自殺の時代

 

  一

 

 地上二十四階を吹き荒ぶ冷たい風は、女の長い髪を激しくなびかせていた。風は強く、油断すればよろめきかねないほどだ。二ヶ月前に完成したばかりの総合テナントビル『ニューセンチュリー』の、立ち入りを禁止されている屋上の柵に寄りかかり、女は都会の景色を眺めていた。夜景の方が綺麗だが、やはり見物人の多い昼間を女は選んだ。

 下界は忙しなく流れていた。ひしめくビルの間を埋め尽くす、渋滞の車の列と足早に歩く人々。何かに急かされているように。それらが蟻の群れに見え、女は皮肉な笑みを浮かべた。

 女は二十代の半ばほどに見えた。純白のワンピースに身を包み、長い黒髪は軽くウェーブしている。女の顔立ちはテレビを賑わす一流のアイドルやタレントには及ばないものの、美人の部類には間違いなく入るであろう。

 柵から上半身を乗り出して、女は下の様子を観察した。ビル前の歩道は広く、七、八メートルほどはあった。その先に四車線の道路があり、車が休みなく行き交っている。

 女は、派手な方を選ぶことにした。

 柵の高さは一メートル二、三十センチほどだ。女は後ろに下がって、十メートル以上の距離を取った。ハイヒールは邪魔になるので脱ぐ。

 女は、持っていたハンドバッグを床に置いた。

 そして女は走り出した。

 柵に向かって。

 充分な助走をつけて跳躍した体が柵を越えた。宙に踊り出た女は頬を上気させ、悦楽に酔ったような表情を浮かべていた。

 落下の間、無意識に出ると言われる悲鳴は都会の喧騒に呑み込まれた。二十四階分の距離は数秒でゼロになった。落ちていく女の体は歩道を過ぎて車道の真ん中に激突した。肉と骨が潰れ血が飛び散り、一瞬で女は肉塊へと変わった。突如道路に出現したそれを避け切れず、大型トラックが轢いていき念入りなプレスをかけた。トラックはそのまま対向車線へはみ出して軽自動車と激突した。暴れる車体に次々と後続の車が突っ込んでいき、合計数十台が玉突き衝突を起こした。歩道に突っ込んだ車は通行人を撥ね飛ばした。ガソリンに引火してダンプカーが大爆発を起こし、大通りは地獄と化した。

 

 

  二

 

 高村伸は血痕と焦げ跡とガラスの破片の混ざったアスファルトの地面を見回した。通りは封鎖され、警官によって交通整理が行われている。既に怪我人は病院に運ばれ、大部分の死体は回収されていた。現場写真を撮りながら潰れた車の撤去が行われている。

「負傷者五十二人。死者は今のところ十六人。もっと増えるかも知れんな」

 同僚の仁科が言った。仁科はいつも眠たげな顔をした男だった。ひょろりと痩せていて、眼の下には青い隈がある。

「道路の真ん中にいきなり人が降ってきたという話だ。何人か目撃者がいる」

「そりゃまた何処から。空からか」

 皮肉に笑う仁科に、高村は背後の巨大なビルを指差してみせた。

「ニューセンチュリービル、二十四階建て。この屋上から飛び降りたようだ。ハンドバッグと靴が見つかっている」

「へえ。賑やかな死に方だな。よっぽど目立ちたがり屋だったんだろう。まあ自殺なら、俺達の出番はないが」

 仁科は面白そうに眉を上げた。高村は、大惨事を楽しむような仁科の態度が嫌いだった。

 高村が刑事の職に就いてから、今年で三年目になる。自分が取り立てて優秀な刑事ではないことを高村は自覚していたが、かといって仁科のように仕事と割り切ってしまうつもりもなかった。この社会に自分が少しでも役に立てて、世界を良い方向へ向けることが出来れば。彼はそう思っていた。

「遺書はまだ見つかってない。バッグに入っていた免許証から家族に連絡を取らせている」

「で、自殺者の死体は」

「まだあそこだ」

 そこにはまだ燃え尽きた自動車の残骸が絡まり合っていた。

「バーベキューか。それにしてもビルから落下地点まで、十五、六メートルは離れてるぜ。走り幅跳びの世界新記録だ」

「……。しかし最近は妙だな。自殺も強盗も、殺人事件も、この数ヶ月で極端に増えている。裏に何かあるのか。新種の幻覚剤とか」

「皆、人生に飽きちまったんだろう」

 仁科は平然と答えた。

「こんな希望も糞もない世の中を見りゃあ、あの世に逃げ出したくもなるわな」

「仁科もそう思うことがあるのか」

 高村が尋ねると、仁科は意味ありげな笑みを見せた。

「まあな」

 クレーン車が自動車の残骸を吊り上げていく。

「どうやら問題の仏さんが拝めそうだ」

 高村は仁科の後についていき、残骸の陰を覗き込んだ。

 地面に、厚さ平均五センチほどの、焦げた肉の絨毯がへばりついていた。

 高村は顔をしかめた。これが元は人間であったとは、信じたくなかった。

「ひどいな」

「これでも検死をするかい。何がどうなっているのか、もう分からんがな」

 仁科が言った。

 その時、警官の一人が叫んだ。

「ビルの上を。だ、誰かっ」

 高村達は振り向き、ニューセンチュリービルの遥かな高みを見上げた。

 屋上の柵の前に、中年の男が立っていた。背広を着た、普通のサラリーマンに見えた。男は靴を脱ぎ、後ろ手に柵を掴んで地上を見下ろしていた。

 男は、飛び降りようとしているらしかった。

「馬鹿なことはやめろおおおお」

 高村は力の限り叫んだが、相手に届いている様子はなかった。

 動揺する下界の人々に向かい、男も何か言っているようだった。内容は聞き取れなかったが、目の良い高村は男の顔に、憎悪なのか悦楽なのか絶望なのか期待なのか分からない、何ともいえない不思議な表情を認めた。

「あ」

 男の行動は早かった。人形のようにあっけなく落ちていく男を、誰もが呆然と見つめていた。

 高村達が駆けつけた時、ビルの前で男は既に息絶えていた。二十四階分の衝撃を全身に受け、折れた骨が所々肉を突き破って飛び出していた。熟柿のように潰れた頭部から、血と髄液に混じって脳の破片が飛び散っていた。

「三メートルってとこか。女の記録には届かなかったな」

 仁科が肩を竦めた。

「どうしてこんな……。最初に飛び降りた女とも関係があるのかな」

 流石に高村も、絶望的な気分になっていた。

「さあな。まあ、このビルの屋上は封鎖しといた方がいいだろう」

 仁科の答えは素っ気なかった。

 その十五分後に、向かいのビルから別の男が飛び降りた。

 更にその五分後に、その隣のビルから女が飛び降りた。

 その日の内にニューセンチュリービルの周辺で、合計八人の男女が飛び降りた。

 

 

  三

 

 休日のレストランには三十人ほどの客がいた。久々の非番にも高村は背広姿だった。このところ事件が多発しており、いつ携帯電話で呼び出されるか分からない。青いスーツに同色のネクタイは、彼のお気に入りの一つだった。高村は際立ってハンサムという訳ではないが、これを着ると全体的に引き締まって見えた。それは刑事という重要な役割を背負っている自覚によるのかも知れない。

 テーブルの向かいに座るのは二十四才の有田令子だった。彼女はいつも最後にチョコレートパフェを食べる。太るのが心配にならないかい、と高村が聞くと、好きだからしょうがないじゃない、と令子は言う。別に太ってはいないから彼女なりにカロリーには気を配っているのだろう。付き合い始めた三年前は、令子は清楚な感じの美人だったが、最近は化粧が派手になってきたようだ。両耳のピアスが高村には気になった。自分の耳に穴を開けるような女性とは思えなかったのだが。二週間前それを指摘した時、令子はこう答えた。だって人生は楽しまなきゃ損じゃない、と。

「ねえ、あのニューセンチュリーの飛び降りは、伸が担当したんでしょ。どんなだったの、教えて」

 好奇心に目を輝かせて令子が聞いた。高村はあの潰れた肉塊を思い出し、ステーキの残りを食べる気がしなくなった。

「あれは自殺として一応片がついてる。守秘義務があるから詳しくは言えないけどね」

 結局遺書は見つからなかった。女の部屋にあった日記に、目当ての恋人に振られたこと、自殺を考えていることについては書かれてあった。女の周辺について調査を行い、それらしい状況は確認出来た。自殺であることは間違いないと思われた。

 ただ、高村は女に対して違和感を覚えた。客観的に女のストーリーを考慮してみても、もし高村が女の立場ならば、それだけではとても自殺しないだろうと思うのだ。即ち、自殺を決心するための材料が、とても軽く見えるのだ。相手の男と付き合っていたのは二ヶ月かそこらであり、女の方から熱烈に交際を申し込んだらしかった。男は商社のエリートで、高村がギョッとするほどの美男子だった。既に何人も交際相手がいて、男にとっては彼女は迷惑な存在でしかなかったらしい。肉体関係もまだなかったようだ。男のプレイボーイぶりは有名で周りの者も良く見ていたから、その分逆に裏が取れている。

 思い込みの激しい女だったのだろうか。自分は絶対その男に愛される筈だと信じていたのか。日記に書かれていた内容はそれを裏付けるものだった。彼でなければ生きる意味がないとまで書かれてあった。

 その後に同じビルで飛び降りた男や、同日の他の自殺者についても、高村は調査を済ませていた。互いに全く関連がなく、それぞれに悩みを抱えていたらしい。最初の女の自殺を目の当たりにして、発作的に後を追ったのだろう。ただ、その悩みというのが、自殺するには今一つ遠いと思われるようなレベルのものだった。二番目に自殺した中年の男は、同期に出世を抜かれたことを悔しがっていた。次に飛び降りた青年は、俳優のオーディションを受けて失敗したという。

 家族や親しい人達のことなど放り出して、彼らは勝手に逝ってしまった。

 もう少し捜査を続けてみたいという気持ちはあったが、高村にはすぐに次の事件が回ってきた。事件が警察の手に負えないほど頻発しているのだ。

「ねえねえ、死体を見たんでしょ。グチャグチャだったそうね」

「やめてくれよ。思い出したくもない」

「ふん。つまんないの」

 令子はちょっと不機嫌そうな顔をした。

「ところでさ、私、今の会社辞めようと思うんだ」

 いきなりの令子の発言に高村は驚いた。令子はデザイナーとして働いていた。給料もなかなか良くて、高村と同じかそれ以上ある筈だ。

「ど、どうしてだい。僕にはまだ君を養っていけるだけの財力はないぜ」

「そんなこと分かってるわ。でも今の職場、上司はうるさいし残業も多いし、私にはもっといい職場が待ってると思うの」

「転職か。でもそんなに簡単に決めてしまっていいのか」

「だって私の人生は私のものだもの。人生っていうのは自分が主人公なのよ。思い通りに行かなければつまんないじゃない」

 令子は当然のように言った。

「それでも、分相応というのがあるし。自分に出来る範囲でやっていくしかないんじゃないか。人生は一度きりなんだし、大事にしなきゃ」

「一度きりって誰が決めたの」

「え」

 高村はぞっとした。そんな台詞が返ってくるとは思いも寄らなかった。令子の性格をもっと慎ましいものだとこれまで高村は思っていたのだ。

 ふと高村には、三年間付き合ってきた令子と、目の前の令子が別の存在のような気がした。いやそれよりも、令子が、自分とは全く異質の生き物に見えたと言った方が正しいだろうか。

 勝ち誇ったように、或いは何かに酔ったように、令子は高村を見つめていた。

「そ、それは、でも、死んだ後どうなるかなんて、誰にも分からないし……」

 しどろもどろになって高村が弁解しようとした時、店内で悲鳴が上がった。続けて銃声が。

 慌てて高村が振り向くと、入り口のすぐ近くに薄汚れた服を着た男が立っていた。一見、ただのホームレスに見えた。意外に若く三十才前後に見える男は、しかし、その手に猟銃を構えていた。無精髭に覆われた顔は、殺戮の歓喜に歪んでいた。

 猟銃の先から、白い煙が立ち昇っていた。レジの側で女性の店員が倒れ、胸から血を流していた。

 無精髭の男が、今度は客の一人に銃口を定めた。

「皆、伏せろ」

 高村は大声で叫びながら令子を押し倒し、テーブルも倒して盾にした。同時に銃声。また誰かが悲鳴を上げた。

「ああ、パフェが食べかけだったのよ」

 令子が文句を言った。

 猟銃ならば二発で終わりだ。高村はそのまま飛び出した。拳銃は持っていなかったが、かといってこのまま傍観している訳にはいかなかった。胸と顔を血で染めて倒れる婦人の姿が見えた。散弾を使っているのだ。居合わせた客の半数が床に伏せ、半数は動けずに呆然と惨劇を見守っていた。

 無精髭の男は、駆けてくる高村に気づき、大急ぎで弾を込めようとしていた。

「うおおお」

 必死になって高村が飛びかかった時、無精髭の男は丁度弾を込め終わったところだった。

 銃声が響いた。高村は男にタックルを食らわせ押し倒した。猟銃にしがみつく高村を男が振り払おうとする。男が再度引き金を引き、轟音と共に天井がバラバラと崩れた。高村は男の顔を殴りつけ、怯んだ隙に猟銃を奪い取って後方に投げた。空になった銃が床を滑っていく。

「抵抗はよせ。現行犯で逮捕する」

 息を切らせ、高村が言った。

「へっ」

 無精髭の男が笑った。その憎悪と悦楽と絶望と期待の入り混じった不思議な表情に、高村は高層ビルから飛び降りた男の顔を思い出した。

「あ」

 男が舌を出し、思い切りそれを噛んだ。血が流れた。男が白目を剥いてもがき出した。

「誰か、救急車を呼んでくれ。救急車を」

 男の体は痙攣を始めていた。

「伸、大丈夫。血が出てるわよ」

 令子が声をかけ、初めて高村は自分が負傷していることに気づいた。右の太股から血が流れていた。

「多分大丈夫だ。散弾が掠っただけだと思う」

 高村は答えた。感じなかった痛みが今になってじわじわと強くなっていく。

「凄かったわね。映画みたい」

 令子は空の猟銃を拾い上げた。その瞳に帯びた歓喜と興奮の色が、高村には気になった。

「一度でいいから私も撃ってみたいわ」

 令子は付け足した。

 

 

  四

 

 署内の自分の席で、高村は纏めた資料を睨んでいた。机の上に山積みになっているのは全て、続発する破滅的な殺人と自殺についてのものだ。

「精が出るじゃないか」

 声をかけたのは同僚の仁科だった。

 壁の時計を見上げると、既に午前二時を過ぎていた。

「珍しいな仁科、こんな時間に。もう帰ってたんじゃないのか」

「用事があるんでな」

 仁科は首を振った。

 夜中の室内には、高村と仁科しかいなかった。

「自殺者のリストか」

「ああ。共通点を探してるんだが、これといったものがあまりないな。ただ、年齢は十代後半から二十代が圧倒的に多い。元々その年代の自殺者は多いが、全体の九割近くというのは異常だ。それと、今年に入って市内の自殺者が五百二十三人いるが、そのうちの三十四人が、自殺する前に預金を全て、一つの口座に振り込んでる。口座の主は他県だ。市外の自殺者でもその口座に振り込んだ者がいるかどうかも含めて、調べてみるつもりだ」

「そうか」

 仁科は高村の隣にある自分の席についた。

「なあ、高村。お前はゲームをやったことがあるか」

 やや唐突に、仁科が聞いた。いつもと違い、真面目な口調だった。

「ゲーム」

「ああ、テレビゲームとか、パソコンのゲームのことだ」

「……。いや、殆どないな。親が厳しかったからな。テレビゲームを買うことを許してもらえなかったし、自分で稼げるようになった今でも興味はないよ」

「そうか。なら理解出来なくてもしょうがないな」

 仁科が微笑した。何処か寂しげな表情だった。後になって高村が振り返ると、仁科は自分の心情を、誰かに伝えてみたかったのだろう。自分の考えが間違っていないと、保証を求めていたのかも知れない。或いは、間違っていると、高村に引き留めてもらいたかったのだろうか。

「どういう意味だ」

 高村は尋ねた。仁科が何を言いたいのかさっぱり分からなかった。

「俺はガキの頃から部屋に篭ってテレビゲームばかりやってたよ。友達もいなかったしな。その中でもロールプレイングゲームは特に好きだった」

「ロールプレイングゲームというのは」

「ははっ。それも知らんのか。ロールプレイングは、役割を演じる、という意味だ。まあ、伝説の英雄になりきって魔王を倒し世界を救うってのがオーソドックスなパターンだな。つまらない現実とは違う、素晴らしい人生を味わうことが出来るんだ」

 仁科は話しながら、夢見るような切ないような表情を浮かべた。

「色々なゲームをやってきたが、機械の性能が上がっていくうちに、3Dダンジョンをリアルタイムに冒険出来るようなものが現れた」

「3Dダンジョンって」

「そうだな、俺達が現実に見ているように、ゲームの中の世界を立体的に見ることが出来るってことだ。それも、時間の流れも現実と変わらずにな。俺はその時、凄くショックを受けたんだ。そう、まるで、画面の中に本物の世界があるみたいだった。……そして俺は、一つの真実を知ったんだ」

 テレビゲームをやったことのない高村には、仁科の話は殆ど理解出来なかった。

 だが高村は聞いてみた。

「どういう真実だ」

「この世界自体が、既にゲームなんだってことさ」

 その時の仁科の顔は、強い歓喜に輝いていた。おそらくそれが、仁科の最も言いたかったことなのだろう。

「何」

「これは全て遊びなんだよ。世界はゲーム盤であり、プログラム内に設定されたルールだ。俺達はその中で疑似的な欲望と安全のために泳いでる。いや、俺達じゃなくて、俺、なのかも知れない。俺以外の人物は全てコンピューターが動かすNPC、あ、これじゃ分からんかな、ノンプレイヤー・キャラクターかも知れない。キャラクターの能力値と出発地点はランダムで決まるんだ。それでな、やったことのある奴なら分かると思うんだが、ゲームによっては、良い初期条件を手に入れるために、何度も何度もリセットをかけて最初からやり直すこともあるんだ。……だから俺は、リセットをかけることにしたんだよ」

 高村はギクリとした。仁科は不思議な表情を浮かべていた。憎悪と悦楽、絶望と期待の混じったあの。

「な、何を言ってるんだ」

「俺は自分の人生が気に入らないんだ。ゲームは勝たなきゃ面白くない。俺はこの世界の頂点に立つことを夢見ていた。だが今の俺は何だ。しがない一刑事じゃないか。こんなのには満足出来ないんだ」

「し、しかし……」

「だが俺は完全に諦めてしまう前に、他の可能性を試すことにした。俺が押収品の横流しをやってたことは知ってたか」

「何だって」

 愕然とする高村に構わず、仁科は続けた。

「だが危険を冒して得る金もたかが知れている。俺は全財産を持って地下のカジノに未来を賭けた。そして全てを失い、残ったのは五億の借金だけだ」

「……。いつのことだ」

「昨日だよ」

 仁科はにやりと笑った。そこには全てを失った者の憔悴や重みは感じられなかった。

「ど、どうして、仁科」

「やっぱりお前には理解出来ないか。まあいいさ。お前がシステムの操作する人形ではなくて、俺と同じプレイヤーである可能性を期待してのことだ。分からなくても、聞いてもらえればそれでいい」

 いつの間にか、仁科は右手に拳銃を握っていた。

「用事というのはこれさ。俺にはニューセンチュリービルの屋上から飛び降りるみたいなことは出来んが……」

「やめろ、仁科」

「じゃあな。リセット」

 仁科は自分のこめかみに銃口を当て、引き金を引いた。血と脳漿が机に散った。

 あっという間の出来事だった。

 

 

  五

 

 列車で四時間かけてT県へ着いた高村を、杉山という刑事が出迎えた。高村よりも、二才ほど若く見える。

「電話でお伝えしたように、既に静間喬一については調べが済んでいまして、彼の口座には全国から金が振り込まれています。ええっと、現時点では七百四十二名、合計して十三億七千万円ほどになりますね」

 高村は唖然とした。彼が一生かかっても稼げる額ではない。

「凄い金額だな。彼らは何故……」

「まあ、折角足を運んで頂いたんですから、本人に直接会って確かめてみてはどうですか」

 勿論、そのために来たのではあるが。勿体ぶっているようにも見える杉山の態度に、高村は違和感を覚えた。

 静間のマンションまでは車で十五分ほどだった。

「静間喬一の行為は犯罪に当たらないと、私達は判断して、現在は放置しているんです。新聞などで取り上げて問題にすることも考えたのですが、逆に人気が出て追随する者が増えては困るということで」

 杉山は運転しながらそう言った。

 二人はエレベーターで上り、四○二号室のインターホンを鳴らした。

 警察であることを伝えると、やがてドアが開いて二十代半ばの男が顔を出した。無精髭を生やし、髪も手入れされておらずボサボサだ。眼鏡の奥の目は、穏やかで知的な印象があった。高村は、オタクという言葉を思い浮かべた。

「ああ刑事さん、今日はどうしたんですか」

 静間は、刑事の登場にさしたる動揺を見せなかった。杉山と面識があるらしいのは、以前捜査に当たったのが彼だったのだろう。

 杉山が簡単に高村を紹介すると、静間は軽く頭を下げた。

「まあ立ち話も何ですし、どうぞどうぞ」

「すみませんね」

 高村達は靴を脱いで部屋に上がった。

 そこは十畳ほどの広さのワンルームマンションだった。狭いキッチンには空のカップ麺が積み重なっている。洋室の床は、コミックやコンピューター雑誌やスナック菓子やパソコンの配線で、足の踏み場がないほどに散らかっていた。

「まあどうぞ」

 静間が雑誌を片づけて、なんとか二人の座れるスペースを作った。

 部屋には三台のパソコンがあり、全て稼働していた。一人で三台も持ってどうするのかと高村は思った。体は一つしかないのに。

「やはりその話ですね」

 簡単な説明を聞いた後、静間は頷いた。

「あなたと彼らとはどういう関係なんです。何故、彼らは死ぬ前に、あなたに全財産を振り込むのですか」

 高村の質問に対し、静間はパソコンのうちの一台に向かった。魚の泳いでいるスクリーンセーバーが消え、ブラウザの画面が現れる。職場にもパソコンが設置されているため、その程度の知識は高村にもあった。

「ISDNでインターネットに常時接続しているんです。値段は多少張りますけどね。刑事さんは、インターネットやったことありますか」

「少しだけ」

 高村は答えた。杉山が何故かニヤニヤして高村を見ていた。これから見せられるものを知っていて、高村がどんな反応を示すのかが楽しみなようだった。

「それは良かった。全くやったことない人には、何が何だかさっぱり分からないでしょうからね」

 静間は柔らかな微笑を浮かべ、高村を戸惑わせた。高村は、この静間という男が、頻発する自殺や無差別殺人の黒幕ではないかと疑っていたのだ。だが彼は、少なくとも外見上は、悪人に見えなかった。

「さて、質問の答えはここです」

 静間は嬉しそうにマウスを動かしてブラウザのブックマークを開き、その中のある場所にカーソルを合わせた。

 『どうせ死ぬなら、僕にお金を下さい!』という題名になっていた。

「僕のホームページです」

 唖然とする高村の前で、静間はマウスをクリックした。

 花柄の背景に、大きな文字で題名と同じ台詞が描かれていた。

 その下に、十数行に渡る説明文が入っていた。

 『全ての自殺志願者の皆さんへお願いです。お金は死後の世界へは持っていけません。あなたが死んだら折角の貯金は無駄になってしまいます。残った家族に分配するのもいいですけれど、家族のいない方、或いは家族には渡したくないという方、また、自分のお金を最後にとんでもなく馬鹿馬鹿しいことに使ってみたいと思われる方は、どうか私に全財産を下さい。私は、何の努力もせずに世界一の大金持ちになることを目指している者です。あなたの大事なお金は私の贅沢な暮らしに役立たせて頂きます。現世に夢を失ったあなた、私の壮大な夢にご協力をお願いします。』

 その下には、静間喬一の名前と、振込先の口座番号が記されていた。

 何だ、これは。更に表紙のカウンタを見て、高村は肝を潰した。

 のべ訪問者の数を示すカウンタは、二百七十八万四千五百二十六となっていた。

「つまり、口座に振り込んでくれたのは、僕のホームページを訪れて、その趣旨に賛同してくれた見知らぬ人達なんです」

「こ、こんな馬鹿なことに、従う人がいるのか」

 高村は呻いた。

「馬鹿なことだからこそ、意味があるんですよ」

 静間は平然と答えた。

「今の時代は利益と効率ばかりを求め過ぎて、窮屈になっています。安全で無駄のない生き方を強要され、余裕を失った人々にとって、この馬鹿馬鹿しさは魅力的に映るんじゃないですか。また、それを狙ってこんなホームページを立ち上げたんですけどね。掲示板の書き込みも多いですよ」

「し、しかし……」

「おっと、念のため言っておきますけれど、僕は自殺を奨励している訳でも自殺の手助けをしている訳でもないですよ。題名の通り、どうせ死ぬのなら僕にお金を下さいって、それだけです。まあ、人からお金をもらっているんだから、贈与税とかはつくのかも知れませんけどね。その辺はちょっと勉強不足なもので。請求があれば勿論払いますよ、ちょっと残念だけど」

「……。ホームページのアドレスを、教えてもらえますか」

「そちらの刑事さんは知ってらしたと思うけど、いいですよ。刑事さんも、自殺する時にはよろしくお願いしますね」

 静間はメモ用紙に書いて高村に手渡した。

 この静間という男が、頻発する事件の直接の原因でないということは一応分かった。

 ならば、原因は何なのだ。

 高村は静間に聞いてみた。

「最近の自殺者の数は異常だ。君は何故、こんなに自殺者が増えたと思いますか」

 同時に高村は、世界がゲームだと言って死んだ仁科の話をした。職業や名前は出さずにだが。

「確かにそれはありますね」

 静間は言った。

「人生をゲーム感覚で見るようになったこと、或いは、人生というものの本質が元々そんなものであるということに、皆が気づき始めたということじゃないですか。現代はメディアが氾濫して、全体の中での自分の位置が見えてしまいますよね。同じ世界で面白可笑しく生きている人がいるのに、自分は安い給料で一生懸命働いてその人に奉仕するだけ。そんな貧乏籤の人生なんてつまらないし、やり直したいと思うのは当然でしょう」

「でも、やり直しが出来るかどうかなんて分からないじゃないか」

「そりゃそうですけどね。リセットといったってここではセーブも出来ない。ただ、人間って、絶対いつかは死ぬんですよ」

 静間の瞳にはある種、酔ったような熱狂の色があった。

「つまらない人生を苦労して送って支配者に尽くすくらいなら、さっさと死んで次に賭けた方がましじゃないですか」

「……。君は、そんなふうに割り切れるのか。もっと人生とは、かけがえのないものではないのか」

「なるほど、あなたには洗脳が実にうまくいっているようですねえ」

 静間は意味ありげに微笑した。

「洗脳だって」

「勝者というのは敗者が存在するから成り立つんですよ。生きて、尽くしてくれる大多数の奴隷がいないと支配者は楽が出来ない。だから支配者達は、敗者がそう簡単に人生を放棄しないように、小さな頃から洗脳を施すんです。ああ、世間ではそれを教育って呼んでますね。苦しいなりにもささやかな夢と偽の快楽に満足して生きられるように、人々の心を調節するのですけど、最近はそれがうまくいってないんですよ。それはやはり、小説や映画などとは桁違いの情報が、多チャンネル衛星放送やインターネットなどの制御の難しいメディアによってもたらされたからだと思います。……戦争、飢餓、貧富の差の拡大、宗教、環境汚染、そんなことは多発する事件に関係ありません。要は、人生が自分の思い通りにならない時、それに我慢して生き続けるほど人々が愚鈍ではなくなったということですよ」

「君もそうなのか。もし自分の思惑通りに行かなければ、やはり自殺するのか」

「ええ。そのつもりですよ」

 静間の話はある程度は理解出来るものだった。頭では。しかし、だからといって簡単にそれを実行出来るものなのだろうか。確かに報われないことは多いが、その中に少しでも幸福を感じられる時があれば……。いや、そう考えてしまうのは、支配者達の洗脳によるものなのか。高村は考え込んだ。

「それにしても、大金持ちになったのに、まだこんな狭いマンションに住み続けるつもりなのか」

 高村が聞くと、静間は笑って首を振った。

「だって、まだまだたった十三億じゃないですか。僕は世界一の大金持ちになることを目指してるんですよ」

 そのやり取りをニヤニヤしながら見守っていた杉山が、断崖から車ごと落下して死んだのは、一週間後のことだった。自殺と断定された。自宅の遺書には『今度は宇宙飛行士になりたい』と書かれていたという。杉山の預金百五十万が、静間の口座に振り込まれていた。

 

 

  六

 

 無表情の仮面を被った人々が、足早に通り過ぎていく。この場所にいる自分は真の自分ではなく、周りのことには何の興味も持たぬというように。

 人生とは一体何だったのだろうか。高村は思う。

 喫茶店の窓際の席に座り、高村は外の景色を眺めていた。昨日、通行人にガソリンをかけて火をつけ、自らも焼身自殺した事件があり、その聞き込みを終わっての遅い昼食だった。さっきまで読んでいた店置きの新聞には、ベンチャー企業を起こして億万長者になった社長の記事や、有名なタレント同士の結婚の記事や、アフリカの大虐殺の記事や、スペースシャトル打ち上げの記事や、列車への飛び込み自殺の記事や、二億円を奪ってまんまと逃げおおせた銀行強盗の記事や、ホテルの放火で十五人が焼死した記事などが載っていた。

 幼い頃、自分は人生をどんなものだと信じていただろうか。

 人生というものを噂だけで聞いていた頃、自分にも、きっと素晴らしい色々な出来事が用意されていて、何もしなくてもそれは自然にやってくるものだと思っていた。

 この世で誰かが可能なことは、自分にも可能ということであり、いつかはそれを出来る日が来ると信じていた。

 パイロット、ロボット博士、総理大臣、オリンピック選手、世界を救う英雄。

 それを諦め始めたのは、いつ頃からなのだろう。

 高校受験、大学受験、そして就職。自分の可能性は極めて限られたものであり、更にその中から一本の道を選択しなければならないということを知る。

 こんなものだったのか。自分の人生とは、こんなちっぽけなものだったのだろうか。

 幼い頃の希望と今の自分を比べ合わせてみると、そんな苦い感慨が浮かぶ。

 なのに何故、自分はこれまで絶望もせずに、生きてこられたのだろうか。あの静間が言ったように、現状が期待に添わなければ人生を放棄してしまえば良いではないか。

 いや。

 そんな単純なものではない。改めて、高村はそう思った。

 仁科や静間の主張。それは、論理的には正しいかも知れない。だがそれは現実とは違う筈だ。生きている実感や、自分の価値観というものは、論理では得られない筈だ。彼らは現実という土台から遊離して、頭だけで語っているように見える。

 高村は大学生時代、夏休みに工事現場でアルバイトをしたことがある。強い日差しを浴び灼熱地獄の中で、汗を流しながら黙々と作業をこなす苦しみと、それを終えた後の充実感を、手に入る給料の重みを、高村は知っている。愛する人と共に過ごす時に全身を包む安らぎを、高村は知っている。実感は論理に勝る。自殺を肯定する彼らも、いざ死の間際になって、その痛みと恐ろしさを思い知るのではないだろうか。

 彼らは勘違いをしている。頭だけで考え出した論理に惑わされ、人生の本質を見失っているのだ。高村はそう思った。

 まして、人生は自分一人のものではない。自分一人でやるゲームなら、何度でもリセットでもしてやり直せばいいが、前の人生で知り合った人達とまた会える保証はないのだ。

 数々の甘い思い出に倍するような苦い経験があっても、浮ついた夢を現実の力によって叩き潰されても、まだ人生を投げ出すことが出来ないのは、自分がこれまで関わってきた人達との繋がりのせいではないだろうか。高村は、両親の顔を思い浮かべた。父親は二年前に癌で死んだが、母親は実家に一人で暮らしている。たまには帰ってみよう。高村は思った。次に有田令子の顔が浮かんだ。彼女にはそろそろ答えを示さねばならない。高村にはもう決心はついている。彼女と共に生きていくことを。

 人生は、絶賛するほど素晴らしいものでもないが、かといって、そう簡単に捨てられるものでもない筈だ。

 高村は、考え事に没頭している間に冷めてしまった、コーヒーの残りを飲み干した。

 短絡的に破滅へと向かう彼らの行動は間違っている。どうにかして、止めなければならない。

 それにはどうすればいいのか。静間の言った通り、氾濫するメディアのせいで皆が人生の本質を見失ってしまうのなら、情報を規制しなければならないのか。歴史上、何度も焚書が行われてきたように。それとも、引き留める力となり得る他人との繋がりを、もっと彼らに実感させる必要があるのだろうか。彼らの世界には自分しか存在しないのかも知れない。

 だが、刑事である自分には何が出来るだろう。高村はまた考え込んだ。

 窓の外から、けたたましいクラクションの音が聞こえてきた。我に返って顔を上げた高村が見たものは、猛スピードで突っ走る赤いスポーツカーだった。交通量の多いこの通りで、時速百キロ以上は出ていただろう。運転席と助手席に座る若い男女の顔がちらりと見えた。憎悪と悦楽、絶望と期待の入り混じったあの表情が浮かんでいた。

 歩道に乗り上げて、逃げ惑う人々を撥ね飛ばしながら、スポーツカーは向かいのビルの壁に激突した。

 高村が駆けつけた時、乗っていた二人の死に顔には、血みどろの歪んだ笑みが貼りついていた。

 

 

  七

 

 早朝の電話で高村は目が覚めた。時計を見ると七時二十分。窓の外から薄い光が洩れる。留守録モードになっていたため自分の声が勝手に応答を始め、眠い目を擦りながら高村は慌てて受話器を取った。

「はい、高村です」

「あら、いたのね。てっきり仕事だと思った。いつかけても、あなたはいないことが多いから」

 令子だった。何処となく声の調子がいつもと違っていた。

 レストランの猟銃乱射事件の後、高村も忙しくて令子と会っていなかった。

「どうしたんだ」

「この間、面接に行ってきたの」

「何の面接だい」

「転職のよ」

 令子は有名な衣料品会社の名を挙げた。

「駄目だったわ」

 高村が尋ねる前に、自分から令子は言った。

「……。そうか。残念だったな。でもそんなに気を落とすなよ。きっとまたチャンスもあるさ」

「もう私、何もかも嫌になっちゃった。今の職場にも辞表を出してあるわ」

 令子はそう言うと、クククと笑った。不気味な笑い方だった。

 高村の背筋に悪寒が走った。仁科はこの世界がゲームだと言った。静間は、人生が思い通りにならない時、それに我慢して生き続けるほど人々が愚鈍ではなくなったのだと言った。

 そして彼女はかつて、人生が一度きりなんて誰が決めたの、と言ったのだ。

「令子、君はまさか……」

「じゃあね。私はもっといい人生を探すわ。エキストラなんて真っ平。やっぱり自分が主役にならなくちゃ」

「待ってくれ。僕は……」

 電話は向こうから切られた。高村がかけ直しても、令子は出なかった。

 高村は令子のマンションに車を飛ばした。呼び鈴を鳴らしても応答はなく、高村は合鍵を取り出した。二年前に彼女から預かったものだった。

 既に令子はいなかった。何処に行ったのか。高村は焦燥感に焼かれながら手がかりを探し回った。

 部屋の中は散らかっていた。ベッドの上に洋服が何枚も並んでいた。着ていく服を吟味していたのだろうか。死への旅路に。

 居間のテーブルの上に一台のパソコンが置かれていた。半年前に令子が買ったものだ。度重なる事件のため高村が忙しくなるにつれて、令子はパソコンに向かう時間が多くなってきたようだった。

 高村はパソコンの電源を入れた。じりじりとして待つ高村の前に、やがて花柄の背景をしたデスクトップ画面が現れた。

 見覚えのある壁紙だった。

 メモらしきファイルは見当たらなかった。高村は、インターネットのブラウザを起動した。電話線経由で繋ぐ独特の信号音の後で、有名な検索エンジンのページがホームとして現れる。

 高村は、ブックマークにカーソルを合わせた。見知らぬサイト名が並ぶ中に、あるものを認めて、高村は悪い予感が的中したことを知った。

 そこには、『どうせ死ぬなら、僕にお金を下さい!』とあった。

 令子も、このホームページを知っていたのか。

 高村はマウスをクリックした。やはり花柄の背景は、令子が壁紙に使っているものと同じものだった。

 高村は掲示板を覗いてみた。何か手がかりになりそうな情報が書き込まれているかも知れない。

 掲示板の最上部には、『この掲示板に書き込まれた内容について、管理人は一切の責任を持ちません』という静間の警告があった。用心深い男だ。

 最新の書き込みから下へ辿っていくと、十個目くらいでレイコという名による書き込みが見つかった。

 『誤解堂さん、明日のイベント楽しみにしています。お気に入りの服を着て行きますからね。』という内容だった。書き込まれた日付は昨日。

 つまり、イベントは今日なのだ。

 どんなイベントなんだ。高村の胸の鼓動が速くなっていった。額に冷たい汗が滲む。

 高村は更に下へと辿っていった。掲示板の話題はそのイベントのことで持ち切りだった。今回のイベントと自分とは全く関係がないし責任も取れないと念を押す、静間の書き込みも混じっていた。

 『更に過去のログを見る』というボタンを押し、何回か繰り返すと、問題の書き込みが見つかった。

 赤い文字で、『あなたも飛び降りパーティーに参加しませんか』という題名になっていた。名前は誤解堂となっている。

 高村は血の気が引く思いで、内容を読み進めた。

 『来週の土曜日、S市に四十階建ての巨大ホテル『セネスタ』がオープンします。屋上はビアガーデンになっていて絶景を堪能出来るそうです。皆さん、僕と一緒に四十階分の加速度とスリルを体感してみませんか。つまらない人生の幕を、これまで誰もやったことのないようなド派手な方法で下ろして、皆をあっと言わせましょう。参加ご希望の方はお知らせ下さい。ホテルのオープン後すぐに決行したいと思いますので、午前十時までに現地に集合とします』

 高村は時計を見た。八時。S市までは車で急いでもギリギリ間に合うかどうかというところだ。

 止めなければ。高村は自分の職場に急ぎ、署長に事情を説明した。

 だが、署長の返事は期待外れのものだった。

「そんなことに関わってる暇はない。爆弾テロだ。JRの三駅で同時に爆発して、分かっているだけでも六十人以上が死んだ。非番の者にも召集をかけている。お前もすぐ現場に向かえ」

「し、しかし、集団自殺の予告を放っておく訳には……」

 高村の反論を署長は即座に切り捨てた。

「S市も連続通り魔事件にかかりっきりだ。そんなインターネットなんて得体の知れんところの情報で、もしデマだったらどうするんだ。向こうの市警ともゴタゴタになるぞ」

 高村は諦めた。警察手帳と拳銃を背広の内側に収めると、彼は自分の車で出発した。

 爆弾テロの起こった駅の方ではなく、県外のS市の方向だった。

 

 

  八

 

 S市の空は雲一つなく晴れ渡っていた。人生を終えるにはもってこいの日だろう。そんな思考が頭を掠め、高村は首を振った。

 オープンしたばかりのホテル『セネスタ』は、落ち着いたデザインの中に近未来的なイメージを感じさせる、洒落た建物だった。ロビーに入った高村に、従業員達が頭を下げる。

「エレベーターは何処だ」

 警察手帳を見せながら高村は尋ねた。

「右手の奥ですが。何か」

「屋上のビヤガーデンに人が集まっている筈だ。彼らは全員で飛び降り自殺をする気だ。人をやって、やめさせるんだ」

 従業員の顔が蒼白に変わった。慌ててフロントに伝える彼を横目に、高村はエレベーターに滑り込んだ。

 十、二十、三十……。素晴らしい速度で階の表示が進んでいく。高村は拳銃を抜いた。握る手が汗で湿っている。死のうとする者達に、銃が何の抑止力になるだろうか。

 扉が開き、陽の光を浴びる広い屋上の風景が目に入ってきた。屋上はほぼ全体がビヤガーデンになっていた。数十の丸いテーブルが並ぶ中、一ヶ所に集まってジョッキを手にしている人々がいた。四、五十人ほどの彼らは殆どが二十代で、それぞれが礼服やドレスや皮ジャンで身を飾っていた。ジョッキの中身はまだ大半が残っていた。乾杯が済んで自己紹介が始まったばかりのようだ。

 その中に、赤いドレスの令子がいた。初めて見るドレスは、この日のために買ったものだろうか。つかつかと歩み寄る高村と、令子の視線が合った。

「参加者の方ですか。確か人数は全員揃っていたと思うけど」

 髪をオールバックに固めた燕尾服の若者が高村に言った。どうやらこの男が主催者らしかった。

「おや、物騒なものをお持ちですね。今日のイベントにはそんなものは不要ですよ」

 オールバックの男が言って、他の参加者達も高村の拳銃に気づいた。だが彼らの顔にさしたる動揺は見られない。死を覚悟しているというよりも、彼らが死というものに対して明確な実感を持っていないように、高村には思えた。

 高村は警察手帳を皆に見せた。

「『飛び降りパーティー』の参加者だな」

「おやおや、刑事さんですか。警察にも、あんなアンダーグラウンドなサイトを覗く人がいるんですね。初めまして、僕は二階堂といいます。ハンドルネームは誤解堂ですけどね」

 オールバックの若者が優雅に一礼した。

「馬鹿なことはやめるんだ。そんなに簡単に人生を放棄するものじゃない」

 高村の言葉に対し、二階堂は皮肉な微笑を浮かべた。

「刑事さんは何の権利があってそんなことを仰るのでしょうね。僕達は自分の意志で勝手に自殺するだけですよ。口出しされる謂れはありませんが」

「君達にとっては、死ぬのは自分の勝手かも知れない。だが残された者はどうなるんだ」

 高村は言った。令子が高村の方を見つめていた。

「人生は自分だけのものじゃない。君達にも家族や友人はいるんじゃないのか。彼らとの関わりをそんなにあっけなく捨ててしまえるのか」

「そんなことは関係ありませんね。だって主人公は僕で、彼らはただの脇役なんですから。まあ、運が良ければ来世でも会えるでしょうしね」

 二階堂は平然と答えた。その瞳の静かな確信は揺らぐ余地がなかった。

 一体誰が、彼らをこんなふうにしたのだ。高村は唇を噛んだ。メディアか、ゲームか、それとも社会そのものか。

「君達は弱虫だ。少しでも辛いことがあると、もう踏み留まって生きることが出来ず、楽な方へ逃げようとする。苦労と努力を積み重ねてこそ、得られたささやかな報酬に価値が出るものじゃないか。君達は自分の論理に酔っているだけなんだ。それは現実とは違う」

「ものは言いようですね。ですがあなたが何を言おうと、僕達の心には届きませんよ」

 その場にいた誰もが、二人のやり取りに聞き入っていた。入り口付近では戸惑い顔の従業員達が集まっていた。

「東京の人と大阪の人を評するのに、こんな話があります。お金を払って映画館に入ったものの、映画が全然面白くなかった。東京の人はそれでも、払ったお金が勿体ないからと、我慢して最後まで観るそうです。でも大阪の人はすぐに映画館を出て行きます。お金を損した上に、時間まで損することの方が勿体ないのですよ」

「……。君は関西人なのか」

「いいえ、全然違います」

 二階堂は笑った。

「さて、うるさい刑事さんもいることだし、皆さん、ビールを飲んでしまって下さい。残したら勿体ないですよ」

 人々は、一気にジョッキの残りを飲み干した。

「よせ」

 焦燥と絶望に焼かれ、高村は思わず二階堂に拳銃を向けていた。

「はっはっはっはっ。正義を守るお仕事は、楽しそうですね。僕も生まれ変わったら、今度は刑事を目指すかも知れません」

 二階堂が立ち上がると、全員がそれに続いた。令子も。

「皆、やめろっ」

「では、さらばです。わーい」

 二階堂は躊躇いなく走り出した。楽しげに、柵へ向かって。

「わーいわーい」

「ざまあみろ、世界」

「リセットーッ」

 人々が、思い思いの台詞を唱えながら、それに続いていく。

「止まれえええええ」

 絶望が、高村に引き金を引かせた。

 銃声と共に、二階堂の右の太腿に血が弾けた。二階堂がガクンと崩れる。その途端に人々の突進が止まり、心配そうに二階堂を見る。

 そうだ。彼らも迷っているのだ。その時になって、高村は気づいた。

 このようなイベントに参加する彼らは、死への憧れを抱きながらも、自分一人では踏み出せない人達なのだ。ゲーム的な思考と、生きる実感とが、微妙なせめぎ合いを続けているのだ。

 主催の二階堂を諦めさせることが出来れば、彼らも思い留まるだろう。

 だが二階堂は、傷ついた足でよろよろと立ち上がった。

「わーい」

 二階堂は再び柵に向かって歩き出した。

「やめろ、二階堂」

 高村は空に向かって威嚇射撃をした。だが二階堂は立ち止まらず、振り向きもしなかった。

 歩きながら、二階堂は言った。

「自分を誤魔化してはいけない。こうして生を受けたからには、目指すのは世界の征服か、世界の救済か、二つに一つしかないのです」

「やめろおおおお」

 二階堂が、柵を、乗り越えた。

 高村は再度発砲した。二階堂の右肩に命中した。

「わーい」

 二階堂は誇らしげに呟くと、四十階の屋上から身を躍らせた。あっけなく、二階堂の姿が視界から消えた。

 不気味な静寂が、その場に訪れた。

 主催者の死を目の当たりにして、参加者達の顔が、徐々に変化していった。あの憎悪と悦楽、絶望と期待の混ざった表情に。

「や、やめろ、皆、やめるんだ」

 高村の声は彼らに届かなかった。次々に柵を越えて死の世界へ雪崩込んでいく彼らを、高村は呆然と見つめていた。何だ。何なんだ、お前ら。畜生。

 だが令子の後ろ姿を認めた時、高村は我に返った。

「令子っ」

 振り向いた令子の、勝ち誇ったような顔が見えた。そして再び奈落へ向かい柵を乗り越え、落ちかけた令子の腕を、高村の手が掴んだ。彼女が振り向いた僅かな時間が、追いつく猶予となったのだ。

「何よ、放して」

 令子は高村の手を振り払おうとした。既に彼女以外の全員が、屋上から身を投げていた。右手の拳銃を床に落とし、高村は両手で令子を引っ張った。

「戻るんだ、令子。生きるんだよ」

「嫌よ」

 令子は叫んだ。

「これはゲームなのよ。気に入らなくなったらリセットをかければいいのよ。もっと早くそうするべきだったのよ。きっとまだまだ素晴らしい世界が待ってるに違いないわ。皆馬鹿なのよ。そんな可能性のことなんか考えもしないで」

「僕を置いて行くのか。君を愛しているんだ」

 高村も叫んだ。令子の体に一瞬、震えが走った。

「結婚してくれ、令子。君と一緒なら、僕は生きていける。僕と共に生きてくれ」

 令子の抵抗する力が、少し弱まっていた。高村はその機を逃さず渾身の力で令子の体を柵の内側に引き戻し、二人とも床に尻餅をついた。

「伸……」

 令子の潤んだ瞳が高村を見つめた。高村は彼女を抱き締めた。

 これで令子が戻ってきたと思った。これからもまだまだ自殺者は増え、世界は荒んでいくだろう。でも、彼女と一緒に生きていこう。人の生きていく意味は、一生を費やして壮大な目標を果たすことではなく、愛する人とただ共に生きていけることにあるのだから。

 その高村の思いを、篭った銃声が吹き飛ばした。腹部を貫く熱い感覚。

「れ……いこ……」

 令子の、酔ったような顔には、やはり憎悪と悦楽と、絶望と期待の入り混じった表情が、今もへばりついていた。床に落とした高村の拳銃が、彼女の手に握られていた。

「やっぱり銃を撃つのって気持ちいいわ。一度やってみたかったの」

 更にもう一発、令子は発砲した。高村の口から血が溢れ出した。

「それなら、私と一緒に死んで。恋人と心中する悲劇のヒロインって、ちょっとかっこいいじゃない」

 令子は立ち上がった。赤いドレスに、飛び散った別の赤が付いていた。

 お前ら。高村の叫びは声にならなかった。

 お前ら、遊び半分で、滅茶苦茶しやがって。人生を、何だと思ってるんだ。

 ゲームだろ。高村は自嘲した。

 崩れゆく高村の体を引っ張って、令子は立ち上がらせた。令子の両腕が高村の背に回され、二人の上半身はそのまま柵を越えた。

 高村の視界が、反転した。

 遥か下の地面には、人々のひしゃげた死体が血の海に沈んでいた。高村の青ざめた唇に、令子の熱い唇が触れた。

 無意識に絞り出される自分の悲鳴を聞きながら、令子と共に落ちていく高村の目に、向かいのビルの壁に設置されたテレビ放送の巨大画面が見えた。

 それはニュース番組だった。高村が最後に見たものは、今年の自殺件数が、全国で五十万件に達したという見出しだった。

 

 

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