ずれ

illustration by Fakir
 

 僕の家には開かずの間というのがある。以前は祖母の部屋だった。五年前に祖母が亡くなってからは物置になり、何やかやと要らないもの、始末に困るものばかりが詰め込まれて、今では誰も開けることもない。祖母は優しかったが、母とは折り合いが悪くいつも喧嘩になっていた。この部屋がひどい仕打ちを受けているのは、そんな理由によるのだろうか。

 で、その部屋が何処にあるのかというと、実は僕の勉強部屋の向かいにある。僕は自分の部屋では勉強をしているかテレビゲームをしているかで、この開かずの間について思いを巡らせることなどとんとなかった。

 この夜までは。

 僕は勉強をしていた。自分なりに努力はしている積もりだが、学校での順位はあまり上がらなかった。高校二年生。きっと皆も受験に向けて、必死に頑張っているのだろう。僕は数学の問題集をやっていた。分からない問題があって詰ってしまい、先程から全然進んでいなかった。そうなると眠くなって、ぼんやりと問題を見ているだけで頭は働かず、ただ時間だけが過ぎていく。うつらうつらしている自分に気がついて時計を見ると、もう午前二時を回っていた。明日の朝も課外があるので六時に起きなければならない。

 僕は寝ることにした。頭は朦朧として、勉強が予定通りに進まなかったという苛立ちと、こんなことならもっと早くから寝ていれば良かったという後悔と眠気とでごっちゃになっていた。

 僕はふらふらとトイレで用を足して、部屋に戻っていった。

 その時、何を勘違いしたのか、僕は自分の部屋ではなく、向かいの開かずの間の方のドアノブを握っていた。

 あっ間違えた。

 そう思いながらも僕はドアを開けた。

 薄闇の中で僕が見る筈のものは、足の折れたソファーや古いステレオ、弦の錆びたギターや色褪せた食器棚などが隙間なく積み上げられている光景だった。

 だが僕の見たものは違っていた。

 ドアの向こう側には、見渡す限りの広大な砂漠があった。遥か遠くに、平らな地平線が見えていた。澄んだ夜空には二つの月が浮かんでいた。右のが三日月で、左のが満月だった。青い光に照らされて、不毛の砂漠が何処までも何処までも・・・。

 僕はドアを閉めた。

 眠い目を擦りながら僕は自分の部屋のドアを開け、ベッドに潜り込んだ。

 

 

 いつもと変わりない朝だった。机には数学の問題集が開きっ放しになっていた。

 僕は、昨夜のことを鮮明に覚えていた。

 制服に着替えて部屋を出て、僕は向かいの祖母の部屋のドアを見つめた。

 ノブを握り、ゆっくりとドアを開けた。

 そこには、足の折れたソファーや古いステレオ、弦の錆びたギターや色褪せた食器棚などが、隙間なく積み上げられていた。全てのがらくたが、うっすらと埃を被っていた。

 砂漠など何処にもなかった。

 夢だったのだ。僕はそう考えた。或いは、ただの見間違いか。

 扉の向こうが別世界になっているなんてのは、映画や小説の中だけのことだ。ここは現実の世界だ。そんなことある訳がない。ただ単調で退屈な日常が、果てしなく繰り返されるだけだ。

 顔を洗って台所に行くと、母が朝食の準備を終えようとしていた。いつもと同じように。一つだけ違う点は、食卓に父がいることだった。

「おはよう」

 新聞を読んでいた目を上げて、父が僕を見た。

「おはようございます」

 僕は言った。

 父は毎朝七時過ぎに起きているから、僕らと顔を合わせることは殆どない。夜は夜で、口を開けば『勉強しているか』とか『この頃成績はどうだ』くらいの台詞しか出てこない人間だ。

「今日は珍しく、早く目が覚めたからな」

 僕の考えを見透かしたように父が言った。相変わらず冷たい無表情だった。

 やがて姉の貴子が起き出してきた。目が真っ赤で、とても眠そうに見える。姉は女子高の三年で、一番苦しい時期だ。昨夜僕が寝ることにしてトイレに行った時も、姉の部屋からは灯かりが洩れていた。

 母が料理をテーブルに並べた。久し振りに、家族四人が揃った朝食だった。母はまだ僕らの分の弁当を作っているが。

 僕は、せっかくだから、昨夜見た奇妙な光景を話してみようと思った。

「あのさ、開かずの間のことだけどさ」

 母は黙って弁当を詰めていた。父の肩がピクリと動いた。姉が、何を言い出すのかとどんよりした目を向けた。

 僕は続けた。

「昨日さ、寝る前に間違えてそっちの部屋に入りかけたんだよ。そしたら部屋が砂漠になってた」

 母がちょっとびっくりしたような顔で振り向いた。父は無言だった。姉が今の話で眠気が取れたのか、ハハッと笑って言った。

「馬鹿ねー浩志、寝惚けてたんでしょ」

「でも凄かったんだよ。地平線が見えたし、ちゃんと空もあったんだ。月が二つ出てて・・・」

 その時父が僕を睨んだ。

「無駄口は止めて早く食べろ。遅刻してしまうぞ」

 僕と姉はびっくりして黙り込んだ。父は無口な堅物で必ずしも楽しい人間ではなかったが、それでもちょっとした食事時の会話に荒い口調で水を差すようなことはしなかった。だが今の父の目付きには、殺意さえも含まれているように感じられた。

 重苦しい沈黙の中で、朝食は進められた。

 もしかして、父は何か知っているのだろうか。そんな思考が僕の頭に浮かんだ。知っているって何をだ。昨夜のは僕の夢ではなかったのか。

 いや、そんな馬鹿らしいことを考えてはいけない。今朝はたまたま、父の機嫌が悪かっただけなのだろう。

 僕はそう思うことにした。

 だが、変化は既に始まっていたのだ。

 

 

 僕は自転車に乗って出発した。前にカゴの付いたママチャリで、乗り始めた当初は格好悪いから嫌だと思っていたが、鞄も余裕で収まるし、慣れてみると気にならない。僕はこのママチャリを飛ばして二十分ほどで高校に着く。途中、川沿いの細い道や田圃の中の道を通ったりする。

 校門を抜けてすぐ近くにある自転車置場に自転車を入れる。今日は珍しくガラガラだ。課外を受ける人が多いので、大抵ここの置場は一杯で、僕はいつも裏の置場に回っていた。高校でも自転車の盗難が相次いでいるので、僕は自転車に二つの鍵を掛けている。

 僕のクラスは二年四組で、校舎の二階にある。古い木造の校舎はなかなか渋い色褪せ具合いで、歩くだけで軋むと文句を言う人もいるが、僕は気に入っている。

 教室に入ると、やはり来ている人は疎らだった。いつもは半分近くは埋まっているのだが。

「おはよう」

 窓側の席にいた真田君が、僕に声をかけた。彼は僕の親友、僕の尊敬する、たった一人の男だった。

「おはよう」

 僕も挨拶を返した。彼なら、昨夜僕が見たものについての話を、真面目に聞いてくれるだろうと思った。だが僕が話し出す前に、先生がやってきて課外が始まった。

 今日はちょっと早いな。僕は自分の席に着いて教科書とノートを取り出しながら、おかしなことに気がついた。

 先生が違う。今日は火曜日で、鈴木先生の数学の課外の筈だ。だが教壇に立っているのは英語の木戸先生だった。

 ハハ。先生が間違えたのだ。一瞬僕はそう思ってにやりとした。

 だが周囲を見回すと、クラスメイト達は皆、英語の教科書を手にしていた。

 僕は自分の顔に血が昇るのを感じた。僕が間違えたのだ。なんてこった。これじゃあ朝早く起きて学校に来た意味がない。

 念の為、横の席の前原君に小さな声で聞いてみた。

「ねえ、今日は数学じゃなかったっけ」

 前原君は、何言ってるんだこいつ、というような目で僕を見た。

「今日は火曜だろ。英語だよ」

 前原君は言った。

 僕は恥ずかしさで頭が一杯になっていた。僕は黙って数学の教科書を鞄にしまった。

 英語の授業は僕の事情に関わりなく進められた。前原君は教科書を僕に見せてくれなかった。もっと人情味のある奴だと思っていたのに。僕は内心で前原君を恨んだ。

「じゃあ、三番は向田君ね」

 木戸先生が僕の名を呼んだ。そして僕の机に英語の教科書がないことに気づいた。

「きょ、教科書を忘れました」

 仕方なく僕は言った。

 先生は呆れ顔で僕を見た。

「それじゃあ君は何のために課外を受けてるの」

 十人近くいたクラスメイト達が、笑い声を上げた。それは嘲笑に近かった。

 ただ真田君だけは笑わなかった。彼は無言で席を立ち、教科書とノートを持って、僕の隣の空いている席に座った。そして教科書を僕にも見せてくれた。

 僕は真田君に救われた。

「今日は数学だと思ってたんだ。ずっと、火曜日は数学だと思ってた。今までそれでやってこれたんだ」

 授業が続けられる中、僕は小声で真田君に囁いた。

「火曜日は前から英語だが」

 真田君は言った。

 僕は自分の生徒手帳を取り出した。時間割りを書き込んだ欄をめくる。

 火曜日の朝は、数学になっていた。今年度の始めに、僕が自分で書いたものだ。ずっとこれを見ながら準備をしてきたんだ。

 僕はこの時間割りを、隣の真田君に見せた。

 真田君は、じっとそれを見ていた。

 やがて、真剣な表情で頷いた。

 

 

 課外が終わった頃には、他のクラスメイト達も揃い始めていた。渡辺君や今村君や原田君などの親しい友達も、僕と真田君の周りに集まった。

「昨日の夜、妙なことがあったんだ」

 僕はそう切り出して、開かずの間が砂漠になっていたこと、朝もう一度開けた時にはがらくたの山に戻っていたことを話した。

「夢だろ、夢」

 渡辺君は笑いながらそう言った。

「どう思う。朝の課外も変わっているし。誰も気づいてないけど。でも僕は、先週までは火曜が数学だったと断言出来る。昨日のことと、何か関係があるかな」

 僕は本当に気味が悪かった。真田君以外の仲間達は、ただ面白がっているだけだった。

 真田君が暫く考えてから、重々しく口を開いた。

「幾つか考えられる」

 僕らは黙って真田君の次の言葉を待った。

 そして彼は言った。

「一つは、君が寝惚けていたか、夢を見ていたかだ」

 仲間達はどっと笑った。真田君が真面目な顔でそんなことを言うものだから、思わず僕も一緒に笑ってしまった。

 そう、彼は冗談で言っているのではない。僕は彼のことをよく知っていた。彼はいつでも真剣だ。街を仲間達で歩いていて不良に絡まれた時、真田君は一人で彼らを半殺しにしてのけた。すぐ暴力をふるうことで有名な体育教師が、特に理由もなくクラスメイトを殴った時も、真田君は一人で抗議して署名を集め、教師を免職に追い込んだのだ。

 真田君は何事にも妥協しない強い意志と理性で、自分の道を切り開いてきた。とても高校生とは思えない、その大人びた雰囲気。それは、この汚い社会に氾濫する醜い大人達ともまた違っていた。彼は僕の最も信頼する友人であり、決して届かない目標でもあった。

「今朝の課外についても、君の勘違いだったかも知れない。まずそれが一つ」

「砂漠のことは夢だったかも知れないけど、課外のことは納得いかないな。僕は自分の記憶に自信があるんだ」

 僕は反論した。

「そうか」

 真田君が、何故か意味ありげに僕を見た。そして次の可能性を説明した。

「二つ目は、これらが全て君の夢であること」

「え」

 僕には、その意味が分からなかった。全てって何だ。

「昨日見たことから今話していることも、全てが君の夢の続きかも知れないということだ。つまり、君はまだ夢を見てるんだよ」

「今ここにいる真田君も本人じゃなくて、僕の夢の登場人物なのかい」

 とすると夢の中の人物が、わざわざこれは夢だと説明してくれていることになる。

「ただこれは君の立場からの可能性の一つであり、実際は正しくない。僕には実際に君が見えているから、僕にとっては僕の方が夢を見ているかも知れないということになる。だが質問しているのは君だし、その可能性は君には関係ないな。結局のところ、これが君の夢でないことは僕には分かっているが、それを君に証明することは出来ない」

「いいよ。よく分からないけど、信じるよ。これは夢ではない、と。他の可能性は」

 真田君以外の友達の表情が、次第に冷たくよそよそしいものに変わっていくことに僕は気づいた。どうしてだろう。でもそんなことより僕は、真田君の答えの方が気になっていた。

「三つ目は・・・」

 真田君は、強い目つきで僕を見た。そして、ゆっくり、はっきりと、それを口にした。

「世界とは、元々そんなものだということ」

「・・・。ど、どういう・・・」

 その答えは、二番目の可能性よりも意味不明なものであった。

「君は、この世界が絶対に確かなものだと信じてるのか」

 真田君は、瞬きもせずに聞いた。

「た、確かって、ここは現実だろ」

「現実とは何のことだ。それは勝手に僕らが信じているだけだ。実際に僕らが世界だと思っているものは、自分の感覚というフィルターを通して入ってきたものに過ぎない。全ては自分の感覚でしかない。物理法則なんてただの仮説だ。君は、夢の中の人物の話を信用出来るのかい。世界とは、僕らが考えているようなものではないのかも知れないんだ」

「だ、だって法則は法則だし、今までそれでやってこれたんだから・・・」

 僕は動揺していた。どうしてこんな話になってしまったのだろう。現実が確かかどうかなんて、考えたこともなかった。

「今まではそうだったかも知れない。でもこれからもそうとは限らない。それが、三つ目の可能性だ」

 僕は、何と言っていいのか分からなかった。

「馬っ鹿じゃねえの。訳分かんねえや」

 今村君が唇を歪めて言った。僕と真田君以外の友達は、冷たい目付きで離れていった。彼らの目には、怯えのようなものがあった。彼らの様子は何処かおかしい、いつもと違っている。これはどうしたことだろう。

 真田君は、彼らの暴言を無視していた。ただ真剣な顔で僕の目を見つめていた。

 

 

 授業の方は、朝の課外以外は何のトラブルもなく進んでいった。

 放課後の課外も終わり、僕は夕焼けを浴びながら自転車を飛ばしていた。

 朝に真田君の言ったことが、ずっと頭の中に残っていた。

 川沿いの道を走っている時、ガツンと前輪から嫌な衝撃が伝わってきた。硬くて柔らかい感触。

 しまった。何かを轢いてしまったようだった。考え事をしていて前をよく見ていなかったせいだろう。

 猫とかだったら嫌だな。僕は自転車を止めて振り向いた。

 猫ではなかった。

 細い自転車道の真ん中に、肌色の物体が転がっていた。

 それは、人間の、切断された手首から先の部分だった。

 僕の自転車が轢いたタイヤの痕が、手の甲に残っていた。

 手首のぐちゃぐちゃになった断面が覗いていた。

 夕焼けが、僕と手首を真っ赤に染めていた。

 僕は前へ向き直り、自転車を走らせた。二度と振り返らなかった。ペダルを漕ぐ足に力が篭った。

 

 

「お帰り」

 台所で夕飯の支度をしていた母の言葉には、いつもと違って元気がなかった。

「母さん、どうしたの」

 僕が聞くと、母は眉間に皺を寄せ、辛そうな顔をして言った。

「気分が悪いのよ。頭も痛いし」

 幾分顔色も青かった。

「無理しないで、寝てた方がいいんじゃない。夕飯は姉さんと僕で作るよ」

「いいや、大丈夫」

 母は言った。

「そう」

 僕は自分の部屋に向かった。

 

 

 僕の部屋から、テレビゲーム機が消えていた。数十本のゲームソフトも跡形もなく消えていた。

 姉が自分の部屋に持っていったのか。最初僕はそう思った。姉も結構ゲームが好きなのだ。全く、受験生のくせに。

 でも、新しいのから古いものまで、一度に全てのゲームソフトを持っていったりするだろうか。

 姉ではないとすると、父が持ち出したのか。

 ゲームなどしないで勉強しなさいと時々言っていた。今朝の態度からいっても、成績の上がらない僕に腹を立てて、ゲームを全部処分してしまった可能性がある。

 畜生。そんなに毎日何時間もやってる訳じゃないのに。ここまでしなくてもいいじゃないか。

 それならと、本棚からコミック本を取ろうとして、僕は、コミックごと、本棚が丸々一つ消えていることに気づいた。

 その本棚には、大事な小中学校の卒業写真や、教養をつけるためと父が買ってくれた世界名作文学集も収まっていた筈だった。

 いくら何でもこれは異常だった。更に僕は、本棚の重みを一身に背負い、陥没しかかっていた床が、そんなことなどなかったかのように真っ平らに戻っているのを見た。

 少しして姉が女子高から帰ってきた。僕は姉の部屋に行ってテレビゲームと本棚が失くなっていることを告げた。

「私は知らないよ」

 姉は言った。

 やがて夕飯が出来たと、母の力ない声が聞こえてきた。

「母さん、気分が悪いってさ。何か手伝ってやったら」

 僕が言うと、

「ふうん」

 姉はまるで心配していないようだった。

 僕は母にも、テレビゲームと本棚のことを聞いてみた。

 父が僕の部屋に入るようなことはなかったし、知らないということを、母は弱々しい口調で答えた。

 この日の夕飯の、じゃが芋の煮っ転がしは、異様に甘い味がした。

 母は調子が悪くて、味付けを間違ったのだろう。僕は思ったが、黙っていた。

 

 

 夜はテレビくらいしか娯楽が失くなったので、僕は勉強を始めた。

 昨夜の数学の問題集の続きをやった。解けなかった問題は飛ばして、解けそうなものだけをこなしていった。途中、姉の部屋から馬鹿笑いが聞こえてきた。何をやっているのだろう。テレビでも見ているのか。受験生のくせに。

 また解けない問題にぶち当たった。もう少しで解けそうなんだが、何かが足りない。

 そこで詰っているうちに、頭がぼんやりしてきて、気がつくとまた午前二時を過ぎていた。

 僕は悪態をついて寝ることにした。

 トイレに行った後、開かずの間には触れることなく、自分の部屋に戻った。

 そして寝た。

 

 

 いつも通りの朝だった。父の姿はなかった。まだ寝ているのだろう。

 母は台所で朝食と弁当を作っていた。

「具合いは良くなったの」

 僕が尋ねると、母は振り返らずに答えた。

「ええ。調子はいいわよ」

 母は黙々と料理を作っていた。その後ろ姿だけが見えていた。

 姉が眠そうに起き出した。

「昨日笑い声が聞こえてたよ」

 僕が言うと、姉はさも可笑しそうに笑った。

「ハハハ、ハハ。馬鹿ね、私は受験生なのよ」

 何が可笑しいのか、僕にはさっぱり分からなかった。

 姉に気を取られているうちに母が朝食を並べ、僕らは食べ始めた。

 七時四十分に、僕は自転車で出発した。昨日の帰り道での、嫌な感触を思い出した。

 

 

 朝の課外は英語ではなく数学だった。僕は念のため全部の教科書を持ってきていた。

 課外が終わり、ホームルームが過ぎて一時間目、二時間目と進んでいく。

 授業の内容自体は以前と何の変わりもない。先生の言ってることも変わらない。

 なのに何故、クラスの皆はこうも笑うのだろう。

 誰もが、先生のつまらないギャグに大笑いする。何でもないことでも、文字通り腹を抱えて笑っている。先生も笑って授業が中断することもある。皆、本当に楽しそうだ。

 最初のうちは僕も皆の笑いに乗せられて面白くもないのに笑っていたが、次第に自分の笑みが引き吊ってくるのを感じた。

 生徒の笑い声が、校舎中にこだましている。実に明るく楽しい授業だ。薄気味悪いほどに。

 僕の目は救いを求めるように真田君を探していた。

 真田君は笑っていなかった。微笑さえ浮かべていなかった。

 僕は安心した。そして笑うのを止めた。

 先生が、その時ちらりと僕の方を見た。

 

 

 休み時間になっても、渡辺君や今村君や原田君達は僕の近くに寄ってこなかった。

 僕は教室の隅で、真田君とだけ話した。

「皆、何か変だよ」

 僕は真田君に言った。ついでに昨日の帰り道で見た、人間の手首のことも話した。

「人間に、意思はあると思うか」

 真田君は、全然別のことを聞いてきた。

「どういう意味」

「自分の意思は、本当に自分の意思だと思うか」

 真田君の目は、真っ直ぐに僕の目を見つめていた。

「・・・。自分の意思なら自分の意思だろ」

「そもそも意思とは何だろうか。それは本当に自分が造り出したものだろうか。俺は時々思うことがある。意思や感情などは俺の頭の中に勝手に浮かんでくるだけで、俺は自分の体が勝手に動いているのを見ているだけ、自分で動かしてる積もりになってるだけなのかも知れないってね」

 真田君の目は鋭かった。

 その言葉は、僕の心に強く残った。

 いつの間にか、クラスの皆が僕らのことをじっと無言で見ていた。まるで、邪魔者や敵を見る目付きだった。

 真田君が自分のことを『俺』と言っていたことに気づいたのは、後になってからのことだった。

 

 

 家に帰ると母は相変わらず元気がなかった。

 大丈夫、何ともない、と母は生気のない声で言った。

 姉は、少し化粧が濃くなったように見える。

 驚いたことに、耳にピアスをしていた。姉の高校は許しているのだろうか。

 夜になって父が帰ってきた。僕はテレビゲームと本棚のことを聞いてみた。

「うるさい。そんなこと俺が知るか」

 父は凄い剣幕で叫んだ。僕はびっくりして黙り込んだ。

 父のこめかみには青い血管が浮き出ていた。

 僕は自分の部屋で勉強をしている。

 それしかすることがない。

 僕の部屋から、また何かが失くなったような気がする。

 でも、何が消えたのか分からない。覚えていない。

 数学の問題集はなかなか進まない。

 姉の馬鹿笑いが、こちらまで届いてくる。

 何かおかしい。何かが変わっている。

 ふと時計を見ると二時だった。

 僕は寝ることにした。

 問題集は、三ページしか進んでいなかった。

 

 

 ズル、ズル、ズル。

 何かがずれていく音が聞こえている。

 ズル、ズル、ズル。

 

 

 学校。別に変わったことはない。

 皆、ただ笑っているだけだ。

 この頃、授業のスピードが少し速くなったような気がする。

 いや、僕の勘違いだった。逆に遅くなっているんだ。

 先生が、時々僕の方をちらっと見る。仲の良かった友達とも、完全に断絶してしまった。どうしてなのか分からない。

 僕が笑っていないからか。笑わないといけないのか。勉強をしているだけではいけないのか。

 真田君も笑っていない。彼は前と全然変わっていない。

 良かった。

 母は元気がない。この頃は、淡々と台所で料理を作っている姿しか見ない。

 姉の格好は段々派手になってきた。やっぱり夜中の馬鹿笑いは続いている。

 父は怒りっぽくなってきたようだ。ちょっとしたことで怒鳴り声を上げる。会社で嫌なことでもあるのだろうか。母はじっと黙って耐えている。無表情に耐えている。

 僕の方は変わりない。たまに時間割りを間違えたり、学校への道を間違えることはあるが、概ね順調だ。道を間違えるだって。一年以上通い続けた道を。でも間違えるのだからしょうがない。十分か十五分遅れて着くくらいで、大した問題ではない。

 勉強。勉強はやってるよ。来年には受験生になるのだから。父も、僕の顔を見ると勉強しろ勉強しろとうるさい。

 僕の部屋から、何かが失くなっているような気がする。何が失くなっているのかは、分からないが、そんな気がする。勉強机とベッドだけは死守したい。

 この頃、頭がクラクラする。頭の中を誰かに手でかき回されているような感じだ。

 世界とは、元々そんなものだ。自分の意思は本当に自分の意思なのか。真田君の言葉をよく思い出す。

 世界はともかく、自分の意思は自分の意思の筈だ。僕は自分の意思で生き、自分の意思で勉強をしている。

 多分。

 

 

 今日の帰りも迷った。見知らぬ建物と風景。ここら辺は一本道だったのに、どうして僕は迷ったのか。

 進み続けていれば、必ず知っている道に出会うだろう。そう信じて僕はペダルを漕いでいた。

 いつしか左右には同じ形をした白い建物が延々と並んでいた。小さな病院のような雰囲気だった。時々何処かから誰かの悲鳴が聞こえてくる。

 腕時計を見ると、七時だった。もう一時間以上も、自転車を漕いでいることになる。

 道端に人が座っていた。禿頭の中年の男だ。

 僕は道を尋ねようと止まりかけたが、男の口から涎が垂れていることに気づいて、そのまま通り過ぎることにした。

「君、石川君だ。石川卓美君だろう」

 その時、男が僕に向かって言った。

 僕は石川卓美じゃない。向田浩志だ。

 男は立ち上がっていた。男の目は異様な光を帯びていた。

「違います」

 僕は自転車を止めずに言い捨てて、男の傍らを過ぎた。

「いや、君は石川君だ。僕だよ。佐川登だ」

 男はよたよたと僕の方についてきた。涎がぽたぽたと地面に落ちた。

 僕は黙ってスピードを上げた。

「石川君、石川君ってば。待ってくれよ」

 男は道路の真ん中を走って僕を追ってきた。

 僕は更にスピードを上げた。額に冷たい汗が滲んでいた。

 振り返ると、男は両腕を前に突き出した奇妙な格好で、僕を追っていた。その速度は信じられないほどに速く、全力で漕いでいる自転車に追いつきそうだった。

「僕は石川じゃない。向田浩志だ」

 僕は叫んだ。

「石川君。待ってくれよ。石川君」

 男は聞く耳を持たなかった。男は虚ろな笑みを浮かべていた。

「助けて。誰か助けて」

 僕はとうとう悲鳴を上げていた。だが道には僕と禿頭の男以外は誰もいなかった。ここはしんと静まり返っていた。さっき聞こえていたのは、僕の悲鳴だったのだろうか。突然そんな考えが浮かんできた。いいや、そんな筈はない。こんな時に何を考えてるんだ僕は。

「石川君。いーしかーわくーん」

 僕は必死でペダルを漕いだ。にも関わらず男の声はどんどん迫ってきた。

「いいいいしかああああああああわくううううううんんんんんんんんんんん」

 男の手が、僕の首に伸びた。

 僕は自転車ごと転倒した。その時道の向こうから猛スピードで大型のトラックが走ってきた。トラックはふらついていた。トラックは倒れた僕に掴みかかろうとしていた禿頭の男にぶつかった。男は凄い勢いでふっ飛んだ。壊れた人形のように地面に落ちた男を、更にトラックが轢いていった。男は悲鳴を上げなかった。ただ肉と骨の裂ける音がした。

 僕の目の前に、何かが飛んできてボタリと落ちた。

 男のちぎれた手首だった。

 この前見た手首は、これだったのかも知れない。そんな考えが浮かんだ。

 否定するのも面倒だった。僕は疲れていたんだ。

 トラックはとうに消えていた。

 道路には男のバラバラの肉片が散らばっていた。

 僕は起き上がって自転車に跨った。五分も経たずに見慣れた道に戻れた。

 

 

 僕のクラスに見知らぬ奴が増えてきた。転校生なのか。でも自己紹介もなかった。

 皆とは自然に溶け込んでいる。一緒に笑っている。

 クラスとしての人数は増えていない。誰かが代わりに外に出たのだろうか。

 でも、誰がいなくなったのか、分からない。

 真田君に話してみた。

「俺には、新しい奴など誰も入っていないように思える。クラスのメンバーは前と変わってない」

 彼は真面目な顔でそう言った。

「僕の記憶力がどうかしてしまったのかな。この頃よく道に迷うし。頭がクラクラするんだ」

 少し考えて、真田君は助言してくれた。

「日記をつけてみるといい」

 僕はそうすることにした。

 

 

 家に帰って脱いだ学生服を掛けようとして、ハンガーが失くなっていることに気づいた。

 まあいい。気づいただけでもめっけものだ。制服は床に投げた。

 僕は新品のノートを取り出した。

 今日は何日だったかな。僕は壁に健在だったカレンダーを見た。

 六月三十五日だった。

 六月のカレンダーは、日付が四十八日まであった。

 僕は黙って日記を書き始めた。

 いつの間にか、僕は泣いていた。

 

 

 空が、緑色をしている。

 空って、どんな色だったっけ。

 日記に書いておこう。忘れないうちに。変わらないうちに。

 

 

 先生が別人になっている。

「あの先生、名前何だっけ」

 僕は隣の前原君に聞いてみた。

 前原君は先生の話に大声で笑っているだけで、僕の質問に耳を貸してくれなかった。

 授業が終わった後、真田君に聞いてみた。

「鈴木先生だよ」

 鈴木先生はあんなに太っていなかったし、眼鏡もかけていなかった筈だ。

 

 

 変わってきたのは僕の頭なのか。それとも世界の方なのか。

 真田君が気づいていないことも多い。

 でも真田君だけは変わっていない。

 良かった。

 

 

 母は死人のような顔色をしている。動作も鈍い。

 父は始終怒っている。いつも額に何本も血管が浮いている。

 姉は髪を赤く染め、堂々と煙草を吸っている。皆、何も言わない。時々弾けたように笑い出す。

 弟の真治はテレビゲームばかりしている。本当にしようのない奴だ。

 あれ。

 僕に弟なんかいたっけ。

 元々僕らは二人兄弟で、姉の貴子と僕啓司・・・。

 僕の名前は啓司だっただろうか。姉も両親も、僕のことを啓司と呼んでいる。弟の真治は僕を兄貴と呼んでいる。

 昔はもっと違う名前だったような気がする。ひろ・・・ひろ・・・。

 思い出せない。

 いやそうじゃない。僕は元々啓司だったのだ。何を考え違いをしているのだ僕は。

 弟の真治はテレビゲームをしている。

 一番最初に僕の部屋から失くなったのは何だったのか。

 まあいい。勉強をしよう。数学の問題集を。

 これだけは前と変わってない。

 

 

 何となくテレビをつけてみた。

 深夜のニュースをやっていた。

「今日午後三時頃、石川卓美さん宅の石川卓美さんが石川卓美さんと石川卓美さんで石川卓美さんの・・・」

 キャスターは、僕の顔をじっと見ていた。

 キャスターは笑っていた。

「石川君、待ってくれよ、いしかわくーん、いいいいしいいいかあああわ・・・」

 僕はテレビのスイッチを切った。

 姉の馬鹿笑いが聞こえてきた。

 勉強の続きをやろう。

 

 

 学校の授業は、内容のないものだった。

 先生が笑い、生徒が笑い、先生が笑い、生徒が笑い、それの繰り返しだ。

 僕は騒音の中、一人数学の問題集をやっていた。

 三時間目の授業が始まった時、見知らぬ酒田先生(僕の知ってる酒田先生は女の先生だった。でも多分、同一人物なのだろう)が僕と真田君に言った。

「君達は別の授業を受けてもらうよ」

 何故僕達だけなのか。

 きっと、笑わなかったせいだろう。

 カマキリのように痩せた酒田先生は僕たち二人に大型のスコップを持たせ、校庭の片隅に連れていった。

「穴を掘れ」

 先生は冷たく言った。

 僕と真田君は顔を見合わせた。やがて真田君が土を掘り始めた。

 僕も黙ってスコップで掘り始めた。

 校舎からは相変わらず笑い声が聞こえてきた。いつの間に、校舎は鉄筋コンクリートになったのだろう。木造の校舎を、気に入っていたのに。

 穴掘りは、しんどい作業だった。先生は見ているだけで手伝ってくれなかった。僕達は無言で穴を掘り続け、一時間以上かけて深さ一メートルほどの穴を掘り上げた。

 僕達二人が充分収まってしまいそうな広さだった。

 そして酒田先生が、次の命令を下した。

「埋めろ」

「・・・」

「埋めろ。土をかけて元に戻せ」

「それじゃあ何のために掘ったんですか」

 真田君が強い口調で言った。

「先生の言うことが聞けないのか。これは授業なんだぞ」

 酒田先生は傲慢な態度を崩さなかった。

 僕達は仕方なく、せっかく掘った穴を埋め始めた。

 四十分近くかかって、漸く穴が埋まった。僕達は足やスコップで盛り上がった土を平らにならしていった。

「それじゃあこっちを掘れ」

 先生はまた別の地面を指差した。

「もう四時限目も終わりましたよ。今は昼休みです。それでもまだ続けるんですか」

 真田君が聞いた。

「つべこべ言うな。さっさと掘ればいいんだ」

 僕達は汗だくになって掘り続けた。こんなことに何の意味があるというんだ。でも笑っているだけの授業も大差ないか。穴掘りの方が体力はつくな。ハハハ。

 更に一時間が過ぎ、前と同じくらいの穴が出来た。

 駄目押しのスコップを入れた時、カツンという硬い感触があった。

 石のかけらかな。それとも・・・。

 真田君はそれに気づいた様子はなかった。それよりも先生の次の言葉が問題だった。

「埋めろ」

「・・・。先生・・・」

 ついに真田君が切れた。彼はのっそりと穴から這い上がり、先生の前に立った。背の高い彼は、自然に先生を見下ろす形になっていた。彼の目は憎悪に燃えていた。

 僕は、期待と不安の入り混じった複雑な感情を抱きながら、穴の底から見守っていた。

「早く埋めろ」

 真田君の迫力に怯みがちになりながらも、威厳を保とうとして酒田先生はヒステリックに怒鳴った。

「何のためにです」

 反対に、真田君の声は冷静だった。

「うるさい。さっさと埋めろ。先生に逆らうのか」

「自分でも、何故こんなことをさせているのか分からないのではありませんか」

 真田君の言葉は、先生の心に強い衝撃を与えたようだった。

「な、なんだと・・・」

 先生は目を見開いた。それは、恐怖の表情に似ていた。

「校舎は一夜にして鉄骨になったし、空は緑色になった。自分の顔も性別さえも変わっていく。記憶は疑問を述べないけど、心の隅ではおかしいと思っている。でもそれを認めることが怖いんだ。皆、当然のように動いている。疑問を口にすることは出来ない。世界がどうしようもなく変わっていくことを認めて、支えを失うのが怖いんだ」

 真田君は、楔を打ち込むように、重い言葉を紡いでいった。

「黙れ」

 酒田先生は真田君の頬を殴りつけた。

 真田君はきっとなって先生を見返した。

 そして大型スコップを勢いよく振った。

「ウギャアアアア」

 悲鳴を上げた先生の首がカクンと横に折れ曲がった。スコップの薄い縁が刃物のように先生の首筋に食い込んでいた。血が噴き出して、先生はゆっくりと地面に倒れた。

「真田君・・・」

 僕は穴の底から親友を見上げた。

 真田君は無表情に先生の死体を見つめていた。

「ど、どうするんだ」

 僕の体は小刻みに震えていた。

「どうもしないさ。世界とはそんなものだ」

 真田君は落ち着いていた。そこに死体などないかのように。

「もう穴掘りは終わりだ。戻って弁当でも食べよう」

「で、でも、先生の死体はどうするんだよ。警察が・・・」

「知らなかったのか」

 真田君はちょっと驚いたような顔で僕を見た。

「もう、警察なんてものは存在しないんだよ」

 真田君の声は悲しげだった。

 いつの間にか、校舎から聞こえていた馬鹿笑いはやんでいた。

 校舎を見ると、全ての教室の窓から、生徒達が僕達の方をじっと見つめていた。

「お前らは認めるのが怖いだけなんだ」

 真田君が、生徒達に向かって大声で叫んだ。

 彼らは後ろめたい表情を見せ、無言で奥に消えた。

「さあ、行こう」

 真田君は死体をそのままにして歩き出した。

 僕も戻ろうと思ったが、スコップの先に引っ掛かった硬いものが気になっていた。土から覗いている、白い光沢。

 僕はしゃがんで、両手で土を掻き分けてみた。

 それは、人間の頭骸骨だった。

 どれくらい前から埋められていたのだろう。僕は頭蓋骨を掲げてよく観察してみた。

 右に三個、左に二個の銀歯。

 僕の銀歯の位置と同じだった。

 これは僕の頭蓋骨だったのだ。唐突にそう感じた。

 きっとそれは正しいのだろう。

 今の僕には一本の銀歯もないのだから。

 

 

 僕の家の表札は、石川になっていた。

 僕は石川卓美だ。そうだろ。

 

 

 母は左手の人差し指に包帯を巻いていた。

「ちょっと包丁で切っちゃってね」

 ゾンビのような虚ろな表情で、母はそう言った。

 母の人差し指が少し短くなったように見えるが、気のせいだろうか。

 母と姉と僕だけの夕食だった。父はまだ帰ってきていない。弟は自分の部屋に篭ってゲームをやっている。弟はそういう奴だ。

 味の狂った夕食のスープの中に、ガキリと硬いものがあった。

 口から出してみると、それは薄い肉のついた骨だった。

 片面には、爪のようなものがあった。

「ああ、ここにあった。探していたんだよ」

 母が僕の手からそれを取り上げて、口を笑みの形に吊り上げた。

 バリッ、と、音がして、乾いた母の口が裂けた。

 母とはそんなものなのだ。

 僕は立ち上がり、トイレに走った。吐くためだ。今まで食べたものを全部。

「ハハハ。ハハ。キャハハー。キャハハハー」

 姉が狂ったように笑い出した。最近姉は目が大きくなったような気がする。漫画みたいだ。ショートカットだった髪が腰まで届くようになり、赤いマニキュアを塗った爪も二十センチ近くある。不便じゃないのか。

 姉とは、そんなものだ。

 

 

 自分の部屋に戻ると、ベッドが跡形もなく消えていた。布団もない。

 今夜からどうやって寝ろというんだ。僕は腹が立った。

 かつてベッドのあった壁際に、一人の男が膝を抱えて座っていた。

 痩せぎすの、青白い顔の青年だった。

「誰だあんた」

 僕は聞いてみた。もしかすると新しい僕の兄か。僕だけの部屋だったのに、今日から共同で使えというのか。

「僕は・・・医者だ・・・」

 青年はぼそぼそと答えた。

「なんでここにいるんだ。ここは僕の部屋だぞ」

 もう勉強机しかないけど。

「君を・・・治療しに・・・来たんだ」

 そう言うと、青年はニッと暗い笑みを浮かべた。

「ぼ、僕は何処も悪くない」

「・・・嘘だな」

 青年の笑みは、益々強まった。

「本当は・・・分かっているんだろう・・・おかしくなったのは世界ではなくて・・・自分の方だと・・・」

「ち、違う。変わったのは世界だ。全てだ。僕だけじゃない」

「いいや・・・君だけだ・・・全ては・・・君が原因だ・・・分かっている筈だ・・・」

「違う。世界の方だ。真田君だっている。真田君だって、世界がおかしくなっていくことを気づいている」

「今・・・ここには・・・真田君はいないよ・・・さあ・・・治療しよう・・・」

 青年は、ゆっくりと立ち上がった。

 僕は後じさった。

 青年は、ゆらゆらと迫ってきた。

 しまった。ドアの方に退がれば良かったのだ。部屋から逃げ出すことが出来たのに。僕は逆に、部屋の隅に追い詰められていった。

 どうもしないさ。もう、警察なんてものは存在しないんだよ。真田君の言葉が脳裏に蘇った。

 僕は決心した。

 武器になる物を探すために僕は押し入れを開けた。中は空っぽだった。前は色んなものが収まっていたのに。

 青年の手が僕の喉にかかった。冷たい手だった。

 その時押し入れの隅に金槌を見つけた。

 僕はそれを手に取って、青年の頭に力一杯叩きつけた。

 ゴチャッ、という頭蓋骨の陥没する手応えがあった。

 青年は声も立てずにくにゃりと崩れ落ちた。

「分かっているんだろう・・・原因は君だ・・・悪いのは君だ・・・」

 青年は弱々しく呟いた。

 僕は答える代わりに荒々しく金槌を振った。

 何度も、何度も。

 血塗れの青年は、やがて動かなくなった。

 どうもしないさ。ハハ、ハハハ。

 死体は放っておけばいい。誰かが片付けてくれる。さもなければ勝手に消える。

 でもそれまで僕の部屋に置いておくのは嫌だった。

 そうだ。弟の部屋だ。弟の公一はゲームばかりしている。死体を持ち込んでも何も言わないだろう。

 僕は廊下を死体を引きずっていき、以前は存在しなかった弟の部屋をノックした。

「はーい。何」

 返事があった。

 僕はドアを開けた。

 部屋の中にあったのは、テレビゲームのパッドを持ったままの姿勢で白骨化した弟の死骸だった。

 テレビゲームは電源が入ったままだった。

 僕はもう驚かなかった。

 何があっても驚かないさ。世界とはそんなものだ。

「置いとくよ」

 僕は言い捨てて、青年の死体を部屋の中に置いて出ていった。

 

 

 僕は勉強をしている。数学の問題集をしている。

 毎日やっているのに、ちっとも進んでいないようだった。

 僕は何のために勉強をしているのだろう。学校ではこんな勉強なんか失くなってしまったのに。受験などもきっと全然別のものになってしまっているだろう。

 でも、勉強をしていると、安心する。

 ずっと前から使っている数学の問題集は、変わっていない。

 カレンダーを見ると、十六月八十四日だった。

 もうそんなになるのか。あれから二週間くらいしか経っていないような気がする。

 そうだ。日記だ。暫くつけていなかった。

 僕は引き出しから日記用のノートを取り出した。

 いつくらいまでつけていたっけな。最初のうちはしっかりつけてたんだがな。

 開いてみると、ノートは文字で埋まっていた。

 無意味な文字で。

 くひゃひゃひゃひゃひゃとか、あろろろろろろろろとか、そんな文字だけが羅列していた。

 これは僕が書いたのだろうか。どうも僕の字らしい。

 真面目に書いていた最初の時期も、げべべべとあぴゃぴゃぴゃに変わっていた。

 僕はノートを投げ捨てた。

 これで、以前の僕を残す記録は失くなった。

 

 

 僕は学校の休み時間、真田君に日記が無意味になったことを伝えた。

 この世界で唯一頼りになるのは、真田君だけだった。

 真田君は以前と変わっていない。記憶は変わってしまったにしても、真田君の本質までは変わっていない。

「そうか。日記も駄目だったか」

 記録も残せない。自分の記憶も信用出来ない。

 それならば、何を頼りにして生きていけばいいのだろう。

 いくらあがいても、世界は全てを押し流していく。

 自分がただ存在しているだけで満足して、変わっていく世界に何も考えずにずるずると流されていくべきなのだろうか。

 そうすれば、こんなに苦しまずに済むだろう。

「俺は諦めない」

 真田君は言った。

「流されてたまるか。こんなことに負けてたまるか。俺は負けない。俺は世界の従属物ではない。ここにいる有象無象の仲間にはならない」

 そう強く言って、真田君はクラスメイト達を指差した。

 僕はクラスの中を見回した。以前は仲の良かった友達も、今は無表情に僕達を睨んでいた。

 そして振り返ると、真田君は消えていた。

 真田君の座っていた椅子には、三十センチくらいの大きさの縫いぐるみが置かれていた。学生服の、真田君の顔に似た人形だ。

「真田君・・・」

 縫いぐるみは返事をしなかった。そこには強い意志を持ち、何に対しても決して屈しなかった真田君はいなかった。

 クラスの皆が爆発するように笑い出した。それは僕に当てられた嘲笑だった。

 爆笑の渦の中で、僕は真田君のなれの果てを掴み上げ、教室を飛び出した。

 まだ昼休みだったが、もうこんな所にはいたくなかった。

 僕は自転車に乗って学校を出た。前のカゴには真田君の人形が収まっていた。このまま家に帰る積もりだった。

 太陽はどす黒い光を僕達に投げかけていた。

 帰り道の風景が歪んで見えるのは、僕が泣いているせいだけではなさそうだった。

 

 

 僕は自分の勉強机に真田君を置いた。

 部屋からはカレンダーも消え、とうとう机だけになった。

 勉強の道具も殆どが姿を消し、数学の問題集だけが残っていた。

「負けるものか」

 僕は呟いてみた。

 真田君の人形は、微笑んだように見えた。

 

 

 夕食は、母と姉と父と僕で。弟の隆之はいなくなっていた。部屋も消えていた。

 母の体は腐り始めていた。左の眼球はとうに抜け落ちて、眼窩には蛆が涌いていた。

 姉の顔は変貌していた。皺が多く、鼻は曲がって魔女のようだった。一時の馬鹿笑いは収まったが、代わりにへくへくと不気味な笑い方をするようになった。

 父の頭部は、耳の辺りから上が二倍に膨れ上がっていた。広い額には十数本の血管が蛇行していた。

 皆、黙って、ゾンビの母の作ったまずい夕食を食べていた。

「うるさい」

 出し抜けに父が怒鳴って、拳をテーブルに叩きつけた。料理の皿がひっくり返った。

「誰も喋ってないよ」

 たまらなくなって僕は言った。父が凄い形相で僕を睨んだ。

「勉強はしているのか卓美。勉強はしているのか」

 父は叫んだ。

「しているよ」

 僕は叫び返した。もう沢山だった。

「でも勉強なんかして、一体何になるんだよ。もう誰も勉強なんかしてないよ。ただ笑ってるだけだ。学校では皆、笑ってるだけなんだよ」

「ううううるさい。黙れ。死ね」

 父は立ち上がった。まな板にあった包丁を持ち出した。

「ししし死ねこの馬鹿息子め」

 僕に向かって包丁を振り上げた。

 その父の前に、ゆらりと母が立ち塞がった。

「逃げなさい浩志」

 母が生気のない声で呟いた。

「どけ。邪魔するな」

 母が包丁を持つ父の手を押さえようとした。父が逆に動きの鈍い母の腕を捕らえた。

 ドン。

 父が母の右腕をテーブルに押さえて包丁を振り下ろした。母の腕はきれいに切断された。黒っぽい腐肉が見えた。血も出なかった。

「逃げなさい・・・浩志・・・」

 母は怯まず、裂けた口で父の首に噛みついた。バリバリと音がした。父の首の筋肉が破れる音ではなく、母の衰えた顎が崩壊する音だった。

 姉は両親の戦いには無関心だった。これ幸いとばかりに二人の皿から料理を手掴みで食べ始めた。

 僕はその場から逃げ出した。自分の部屋に入って中から鍵をかけた。部屋の外からは父の怒号だけが聞こえていた。

 浩志。僕の頭は混乱していた。母は僕のことを浩志と呼んでくれた。啓司でもなく、卓美でもなく、浩志と。母は覚えていてくれたのだ。母は身を挺して父から僕を守ってくれた。母はゾンビだけど、母だったのだ。母は母だったのだ。運動会や音楽会には必ず来て、僕を応援してくれた母。毎日手作りの弁当を作ってくれた母。小学校の頃僕が高熱を出して寝込んだ時、夜も寝ずに看病をしてくれた母。母は母だった。僕は泣いていた。最近は泣くことが多い。本当に。

 いつしか父の怒号も止み、家の中は静まり返っていた。

 僕は部屋を出て台所に行ってみた。

 食卓には両親と姉が座って夕食を食べていた。

 三人とも無傷だった。

「どうした卓美」

 父が怪訝な面持ちで顔を上げた。

 顔が変わっていた。眼鏡をかけたインテリになっていた。

 姉は。

 姉は兄になっていた。スポーツマン風のがっしりした男だった。名前は貴子じゃなくて貴男。僕の記憶が説明してくれた。

 母は、前と同じ顔だった。ゾンビになる前の、健康な顔。

 母が優しく言った。

「卓美も早く食べなさい」

 卓美。この母は別人だ。顔は同じだけど、別人だ。

「しょ、食欲がないんだ」

 僕は言って、自分の部屋に戻った。

 

 

 僕は真田君の人形に話しかけた。

「家族も皆別人になってしまった。何もかもが変わっていく。僕はどうすればいいんだろう」

 声が聞こえた。

「生き続けろ」

 その声は、人形の中から聞こえた。

「真田君。生きていたのか」

「俺はまだ負けてはいない。俺は絶対に屈しない」

 縫いぐるみの人形は動かなかった。ビーズで出来た瞳も動きはしなかった。だが彼は生きていた。存在していた。

「だから君も生き続けろ。何があっても絶対に挫けるんじゃないぞ。何があっても」

 姿は変わっても、真田君は真田君のままだった。

 僕は安心した。

 人間に意思は存在する。ここにいる真田君が、その証拠だ。

「ああ、僕も負けないよ」

 僕は真田君の人形に答えた。

 

 

 朝、洗面所で顔を洗って鏡を見ると、僕の顔は別人になっていた。

 小太りで丸顔の、野暮ったい少年になっていた。背丈も幾分縮んでいるようだった。

 前の顔を、僕は気に入っていたのに。

「負けるものか」

 僕は呟いた。歯を食い縛って笑みを作って見せた。

 鏡の中の僕は泣き顔になっていた。

 

 

 学校への道程はぐちゃぐちゃだった。道は複雑に曲がりくねり、何百もの間違った分岐が繋がっていた。周囲の風景は抽象画のように簡略化され、或いは極彩色に塗り分けられ、僕を迷わせた。

 ここは天国なのか。それとも地獄か。

 いや、どちらでもない。ここは現実の世界だ。

 世界とは、そんなものだ。

 僕は適当に道を選び、学校を求めて自転車を飛ばした。着くならば着くだろう。着かないならば着かない。何をしようと、それだけのことだ。

 途中五千メートルの高さの崖から落ちかけたり、虹の上を滑ったりして、五十時間以上も迷いに迷って(一日が二百時間というのは皆さんも知っての通りだ)、もう帰ろうかと思っても戻る道もなく、進退窮まった時に漸く高校の校舎が姿を現した。

 校舎は地上百階建ての巨大な鋼鉄のタワーだった。

 これが僕の以前から通っていた高校に間違いないと、僕の記憶が告げた。

 エレベーターのない校舎を、九十四階の僕の教室まで階段を上って辿り着いた。

 飾り気のないメタリックな壁の廊下を進んで教室に近づくごとに、いつもの爆発的な笑い声が響いてきた。

 奴らは相変わらずだ。僕は苦笑した。

 だが、笑い声には別の音が混じっていた。

 それは、爆発音だった。

 僕は教室の扉を小さく開けて、中の様子を窺った。

 クラスメイト達は大声で笑っていた。腹を抱え、床を転がりながら笑っていた。

 床は血と肉片に満ちていた。

 ウィーン。

 何かの金属が回転する音。

 教室の床の中心に、直径二メートルくらいの穴が開いていた。

 そこには、巨大な鋼のプロペラが高速で回っていた。

 見上げると、天井にも同じような穴が開いていた。そこにもプロペラが回っていた。

 天井の穴から、赤いドロドロしたものが、床の穴に滴り落ちていた。

 あれは、何だろうか。僕は思った。

 床をのたうち回って笑っている渡辺君の姿が目に入った。見ているうちに、渡辺君の体は風船のように膨らんでいった。他の生徒達の大半も、体が膨れて真ん丸になっている。

 パン。

 渡辺君の体が爆発した。血と無数の肉片になって、教室内に散らばった。血が僕の頬にもかかった。

 誰も渡辺君の爆死を見てはいなかった。皆笑うのに忙しくて、他人のことを見てる暇などなかった。

 皆が床を転げている中で、一人だけ白い服を着て立っている男がいた。

 仮面のような笑みで平然と立っている男は、担任の有本先生だった。いつからの担任かは覚えていない。二日前からか、三百年前からか。

 先生は、柄の長いホウキを持っていた。先生はそのホウキで、生徒の散らばった肉片を掻き集め、床の中心の穴に落としていった。

 ブブブブブブーン。

 あっという間に肉片は粉々に砕け、血と一緒に下の階へ流れ落ちていった。

 そして僕は、天井から流れ落ちているものの正体を理解した。

 また誰かが爆発した。

 僕は静かに扉を閉めて、笑い声と爆発音の中、再び九十四階分の階段を下りていった。

 もう二度と学校に来ることはあるまい。僕はそう思った。

 

 

 僕はずっと家で勉強をしている。

 僕の部屋には机しかない。

 いや、テレビがあった。最近になってテレビが新品になって戻ってきた。

 テレビをつけると、ニュースをやっていた。

 地球の南半球は最近になって消滅したらしかった。地球は球じゃなくて半球になった。

 最新の統計では、日本の人口は二十七人、アメリカは三人、アジア大陸は全部合わせて一人だということだ。月は北極大陸と陸続きになり、現在二兆六千億人が暮らしている。

 明日の天気予報は晴れ時々生首。僕はもう外には出ないから関係ない。

 今日のお昼頃、外宇宙から二千五百隻の宇宙戦艦が地球を侵略に来た。東京都港区にお住まいのホームレス・忠野太郎さんが一人で撃退したということ。

 あろろろろろろ。あろろろろろろろ。ニュースキャスターは言った。

 石川君。いしかわくん。いいいしかあああわくううううううん。

 僕はテレビの電源を切った。

「世界はどうなっているんだろうね」

 僕は真田君に言った。

「どうなろうと関係ないさ。君は自分の出来ることをやればいいんだ」

 人形の真田君は答えた。

 そう、その通りだ。

 

 

 僕はこのところ何も食べていない。料理を作ってくれる偽の母は、スライムになっていた。今でも台所に行けば、同じくスライムの父と兄と一緒に、壁に張りついている。

 どれくらい長い間食べていないのか分からない。カレンダーは既にないし、時計も壊れてしまった。何しろ一日五百時間までしか表示出来ないのだ。

 でも腹は減らなかった。人間は、意外と食べなくても生きていけるものなのだ。食べなくなって僕は初めてそれを知った。

 僕はずっと数学の問題集をやっている。所々文字化けしているが、まだ読める。僕は長い時間かけてそれを少しずつ解いていく。真田君も手伝ってくれる。時間は幾らでもある。何年でも、何千年でも。

 僕は負けない。絶対に屈しない。

 

 

 洗面所で顔を洗い、いつから水道の水は緑色になったのだろうと思いながら、僕は自分の部屋のドアを開けようとノブを掴んだ。

 ノブを回そうとして、ノブの代わりに僕の手の皮膚がズルリと回った。

 僕は、ずれて裂けた手のひらの皮膚を、じっと見つめていた。

 痛みはなかった。

 裂けた皮膚の下から、緑と黒の入り混じった新しい皮膚が覗いていた。

 とうとう、僕自身にもそんな時期が来たのだ。

 僕は全身の力が抜けていくような感覚を覚えた。

 それは何故か、ほっとする感覚にも似ていた。

 右手から始まって、変身は予想以上に早かった。

 

 

 僕は古い怪奇映画に出てくるような、醜い怪物になっていた。

 背の低い、猫背の、緑と黒の斑になった皮膚を持った、動作の鈍い、腕の長い、猫のような目をした、長い牙のせいで口が閉じられず絶えず涎を垂れ流し続ける、みっともない怪物に。

 それでも僕は僕だ。

 負けるものか。

 僕は机に向かって、数学の問題集を開いた。

 不器用な太い三本の指は、鉛筆をうまく握ることが出来なかった。

 僕は数学の問題集を投げ捨てた。

 勉強さえしていればいいと思っていたんだ。

 勉強さえしていればいいと思っていたんだ。

 なのにこれは何だ。

 これは何なのだ。

 世界とはそんなものだ。

 嫌だ。認めたくない。世界はもっと確かなものであるべきだ。僕達が安心して暮らせるような、幸せになれるような。

 人は皆、幸せを求めて生きているんじゃないのか。

 なのにこれは何だ。この世界は何なんだ。この体は。幸せなんて何処にあるんだ。愛なんてものは一体存在するのか。

「うおおおおおおおん。うおおおおおおおおおん」

 僕は声を上げて泣いた。泣き声は、遠吠えのような声にしかならなかった。黒く粘っこい涙が頬を伝わって床に落ちた。

 屋根にドンドンと何かが当たっていた。生首が降っているのだろう。

「さなだくん。ぼくはどうすればいいんだ」

 僕は真田君に聞いた。

 人形は答えなかった。答えを持っていないのかも知れなかった。

 

 

 僕は、開かずの間の前に立っていた。家の構造も様々に変化したが、僕の部屋とこの開かずの間だけは変わらなかった。少なくともその外観は。

 あれから、開けて中を見たことはなかった。

 全ては、ここから始まったのだ。僕はそう思っている。

 世界が崩れ始めたのは。

「かえしてくれ」

 僕はドアに向かって言った。

「ぼくのあの、たんちょうでたいくつなにちじょうをかえしてくれ。ぼくのかぞくをかえしてくれ。べんきょうをかえしてくれ。ぼくはそれまでうまくやっていたんだ。まえのじょうたいにもどしてくれ。おねがいだから」

 僕はドアのノブを三本の指で掴んだ。

 ゆっくりと回して、僕は深呼吸を一つした。

 ドアを開け放した僕の部屋からは、真田君の人形が黙って僕を見守っていた。

 ただ念じること。ただ望むこと。

 僕には、それだけしか出来ない。

 そして僕は力一杯、開かずの間のドアを開けた。

 ドアの向こう側には、無限の宇宙空間が広がっていた。

 遥か彼方に光る無数の星々が見えた。近くに巨大な恒星が強い光を放っていた。

「うおおおおおおおおおおお」

 空気が、凄い勢いで真空に吸い込まれる。

 僕の体は浮いた。

 僕は、境界を越えて無限の宇宙へと引きずり込まれていく。

 左手の三本の指が、部屋の入り口の縁に引っかかった。

 僕はたった三本の指で、宇宙に落ちかかる体を支えていた。

「さなだくん」

 僕は叫んだ。

「さなだくうううううううん。たすけてくれえええええええええ」

 僕の体は宇宙に強く引かれ、ゆらゆらと揺れていた。

 このままでは、落ちていくのは時間の問題だった。

「さなだくううううううううん」

 真田君の人形が立ち上がった。ひょこひょこと僕の方へ歩いてくる。

「さ、さなだくん」

 そう、僕は信じていた。真田君、決して屈しないと言った真田君なら、絶対に僕のことを助けてくれると信じていた。

 真田君の縫いぐるみの手には、包丁が握られていた。

「キャハハ。シネシネシネエ」

 真田君が包丁を振った。激痛。僕の体を支えていた指の一本が切断されていた。僕はバランスを崩してぐらりと揺れた。

「さなだくううううん」

 僕は叫んだ。

「シネシネシネエ。キャハハ。キャハハハハ」

 真田君は狂気の笑い声を上げるだけだった。

 僕の最も信頼する親友。決して届かない僕の目標。何事にも妥協しない、強い意志と理性の人。

「しんじていたんだ。しんじていたんだあああああああ」

 僕は叫んだ。真田君は聞く耳を持たなかった。

 真田君の包丁によって、二本目の指が切断された。

 僕は、僕の家の中と、指一本で繋がっていた。

 真田君が最後の指を狙って包丁を振り上げた時、僕の自由な方の手が動いた。

「さなだくうううん。しんじていたんだああああ」

 僕の右手が、真田君の人形の首を掴んだ。

 ゴキュ。

 僕のたった三本の緑の指は、強い握力を持っていた。一握りで、真田君の首が潰れた。真田君は人形の手足を痙攣させて、動かなくなった。

「さなだくううううん」

 潰れた真田君の体から、大量の青い粘液が溢れ出した。この小さな体にどうやって収まっていたのか信じられないほどの量だった。

 噴き出した粘液は、そのまま宇宙空間に引き寄せられ、僕の体にもかかった。

「しんじてゴボッ」

 体中に青い粘液が絡みついた。一本で支えていた僕の左手の指が粘液で滑った。

 縁から、指が離れた。

「うおおおおおおおおお」

 世界とは、そんなものだ。

 僕の体は、無限の宇宙空間に落ちていく。永遠にこの冷たい宇宙をさ迷い続けるために。

 あろろろろ。あろろろろろろろろろろろ。あろろろろろろろろろろろろろ。あろろろろろろろろろろろろろろろろろろろろろろろろ。あろろろろろろろろろろろろろろろろろろろろろろろろろろろろろろろろろろろろろろろろろろろろろろろろろろろろろろろろろろろ。あろろろろろろろろろろろろろろろろろろろろろろろろろろろろろろろろろろろろろろろろろろろろろろろろろろろろろろろろろろろろろろろろろろろろろろろろろろろろろろろろろろろろろろろろろろろろろろろろろろろろろろろろろ。あろろろろろろろろろろろろろろろろろろろろろろろろろろろろろろろろろろろろろろろろろろろろろろろろろろろろろろろろろろろろろろろろろろろろろろろろろろろろろろろろろろろろろろろろろろろろろろろろろろろろろろろろろろろろろろろろろろろろろろろろろろろろろろろろろろろろろろろろろろろろろろろろろろろろ。

 ブツン。

 

 

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