急所を一突き

 

  一

 

 無数の光点が浮かんでいる。光点同士は細い線で繋がっている。見ている間にもそれらは絶えず動いている。細い線で繋がっているため光点同士の位置関係はほぼ保たれている。奥の方では川のように流れている光点の連なりもある。

 構造。活動。仕組み。原理。システム。見えているのはそういうものだ。

 光点は幾つかの色に分かれている。赤い光、青い光、黄色い光、紫、緑、茶。それぞれ性質が異なっている筈だが、具体的にどう違うのかというと自分でも分からないしどうでもいい。

 ただ、強く輝く白い光点。それが何なのか分かっている。構造の要。構造を構造たらしめるのに必須の部位。

 つまり、急所だ。

 白い光点は複数存在した。構造の中央に近いところにもあるが、意外に表面や末端にあることも多い。そのうちのどれを刺しても構造は崩れるが、最も短時間で崩壊し、最も効率良く、最も構造の本質に近い、究極の、急所の中の急所を探してしまう。

 真の急所とは、ただ一つであるべきだと思うのだ。

 今見ている構造の二千七百二十の急所のうち、究極に近いものは上部の中央にある光点だろう。重要機能の殆どはそこを経由し、構造の維持活動をそこが統括コントロールしている。この一点を刺すと機能の統合が失われ合目的的な活動が不可能となる。ただし部分部分の活動は若干鈍りつつも惰性のように暫く保たれ、構造が完全に崩壊するまでかなりの時間を要するのだ。

 だがそこに重なって存在する、もう一つの白い輝きを見分けることが出来た。

 それこそが求める究極の急所。細部までが瞬時に機能を失い、完全に無力化する理想の点だった。ただし真っ直ぐそこを突けば良いというものでもない。タイミングと角度、スピードの絶妙な調整が必要で、そこに至るルートも自然に見えて……。

「ゴチュウモンハ」

 構造が音を発し、それが自分へのメッセージだと気づいて裏鋭はモードを切り替えた。

 裏鋭のつくテーブルのそばに、エプロン姿の若い女が立っていた。一般人のウェイトレス。伝票を持ち、微妙に怪訝な表情で裏鋭の様子を窺っている。

 さっきまで光点の集合体として見えていたものが、彼女だった。

「この……ビーフシチュー・セットを」

 メニューを指差しいつもの奴を頼んだ。

「お飲み物はいかがですか」

「水でいい」

 戻っていくウェイトレスの後ろ姿に、裏鋭は二千七百二十個の急所を重ねて見ていた。

 一般的な人体の急所としては首の後ろ上部、盆の窪と呼ばれる箇所の奥にある延髄が定番の一つだ。呼吸中枢があり、ここを刺すと出血による圧迫で呼吸機能が停止し、数秒から一分程度で意識消失、数分で不可逆的な死に至る。胸部やや左にある心臓は最も有名で、狙える範囲の広い急所だ。刃物で破壊すればもっと早いが、針で刺しても心臓からの出血が心外膜との隙間に溜まり、最終的に心臓が膨らめなくなって心タンポナーデで死亡する。他にも大出血を引き起こせる頚動脈、大腿動脈、肝臓、腎臓、呼吸の阻害を目指しての気管、打撃の角度によって脳挫傷を与えられる頭部の各箇所、うまく圧迫するだけで迷走神経反射による血圧低下や心停止を見込める眼球、などなど、人体を熟知していれば急所の数は無数にあった。

 ただし、長さ九センチ三ミリの針一本で狙える急所となると、その候補はかなり限られてくる。延髄、心臓はまだ有効だが、大血管を刺しても大量出血に繋がらず、圧迫止血で生き延びてしまうことも多い。体の浅い場所を走る神経を破壊もしくは刺激することで生命維持機能を狂わせるのが主に使える急所となる。見えている二千七百二十の光点は、多くが針で狙えるそういう急所だった。

 その中で究極の急所は、脳幹中央部に存在する『魂の座』と呼ばれる場所だ。カイストならそれが胴体にある者もいるが、一般人ならほぼ間違いなく同じ場所だ。魂と肉体の繋がる場所。『魂の座』を破壊すれば肉体から魂への情報送信が途絶え、魂から肉体への干渉力が失われる。カイストの我力も現実世界に及ぼせなくなる。魂の抜けた生体ロボットとして惰性で動くのみだ。ただ、同時に脳幹を刺すことになるため結局は肉体としても死ぬが。

 裏鋭なら。

 裏鋭なら、得物の針でそこを刺せば、瞬時に相手を殺すことが出来る。魂の活動も肉体の活動もその刹那に、完全に停止させられる。

 だがただの一般人相手にそんなことはしない。急所を探し、自分が殺せることを理解すれば、ひとまずはそれで充分だ。

 この酒場はガルーサ・ネットの出張所近くにあり、裏鋭以外にカイストが十一人、一般人が今入ってきたばかりの者を合わせて八人いた。まず一般人からだ。裏鋭は再びスキャン・モードを起こし、五感による基本の世界像に重ね合わせる。

 多くのカイストが複数の知覚システムを併用している。意識を半ば分割して、二つの世界像を同時に知覚し処理することも出来る。カイスト同士の超高速戦闘に没頭しながらも一般人のスローな台詞が聞き取れるのはそういうことだ。裏鋭は基本の視点とスキャン・モードを完全に使い分けることもあれば、比重を調節して同時使用することもある。スキャン・モードを常時起動しておかないのは、新しく得た知識をシステムに溶け込ませるのに休止時間が必要だからだ。

 別のウェイトレスにカウンターのバーテンダー、隅のテーブルで食べている商人らしき男達、カイストへの依頼を掲示板に貼りに来た客。彼らの体に多数の白い光点が見える。その中に一際輝きの強い究極の急所も見える。つまり綺麗に殺せる。あいつも殺せる。次の奴も。殺せる、殺せる、殺せる……。一般人は全員『魂の座』を一刺しで殺せる。

 次にカイスト。同じテーブルで酒を飲んでいるCクラスの戦士が二人。同じく殺せる。検証士か探知士らしき男は裏鋭に気づいているが、やはり殺せる。Bクラスの筋骨隆々とした戦士……。骨格が大きく筋肉も厚過ぎて、裏鋭の針では刺しても『魂の座』まで届きそうにない。が、実際には届く。白い光点として見えているのだから針で殺せるということなのだ。物理的には不可能であっても、届く。裏鋭の中の何かが届かせる。

 世界の法則をすっ飛ばし、自分の望む結果を強引に生み出すこの力は『強念曲理』と呼ばれている。カイストの中でもごく少数しか持たないと言われるが、おかしな話だと裏鋭は思う。カイストとはそもそも法則をねじ曲げる者のことだろうに。

 酒場なのに甲冑を着込んだ男がいる。Bクラス。兜が喉や首の後ろも覆っており、目元も細いスリットが開いているだけだ。更に甲冑は彼の自前の我力で硬度を強化されている。目の前に酒の入ったグラスがあるのに兜を脱いで飲もうとしないのは、裏鋭を警戒しているのだと気づいた。裏鋭の正体を知っていたらしい。だが、それでもやはり、殺せる。甲冑の隙間からスルュリと針が潜り込む光景が見えてしまう。裏鋭は次に移った。

 カウンター席に座る男。酒場にいる対象の中で彼が最も格上だった。Bクラスの上級。まだAに届くレベルではないが、荒々しいエネルギーを感じさせる。大柄で、身長は二メートル十七センチ、体重は百六十五キロといったところか。骨格はノーマル、内臓を配置換えするような改造もしていない。防具はなく、袖なしの薄いシャツに革のズボンだった。武器は腰のベルトに下げた二本のトマホーク。どちらも量産品だがよく手入れされ、使い込まれている。それから右のブーツに挿したナイフ。粗雑で力任せに見えるが実際には繊細な技術を持っていそうな筋肉のつき方をしていた。顔の左側を走る深い傷痕は左目も割った筈だ。今、眼球は治っているが角膜が薄く濁っており視力は低いだろう。左腕の傷痕が多いのはそのせいか。しかしその左腕は右よりも太く、男から感じる注意力分布も体の左側に偏っている。そこから推測される戦闘スタイルは……いや。裏鋭は細かな観察をやめ、考えるのもやめた。

 理屈は寝かせておく。

 必要なのは、直感だ。急所への道が、見えるかどうかだ。

 眺めているだけでスキャン・モードの白い光点は増えていく。急所がみるみる暴かれていく。だが究極のものは……見えた。一際強い輝き。左耳から『魂の座』へ入る。九センチ三ミリの針は物理的には届かない。でも届くのだ。

 そこに至る自分の動きを思い浮かべ、結末まで見えて裏鋭は満足した。次の対象に移ろうとしたが、相手は満足しなかったようだ。

「おい。何見てやがる」

 トマホーク使いが裏鋭を睨みつけてきた。野太い声音は不審と嫌悪を含んでいた。

「もう終わったので気にしないでくれ」

 裏鋭の言葉に、トマホーク使いは口元を歪めた。

「何が終わったって」

「見て、理解しただけだ。不快にさせたのならすまなかった」

 裏鋭は頭を下げるまではしないものの謝罪した。

「……へえ。俺の何を理解したんだい」

 トマホーク使いが目を細め、裏鋭のテーブルに歩み寄ってくる。

 こうなったか。先の展開も読めていたが、裏鋭は正直に答えた。

「君の最適な殺し方だ。もう終わった。別に君を挑発している訳じゃないんだ。ただ事実を言っているだけで」

 トマホーク使いは何度か目を瞬かせた。裏鋭のような地味で目立たない、強者の気配を持たぬ男がこんな無礼な発言をしたことに驚いているようだ。

 だがすぐにトマホーク使いの瞳が冷えた。冷静だが怒っている。少しだけ腰の位置が下がる。まだ得物には触れていないが、いつでも殺し合える平常の状態から、臨戦態勢にまで変化したのが分かる。

「何様のつもりだ。名乗りなよ」

 トマホーク使いが言った。

「私は裏鋭だ」

 裏鋭は自分の名を告げた。ピクリ、とトマホーク使いの眉が動く。

「あの『針一本』か。あんたが。なるほどな」

 彼の目が、テーブルに置いた裏鋭の右手を見ていた。親指だけに填めた黒い布製のサック。針の頭を押さえるための装備。

 酒場は静まり返り、皆の視線が二人に集まっていた。

「私の性分で、つい急所を探してしまうんだ。君を実際にどうこうするつもりはなかった。だから気にしないでくれ」

「なるほど……。Aクラスの『針一本』が俺を見て、殺せると思った訳だな。そりゃあ確実っぽいな」

 裏鋭は黙って相手の次の台詞を待った。

「だが、現実の俺は今もピンピンしてる。あんたは想像の中で殺すのが趣味らしいが、本当に殺せるのか、たまには確かめてみるのもいいんじゃないか」

「その通りだ。必要と思った相手は実際に殺してみるが、それ以外にも不定期に殺して見立てに間違いがないか検証している」

「へえ。そいつは丁度良かったな。俺の名はアディロス……」

 そのトマホーク使いはうまかった。名乗り終えた瞬間でなく、名乗り終えるぎりぎり寸前で仕掛けてきたのだから。恐ろしくコンパクトなスイングで叩きつけられた左のトマホークが、立ち上がった裏鋭の左前腕を切断していた。

 裏鋭は右手人差し指と中指の末節部で針を挟んだまま、懐からハンカチを出してテーブルに置いた。針についた少量の血液をそれで拭き取る。本来はハンカチを左手で出して拭く。

 それから指を曲げ、リストバンドの細い鞘に針を戻した。床に置いていたショルダーバッグから細い帯を出し、左肘を縛り止血する。痛みはあったが気にするほどでもなかった。織り込み済みの負傷だ。一見敗北したように誤解させる、さりげない勝ち方が裏鋭の好みだった。

 コン、と、勢いをなくしたトマホークの刃が椅子に軽く当たった。アディロスという男は虚ろな目で固まったまま、ゆっくりと傾いていく。裏鋭はそれを片手で受け止め、床に横たえた。

 アディロスは死んでいた。左耳から侵入した針に『魂の座』を貫かれて。その瞬間に、彼は完全に死んだ。

 道は一直線であり曲がりくねっていた。

 戦闘が始まった時、裏鋭は歪んだ景色を半歩踏み出して二十メートルほど駆けた。

 致命的となるトマホークの一撃を裏鋭は避けずに避けた。

 三秒ほどだったが、一瞬だった。

 裏鋭は自分の左腕を拾い上げ、バッグに詰めた。床に散った自分の血も拭き取っておく。腕は後で縫い合わせ繋げてみてもいいだろう。傷を負わせてきた相手に勝った場合は治癒も早い。片腕でも特に支障はないので繋げなくてもいい。裏鋭は元の椅子に座り、料理の到着を待った。

 皆の視線は裏鋭一つに集中していた。一般人の視線は畏怖のみ。カイストの場合はそれが興味だったり愉悦だったり、嫌悪だったりした。動揺して目を見開いたり細めたりしている戦士。彼にはこの立ち合いはどんなふうに見えたのだろうか。

 店員から連絡を受けたようで、新たなカイストが酒場に入ってくる。Bクラス戦士。ガルーサ・ネットの警備員。出張所は近くの酒場・宿屋と提携しているのが普通で、現地周辺の治安に責任を持つことも多い。

「リエイさん。店でのトラブルは避けてもらいたいんですがね」

 警備員の男は苦い顔をしていた。

「ああ。すまない。挑発したつもりはないんだ。やるとしても店の外にすべきだったが、いきなり襲われてね」

 謝罪しながらも裏鋭は、スキャン・モードで警備員の究極の急所を探していた。

「あなたが『そういう』人だとは分かっていますが、他人に迷惑をかけないことを、少しは学んでもいいんじゃないですか」

 自分が殺されていることも分かっているのだろうが、警備員は冷静に嫌味を言うに留めた。

「すまない」

 裏鋭は再度謝った。警備員は軽く溜め息をつくとトマホーク使いの死体を引き摺って去った。店の物は壊れず、糞尿も漏れていない。綺麗な死にざまだ。ただ、場の空気は悪くなったが。

 他人に迷惑をかけないこと、か。裏鋭は警備員の言葉を反芻する。

 そんなことは無理だ。

 裏鋭にもっと他人とのコミュニケーション力があれば、こんなことにならずに済むのだろうか。上っ面の謝罪でなく、誠実なツボを押さえた対応が出来れば。しかしカイストとして百五十九億年生きてきたが、そちら方面は全く成長しなかった。仕方がないのだ。裏鋭は元々自分の興味が優先で、心の底では他人などどうでもいいと思っているのだから。たまに起きるこうしたトラブルも、自分の見立てを検証する役に立つ。それだけのことだ。

 カイストは強迫神経症の変人が多いが、Aクラスとなるとそれが更に際立ってくる。だから『多少迷惑な』くらいの裏鋭の存在も許容されているのだろう。

 料理が来た。既に殺したウェイトレスは平静を装っていたが盆を持つ手が僅かに震えていた。カイストの集まる酒場ならこういうことは日常茶飯事だろうに。……いや、百年も生きない彼らにとっては充分以上の脅威であったか。

 裏鋭は右手だけで黙々と食べながら、アディロスというトマホーク使いのことを考える。もし事前の観察で急所を見つけておくことをせず、出会った瞬間に戦闘となったら勝てただろうか。見ながら動いてもおそらく勝てた。だが検証もしておきたい。

 次にアディロスと会った時に試しても、一度は見ているので裏鋭の方が有利になってしまう。そろそろまたあれをやるべきか。ガルーサ・ネットを介して、初見で襲ってくれるカイストを募集するのだ。勝っても負けても裏鋭が報酬を出すことになる。募集しなくてもたまに襲われるし、暫く先でもいいかと裏鋭は思い直した。

 代金を払って酒場を出る。カイストへの依頼票をチェックしてみるのも後回しだ。今は勉強が優先なのだった。

 現在サマルータの大地の約二割を支配しているシウルスタ王国。その王立図書館に裏鋭はここ二ヶ月ほど通い続けていた。

 王都の人口は百七十万で、煉瓦造りの多い整った街並みは繁栄を感じさせる。石油や石炭の少ないサマルータでは、機械までは作られるものの列車や自動車が普及しにくく、道を行き交うのも殆どが馬車だった。それからたまに、カイストの魔術士が作った魔動車がのんびり走っている。乗っているのは貴族だろう。基本構造は内燃機関の自動車と同じで、制御系は電子機器でなく魔術回路だ。幾度となく目にしており、今裏鋭の横を過ぎた魔動車もその気になれば一刺しで機能停止させることが出来る。

 馬に乗った衛兵が巡回し、それに市民が笑顔で手を振っている。シウルスタの政治は良いようで、人々は幸せそうだ。

 裏鋭には関係ないことだが。

 通りかかった者を見立てながらのため裏鋭の歩くペースは遅く、一般人と同程度だった。街並みの向こうにそびえる王城は煌びやかだが過剰な派手さはなく、落ち着いた重厚感も備えていた。魔術士、錬金術士によって強化され、防御結界が常時発動している。築四百六十年になるその王城を一刺しで殺せるかどうかも見立て済みだ。王都滞在の間、施設や国民に不当な被害を与えないことが裏鋭の図書館利用の条件だった。後にまた訪れることがあれば、その時にまだ王城が無事だったら実際に刺して確かめるのもいいだろう。

 王城の近くにある王立図書館は四階建ての大きな建物だ。国内外のあらゆる書物を収め、その多くは一般にも開放している王国の威信を象徴する施設の一つ。ちなみに地下六階には王族や高位貴族しか閲覧出来ない秘密の書庫もある。裏鋭もそこは最初に入らせてもらったが特筆すべきものはなかった。逆に一般開放された書物の中に、ごく稀に掘り出し物が見つかることがある。裏鋭がガルーサ・ネットのデータベースだけに頼らず世界を巡るのはこのためでもあった。

 受付の職員に入館許可証を見せる。毎日通っているので、ガルーサ・ネットと王の署名が入った許可証にも驚かれはしない。ただ、職員の視線が裏鋭の左腕に向いていた。肘を縛って止血しているが、前腕半ばの断端を晒したままだった。

「失礼。本に血がつかないように傷口は覆っておく」

 裏鋭はバッグから出した止血シートを断端に貼りつける。傷も痛みも気にしていなかったが、配慮が足りなかった。

「お手数をおかけして申し訳ありません。ごゆっくりどうぞ」

 よく訓練された若い職員は笑顔で応じた。そんな彼を裏鋭は想像の中で刺した。

 一階、二階は既にチェックを終えており、裏鋭は三階の学術書コーナーを回った。サマルータを訪れたのは三千年ぶりで、この王立図書館の歴史は王国より少し短い七百年ほどだ。それより古い書物は多少交じっている程度だが、裏鋭としては新しい書物の方がいいので不満はない。

 生物学、医学、化学、物理学、機械工学、気象学、サマルータの異常現象録、剣術、格闘術、武器の歴史、サバイバル技術、魔術、呪術、易学、心理学、政治学、経済学、偉人の発言録、サマルータに影響を及ぼしたカイストの伝説、そして、歴史の隅に埋もれた誰かがぶち上げた荒唐無稽な妄想。読んだことのなさそうな本を漁り、テーブルに積み、雑多で膨大な知識を自分なりに咀嚼し消化しようと努める。既知の情報も多いし、間違った情報も多い。ただ、丸っきり間違った理論や概念が、後に真実と化して裏鋭の役に立つこともある。とにかく呑み込む。吸収する。そして裏鋭はその大半をひとまず忘れてしまう。といっても無駄になる訳ではない。取り込んだ知識は無意識の海に沈み、裏鋭が自覚しないままスキャン・モードのシステムに影響を与えている筈だ。

 全ては、急所と、急所への道筋を見極めるため。

 食事も休憩もなしに読み耽り、閉館時間が来る頃には二百二十冊をこなしていた。高速思考だと理解が浅くなる恐れがあるため一日にこのくらいが限度だ。

 今日の収穫は、宿主と共鳴して意識を移すという微生物の報告だった。あまり覚えては、いないが。

 本を元の棚に戻し、職員に挨拶して裏鋭は王立図書館を出た。ちなみに図書館の急所は地下二階の隠し部屋にある結界維持の魔術具で、裏鋭なら一刺しで図書館を粉末の山に変えることが出来る。

 夕暮れに赤く染まる街。裏鋭は通行人の急所を流し見ながらガルーサ・ネットそばの酒場に戻った。カイストのメンツは今朝とは半数ほどが入れ替わっていた。こちらを見ながら無音で何かやり取りしている検証士二人。片方は新顔だ。殺せる。さっさと全員の見立てを終え、裏鋭はいつものテーブルにつきショルダーバッグを足元に置いた。

「ご注文は」

 今朝も殺したウェイトレスがいつも通り尋ねた。

「この……肉野菜炒めセットを」

 メニュー上、ビーフシチューセットの隣にあるものを裏鋭は注文した。毎日この二つの料理で回しているのだった。特に理由はない。が、ふと思いついて裏鋭は付け足した。

「肉野菜炒めセットを二人分、頼む。別々の皿にしてくれ」

 ウェイトレスは意外そうな顔をする。

「畏まりました。お飲み物は……」

「水でいい」

 これはいつも通りだ。

 裏鋭は暫く食べ物を殺していなかったことに気づいたのだ。

 そもそも食べ物を殺すとはどういうことか、そこから考える必要がある。生き物を殺す場合は分かるが、殆どの食べ物は生物としては既に死んでいる。血流を失っても一部の細胞はまだ活動しているかも知れないし、加熱を免れた寄生虫や微生物もいるだろう。しかし、だからといってその食べ物が生きているとはいえない。

 建物の死は、建物としての役割が果たせなくなることだと裏鋭は考える。

 ならば食べ物の死は、食べ物の役割、栄養を完全に失うことではないだろうか。

 これは飽くまで食べる側にとっての一面的な見方に過ぎない。だが生も死も、究極的には見方の問題に過ぎないともいえるのではないか。それを超えた果てにまた真実があるような気もしているが、今回は置いておく。

 裏鋭は対象がただの石ころであっても生死を見立てることが出来た。

 料理がやってくる。肉と雑多な野菜を炒めたものがメインディッシュで、それにライスとスープがつく。それぞれが、二つずつ、裏鋭の前に並んだ。右と左にセットでまとめる。

 今は、どちらの料理も、生きている。メインディッシュとライスとスープ、この三つで役割を持った一つの生き物である。

 裏鋭はスキャン・モードを起動させた。

 料理だったものが無数の光点として見える。白い光もちゃんと見える。急所が見えるということは、殺せるということだ。一際大きな白い光点……究極の急所も見える。左右どちらも。

 よし。裏鋭は左の料理を殺すことにした。右手首を深く折り曲げ人差し指と中指の先をリストバンドに届かせ、針を引き抜く。針の頭はつまみやすく押しやすいように球形となっている。手首を戻して針の先端を前に向ける。親指の腹がサック越しに針の頭に触れる。始まる。世界が歪み出す。点の集まりが線となり、裏鋭の横を流れていく。世界の中心に輝く白い点がある。裏鋭はそこへ向かっている。裏鋭は右手の針と一体化する。裏鋭の先端が究極の急所へ、スルリと潜り込む。

 肉野菜炒めセットは死んだ。

 世界が元に戻る。裏鋭は料理から針を抜き、ハンカチで拭いてからリストバンドに戻した。

 左の肉野菜炒めセットは一見、右と変わりない。しかし僅かに色褪せ、存在感も薄れている。質量の殆どを失ったせいもある。栄養も毒性もゼロになり、世界への影響力がなくなった料理の死体であり残骸だ。今はまだ姿が保たれているが、軽く触れただけで微細な塵になって崩壊していくだろう。

 完全に殺すには跡形もなく消し去るべきではないか。以前裏鋭にインタビューした検証士がそんなことを質問してきたことがある。

 それでは駄目なのだ。完全に消えてしまうのは美しくないのだ。もっとはっきり言うならば、かっこよくないのだ。

 と、裏鋭は気づいた。殺した左の料理だが、皿まで死んでいる。食器まで殺すのは間違っている。針のコントロールは狂っていなかった。ならばスキャンにずれがあったか。最近取り込んだ知識の影響か。

 修整する必要がある。まずは右の料理も殺して検証すべきか、と考えていると男が近づいてきた。朝にも会った、ガルーサ・ネットの警備員。

「リエイさん。そういうことは、自分の家か何処かで独りでやってもらえませんか。迷惑なんですよ」

「ああ、すまない」

 皿は弁償させられた。

 王立図書館を消化したのはその三ヶ月後だった。王都に用はなくなったが、折角なので酒場の依頼票をチェックしてみようと考える。

 裏鋭が出来るのは殺すことだけだ。討伐依頼としては、サマルータ名物である六本足の狼や、街道を襲う強盗団などがあるが、多くは駆け出しのCクラスが受けるようなものだ。賞金首にはサマルータを荒らしたカイストも入っていたりする。自分の名前が載っていないことに裏鋭は微妙な安心感のような自己嫌悪のようなものを覚える。

「リエイさん、どうせ受けるならこちらを受けて頂けませんか」

 ガルーサ・ネットの警備員が声をかけてきた。隅にあった古い依頼票を剥がして裏鋭に見せる。

「ガルーサ・ネットからの依頼か」

「いえ、依頼者はシウルスタ王国です。チームを組んだBクラスでも歯が立たなくて、五十年以上未達成のままです」

 依頼票の内容は魔獣の討伐だった。カイストの業界における魔獣とは、自然の獣ではない、我力を備えた生き物のことだ。魔術士や錬金術士によって作られたか、使役士などによって強化されたか、或いは世界の歪みがたまたま産み出したものか。稀に、自我のコントロールを失ったカイストが魔獣と化してしまうこともある。ちなみに世界によってはカイストの我力を吸収して他の生物に再配分する、特殊なルールが設定されていることもある。原因が何にせよ、魔獣は、単なる物理攻撃では突破できないカイストの我力防壁を貫ける……少なくとも貫く可能性を持つ生き物だった。Bクラスになったばかりのカイストがよく油断して殺されるが、本気で対峙すればやはり積み重ねた鍛錬がものを言い、苦戦することはあまりない。

 だが、今回の相手は大物のようだった。検証士の書き込みによると魔獣は、『究極の黒魔術師』ザム・ザドルか、その高弟の作である可能性が高いという。

 数億年前、サマルータはザム・ザドルの魔術の実験場にされた。『ザム・ザドルの黒壁』と呼ばれた黒い闇が地上のあらゆるものを食い尽くして拡大し、最盛期にはサマルータのねじれた大地の七割を覆った。放置していても結局は自然消滅するのだが、裏鋭も一刺しで殺せるかどうか見に行ったことがある。合計十七年ほど観察を続けたが、急所を見出せなかった。

「どうでしょう。リエイさんにはうってつけじゃないですか」

 警備員は裏鋭の『黒壁』との因縁を知っているのだろうか。裏鋭が現在サマルータに滞在する唯一のAクラスのようだから、依頼を回す機会を待っていたのだろうか。ガルーサ・ネット自体の依頼ではないので受ける義務もないが……いや、それらのことは裏鋭にとってはどうでも良いことだ。

「受けよう」

 裏鋭は答えた。

 

 

  二

 

 酒場に居合わせた検証士がついていきたいと言い、どうでも良いので裏鋭は了承した。二ヶ月ほど酒場に入り浸っていて裏鋭は五、六十回は殺したと思うが、どうやら最初から裏鋭が動くのを待っていたようだ。裏鋭が護衛してくれる訳でないことは検証士も分かっている。裏鋭は殺すのは得意だが守るのは苦手で、そもそも何かを守りたいとも思わなかった。

 王都から標的に最も近い村までは馬車を使った。そこで一泊し、早朝に徒歩で出発する。『ビッグ・ロザリー』の位置はガルーサ・ネットがリアルタイムに把握しており、大きな移動があれば裏鋭の携帯情報端末に連絡が届くようになっている。

 林を抜け、何もない荒野を徒歩で進む。一般人より少し速い程度のペースだ。裏鋭はその気になれば時速百キロ以上で走れるし、加速歩行も習得しているが、本当に必要な場合以外はなるべく普通に歩くようにしている。地味で、さりげないのが裏鋭の好みだから。

 繋ぎ合わせた左腕はまだ調子が戻っておらず、本来の四割程度の力しか出せないが特に支障はない。そもそも裏鋭の筋力は、下手するとCクラスの戦士にも負けてしまう程度なのだ。

 グリューセムというBクラスの検証士は加速歩行を使えるようだが、文句も言わず裏鋭のペースに合わせていた。物理攻撃を防ぐ我力防壁も裏鋭より整っており、あらゆる悪環境をくぐり抜けて世界の秘密を探るために鍛え上げてきたのだろう。検証士にはイベントになるべく関わらず後から情報を掘り起こすタイプと、ぎりぎりまで現場に近づいて観客の一人となるタイプがいる。グリューセムは後者のようだ。

 黙々と二人で歩き続けるうち、反り上がって陽光を浴びていた荒野が少しずつねじれていく。そろそろサマルータの大地は夜の領域に入る。

「夕食にする」

 裏鋭は丁度良さそうな岩に腰掛けてショルダーバッグを下ろした。バッグには着替えや幾つかの生活必需品と一緒に保存の利く食料が入っている。

 缶詰の蓋を開け、携帯コンロで加熱する。温まるのを待つ間に水筒のコーヒーを飲む。

「こだわりですか」

 近くの岩に同じように腰を下ろし、グリューセムが尋ねる。

「ああ。その類のものだ」

 裏鋭は簡潔に答える。サマルータはフリーゾーンで、科学技術や魔術、特殊能力に制限は設けられていない。高度な文明の利器や魔道具を使えば荒野で豪華なフルコースを楽しむことも出来る。逆に、多くのカイストがやるように数ヶ月何も口にせず移動に専念することも出来る。しかし裏鋭はなるべく一般人と同じように食事をし、休息を摂るようにしている。その方が目立たず、さりげないからだ。

 グリューセムも裏鋭につき合って、自前の携帯用固形食料を齧っていた。

 小型のテントを張って浅い眠りで夜を過ごし、早朝にまた歩き出す。途中で六本足の群れが襲ってきたが、針の一刺しで全滅させた。種としての六本足を一刺しで滅ぼせないかと裏鋭は考えたりした。グリューセムはただ見守っていた。

 荒野を歩いて四日でビッグ・ロザリーを視認出来るようになった。検証士が掘り起こした本当の名前は一一六三七五○三九というただの数字だったらしいが、最初に関わったカイストの戦士が勝手に名前をつけたという。

「ザム・ザドル系の魔術士は実験生物を通し番号で呼びます。下手に愛着を持たないようにしているのかも知れません」

 聞いたことのあるような薀蓄をグリューセムが語った。

 巨大な窪地の底に、頭が二つある巨大な陸亀が蹲っていた。高く盛り上がった甲羅に生えた幾つもの棘は、宇宙型世界ガルスティッテのとある惑星にいたミトラだったかミスカだったかの亀を思い起こさせる。あれは頭が一つだったし巨大でもなかったが、この魔獣の素材として使われたのかも知れない。ただ、あの亀を見たのはどれほど前だったか……裏鋭は記憶の第二層を検索して六億年前だったことを思い出した。ついでに名前はアストラだった。今となってはとっくに絶滅しているだろう。得た知識は無意識の領域まで沈めるが、他のカイストと同じく心の中の保管庫にも収め、必要な時に取り出せるようにしている。

 ビッグ・ロザリーの巨体は甲羅の下端から天辺までの高さが八百メートル、棘も合わせると一キロに達していた。全長も首を本気で伸ばせば二キロ二百メートルを超えるだろう。一つの山がそのまま生き物になったようなものだ。窪地の底でなく平地にいれば、もっと遠くからでも見えていた筈だ。窪地にいるのは雨水を溜めて飲むためだろうか。

 甲羅に残る無数の傷痕やザラついた皮膚の質感から、相応の年月を生き抜いてきたことが分かる。左の頭は片目が潰れている。傷痕は我力と我力のぶつかり合いで出来たもので、カイストによる傷だ。金属成分を含んだ高密度の甲羅と、甲羅に劣らず硬質化した皮膚が更に我力防壁に守られているのだが、表面の防壁を突破すれば殺せるかというとそう単純なものでもない。巨体に内包する膨大な我力を裏鋭は感じ取っていた。我力の質量だけならAクラスの領域に入っている。

 ビッグ・ロザリーは今、目を閉じて眠りについていた。甲羅に積もった砂のため岩山と見間違える者も多いだろう。ただ、二つの頭が洩らす呼吸音が低い地鳴りとなって響いていた。ここ二年ほどは休眠期に入っており、馬鹿なハンターや自信過剰なカイストが攻撃を仕掛けない限りは殆ど移動せず食事もしないということだ。ただし活動期には時速四十キロ程度で荒野を渡り、あらゆる動植物を食い荒らす生きた災害と化す。人口十二万の都市が一晩で滅んだこともあったとか。

 生物としての活動に魔術が寄与する割合はどれほどだろうか。動かぬ巨体を眺めながら裏鋭は考える。栄養と酸素を必要としており心臓血管系も機能しているのは生物的であるが、魔術士に作られた魔獣なら、我力を全身に巡らせコントロールする核が脳や心臓のそばにあることが多い。この核を破壊すると大抵の魔獣は短時間で崩壊する。我力を蓄えておくタンクは核と一体化しているか、ごく近い場所に配置される傾向がある。腕の良い魔術士なら吸収したエネルギーを我力に変換する機能も備えつけ、異常に長命な魔獣を作ることも可能だ。

 脳が二つあるような個体では、片方がメインでもう片方がサブである場合と、交替で片方がメインを務めもう片方が休む場合がある。今観察する限りはどちらも休んでいる。片方は特殊能力を担当するのかも知れない。魔獣に特定の行動をさせたい場合は脳がいじられているか制御機構が脳内に入っている。核がそういう機能を兼ねていることも多い。裏鋭は人工物の存在をどちらの脳にも感じた。

 スキャン・モードを併用して無数の光点を見つつ、裏鋭は変わらぬペースで歩く。至近距離に到着するまでもう一日かかるだろう。

「ちなみに、気づきましたか。ビッグ・ロザリーという名前なんですが、雄なんですよ」

 グリューセムが苦笑交じりに語る。裏鋭も見てすぐ気づいていた。検証士はどうでも良い知識として語ったようだが急所を探るためには重要なことだ。

 視認してからも歩き続けて四時間。急に亀が目を開けた。右の頭が目覚め、少し遅れて左も起きる。さまよいかけた視線は数秒で殺意を伴い二人を射た。

「あ、起きてしまいましたね」

「そうだな」

 まだ二十七キロの距離があったが、敵となる者の接近を感知したらしい。異常な鋭敏さも魔術士にデザインされたものか。

「裏鋭さん、隠形は苦手なんですね」

「敢えて隠れようとはしていないが、我力の放射もしていない。一般人程度の気配だとは君も分かっているだろう。逆に君の気配の方が強い」

 そんなことを言いながらも、やはり急所を探して観察し続けていたのが悪かったのだろうと裏鋭は考えている。粘っこいような冷たいような、嫌な感触だと、以前見られたカイストが表現していた。ところで検証士は裏鋭の名を、漢字の意味を分かった発音で呼んでくれる。出身が漢字圏なのだろうか。

 ビッグ・ロザリーが起き上がった。甲羅が持ち上がり、ベギッと大地が軋む音がする。へばりついていた大量の土と砂が落ちていく。太い脚が一歩を踏み出す。大地が揺れる。二つの頭がずっとこちらを睨んでいる。開いた口から頑丈な牙が覗く。炎を吐いたりする特殊能力はないと裏鋭は既に結論を出している。

 脅威の本質は単純だ。巨大な質量と異常な筋力。それに膨大な我力を乗せるとカイスト殺しの化け物になるのだ。

 ドンッ、と大亀が地を蹴って猛然と加速した。加速し過ぎる。一秒で時速百八十キロを超え、更に増していく。その先には裏鋭達がいた。

「まずいですね。裏鋭さん、もう急所は見つけましたか。ちょっ早くしないとまずいですよっ」

 検証士の台詞の後半は圧縮音声になっていた。ビッグ・ロザリーの加速が凄まじいのだ。ほんの数秒で音速を超えており、魔獣は衝撃波防止処理などしないので周辺被害はひどいことになるだろう。二十七キロあった距離がもう十二キロになっている。更に加速、する。山が裏鋭の方へ傾いてきている。縦回転を始めようとしている。棘の生えた甲羅をぶち当てる体当たりがビッグ・ロザリーの戦闘スタイルだ。我力の篭もった剣撃に対してなら、こちらも我力で弾くか避ければいい。だが、剣と同じスピードで我力の山が飛んできたなら、Bクラス程度ではどうしようもないではないか。

 見える。裏鋭には見えている。

 心臓の拍動が見える。心臓の横にある核が見える。循環する血液に我力を乗せて筋肉へと送り続ける核。刺せば殺せる。だがそれは究極の急所ではない。脳。二つの脳を裏鋭は一刺しで破壊出来る。二つの首の付け根で二本の脊髄が合流するところも急所の一つだ。だが究極ではない。肛門の上の自律神経節でも殺せる。足の裏でも殺せる。爪の付け根でも殺せる。見つけた急所は既に八十六万ヶ所を超える。しかし、まだ究極の急所が見つからない。究極とは、最も素早く殺せ、瞬時に完全に相手を無力化し、最も美しく……。

 裏鋭の体は風圧に吹き飛ばされ宙を舞った。少し遅れて爆発した地面の欠片が次々にぶち当たってきた。裏鋭は暫く木の葉のように揺られ、揺られ、服が程々に破れた状態で着地した。

 ビッグ・ロザリーは二キロ以上離れた場所で、甲羅を半ば大地に埋めてひっくり返っていた。ねじ曲がり喉を晒した二つの首も、力なく垂れた四つの脚も、もう動かない。

 裏鋭はハンカチを取り出し、針についた僅かな汚れを拭き取った。

 仕事は終わっていた。

 リストバンドに針を戻してから検証士に目を向ける。裏鋭と同じく吹き飛ばされ、両足が潰れ倒れているが、命に別状はなさそうだ。

「見えませんでした。一体何処を刺したんですか」

 痛みに顔をしかめつつグリューセムが尋ねた。

「右の頭の、喉の下、自律神経叢の急所の一つだ。体表に近い急所のうち、出来るだけ早く死ぬ場所を選んだが……究極の急所ではなかった」

「……でも、殺してますよね。針の一刺しで、一瞬で死んでますよね。これでも究極ではないんですか」

「究極なら瞬間的にスピードを失っていた。死体が地面を抉って土を飛ばすこともなかった筈だ。前情報も入手して、初見から四時間二十分も観察していたのに究極の急所は見つからなかった。情けないことだ」

「はあ……。知識としては知っていたつもりですが、裏鋭さんは、そういう人なんですねえ」

 グリューセムは軽く溜め息をついた。

 裏鋭は彼を背負って村まで運んだ。観客を務めてくれた男にこのくらいのサービスはやっても良いだろう。

 魔獣がまだ実験途中で魔術士の監視下であったなら、始末した裏鋭が報復に襲われる危険もあったが、それらしい気配もなく無事に王都まで戻った。

 その後、何人もの魔術士や検証士が死体を調べ、結局ビッグ・ロザリーはザム・ザドルの弟子の廃棄物であったことが判明したらしい。裏鋭にはもう、どうでも良かったが。

 国家というものを一撃で殺すには、何処を刺すべきだろうか。シウルスタ王国を出る際、裏鋭はそんなことを考えていた。

 急所が王でなく大臣の一人だったこともある。国境近くの町の広場に飾られた銅像だったこともある。集団を一つの生き物とみなすことは可能だが、やはり国家規模になると難しい。何度も試行錯誤した。失敗の方が多いし、成功しても瞬時に殺せる訳でもない。シウルスタ王国についても急所は一応見つけた。しかし被害を与えないと約束してしまったし、これをやると他のカイストから恨まれやすいので、国殺しの検証はもう少し後にするつもりだった。

 

 

  三

 

「りえいさまですね。いっぽんのはりでわくせいをころしたという」

 裏鋭がシウルスタ王国を出て二年。荒野に囲まれた小国で、二十数冊の書籍を買って寂れた本屋を出たところでモヤモヤした人影にいきなり話しかけられた。

 いつの間にか周囲に人の気配がしなくなっている。刺客か、と裏鋭は思った。惑星殺しは百七十年前に、宇宙型世界メセンガで初めて成功したものだ。生物のいない、今後も生物の発生する可能性のない星を選んだので他人に迷惑をかけてはいない、と思ったのだが、やらかしたといえばやらかした、ことになるのだろう。

 他のAクラスにも似たような破壊行為をやらかした者は多い。ただ、『究極の黒魔術師』ザム・ザドルや『八つ裂き王』フィロス、『蜘蛛男』フロウなど災厄そのものの化け物達と違い、裏鋭は割と大人しい方なので罰しやすいと誰かが考えたのかも知れない。メセンガは文明管理委員会の支配域ではないから、そっちの刺客ではないだろう。とすると絶対正義執行教団の方か。しかし彼らならこんな目眩ましで姿を隠したりせず、自らの素性を明らかにした上で真正面から襲ってくる。とすると、単に裏鋭を倒して名と順位を上げようという挑戦者か。裏鋭は勝負よりもつい急所にこだわってしまうので、急襲を受けてあっさり殺されることも多いのだ。

 そんな思考を巡らせ警戒しながら裏鋭は答えた。

「確かに裏鋭だが、それがどうかしたか」

 モヤモヤ……灰色の霧のようなもので包まれており、相手の本当の姿は裏鋭の目にも見通せなかった。抑揚の乏しい声音もフィルターにかけられ調整されているようだ。幻術、いやもっと高度な小型結界と裏鋭は推測する。裏鋭に急所を探られないための自衛措置か。Bクラスの魔術士にこれほどの結界は張れない。だが、Aクラスにこんな奴はいただろうか。

「りえいさまにひとつ、おたのみしたいことがありまして。あるものの、きゅうしょについて、りえいさまのごいけんをいただきたいのです」

 魔術士と思われる人物は慇懃な口調だったが、裏鋭に欠片も敬意を持っていないことを直感した。怪しいカイストだ。

 だが、急所の話となると、やはり気になってしまう。

「まず、名乗ってもらおうか」

 裏鋭は告げる。後ろめたいことをやる場合、そんな自分の行為を歴史に残したくない場合、カイストは名乗らないことがある。後で検証士に掘り起こされないように、特殊な隠蔽処理で空間に残る痕跡を消し去ることまでやってのける。そんな隠蔽が出来るのは当然魔術士の類だし、『裏の目』ガリデュエレベルの検証士には見破られてしまうのだが。

 Aクラスの魔術士と思われる正体不明のカイストが名乗るかどうかを、裏鋭は本質を探る材料にしようとした。スキャン・モードを使っても、相手の構造がまだ殆ど見えていないのだ。

 霧の人影は軽くお辞儀をしたようだった。

「すたん・なばるともうします」

 スタン・ナバル。四千世界で一万人しかいないAクラス。その名前くらい裏鋭も覚えている。勝敗を優先しないとはいえ、ガルーサ・ネットの提供するカイスト・チャートで上位の強者をチェックもしている。だが……。

「初めて聞く名だ」

「めだつのはにがてで、ひっそりとけんきゅうばかりやっておりましたので」

 どうだろうか。裏鋭は疑問に思う。ずっと僻地で修行ばかりしていて、知られた時点で既にBクラスだったという者は稀にいる。だがAクラスとなると……。いきなり最強のカイスト且つ破壊神として現れた『彼』のような存在は、例外中の例外だろう。

 Aクラスが他のカイストと全く関わらずにこれまでやってこれたとは思えない。実際、裏鋭のことを知っているのだからある程度の情報網を持っている筈だ。基本引き篭もりで、ガルーサ・ネットに金だけ払って情報を得ているのか。或いは何処かのカイスト組織の切り札として隠された存在なのか。それとも、関わった者は記憶を消されているのかも知れない。裏鋭はスタン・ナバルと名乗った術士の評価を、『怪しいカイスト』から『危険なカイスト』に格上げした。

「ゆっくりおはなしのできるばしょをよういしておりますので、おてすうですが、おこしいただけますか」

 名前は判明したものの、相変わらず相手の急所は見えなかった。急所が見えないということは、裏鋭には殺せないということだ。

 気になる。この危険なカイストの急所が見たい。何かの急所についてだという話にも興味がある。

「分かった」

「ありがとうございます。どうぞこちらへ」

 裏鋭が頷くと霧がまた一礼した。その傍らに光の枠が立ち上がり扉を作り上げる。扉には小窓がついており、向こうに白い室内が覗いている。多くの魔術士が持っている携帯用の亜空間か、決められた場所にワープする転移術だろう。見慣れたものだが裏鋭は急に違和感を覚えていた。システムに、魔術とは異なるものが混じっているような……。

 科学技術。膨大な知識の眠る無意識の海から、その言葉が浮かんできた。

 科学は世界の法則を理解して利用するもので、我力で法則をねじ曲げるカイストとの相性は良いとはいえない。特に複雑な電子機器などは我力強化を施すことが難しく、ガルーサ・ネット製の携帯情報端末も激しい戦闘をこなせばあっさり壊れてしまう。新たな法則を複雑に組み上げていく魔術ともなれば、高度な科学技術との併用は多大な慎重さと精妙さを要することだろう。魔術士が雑用に文明の利器を使うことは勿論あるが、空間操作・転移系のようなリスクを伴う術に科学機器を組み込むことはない筈だ。科学機器が壊れやすいのも大きなデメリットとなる。

 ならば、スタン・ナバルは科学士か。カイストでありながらカイストを否定する、自己矛盾した者達。世界の法則を曲げるという理不尽に対抗し、物理・化学現象をそのままに遂行させる能力者。彼らが製造した銃弾はカイストの肉体を法則のままに貫き、彼らが触れた鋼鉄の壁は法則のままにカイストの剣を弾く。しかしその壁は酸で溶けるのだ。彼らの科学強化は道具を我力で強化するのではなく、反我力の性質を与えるのが強化士と異なる点だった。

 いや。科学士の可能性も裏鋭は否定する。科学士は我力で法則を曲げる術を決して使わないのだ。単に科学士が強化した道具を持っていて、それを裏鋭の無意識が感じ取っただけなのか。だが、科学強化された品と魔術は互いに干渉して、不具合を起こすリスクが高まる筈だが……。

 疑問を呑み込んで、裏鋭はともかく霧の開いた扉を抜けた。

 

 

「『かれ』はじゅうよんのせかいをしょうめつさせました。つまり、せかいはころすことができるのです」

 霧の隠蔽結界を解かぬまま、スタン・ナバルは言った。

 テーブルと椅子だけの殺風景な部屋だった。清潔で、無機質で、余分なものを完全に排している。床・壁・天井の平坦さも角度も、家具の材質までも、完璧で均一で全く遊びがなかった。

 余計な情報を裏鋭に与えぬためだろう。だがその完璧さがスタン・ナバルの性質をある意味語っている。

 世界を殺す、か。あらゆるものを殺すことを求め続けて百五十九億年。当然、世界そのものを殺すことも考えてきた。八億年前に『彼』が本当にやってのけてからは、裏鋭も暫く躍起になって調べていたものだが……。

「知りたいのは世界の急所か。だが私の知る限り、最も脆弱な世界で最も刺しやすい急所を……ああ、いや、他のカイストが針以外の手段を使ったとしても、Aクラス千人程度の我力を合わせて尚届かないレベルだった。『彼』が世界を殺したのは、強大過ぎる我力による単純なゴリ押しだ。参考には出来ない」

 針一本で殺せる世界の急所以前に、到達可能なまともな急所というのが見つかっていないのだった。まずは無人の小さな惑星、それから生物のいる惑星、更にはカイストのいる惑星へと地道にレベルアップして技を鍛えるつもりだ。

 世界については、一つだけ。ただ一つだけでも世界を針一本で殺せたら、裏鋭は満足出来るだろう。それで裏鋭のカイストとしての目的が達成する訳でもない。擬似的な生物としての国や星や世界より、意志のある生身の人間を殺す方が余程かっこ良く、美しい。

「いえ、わたしのしりたいのはせかいのきゅうしょではありません」

 少し意外なことに霧は否定した。

「わたしのしりたいのは、むすうのせかいぐんをつなぎあわせなりたたせる、こんぽんのしすてむ。よんせんせかいそのもののきゅうしょなのです」

 ゾクリ、と来た。何億年ぶりか分からない……ああ、『彼』に初めて対峙した時以来だろうか。自らの根本を揺るがされるような不安感と、興奮。

 世界という巨大な容器の中に人や生物は存在し、活動している。いや、人や生物が存在可能な容器のことを世界と呼んでいるのだ。その世界が一人の男の手によって消滅したのは大きな事件ではあったが、実際には他の数多の世界に人は生まれ、活動している。生物が活動可能な世界は約四千あると言われている。法則や空間が不安定だがカイストなら活動可能という世界はもっと多い。『彼』が十四の世界を滅ぼした後、不安定だった十四の世界が格上げされたようにゆっくりと安定していき、人が住めるようになった。だから幾つか世界が滅んだところでそれほど支障はないのだ。

 だが、その四千の世界を連結し支えている根幹のシステム……それがどんなものかは裏鋭にもよく分からないが、四千世界そのものを殺せば、一体どうなってしまうのか。人が住むところが何処にもなくなってしまう。不安定な世界すらなくなってしまえばカイストも存在出来なくなる。皆魂だけになるのか、いや、そもそも魂も存在出来るのか。四千世界の全てを、本当に何もかもを消し去って、どんな得があるというのか。得そのものも存在しないのでは……。

 それは、壮大な自殺ではないか。

 分からない。

 このスタン・ナバルという得体の知れない魔術士は、どんな感情を抱えながらこの台詞を紡いだのか。灰色の霧に包まれて、フィルターにかけられた声音では、魔術士の意図を窺い知ることは出来なかった。

「四千世界を丸ごと殺すというのは……本末転倒ではないのか。何もかもを消し去って、自分の立つ場所まで失えば……何も残らない。それに一体、何の意味がある」

 動揺が声に出てしまい裏鋭は内心で舌打ちする。今のはかっこ悪かった。

「いまはまだ、あくまでけんきゅうのだんかいです。きゅうしょがみつかったらすぐによんせんせかいをほろぼそうというわけではありません。それに……」

 灰色の霧は一旦言葉を区切り、裏鋭の反応を窺うように、ゆっくりと、告げた。

「なにも、のこらないわけでは、ありませんので」

 どういう意味か。問い質すべきか。危険な予感が益々強くなってくる。何も聞かずにもう帰るべきでは。だが、ここで退くことは急所を求める自分の生きざまとしてどうなのか。

 裏鋭が考えているうちに、スタン・ナバルは具体的な用件を述べた。

「ら・るーくを、ごらんいただきたいのですよ」

 それで、この魔術士が文明管理委員会の関係者ということと、引き受ける価値があることが分かった。

 

 

  四

 

 アジャーナ・ルカムスタ、通称文明管理委員会。人類が発生し、文字を持たず石器で狩猟に明け暮れた原始時代から、農業文明期、工業文明期、電子文明期を経て、不老不死の実現や仮想世界への移住に枝分かれしつつも宇宙文明期に進み、科学が究極に達した時かその手前で滅亡する。そしてまた人類は発生する。文明はそれを延々と、繰り返す。

 文明は究極まで進めば必ず滅ぶ。それ以上発展の余地がないことに人は絶望するからだ。文明は高度なほど良いのではなく、少しずつ進んでいくことこそに人類の幸福がある。そう考え、文明の健全な発展を見守るカイストの組織が文明管理委員会だ。

 彼らは生物の活動可能な環境を整え、種を蒔く。生物の進化を見守り、急ぐ場合は人為的に人類を『発生』させる。文明の発展があまりに停滞している場合はインスピレーションの欠片を飛ばして研究者に発明を促す。逆に発展が早過ぎる場合は研究者を抹殺したり、メジャーな宗教を誘導して科学を弾圧させたりして文明の減速を試みる。彼らは倫理には関与しない。大勢の人々が抑圧されようが奴隷にされようが虐殺されようが助けない。快楽も苦痛も合わせて人類の幸福だと信じているからだ。ただ文明の不健全な進行による興醒めを予防するのみだ。

 それ故に彼らは、一般人の社会からカイストを締め出そうとする。前世の記憶を保持して延々と転生し、四千世界を渡り歩くカイストは、その社会の文明レベルにそぐわない知識や道具を持っている。カイストが好き勝手に活動して文明を掻き乱せば人々の幸福が損なわれてしまうと彼らは主張する。彼らは支配域と定めた世界においてカイストを監視し、不相応な知識や道具を披露したり、一般人の常識を外れる能力を見せたりして文明を乱した者を制裁する。それではカイストになった甲斐がないじゃないかと反抗する者には、委員会が支配していない世界に行って好きにやればいいと告げる。約四千の世界のうち、委員会の手が及んでいない『フリーゾーン』の方が圧倒的に多いのだから。

 では、カイストが好き勝手に活動しているフリーゾーンで一般人は不幸なのかというと、必ずしもそういう感じでもない。超越した力を持つカイスト達を化け物或いは神様のように扱って遠ざけながら、努力では決して届かぬものがあると悟っているような、ある種割り切った大らかさを一般人は持っている。そして、その中から稀に、カイストを目指す者が現れるのだ。

 自身もカイストであるのにカイストを白眼視しながら、人類の幸福を守ってやっているという優越感を抱いている。そんな歪みを裏鋭は委員会の連中に感じていた。矛盾を自覚しながら開き直っている委員も多いし、それでも結果的に人類のためになるならと委員を続けている者もいる。

 裏鋭は文明管理委員会と明確に対立している訳ではない。管理下の世界に転生した時はずっと監視役がついてきて鬱陶しかったし、フリーゾーンへ出ていくよう促されたりもした。トラブルから委員を殺したこともあり、逆に暗殺されたこともある。だがそれはまあ、カイストなら日常茶飯事で、裏鋭に非があった場合はきちんとペナルティも払っている。最先端の科学機器や他人の作った魔術具に頼るだけの弱い委員も多いが、カイストチャート常時百位以内のゴールデン・マークもいて、最古且つ最強のカイスト組織であることは確かだった。この組織の急所を見極めることも裏鋭の目標の一つだったりする。

 本をめくる手を止めて、裏鋭はふとそんなことを思い返していた。

 白い部屋に閉じ込められて九十六日が過ぎた。最初に招かれた部屋から廊下を通ってすぐの場所。無味乾燥な完璧具合は同じだが、こちらは寝室に浴室・トイレ・キッチンなど一通りの設備が揃っていた。ただし、娯楽はない。外界との連絡は絶たれておりガルーサ・ネットの携帯情報端末も使えなかった。今自分が何処にいるのかも分からない。この部屋はある種の船の内部であった。揺れは全く感じないが、裏鋭とスタン・ナバルを乗せたまま世界から世界へと移動しているようだ。航界船や航界機と呼ばれる類の乗り物で、ゲートを通過可能な大きさに留めつつ、あらゆる世界のあらゆる環境に耐えられる仕様になっている。スタン・ナバルのこの船は科学技術と魔術が併用されていた。

 世界は特定の別の世界とゲートで繋がっている。ある世界に辿り着くためにはそこに繋がっている別の世界、更にそこに繋がる別の世界というように幾つもの世界を渡る必要があった。世界同士の繋がりを示した世界群地図を参照すれば最短ルートを選ぶことが出来る。

 スタン・ナバルは百日前後でラ・ルークに到着するだろうと言っていた。サマルータからラ・ルークまでは、加速歩行を使って最短経路を通ったとしてもそんなに早くは着かない。この船が特殊なのか、それとも委員会だけが押さえている秘密のゲートを使っているのだろうか。裏鋭を部屋から出さないのはその辺りを知られたくないためもありそうだ。

 九十六日も観察の時間があったため、ロックされたままびくともしない白い扉も殺せるようになっていた。床も天井も殺せるが、この船全体を殺すには情報が足りず、おかしなことが起きない限り大人しく待つことに同意してしまったので、本当にやってしまうつもりもなかった。

 時間を潰すため、裏鋭は本を読んでいる。珍しいものを読みたいと所望して、スタン・ナバルが何冊も持ってきてくれた。ガルーサ・ネットのデータベースに入っているような情報ではなく、もしかすると委員会のデータベースにはあるのかも知れないが、少なくとも裏鋭にとっては新鮮な内容であった。

 それぞれの世界特有の法則について論じられている本。ゲートで繋がっている世界同士は法則の差異も僅かであることが多い点、また、中央側世界は法則にバラつきが少なく辺境側世界は特殊な法則が目立つ傾向にある点から、現在流通しているものとは異なる新しい世界群地図を提案していた。まだ見つかっていないが近い世界間を繋ぐルートがある筈だとも。正暦四百億年を過ぎてもまだ真実を模索する者がいることに裏鋭は感心する。他にも、それぞれの世界の法則が何故そうなっているのかを推測する本や、世界に潜む混沌と我力の相互関係について語っている本など、どうやらスタン・ナバルは四千世界の急所を知るための材料にして欲しいようだ。

 この部屋で過ごしている間、裏鋭は自分が見られていることに気づいていた。監視カメラのようなあからさまな機器ではないが、何らかの手段で観察されている。裏鋭が他人を観察するのと同じように。

 見ているのはスタン・ナバル。加えて、探知士らしき気配が二人。探知士が交代で常時裏鋭の様子を探り、スタン・ナバルはたまに数分から数時間見ているようだ。探知士の片方は、姿も見えず素性を知らないままだが僅かな気配を辿って殺せるようになった。向こうもそれに気づき、探知士の気配に怯えが混じっている。

 食事は百年分以上ありそうな食材やインスタントパックが備蓄されている。時間があり余っているので裏鋭は数千年ぶりにまともな自炊を楽しんでいた。毎回二人分作って、料理の構造を考えながら片方を殺し、片方を食べるのだ。

 じっくり観察して殺したため冷めてしまった生き残りのシチュー麺を啜り、食器を洗い終えると天井のスピーカーからアナウンスがあった。

「あとななじゅうさんじかんほどで、ら・るーくにとうちゃくのよていです。いまからはなるべく、みずいがいはくちにしないほうがいいですよ」

「その理由は」

 尋ねてもスピーカーは答えなかった。裏鋭の声は届いているだろうに。

 食べたものが体内に残っていると不具合が起きる可能性があるのか。胃腸の内部は体内であると同時に実は肉体の外でもある。食べたものは異物でありながら吸収されて体の一部になろうとする。そんな境界の曖昧さが我力防壁を持つカイストにとっても弱点となることがある。毒物の摂取とは次元の異なる概念的なリスクになり得るのだ。

 だがBクラスの上級にもなれば多くのカイストが対策出来ているものだ。Aクラスの裏鋭も一通りの対策は習得しているつもりだったが、敢えてスタン・ナバルの忠告に逆らうメリットも感じなかった。

 『完全なる秩序』とも呼ばれる世界ラ・ルークは、四千世界の中心に位置すると考えられている。世界群地図でも中心に表示されてはいるのだが、ラ・ルークに繋がるルートは隠されているため実際に見たことのあるカイストは殆どいない。ラ・ルークには生物はおらず、繋がるゲートは全て文明管理委員会が確保しているらしい。ラ・ルークに入ることを許されるのは長老と呼ばれる最高幹部の一部のみとか。

 知られているのはその程度で、後は勝手な噂や憶測が飛び交うばかりだ。情報の隠蔽と撹乱には『裏の目』ガリデュエも関わっているらしい。

 重要な未知のものを相手にするのだから、用心はしておくべきだろう。

 時間をかけて体内の不純物を可能な限り除去し、全身を隅々までコントロールする。裏鋭は自身の急所も全て把握している。その急所が出来るだけ少なく、狙いにくくなるようにコンディションを調整していく。衣服も我力を染み渡らせて裏鋭の性質を帯びさせる。指サックとリストバンドと針は元々裏鋭の一部だ。

 ソファーに腰掛けた姿勢のまま、裏鋭は完璧ではないものの最善となった。何処からどんな攻撃が来てもどんな相手でもそれなりの対応が出来るだろう。Aクラスの不意打ちを食らえばまあ、負けるのだが。

 目的地への到着は、アナウンスの前に察することが出来た。

 異様な冷気を感じたのだ。

 実際に室温が下がった訳ではないが、寒さに似た感覚……肉体への影響は二次的で、本質は魂で感じているものか。魔術でもない。カイストの我力とは異なっている。

 そもそも寒さとは何であろうか。物理的には熱は分子・原子の振動である。振動が激しいほどエネルギーと乱雑さは増すのだから、『完全なる秩序』ラ・ルークは熱のない凍った世界なのかも知れない。

 だが、単に凍った世界なら裏鋭は絶対零度の領域も普通に歩いた経験がある。こんな、キリキリとした緊張感を孕んだ、魂を責めてくるような嫌な感覚ではなかった。

 探知士の監視が消えていた。どうやら死んでいるようだ。船の防御力は高かったろうが、壁を貫くこの妙な冷気に半端なカイストは耐えられなかったか。或いは、崩壊する前に自殺したか。最初からそういう予定だったのかも知れない。

「ら・るーくにとうちゃくしました。じゅんびをおえるまでしょうしょうおまちください」

 スタン・ナバルの声がした。船内は裏鋭と彼だけになっているようだった。

 裏鋭は動かずに待った。痛みにも似た感覚は次第に強くなっていった。

 十五分ほどで変化を感じた。空間が、繋がったようだ。

 部屋のドアが自動で開き、人型の霧が立っていた。

「おまたせしました。さいしょのきゃくまからら・るーくのくうかんにつないでおります」

 あのテーブルと椅子しかない部屋が客間だったということに驚きながら、裏鋭は黙って頷いた。危険な客が来る可能性も想定して客間は頑丈に作られ、出入り口に近い場所に配置されているのかも知れない。

 先導されて廊下を歩く、その短い距離の間に船の異常に気づいた。壊れかけている。原理は分からないが何かしらのダメージを受け続けている。ラ・ルークに長く留まっていると最高レベルの航界船でさえ持たないのか。

 帰りはちゃんと送ってもらえるのだろうか。裏鋭はふとそんなことを思った。元々身一つで何処にでも行けるのだから問題はないのだけれども。

 最初の部屋に入ると光に縁取られたドアがあった。裏鋭がサマルータで乗り込んだ入り口。向こう側が覗ける筈の丸い小窓には、暗黒しか映っていなかった。

「がりょくぼうへきをみつにたもってください。きをぬくとしにますので」

 スタン・ナバルが告げ、ドアが断末魔のような軋みを上げて開いていった。

 最初に感じたのは、冷たい風。

 だが物理的なものでないとすぐに分かる。こちら側と向こう側に空気の移動はない。開いたドアの奥には何も見えない。

 ラ・ルークはただの、闇だった。

 光源がないだけの単なる暗闇なら裏鋭は問題なく見通せる。本来の視覚は電磁波である光を受け止めて構築されるものだが、ベテランのカイストになれば電磁波以外の現象から視覚を擬似的に再現する技術を持っている。媒介手段なしに能力で直接情報を掴む探知士のような者もいる。

 結界や、魔術・幻術とも異なる闇。裏鋭は目を凝らす。急所を見極めるために鍛えた観察力で。まだスキャン・モードは使わない。まず対象を見て、情報を集めなければ。

「ら・るーくについてはんめいしていることはそれなりにあります。ただ、さいしょはできるかぎりじぜんじょうほうなしでみていただきたかったのです」

 裏鋭の隣に立ち、スタン・ナバルが話す。灰色の霧の中で魔術士は何を思うのか。裏鋭はただ扉の奥の暗闇に集中していく。魂を切りつけてくるような冷気も放置する。ただ、目を凝らす。

 少しずつ、ノイズ混じりで何か見えてきたと思ったら、急に世界が開いた。

 何もない、ぽっかりとした、空白。いや、何か浮かんでいる。裏鋭はドアに歩み寄る。ラ・ルークの本質へ近づこうとする。

「ふよういにでないほうがいいですよ。ここはくうかんざひょうかくほもふだんどおりにはいきません」

 裏鋭は光るドア枠の手前に立ち、冷気が染み出してくる境界ぎりぎりまで顔を寄せた。

 世界の中心に浮かんでいるもの……いや、浮かんでいるのではなかった。あれが世界の根源であり、空間はその付属物なのだ。

 互いに逆回転する二つの正四面体。

 巨大であったがこの世界に大きさはおそらく無意味だ。世界の広がりは果てしないように見えて、同時にそれが本物の空間でないようにも感じていた。構造物を、裏鋭の目は白色と認識した。二つの四面体は面の一つを互いに密着させ、いやごくごく僅かな隙間が開いている。例えは悪いが両手で雑巾を絞るように互いに逆向きに回っている。裏鋭から見て上にあるものが時計回り、下は反時計回りに。音もなくゆっくりと、回っている。

 唐突に裏鋭は気づく。四面体の回転周期は一日二十四時間と一致している。ああ、逆か。ラ・ルークの中心の回転周期を基準に委員会は一日の長さを設定したのだ。これになるべく近づくように彼らは宇宙型世界の居住可能惑星の自転速度を調整し、天動型の世界では太陽の移動速度を調整してきたのだ。サマルータの大地の流れる速度も委員会が関わっているかも知れない。

 裏鋭は左手を伸ばし、手首までを慎重に船外に出した。ビリビリとした痛みを感じ、我力防壁を越えて染み入る冷気に肉体が崩壊を始める。

 冷たさ。厳しさ。感情の入る余地のない正しさ。遊びのなさ。ランダム性の完全な排除。

 だが何故それが破壊に繋がるのか。

 責められているような奇妙な感覚の本質は、何なのか。

 自分の左手首がグズグズに溶けて消えていく様子を、裏鋭は体の内外から観察していた。

 手首が骨だけになり、骨までも塵になり、微粒子の欠片も残さず消えてラ・ルークにゴミを作る心配が杞憂に終わった後で、裏鋭は左腕を引っ込めた。ショルダーバッグから出した帯で断端手前を縛り止血する。

 理解した。本質の一端を捉えた。

 完璧な秩序に、人は耐えられないのだ。カイストであっても。

 何故なら、魂と肉体の活動は、多少なりとも混沌を孕んでいるのだから。

 人は秩序と混沌の混じり合う世界に生き、混沌が存在することを前提に活動する仕組みになっている。だから完璧な秩序に触れれば不具合を起こす。ラ・ルークが最初見えなかったのはそういうことだ。航界船が壊れるのもそういうことだ。

 混沌に潜ったカイストの逸話がある。世界の外側、更に四千世界群の辺境の外側、真なる混沌の海に潜ったという『不死者』グラン・ジー。『裏の目』ガリデュエと『究極の黒魔術師』ザム・ザドルが実験に関わったとされ詳細は不明だが、魂の構造も脅かされる相当に危険な冒険であったろう。

 ラ・ルークのあの中心、秩序の中心に近づくのは、混沌へのダイブにさほど劣らぬ冒険ではなかろうか。

 究極に単純化された世界は概念と区別がつかなくなるのだろうか。あの正四面体は立体空間を象徴していると思われた。点が二つあれば線が定められ、三つあれば面が定められる。そして立体が表現可能な点の最小数が四だった。回転しているのは動くということ、つまり時間軸の存在と、同じ経過を繰り返すということを示しているのか。二つの正四面体が互いに逆回転しているのは……反対の性質のものがワンセットであることの暗示だろうか。いや、これ以上はただの推測になってしまいそうだ。

 見えているものが自分というフィルターを通したものに過ぎないことを裏鋭は理解している。しかしそれも真実の一面である筈だ。

 そして裏鋭は一つの結論を得た。

「りえいさま、いかがですか」

 タイミングを測っていたようにスタン・ナバルが声をかけた。

「ここが四千世界の根源なのか、私には分からない」

 容赦のない秩序によって喉が不具合を起こし、裏鋭の声は掠れていた。

「ただし、もし根源であったとしても、急所であるかどうかはまた別の話になる」

「ほう」

「ラ・ルークの急所は二つの正四面体の隙間にある回転軸だ。存在しないが存在している。今の私には到底刺せない急所だが」

 スキャン・モードを重ねた視界に極彩色の光点が映っている。しかし数は少なく、正四面体の構造に沿ってあまりにも奇麗に並んでいた。そして、白い光点はただ一つだ。輝きの弱い、届きそうで届かない急所。

 改めて意識をずらし、殺すべき対象を変える。白い光点は薄れ、消えてしまった。

 完璧で虚ろな秩序の空間の何処にも、白い光点は見えなかった。

「だがそれはラ・ルークの急所であって、四千世界の急所ではない。四千世界の急所はここには見当たらない。単に私の未熟さ故かも知れないが、今分かるのは、それだけだ」

 裏鋭は答えながら内心安堵している自分に気づいた。この危険な魔術士に四千世界を滅ぼす急所を教えずに済んだためか。

 それとも、裏鋭自身が四千世界を滅ぼさずに済んだためなのか。急所を見つけたら刺してしまいたくなるのが裏鋭だから。

「さんこうになりました。りえいさま、たいへんおてすうをおかけしました」

 灰色の霧が深々と、一礼した。

 調整された声音に、これまで隠されていた感情……愉悦を、裏鋭は感じ取った。

 その瞬間、裏鋭は、ゾクリ、と来た。

 殺せる、と思ったのだ。

 スタン・ナバルの全体像は見えぬままだし、究極の急所を発見した訳でもない。だが、感情の滲んだ声を遡って刺せば、殺せる。急所の一つに届く。

 その恐ろしい誘惑に裏鋭は耐えた。攻撃されてもいないし騙された訳でもないのに、契約を破って殺すことは出来ない。

 スタン・ナバルが台詞を終えてコンマ二秒も経たぬうちに、急所は見えなくなってしまった。もう殺せない。

 裏鋭が殺せると思ったことを、スタン・ナバルも気づいただろう。だが人型の霧はそれについては何も言わなかった。

 航界船はまだなんとか稼動して、裏鋭は最寄のフリーゾーンまで送ってもらえた。報酬は莫大なルースだった。ガルーサ・ネットが普及させたカイスト間の通貨で、特別なものではないのだが、裏鋭にとってはラ・ルークを見られたのが報酬のようなものだったから不満はなかった。

 ただ、スタン・ナバルという魔術士のことは、それからもずっと裏鋭の心にモヤモヤを残していた。

 

 

  五

 

 やはりあの件が、原因だろうか。

 鎖に繋がれ列になって歩きながら裏鋭は考える。

 スタン・ナバルにラ・ルークを見せられてから七百万年が過ぎた。

 相変わらずあの不気味な魔術士は無名のままだし、四千世界におかしなことが起こった訳でもない。ただ、用心はしていた。

 口封じのため消される可能性を。

 秘密を洩らさないようにする最善の方法は、『裏の目』ガリデュエに依頼して双方の合意の上で余計な記憶と痕跡を抹消することだった。もし提案されたら裏鋭が受けたかどうかは微妙なところだが、スタン・ナバルは提案してこなかったのだ。ならば帰り道の途中で確保され、無限牢に放り込まれるという可能性も、考えてはいた。しかし何もなく解放された。

 それでもあれ以来、文明管理委員会の支配域には入らず、なるべく関わらないように努めてきた。出来る限り不意の襲撃にも気を配ってきたつもりだった。

 七百万年も経ってからフリーゾーンで、委員会のAクラス四人に奇襲されては、裏鋭にはどうにもならない訳だが。

 鎖で数珠繋ぎにされたカイスト達の列は死人のような顔でノロノロと進む。多くは手足を失ったり腹が裂けたり目を潰されたりしたままだ。でも死んではいない。

 裏鋭自身も両腕を肘部分で断ち切られ、両目を潰され両膝を砕かれている。更には他の被連行者と同じく首の後ろに打ち込まれた科学士作の拘束機が、裏鋭の我力使用を大幅に抑制していた。

 囚人の列が向かう先には無限牢の入り口があった。一度見ておきたいとは思っていた。しかし、じっくり観察する前に中に入るのは遠慮したかったのだが。

 無限牢は文明管理委員会が開発し、ボルタネッツで千九百万年前から稼動している特殊隔離施設だ。一度収容されれば絶対に出られない、死んで魂になっても抜け出せない、永遠の牢獄。中がどんな様子か分からず原理も公開されていないが、実際に出てきたカイストがおらず、転生して四千世界に復帰したカイストもいないため、信憑性は高かった。

 永遠に転生を繰り返し世界を渡るカイストにとって、絶対に避けねばならないことだ。

 無限牢に収容するのは委員会の管理世界において重大な違反を行ったカイスト……所謂ならず者カイストに限ると彼らは主張している。しかし、そのならず者の明確な基準は提示されておらず、恣意的に適用されているとの批判は多い。つまり、委員会にとって気に食わない、都合の悪いカイストを抹殺するのに使っているのではないかという。

 仕事を選ばなさ過ぎる『移り火』カ・ドゥーラが入れられたのはまあ分かる。委員会のある長老専属の殺し屋だった『隻眼影』ルーンが入れられたのは政争の果てに切り捨てられたという噂だ。ルーンを切り捨てた長老も結局無限牢に押し込まれたそうだが。しかし『キング・オブ・パワー』または『ソウル・シェルター』と呼ばれるロゾム・ハザスが入れられたのは明らかにおかしな話だった。彼が善人であるのはカイストなら誰もが知るところだったし、悲惨な死を遂げた魂を掬い上げることはあっても委員会の管理世界を荒らすようなことはなかった筈だ。

 結局のところ、強い奴が好き勝手に出来る、それだけのことなのだろう。今は文明管理委員会が強者なのだ。

 両目を抉られた状態でも裏鋭は前方の扉が見えている。十人程度ごとに開いて人を入れて、また閉じてを繰り返している。強化士か錬金術士によってガチガチに強化された扉だ。その奥がすぐ無限牢の特殊領域になっている訳ではなく幾つものエリアを通過する必要があるようだ。強力な結界の気配を感じる。

 裏鋭達が今歩いている広めのトンネル状の通路にも、結界は施されている。無限牢に入れられたくなくてここで自殺するカイストがいても、魂が結界から逃げ出せないようにする効果。ほんの数分前に自分で延髄を破壊して死んだ者がいたが、淡い光の人型が肉体から浮かび上がったところで係員に捕獲され容器に吸い込まれていた。自殺するならもっともっと早くやっておくべきだったのだろう。

 しかし、それならわざわざ囚人達を生かして連行するのではなく、ここで皆殺しにしてしまった方が楽ではないか。それをしないのは結界と魂捕獲の道具も確実でなく、取り逃がす可能性があるからなのか。だからといって裏鋭はここで自殺して試す気はない。

 もう少し無限牢を観察してみたかったが、そろそろのようだ。裏鋭は扉の奥から取り返しのつかない重さを感じていた。

「イクスプラク」

 列に同行する係員に交じり、退屈そうに歩く男に裏鋭は声をかけた。囚人達の視線が集中する。裏鋭と、委員会のAクラス処刑人『歪め屋』イクスプラクに。

「何だ」

 眠たげな声でイクスプラクは問い返す。目では見えないが、彼がいつものスーツ姿で微妙に猫背で、陰鬱な暗い顔をしていることは分かっている。裏鋭を襲撃して捕らえたAクラスの一人だった。裏鋭が土壇場で逃げないように監視役を務めているらしい。

「スタン・ナバルという魔術士を知っているか。委員会の所属じゃないかと思うのだが」

「知ってるよ」

 イクスプラクはあっさり答えた。

「無限牢の開発者だ」

 裏鋭は驚いたが、同時に納得もしていた。無限牢などという前代未聞のシステムを創り上げたのだから、まともなカイストである筈がない。

 イクスプラクの発言に、委員会の係員達もギョッとした様子だった。違和感。タブーになっている情報をイクスプラクが喋ったことに驚いたようだが……と、裏鋭は気づく。おそらく彼らはスタン・ナバルについての発言を禁止されているだけでなく、検証士に心を読まれないように記憶を封印されていたのだろう。イクスプラクは封印まではされていないようだが、ここで喋ったのはどうせ裏鋭達が無限牢に入れられて二度と出てこられないと判断したためか。

「そうか。……ところで、急所のことなんだが」

「またそれか」

 うんざりした声音が返ってくる。裏鋭は百五十九億才で、イクスプラクは二百六十二億才。長いつき合いだ。互いに虫が好かないという関係ではあるが。

「急所というのはたまに、信じられないような場所にあったりするものだ」

「ふうん。で」

 それがどうした、と言わんばかりだが、イクスプラクの警戒心が強まるのを裏鋭は感じ取った。だがもう遅い。

 充分な観察時間を経て、裏鋭はスキャン・モードで無数の光点が『見えて』いた。自分の障害となるものを、その集団を、機械を、結界を、まとめて一つの構造として捉えていた。強く輝く白い光点も見えていた。自分のすぐ近くに。

 裏鋭は口の中に予備の予備の予備、最後の隠し針を生成した。唇で挟み舌で針の頭を押さえる。グネリ、と世界が歪む無数の光が流れる白い光点が目の前にある。針が突き刺さるなめらか、に、光点を貫いていく。

 拘束機が裏鋭の我力を一般人と大差ないレベルまで抑制している。だが、正しい急所なら、我力の強さなどあまり関係ないのだ。

 裏鋭が貫いた急所は、自分の首に埋め込まれたその拘束機だった。

 ポポポポポポポポン、と、奇妙な音がして囚人達の拘束機が壊れていった。裏鋭自身にも理解出来ない法則で繋がる連鎖反応。係員達が目や鼻や耳から血を噴いて倒れていく。

「なっ」

 イクスプラクが何か言いかけた動こうとした。だが得意のねじれ結界が裏鋭に届く前に彼も目鼻耳から血を噴いて即死した。能力が自分の死体に誤爆したようで首がねじれ頭部が歪みクシャリと潰れた。

「うおおおお助かったぜっ、逃げろ逃げろ逃げろ」

 囚人達が喜び叫び、鎖を引きちぎって駆け出した。裏鋭も砕けた膝に鞭打って出口へ走る。イクスプラクが死ぬまで少しタイムラグがあったので、真の急所には遠かったと悔やみながら。

 無限牢自体も無傷のままだ。いずれちゃんと観察して急所を見つけてみたいものだ。機会があれば、いずれ。

 警備員達が駆けつけてくる。囚人達はボロボロの体で必死に戦っている。裏鋭も口に咥えた針で適当に敵を殺しながら要塞を脱出した。追っ手の数は多く、すぐにAクラスもやってくるだろう。魂を捕らえる結界から出たことを確かめ、裏鋭は自分の急所を刺した。

 

 

  六

 

 裏鋭は荒野を歩いている。

 独りで歩いている。

 裏鋭はずっと独りだった。誰かと一緒に仕事をすることもあるし、検証士などがついてくることもあるが、それでも独りだ。他人に心を許すことはない。

 愛情というものを感じたこともない。遥か昔、カイストになる前はあったのだろうか。思い出せない。

 性欲……ない訳ではない、と思う。Bクラスの頃までは稀に娼婦を買うことがあったが、行為中に相手の急所を刺してしまいもう駄目だと思った。

 誰かを強く憎むこともない。憎むというのは他人に何か期待していることの、裏返しではないだろうか。裏鋭は他人に何も期待していない。一刺しで殺せるか、殺せないか。逆にこっちが殺されたら、自分が未熟だっただけのこと。次は勝てばいい。

 興味があるのは、急所のことだけだった。

 よく思い出す光景がある。カイストになる前。出立の人生、おそらく少年時代に見かけた光景。

 街中で、男二人が口論していた。

 片方は太った大男で、顔を真っ赤にして怒鳴り散らしていた。

 片方は地味な服を着た気の弱そうな男で、困った顔で何度も頭を下げ謝っていた。

 しかし謝罪は通じなかったようだ。大男が大きく腕を振りかぶり、気の弱そうな男の顔を殴りつけた。

 気の弱そうな男は細い悲鳴を上げて倒れた。

 勢い余ったのか、大男の方もそのままよろめいて、相手にのしかかるようにして倒れていた。

 気の弱そうな男はなんとか這い出して、殴られた頬を押さえながらまだ頭を下げて謝っていた。それから逃げるようにその場を立ち去った。

 大男はうつぶせに転がったまま、起きてこなかった。いつまで経っても動かないので、傍観していた人々が近寄っていき、誰かが「死んでいる」と叫んだ。

 やがて警官がやってきて、大男の死体を調べた。裏鋭はその様子をずっと見ていた。

 上着の左胸に滲んだ小さな血の染みを指差して、警官は「急所を一突きにされている」と言った。おそらく細身のダガーでやったのだろうと。殴られたふりをして、皆が見ている前で、誰にも気づかれずに。

 急所を一突きにされている。

 ああ、なんて、かっこいいのだろう。

 地味で、さりげなくて、始まった時には終わっていて、ただの一突きで、正確に急所を貫いているのだ。

 裏鋭はずっと、ずっと、あの光景に取り憑かれている。

 気の弱そうな態度は擬態だったのだろう。あの男は実は殺し屋で、わざと大男を挑発したのかも知れない。そうでないのかも知れないが、もう真実は分からないしどちらでもいいことだ。

 あの男はカイストではなかったようだから、裏鋭はとっくに彼を追い越している訳だが、それでも急所に対する欲求が収まることはない。

 『不死者』グラン・ジーをどうやって殺すか。これは今のところ失敗し続けている。

 『八つ裂き王』フィロスとは定期的に立ち合わせてもらっている。充分な観察時間を貰えれば裏鋭の勝率は八割程度、そうでなければ一割以下となる。フィロスは裏鋭が急所を見極めるまでわざと待ちたがる。会う回数が増えるほどフィロスに関する情報も増えるので急所を見つけるまでの時間は短くなっていくのだが、フィロスは気にしていない。気にするようならAクラスなどやっていない。

 『剣神』ネスタ・グラウドは活動期が非常に短く多忙になるためなかなかまともに立ち合えない。修行期の、一心不乱に素振りしている様子を暫く眺めたりもしたが、まだ殺せそうになかった。素振りの余波を食らって何度か裏鋭の方が殺された。

 スタン・ナバルとはあの時以来、一度も会っていない。向こうから連絡が来ることもない。四千世界を丸ごと滅ぼす急所についての研究は進んでいるのだろうか。薄ら寒い不安に襲われることがあるが、裏鋭は自分のやりたいことをやるだけだ。

 まずは、一つの世界の急所を見極めて滅ぼしてみることだろう。人に迷惑をかけないように、誰も住んでいない辺境世界で試したいところだが。

 それから、『彼』だ。

 荒野をフラフラと歩く人影に、裏鋭は気を引き締める。

 無限の荒野を越えた男。荒野の主。殺戮神。十四の世界を滅ぼした男。

 そして、無限牢を破壊した男。

 裏鋭は収容されそうになって逃げたが、その千二百万年後に『彼』は内側から無限牢を完膚なきまでに破壊してのけた。無限の力を持つ『彼』を収容してしまった文明管理委員会の正気度を疑うが、いつの間にか勝手に入り込んでいたという説もある。

 三千百万年の稼動期間中に数千万人の、下手をすると億を超えるカイストが強制収容され、破壊時に残っていたのはたったの七人だったという。他は魂ごと消え去ったのだ。

 その怒り狂った生き残りの七人と『彼』によって委員会は壊滅的なダメージを受け、今も立て直しに苦労している。十二人の長老のうち十一人が墜滅したそうだ。もしかすると、スタン・ナバルもその時に墜滅しているかも知れない。

 生き残りの七人が『彼』を会長に祭り上げ、オアシス会という組織を作った。正式名称は「荒野にオアシスを作る会」だそうだ。

 百億年の孤独で狂った『彼』の心に、少しでも潤いをもたらそうということらしい。

 それで少しは幸福に近づいているのかも知れないが、今日見る『彼』はやはり独りだった。

 そもそもカイストなんて、皆孤独なものだ。一般人も多分そうなのだが、彼らは錯覚によって短い人生を慰めている。カイストは孤独を抱えながらも、自己満足のために進み続ける。

 裏鋭の道も、まだまだ先は長い。そのことに喜びと一抹の寂寥感を覚えながら、裏鋭は歩く。

 乾いた荒野を歩いて、歩いて、距離が三十メートルを切ったところで、『彼』が立ち止まり、振り返った。

「俺に何か用か」

 『彼』の顔はやはり虚ろで、深く澄んだ瞳は裏鋭を見ながら何処か別の遠くを見ていた。

「私は裏鋭だ。君とはこれまで六度立ち合い、六度敗れた。これから七度目の挑戦をしたい」

「立ち合い……挑戦……つまり、殺し合いをしたい、ということだな」

 顔を少し斜めに上向けて考える仕草をしてから、『彼』は尋ねた。

「そうだ」

「そうか。……じゃあ、来てくれ」

 『彼』は両腕を広げてその場に立ち尽くす。虚ろな表情は変わらなかったが、瞳の奥が燃えていた。『彼』は、喜んでいた。

 接近するまでの充分な時間をかけて、裏鋭には見えていた。見え過ぎていた。

 『彼』の全身が急所だった。スキャン・モードでは白く輝く人の形の塊に見えた。何処を刺しても急所だった。

 しかしきっと、殺せないだろう。

「参る」

 裏鋭はそれでも宣言する。足を踏み出す。グネリ、と世界が歪む世界が一直線になる裏鋭と『彼』だけになる急所までの道が見える右手の針を感じるこれを突き刺すことに長い長い人生を費やしてきたこの針で急所を貫くことだけに白い輝き裏鋭は駆ける滑る世界が流れる輝きに向かって裏鋭の必殺の針は滑り込んでいく。

 急所を一突きに。

 裏鋭は『彼』にまた敗れたが、死ぬ間際にも長い道の先を見ていた。

 

 

戻る