夜の公園は薄暗く、ひっそりと静まり返ったその様は別世界に迷い込んだかのような気分にさせる。広い敷地内には数多くの木が繁っており、奥が殆ど見通せない。林の中にアスファルトの道を敷いているようなものだ。
道は公園の中を回廊状に繋がっている。一周するのに軽く走って五分ほどかかる。寝る前に公園内をジョギングするのが私の日課だった。私のマンションから公園まで約七分、公園を四周して二十分、そして七分かけてマンションに戻り、シャワーを浴びて汗を流す。それをこの三ヶ月ほど続けている。サラリーマンをやっていてまだ三十前なのに腹が出てきたのと、体力の衰えを実感したためだ。ジョギングで疲れた後はどうしてもビールを飲んでしまうため、腹の弛み具合はあまり変わらないが、それなりに体力が戻ってきたような気がするし、何より体を動かす充実感が素晴らしい。
夜十一時を過ぎても公園は無人ではない。ベンチにはよくホームレスの男が寝ているし、芝生の上で仲良く並んで夜空を眺めるカップルも、時折は見かけることがある。休日前の夜などは少年達が中央の広場でスケボーの練習をやっている。そして、私のように、ジョギングをしている人もいる。何故か年代は二十才前後か四十代が多く、そして私よりも走るペースが速い。年上に抜かれると私は情けない気持ちになるが、無理をするのは良くないので自分のペースを守っている。ジョギング中に心臓発作で倒れることもあるらしいし、まだ若いといって油断は出来ない。
私は公園を回る際、時計回りと反時計回りを一周ごとに切り替えることにしている。同じ景色ではつまらないのと、一方にばかり曲がり続けるのは、膝への負担が左右不均等になってしまうのではないかと考えたためだ。そのため他のジョギングの人達とは、追い抜かれたりすれ違ったりを交互に繰り返すことになる。
所々に設置されたライトの淡い光が、ぼんやりと行く先を照らしている。今夜は人が少なかった。いつも同じベンチで眠っているホームレスもいない。私はなんだか物寂しい気持ちになりながらも走っていた。一周目の半ばほどから、段々足取りが軽くなってくるが、ここで調子に乗って飛ばすと後がきつい。
ふと、後ろから柔らかい足音が近づいてきた。多分スニーカーを履いて走っているのだろう。私のお仲間という訳だ。
私は振り向かず、黙々と走っていた。いつも通り、私を追い抜いていくかと思われた影が、急にペースを落として隣に並んだ。
横を見ると、紺色のジャージを着た三十代後半くらいの男が私に微笑みかけていた。短めに髪を刈り、薄っすらと汗をかいたその顔は穏やかで知的な印象を与える。
見覚えのある男だった。しばしばこの公園でジョギングしている姿を見かける。いや、ほぼ毎日と言っていいだろう。私が少し早めにマンションを出ても、遅めに出ても、公園に着くといつも彼は既に走っていた。そして私が去る時も、まだ彼は走っているのだ。
「今晩は」
男は走りながら、私に声をかけてきた。
「今晩は。こうやって挨拶するのは初めてですね」
私は挨拶を返した。
「そうですか。ここのあなたにとってはそうかも知れませんね」
男はちょっと寂しげな笑みを見せた。
「ここの、ですか」
私にはその意味が理解出来なかった。まるで私が別の場所に何人かいるみたいではないか。
「分からないのも無理はありません。あなたはいつも右回り、左回りを同じ数だけ走ってますからね。それじゃ移動しない」
移動しない、とはどういう意味だろう。男の言っていることは訳が分からない。
私は、男の走っている姿を思い出した。そして今の方向も。
「そう言えばあなたは、いつも時計回りにだけ走ってますね。それと何か関係があるんですか」
走りながら私が尋ねると、男は私の目を覗き込むようにして逆に尋ね返してきた。
「あなたは、パラレルワールドの存在を信じますか」
「え」
唐突な質問だった。
私も少年時代はよくSFを読んでいたし、パラレルワールドの概念は知っている。互いに交わることなく平行に時が進んでいく別世界。主人公が迷い込むパラレルワールドは、悪夢のような魔界から、元の日常と寸分違わぬ世界まで様々だ。
だが、それがどうかしたのか。
男は物静かな口調で続けた。
「あなたにはこんな経験がありますか。テーブルの上に置いてあった筈のものが、どんなに探しても見つからない。隣室の家族にそれを尋ねに行って、戻ってみると目的の品はテーブルの上に載っている。さっきまではどんなに探してもなかったのに。私の不注意だったのでしょうか、それとも家族の悪戯でしょうか。或いは、こんなことはありますか。近くの弁当屋に夕食を買いに行くと、そこの店員が不思議な顔で私のことを見る。どうしたのかと聞くと、ほんの五分ほど前に私がやってきて、弁当を買っていったと言うのです。これは店員の見間違いでしょうか、それとも私が自分で弁当を買って帰ったことを忘れてしまったのでしょうか」
私達のペースはいつの間にか、歩くのと変わらないくらいになっていた。
「私はそんな時に、世界がずれたのだ、と解釈することにしています。いえ正確には、自分の方が、パラレルワールドに迷い込んでしまったのです。別の世界との通路は様々な場所に存在して、人はちょっとした拍子にそこを通って別の世界に入り込んでいるのではないでしょうか。ただ隣り合ったパラレルワールド同士はごくごく微妙な差異しかなくて、皆それに気づかない。或いはその変化を自分の勘違いだと思い込んでいるのではないでしょうか」
それは面白い仮説だった。飽くまで仮説であるが。私は二十年以上生きてきたし、自分の人生を同じ世界で過ごしてきたと信じている。確かに、この前行った筈の飲食店が見つからなかったり、友人との待ち合わせの場所が間違っていたりしたことはあるが、それは自分の記憶違いだと思っている。そう考えた方が妥当だというものだ。
「でもそれが、私の走り方と何か関係があるのですか」
私は聞いてみた。元々は、私が公園を交互に逆に走るということについての話だった筈だ。
「この公園内に、パラレルワールドへの通路があると言ったらあなたは信じますか」
ギョッとするようなことを男は言った。
「え、本当ですか」
到底信じられない。この男は私をからかって楽しんでいるのだろうか。
「パラレルワールドに入っても公園はありますし、まず気がつきません。そして公園内の同じ場所にやはり次の世界への通路があります。ですからこの道を一周した時には、一つずれた世界に入り込んでいるのです。しかし同じ通路から戻れば元の世界に帰れます。ですから、交互に逆方向に走っているあなたは、少しも移動していないのです」
右回り、左回り、右回り、左回り。私は二つの世界を行ったり来たりして、元の世界に戻ってからマンションに帰る訳だ。私は少しほっとして、同時に男の理論を真に受けかけている自分に呆れ返った。
いや、待てよ、そうすると……。
「あなたはずっと同じ方向に回ってますよね。すると、あなたはどんどん奥の世界に進んでいるのですか」
「奥という表現は適切ではありませんが、まあそうなりますね」
男は答えた。
「私はこの世界に着いたばかりですし、更にまた次の世界へずれていく予定です。つまり、私がこの世界にいるあなたとお会いするのは、今が初めてなんですよ。これまであなたが見かけていたのは、別の私なんです」
「べ、別のあなたですか」
「それぞれのパラレルワールドにはそれぞれの私が生きています。性格も事情も大して変わらないので、無数の私がそれぞれの世界で公園を走っていることでしょう。私が次の世界に進むと同時に、前の世界の私がこの世界にやってくるので、一つの世界には常に私が一人です。あなたも同じですよ。全ての世界でそれぞれのあなたが似たような生活を送っています」
私の頭はこんがらがってきた。そんなことはある筈がない。世界は一つの筈だ。でも男の話をどうやったら反証出来るだろうか。
また、私はあることに気づいて男に尋ねてみた。
「どうしてあなたはそんなことを考えながら、いつも同じ向きに走っているんですか。何のために……」
二人は歩きながら、そろそろ一周を終えようとしていた。男は答える前に、疲れたような長い溜息をついた。それは肉体の疲れとは別のものであるように思われた。
「一年前、公園で一緒に走っていた妻が失踪しました。私がここのトイレに入っていた数分の間にです。警察にも連絡して手を尽くして捜したのですが、見つかりませんでした。私は、妻がパラレルワールドに迷い込んでしまったと思うのです」
「……。つまりあなたは、奥さんを捜すためにパラレルワールドを巡っているのですか」
「長話をし過ぎましたね。ではまたお会いしましょう。次に会うのは別の私でしょうけれどね」
男はあの寂しげな笑みを浮かべ、駆け出していった。
私はその背中を見送りながら、男の言葉を反芻していた。もし彼の仮説が正しければ、妻がパラレルワールドに迷い込んだ場合、別のパラレルワールドから別の妻が現れて、全てが一つずつずれるだけで失踪となることはないのではなかろうか。いや、世界が微妙に異なっているのならば、その歪みの結果として、ある世界における人間の消滅やドッペルゲンガーもあり得るだろう。だが、もし彼が妻を見つけたとして、果たしてそれが本来の世界の妻だったと証明出来るだろうか。いや元々、それまで暮らしていた妻自体が頻繁に入れ替わっていたとしてもおかしくはないではないか。私が毎日会っている会社の同僚も、実家の両親も、既に別人であるのかも知れない。もうそうなると、人間というものの概念が崩れてしまいそうだ。
私が入ってきた公園の入り口が見えてきた。一周したのだ。私はいつものように方向転換して、今歩いた経路を逆向きに辿り始めた。歩いていては意味がないのでジョギングを再開する。
試してみてもいいか。
走りながら、私はそんなことを思いついた。残りの三周を、全て同じ方向に回ってみよう。折角だから、男と逆の向きがいい。
途中、またあの男とすれ違った。私が軽く頭を下げると、男は微笑んだ。これがさっきの男と別人とは信じられない。いや、一つ隣の世界でも、そこの男がそこの私に同じ話をしていたのかも知れない。いやそんな戯言に私が考え込んで悩むのを、男は楽しんでいるだけかも知れない。
今夜の公園は静かだ。人っ子一人いない。いるのは私と、あの男だけのようだ。
二周目も終わりがけに、再度あの男とすれ違った。別に変わったところは何もない。ただ、私と目が合った時に、ふいと視線を逸らしたのが気になった。どうかしたのだろうか。
私は方向転換をせず、そのまま三周目に移った。初めての試みだった。
薄暗い公園の風景には違いが感じられなかった。当たり前といえば当たり前だ。あんな話を信じる馬鹿が何処にいる。
走る内に、前方にまたあの男が見えてきた。今度は男の表情はやや暗くなり、俯きがちに走っていた。私は声をかけそびれ、そのまますれ違った。
男の髪が、さっきと比べて幾分伸びているような気がした。
私は振り向いて確かめてみることをしなかった。面倒臭かったのもあるが、なんとなく薄気味悪かったのだ。もし本当に髪が伸びていたら、私はどうすればいい。
いや、男の髪の長さなど、いちいち覚えてはいない。元々そのくらいの長さだったのだろう。私が過敏になっていただけだ。
だが、もしも……。
三周目はその一度しかすれ違わなかった。円周状の道を逆に走り、私の方が足は遅いため、私が一周する間に必ず二度はすれ違う筈だ。男はもう帰ったのだろうか。それとも、トイレに寄っているだけかも知れない。
私は四周目に移った。やはり向きを変えず、反時計回りのままだ。
辺りの景色には別段異常はなかった。だが私は自分の心臓の鼓動を感じていた。飛ばし過ぎた訳ではないのだが。
今、私と男は逆向きに走っている。パラレルワールドが、次へ進むごとに少しずつ異なっているものならば、走り続ければ変化は積み重なって大きなものになっているのではないか。
もしその理論が本当だったらの話だが。
と、私は木の陰に何か白いものを見た。前に通った時はそんなものがあっただろうかと思いながら、私はそれが何であるのかを確かめるために、立ち止まって覗き込んだ。
犬か猫の仕業だろうか、ほじくり返された土の中から露出しているのは、古びた白い骨だった。
人間の、手首の、骨だった。
心臓の鼓動が速くなっていた。
「見たな」
怒りを押し殺した低い声に、私は振り向いた。
五メートルほど離れた場所に、あの男が立っていた。
男は、右手に大きな鉈を握っていた。
男の髪はさっきよりも更に伸びたように見えた。暫く洗っていないのかボサボサだ。男の左手の指は、よく見ると薬指と小指が欠けていた。
さっきまでとは、男は別人のようだった。
いや、それは私の錯覚かも知れない。男の髪は前からそうだったのかも知れない。左手の指が欠けているのも、私が見落としていただけかも知れない。
「愛していたんだ。愛していたんだよ」
ライトの淡い光に照らされた、男の目の中で強い狂気と殺意が渦巻いていた。
「なのに浮気なんかしやがって。だから、だから……」
骨は、男の妻のものらしかった。
私は絶句して立ち竦んだ。彼の言ったことは全て、埋められた死体から人々の注意を逸らすための作り話だったのだろうか。だが何故そんな途方もない話をでっち上げる必要がある。或いは男は狂っていたのだろうか。彼は自分の妄想に基づいて、もはや生きていない妻を捜して、無意味な行為を続けていたのだろうか。
それとも、本当に、パラレルワールドへの通路が存在するのだろうか。ああもう訳が分からない。
私は、解答を得ることが、出来なかった。
男が鉈を振り上げて、凄い勢いで迫ってきた。