ふと腕時計を見ると、午後八時二十二分を指していた。
喫茶店の中は、俺達の他にもカップルで埋まっていた。
明美は、さっき見た映画の話をしていた。
「で、結局主人公は死んじゃったけどさ。あれで良かったのかな。伸吾はどう思う」
俺が答えようと口を開いた時、頭の中で変な音が聞こえた。
ピーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
何だ、この音は……。
目の前の明美の顔が、ゆらゆらと薄れていく。
世界が、闇の中へ……
目が覚めた。
薄暗い部屋。何処かであの変な電子音が聞こえている。
ここは……。
突然俺の頭の中に、それまでの、全・て・の・記・憶・が・甦・っ・た。
なんてこった。
ひい、ふう、みい……。
なんと、俺は、二十六重も奥の世界へ潜っていたのだ。
人類は、なんて馬鹿なことをやってるんだろう。俺は溜息をついた。
柔らかいベッドから身を起こす。
長い間、本当の体を動かしていないが、鈍った感じはない。俺が潜っている間、肉体のメンテナンスは、きちんと行われていたようだ。様々なチューブや電極が、目覚める寸前まで俺の体のあちこちに繋がっていた筈だが、今は壁の中に収まっている。
いや、体なんて存在しなかったのかも。俺はコードを繋がれ水槽の中に浮いている脳だけの存在だったかも知れない。この部屋も体も、コンピューターによる疑似的な仮想空間かも知れない。俺が今まで潜っていたような。それとも、脳さえも存在しなくて、俺はただのICのチップ……。ええと、それは奥の世界の話だったか。まだ記憶が混乱していてよく分からない。
ピーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
まだ、あの音が鳴っている。
俺は部屋の隅にあるコンピューターの端末に触れた。
ボタンを押すと、電子音は止んだ。
並んだディスプレイの一つに、男の顔が浮かんだ。見覚えのある顔だ。遠い昔の……。
「おーい、起きたか、ヒロシ。仕事だ、仕事」
それは、現実の俺の名前だった。
同時に、その男が、同僚のマナブであることを思い出していた。
「何だよ。交代までまだ五百年はある筈だろ」
俺は口を尖らせた。
「仮想世界内に、バグが出たんだよ。もしかすると、コンピューターウイルスかも知れん。手伝ってくれよ」
画面上のマナブは、照れ笑いを浮かべた。
「デート中だったんだぜ」
そう言いながら、俺は、この現実世界の何処かに保管されているであろう彼女の本当の肉体のことを思い浮かべていた。いや、もしかしたら、彼、か……。
「緊急呼び出しには、プログラムがお前の行動をシミュレートして、代わりにやってくれてるだろ。気にすんなよ」
「ちぇっ。しょうがねえなあ」
俺はキーボードを叩き始めた。別の画面に、様々なデータが表示される。マナブも向こうでせかせかやっているようだ。
「損傷エリアは、BYR10852からBFH2016か。どんなバグだ」
「空間が消滅する、ヘビィな奴だ。何千人か分のユニットが巻き込まれてるぞ」
「ふうむ。ウイルスの可能性が高いな」
「全く暇な奴もいるもんだ。大人しく夢を見てりゃいいのに。ハッカーは死刑だぜ」
仕事をしながら平気で喋る。脳の一部を改造していて並行作業が出来るのだ。
「夢だけじゃ我慢出来なくなったんだろうさ」
俺は呟いた。
「はは、そりゃ中途半端だぜ。この現実だって……」
「ん。そりゃどういう意味だ」
「え、今、俺、何か言ったか。自分で言ったこと忘れちまった」
「脳の故障か。なにしろ十万年以上も生きてるんだから」
「ははは」
マナブは曖昧に笑った。
俺は、『奥の世界』のことを思い出した。
「……。なあ、二十六重だぜ。世界の中に世界、その中にまた世界。馬鹿らしいと思わねえか」
「人間は、馬鹿なんだよ」
「最初は、ただのゲームから始まったんだよな」
もう、十万年も前のことだ。
「ああ、家庭用ゲーム機。始めの頃は、ブロック崩しとかインベーダーとか」
「それが段々進化してきた」
「何処までもリアルに。視覚と聴覚だけだったものが、やがて五感を支配し、現実と見分けがつかないほどに。バーチャル・リアリティは、完全な仮想世界を造り上げた」
キーボードを打つ手が止まった。だがそれも一瞬。サーチは続く。
「ゲームの本質ってのは、何なんだろうな」
「安全に、欲望を満たす手段。仮想世界で死んでも本人は死なない。何をやっても自分は安全」
「だが、やがて、安全に欲望を満たすことに、人々は飽きてくる。障害がないってのは、考えてみると、つまらない」
「そして、ゲーム内に障害を設定する。障害を乗り越えて目標を達成する喜びを得るために」
「失敗するかも知れないという、緊張感とスリルが欲しい。」
「でも、ゲームを続けるにつれ、人々は物足りなくなっていく。何しろ、科学が進歩しすぎて、もう人類にはやることがなくなっちまったんだから。或いは、何もしてはいけなくなった。狭い惑星に二百億の人類。しかも不老不死。ぎゅうぎゅうだもんな」
「そう。どんどんゲームの中の障害は大きく強くなる。でもまだ足りない。やり込めばいつかはクリア出来るという安心感が、邪魔になる。もっとスリルが欲しい」
「変な話だよな。安全のためのゲームなのに、危険を求めるなんてな」
マナブは笑った。
「そこで、完全に無情な、現実世界と同じ条件の仮想世界の完成だ」
「ついでだから皆の世界を繋いで、一大仮想ネットワーク世界が構築される」
「どうせゲームだからなんていう安易な気持ちも消すために、仮想世界内では、現実の記憶は封印される。そうして、世界の中に、もう一つの世界が出来上がる。現実世界には一部の管理者を除いて、空っぽの肉体と機械だけ。意識はコンピューターの仮想世界の中で、皆暮らしている」
「それだけで終われば良かったのに」
俺も同感だ。
「仮想世界の中に、更にもう一つ仮想世界が出来るなんてな」
「人間の、安全と欲望とスリルへの渇望は、留まるところを知らない」
「仮想世界の中の科学技術の進歩がいけないな」
「まあ、出来ちまったんだから、しょうがねえやな」
マナブは肩をすくめた。
「だからって、もう既に二十六もの入れ子構造だ。間の世界に何の意味があるのか。人類、馬鹿の極致」
「この先どこまで進むことやら」
「おっと、見つけたぞ」
俺は画面の文字を読み出した。
「システムプログラムFの、mOndの165。これがウィルスだな」
マナブも検索している。
「分かった。これと同じプログラムを消去するようなプロテクターを組むよ。増殖してるかも知れないからな。ありがとうよ。後は俺がやる」
「じゃあ、俺はまた潜るよ。二十六階層奥にな」
「デートの続きを楽しみなよ」
「もう起こすんじゃねえぞ」
俺は端末のスイッチを切ると、ベッドに寝転がった。
目を閉じる。
何かが額に触れた。
感覚が、薄れていく……
「どうしたの」
明美の声に、俺は我に返った。
「さっきから何かぼーっとしてて、おかしかったわよ」
「そうか」
俺は頭を振った。
何か重大なことを忘れてしまったような気がする。でもそれが何なのか分からない。
まあいいか。
腕時計は、八時五十五分。
そうだ、好きなCDの話をしてたんだ。
「俺はどちらかというとアン・・・」
ブーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーン。
何だ、この音は。
視界が……
俺は目覚めた。
眩いほどの光。目が慣れるのに暫くかかった。
周囲を、稲妻のような光が踊っている。
ここは……。
突然俺の頭の中に、それまでの、全・て・の・記・憶・が・甦・っ・た。
なんてこった。
ひい、ふう、みい……。
なんと、俺は今まで四百八重も奥の世界で……