殺人鬼の宴

 

  一

 

 猫がいる。

 黒と白の斑を持った、若い猫だ。毛並みも顔つきも、非の打ち所がない、完璧な美しさと可愛らしさ。静かな裏通りの真ん中を、尻尾を立てて歩く姿は優雅だった。

 その動きが、ふと止まる。

 猫の前に、人間の足が二本立っていた。薄汚いスニーカーに色褪せたジーンズ。猫がキョトンとした顔で見上げるにつれ、白いロング・コートが見えてくる。サラリーマンなんかが着るような高級品ではない、若者向けの安物コート。まだ秋に入ったばかりなのに、その人物はコートのボタンをしっかりと留めている。若者はコートのポケットに両手を突っ込んでいる。

 その上に、若い男の顔があった。二十才くらいに見える。髪は自分で切ったのかアンバランスで、整髪料も使っていないようでボサボサになっている。髭だけは剃っているようだ。

 若者の顔は青白く、無表情だった。冷たい瞳がゆっくりと、猫の方へと向いた。

 ニャオン。

 猫が鳴いた。

 若者の足元に、猫が体を擦りつけた。

 若者の肩がビクリと震えた。

 もう一度、猫が鳴いてみせる。媚を売り、餌をねだるように。

 若者が、ポケットから両手を抜き、猫へと近づけていく。その動作は何処かぎこちなく、緊張しているようでもあった。小動物に触れることに、慣れていないのかも知れない。

 右手が、猫の頭に触れた。そっと撫でる。猫は大人しくしていた。

 若者の瞳が、僅かに和んだ。

 ふと思い出したように、若者は猫の喉を撫でてみた。猫は気持ち良さそうに目を細めた。

 若者が微笑を見せた。それまでの荒んだ雰囲気には似合わない、優しい笑みだった。

 だが、それはすぐに消え、代わりに別の表情が浮かんできた。

 それは、恐怖、だろうか。

 或いは、憎悪、であったのかも知れない。

 若者の変化に、猫は気づかない。そのまま撫でられるに任せている。

 若者の両手が、震えながら、猫の頭部を挟んだ。最初は軽く。

 猫は困ったような顔で、再び鳴いてみせた。

 十秒ほど、若者は、そのまま動かなかった。若者は歯を食い縛り、頬を引き攣らせ、目を大きく見開いて目の前の可愛らしい猫を睨んでいた。

 ニャオン。

 猫が四度目に鳴いた時、若者は両手に渾身の力を込めた。

 ギャブッ。

 猫の体が激しく暴れた。前足の爪が若者の手を引っ掻いたが、若者は手を緩めず、更に強い力を込め続けた。

 赤い液体が、両手の間から滴っていく。

 ビクンビクン、と、猫の体が痙攣し、そして、動かなくなった。

 その時になってやっと、若者は手を離した。

 完璧な可愛らしさと優雅さを誇っていた猫の頭は、潰れた肉塊に変わっていた。はみ出した眼球の後を追って、脳の一部が流れ出す。

 若者は、自分の行為の結果を見つめていた。

「現実とはこんなものだ」

 そう呟く若者の顔が、泣きそうに歪んでいた。

 ふ、と、無表情に戻ると、若者は血のついた両手をポケットに戻し、歩き去っていった。

 後には猫の醜い死骸だけが残された。

 

 

  二

 

「人間はストーリーに酔うが、現実はストーリーに酔ってはくれない」

 忍び込んだ他人の家の庭で、若者は小さく声に出した。

 若者は、木の影から無表情に、家の中の様子を見守っていた。

 サッシ越しに、四人家族の楽しい夕食が進んでいる。

 三十代半ばの夫婦。十才くらいの息子。八才くらいの娘。

 誰の顔にも笑顔が見える。笑い声が、若者のところまで届いてくる。

 若者の顔に、怯えの表情が浮かぶ。

 一枚のサッシが、二つの世界を隔てている。

 闇の底から、若者は、憎悪の視線を幸福そうな家族に向けた。

「最後には絶対、愛が勝つと思っているんだろう」

 若者は、低い声でそう呟いた。

 コートのボタンを外し、若者は右手を懐に入れた。

 抜き出した時、その手には幅広の斧が握られていた。

 若者は、水入らずの団欒へ向かって無造作に歩き出した。

 鍵の掛かっていなかったサッシは、カラカラと心地よい音を立てて開いた。

 家族の会話が止まり、土足で上がり込んだ見知らぬ若者に、皆の視線が集中した。

 何が起こっているのか、分かっていない顔だった。

 若者は、にこやかな笑顔を浮かべ、大声で挨拶した。

「こんちはー!」

 同時に、彼は狂暴な力で斧を振った。

「あ」

「ちょっと」

「何」

「キャ」

 四つの首が宙を飛んだ。彼らは悲鳴を上げる暇も、椅子から立ち上がる暇もなかった。

 茶碗と箸を持ったまま、四つの胴体は、首の切断面から血を噴き出させながら座っていた。

「見ろ、これが現実だ」

 若者は、泣きそうな顔で言った。

 しかしそこには、彼の話を聞く者はいない。

 

 

  三

 

 若者は、講義室の最後列の席に座っていた。彼は屋内でも、白いコートを脱がない。

 教授のお喋りが続いている。時に講義室が爆笑の渦に呑み込まれることもある。

 だが彼だけは笑わない。

 若者は、教授の話を聞いていない。ノートは広げているだけで、何も書き込まれていない。若者は皆の背後から無表情に、彼らの馬鹿笑い、にやけた私語、幸せそうな居眠りを観察している。

 ふいに、若者の顔に、怯えと怒りの影が差すことがある。だがそれも一瞬で、元の無表情に戻っていく。

 単調な時間が過ぎ、皆、テキストとノートを閉じて帰り支度を始める。若者も薄い鞄にノートを放り込む。

「おい、上条」

 声に若者が振り返ると、クラスメイトの男が立っていた。

「今度の金曜、合コンがあるんだ。お前も出ないか」

「……」

 若者はゆっくりと顔を上げた。冷たい視線に、相手は少したじろいだ。

「な、何だよ」

 クラスメイトの言葉を無視して、若者は鞄を肩にかけると、出口の扉へと向かった。

「あいつ、絶対変だよ。死人みたいな顔しやがって」

 男の声は、若者の背に届いていた。

 別の、女の声が応じていた。

「分かってあげなさいよ。上条君は、あの事故のショックからまだ立ち直ってないのよ」

 若者は振り返らずに、講義室を出ていった。

 

 

  四

 

 狭いラーメン屋のカウンターに、若者はいた。

 もう、夜の十時を過ぎている。

 若者の他には、三人の客がいた。皆、カウンターだ。

 そのうち、ヤクザらしい二人だけが、喧しく大声で喋っている。二人の前にはビールの入ったコップが置かれていた。ヤクザ達の向こう側には背広の男が座っているが、静かにしていて目立たない。

 店にあるテレビでは、ニュースが流れていた。丁度、昨夜の四人家族惨殺事件のことが話題になっていた。

 稀に見る残虐な事件。幼い子供達も巻き添えにして、なんて気の毒な。こんな非人間的な犯人は早く捕まればいい。死刑にすればいい。

 キャスターやコメンテイターは、そんなことを言っていた。

「どうせお前らには他人事だ」

 若者が低く呟いた。

「え、何か言いましたか」

 店主が聞いた。

「いいや」

 若者は無表情に答えた。後は黙ってニュースを眺めていた。

 隣りでは相変わらずヤクザ達が喋っていた。耳障りな声だ。

 ラーメンを食べ終わった若者が、そろそろ立ち上がろうかという時、店内が怒号で震えた。

「何しやがんだ、てめえ!」

 若者が横を見ると、ヤクザの一人が、隣りに座っていた背広の男を殴りつけるところだった。

「す、すみません」

 男は殴られた頬を押さえ、低頭して謝った。

 どうやら、背広の男がうっかりヤクザのコップを倒してしまい、ビールがヤクザの服についたということらしかった。

 男は四十才くらいに見えた。背広は使い古しの安物で、よれよれのネクタイをつけていた。小太りでふっくらした顔は、いかにも気弱そうな雰囲気を発散させていた。オドオドとした視線は、二人のヤクザ、そして店主を交互にさ迷っている。

「どうしてくれるんだよ、え」

 ヤクザの着ていたのは派手な色合いのアロハシャツだった。布巾で拭けばそれで済むだけの話だが、相手の低姿勢にいけると思ったらしく、ヤクザは居丈高になっていた。

「ク、ク、クリーニング代、出します」

 小太りの男は財布を開き、一万円札を出した。

 ヤクザはすかさずひったくる。

 坊主頭の相棒が口を挟んだ。

「てめえ、これくらいで足りると思ってんのかよ。財布を見せてみろ」

 小太りの男は情けない顔になった。

 その時になって漸く、店主が声をかけた。

「お客さん、店の中でゴタゴタは困りますよ」

 ヤクザは舌打ちしてそっぽを向いた。

 ヤクザ達が目を逸らした、その一瞬。

 小太りの男の顔が豹変した。眉間と鼻筋に皺を寄せ、歯を剥いてヤクザ達を睨みつけるその目は、粘質な昏い憎悪に煮立っていた。それは、狂気の色に似ていた。

 だが、鬼の顔はすぐに消えた。

「か、勘定を……」

 消え入りそうな声でそう言うと、小太りの男はラーメン代を払い、そそくさと店を出ていった。

 男のもう一つの顔を目撃したのは、若者だけだった。

 三十秒ほど待って、若者は立ち上がった。

 千円札を出し、釣りをもらうと、無言で出ていった。

「親父、ビールもう一本」

 不機嫌そうなヤクザの声が聞こえていた。

 

 

  五

 

 ラーメン屋から二人のヤクザが出てきた。

 十一時半に近かった。

 酔っ払っているというほどでもないが、酒の入った二人の顔は赤く上気していた。

 二人はまだ大きな声で喋っていた。話題の中には、殴られて簡単に金を出した気弱な男のこともあった。二人はさも可笑しそうに笑った。

 細い通りは薄暗かった。もう、人の姿はない。

 二人の大声だけが、夜の静寂を乱していた。

 曲がり角に差しかかった時、坊主頭の方がもう一方に喋りかけた。

「それで事務所……」

 坊主頭は、続きを言うことが出来なかった。突然物陰から横殴りに襲った鉄パイプが、男の首筋に凄い勢いで叩きつけられたからだ。ゴキョン、と、嫌な音がして、男の首が奇妙な角度に曲がった。

 首の骨が折れたのだ。

「うおおおっ!?」

 アロハシャツの男が驚いて後じさるのを、坊主頭が曲がった首で不思議そうに見ていた。そのまま、前のめりに、倒れていく。

 陰から、鉄パイプを持った男がゆっくりと姿を見せた。

 一万円を差し出した、あの小太りの男だった。

 男は、倒れ伏した坊主頭に、鉄パイプを振り下ろした。

 坊主頭のこめかみに当たった凶器は、側頭骨を破壊して眼球を飛び出させた。

「な、なな、な……」

 アロハシャツが、シャツの下に隠していた短刀を、震える手で引き抜いた。彼はまだ、人を刺したことも、刺されたこともないのだろう。

「一万円じゃ、足りないか」

 小太りの男が低い声で言った。ラーメン屋で平謝りしていた時の声とは別人だった。

 男の額には、何本も青筋が浮いていた。狂暴に歪んだ笑みと血走った目は、それだけで相手をショック死させかねない視線を放っていた。

「く、くるくるくる、く、来るな。来るんじゃねえ!」

 アロハシャツは無意味に短刀を振り回した。

 小太りの男は、余裕の足取りでアロハシャツに迫っていった。

「あややややあ!」

 無我夢中で突き出された短刀を、それを握る右手首ごと、鉄パイプが上から叩いた。短刀が地面に落ちた。小太りの男の動きは、まるで洗練されていない無造作なものだったが、その速度とパワーは異常だった。

「あいいいいいいっ、手、手があ、俺の手があ!」

 アロハシャツの手首がぐにゃりと垂れていた。

「一万円で駄目なら、君は何が欲しいのかな、んん」

 小太りの男から逃げようとして、アロハシャツは尻餅をついた。

「ひいいいいい!」

 アロハシャツは情けない悲鳴を上げた。一時間前と、立場が逆転していた。

「そうか、これが欲しいか」

 小太りの男は、鉄パイプを撫でた。

「いや、や、違います、たす、助けて!」

「遠慮しなくてもいいからね」

 男の台詞は丁寧だったが、その顔は悪鬼のものだった。

 鉄パイプを両手に握り締め、小太りの男は高く振り上げた。

 それは唸りと共に振り下ろされた。

 潰れた悲鳴。肉がひしゃげ、骨が砕ける音。

 小太りの男はすぐにまた鉄パイプを振り上げた。

 また振り下ろした。

 また振り上げた。

 そしてまた……。

 小太りの男は、何度も、何度も、それを繰り返した。

 アロハシャツの悲鳴は、次第に小さくなっていった。

 やがて鉄パイプの猛攻が止んだ時、血塗れのアロハシャツは、まだ、弱い息をしていた。

 男は鉄パイプを投げ捨てた。

 懐に手を入れる。

 取り出したのは、皮製の黒い手袋だった。

 優雅な動作で、男はそれを両手に填めた。

 再び懐に手を入れる。

 スルスルと、細い線が引き出された。しなやかな金属の線だ。

 ピアノ線だった。

 背広の中に、それをいつも仕込んでいるのだろうか。

 男は、その両端を握った。

 蹲る瀕死のアロハシャツの首に、ゆっくりと、巻きつける。

 男は、両側に引いた。

 アロハシャツの顔が、紫色に膨れていく。もがこうとするが、グチャグチャに骨折した手足は言うことを聞かないようだった。

 男の顔は、夢見るようなうっとりとした表情に変わっていた。

 アロハシャツが痙攣し、そして動かなくなっても、男は締め続けていた。快楽の余韻に浸るように。

 やがて、アロハシャツの首筋から、血が流れ出した。

 肉を破った細いピアノ線が、頚静脈まで達したらしい。

 それに気がついて、漸く男は手の力を緩めた。

 食い込んだピアノ線を引き剥がし、ティッシュペーパーで丁寧に拭いてから、背広の内側に収めた。

 手袋を外しながら、男はアロハシャツの動かぬ死体を蹴りつけた。アロハシャツが転がって、膨れた舌を突き出した醜い死に顔が上を向いた。

「クク、クククク」

 初めて、男が笑った。

「クク、ハハ、ハハハハハハ」

 腹を抱えて笑い出したその時、男の背後で気配が動いた。

 ビクリと振り向きながら飛び退く男の鼻先を、重い刃が掠めていった。それは分厚い斧だった。一瞬でも遅れていたら、男は脳天を割られていただろう。男は慌てて鉄パイプを拾い上げた。間髪入れずに襲う第二撃を、男の鉄パイプが弾いた。

 男の目に、斧を握ってゆらりと立つ、痩せた若者の姿が見えた。

 白いロングコートを着た、病的に青白い顔をした若者だった。ラーメン屋で見た顔だ。彼の目は、冷たい殺意に光っていた。

「わ、わわ私を、こ、殺そうとしたなお前は!」

 鉄パイプを構えながら、男の声は震えていた。自分が殺されかけたということが信じられないのだろう、男の引き攣った顔には恐怖と怒りがごっちゃになっていた。

 それに対し、若者はぼそぼそと低い声で応じた。

「……お前……調子に乗っていただろう……」

「な、何?」

「間違いない。お前は、自己陶酔に浸っていた。自分の行為に、酔いしれていた。俺は、最初から、見ていたんだぞ」

 若者の声が強くなった。

「それがどうした」

「酔いを醒ましてやる」

 若者の言葉に、男はあっけに取られたようだった。

 その時、若者の後方から初老の男が歩いてきた。コンビニからの帰りなのか、ビニール袋を提げている。

「うわっ、ひ、人殺しだ!」

 初老の男は、凶器を持った二人の男と地面に転がる死体を見て、袋を取り落として叫んだ。その怯えうろたえる顔に、若者は何を感じたのか、唇を歪めた。

「け、警察を……」

 走り去ろうとする初老の男を、若者が魔性の速さで追った。大きく振りかぶられた斧が、男の背中に向かって振り下ろされた。

「グフッ」

 斧は男の背中に深く減り込んだ。初老の男はそのまま前のめりに倒れた。若者は男の背中を踏んづけてから斧を引き抜いた。そして、もう一度、斧を振り下ろした。

 初老の男の首が地面を転がった。

 自分以外の殺人行為を見つめる小太りの男の表情に、少しずつ、落ち着きとふてぶてしさが戻ってきた。

 若者が振り向き、青白い憎悪の顔を再び小太りの男に向けた。

「こいつは平和に酔っていた」

 足元の首なし死体を指差して、若者は言った。

「お前は、昨日、四人家族の首を切り落としたな」

 小太りの男が聞いた。

「彼らは、愛と幸福に酔っていた」

 若者が答えた。

「……。長居し過ぎたようだ。そろそろ退散しよう。だが一つ言っておくぞ」

 男の目が、ギラリと狂暴な光を放った。

「私を殺そうとしたお前を、私は絶対に許さないぞ。次に会った時は、絶対にいたぶり殺してやるからな。こいつみたいに」

 そう言って、男はアロハシャツの死体を蹴り上げた。死体が一瞬浮いた。異常な力だった。

「それは俺の台詞だ」

 若者は昏い視線を返した。

「お前の脳天をかち割って、現実というものを教えてやる」

 そう言うと、若者はすぐに背を向けて走り出した。

 小太りの男も、指紋をハンカチで拭き取ると、鉄パイプを放り捨てた。

 男も、闇の中へ消えていく。

 そこには、三つの死体だけが残された。

 

 

  六

 

 午前零時。

 小太りの男は住宅街にいた。似たような屋敷が並ぶ中で、一つの門を男は潜った。大きな家ではない。玄関の表札には、大村、となっていた。

 窓からは明かりが洩れていたが、男は鍵を取り出し、自分で玄関のドアを開けた。

「ただいま」

 靴を脱ぎながら、男は言った。居間の方からテレビの音が聞こえているが、帰ってきた男を迎えに出る者はない。男の声は、それを知っている声でもあった。

 居間ではでっぷりと太った女が寝転んでスナック菓子を食べながらテレビを見ていた。

「ただいま」

 男は言った。

 男の妻である女は、首だけ動かして男の方を向いた。正面から鼻の穴が見える、豚に似た顔だった。

「フン」

 女の返事はそれだけだった。そしてすぐにテレビへと顔を戻す。

「……。私のご飯はあるかな」

 男が恐る恐る尋ねた。

「ないに決まってるでしょうが。いつもこんな遅く帰ってきて。どうせ食べてきてるんでしょう。全く、出世もしないのに残業ばかり。馬鹿みたい」

 女の口調には軽蔑が含まれていた。

「……」

 男は黙って廊下を進んだ。男が居間でくつろぐ機会は殆どない。

 隣りの部屋には、もう一つテレビがあった。テレビのすぐ前に顔を近づけてテレビゲームをやっている少年は、男の息子であった。

「もう遅いぞ、孝昭。お前もそろそろ寝た方がいい。学校があるだろう」

 男は、少年の背に声をかけた。

「うるせえな。邪魔すんなよ」

 少年は振り向いた。眼鏡の奥の瞳には、殺意さえ認められ、男は怯んだ。

「自分だってこんな時間に帰ってきて、威張んじゃねえよ」

 男は気弱に返した。

「わ、悪い悪い」

 少年は再びテレビゲームに没頭し始めた。

 男は二階に上った。何故二階の部屋が男の部屋なのかというと、ここが一番狭い部屋であったからだ。

 部屋には、小さな机と本棚、箪笥、古いラジカセがあった。布団は敷きっ放しだ。妻が彼の部屋を片付けてくれることはない。

 男は背広を脱ぎ、ハンガーに掛けた。ネクタイを外し、カッターを脱ぐと、意外に逞しい肉体が現れた。確かに分厚い脂肪は彼の皮膚の下に埋まっているが、更にその下には異常に発達した筋肉の束が存在した。

 男はラジカセの電源を入れた。適当に周波数を調節し、ポップスの流れている局を選ぶ。

 男はパンツ一枚になると、床に両手をついて、腕立て伏せを始めた。

 黙々と二百回をこなし、次に腹筋に移る。

 それも二百回を過ぎると、男はスクワットに移った。

 二百回。音楽を聴きながら、男はテンポを崩さずに最後までやってのけた。

 男は荒い息をついて一休みをした。

 五年前から続けている、風呂の前の日課であった。

 呼吸が整ってくると、男は片隅に置かれたダンベルを二つ握り締めた。

 男は、両腕を様々に動かし始めた。うっすらと汗をかいていた。

 男は、トレーニングを続けながら、ぶつぶつと独り言を呟いていた。

「全くこの世は糞野郎ばかりだ、誰も彼もが俺を馬鹿にしやがる、俺は精一杯やってきたんだ、誰にも迷惑をかけた覚えはないぞ、皆が幸せになるように、物事が円満に進むように頑張ってきたんだ、なのに奴らは俺がちょっと大人しい顔をしているとつけあがりやがる、俺を軽視し蔑みやがる、そうだ、俺は気づいたんだ、人間関係は戦いだ、奴らは常に相手を引きずり落とす機会を窺ってやがる、皆、自分が一番可愛いんだ、自分が一番偉いと思っているんだ、負けてたまるか、俺が一番偉いんだ、お前らを叩き潰してやる、お前らの高慢な鼻をへし折ってやるぞ、全く糞野郎糞野郎糞野郎ばかり、皆殺しにしてやる、俺が人類の頂点に立ってやる、負けてたまるか、俺が一番偉い、俺が、俺が、俺が……」

 

 

  七

 

 暗い部屋。

 闇の中に蹲る影。

 若者は、膝を抱えて座っている。

 彼は目を見開いて、闇を見つめている。

 闇の中に、更に深い闇を見つめている。

 若い女の顔。

 彼女は笑顔を浮かべている。

 並んで歩いている男の顔は、若者のものだった。

 その顔も、幸せそうに笑っている。

 暴走するトラックが二人を撥ね飛ばしたのは次の瞬間のことだ。

 左足と肋骨を骨折し、血を吐きながら若者は起き上がる。

 最愛の恋人の姿を求めて。

「恵美子!」

 半年前の若者が叫ぶ情景を、現在の若者は見つめている。

 道路に転がる血みどろの物体が、彼女であった。

 凍りつく若者の前で、それが、もぞりと動く。

 彼女が顔を上げた。

 顔の片側が潰れ、眼球が糸を引いてぶら下がっていた。頭蓋骨の一部が見えている。

「け……健治……」

 彼女が、弱々しい声で、若者の名を呼ぶ。

 若者は、返事が出来ずにいる。若者は信じられない。愛した女性がこんな化け物に変化したことが、信じられない。

 だが、彼女は、残った片方の目で、若者を探し当てる。

 ズルズル。ズルズル。

 彼女は、へし折れた手足とはみ出した内臓を引きずりながら、若者の方へと這っていく。

 若者は、声にならない悲鳴を上げる。逃げようとするが、体が思うように動かない。

 ズルズル。ズルズル。

 彼女の血塗れの手が、若者の足に触れる。

「うわわわわわわ」

 若者が叫ぶ。

 世界で一番愛していた女、永遠に愛し抜くつもりであった女を、若者は折れていない方の足で蹴りつける。

 彼女が悲鳴を上げる。獣のような悲鳴を。そして、若者の足に、むしゃぶりつこうとする。

 若者はパニックに陥る。彼は渾身の力で、彼女の崩れた顔を蹴りつける。狂ったように、蹴り続ける。

 そして、いつの間にか、彼女は死んでいる。

 グチャグチャの肉塊になって、死んでいる。

 若者は、悲鳴を上げている。

 涙を流しながら、悲鳴を上げ続けている。

 闇の中で蹲り、現在の若者が、過去の自分を見つめている。

 果てしなく繰り返される場面を、瞬きもせずに、見つめている。

 

 

  八

 

 サラリーマン達が家路につく夕方。

 朱色の雑踏の中に、若者は埋もれている。

 あの日から、二週間ほどが過ぎていた。

 その間に、この町で三つの事件が起こった。

 公園で若いカップルが惨殺された事件。女は首を切り落とされ、男は頭をかち割られた。

 登校中の小学生三人が襲われた事件。二人が即死、一人は背中を裂かれ、六時間後に死んだ。

 帰宅途中の大学教授が絞殺された事件。テレビにもしばしば出演していた有名な教授だった。

 前の二つは、若者がやったものだった。

 最後のものは、おそらくあの小太りの男の仕業なのだろう。

 特に当てもなく歩きながら、若者は無表情に群衆を眺めている。

 まるで別世界の映像のように、眺めている。

 時にふと、若者は険しい表情を見せることがある。怒りを通り越し、それは殺意に近かった。

 若者がそんな顔をするのは、すれ違う人々の中に、幸せそうな笑顔を認めた時に多かった。

 だが人の流れは止まらない。若者もこの人込みの中で、振り返って追いかけていくことまではしない。

 若者はゆらゆらと歩いていた。コートの中に納められた斧も、今日は血を吸う機会はなさそうだった。

 と、若者の目が大きく見開かれた。

 若者の視線の先に、こちらへ向かって歩いてくる一人の女がいた。同じ顔をした有象無象の中で、彼女だけが特別な輝きを持っていた。口を半開きにして振り返る者も多かった。

 年齢は、二十代の半ばといったところか。信じられないくらい見事なプロポーションを持っていた。大胆に胸元の開いた黒いワンピースに、銀色の首飾りがアクセントになっている。艶のある長い黒髪は、軽くウェーブして背中まで伸びていた。

 女は美しかった。並みの女優では歯が立たないほどに整った顔だった。それは整形で得たような画一的な美貌ではなく、強烈な個性を放っていた。一際目立つのは、常に微笑を浮かべているように見える唇と、吸い込まれそうに深い色を持った瞳だった。

 女の美しさは、ある種、魔的ともいえた。

 若者の目と、女の目が一瞬合った。

 呆然と見ている若者に、女は軽くウインクをしてみせた。非の打ち所のない、完成された仕草だった。

 若者の表情が止まった。瞬きもせぬ彼の横を、女は悠々とすれ違っていった。

 五秒後、堪え切れなくなったように、若者の顔がヒクヒクと歪んだ。

「あいつは、自分に酔っている」

 若者は、確認するように、誰にともなく呟いた。

 すぐに振り返ると、人込みの中に女の黒い後姿が見つかった。

 若者は、幽鬼のような足取りで、その後を追った。

 今夜の獲物が見つかったのだ。

 その若者の背を、立ち止まって見つめている者があった。

 地味な背広を着た、小太りの男だった。

 男も、今日初めて女を見かけ、その後を尾けていたのだ。勿論、その目的は決まっている。

 途中で、あの若者も同じ女を尾けることになるとは、何という偶然だろうか。

 女は、尾けられていることを知らない。

 若者も、男に見られていることを知らない。

 全てを知っているのは男だけだ。

 男は無表情に立っていたが、ふっと残忍な笑みを浮かべた。何も知らぬ通行人をギョッとさせる笑みだった。吊り上げた唇の間から、糸を引いた歯列が覗いた。

 少し待ち、男は距離を保ちながら若者の後についていった。男の視野には、女と若者の二人が収まっている。

 

 

  九

 

 空が薄い闇に変わっていた。

 列車で三十分ほどの住宅街に女の屋敷はあった。庭も広い、二階建ての洒落た造りだ。女が入るまで明かりがついていなかったのは、女が一人で暮らしている可能性を示唆していた。

 五分ほど、若者は屋敷の様子を観察していた。それから周囲を見回し、人気のないことを確認すると無造作に玄関へ向かった。彼は気の長い方ではない。

 玄関の表札には、美月となっていた。女に相応しい名字のように思われた。

 若者は独り頷くと、インターホンのボタンを押した。

 十数秒の時間が流れた。その間、若者は無表情に待った。

 やがて、女の声が届いた。色香を感じさせる、しっとりと滑らかな声だった。

「はい、どなたかしら」

 若者は抑揚のない声で答えた。

「宅配便です。遅くなって申し訳ありません。印鑑をお願いします」

 少しの間、沈黙が流れた。宅配便など頼んだか、誰からのものなのか、記憶を巡らせているのだろう。

 そして、女は言った。

「ちょっと待って」

 若者はコートのボタンを外し、内側に右手を差し入れた。

 足音が聞こえてくる。若者の手には、赤い柄の斧が握られていた。

 木製の扉の向こうで、ドアチェーンのかかる音がした。

 さて。その次だ。

 ガチャッ。

 ドアが開いて、女の顔が覗いたその時、若者は渾身の力で斧を振った。

「今晩はああ!」

「キャア!」

 女は悲鳴を上げながらも素早く顔を退いた。分厚い刃は女の鼻先を通り過ぎ、一撃でドアチェーンを切断した。

 若者は乱暴に扉を開けた。女が奥へと逃げていくところだった。

「お邪魔しまあああす!」

 若者は怒鳴りながら、土足で中に上がり込んだ。斧を振り上げ、走って女を追いかける。再び振られた斧は、女の背中を掠めただけだった。

 女は明かりのついた部屋へと駆け込んだ。若者も続いて入る。そこは床張りのリビングになっていた。テレビやミニコンポ、真ん中にはソファーと低いテーブルが置かれている。庭に面したサッシは内外の明るさの関係で鏡になり、逃げ走る女と、斧を振りかざして迫る青白い顔の若者の姿が映っていた。

 サッシから外へ出ようとしたのか、女がロック部分に触れた。その腕を、若者の左手が掴んだ。

 女はなす術もなく震えていた。女の顔に浮かんだ恐怖の表情は、しかし、女の美しさを損なわず、更に輝きを際立たせていた。

 若者は顔を憎悪に歪めた。女が醜くならないことが、彼には腹立たしいらしかった。

「あんたは、酔っている」

 若者は低い声で告げた。

「……あんたは、自分の美しさに酔っていたろう。全てのことが、自分の思い通りになると思っていただろう。あんたが否定しても、俺には分かっているんだ」

 女は何も言わなかった。或いは、何も言えないのか。

 若者は昏い狂気の瞳が、女の美しい瞳を覗き込んだ。若者は感情を押し殺した声で、早口に捲し立てた。

「……あんたは現実というものを知らない。現実は無情なんだ。人間はストーリーに酔うが、現実はストーリーに酔ってはくれない。現実は、人間の勝手なストーリーなど少しも考慮してくれない。現実という奴は、人間をいとも簡単に叩き潰す。そしてそのことに気づきもしない。現実は無情だ。現実は恐ろしい。でも俺がこんなに現実の無情さに怯えているというのに、他の奴らは何をしているんだ。皆、人生という自分のストーリーに酔っている。現実の無情さに気づいていないし、それを知ろうともしない。だから俺は、皆の目を覚まさせてやっているんだ」

 若者は聞いた。

「あんたも、現実の無情さを知らないんだろ。俺が教えてやるよ」

 女の腕を左手で掴んだまま、若者は、ゆっくりと、斧を振り上げた。

 斧が、下りかけたところで止まった。

 女の顔から恐怖が溶けていき、次第に不思議な表情に変化していったからだ。

 歓喜、とも取れる表情であった。

 逆に、若者の顔に怯えが走った。

 だが躊躇は一瞬だった。若者は女の顔を目掛けて、分厚い斧を振り下ろそうとした。それは女の整った顔をただの肉塊に変える筈であった。若者がかつて愛した、恵美子という女と同じように。

 その時、凄まじい音と共にサッシのガラスが砕け散った。若者の右肩に減り込んだのは、古いゴルフ用のドライバーだった。激痛に顔を歪め、若者が斧を取り落とした。右の鎖骨が折れていた。燃えないゴミ置き場から拾ってきたドライバーを握るのは、へらへらとした笑みを浮かべた小太りの男だった。中からはサッシは鏡になって、外から近づく男が若者には見えなかったのだ。女も悲鳴を上げたところをみると、彼女も気がつかなかったのだろう。

「逃げるなよ、お嬢さん」

 サッシを蹴破って部屋に上がり込み、若者の背に容赦ない一撃を加えながら、男が女に言った。

「こいつを殺した後は、君の番だからね。君の思い上がった美しさには、私がお仕置きをしてやらねばならない」

 女は数歩退がったが、逃げようとはしなかった。例の不思議な表情を浮かべたまま、二人の男を見守っていた。

 床に落ちた斧を拾おうと若者が伸ばした左手を、男の足が踏みつけた。ドライバーを大きく振りかぶり、得意顔に男が若者目掛けて振り下ろした。

「自分が世界で一番偉いと思ってるだろ。そんなことはこの私が許さないよ。何故なら、世界で一番偉いのはこの私だからだ」

 若者の背骨が軋んだ。グハッ、と若者の口から息が洩れた。

「全く、こいつは、俺を殺そうとしやがった。この俺を、そこらの虫けらと同じように殺そうとしやがったんだ。許さない。許さないぞ。許さない、許さない、許さない……」

 口調が変わっていた。蹲った若者に、小太りの男は、何度も、何度も、ドライバーを振り下ろした。男の額には青筋が浮き上がり、凄い形相になっていた。身を庇おうとして上げた若者の前腕が、ドライバーの打撃を受けて骨折した。

 バキン。若者のこめかみにぶち当たった拍子に、ドライバーの首の部分がへし折れ、壁に飛んだ。

「フンッ」

 折れて尖った先端を、小太りの男が若者の背に突き立てた。背中の右側を貫通し、胸まで抜けた。若者は力尽きたらしく、床にうつ伏せに倒れた。若者のコートにじわじわと血の染みが広がっていく。

 小太りの男は残忍な笑みを浮かべた。若者の後ろに回り、懐から手袋を取り出した。

 優雅な動作で手袋を填めると、再び懐に手を入れた。

 取り出された細いピアノ線を見ても、女は表情を変えなかった。

 それが若者の首に巻かれるのを見ても、女は表情を変えなかった。

 女は喜びに潤んだ瞳で、男の行為に見入っていた。次は自身の首に巻かれることを、女は理解しているのだろうか。

 若者の上半身を無理矢理引き起こし、男はゆっくりと、力を込めていった。同時に、男の顔に、至福の表情が浮かんでいく。他者を、特に優れた者を自分の力で打ち負かすことは、彼が自分という存在を確認する行為でもあった。

 若者の顔が、青黒く膨らんでいった。首筋から、血が流れ始める。

 力を込めながら、男は自己陶酔に浸り、快感を噛み締めるように暫し目を閉じた。

 その目が、カッと見開かれた。

 男は、信じられないという顔で、自分の左足を見た。その部分に火のような感覚が生じたからだ。

 男の革靴の、真ん中辺りが、横にパックリと裂けていた。裂けただけではなく、本体から離れていた。その隙間の床に、若者の左手が握る斧が減り込んでいた。必死の若者の足掻きだった。

 切断された革靴の中には、五本の指と共に男の左足の一部が収まっている。

 じわりじわりと、靴の断面から血が流れ出した。

「アヒイイイイイイイイイッ」

 男が情けない悲鳴を上げた。両手を離し、尻餅をついた。

「足が、足が、僕の足が」

 男は左足を押さえ、泣きそうに顔を歪めた。

「痛い、痛いよう、お母さん、痛いよう」

 実際に、男は泣き出していた。目の前にゆらりと立ちあがる若者の姿も目に入らないように。

 若者の左手は、血のついた斧をしっかりと握っていた。

 若者は何も言わなかった。ただ彼は斧を振り上げた。

 男はただ泣きじゃくっていた。

 若者は、斧を振り下ろした。

 斧は、男の脳天に深く減り込んだ。

「痛い、痛い、いた……い……おか……」

 男の眼球が、裏返った。

 男は、そのまま、息絶えていた。

 若者は、男の胸に足を当て、斧をこじって引き抜いた。男の死体は床に大の字になって転がった。血と脳漿が滲み出していく。

 それが、三十七人を絞殺した大村泰造の最期だった。

 若者は、荒い息をついて、男の死体を見つめていた。

 突然若者は、背を丸め、血を吐いた。右胸を貫通した金属のせいだった。肋骨は五、六本は折れていたし、鎖骨の折れた右肩は痛みのため動かせなかった。

 ぼんやりと、若者は部屋を見回した。まだ、やり残したことが、あるのだ。

 部屋には、女の姿はなかった。

 それは、普通の人間ならば当然の行為だといえた。

 若者は、よろめきながら、女を追おうと部屋の出口へ歩いた。

 だが、そこに女は立っていた。

 片手に盆を捧げ持ち、優しい微笑を若者に向けていた。

 盆の上には、湯気の立つコーヒーカップが置かれていた。

「お疲れ様」

 若者をいたわるように、にこやかに女は言った。

 若者は、目を見開いて、女を見つめていた。

 斧を持つ血塗れの若者を前に、女は、怖れの欠片もなく、あの不思議な表情を浮かべていた。

「……」

 若者は、黙っていた。斧を振り上げることも出来なかった。

「さあ、どうぞ。お砂糖は一杯で良かったかしら」

 女が、コーヒーカップを差し出した。

 少しの間、若者は、黒い液体を眺めた。

 やがて、弱々しく、若者が聞いた。

「……酔っていたのは、俺の方だったのか」

 女は答えなかった。

「……悲劇のストーリーに、酔っていたのは、俺だったのか」

 女はただ、聖母のような微笑みで、若者を見守っていた。

 ゴトン。

 若者の左手から、斧が滑り落ちた。

 のろのろと、若者の手が、コーヒーカップに伸びた。

 女から受け取ると、若者は、カップを口に近づけていった。

 若者が中身を飲み干すのを、女は、好ましげに見つめていた。

「……もう……」

 若者が、何かを言いかけた。

 そして、大量の血を吐き出した。

 若者は大きくよろめいて、壁に手をつき、そのままずるずると床に崩れ落ちていった。

 その瞳から、次第に光が失われていく。

 いつまでも、目を開けたままだった。

 若者の瞳には、女の美しい微笑が映っていた。

 五十二人を斧で惨殺した上条健治は、こうして自分の人生の幕を下ろした。

 コーヒーに入っていた青酸カリの効果を、待つまでもなかったのかも知れない。

 

 

  十

 

 ズル、ズル、ズル。

 重いものを引きずる音。

 女は、若者の足を一生懸命に引っ張って、廊下の奥へと運んでいく。胸に刺さったクラブは抜いてあった。

 一番奥の、倉庫になっている部屋の床には、地下室への隠し扉がある。

 既に、扉は開いている。

 女は、若者の死体を、丁寧に、下へと運んでいった。

 玉の汗をかきながら、女の美しい瞳には紛れもない悦楽の色があった。

 広い地下室は豪華なシャンデリアの光に照らされ、見事な装飾が施されていた。

 耳を澄ませば、微かにエアコンの音が聞こえるだろう。ここは、常に一定の室温に保たれている。

 部屋には、数十個のガラスケースが並んでいた。

 横に長いそれは、丁度中に人間一人が入れる程度の大きさだった。

 そして実際に、そこには人が入っている。

 どれも、男性の死体であった。

 シルクのシーツの上に、男達の死体は、静かに横たわっていた。

 そのうちの一つは、小太りの男の死体だった。

 男の頭頂部の傷は、丁寧に縫い合わされていた。左足の切断された部分も、きちんと繋がっている。

 女は、まだ中身の入っていないガラスケースを開け、慎重に、若者の死体を収めた。

 蓋を閉じて、女は満足げに、若者の顔を見下ろした。

 暫しうっとりと眺めた後で、女は、部屋の他の死体達を見て回ることにした。

 彼女の珠玉のコレクションを。

 そのうちの一つ、ハンサムな若い男の前で、女は立ち止まった。

 女は、真摯な顔で、眠っているような男の死に顔を見つめていた。

「亮一さん」

 女は、若い男の名を呼んだ。

「あなたに愛されるだけで、良かったのに」

 女の目から、涙が零れ落ちていく。

「あなたのせいで、こんなに人を殺さなければならなくなったわ。でも、殺しても殺しても、満足出来ない」

 死体に答えを期待できる筈もない。男は動かなかった。

 最愛の人を含め、二十四人を毒殺した美月麗花の顔から、やがて悲しみは消え、あの不思議な微笑に戻っていった。

 少なくとも、彼らはもう、彼女の手を離れることはないのだ。

 

 

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