々と、二つの異様な死体だけが残った。

 

 

  二

 

 ローソルド王は一日で十才も老けたようだった。頭髪は灰色に変わり、豊かに蓄えられた顎鬚も同じ末路を辿った。眉間の深い縦皺とギラつく瞳は温厚で知られる王を別人に見せている。頭を抱え、会議室を無意味に歩き回りながら、同じ台詞を何度でも繰り返す。

「どうすれば良いのだ。我が娘が生贄に選ばれようとは。一体どうすれば良いのだ……」

 居並ぶ家臣達は俯いたまま声もない。

 扉が開き、一人の兵士が入ってきた。最も奥の席に座る家臣に耳打ちする。会議でまだ一言も発していない男だ。彼は頷いて、明快な結論を皆に告げた。

「選択肢はただ一つ。ゲームに応ずるのみです」

 男はローソルド王国の誇る若き宰相、ライアス・ファンデブルー・デリッセンだった。剣技は王国一と噂され、彼の知略は王国の危機を幾度も救ってきた。どんな状況においても冷静な判断力を保ち、解決策を見出せる男。

 鋭利な印象を与える美貌も今は幾分青ざめていたが、それでもライアスの口元には淡い微笑が浮かんでいた。

 他の家臣達は戸惑いと苦渋の顔を見合わせるのみだ。最も頼りになる宰相の言葉にローソルド王は笑顔を見せようとした。だがそれは泣いている子供のような引き攣ったものになった。

 やがて王は、弱々しく首を振った。

「もし敗れれば騎士達だけではなく、罰則として国民の半数が殺戮を受ける。六年前のヘラルサも、十七年前のトートラスも、ゲームに挑戦して滅び去った。ましてや、敗れれば姫も八つ裂きとなるのだ。地獄王に捧げられても、暫くは生き延びられる見込みがあろうに……」

「シェリーナ・エンデルの骸を王もご覧になったではありませんか。姫様が生きながら地獄の責め苦に遭うことをお考え下さい」

 王は返事に詰まった。愛する娘を苦しめたくないが死なせたくもない。それ故に王は答えを出せずに煩悶を続けている。

 王の葛藤を理解していながら、ライアスの声は力強かった。

「民は姫様を心から慕っております。自分達の命が危険に晒されることとなっても不平を言う者は僅かでしょう。逆に姫様を生贄に差し出せば、その怯懦を民に謗られ隣国にも侮られ、結局のところ王国の崩壊は避けられません。王妃を差し出したマルニッドなどが良い例です。ここはゲームに応じるしかありません。現在各地で活躍している戦士達の力量は、ここ百年の間でも最高のレベルだと私は見ております。少なくとも四人の騎士には目処が立ちました。勝算はゼロではありますまい。我が王、姫様を愛しておられるのでしたら、その勝算に賭けるべきかと」

 宰相の言葉を聞くうちに、ローソルド王の瞳から迷いは消え、悲壮な決意が湧き上がってきた。

「その通りだ。余は娘を愛しておる。ゲームに応じよう。八人の騎士を揃えねばならぬ。姫を守ってくれる勇者を」

「私も騎士として参加します」

 宰相ライアスは、冷たく冴えた瞳にある感情を隠して言った。

 

 

  三

 

 普通の倍ほども大きな馬を駆り、大柄な騎士が街道を進む。西ハイネ特産のこの種は他の馬の三倍のスピードと持久力を誇るが、気性が荒く乗りこなせる者は少ない。

 騎士の年齢は三十才前後であろう。身長は二メートルを超え胸幅は樽のようだ。重量のある鎧は本来鮮やかな青だったのだろうが、無数の傷と拭っても拭いきれぬ血痕のため鈍く色褪せている。騎士は一メートル五十センチにも及ぶ大剣を背負っている。

 髪は短く刈り、角張った顔に眉毛はない。怒っているようにも見える目には、強靭な意志力が漲っていた。

 騎士は、西ハイネ北部防衛軍第一隊隊長モナサム・エンデルだった。

 ここは平和な国だ。モナサムはローソルドの田園風景を見てそう思う。民家の壁は薄く柵も低い。常に魔物の脅威に晒される西ハイネとは大違いだ。

 西ハイネの民は多産だが三十才以上の男は少ない。人の命が消耗品となる最前線に駆り出され、血みどろの戦いの中で大半がゴミのように死んでいく。二年生き残れば兵役は免除されるが、モナサムは十年近く隊長を務め生き延びてきた。

 二日前、モナサムが退役を申し出ると王は残念がった。「お前がいなくなれば、一体誰がこの国を守るのだ」と。

 知ったことではない。彼に知らせもせず妹を生贄に差し出したような王の都合など、知ったことか。

 城塞都市が見えてきた。石壁は堅固だがやはり低い。西ハイネなら魔物達にあっさり飛び越されてしまうだろう。正門は開いていた。モナサムは馬を減速させて門衛に声をかける。

「西ハイネのモナサム・エンデルでござる。ライアス・ファンデブルー・デリッセン殿の招待を受けて参った」

 門衛長らしき男が進み出て答えた。

「その青い甲冑と大剣、確かに西ハイネのエンデル将軍とお見受け致します。ようこそお越し下さいました。まず妹君の御墓にご案内致しますがよろしゅうございますか」

 ローソルド王は流石に手順を心得ている。

「お気遣い痛み入る。そうして頂けるか」

 門衛長に先導されて大型の馬で進むモナサムにローソルドの民の視線が集まる。ゲームの参加者であることは分かっているのだろう。手を振る彼らの笑顔には期待と不安が混じっている。王の決断を受け入れた彼らの勇気に応えるべく、モナサムも出来るだけ手を振り返した。引き締めた口元を緩めることは出来なかったが。

 シェリーナ・エンデルの墓は貴族や王国功労者用の区画に設けられていた。モナサムは入口に馬を繋いで歩く。彼女の墓石は白かった。墓碑銘に「西ハイネ一の美女シェリーナ・エンデルに安らかな眠りのあらんことを」と刻まれている。

 享年二十六。十年会っていなかった妹。せめて安らかに眠れ。一年間の苦痛が少しでも癒されるように。

 それが不可能なことをモナサムは知っている。亡骸は手足も目鼻もない芋虫のようだったという。宰相の使者は教えてくれなかったが、道中出会った旅人に噂を聞いている。

 自分が死んだなら、妹と同じ墓に入れて欲しい。無理というなら隣の墓に。

 だが、自分がその権利を持たぬこともモナサムは知っていた。苦しむ彼女を置いて、十年もの間逃げ続けたのだから。

 思い出す光景がある。あれは北部防衛隊に赴任して三年目か四年目の頃だった。

 

 

「モナサム。お前はどうして内地に戻らないんだ」

 声が問うた。モナサムは丁度群れのボスを片づけたところだった。地面をバウンドして彼の足元に戻ってきた生首を、モナサムは兜の隙間から見下ろす。牙の並んだ口は獣のそれだが鼻から上は人間に似ていた。まだ意識があるのか恨めしげな目でこちらを見ている。モナサムはもう一度大剣を振り下ろし、生首をかち割った。脳の欠片と紫色の体液が刃にへばりつく。

 背後から発せられた声に、モナサムは答えなかった。声の主は分かっている。首を失った魔物の体は立ったまま痙攣を続けている。足が二十本もあれば倒れようがない。モナサムは剣を振り下ろし、胴体を真っ二つにした。

 振り返るとマニート・ラファも別の魔物に止めを刺しているところだった。これで、攻めてきた魔物達はほぼ全滅した筈だ。モナサムは周囲を確認する。血みどろの大地。無数の魔物達の死骸と、食い散らかされた部下達の死体。生きているのはモナサムとマニートだけだ。

 ひどい戦いだった。緑地の先に広がる黒い土地へ目を向ける。後続の魔物はいない。一息つけそうだ。

 マニートは西ハイネ北部防衛軍第二隊の隊長で、第一隊の長であるモナサムとは同格になる。三日前の乱戦でそれぞれの隊が壊滅状態となり、便宜的に一隊にまとめられていた。ただ、残った部下達も今日の戦いで皆死に、防衛軍はモナサムとマニートの二人だけになってしまった。兵は明日か明後日には補充されるだろう。それまで持ちこたえなければ。

「なあ、モナサム。たまには内地に戻ったらどうだ。二年の義務は果たしたのだし、国境でこんな地獄のような殺し合いばかりしていたら、それこそ気が狂ってしまうぞ」

 返り血でどす黒くなった兜を外し、マニートは苦笑した。彼は学生時代からの友人だ。モナサムほどではないが巨躯の持ち主で、荒削りな顔立ちには何処か愛敬があった。濃い髭が口元の傷を隠している。

 モナサムは兜を脱がずに応じた。甲冑の中に返り血が入ってぬめる。

「戻らなくていい。拙者はここにいる」

「お前は西ハイネでは最強の男だが、それでもここにいたらいつかは死ぬぞ。兵士の命が使い捨てにされるところだ。妹さんだって心配してるんじゃないのか」

「構わん。王も妹のことは面倒を見るとおっしゃった。拙者の責務はここで国を守ることだ。結果としてそれで死んでも悔いはない」

「そうかな……」

 マニートは剣の血を拭いながら言った。彼の目が気遣うようにモナサムを見た。同時に、何かを窺っているように、モナサムには感じられた。

「なあ、モナサム。どうしてお前は防衛隊を志願したんだ。王の親衛隊が内定していたんだろ。それを蹴って、どうしてわざわざこんなところに。国のためとお前はいつも言うが、本心は違うんじゃないか」

 モナサムは黙っていた。彼の脳裏に妹の姿が甦る。シェリーナの長い髪。天真爛漫な笑い声。繊細な指が奏でるハープの響き。苦難においても希望の光を失わない、澄んだ瞳。

 マニートが言った。

「志願した日、お前の様子は何処か変だったな。出発の時も、妹さんは見送りに来なかった。あんなに仲が良かったのにな。……なあ、シェリーナと何かあったんじゃないのか」

 モナサムは黙っていた。シェリーナの肌の感触。彼女の瞳の葛藤と怯え。温もり。そして後悔。決して忘れることが出来ない。

 彼女のすすり泣く声が、今もずっと、モナサムの頭にこびりついている。

 帰りたい。

 だが、恐ろしくて、帰ることが出来ないのだ。

 モナサムの様子に気づいたのか、マニートは首を振った。

「いや、すまん。余計なことを言い過ぎたな」

 友の謝罪にもモナサムは黙っていた。

 彼方から地響き。奇妙な鳴き声と無数の足音。マニートが眉をひそめる。モナサムも黒い土地を振り返る。

 再び魔物の群れが接近していた。丸い頭部を触手で支えた魔物。前面が口だけになった巨大な蛙。三メートル近い背丈の魔物が鎌になった五、六本の腕をヒュルヒュルと振り回している。

「今日は厄日らしいな。百匹はいるぞ。まあ、生き残ろうぜ」

 うんざり顔でマニートは言い、兜をかぶり直そうとした。

 モナサムは渾身の力で大剣を横に払った。マニートの首が飛んだ。僅かに斜めに切れ、顎の一部が胴の方に残った。血がトロトロと溢れ出し、甲冑に包まれた胴が後ろざまに倒れた。

「死ぬためにここに来たのだ」

 友の死体を見下ろし、モナサムは呟いた。

 魔物の群れが近づいていた。血と肉に飢え、豊穣な西ハイネを目指して。

「うおおおおおおっ」

 モナサムは叫んでいた。血塗られた大剣を握り締め、彼は自ら魔物の只中へ突進していった。

 

 

 あれは本当のことだったのだろうか。自分は本当に友を殺したのか。彼の言葉に対し生じた憎悪がそのような幻想を抱かせただけで、マニートは実際には魔物に食い殺されたのではないか。彼が魔物の爪に胸を貫かれ苦鳴を洩らす場面も覚えている。どちらが本当で、どちらが捏造されたものなのか、今となってはモナサムには分からない。

 確かな事実は、モナサムは皮肉にもまだ生きていて、自分の犯した罪を妹にも神にも償っていないということだ。

 いつの間にか背後に人がいた。門衛長ではない、強者の気配。誰かは分かっている。

 モナサムは振り向いて一礼した。

「この度の貴殿の招待には心から感謝致す。ライアス・ファンデブルー・デリッセン殿。それと、妹の手厚い埋葬にもお礼申し上げる」

 ローソルド王国の若き宰相も礼を返す。

「こちらこそ、西ハイネ最強の将軍にご参加頂けるとは心強い限りです。ようこそお越し下さいました」

「ローソルド王のご決断には敬意を表し申す。必ずや姫君をお救いし、地獄王に一矢報いる所存でござる」

 せめて一太刀。それだけで充分だ。真っ先に死のう。

 誰にもモナサムの心情は分からないだろうし、人に喋るつもりもなかった。

 

 

  四

 

 痩せ馬に乗った騎士がローソルドに到着したのは空が暗紫色に染まり夜の訪れの近い頃だった。

「クレムだ。呼ばれて参上した」

 聞き取れなかったらしく門衛は耳に手を当てて「あ、何だって」と言った。胡散臭げな目をクレムに向けている。薄闇のためクレムの顔がはっきりとは見えなかったようだ。

 傭兵クレムは同じ台詞を繰り返した。彼の舌と声帯は拷問で焼かれ、呂律の悪い掠れ声しか出せない。それも囁く程度の大きさだ。

「ああ、クレム……え、あ、クレム様でしたか。よ、ようこそお越し下さいました」

 門衛達は背筋を伸ばした。彼らの顔から胡散臭さは消えたが薄気味悪げな視線が新たに加わった。流石に彼の通り名を洩らす者はいなかったが、クレムが行った後は必ず口にするだろう。舌打ちと共に。

 死に損ないのクレム。それが彼の通り名だった。

 門衛長が出てきて王宮までの案内を申し出た。

「わしのような者が、王宮に入って良いのかね」

 若干の皮肉と遠慮を込めてクレムが聞くと、門衛長は頷いた。

「王と宰相がお待ちしております」

 誠実な反応に、クレムは少し後悔した。

 夜が近いので人通りは少なく、奇異の視線を浴びることも後ろ指を差されることもなかった。クレムの噂は世界中に広まっており、誰からも彼は忌避されてきた。クレムの存在そのものが不吉であるかのように。

 クレムは五十四才になる。正確な生年が分からないので本当は二才ほど誤差があるかも知れない。甲冑ではなく灰色のロングコートに身を包み、膝まであるブーツを履いている。かなり使い込んだ剣の鞘は左ではなく右腰に下がる。昔は右利きだった。右手だけが金属の篭手を填めているが、中身は手ではなく仕込みの短剣だ。左手も薬指と小指がないのを手袋で隠している。

 皆が一目で彼をクレムだと判別するのは、顔の左半分を覆った鋼鉄の仮面だった。顔に模した凹凸はついているが、左目の部分に穴はない。三十年ほど前捕虜になった時、敵の将軍によって遊び半分に削り取られた顔。肉と眼球だけでなく頭蓋骨の一部も失ったが、クレムは将軍を殺して脱走し、今も生きている。

 右側の素顔は死期の近い病人のように疲れきっている。皺は増えたが、クレムは昔からこんな顔だった。白髪混じりの蓬髪が仮面の前で揺れる。髪を掻き分けると焼きごてによる火傷痕と刃物傷が幾つか見える筈だ。

 死に損ないのクレム。その綽名がついて永く経つ。苦痛しかない人生を終わらせたいといつも願ってきた。だのにどうして、死ねないのか。

 門衛長について馬を進めるクレムの脳裏に、子供の頃の場面が甦ってくる。最初に感じた生と死の境界線。

 

 

 薄暗い、じめじめした場所だった。地面は大きな一枚の石になっており、冷たく濡れている。

 森の中にその場所はあった。空の光が閉じているのになんとか周囲が見えるのは、木々に絡みつく蔦が発光しているせいだ。

「そこに並べ」

 男達の一人が無愛想に言った。クレムを含めた十数人の子供達は石床の上に横並びとなる。クレムは他の子達の名を知らない。三日前に集められ、今日まで同じ部屋に押し込められていた。それだけだ。

 クレム達の足元に、鉄の杭が何本も突き立っていた。その頭は丸い輪になっている。何かを固定するためのものだろうか。

 丁度、クレム達の足枷に繋がった鎖を、通すことが出来そうだった。

 不安は的中した。男達は鎖を輪に通し、鋼鉄の錠でしっかりと固定していった。これでもう逃げられない。何のためにこんなことをするのだろう。幼いクレムには分からなかったが、何やら良くないことが起こりそうだということは分かった。

 父親が戦死したのが一年前だ。未亡人となった母親は半年前に疫病で死に、クレムは母方の叔父に預けられた。叔父は酒乱だった。毎日のように殴られ、松明の火を背中に押しつけられたことも何度かある。「世界は腐っている」が叔父の口癖だった。

 見知らぬ男がやってきて連れ出されたのが一週間前だ。男は叔父に金を渡していた。叔父は何も言わなかったが、二度と会うことはないとクレムは直感していた。

 子供達が全員繋がれると、男の一人が気の毒そうな顔をして言った。

「俺達の村には魔物が出るんだ。強力な、手に負えない魔物だ。五年前には家畜が八頭と村人が五人食われた。だから、俺達は魔物に餌をやって、大人しくしてもらうしかないんだ」

 クレムには意味が分からなかった。だが質問することは出来なかった。男達はそのまま去り、石の上に十数人の子供達が残された。

 夜の森は不吉な静寂に沈んでいた。子供達はその場に腰を下ろし、寒さと恐怖に震えながら身を寄せ合った。誰も何も喋らない。クレムもまた黙っていた。何を言っても何も変わりはしないから。

 いや、もしかして、逃げられないだろうか。ほんの僅かな希望を込めてクレムは自分の足枷を見る。左の足首にきつく填まっており、引き抜く余地はない。鎖を切る道具もない。

 やがて、薄闇の中に、気配、が現れた。

 そのシルエットは狼に似ていたが、それよりも遥かに大きかった。そいつは唸り声を上げることもなく、静かに子供達の方へと近づいてきた。

 彼らは、悲鳴を上げることも、出来なかった。

 ただ、ブチャリ、ゾブリ、と、不気味な音が続いた。魔物は、端の子供から順番に、余裕を持ってゆっくりと、丁寧に、咀嚼していった。同じ境遇の仲間達のシルエットから、手足が欠け、首が欠け、胴が小さくなり、やがてなくなるのを、クレムは冷めた気分で見つめていた。

 死ぬのだ。

 自分も、父や母のように、他の大勢の人々のように、死ぬのだ。

 静かな諦念が激情に変わったのは、自分の二つ隣の少女が食われ始めた時だった。

 死にたくない。こんなふうに死にたくない。

 こんなところで、何も分からないまま、みじめに死ぬのは嫌だ。

 死んでたまるか。カッと体が熱くなった。

 クレムの足元に何かが転がってきた。食いちぎられた誰かの右手首だった。ささくれた肉から覗く折れた骨の断端が、鋭く尖っている。

 クレムはそれを手に取った。まだ温かいそれを、血が滴っているのも気にせずに、自分の左足首に向けた。

 尖った骨で切りつけたのは、鉄の足枷ではなく、自分の足首の皮膚だった。

 これまで感じたことのない痛み。しかしクレムはそれに耐えた。夢中で自分の皮膚を開き、肉を裂き、靱帯を切断していった。流れ続ける自分の血も気にならなかった。ただ、生き延びる、という強い気持ちだけがクレムを支配していた。

 魔物はクレムの隣の少年を食べ始めていた。クレムは必死に自分の足首を切り進めた。ギジ、と、骨が骨に当たる感触。足首がブラブラになっている。

 ちぎれる。クレムは自分の足首から先を掴み、力任せに引っ張った。ブチブチと音がして残った肉がちぎれていく。だが太い靱帯が一本あって、どうしてもちぎれない。クレムはもう一度、誰かの手首を使って切断を試みた。

 気配が、クレムの肩に触れた。

 その瞬間、クレムは理解した。魔物の自信と傲慢を。抵抗される可能性など毛ほども考えていないことを。クレムのことをただの食物だと思っていることを。

 恐怖と、生きたいという衝動が、怒りに変じた。

「うらあえやっ」

 クレムは叫んだ。叫びながら、持っていた誰かの手首を魔物の顔に叩きつけた。骨の尖った断端が何かに刺さる感触。丁度、魔物の眼球に刺さったらしかった。

 魔物は異様な悲鳴を上げ、その場から逃げ去った。

 あっけなく、森に、静寂が戻った。

 でもいずれ、引き返してくるかも知れない。その時は怒り狂っていることだろう。

 クレムは魔物の血がついた誰かの手首で作業を続け、自分の左足首を完全に切断した。足枷が抜けた。

「助けて」

 他の子供が泣き声で頼んだ。生き残ったのはクレム以外に二人だけだった。

 クレムは、使い終わった手首を彼らの前に放り投げた。彼らにそれを使う勇気があるかは分からない。なければ死ぬだけだ。

 クレムは二人の反応を待たず、石床から離れた。足首の断端が痛むので彼は四つん這いで森の中を彷徨った。血が流れ続け次第に意識が薄れていくが、クレムは懸命に体を動かし続けた。

 死にたくない。こんなところで死にたくない。

 

 

 死にたいのに死にたくないとはどういうことか。クレムはいつも死に場所を求めて戦場を彷徨ってきた。圧倒的不利な状況に陥り、味方が全滅したことも数え切れない。それでもクレムは必ず生き残ってきた。

 追い詰められ死を間近に感じた瞬間、こんなところで死んでたまるかという激情が突き上げ、信じられぬほどの力が湧いてくる。こんな無意味な、みじめなままの人生で終わるのは嫌だ。自分にはもっと相応しい死に場所がある筈だ、と。

 伝説の地獄王との戦いこそ、自分の最期には相応しいかも知れない。

 初めて見るローソルドの王宮は小綺麗にまとまっていて、クレムの知る他の宮殿のような顕示的な華美さとは遠かった。尤も、それらの宮殿にクレムが入城を許されたことはなかったが。良く訓練された衛兵達が槍を捧げてクレムを迎えてくれる。乗ってきた痩せ馬は兵士の一人が厩まで曳いていった。

「良く来て下さいました」

 早速出迎えたのはローソルドの宰相ライアス・ファンデブルー・デリッセンだった。何年か前に敵方の援軍としてローソルド軍を率いてきた彼を見たことがある。傭兵クレムはこの時もみじめな敗走を味わった。

 若さと美貌、地位と名声、クレムの持たぬ全てを備えている宰相が、死に損ないに向かって恭しく頭を下げた。

 そのライアスにクレムは問うた。

「ご招待とお出迎えを感謝する。しかし、良いのかね。負け戦ばかりで疫病神とも言われているわしを騎士に加えるとは」

「私は風評よりも当人の実力を重視しますので。あなたが強いことを私は存じています」

 ライアスの言葉がお世辞でなく本心であることを知り、珍しくクレムの胸は熱くなった。

「我が王も待っておられます。着いたばかりでお疲れでしょうが、ご挨拶して頂けますか。程なく夕食の準備も出来ますので」

 ライアスに導かれ王宮内を歩く。右足を引き摺るので片方が義足だと思われがちだが、実際は両足共だ。磨かれた壁、赤い絨毯の床。すれ違う際に召使達は畏まって頭を下げる。嫌なものばかり見てきたクレムの右目には眩しい光景だった。

 謁見の間でローソルド王は快く迎えてくれ、感謝の言葉を述べた。クレムも卑屈にならぬよう気をつけながら挨拶を返す。

「クレム殿、姫をどうかお救い下さい」

 玉座から下りてクレムの手を握り、ローソルド王は目に涙を浮かべていた。篭手と手袋を脱げない身であることを詫びつつ、自分が頼りにされていることに驚きと感動を覚える。

 なるほど、死ぬに相応しい戦いだ。

 会食の場で大柄な騎士に出会った。鎧の色と大剣から西ハイネのモナサム・エンデルと知る。向こうもすぐクレムの素性に気づいたようだった。

「クレム殿か。オンストラの乱戦で死んだと聞いていたが、やはりデマであったか」

「オンストラでは死ねなかった。ここで死ぬつもりだ」

 クレムは答えた。その言葉にモナサムの瞳の奥で何かが呼応したのを、死に損ないのクレムは見逃さない。

 どうやらモナサムも積極的に死ぬつもりらしい。前回の生贄は妹だったそうだから、期するところがあるのだろう。そんなことをクレムはわざわざ相手の前で口にしたりはしない。

「着いておるのはわしとお主の二人だけか」

「そのようだ。拙者も今日着いたばかりだ。デリッセン殿も騎士として参加されるようだから、八人のうち三人ということになる。後二日の間に残りも到着するだろう」

「誰が来るかは聞いておられるか」

「いや、詳しくは。シアン・マリウは呼んでいるらしい」

「ふむ、当然だな。彼はわしと違って最高の傭兵だ」

 嫉妬もなく素直にクレムは頷く。モナサムは渋い顔だった。

「目的のためには手段を選ばぬ男だがな。また、バラザッドも来るそうだ」

「ほう、『虐殺鬼』バラザッドか。ローソルドの宰相もあの顔でなかなか思い切ったことをする」

 テーブルの席は十あった。やがて給仕の姿が増え、入ってきたライアスが座り、上座にローソルド王がついた。

「入って騎士達にご挨拶しなさい」

 王に促され、遠慮がちに姫君が入ってきた。

 おお。

 松明と蝋燭だけの部屋に、急に陽光が差し込んだかのようだった。

 ローソルド王の一人娘であるエルレシア姫は、絶世の美女という言葉さえ色褪せる美貌の持ち主であった。年齢は十九の筈だが、それより幾分幼く見えるのは王宮で大切に育てられたが故か。肌は抜けるように白く、そのなめらかさは高級な陶器を思わせる。艶のあるブロンドの髪は軽くウェーブしながら腰まで伸び、美の神が彫り上げた見事な肢体を白いドレスが隠していた。

 病弱と聞いているが、何処となく物憂げに見える切れ長の目は、彼女の儚い美しさを際立たせた。それでいて澄んだ瞳は、人間の悪意に殆ど触れたことがないのだろう。鼻筋は綺麗に通り、形の良い唇が自然と浮かべる微笑はやはり儚げなものだった。

 騎士達の前で深々とお辞儀して、エルレシア姫は挨拶した。

「私などのために、皆さんの命を危険に晒して下さることに、深く感謝致します。どうか、よろしくお願いします」

 気品があるが貴族の高慢さは欠片もない、美しい声だった。

 美しい。こんな美しいものがこの世に存在するのか。クレムは信じられなかった。噂には聞いていたが、エルレシア姫はクレムの想像を遥かに超えていた。美しく着飾った貴族の娘や金持ちの妻は見てきたが、彼女らは高慢さや醜い自己顕示欲を染みつかせていた。そしてクレムを見る目には必ず侮蔑の色があったのだ。

 なのに、エルレシア姫は、どうしてそんなに素直な瞳でクレムを見つめてくれるのか。

 そうか。

 わしはこのために、地獄の泥濘をもがき続けてきたのか。

 わしの人生は、彼女のためにあったのだ。

 クレムは理解した。

 ライアスやモナサムが何か言っているようだが内容は頭に入らなかった。クレムは席を立ち、その場に片膝ついていた。

「この命に代えても、姫様を守り抜くことを誓い申し上げる」

 左脇腹の大きな窪みは二十年近く前、魔獣に食いちぎられた傷だ。クレムはそこに爆薬を隠していた。時が来たら確実に死ねるように、傭兵で得た全財産を使い入手した貴重品。

 誰にも感謝されぬ人生だった。エルレシア姫の感謝が得られるならば、そのために全てを捧げても悔いはなかった。

 

 

  五

 

 バラザッドがローソルド王国に到着したのは夜半過ぎだった。

「『虐殺鬼』バラザッドだ」

 門衛にバラザッドは自分の綽名を告げた。門を開く彼らの強張った顔を見ながらバラザッドは笑みを浮かべる。左頬を斜めに走る傷痕のせいで、引き攣った醜い笑みとなる。腕がちぎれても生えてくるバラザッドだが、毒を塗られた刃のせいでこの頬傷はしつこく残っている。

 ライアス・ファンデブルー・デリッセンによってつけられた傷だった。

「ローソルドは四年ぶりか。あの時はしつこく追い回されたもんだが、今回は堂々と入れる訳だ」

 バラザッドは嫌味たっぷりに言った。

 彼は血のように赤いマントを羽織っていた。その間に覗く胸当ても同じ色だ。色の濃さにむらがあるのは、それが染料ではなく返り血であるためだ。外見は三十才前後だが実際の彼の人生はそれより長い。髪はオールバックに固められ、大きく開いた目は瞳の上下左右に白目部分が見える四白眼で、彼の残忍な性質を語っていた。

 門衛長に馬を勧められたがバラザッドは「この足で充分だ。それに馬の奴が俺を恐がるからな」と断った。門衛長も仕方なく馬を降りた。

 ついていく途中、後方で門衛の一人の呟きが聞こえた。

「死に損ないのクレムの次は四つ腕バラザッドか。宰相もよっぽどの物好きだな」

 バラザッドは立ち止まり、振り向きざまに短剣を放った。鎌状に湾曲した短剣は五十メートル近い距離を正確に飛び、門衛の鼻を削ぎ落として戻ってきた。

 マントが翻り、バラザッドの腕が露わになっていた。通常の二本の腕とは別に生えた、異形の腕。右脇の下から生えた腕は剛毛に覆われ、左腹部から生えた腕は常人の半分ほどの長さしかない。短剣を投げ、器用に受け止めたのはその短い腕だった。

 失った鼻を押さえて呻く門衛に、バラザッドは大声で告げた。

「気をつけなよ。俺は地獄耳だからな」

 短剣についた血糊はマントで拭って鞘に戻す。

 バラザッドが人の血を吸うとか人肉を食べるとかいう噂も広まっているが、それは間違いだ。

 どんなに飢えても絶対に、人肉は食べない。

 

 

 荒野。

 最後の村を出発して、何日が過ぎたろうか。食料も水も尽きた。ひどい飢えと渇きに、バラザッドは黙って耐える。強健に出来ている彼よりも、母の方が辛いだろうから。

「もう少し歩けば集落に着くわ。そこの人達ならきっと、私達を助けてくれる。あなたと同じ境遇の、人達だから」

 母は言い、疲労しきった顔に微笑を浮かべてみせた。儚げで寂しげな、優しい笑み。彼は何度も母のその笑顔を見てきた。他の人が笑いかけてくれたことなどなかった。

 バラザッドは黙って頷く。既に理解力はあったが、まだ自分から喋ったことはない。彼が生まれたのは三ヶ月前だという。鮮明に覚えているのは二ヶ月ほど前からだ。五才児くらいには見えると誰かが言った。混じりものは成長が早いからと別の誰かが言った。また、恐い目をしているとも言われた。

 バラザッドはいつもマントを羽織って自分の体を隠していた。母がそうしておきなさいと言ったからだ。たまに強い風がマントを翻して彼の四本の腕を露わにすると、親切だった人々も皆、母子に冷たく当たるようになる。

 バラザッドの父親について、母が話してくれたことはなかった。お前の父親は魔物だと誰かが言った。お前の母親は魔物に犯されたのだと。殺しなさい、と誰かが言った。混じりものはいずれ人間に仇をなす。だから殺してしまえ、と。

 だが母はバラザッドを殺さなかった。村を追われたのか自ら離れたのかは分からない。ただ、この一ヶ月、母はバラザッドを連れて各地を彷徨っている。

 助けてくれるという、同類の集落を探して。

 気配。バラザッドの感覚が何かを告げていた。誰かがいる。それも、これまで見た人々とは違うものが。

「どうしたの」

 立ち止まった彼に母が問う。バラザッドは岩山を見つめる。母も彼の視線を追う。

 岩の陰から男が現れた。冷たい目をした痩せた男だ。ただ、これまでバラザッドが見てきた人と違うのは、顎が犬みたいに大きくせり出して、鋭い牙が並んでいたことだ。

「何の用だ、人間よ。ここが何処だか分かっているのか」

 男が尋ねた。別の場所から背中に翼の生えた男が顔を出した。その隣には全身が長い毛で覆われた者がいる。彼らの数は次第に増えていった。

 バラザッドは理解した。彼らは自分の同類だ。自分の仲間なのだ。バラザッドは歓喜と共に、それを実感した。

 母は安堵したような同時に不安げな表情になった。バラザッドに頷いてから、そのマントを開いて四本の腕を男達に見せた。

「ご覧の通りです。どうかこの子を助けて下さい。この子を仲間に入れてやって下さい」

 彼らは平然とバラザッドの姿を見下ろしていた。バラザッドが彼らの本質に気づいていたように、彼らもバラザッドの本質に気づいていただろうから。

「わしらは飢えている。お前達人間が、わしらを『混じりもの』と呼んで迫害し、こんな痩せた土地に追いやったのだ」

 リーダーらしい男が言った。男に足はなく、無数の細い触手が上半身を支えていた。

「じゃが、その子はわしらの仲間じゃ。受け入れることに文句はない」

「ああ、ありがとうございます」

 母は跪いて彼らに頭を下げた。安堵のためか、その目に涙が光っていた。これまで何度も見たもの。

「ただし」

 だが、リーダーは言葉を続けた。

「お前は別だ。人間を養う義務などわしらにはない。人間は敵だ」

 母は、これから起こることを知っていたのだろうか。

 彼らが岩山を下りて一斉に襲い掛かってきた。彼らは母を捕らえ、衣服を剥ぎ取り、その体に食らいついていった。彼らは母を生きたまま貪り食い、笑いながら犯した。腸を引きずり出され血みどろになった母は、しかし悲鳴を上げなかった。駆け寄ろうとしたバラザッドを他の男達が力づくで止めた。頬を殴られ蹴り倒された。

「お母さんっ」

 生まれて初めてバラザッドは声を上げていた。みっともないしゃがれ声だったが、それを聞いた母はバラザッドの方を向き、片頬を食いちぎられたその顔で、にっこりと微笑んでみせた。

「お母さああああんっ」

 こんな奴らの世話にはならない。人間も、同類も、皆敵だ。バラザッドはそれを心に決め、人生最初で最後となるだろう涙を流しながら、精一杯声を張り上げ叫んでいた。

 

 

 単純なことが無視されている。

 バラザッドは人間を憎み殺しまくってきたが、それ以上に『混じりもの』を憎み殺してきた。なのに人間はバラザッドを『混じりもの』の代表のように考えているし、『混じりもの』もバラザッドを自分達の英雄に仕立て上げている。

 どちらもむかつく、クズばかりだ。

 クレム。死に損ないのクレムが騎士として参加しているのか。バラザッドは少し嬉しくなった。流石はライアスだ。綺麗な顔をして手段は選ばない。

 バラザッドが恐れる唯一の相手は、毒塗りの刃で彼の顔に傷をつけたライアスではなく、死に損ないのクレムだった。クレムとの遭遇は七年前、山道で駐留していた隊商に奇襲をかけた時だ。太った商人一家を皆殺しにして、十人以上いた護衛の兵士も逃げ延びたのは二、三人だ。そこに、雇い主からも忌避されたのか離れた場所で休んでいたクレムが、片足を引き摺りながら到着したのだ。

 余裕たっぷりにクレムの左手薬指と小指を切り落としたのはバラザッドだった。だが、その後大慌てで逃げ出したのもバラザッドの方だったのだ。

 土壇場で子羊が魔獣に変わりやがる。会ったのはその一度きりだが、クレムの右目に映った絶望と執着心の葛藤を、バラザッドははっきりと覚えている。おそらく、バラザッドと共感し合える存在がこの世にあるとすれば、それはクレムだけなのだ。

 クレムと共に戦うことになるとは。今回は良い旅になりそうだ。

 それがほぼ百パーセント勝ち目のない、地獄王とのゲームであろうとも。

「ようこそ、バラザッド。あの時あなたを殺さなくて良かった」

 王宮で一番に迎えた宰相ライアス・ファンデブルー・デリッセンは早速そう言った。

「フン」

 バラザッドは挨拶代わりに攻撃した。同じ長さの長剣二振りと金棒一本、鎌状の短剣一本の四連打。本気ではなかったが容赦もしなかった。この程度で死ぬような奴は死ねばいいのだ。

 ライアスは半歩退きつつ流れるような動きで長剣を抜き、四つの攻撃を払い逸らした。反撃が来るかと思ったが瞬時に剣を鞘に収め、涼しい顔でバラザッドを見ている。それでバラザッドも追撃する気が失せた。

「相変わらずいい腕だな。ゲームが終わったら勝負しろよ。この傷の借りを返さないとな」

 バラザッドは左頬の傷痕を撫でてみせた。

「いいですよ。その時まであなたが生きていればですが」

 ライアスは平然と答えた。少なくとも自分は生き延びるつもりらしい。誰も勝ったことがないゲームに勝つつもりなのだ。

 気に入ったぜ。バラザッドの口元は自然に笑みを作っていた。やはり美しさとは遠い笑みだが。

「王は起きておられますので会ってもらいますが、その前に風呂に入りなさい。来客用の浴室に湯を張ってあります」

 滅多に体を洗わないバラザッドには、獣臭がこびりついている。

「愛しのエルレシア姫とはいつ会える。四年前は顔も見れず終いだったからな」

 四年前、バラザッドがローソルドに侵入したのは、美貌を謳われるエルレシア姫を犯すためだった。人間への復讐の一環として。

「明日の会食時にお会い出来ますよ。あなたを姫様の五メートル以内に近づけるつもりはありませんがね」

 澄まし顔に冷たい警告を潜ませてライアスが答える。

「フン。まあいい。王宮の風呂とやらに入ってみるか」

 実際のところ、地獄王との戦いもバラザッドは楽しみだった。悪の中の悪、魔物の中の魔物とはどのようなものか、その面を拝んでやる。

 案外そいつは人間の顔をしているのかも知れないが。

 

 

  六

 

 天の頂に光の穴が生じ、朝が訪れる。

 ユアレは目覚めると草原に横たわっていた。必要な情報は既に刷り込まれているので戸惑いはしない。

 また勇敢にも、地獄王のゲームに応じようとする者達が現れたようだ。

 六年ぶりの目覚めは決して気持ち良いものではない。ユアレは永遠に寝ていたいのだ。だが地獄王を殺すまではそれも許されない。嫌々ながらユアレは起き上がる。明るい青のジャケットにズボン。髪はポニーテールになっている。刀剣の類はない。ポケットにトランプが一組。手足を動かす。駆け出してから急に後ろへ跳んでみる。

 前回と何も変わってはいない。こんなチャチな武器と体で戦えとはひどい奴だ。ユアレは奴への憎しみを募らせる。

 ユアレをいじめることが奴の楽しみなのだ。ユアレも同じことをしてきたから分かる。

 しかも、奴がユアレに愛情さえ抱いていることを知っていた。ユアレと奴は唯一、互いを分かり合える存在なのだから。

 ユアレは出発した。まずはゲームへの参加を志願しなければならない。ローソルド王国の城塞都市はここから五キロほどだ。

 宰相のライアス・ファンデブルー・デリッセンは賢明な男のようだが、良くもまあ地獄王とのゲームを決めたものだ。余程の自信があるのか。ただし、磐石の自信など地獄王の前には無意味だ。

 六年前のヘラルサでは参加を断られた。あれはひどかった。騎士を自国の者からしか選ばなかったのだ。役目がなくなったのでゲーム開始前にユアレは自殺したが、こうしてまた苦患を味わわされている。

 全く、同じことの繰り返しだ。同じことを繰り返す。グルグルと同じところを回っているようなものだ。作ったり壊したり、同じことを繰り返す。分かっている。することがないのだ。だから同じことを繰り返す。繰り返し同じことを繰り返すのだ。何度でも同じことを繰り返す。だから同じことを繰り返す。全く、飽き飽きするほどに同じことを繰り返すのだ。それでも同じことを繰り返す。どうしようもなく同じことを繰り返す。狂ったように同じことを繰り返す。そう、だから狂ってしまって同じことを繰り返す。延々と繰り返して同じことを繰り返す。あは、同じことを繰り返す。だから同じことをははっ繰り返す。同じことを延々と繰り返す。繰り返し繰り返し同じことを繰り返す。はは、あははは。同じことを繰り返す。同じことを……。

 ローソルドの城塞都市に着いた。門衛がいるのでユアレは声をかける。

「ユアレと申します。こちらでは地獄王とのゲームのため参加者を募っているとのこと、是非とも参加させて頂きたく思い参上した次第です」

 前と同じ台詞だ。何度でも同じ台詞を繰り返す。同じことを繰り返す。

「ユアレ様ですね。王宮までご案内致します」

 門衛長が進み出て言った。ユアレの来訪を申し含められている顔だった。ライアスに抜かりはないようだ。

「昨年の生贄、ミス・シェリーナ・エンデルは埋葬されたそうですね」

「はい。お参りになるのでしたら後でご案内差し上げますが」

「いえ、その必要はありません」

 一年の拷問など大したことではない。永遠に比べれば。そう、永遠に繰り返してきたのだ。同じことを繰り返す、はは。

 王宮の玄関で迎えたライアス・ファンデブルー・デリッセンは若年ながら相当の知性と実力を備えているようだった。これまでユアレが見てきた中でもトップクラスに入る。ただし、だからといって地獄王に勝てるとは限らない。

「あなたがユアレですか」

 ライアスは言った。

「ええ、そうです。伝説通りの姿でしょう」

 ユアレは微笑してみせた。といっても彼は元々微笑を浮かべているし、微笑以外の表情を作るようには出来ていない。

「あなたはゲームの際には必ず現れ、騎士として参加しているようですね。六百年以上前の記録にもあなたの名は残っています。これまで地獄王のゲームに勝った者はおらず、破れた者は皆死んでいる。どうしてあなたは生きているのです。それとも、毎回別の人物がユアレと名乗っているだけなのですか」

「私はいつも同じですよ。ゲームのたびに復活させられているというだけです」

「それでは、あなたは何者なのです。何故毎回ゲームに参加しているのですか」

 大概の者はそれを問うてくる。そして、ユアレの答えもいつも同じだ。

「詳しいことはこの場ではご説明出来ません。現場では開始の前に知る限りのことをお教え致しましょう。ただ一つ、ここで申し上げられることは、私は地獄王を倒すために全力を注いでいるということです」

 少し考えてからライアスは言った。

「あなたが何者であろうとも、騎士として相応しい力をお持ちなら参加して頂きましょう。今この場で実力を見せることは出来ますか」

 彼はなかなか良い線を行っている。少なくともこのくらいの判断を見せねば望みはない。

「出来ますとも」

 恭しく一礼してユアレは承諾した。玄関前の庭で向かい合わせに並ぶ石像の一体を指差した。

「あれに致しましょう」

 ユアレはポケットからトランプの数枚を出して投げた。カードは緩やかなカーブを描いて石像の周りを飛び、ユアレが右手を軽く引くと不規則な動きを見せて石像にへばりついた。

 カードに触れた際に接着され、指先から引き摺り出された細い鋼線の仕業だった。ユアレのそれぞれの指に格納された鋼線は六十メートルほどまで伸びる。

 更に腕を引くと、石像は鋼線によって音もなく輪切りにされ、五つに分断されて落ちた。鋼線が巻き上げられ、カードが手の中に戻ってくる。

「こんなところでよろしいでしょうか」

 ユアレは尋ねた。その場にいた衛兵達は何が起こったのか分からずに戸惑っているが、ライアスの目は鋼線を捉えていたようだ。

「騎士として参加して頂きましょう。ご志願ありがとうございます」

 ライアスは微笑して頭を下げた。

 昼の食事時に他の参加者を見ることが出来た。西ハイネの筆頭将軍モナサム・エンデル。呪われた傭兵、死に損ないのクレム。混じりものの賞金首、虐殺鬼バラザッド。そして若き宰相ライアス・ファンデブルー・デリッセン。いずれも当代きっての戦士達だ。

 今回は期待出来るかも知れない。百に一つか千に一つくらいは。ユアレは水だけを飲みながら考えていた。

 彼の体はものを食べるようには出来ていないのだ。

 

 

  七

 

 男が公園のベンチで寝ていると兵士が近寄ってきて「ゲームへの参加志願か」と尋ねてきた。

「ゲームとは何のことだ」

「地獄王とのゲームだ」

「……。知らんな」

「そうか」

 兵士は離れていった。

 広場では男達が並んで受付をしていた。屈強な体格の者が多く、甲冑の種類は様々だ。異国の騎士達だろうか。

 男もキャラバンに同行して流れ着いた一人だった。他の出稼ぎ達と一緒に防壁の修復に暫く雇われていたが、それが終わると仕事もなくなった。だから男は日々を無為に過ごしている。

 ここがローソルド王国であることにも興味はなかった。自分が何処から来たのかも覚えていない。男にとってはそんなことはどうでも良かった。ただのんびり生きていられればそれでいい。いや、今ここで野垂れ死のうがどうでもいいのだった。

 ベンチで横になったまま退屈しのぎに見物していると、若い騎士がやってきて広場の騎士達を見回した。兵士達の態度からすると若い騎士は高い身分の者らしい。

 彼らを一通り見渡した後、若い騎士は何人かを指差して選び、他の者に告げた。

「折角のご志願ありがたく思いますが、今回はあなた方のご助力は必要ありません。どうかお引き取り下さい」

 ほんの少し観察しただけで相手の実力を判断したらしい。確かにその程度の者達が多かったが、思い切りの良いことだ。

 志願者は百人以上いたが、残されたのは四人だけだった。若い騎士は一人一人に剣を抜かせ、実力を試しているようだ。しかし男はこの辺で興味を失い、大きな欠伸をして昼寝に戻った。

 気配が近づいてきて、男に言った。

「失礼ですが、お名前をお聞かせ願えませんか」

 さっきの若い騎士だった。

「名はない。覚えてない」

 男は寝転んだまま答えた。広場には騎士は残っていなかった。結局全員不合格だったらしい。

「そうですか。武術の経験はおありですか」

「分からん。何故そんなことを聞く」

 若い騎士は微笑した。

「あなたが只者でないとお見受けするからです」

「見ての通りの流れ者だ。剣も持ってない」

「ならばお貸ししましょう」

 若い騎士が兵士に命じて一振りの剣を持ってこさせた。だが男は長剣よりも、兵士の背にあるものに目が行った。

 弓と矢筒。

 男の視線に気づき、若い騎士が言った。

「あなたはこちらでしたか」

 騎士から差し出され、男は起き上がって弓矢を受け取った。妙に馴染む。ずっと昔から使ってきたみたいに。

 男は立ち上がって標的を探した。向こうの木に実が一つなっている。五十七メートル。矢をつがえて弓を引き絞るとメチッと音がして弓が折れた。

「おかしいな。もう一つくれ」

 男は気に入らなかった。こんなに脆い弓とは思わなかった。次は手加減しなければ。

 若い騎士は別の兵士の弓を男に手渡したが、同時に兵士に何か耳打ちしていた。

 今度は男は感触で限界を確かめながら弓を引いた。狙いに時間をかけず矢を放つ。

 矢は木の実の中心を貫通していった。

「かなりのものですね」

 感心した様子で若い騎士が言った。

「この程度の距離なら簡単だ。風もないしな」

 男はもう一度矢を放った。今度は実の根元を切り、穴の開いた実が真下へ落ちた。

 それが地面にぶつかる寸前。三本目の矢が実を貫いていた。最初の矢が開けた穴を正確になぞって。兵士達が嘆息した。

 やがて、馬に乗った兵士が細長い袋を携えてきた。若い騎士が受け取って、男の前で丁寧に袋を開く。

 弦が外されていたが、黒い金属製の弓だった。通常のものよりも大型で、重量もありそうだ。

 それを見た瞬間、男の胸がドクンと鳴った。懐かしいような、恐ろしいような感触。

 若い騎士が説明した。

「十年ほど前になりますが、我が王がグランザ王国を訪問なさった時に、コール・ウェルズという弓の名手が二百メートル先の的をただ一度で射抜いてみせたそうです。我が王はいたく気に入られ、彼が愛用していた弓の予備の品を譲り受けてきたのですが、ローソルドでは残念ながら扱える者がいませんでした。聞くところによると、グランザ王国でもこの弓を扱えるのはコール・ウェルズだけだったとか。ただ、コール・ウェルズ自身は七年前に妻子を殺して狂死したと聞いています」

 男は聞いていなかった。若い騎士の手から弓を取ると、備えつけの弦を素早く巻きつけた。その弦も特殊なもので、他の弦では弓の力に負けてすぐ切れてしまうのだ。

 男は矢をつがえ、二百メートル先の屋根に立つガーゴイル像に狙いを定めた。なまった筋肉が悲鳴を上げながらも本来の力を発揮して、鋼鉄の弓をギリギリと引き絞っていく。

 

 

 風が強い。

 コール・ウェルズは目を細め、標的との間にある本質を推し測ろうとした。

 風は強いだけでなく、荒れている。コールの目には複雑に踊り狂う風が見えている。これでは矢がどう流されるか、予測が難しい。

 標的は二百十二メートル、いや二百十二メートル三十センチ先、木の枝に吊られた兜だった。兜自体が風によって激しく揺れている。

「無理とは申しませんが、非常に難しいと存じます」

 コールは王が不機嫌となるのを覚悟の上で、正直に告げた。

「命中する確率は、精々二つに一つでしょう」

「ウェルズよ、お主はそんなことを言っておっても、いつも命中させてきたではないか」

 臨時に設けられた台の上から王は言う。隣の椅子では異国の姫が面白そうに見守っている。家臣の有能さを姫に見せつけるため、いきなり催された演武会。

「単に運が良かっただけです。私は自分の力のほどを知っております」

 コールは自分の弓の腕が世界一だと自負している。戦では互いの軍勢が触れ合う前に敵の将軍を射殺し、このグランザに数知れぬ勝利をもたらしてきた。相手の動きを予測し風を読み、兜の隙間や盾の覗き窓を正確に射抜く彼の弓は、各国の畏怖と羨望を買ってきた。

 だが、そんなコールでも、限界というものがある。それを誰より理解しているのはコール自身だ。

「運も実力のうちと言うであろう。お主はわしの期待を違えたことはない。さあ、やるが良い」

 姫の手前、苛立ちを隠してにこやかに王は命じた。

「全力を尽くしますが、結果に責任は持てません」

「構わぬ。早うやれ」

 コールは改めて遥か先の標的へ向き直った。軍事教練にも使われるこの草原に、グランザ王国の兵士達が隊列を組んでコールを見守っている。王は姫と談笑しながら酒盃で喉を潤している。

 部下達は皆知っている。コールが一射にどれだけの神経を注ぎ、怖れを呑んで指を動かしているのかを。戦の後で彼が必ず血を吐く姿も、部下達は見てきた。

 戦なら、いい。

 王国の命運を左右するような戦でならば、納得がいく。

 だが、こんなことのために、自分は全てを賭けねばならぬのか。

 コールは雑念を捨て、標的に意識を集中した。やがて見物人達の姿は視界から消え、枝に吊られ揺れる兜と、彼と兜の間で渦巻く風だけになる。

 頭では考えない。コールは自分の中にある感覚が指示する通りに狙いを定めて矢を引き絞り、感覚が機を告げるのを待った。

 そして、コールは矢を放った。

 完璧だった。イメージ通りの見事な軌跡を描いて矢は飛んでいく。コールは黙って見守り、兵士達の歓声を聞いていた。

 だが、途中で風が変わった。逆方向に猛烈な勢いで吹き始めた風に、矢の軌道が逸れていく。

 揺れる兜の右横を、矢は通り過ぎた。兵士達が一瞬どよめき、すぐに重い沈黙が訪れた。

「確率は二つに一つと申し上げた筈です」

 コールは静かに澄み渡った心で王に告げた。もしかすると、自分はずっとこの時が来るのを待っていたのかも知れない。そして、王が何と叫ぶかも予想はついていた。

「馬鹿者めっ」

 王は立ち上がり、こめかみに青筋を浮かべて叫んだ。

「わしに恥をかかせおって、どうしてくれようかっ」

 コールは二本目の矢をつがえた。

「二度目はないぞ、ウェルズ。わしは一発で仕留めよと命じたのだ。わしの信頼を裏切りおって……」

「この距離なら外すことはありません」

 コールは告げた。王が凍りついた。

 コールのつがえた矢の先端は、王へ向いていた。

「な……」

 王の顔が、ひしゃげた。姫はポカンと口を開けていた。

 二十二メートル四十センチの距離を、コールの放った矢は一直線に進み、王の額の中心を貫いた。

 兵達が騒ぎ出す。動揺と、賞賛と、非難と。身勝手な王に反感を持つ者は多かった。しかし、だからといって主君を殺して良い筈もない。コールは愛用の弓を置いて、溜息をついた。

 コールがこれまでやってきたことは、全て無意味になった。後がどうなろうと、知ったことではない。

 

 

 今何かが男の脳裏に浮かんだ。だがすぐに消えた。何だったのかは忘れたし、どうでも良いことだ。気の向くままに弓を射ることが出来るなら、それで充分なのだ。

 男は矢を放った。始めは一直線に、やがて少しずつお辞儀していく。予想通りの軌道だった。風がないから当然のことだ。

 矢はガーゴイルの頭を粉砕した。

 兵士達は歓声を上げ男に拍手を送った。若い騎士も同じく拍手していた。男は少し気分が良くなった。

「お見事です」

 若い騎士が言った。

「その力をお貸し頂けませんか。地獄王との戦いに、騎士として参加して頂きたいのです」

「制限はないのか」

「制限とはどのような意味ですか」

「一発で仕留めろという訳ではないのだな。好きなだけ射ていいのだな」

「ええ。構いません。お好きなだけどうぞ」

「分かった。やる」

 男は頷いた。好きなように射て良いのなら、これほど幸福なことはない。標的が何であろうと男にはどうでも良かった。

 

 

  八

 

 天の光が閉じて夜が訪れる。期限まで残り一日となった。

 閉じられたばかりのローソルドの門を、闇が凝縮したような影が叩いた。

「何だ」

 門衛が顔を出す。

「ゲームへの参加を志願したい」

 抑揚のない、低い声だった。

「お名前は。どの国からお越しか」

「名はベルリク。各地を放浪している」

 門衛は怪訝な顔をした。それでも門を開け、ベルリクを招き入れる。

 黒いマントの下に甲冑はなく、ゆったりとした黒衣を纏っていた。ウエストを絞る銀のベルトには細身の長剣が吊られている。その鞘も黒い。男は痩身だが華奢な印象はなく、癖のない黒髪は背中まで伸びている。彫りの深い端正な顔立ちだが、仮面のように完全な無表情であった。黒い瞳は奥に真の闇を覗かせる。

「明日の昼に審査が行われます。まずは宿屋にご案内しましょう」

「主催者は早く騎士を選びたい筈だ」

 ベルリクに指摘され、門衛長は考えを変えた。

「ではまず王宮までご案内して、私がかけ合ってみます。宿屋まで二度手間になるかも知れませんが。馬を用意しましょう」

「不要だ」

 ならばと門衛長が自分の馬を降りようとする。それをまたベルリクが止めた。

「あんたは乗っていい。急ぐのだろう」

「よろしいのですか」

「大丈夫だ。ついていく」

 門衛長が馬を進めると、ベルリクは余裕でついてきた。さほど急いでいる印象でもないのに恐ろしく足が速い。馬が勝手にスピードを上げていく。

 馬が、後ろから追ってくるベルリクに怯えているようだった。

 王宮に着いた。ベルリクは息一つ切らしていなかった。門衛長が衛兵に伝えると、やがて若い騎士が現れた。

「初めまして、宰相のライアス・ファンデブルー・デリッセンです」

 何処の馬の骨とも知れぬ男に、宰相は丁寧な挨拶をした。同時にその瞳は相手を油断なく観察している。

「ベルリクだ」

 黒衣の剣士は無表情に応じる。

「ゲームへの参加をご希望とのことですが、ゲームの内容はご存知ですか」

「地獄王と殺し合うゲームだそうだな」

「分かっておられるようだ」

 ライアスは苦笑した。

「かなりの力をお持ちのようですが、その実力を少し見せてもらえませんか」

「居合いなどどうだ」

 ベルリクは聞いた。彼の剣はベルトに吊られている。

「いいでしょう」

 ライアスが頷く。

「先に抜け」

 同じ口調でベルリクが言った。

 ライアスの腰にも長剣が下がっている。彼は一瞬眉をひそめ、それから素早く剣を抜いた。

 いや、抜こうとした。

 ライアスの剣が鞘ごと床に落ちた。

「こんなところでどうだ」

 黒衣のベルリクは既に抜いていた。ライアスが自分の剣に触れる前に、ベルリクの細身の剣が鞘の吊り紐を切り落としていたのだ。

 ライアスも本気という訳ではなかっただろう。それでもベルリクの剣のスピードは信じ難いものだった。人間に可能な業ではない。

 ベルリクの声音は無感動で、彼の闇色の目もどんな感情も映しはしない。彼は剣を鞘に戻した。

 居合わせた衛兵達は息を呑んでいた。恐るべき屈辱に、しかしライアスは静かに屈んで自分の剣を拾い上げた。

「いいでしょう。騎士の一人として参加して頂きます」

 彼もまた感情を表に出さずベルリクに告げた。

「今、丁度我が王と騎士達が会食中です。あなたもこれから如何ですか」

「同席させてもらおう」

 会食の場に現れた新たな参加者を、騎士達は黙って値踏みするように観察した。王が立ち上がって礼を言い、ベルリクは言葉少なに答える。次にエルレシア姫が挨拶した。ベルリクは空いている席につき、彼の分の食事が運ばれてきた。

 隣の席の虐殺鬼バラザッドは暫く面白そうにベルリクを見守っていた。バラザッドは端の席だったが、皆に嫌がられたためそうなったのか自分からその場所を選んだのかは分からない。

 やがてバラザッドはベルリクだけに届く程度の囁き声で言った。

「珍しいな。本物が人間の面して来るとは」

 ベルリクはバラザッドを一瞥すらせず、黙々と食べていた。バラザッドも無視されて怒る様子もなく、ニヤニヤ笑いを続けていた。向かいの席にいる巨漢モナサム・エンデルも厳しい目をしてベルリクを見つめていた。狩るべき敵を見かけたとでもいうように。しかし主催者が黙っているためか、彼も黙って食べていた。名なしの男は他人などに興味がないようで、左手は横に立てかけてある鋼鉄の弓を撫でていた。

 もう一人、ベルリクを興味深く見つめているのはエルレシア姫だった。彼女は不思議なものを発見したように、ベルリクの様子を観察していた。

 そのうちに、意を決したのか彼女はベルリクに尋ねた。

「あの……ベルリクさん、いえ、ベルリク様」

「敬称は不要だ。ベルリクでいい」

 ベルリクが言った。口調は素っ気なかったが棘もなかった。

「あの、一つ、お尋ねしてもよろしいですか」

「何だ」

「以前、何処かでお会いしたことはありませんか」

 王が顔を上げて娘を見た。そしてベルリクを見る。

 ベルリクは姫を見返していたが、表情は動かなかった。

「ないと思うが」

「そうですか。すみませんでした」

 エルレシア姫は恥ずかしそうに俯いた。

「気にするな」

 ベルリクは応じる。姫に対し敬語を使わぬことをライアスが注意しかけたが、王が首を振って止めた。

「これでひとまず、七人が揃いましたね」

 ユアレが言った。

「シアン・マリウは間に合わぬかも知れんな。そうなれば力の落ちる者でも数を合わせねばならん」

 モナサム・エンデルが重々しく付け加える。死に損ないのクレムは手袋を填めた左手でスプーンを使っていた。顎が弱いのか、スープばかりを飲んでいる。

「おそらく大丈夫かと思います。期限は明日、夜の訪れまでですから」

 宰相ライアスが言った。

「あの……唐突な話ですみません。確か、七、八年前のことだと思います」

 またおずおずと、エルレシア姫が切り出した。控えめな彼女にしては珍しいことで、騎士達は一斉に彼女を見た。

「……王宮に、ひどい傷を負った生き物が迷い込んできたのです。最初は黒い子猫かと思ったのですが、前足が長くて、大きな牙がありました。お父様は、これは魔物だから殺さなければいけないと仰いました。でも私は……。泣いてお願いしたのは、あの時が最初で最後です。それから一生懸命看病して。魔物の回復力というのは凄いものですね。三日もすると自力で立ち上がれるようになりました。……でも、次の日に、突然いなくなってしまったのです」

 姫は小さな溜息をついた。

「うむ。あの時のことは覚えておるよ」

 ローソルド王が娘に言った。残り僅かかも知れぬ娘との日々をいとおしむように、目頭を押さえて。

「私には信じられなくて。あの時、私はあの子と、心が通い合ったと思ったのです。だから、あの子が何も告げずに去るなんて……」

「姫様、魔物が人に懐くことはありません。どんなに愛情を注いでも平然と牙を剥くのが魔物というものです」

 言ったのは宰相ライアスだった。

「全くその通り。俺なんかその典型だな」

 バラザッドが気楽な笑みを見せる。

「い、いえ、すみませんでした。場違いなお話でしたね」

 エルレシア姫は沈んだ顔で皆に謝って、もう喋らなかった。

 魔物とはそういうものだ。ベルリクは黙って考えている。黒い土地で仲間達と過ごして、それが良く分かった。ただ食らい合い、殺し合うだけの生き物。

 だから尚更、あの時のことは鮮明に覚えている。

 エルレシア姫が魔物につけた名がベルであることも、彼は覚えている。

 彼はそのことを、決して口にするつもりはなかった。

 

 

  九

 

 翌日。天の頂に開いた光の穴が極大を過ぎ、縮小を始めた頃、対照的な二組の騎馬がローソルドに到着した。

 激しく跳ねる馬を抑えるのは派手な格好の若い男だった。傷一つない甲冑は金銀の装飾で輝き、長剣の柄と鞘にも精緻な彫金が施されている。細い首と飽食に弛んだ顔は戦士には程遠い。眠たげな半眼の目は醜い欲望をへばりつかせていた。

 低く滑るように走る馬の乗り手は白い衣で身を包み、同じ色の布を頭に被っていた。襟元からは中に着込んだ鎖帷子が覗いている。頭の布は太い金属のサークレットで留めてあり、それは相手の刃を防ぐのに役立つだろう。両の前腕と手背部も金属が覆っている。年齢は三十代の後半であろうか。浅黒い肌に艶のある口髭が特徴的だ。左腰に大小二振りの剣を差している。

「なんとか間に合うたな。尻が痛いわ」

 後足立ちで馬を停止させ、派手な甲冑の男がげんなりした顔で言った。

「そりゃあんたが下手糞だからさ。普段から馬車に乗ってるからそんなことになる」

 笑みを含んだ声で白い衣の男が応じた。

「雇い主にその口の利き方は何だ」

「言葉遣いまでは契約に入ってなかったんでね」

 派手な甲冑の男は諦めて溜息をつき、門衛達に怒鳴った。

「丁重な出迎えはないのか。わざわざ北カズンのキンケル王子がゲームに参加しに来てやったというのに」

 門衛達は互いの顔を見合わせていたが、門衛長が出てきて頭を下げた。

「はあ、それはお越し頂きありがとうございます。ところで隣のお方はもしかして、シアン・マリウ様でいらっしゃいますか」

「いかにも。こやつは余の部下だ」

 自慢げにキンケル王子が頷く。白い衣の男、シアン・マリウは肩を竦めた。

「ローソルドからの手紙が届く前にこっちに雇われちまった。まあ、やるこたぁ同じみたいだが」

「形はどうあれ、ご参加を深くお礼申し上げます」

 門衛長の礼はどちらかというとキンケルよりシアン・マリウに向いていた。

 王宮の入口で迎えた宰相ライアスも安堵の表情を見せた。

「間に合いましたね。良く来てくれました、シアン・マリウ。雇い主はキンケル王子でいらっしゃるということですね」

「そうだ。愛しのエルレシア姫を救うために、余がわざわざ高い金を払って雇ったのだ。愛しの姫は何処におる。余を出迎えてはくれんのか」

 キンケル王子のエルレシア姫への執心は有名だ。姫に求婚する異国の王族や貴族は多かったが、キンケル王子は大国という後ろ盾を使い強引なアプローチを繰り返してきた。そのたびにうまく躱してきたのはローソルド王や家臣の機転であり努力であった。

「姫様は体調が思わしくなく、今は臥せっておいでです」

 片方の眉を僅かにひそめて嫌悪感を隠し、宰相ライアスは答えた。

「姫はいつもそれだな。だが地獄王に召し出されたとなるとそうもいくまい。騎士として姫の顔を見てやろうか」

 自信満々に石段を上がるキンケル王子の背にシアン・マリウが声をかけた。

「王子さんよ、あんたも騎士として参加するのかい」

「当たり前だ。お前は余も守るのだ。ぬはは、地獄王に勝利した暁には姫との婚儀の用意だ」

 キンケル王子は勝手に話を進めている。ライアスは王子に気づかれぬところで露骨に嫌な顔をしていた。

「そんなこたぁ聞いてなかったな。ライアス、他の騎士は揃ってるのかい」

「はい。これまで集まったのが七人。あなたを入れて丁度八人です」

「そいつらの腕はどんなもんだ」

「それぞれ、かなりの腕前と存じます」

「そうかい。なら王子さんよ、あんたは要らねえな」

 キンケルの顔が驚愕に歪む。

「な、何を言うか。お前を雇ったのは余であるぞ。それを……」

「契約の内容はお姫さんを守って地獄王を倒す。そんだけだったよな。俺は契約履行に全力を尽くす主義だ。だからあんたみたいな弱い奴に仲間に入られると困るんだよ」

 口髭を撫でながら冷静にシアン・マリウは語る。逆にキンケル王子の声は甲高くなっていた。

「ふ、ふざけるなっ。他の奴を一人落とせば済むことではないか。何が何でも余が騎士として……」

 ヒュゾン、と、不気味な音がした。

 丸いものが石段を転がり落ち、衛兵達がワッと声を上げて後ずさった。

 それは、何が起こったのかまだ理解していない表情の、キンケル王子の生首だった。

 傭兵シアン・マリウが石段を素早く踏み込んで、抜き打ちに払った剣で雇い主の首を切断したのだ。右手に握られた短い刀身は深い波刃になっていた。相手の傷口を広げ出血を増すための工夫か。

「怖い者知らずの馬鹿ってのは始末に負えねえよな。だが心配するなよ王子さん、あんたが死んでも契約はちゃんと果たすからよ」

 崩れ落ちるキンケル王子の胴体に、シアンは気楽な口調で告げた。

 そう。契約だけが全てだ。傭兵シアン・マリウは心の中で繰り返す。うちの親父もそうだった。マリウの家系はずっと昔から、代々そうやってきたのだ。

 

 

「傭兵は契約が全てだ」

 シアン・マリウの父、ガラハド・マリウの口癖がそれだった。

「どんな汚い手を使ってもいい。女子供を殺そうが味方を殺そうが、契約を守るためには何をしたっていいんだ」

 幼いシアンを酒場のテーブルの向かい側に据え、大ジョッキを空けながら父は大声で笑ったものだ。父は樽のように太った腹をしていたが、いざという時の動きは恐ろしく素早かった。酔った荒くれ男達に絡まれ(もしかすると父の方から絡んだのかも知れないが)、一瞬で三人の喉を裂き、恐れをなして逃げ出した一人をわざわざ追いかけて蹴り倒し、馬乗りになって心臓を抉ったこともあった。四人の死体を酒場の外に放り出して、父は平然と席に戻って酒盛りを再開したものだ。

 父は戦が終わって上機嫌で帰った時、右手に土産の玩具を、左手には殺した敵の生首を下げてくることも多かった。シアンは玩具も生首も、返り血を浴びた父の笑顔も好きだった。

「世界ってのは元々残酷だ。確かなもんなんて何一つねえ。部下に裏切られ、雇い主に裏切られ、女にも裏切られる。たまにゃあ自分にも裏切られる。だから、確かなもんは自分で作るしかねえのさ。それが契約だ。いいか、契約だけは死んでも守れ。契約さえ守ってりゃあ、後は何したっていい」

 シアンは母の顔を知らない。別れたのか死んだのか、父が殺したのか。もし父が殺したのだとすれば、悪いのは母だ。母は契約を守らなかったのだろう。

 人々は陰で父のことを『悪魔』と呼んでいた。その言葉の意味が分かったのは五才か六才の頃だった。でも父が悪魔だとすれば彼らも悪魔だ。シアンは彼らが旅人を襲って金品を奪い、死体をバラバラにして家畜の餌にするのを何度も見てきた。

 確かなものは自分で作るしかない。傭兵は契約が全てだ。

 シアンは忠実にそれを実行して時を過ごした。汚い手を使う一匹狼。しかし傭兵としては超一流。そんな評価が定着したのは二十代半ばの頃だ。

 シアンは、父を、尊敬していた。

 二十七才の誕生日。相変わらず各地を転戦している父から祝いの手紙が届いた。手紙には一ヶ月後に貴族主催で設けられる戦場の場所と、シアンが加担すべき貴族の名が記されていた。

 俺の跡を継がせるために、一つ大事なことを教えてやる。父の字でそう、書かれていた。

 親父と共に戦うのは久しぶりか。シアンの胸は躍った。護衛の仕事を済ませて指定の場所へ向かい、貴族に会って戦いの内容を知った。貴族同士の下らないお遊び。あり余る財力を使ってそれぞれ傭兵を集め、互いに殺し合わせてどちらが生き残るかを競うゲーム。今回、勝った方の貴族が目当ての姫君にアプローチする優先権を手に入れるという。下らない目的だが、そんなことはどうでもいい。傭兵は契約を守ることが全てだ。

 契約は敵を皆殺しにすることだった。相手側の部隊もそう命じられている筈だ。傭兵達はどちらにつけば生き残れるか、自分のついた側が勝つかどうかを気にしてピリピリした空気が続いていた。

 期限ぎりぎりになっても父は現れなかった。どうしたのだろうか。約束を破るような男ではないのだが。或いはこの戦闘には何か裏があるのか。

 その理由が判明したのは当日、貴族達の見下ろす戦場で敵陣営に父ガラハド・マリウの姿を認めた時だった。

 五十を過ぎてもまだ超一流の傭兵として勇名を馳せる、一年半ぶりに見た父は、シアンと目が合うとニヤリと笑ってウインクをしてみせた。鎧ごと叩き斬る、鈍器のような曲刀を肩に担いでいる。父の愛用の武器。

 親父は本気だ。

 シアンは身を震わせていた。父親を殺すことの、父親に殺されることの恐怖に。

 そして、歓喜に。

 契約が全て。親父はそれを息子に実証してみせるために、わざと敵方に志願したのだ。どちらかの死を懸けて、親父は自分の信念を真実にしてみせるつもりなのだ。

「シアン、あれはお前の親父さんじゃないのか」

 味方の一人、サネロが遠慮がちに聞いた。三日前に知り合った傭兵だ。明日生きているかどうかは知らない。

 シアンは必死に震えを抑えながら答えた。

「ああ、そうだ。誰も手を出すなよ。俺がやる」

 きっとマリウ家は、代々そうやって真実を伝えてきたのだ。

「者共、始めよ。殺し合えっ」

 貴族が高い声で叫び、合図の銅鑼が打ち鳴らされた。二つの丘の下に対峙したそれぞれ百名近い傭兵達が、雄叫びを上げながら波となってぶつかり合う。

 シアンは馬を急かして先頭を駆けていた。父ガラハドの騎馬も一直線にこちらへ向かっていた。

 父の目は、歓喜と殺意に燃え盛っていた。きっとシアン自身も、そんな目をしているのだろう。

 空気を裂いて横殴りに襲った父の曲刀を、シアンは馬から跳んで避けた。一瞬判断が遅かったらシアンの胴は二つになっていた筈だ。

 宙返りしつつ、長剣の黒い刀身で父の首筋を薙いでいく。

 父の首が完全に切断されるまで、シアンは父親の溢れんばかりの愛情と、自分の父親への愛情を感じていた。

 

 

 そう。契約だけが真実だ。そのためなら何をしたっていい。シアン・マリウは雇い主の首を刎ねたことに一片の罪悪感も抱かない。

 キンケル王子の死体を見下ろす宰相ライアスの瞳は、愉悦を隠しきれていない。彼は自分の表情に気づいているのか。まあ、シアンにはどうでもいいことだ。

「ようこそ、シアン・マリウ」

 ライアスが一礼した。

 契約は姫を守ること。地獄王を倒すこと。それだけだ。

 そのためには何をしたっていい。結果として自分が死ぬことになろうとも。

 

 

  十

 

 空が紫色に沈み、夜が近づきつつある。

 白いレンガの敷き詰められた広場は、珍しく一般人は締め出されていた。王国の兵士達が見守っているのは端のステージ。

 一週間前にピエロが立ったステージに、今は八人の騎士が立っていた。

 右端に立つ赤い騎士は虐殺鬼バラザッド。四つの腕をマントで隠し、頬の傷のせいで引き攣った笑みを浮かべている。

 その左隣で立っているのも辛そうに見えるのは死に損ないのクレム。右の顔は人生に疲弊しきっているが、瞳は幽鬼のように燃えている。

 その隣、頭一つ飛び抜けているのは西ハイネの筆頭将軍モナサム・エンデル。重い大剣を背負って微動だにしない。

 そして、白い甲冑の騎士は、ローソルド王国の若き宰相、ライアス・ファンデブルー・デリッセン。銀色の髪は総髪に近く、眉目秀麗な顔は自然な気品と威厳を湛えている。

 その左に立つ男は白い衣のシアン・マリウ。彼は仲間の騎士達をさり気なく観察している。自分にとって有用か、どのように使えば役立つかを考えているのだろうか。

 その隣、謎の参加者ユアレ。地獄王とゲームについて多くを知る彼は、微笑を浮かべたまま何も語らない。

 その左は名なしの男だった。彼はローソルドの甲冑を支給され、蓬髪も不精髭も整えられた。男は自分の服装や置かれた状況など気にならないようで、鋼鉄の弓の感触だけを味わっている。

 左端にひっそりと立つのは黒衣の剣士ベルリク。端正だが無表情な顔。深い闇色の瞳。彼は必要最小限のことしか喋らない。

 この八人、現在この世界でこれ以上のメンバーはあり得ないだろう。ライアス・ファンデブルー・デリッセンは思っている。この八人ならば何が相手でも勝てる。相手が、これまで誰も勝利した者のない地獄王であっても。

 地獄王などに、エルレシア姫を奪われてたまるものか。

 姫は私のものなのだ。私が手に入れるべきものだ。他の誰にも触れさせはしない。姫に言い寄ってくるクズ共を排除するために、ライアスは全力を尽くしてきたのだ。

 ふと視線に気づく。ライアスが振り返ると黒衣のベルリクがこちらを見ている。感情のない瞳。何を考えているのか分からない。

 嫌な目だ。以前も、そんな瞳を見たような気がする。姫は何年も前に姿を消した小さな魔物の話をしていた。

 だが、そんな筈はない。

 あれは死んだのだから。

 

 

 エルレシア姫の誕生日を祝うパーティーもたけなわを過ぎようとしていた。ライアスがローソルド王国に仕官してから立ち会うのは二度目になるが、王自身の誕生パーティーよりも盛大なのは、それだけ王が姫を愛しているということなのだろう。

 警備を任されたライアスは白い甲冑姿で宮殿内を回る。有力者とすれ違う際、相手はこちらを見向きもしないのに深々と頭を下げて歩かねばならないのは屈辱だが、地位の低い今は仕方がない。

 この小さな宮殿には家臣一同の他、異国の王や貴族達も大勢参加して賑わっている。城下町でも民や旅人に料理が振舞われ、辺境の人々が恐れる夜となっても無数の松明が町を照らしていた。

 どうせ皆、エルレシア姫を見るために涎を垂らしながら集まってきたのだ。姫が人々の前に姿を見せるのはこの誕生パーティーを含め年に数回しかない。姫が病弱なせいもあるが、王が別の懸念を抱いているのもライアスは知っている。

 エルレシア姫は、美し過ぎるのだ。今日で十二才になったばかりの彼女は、既にどんな貴婦人も及ばない優美さを身に着けていた。彼女の完璧な顔の造作と動きに、柔らかな唇から奏でられる澄んだ声に、その儚げな憂いを帯びた瞳に、動揺しない男はいない。彼らは必死に劣情を押し隠し、紳士の演技を続けるのだ。

「後二年すれば結婚も出来る年になる。何処の国だって喜んで妃に迎えるだろうな」

 テラスで風に当たっていた男達が談笑している。ライアスは立ち止まる。エルレシア姫のことを言っているのはすぐに分かった。異国の客、服装からすれば東方の領主か豪族だ。

「それよりも俺が妾に欲しいね」

 もう一人の男がニヤニヤ笑いを浮かべる。かなり酔っているようで、手振りもふらついて危なっかしい。

 こめかみに火傷痕の残った、醜悪な男だった。

「お前なんかには無理さ。身の程をわきまえろって」

 最初の男が相手の肩を叩く。その手を払って火傷の男が言う。

「なあに、女なんて一度やっちまえばこっちのもんさ。妾にしたら公務なんか放っぽり出して、夜も昼もやりまくってやるんだがなあ」

 ゲスめ。ライアスの中に冷たい炎が燃え上がった。

 火傷の男の口ぶりに、最初の男も流石に呆れた様子だった。ライアスは周囲の気配を窺いながら、物陰で静かに待つ。

 やがて、最初の男が挨拶してテラスを去った。隅にいた男達も飲み直そうと言いながら広間へ戻っていく。

 テラスには、火傷の男だけが残った。

 ライアスは誰も見ていないことを確認し、音を立てずに男の背後に歩み寄った。男は楽しげに鼻歌を歌っていた。

「許さんぞ」

 低い声でライアスは告げた。振り返ろうとした男の首筋に右の手刀を叩き込む。頚椎の折れる感触。

 男は目を剥いて崩れ落ちた。ライアスは男を持ち上げて柵の向こうへ落とす。城壁を滑り、男の体は堀の中へ沈んでいった。水音にも飛沫にも、パーティーに興ずる人々は気づかない。

 さて。ライアスは警備がてらに宮殿の奥へ歩いた。もう一つ、やるべきことが残っていた。

 エルレシア姫の寝室。姫自身はまだパーティーに出ているし、侍従達も今は姫に付き添っているか下で飲んでいるかだ。

 ライアスは曲げた針金を使って鍵を開け、中に忍び込んだ。テーブルに置かれたランプが室内を淡く照らしている。

 姫のベッドの横に、バスケットの小さな寝床があった。四日前に宮殿に迷い込み、本来なら処分されるところを姫の哀願で救われた生き物。今は傷も回復し、姫のペットの座に収まっている。人前に魔物を連れていく訳にはいかず、ここで姫の帰りを待っている。

 ベルと名づけられたその黒い魔物に、エルレシア姫が口づけしたのを、ライアスは見たのだ。愛玩動物に対し何の気なしに与えた軽いキス。だが、姫の唇と寵愛を手にした存在を、ライアスが許せる筈もなかった。

 バスケットの中の生き物は、起き上がってライアスを見返していた。既に気づいていたのだろう。猫に似ているが長い前足の爪は強靭で、鋭い牙が今、音もなく伸びていく。

 小さな闇の生き物を、ライアスは全力を懸けて捕らえた。抗う爪を篭手が弾く。

 死体は袋詰めにして埋めてしまおう。誰もライアスがやったなどとは思わない筈だ。魔物は人に懐かない。恩を忘れて逃げ出したと皆思うだろう。悲しみに暮れるエルレシア姫を私が慰めよう。

 薄明かりの下、魔物の深みを持った黒い瞳が、ライアスを冷たく見据えていた。

 ライアスは、無限の憎しみを込めて、魔物の首を絞め続けた。

 

 

 あれは殺した。死体を袋に詰めて何度も踏み潰した。土に埋めた。

 だからこのベルリクなどという怪しげな男が、あの時の魔物である筈はない。

 だが稀に、異常な生命力を持つ魔物もいると聞く。人間の姿に化ける魔物もいるとか。しかし、ベルリクがそうだとすれば何故今頃になって姿を現すのか。理屈に合わない。可能性は非常に低い。奴である筈はない……。

「あっはっはっ。あっはっはっはっ」

 高笑いが聞こえ、ライアスは黒ずんでいく空を見上げた。兵士達がざわついている。ローソルド王の顔が厳しさを増した。

「使者が来たようだぜ」

 バラザッドが言った。

「あははははは」

 虚ろな笑い声が近づいてきた。黄色のマントをなびかせて螺旋状に空を降り、水玉模様の服を着たピエロが笑う。

「八人の騎士を確認しました。ははっ、ゲームに応じるということですね」

 十メートルほどの高さまで下り、緩く旋回しながらピエロが念を押した。

「その通りです」

 八人を代表してライアスが答えた。

「それは重畳、重畳。あっはっはっ。地獄王も退屈が凌げると、さぞやお喜びのことでしょう」

「期日と場所を指定して下さい」

「あはは。ここから北へ十二キロの場所に山が出現します。それがゲームのフィールドです。あっはっはっ。明日、天の光が消えるまでに姫と騎士は山の頂上に立ちなさい。夜の訪れと共にゲームの開始です。地獄王があなた方を食らい尽くすために、喜び勇んで行幸なさいます。はは」

「一つ、お伝えしたいことがあります」

「何ですか。あはははは」

「あなたの笑い声はうるさい」

 ライアスは右手を振った。短いモーションで放ったナイフは空飛ぶピエロの顔面へ飛ぶ。

 ピエロがナイフを前歯で噛んで受け止めた。ふぁふぁふぁ。ピエロがまた笑った。

「おっ」

 ピエロが驚きの声を発してナイフを落とす。兵士達のどよめき。

 黒衣のベルリクがピエロの眼前に迫っていた。巨漢モナサムの肩を踏み台にして十メートルの高さへ跳躍したのだ。人間に可能な動きではなかった。

 ピエロの口がすぼめられた。銀色の吐息がベルリクを襲う。ベルリクが振ったマントで吐息が撥ね返された。細身の長剣が閃く。何かがピエロから離れる。

 ステージ上に落ちたのはピエロの右腕だった。爪が刃のように長く伸びている。血は出ていない。

 あっはっはっ。

 ピエロは笑いながら急上昇していく。ベルリクは落下に移っていた。もう一度跳んでも届かないだろう。

 名なしの男が無言で矢をつがえた。狙いを定めるほどの時間を待たず、一見無造作な動きだった。

 ピエロの虚ろな高笑いが止まった。

 一直線に飛んだ矢は、六、七十メートルほどまで昇ったピエロの頭を貫いていた。

 力を失ったピエロの体が広場に落ちてくる。ドシャリと鈍い音がして、敷き詰められた白い煉瓦にピエロは激突した。

「おお……」

 ローソルド王の声は震えていた。

 広場に落ちたものを騎士達は無表情に見つめ、やがてシアン・マリウが口髭を撫でながら呟いた。

「へえ、粘土か」

 地獄王の使者は、灰色の粘土細工に変わっていた。等身大のピエロの粘土。ステージ上に転がる腕もやはり粘土だった。

 地獄王とは何者か。本当に勝てる相手なのか。

 それでもライアスは勝つつもりだった。勝って生き残り、エルレシア姫に求婚するのだ。これは絶好の機会だ。地獄王を倒し姫を救った英雄が婿ならばローソルド王も納得するだろう。他の騎士はゲーム終了までに死んでくれるとありがたい。エルレシア姫を手に入れるためならどんな汚い手段でも使ってみせよう。

 もし、地獄王に勝てぬというのなら。

 エルレシア姫がこの手に入らぬのならば、せめてこの手で殺してやろう。

 煮えたぎる情念を隠し、ライアス・ファンデブルー・デリッセンはただ静かに微笑した。

 

 

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