その席 その一言

 

  一

 

「おい」

 声が飛んだ。明確な殺意ほどではないものの、怒りの篭もった声音だった。

 酒場。シラマ共和国というそこそこ大きな国の、アディペトというそこそこの都市。その中央通りから少し外れた立地にありながらも繁盛しているのは、酒場の名前によるところが大きかった。その名前のお陰でカイストが立ち寄り、カイストに依頼したい一般人の客も来る。一般人が飲み食い出来るのはカウンターだけで、彼らは依頼票を掲示板に貼り、受けてくれるカイストがいたかどうか頻繁に確認に来るのだ。

 この時、酒場には一般人の客が一人いて依頼票に書き込んでいたのだが、突然発せられた声にビクリとして顔を上げた。応対していた店主も眉をひそめそちらを見た。

 声を発したのはカイスト用のスペースにいた五人のうちの一人だった。奥のテーブルで朝から酒を飲んでいた男だ。誰かと待ち合わせでもしているのだろうか、男は二ヶ月以上も毎日この酒場に通い、同じテーブルで静かに飲み続けていた。長い時をかけて世界を渡り歩くカイストにとって、待ち合わせの期日は下手をすると数千年単位だったりする。

 男は薄いシャツ一枚にズボンにサンダルというラフな格好で、痩身ではあるが筋肉は異様に引き締まっていた。髪も髭も伸び過ぎたところを自分で適当に切ったような乱雑さだ。荷物はベルトにつけた小さなポーチに、椅子に立てかけた長剣のみ。反りのある長剣は全長一メートル半ほどもあり、柄も鞘も質素な作りだが服や髪と違ってよく手入れされていた。

 彼が常人よりやや大きな黒目で睨んでいたのは、中央のテーブルにつこうとしていた二人組だった。長身と背の低い男のコンビ。そのテーブルだけ他よりも高級品で、側面と脚に精緻な装飾文様が彫り込まれていた。同じように高級な椅子は一脚しかなかったため、背の低い男が隣の空いたテーブルから引っ張ってくるところだった。

 二人組は声をかけた男を見返した。長身の方は薄い笑みを浮かべて。背の低い方は鋭い眼差しで。

 長身の男は椅子に座りかけ少し腰を落とした姿勢だが、ブーツの底の厚みを合わせて百九十七、八センチといったところだろう。赤みがかったブロンドの髪を腰にかかるくらいまで伸ばしている。髪がところどころよじれているのは鉄線を編み込んでいるようだ。美男子といっても差し支えない整った容姿だが、口元の皮肉な笑みと相手を見下すような視線が与える印象を悪くしていた。黒いロングコートの袖が長く、手袋を填めた手が半ば隠れている。

 背の低い男の体格はがっしりしていたがバランスがおかしかった。腕が妙に長く、特に右腕は僅かに身を屈めるだけで指先が足首に届きそうなほどだ。変則的で特殊な鍛え方・戦い方を続けるうちにそうなったのだろう。着ている革服は靴とも同じ材質のようで、一頭の獣から採ったのかも知れない。縫製は丁寧だが装飾性は皆無だ。革ベルトで左腰に吊られた二本の鉈が男の得物だった。髪は伸びたのを後ろで束ねただけで、うっすらと顎髭を生やしている。声をかけた男を観察する目はただ一つのことに執着していた。相手が自分より強いのか、弱いのか、それだけに。

 奥のテーブルの男が続けた。

「その席はダメだ。アノラ語が読めないのか」

「読めるよ」

 長身の方が平然と返した。

 アノラ語は四千世界を渡り歩くカイスト達が用いる共通語の一つで、文法が単純で語尾などの変化もないので覚えやすい。文明制限のないフリーゾーンではカイストによって広められ、そのまま主流言語になってしまうことも多く、サマルータもその例に漏れなかった。

 テーブルには木製の札が立ててあった。随分と古いもので、磨き過ぎて薄れかけた字を保護すべく表面に透明なコーティングが施されている。

 その札に表音一致のアノラ文字で、「サマルータの英雄『鋼鉄の男』ディンゴの専用席」と書かれていた。その傍らにやや崩れた筆跡で「ありがと!」とも。

「その席は大将の……『鋼』のディンゴ専用だ。お前ら如きが座っていい席じゃねえんだよ」

 『鋼』『鋼鉄の男』と呼ばれるディンゴは百五十億才にもなるAクラスの戦士で、オアシス会という強力な組織の大幹部でもある。高速移動するものの軌道を曲げるという特殊能力を持ちながら、それに頼りきらずあらゆる武術を極めた男だ。ガルーサ・ネットのカイスト・チャートで常時百位以内をキープするゴールデン・マークの一人で、正統派の武人の理想像であり目標といえる。

 サマルータはディンゴの出身世界だ。ディンゴ自身も里帰りと称してしばしば立ち寄り、魔獣を討伐したり災害を防いだり国同士の戦争を仲裁したり、戦士志望者を鍛えたりと色々貢献してくれるので、住民も彼をサマルータの守り神扱いしているところがあった。この酒場のように『ディンゴ亭』という名で彼専用の席を用意しているところも多い。名前に釣られてディンゴが本当に訪れた場合、店は無料で飲食物を提供するのがしきたりだ。その代わりディンゴは巨大な獣を狩ってきてくれたり古い宝物をプレゼントしてくれたりする。札にある「ありがと!」の文字はディンゴの直筆だった。

 専用席であることを指摘する男の言葉に、長身の男は皮肉な笑みを浮かべた。いや、その笑みははっきりと嘲りを含んでいた。

「大将……大将、ねえ。なるほど、『ディンゴ団』の人か。僕には信じられないな。折角カイストになったのに、他人の下につくなんてね」

 ディンゴは親分肌で面倒見が良いため弟子となるカイストも多い。ただ、彼らがディンゴの後ばかりを追いかけるフォロアー集団と化してしまい『ディンゴ団』と揶揄されることもあった。そう呼ばれて腹を立てるどころか喜んで自ら名乗ったりしてしまうのが、彼らの病の深さであるのだが。

「大将は実際に俺より高いとこにいるんだから、素直に認めるさ。認めた上で追いつき、追い越そうとしてるんだ。いやそれよりだ。その席に座るなよ。許さんぞ」

 奥のテーブルの男は表面的には冷静さを保っていたが、ピリピリとした緊張感が場に漂いつつあった。コップを置いた手は、背もたれに立てかけた長剣にまだ伸びてはいない。

 酒場にいたカイスト残り二人のうち、一人は興味深げにやり取りを見守り、一人は我関せずで携帯情報端末を片手でいじりながら料理を食べていた。依頼票を書いていた一般人客はそのまま凍りつき、逃げることも出来ずにいた。店主が決心したように息を吐き、諍いに介入しようとしたところで事態が動いた。

 背の低い男が持ってきた椅子をディンゴ専用テーブルの前に起き、無造作に腰を下ろしたのだ。視線は奥のテーブルの男に据えたまま。

 彼はそこで初めて声を発した。

「空いているのだから何処に座ろうが構わないだろう。それと、俺に命令するな」

 低く、太い声音だった。

 相棒の行為に続き、長身の男がわざとらしく肩を竦め、ディンゴ用の椅子に座った。

 ピシッ、ミシッ、と、不気味な音がした。酒場の建物が軋みを上げているのだ。物理的な圧力と化した殺意によって。

 二秒ほどで唐突に、殺意は消えた。

「名前は。俺はニス・アルタスだ」

 立ち上がり、左手で長剣の鞘を掴んで男が名乗った。

「ゴスラム」

 椅子に座ったままで、背の低い男が応じる。そして長身の男が。

「ファントゥーラ・シュモン。よくシモンとかスモンとか言い間違えられるんだけど……」

 風が鳴る。

 次の瞬間、酒場の天井に長剣が柄元まで突き立っていた。ボタリ、ボタリ、と赤い雫が落ちて床を汚す。

 長剣には柄を握ったままの右腕がくっついていた。肘部分で切られ、断端から血が垂れているのだった。

 長剣と腕の主であるニス・アルタスはディンゴ専用テーブルの手前で倒れていた。右腕を失った以外にも、胴体が鳩尾の高さで輪切りにされていた。切れた内臓がぶち撒かれた床に、みるみる血溜まりが広がっていく。

 二人組は椅子から立ち上がっていた。背の低い男・ゴスラムは長さの違う両腕でそれぞれ鉈を握って。長身のファントゥーラ・シュモンは右手に細い短剣を握って。コートの袖の中に隠していたものだ。

 ニス・アルタスの上部分はまだ意識を保っていた。カフッ、と血を吐いた後、憎々しげに二人の敵を見上げた。

「俺は、まだ……ディンゴの弟子の、まだ、下っ端で……だから、勘違い、するな……」

 シュトン、とその首筋に鉈が落ちて何の抵抗もなく切断してのけた。下の床には傷一つつけない、見事な技量だった。転がるニス・アルタスの生首は死んでも目を開けたままだった。

 二本の鉈に刃こぼれも血糊もないことを確認し、ゴスラムは腰の鞘に収めた。それからジロリと非難の篭もった視線を隣へ投げる。

「何か」

 ポケットから出した布で短剣を拭いつつ、シュモンが尋ねる。

「一対一でやりたかった」

 死体の下部分……右足首に刃物傷が残っていた。腱を切断し骨にも達する傷は、シュモンが短剣でつけたものだ。両者の位置関係からは届く間合いではなかったが、特殊な技を持っているのだろう。

「しょうがないさ。向こうがいきなり仕掛けたんだから」

 シュモンが短剣を袖の中に引っ込め、再びディンゴ用の椅子に座った。ゴスラムも向かいの椅子に座る。死体となった男を放置して。

 その場に居合わせた他のカイストは相変わらず、黙って見守っているか見向きもせず端末をいじっているかだった。

 反応のなさを物足りなく感じたのだろうか。シュモンは足元に転がっていたニス・アルタスの生首を見下ろし、軽く踏みつけた。

「かっこ悪いねえ。ディンゴ団ってこんなもんなのか。弟子がこれじゃあ、師匠の程度も知れてしまうよね」

 それからシュモンはテーブルに立てた札へ手を伸ばした。手袋に包まれた中指と親指で輪を作る。中指の爪側を親指の腹で押さえる、所謂デコピンのポーズだ。

「『鋼鉄の男』ディンゴか。カイストは長く生きてるほど強いと言われるけど、ぬるま湯に浸ってなまる奴もいるよね。今となっては看板倒れって奴じゃないのかな」

 シュモンは喋りながら手を戻す。その中指はいつの間にか伸びていた。

 音はしなかった。ディンゴの専用席であることを記した木の札に、斜めに線が走っていた。

 数秒経ってもそのままだったが、シュモンが人差し指の先でテーブルを軽く叩くと、札の線が亀裂に変わった。その亀裂が大きくなり、札が二つに割れて倒れた。

 カタン、という乾いた音が響き、酒場の主人の顔色が変わった。血の気が引いて白くなった後で、次第にどす黒く変色していく。怒りと緊張、いや緊張を通り越して恐怖すら滲ませていたが、それでも彼はカウンターを離れて二人組の方へと歩き出した。

「まずメニューをくれ。食い溜めしておきたいんだ」

 シュモンが店主に言う。彼が持っているのがメニューブックでないことに気づきながらも、シュモンは薄笑いを留めていた。

「あ、あんたらに見せるメニューはない」

 酒場の主人が告げた。声は掠れ、少し震えていたが、彼の目は覚悟を決めたらしく据わっていた。年齢は四十代で、髪の生え際は頭頂部まで後退し、エプロンを着けた腹も出ている。ごく普通の、一般人の中年男だった。カイスト相手の商売で多少の荒事は目にしたかも知れないが、戦う力は持っていない。中途半端な力など持っていない方が安全だろう。理不尽な災害を前にして血迷わないで済む。

 だが店主の手は今、メニューブックでなく一振りの剣を持っていた。数打ちの量産品だが、鞘に収まった状態でも奇妙な存在感を放っている。強化士または魔術士によって我力強化を施された武器らしかった。カイストは自分の我力を武器に乗せ、相手の肉体を覆う我力の防壁を突き破りダメージを与える。その効果を半永久的に武器に込める技術が我力強化だ。我力防壁を持つBクラス以上のカイストを、一般人でも殺せる武器、ということになる。一般人の筋力と技量で、カイストに当てることが出来ればの話だが。

「抜かない方がいいよ、それ。僕は一般人相手でも容赦しないよ」

 シュモンの冷たい目は完全に店主を見下していた。

「カイスト……カイスト相手の、商売だ。覚悟はしてる。特に『ディンゴ亭』をやってるんだからな。うちの店の初代は、ディンゴに直接指導を頂いた兵士だったらしい。もう三千年以上前の話だがね。この札は……」

 テーブルの上の、二つに割れた木札を見やり、店主は歯を食い縛る。

「……この札は、七百年前、初めてディンゴ本人が来てくれた時の、直筆の……代々伝わる、うちの家宝だ。……それを、あんたらが壊した。カイストなら人の大切なものを好き勝手に壊していいのか。カイスト同士のいざこざは、まあ、仕方がないんだろう。だが、人の店のルールを破って、予約席に勝手に座って、家宝を遊び半分で真っ二つにして。……なあ、カイストなら、強けりゃあ何したっていいのかよ」

「いいよ」

 平然とシュモンは答えた。

「だって弱い奴は死ぬからね。死んだ奴の主張なんて意味ないよね」

「意味はある」

 店主が言った。一般人の、ただの酒場の親父が、膝を震わせながら、目をギラつかせて。右手で剣の柄を握って。

「勇気と根性を証明出来る。代々続いたうちの店に、ディンゴの名を借りるだけの資格があったと」

 カツン、と硬い音がして店主の首筋近くで二つの刃が交差していた。

 店主は剣を抜きかけていた。鍔と鞘の隙間はまだほんの一ミリほどしかなかった。

 交差していたのは鉈と細身の短剣だった。短剣が店主の首を刎ねようとしたのを鉈が止めた、そういう位置関係だった。鉈はゴスラムの右手が握っていたが、短剣は投げつけられたものか宙に浮き、そのまま静止していた。

「ゴスラム」

 シュモンが意外そうに相棒の名を呼ぶ。短剣が見えない糸に引っ張られたように、彼の手の中に戻った。

 ゴスラムは横目でシュモンの動きに注意を払いつつ鉈を引っ込める。それから彼は立ち上がり、店主に言った。

「店長、その……悪かった」

 何万年、何億年と生きるカイストにしては珍しいことに、ゴスラムの顔は真っ赤になっていた。恥ずかしそうに、ボソリ、ボソリと言葉を紡ぐ。

「確かに、その店のルールというのは、ある。そういうことを、忘れていた。……俺達は客で、店のルールを守るべきだし……店のものを壊したのは、悪かった。すまない。弁償する」

 店主にとってもカイストの素直な謝罪は驚きだったのだろう。覚悟していた顔が慌てたものになり、だがやがて冷静さを取り戻す。

「分かってくれたんならいい。席も立ってくれたし、あんたはな。家宝を割ったのは、そっちの方だしな」

 『そっちの方』であるファントゥーラ・シュモンは豪華な椅子に座ったまま、嘲りの薄ら笑いを浮かべていた。短剣が回っている。シュモンが立てた人差し指の上で、完璧なバランスでクルクルとスピンしている。

「いかんなあ、ゴスラム。そういう田舎者丸出しの対応しちゃあ。カイストってのは腰が引けちゃったら終わりだよ」

「なるほど、なるほど。ではそろそろよろしいですか」

 手を挙げて発言する者がいた。酒場の主人とゴスラムはそちらを振り向き、シュモンは余裕をアピールするかのように短剣を回し続けていた。

 発言したのはやり取りを興味深そうに見守っていたカイストだった。いや、緩んだ口元は明らかに面白がっていた。砂漠の旅を続けてきたのか、ゆったりとした薄い生地の服で身を包んでいる。殆ど瞬きしない瞳は左右の色が違っていた。

「検証士のパテュシュナーニャと申します。店主は家宝を台なしにされて憤っておられる。ゴスラムさんは店のルールを破ったことを気にしておられる。ファントゥーラ・シュモンさんは特に謝罪する気はなく自分が正しいと思っておられる、という訳ですね」

 シュモンが舌打ちした。

「チッ。検証士ってのは何処にでもいやがるもんだ。だけど検証士は干渉しないのが原則じゃないのかな」

「世界図書館の検証士ならそうでしょうね。しかしこんな美味しい状況なら、大概の検証士が口出ししてしまうんじゃないですか。Bクラス二人が『鋼』のディンゴに対し、自信満々な挑戦状を叩きつけた訳ですから」

 パテュシュナーニャの言葉にシュモンは唇を歪め、ゴスラムは赤い顔で少しだけ片眉を上げた。

「おや、びっくりなさっておられるようですが、いやいや、当然ですよね。ディンゴの専用席に座ったのですから、『ディンゴに取って代わってやる』という意思表示ですよね。ああ、ちなみにこの場に検証士がいなかったとしても違いはないですよ。噂を聞いて集まってきて掘り起こして保証つきで発表してしまいますから。検証士とはそういう人種ですからねえ。さて、お二人共、そのテーブルにご自分の名前をサインして頂けますか。新たな家宝の出来上がりです。後から新たな文が書き加えられることになるでしょうがね。ペンをお貸し出来ますが、よろしければご自分の得物を使ってもらえますか。そちらの方が見栄えも良いと思いますよ。得物の精密操作に自信がないのでしたらペンでも構いませんが」

 三者三様の反応。パテュシュナーニャの喋りは一般人にはやや早口であり、酒場の主人はまだ頭が追いつかずにいる。ゴスラムは「書けばいいのか」とあっさり鉈の切っ先でテーブルに名を書き込んだ。あまり整った字ではなかったが、これは鉈の扱いが粗いためではなく元々の癖字のようだ。シュモンは指一本で短剣を回しながら、粘っこい視線を返していた。この饒舌な検証士をどのように切り刻むか、吟味しているように。

「ファントゥーラ・シュモンさんもお願い出来ますか。それともまさか、今更になって怖じ気づいたとか、ありませんよね。カイストは腰が引けてしまったら終わりだそうですから」

 自分の吐いた台詞を使って煽られ、シュモンはフンと鼻を鳴らして短剣を振った。一瞬でテーブルの半分ほどの面積に彼の名前が刻まれていた。

「店主、このテーブルは強化処理してもらうことをお勧めします。事情を話せば格安でやってくれる強化士はいると思いますよ」

「あ……ああ。ありがとうございます」

 店主は覚悟が肩透かしで済んだことを理解したようで、気の抜けた顔をしていた。

 パテュシュナーニャは話の相手を切り替える。

「ところでゴスラムさん、あなたの名前はガルーサ・ネットのデータバンク上にありませんから未登録者なんですね。Bクラスの戦士とお見受けしますが、カイストとして立ってからどのくらいになりますか」

 漸く顔の赤みも消え、無表情に戻りつつあったゴスラムは少し考えてから答えた。

「七万年ほど、だそうだ。ずっと一人で修行していたから、カイストのこともガルーサ・ネットとかいう組織のことも殆ど知らなかった」

「ほう、それは……とすると、『鋼』のディンゴのこともご存じなかったのですか」

「強い奴なのだろう」

 割れた木札を指差してゴスラムは言った。つまり、ここで初めて知ったということだった。

「ええ、強いですよ。とても」

 パテュシュナーニャは眉間に皺を寄せ、非難の目をシュモンに向けた。

「お二人はいつから一緒に行動しておられるのですか」

 ゴスラムが答える。

「四年前からだ。カイストのことを色々教えてくれるそうでな」

「なるほど、なるほど……。長い間地道にやってきたカイストが、ちょっとしたきっかけで足を踏み外すのはよくあることですからねえ。伸び悩んで嫌気が差しましたか。自分は五十二億年頑張ってきてまだBクラスでしかないのに、遥かに若いカイストが……」

 パテュシュナーニャの首が飛んだ。斜めに回転しながら天井を跳ねる生首はまだ面白そうな笑みを浮かべていたが、シュモンの短剣が掠めた後は顔面ごと削り取られていた。

 首を失った胴はユラユラと揺れ、やがてクニャリとその場に崩れ落ちた。首の断面からの出血は意外に少なく、漏れ出た分はゆったりした衣服に吸収されて殆ど床を汚さなかった。自分が死ぬ時まで現場保全の配慮が及んでいるのだろうか。

「こいつ、反応出来なかったな。……いや、反応する気もなかったのか。首を切られても平然としていた」

 ゴスラムが言った。

「カイストにも色々いるのさ。強さ以外を求める奴がね。ただ、結局ものをいうのは強さだよ。……ここはケチがついた。河岸を変えよう」

 短剣は既にシュモンの袖の中に戻っていた。彼は漸くディンゴの椅子から立ち上がると、さっさと酒場を出ていく。

 ゴスラムは何を考えているのか読めない無表情のまま、テーブルの上のサインを見つめていたが、やがて店主に一礼して立ち去った。

「親父さん、死体を片づけてくれ。邪魔だよ」

 一人残っていたカイストが情報端末をポケットに収め、呆然と突っ立っている店主に言った。

 

 

  二

 

 倒れ伏す男を前に、ファントゥーラ・シュモンは大きく息をつく。

 ゴスラムは長さの違う腕で二本の鉈を構えたまま、動かぬ男を油断なく見守っている。一度、死んだと思った相手が異常な瞬発力で襲いかかってきたことがあったのだ。

 サマルータの荒野。ディンゴ亭での一件から十三年が経っていた。

 十八回目となる今回の相手も手強かった。こちらの人数に合わせた二人組が七連続で来た後の単騎。やはりというべきか、一人で二人分以上強かった。得物は大きめの鎌一つなのに、手数がやたらに多かった。二人がかりでなんとか押さえ込んだが、運次第で瞬殺されていたような駆け引きが何度もあった。

「勝負ありですね。ゴスラム、ファントゥーラ・シュモン、あなた方の勝ちです」

 見届け役の男が宣言した。アリエという戦士。すらりとした長身に工業文明期のスーツ姿で、武器らしきものは携えていない。女性と見間違えられそうな美形で、口元にあるかなしかの微笑を浮かべ何処かしら飄々とした雰囲気を持っているが、切れ長の目が時折ほんの一瞬ながら鋭く光ることがあった。恐ろしく鋭い、眼光だった。

 アリエは自身の強さをAクラスのぎりぎり下限に引っ掛かる程度だと表現した。ディンゴ団……正式名称はオアシス会実戦部というらしいが、脳筋揃いのメンバーの中でそこそこ目端が利いて小器用なので、今回の仕切りを任されてしまったのだという。「私は別にディンゴ団員のつもりはないのですが」と自嘲気味に語っていた。

 横たわる死体にアリエは歩み寄る。何処からか取り出した毛布で手早く死体を包み込んだ。彼は亜空間ポケットを持っていて、様々な道具を収納しているらしかった。得物の鎌も拾い上げ、丁寧に血を拭いて一緒に包んでやる。

「オウル・スタム。折角ですので、出来れば彼の名を記憶に留めておいて欲しいところですね」

 敗れた男の名を改めてアリエが告げた。ディンゴ団の仲間が死んだのに悔しそうなそぶりは見せず、相変わらず涼しい顔だ。

「この男の強さはどのくらいだった」

 いつもと同じく、ゴスラムがアリエに確認する。

「Bクラスの中堅どころ、ディンゴの弟子の中では平均よりやや上ですね」

 答えながらアリエはゆっくり回り込むようにして二人を観察している。戦いで受けたダメージがどれほどなのか見極めているのだ。それを基にアリエは次の勝負までのインターバルを設定し、次の相手を見繕っている。

「ゴスラム、左手の薬指と小指に痺れはありませんか。神経を損傷しているようなら治療士を呼びますが」

 指摘され初めて気づいたというようにゴスラムは自分の左手を見る。力が入るのを確かめて彼は首を振った。

「問題ない、治療士は要らん。他人に治されると、どうも弱くなりそうな気がする」

「確かに、治療士に頼るつもりになってしまうと緊張感が薄れる危険がありますね。ただ、契約の遂行上回復を急がねばならないこともありますし、チーム戦では割り切ることも必要ですよ」

 先輩が後輩にアドバイスするような口調だった。それからアリエはゴスラムの相棒に声をかけた。

「おや、大丈夫ですか、シュモン。あなたのダメージは軽い筈ですが、顔色が良くないですよ」

 滑るように歩み寄り、いつの間にかアリエはシュモンの眼前に立っていた。自分より背の高い相手に対し、首を少しかしげて斜め下からシュモンの目を覗き込む。まだ荒かったシュモンの呼吸が一瞬、止まる。

「……うるさいな」

 吐き捨てるシュモンは声音に嫌悪感と疲労を滲ませ、内心の怯えを隠そうとしていた。アリエには読まれていたのだが。

「ディンゴ団ってのは随分ねちっこいんだね。いつまで経っても弟子とやらせるばかりで、ディンゴ本人が出てこない。僕達が墜滅するまで待つつもりなのかな。万が一にも僕達に負けてしまったら大変だろうからね」

「祭りですから、皆さんじっくり楽しみたいようですよ。参加希望者も大勢待ってますしね」

 挑発的な台詞にもアリエはさらりと返す。

 アリエはディンゴ団側が微妙に弱い、ゴスラムとシュモンが必死になってぎりぎり勝てるくらいのマッチメイクをしていた。ディンゴ団としては、自分より弱い相手に勝ったところで楽しくないのだとか。戦闘の繰り返しでそちらも鍛えられるのだからいいんじゃないですか、とはアリエの弁だ。

「ちなみにまだディンゴ本人には伝えてませんよ。別の用事が片づいていませんので。ああ見えて忙しい人なんです。弟子達に稽古をつけたり弟子じゃない者にも稽古をつけたり、弟子達から逃げ回ったり、一般人を率いて傭兵団をやったり、立ち合いの予約が入っているのに勝手に別の相手と立ち合ったり。ああ、オアシス会の仕事もたまにはやってますね」

「ディンゴに挑戦する奴は、多いのか」

 ゴスラムが尋ねる。

「多いですよ。ただ、あなた方みたいに横紙破りな挑戦の仕方は久しぶりですね。だからこそ祭りになっている訳ですが」

「……でも、ちゃんと立ち合ってもらえるんだな」

「そうですね。あなた方の勝てる確率が万が一程度に上がれば予約を入れましょう。それまで頑張って鍛えてもらって下さいね」

 アリエの口調は丁寧だが明らかに二人を舐めていた。しかし二人は抗議する権利を持たなかった。

 二対二だった最初の勝負の後、ゴスラムが「次の相手はお前でもいいのか」とアリエに聞いたのだ。

 その時アリエは、「これに気づける程度になれば考えてもいいですよ」と答えた。

 「これ」というのが何のことなのか、二人は互いの顔を見合わせて漸く気づいた。いつの間にか二人の眉が、綺麗に剃り落とされていたのだ。

 ゴスラムは後になって知ったのだが、フワフワと掴みどころがないようでいていきなり鋭い一撃を加えるスタイルから、アリエには『毒海月(どくくらげ)』という二つ名がついていた。そんな実力者のアリエでさえ、ディンゴと千回以上戦って勝てたのは二回だけだという。

「あなた方の回復には三ヶ月もあれば良さそうですね。その頃までに次の相手を選んでおきます。ガルーサ・ネットの支店か出張所でメールをチェックして下さい。ゴスラムさん、ガルーサ・ネットの登録は済ませたと聞きましたが、メールの使い方は分かってますよね」

 途端にゴスラムのいかめしい顔が真っ赤になった。

「その……機械とかは、その、苦手で……」

「ふむ、まさしく戦士ですね」

 アリエは微笑を深めた。皮肉なニュアンスではなく、優しささえ含まれていた。

「ガルーサ・ネットの店員に聞けば操作法を教えてくれます。カイストなら最低でもその程度は習得しておいた方がいいですよ。では、次の対戦を楽しみにしておいて下さいね」

「ああ、楽しみにしている」

 そこでゴスラムは笑顔を見せた。鎬を削る殺し合いを心底から喜んでいる、そういう顔だった。

 シュモンはそんな相棒を横目に、不機嫌な顔で黙り込んでいた。

 

 

  三

 

 ファントゥーラ・シュモンは強くなりたかった。

 強くなって活躍したかった。世界を救う英雄になって皆に賞賛されたかった。最悪の魔王を滅ぼして人々の絶望が歓喜に変わるところを見たかった。それは自分の成果であるべきだった。崇められたかった。最強となって世界の頂点に立っても謙虚さを保ち敵を侮らない、そんなかっこいい男になりたかった。カイストになり、自分はそうなれると思っていた。いずれ。きっと。

 だが、そうはならなかった。

 強くはなったが、嘗て自分が夢見ていたほどの強さではなかった。一般人相手ならもう絶対に負けることはなく、一国の軍隊を一人で殲滅出来る。宇宙文明期の人類を相手にしても油断しない限り死にはしない。

 だが、それだけだ。剣の一振りで山を割れる訳でもなく、一瞬で一万人を殺せる訳でもない。世界の壁に穴を開けることも出来ず、魂の本質に迫るような真理を掴んでいる訳でもない。自分だけの唯一の、特別な技もない。

 Bクラスの中堅どころ、そこらにいる普通のカイストの戦士。それがファントゥーラ・シュモンだった。

 頭打ちを感じ始めたのはいつ頃だったろうか。修行量に対する成長のペースが少しずつ鈍り始めた時か。そういうものだと分かってはいた。それでも何億年、何十億年とかけて少しずつ、這うように進むのがカイストの修行だと、分かっていた。だが、地道な修行を続けていても、どうしても、神のごとき領域を彼方に見ることが出来ない。自分が突き抜けた存在になっているところをどうしても想像出来ないのだ。

 ソムカのジレンマという言葉がある。古いカイストの戦士の話だ。敗北するたびに弱点を補うための修行を繰り返していき、最終的に器用貧乏な弱者が出来上がっただけという、カイストの教訓。敗因を研究し、弱点を減らすことは大切だ。だが、そればかり気にしていては強くはなれないのだ。上を見なければ、目指さなければ、がむしゃらに突き進まなければ、そうでなければ……。

 自分の限界を設定しているのが自分自身の心だと、分かっているつもりだった。だが分かっているからといって解決出来る訳でもなかった。

 だからシュモンは割り切ろうとした。究極には至らずとも自分は超越者なのだ、それでいいじゃないか、と。何十億年もやってきたのだ。道をちょっと間違っていたかも知れないと思っても、今更引き返すのは勿体なさ過ぎる。そんなもんだ。他の大勢のカイストだってどうせ自分と似たり寄ったりだ。だからそれでいいのだ。

 シュモンは自分に出来る範囲で楽しんだ。人助けをして感謝されたり、戦争で弱い方に参加してちょっとした英雄扱いされたり。良いこともやったが悪いこともやった。気まぐれで通りすがりの町を襲って虐殺したりした。理不尽な死を与える自分が神に少しだけ近づいたような気がした。

 そんな生ぬるい停滞の歳月を続ける中で、ゴスラムというカイストに出会ったのだ。

 服装には気を配らず、しかし武器だけは偏執的に手入れされていた。殺し合い以外に興味がなさそうな荒々しい気配を纏っていながら、人に親しげに話しかけられると途端にぎこちなく自信なげとなる。

 最初は、対人緊張の性分を引き摺っているのかと思った。性分というのは厄介だ。苦手なものを克服出来ずにいるうち呪いのように定着してしまい、何万年何億年経ってもそのままとなってしまうのだ。ただ、それにしては反応が初々しい感じもした。少なくともBクラスに達するほどの年月を重ねた者が、顔を赤らめたりするだろうか。

 気になったシュモンは声をかけ、ゴスラムがガルーサ・ネットのことも知らず、カイストの知り合いも殆どいないことが分かった。とにかく修行して強者を見かけたら喧嘩を吹っかけるだけの生き方を続けてきたらしい。自分の年齢も知らなかったのでシュモンが検証士に依頼し、七万才と判明した。

 七万才。驚きだった。その若さで、シュモンとほぼ同等と思われる強さ。軽く手合わせして分かった。シュモンの方が技も多彩だし嫌らしい手段も知っているが、ゴスラムの勝利への執着心は異常だった。囮に惑わされず多少の負傷を意に介さず、とにかく相手の命を絶とうと全力で食らいついてくるのだ。その激烈な熱量に、シュモンは懐かしいものを感じた。嘗ては自分にも、それがあったのだ。

 七万才というのはカイストとしては若いが、人としてはこなれるものだ。様々な出来事を経験し、世界と人間に関して一通りの見識を手に入れ、大概の状況に動じず対応出来るようになる。勿論性分として残る場合はあるが、ゴスラムの人馴れのなさは単純に経験不足だった。

 対人能力を磨くことなどより何より、ゴスラムは強くなること、戦うことに全力を注いできたのだ。真摯に。真っ正直に。

 そのことに気づき、シュモンは嫉妬した。カイストと四千世界のことを教えてやると言って連れ回したのは親切心の筈だったが、彼を堕落させて平凡なカイストにしてしまおうという意図が心の奥底に潜んでいた。自分と同じような、何処にでもいる平凡な、カイストに。

 シュモンが浸らせようとした娯楽快楽にゴスラムが興味を示したのはほんの僅かな時間だけだ。彼はすぐに、衝き動かされるように修行と戦いに戻っていく。それがゴスラムにとって最高の娯楽であり快楽であるかのように。シュモンの中に潜む嫉妬はやがて憎悪に変わっていた。

 そして四年経ち、訪れたサマルータの地で、シュモンは事件を起こすことになったのだ。

 実のところ、シュモンは『鋼』のディンゴが嫌いではない。むしろ昔から憧れていた。ディンゴはシュモンの理想像の一つであり、シュモンが成したいことのほぼ全てを体現していた。問題は、シュモンはシュモンであって、ディンゴにはなれなかったということ。

 もしディンゴがいなかったら、ディンゴのいる位置に自分が立てたのだろうか。そんなことはあり得ないと知りながらもシュモンは夢想することがあった。

 サマルータの酒場によくあるディンゴ専用席。あれに勝手に座ればどんなことになるか、シュモンは知っていた。知っていながらゴスラムを巻き添えにして崖から飛び降りた。

 シュモンが五十億年以上保ち続けた正気の天秤は、いつの間にか取り返しのつかないまでに傾いてしまっていたのだ。

 その報いを今シュモンは受けている。受け続けている。ディンゴの弟子達が、ぎりぎりでシュモン達が勝てる程度に見繕われた者達が、全力で二人を殺しに来る。なんとか勝ってもすぐに次が待ち構えている。サマルータ以外の世界に逃げてもアリエは平然とついてくる。本人の探知能力かも知れないし、ひょっとするとオアシス会の大幹部『百目』ミレイユの協力もあるのかも知れない。

 彼らは単に二人を殺すために来ているのではない。シュモンは気づいている。彼らは責めているのだ。シュモンの中途半端さを。半端でないのなら本気で応じてみせろと彼らは暗に告げているのだ。さもなければ、潰れて消えろ、と。彼らの無言の殺意はシュモンに重く、重くのしかかってきた。

 だがもっとシュモンを苛んだのは、シュモンと違い、ゴスラムがこの地獄のような連戦を喜んでいるということだった。強い相手と戦える、傷が治ったらすぐにまた戦える、とにかく戦える。ゴスラムのそれは狂喜に近かった。マッチメイクする見届け役の『毒海月』アリエに感謝の言葉さえ口にしたのだ。

 シュモンだけが疎外されていた。本物ばかりの中で、シュモンだけが偽物だった。

 だからシュモンは、逃げることにしたのだ。

 「ちょっと用事があって離れる」というシュモンの台詞を、ゴスラムがどう解釈したのかは分からない。彼はただ「そうか」と頷いただけだ。

 普通に逃げるだけではダメだとシュモンは分かっていた。それではただの負け犬だ。奴らに手痛い反撃を食らわせてやらねばならない。自分の力では無理なら、他者の力を使えばいいのだ。

 シュモンは『殲滅機関』に連絡を取っていた。

 本来の名称はシュクムバーズグ。メンバー八人の名前の頭文字を並べたものだという。そう、彼らはたった八人の傭兵団。八人のAクラスの。

 設立は四百億年代で、オアシス会よりは後になる。というか最強の『彼』をリーダーとするオアシス会に対抗して、わざわざ人数を合わせて結成されたのではないかとも言われている。その後オアシス会の人員は随分と膨れ上がったが、殲滅機関の方は相変わらず八人のままだ。彼らは恐ろしく強固で、狂的で、血に飢えている。

 彼らはカイストの依頼で動き、カイストを殺す。報酬はガルーサ・ネット通貨のルースで払うが特に高額ではない。重要なのは標的だ。強いカイスト・カイスト集団が相手の時しか引き受けない。彼らは強者と殺し合いがしたいだけで、依頼人と契約は自らに歯止めをかけるための方便でしかなかった。

 予告した上で、ある世界の文明管理委員会の拠点を連続で襲撃し皆殺しにしたとか、絶対正義執行教団の全戦力を呼びつけて皆殺しにしたとか、誰もが怖れる『究極の黒魔術師』ザム・ザドルを殺して研究施設を焼き払ったとか、まともなカイストならどん引きするような無茶でも平気でやらかすのが彼らだった。

 待ち合わせに指定された場所はガルーサ・ネットのサマルータ支店がある城塞都市国家ガリスハムナ。シュモンは加速歩行で駆けて二時間で到着した。正門をくぐって中へ入ろうとしたところで背後から囁くような声がかかった。

「ファントゥーラ・シュモンさんですね」

 か細く、力のない声だったが、シュモンは恐怖に硬直していた。直前まで気配に全く気づかなかった、いや、今も声だけで欠片ほども気配を感じられない。五十二億年も修行してきたのに。

「シュクムバーズグのハーシルです。ファントゥーラ・シュモンさんで間違いありませんね」

「は、はい。初めまして、僕がファントゥーラ・シュモンです。このたびは……よ、よろしくお願いします」

 緊張してうまく言葉が出なかったが、きちんと自分でも名乗る。ここで反応を間違えれば消される。何の威圧感も殺気もないことが、シュモンの警戒心を強く喚起していた。

 『死の霧』ハーシル。戦う相手は白い霧に包まれて感覚を奪われ、自分が死んだことにも気づかないという。

「ではどうぞこちらに。『異形の夢』にご案内します。ミレイユの目も遮断出来ますので」

 やはりオアシス会の『百目』ミレイユには捕捉されていたか。促されて振り向くと、誰もいない場所にぼんやりと靄のようなものが浮かんできた。それがハーシルか。シュモンの知覚がハーシルの隠形に届いたのではなく、視認出来る程度にハーシルが姿を現したのだ。

 靄が滑るように進み、シュモンは大人しくついていく。何処まで歩くのかと思ったら昼間なのに急に辺りが暗くなってきた。結界に入ったらしい。音が、しなくなった。

 底知れぬ闇の中にうっすらと浮かぶ巨大な構造物の輪郭。左右非対称であちこちに尖った出っ張りが生え、また壁が塔が緩やかにねじれ、歪んでいる。砦のような、或いは教会のような、攻撃的なのに何処かしら荘厳な印象を与えていた。

 突然ヴェールが取り払われたように構造物がライトアップされ威容が明らかとなった。漆黒の闇に浮かぶ構造物の表面はやはり漆黒だった。塔の上など所々に明かりが灯っているが、周囲の闇を払うほどの強さはない。

 宙で静止しているように見えるこれが、殲滅機関の移動要塞『異形の夢』だった。

 要塞と周囲の闇はセットとして亜空間にパッケージングされているという噂だった。世界間を繋ぐゲートを通るには巨大過ぎるが、『地獄の召喚師』ゾーンによって自在に移動可能だとか。

 或いは、彼らのアジトが召喚されたのではなく、シュモン自身がゾーンによってアジトに召喚されたのだろうか。

 ……来たのは我々だ。シュクムバーズグは契約のためなら何処へでも赴く……

 機械に似た音声が聞こえたと思ったが実際には声ではなかった。感情を排除した冷たい思念。そしてシュモンは自分の思考が読み取られたことを悟った。

 正面に建つ尖塔の天辺に大きな眼球が乗っていた。探知士で検証士で魔術士の『邪眼』カイルズ。眼球一つだけが肉体のカイストで、コミュニケーションはテレパシーで行う。径七十センチほどだが大きさは可変らしい。殲滅機関の情報収集役であり参謀役と言われている。

 金色で縁取られた赤い瞳。中心の瞳孔は何処までも暗い。カイルズの視線はシュモンを射抜いていた。『邪眼』によって、シュモンの生殺与奪は既に完全に握られていた。

 要塞の正面からスルスルと黒い階段が伸びてきて、シュモンの足元の地面まで届いた。

「どうぞ、お上がり下さい」

 ハーシルの声に促され、シュモンは階段を踏む。元の世界の名残りであるサマルータの地面から離れ、闇の領域へ進む。

 長い階段を上るごとに異様な気配を強く感じるようになってきた。『死の霧』ハーシルの気配は皆無のまま、『邪眼』カイルズの無機質な気配とは別に複数ある。そのうち最も強い気配は、シュモンの身に染み入って芯まで凍らせるような凄まじい圧力と冷気を放射していた。

 とんでもないところに来てしまったようだ。シュモンは早くも後悔し始めていた。殲滅機関に依頼に来た者達は皆こんな恐ろしい思いをしていたのか。シュモンは殺し殺されて長い時を過ごし、恐ろしいものなど相当に味わい尽くし、乗り越えてきたつもりだった。だが五十二億年の経験では足りなかったらしい。

 いや、長い経験によっていつの間にか、本当に恐ろしいものからは距離を置くすべを身に着けた、ただ、それだけのことだったのかも知れない。

 なんとか足を震わせることなく階段を上り終えると、すぐ広場になっていた。背もたれつきの椅子が手前側に置かれており、客用の席かも知れない。だがそれを気にするより先に、シュモンはAクラス達の存在感に圧倒されていた。

 広場には明かりで照らされた場所と薄暗い場所が混在していた。そして複数の席がバラバラな位置に設けられている。

 正面奥の大型の椅子。ガチガチに強化処理されていることが分かる黒い椅子だ。そこに座る男が、凄まじい圧力と冷気を放射している気配の主だった。

 シュクムバーズグ首領、『ダブル・フェイス』サマルキアズ。ガルーサ・ネットのカイスト・チャートで、不動の一位と二位はさて置き、三位を奪い合う少数の化け物達の一人。

 痩身。武術を嗜んでいる体つきではあるが、今の彼はだらしなく、重く沈み込むように椅子に体を預けている。得物は槍と剣の中間に当たるようなもので、刃渡り一メートル弱の両刃の直剣に一メートル半の柄がついていた。椅子にそれ用のフックが生えており、抜き身の状態で立てかけられている。

 頭部はやや横に広い。伸ばした白髪が前に垂れて一部隠れているが、彼の顔は二つあった。右側の顔は美男子であったが気だるげに緩み、切れ長の目がシュモンを見据えていた。左側の顔は通常の半分ほどのサイズしかなく、厳しく顔をしかめた皺深い老人のものだった。目を閉じて眠っているように見える。

 彼は二つの人格と能力を切り替えるカイストだった。今起きているのは空間を凍りつかせて敵を動けなくするという『氷』の顔の方らしい。

 サマルキアズの視線。何処までも冷酷にシュモンを見下ろしている。シュモンなどその辺の虫けらに過ぎないと、彼の瞳が語っている。

 恐ろしい圧迫感を覚えながら、シュモンはなんとか他の気配も確認する。サマルキアズに近い場所に武骨な鋼鉄の椅子がある。それに座る男は丸いヘルメットを目深にかぶっていた。おそらく『脳蔓(のうかずら)』バラキ。頭蓋内に収納した蔓を操るとか。外部への力の放射がなく、固い姿勢で微動だにしないところは自己抑制の強さを感じる。

 左方、暗赤色の天幕が設置してある。入り口は閉じており中は見えないが、ドロドロと濁ったような不気味な空気が漂っていた。誰だろう、『クルクル』ミネアク・ザザロか、それとも『地獄の召喚師』ゾーンか。

 『クルクル』は別の場所にいた。なら天幕内の気配は召喚師か。

 大型ベッドとしても使えそうな巨大なクッションに男が寝転んでいた。クッションがグネグネと波打ち、男の体もグネグネと動いていた。手足がおかしな場所でおかしな方向に変形し、胴が平らにひしゃげ、頭までが絞った雑巾のようにねじれていく。そのままねじ切れてしまうかと見えたところで瞬時に元に戻っている。そして今度は逆方向にねじれ出す。

 ミネアク・ザザロはあらゆるものをねじ曲げる能力者だった。彼自身の肉体に発動しているそれを外に向ければ、物理法則は正しく機能しなくなり物体はねじれグズグズに崩壊する。カイストでさえ様々な不調に襲われ、何も出来ぬまま心臓発作や脳出血で死ぬことになる。彼が本気になれば、全てをすり潰す巨大な渦を生み出すとか。文明管理委員会の有名な戦闘員『歪め屋』イクスプラクと能力は似ているが、ミネアク・ザザロの方が適用範囲が広く、強力であるらしい。その代わり、彼は狂っていた。今もボソボソと口の中で何か唱えていたが、シュモンが聞き取れた単語は文明管理委員会公式言語で「サラダ」とアノラ語で「ウンコ」、後は「あああああ」とか「あるあれあれあれあれれ」とかだった。

 それから……木製のロッキングチェアがある。誰も座っていないが……とシュモンが考えた瞬間、思念を読まれたのか、いや読まれたのは視線であったか、斜め上方から男が飛んできた。空中で何度も前転し、最後は腰掛ける姿勢になってスルリとロッキングチェアに着地した。

 男は革のズボン以外には何も身に着けていなかった。軽く肥満しているが不摂生な感じではなく張りの良い肉体だ。頭髪も眉もなく完全な無毛のようだった。早速チェアを前後に揺らしながら、面白がるような笑みを浮かべて男は名乗った。

「ギザ・ミードだ」

 『岩ミミズ』ギザ・ミード。どんな硬い敵も無数の風穴を開けて葬ってみせる男。武器でも魔術でもなく、彼は自前の肉体を使ってそれを成し遂げる。ただし、その肉体は無数のミミズに似た生き物の集合体で、猛スピードで宙を泳ぐ群れが敵を貫くのだ。

 Aクラスの名乗りに対し、シュモンは名乗り返せない、動けない。至近距離に集まった怪物達の気配に呪縛されてしまっている。無礼を咎められ処刑されないか、不安を覚えながらシュモンは殲滅機関のメンバーが一人足りないことに気づく。後は『無刀』ジネンだが。シュモンごときの依頼に全員集まるほうがおかしいのか。

 ……ジネンは今、死んでいる。我々は強者の自負を持っているが、無敵ではない……

 尖塔の上からカイルズが思念を届けてきた。

「無敵は楽しくないからな。その点、『彼』はかわいそうだ」

 カイルズは仲間にも思念を送っているらしい。ギザ・ミードがロッキングチェアをクルリと回し前後逆にして、背もたれに顎を乗せて言う。『彼』とはオアシス会のトップで最強不敗無敵の怪物だ。十四もの世界を消滅させた登場から百億年以上経て、狂人ぶりも随分ましになったと言われるが、組織の運営などは出来そうにないので実質神輿として担がれているだけだろう。嘗てシュモンが憧れ、そして諦めた存在でもある。

「ああ、『彼』を楽しませてあげたいよう」

 『クルクル』ミネアク・ザザロが急に起き上がり喋った。舌足らずで抑揚のおかしな発音だったがまともな文になっていた。血走った両目がデタラメにグルグルと回っている。

 その時シュモンはちょっと、嫌な予感がした。シュクムバーズグとオアシス会は対立関係ではなかったのか。いや表立って戦争中という訳ではないが、少なくともシュクムバーズグはオアシス会を敵視している筈だ。だがミネアク・ザザロの台詞……つまりは『彼』を殺したいということなのだろうが、そこに敵意とは違うものをシュモンは感じ取ったのだ。

 ……依頼人よ、座るがいい……

 カイルズの思念で、シュモンは漸く金縛りから解かれた。自分を見据える面々に一礼し、目の前の椅子に腰を下ろす。椅子はあつらえたようにシュモンにぴったりだった。ここに到着するまでの短い時間で作ったのだろうか。そして、シュモンのことを隅々まで知っているぞというメッセージでもあるのか。

「ファ……ファントゥーラ・シュモンです。このたびは僕のような者のためにわざわざお越し下さり、ありがとうございます」

 シュモンの口もまともに動くようになる。クックッ、と低い笑い声が聞こえる。ロッキングチェアに揺られるギザ・ミード。顔もニヤついているが、どういう意味合いで笑っているのかシュモンには分からない。

 ……ファントゥーラ・シュモン。依頼内容を述べよ……

 無機質な思念が命じた。いきなり本題だ。それはそうだ、彼らに社交辞令など何の意味もない。シュモンは気力を振り絞り、依頼内容を告げた。

「ディンゴの弟子連中……オアシス会のディンゴ団を、皆殺しにして欲しいのです」

 どんな反応があるかと思ったが、シュモンの声は深い闇に呑み込まれたように虚しく響いた。Aクラス達の気配は変わらない。ギザ・ミードは変わらずニヤニヤしているし、ミネアク・ザザロはグネグネしている。小さく地味な椅子にひっそりと人影らしきものが座っているのに気づいた。『死の霧』ハーシルだ。

 彼らは理由を尋ねなかった。理由などどうでも良いのだろうか。それとも、既にカイルズに読み取られて思念で伝えられているのか。

 一分ほどが過ぎたろうか。だらしなく背もたれに寄りかかっていた『ダブル・フェイス』サマルキアズが、ゆっくりと、首を起こした。

「ディンゴ、団……か……。何度、やった、かな。百回、くらいは……殲滅した、と、思うが……」

 低く沈むような声音で、彼はゆっくりと喋った。

 近くにいる『脳蔓』バラキがすぐに訂正した。

「オアシス会実戦部を文字通りに殲滅したのは八十九回です。多少取り零しても良いという依頼の場合は二千五百七十二回となります」

 殺し過ぎだろ、とシュモンは内心で呆れた。カイストは死んでも転生するからこういうことは起こり得るのだ。それにしても、既に二千回以上もやっているのなら、今回も依頼を受けてくれそうだ。シュモンは期待し始めていた。

「そう、か……」

 サマルキアズはゆっくりと頷き、また、長い沈黙が続いた。

 報酬は。全財産でも構わないが、何を要求されるか。その話もしたかったがシュモンは待つしかない。

 やがて、サマルキアズが言った。

「何回、だったかな。二回……負けたか。もっと……多かった、かな」

「互いに万全のコンディションからの一対一という条件下では二回となります。ボスの百八十二勝、二敗です」

「そう、か……。だが、正式に……二回は、負けた。……お前、達、は……どう、だった、か」

「六十八勝八十五敗です」

 ……二十六勝十八敗……

「何千回やり合ったか分からねえよ。五分五分よりもちょっとだけ俺が不利、だなあ」

「二百二十五勝、九十二敗になります」

「八勝三十二敗……。結果的に相討ちとなったのは、百十八回……」

 サマルキアズの質問に、殲滅機関のメンバーが次々に答えていった。最後のボソボソと篭もった声は天幕の中のゾーンのもの。そしてミネアク・ザザロはクルクル首を回しているだけで答えなかった。

 彼らは何の話をしているのか。シュモンはただ戸惑っている。ディンゴ団との勝敗か。そんなに負けているのか。いや、一対一とも言った。なら一人の相手との話か。

 シュモンの嫌な予感が、段々と、強くなっていた。

「そう、か」

 サマルキアズがゆっくりと頷き、ゆっくりと、右手を軽く上げた。

「ファントゥーラ、シュモン……だったな。喋るの、が、遅くて……すまない、な。俺の、時間、は……ゆっくり……流れて、いる……の、だ」

「い、いえ……」

 殲滅機関のトップが社交辞令とはいえ謝罪の言葉を述べたことに、シュモンは驚いている。

 だが次の台詞を聞いて、シュモンは魂を凍らせることになった。

「弟子が、これじゃあ、師匠の程度も、知れる……だった、か」

「正確には『知れてしまうよね』です」

 バラキが細かく訂正した。

「それと……看板倒れ、だった、か……」

 ドクン、ドクン、とシュモンは心臓の荒い鼓動を聞く。自律神経による内臓のコントロールなど、数万才で完璧に習得していたというのに。

 彼らは、ディンゴ亭での件を知っていたのだ。調べ上げていた。それは予想していた。分かっていた。契約するならある意味当然のことだ。しかし、しかし……。

「先程、言った……勝敗、は……『鋼』、ディンゴとの……もの、だ……。お前は、俺達をも、貶めた、のだ……」

 ブワワッ、と冷たい汗が溢れてシュモンの皮膚と服を濡らした。まずい。これはまずい。殺される。絶対に殺される。いや、殺されるよりもひどい目に遭う。分かっていた。ライバル関係にあるというのなら、こういう心情があり得ることも、分かっていた筈なのに……。

 サマルキアズのだらしなく緩んだ右の『氷』の顔が、少しずつ、縮んでいく。目が眠たげに、閉じていく。代わりに左の顔が大きくなってくる。皺深い、怒りに満ちた『炎』の顔が。文明管理委員会の一万人のカイスト軍を七秒で皆殺しにしたという超速連撃で、シュモンを微塵切りに刻むつもりなのか。

 その固く閉じられた瞼が開きかけた瞬間、サマルキアズの体は金色の紐に巻きつかれていた。

「彼は依頼人です。お鎮まり下さい」

 制したのは『脳蔓』バラキだった。金色の蔓……物質ではなくエネルギーの塊のように見えるが、それは彼の袖口から伸びていた。ヘルメットをかぶった頭はサマルキアズでなく正面のシュモンに向けたままだ。

 蔓はサマルキアズの右腕にも絡んでいた。その腕は、剣のような槍のような武器を掴もうとするところだった。

「そう、だな……」

 右の顔が再び目を開き発言し、元の大きさまで戻っていった。左の顔は目を閉じてまた縮んでいく。

「ファントゥーラ、シュモン……。故に……お前の、依頼は……受けられない……。去れ……」

「ディンゴとやり合ってきた奴は多いんだよ。あんたは大勢のAクラスを敵に回しちまった訳。だがディンゴ団が対応するってんで皆、手を出さずにいた。知らなかったのかい、あんたはディンゴ団に守られてたんだぜ」

 膝を抱えた状態でロッキングチェアを揺らし、ギザ・ミードが言った。相変わらずニヤニヤしていたが、内心は全く違っているのかも知れなかった。

「とっととお遊びの決闘ルートに戻った方がいい。忠告しとくぜ」

「……失礼します。ご忠告、ありがとうございました」

 シュモンは椅子から立ち、彼らに深々と頭を下げた。

 広場を出て黒い階段を下りる間、シュモンの体は激しく震えていた。止めようとしても止まらない震えだった。

「そのラインを越えれば元の空間に戻れます」

 長い階段から地面に辿り着くと、傍らでひっそりと小さな声がした。『死の霧』ハーシルは帰り道も付き添っていたらしい。

 闇の領域に属する黒い地面から、明るく乾いた地面に変わっている。そこが亜空間の境界線らしい。

「お手数を、おかけしました」

 姿の見えぬ相手に礼を言い、震える足をせき立ててシュモンは境界線を踏み越えた。

 シュモンは元のサマルータに戻った。これからどうしようか、今更ゴスラムとアリエの許へ帰るのは恥ずかしいが……と、そこまで考えたところで小さな声が告げた。

「出てしまいましたね」

 ゾワリ、とした。収まりかけていた体の震えが、再び激しくなる。

「出たからには、もう私達の客ではありません。ディンゴ団の保護を自ら離れたあなたを、どうしようが勝手な訳です」

 気配を感じた。喋っているハーシルの気配ではなかった。人影が、左方に立っている。

 首を向け、目を向ける、シュモンの動きは、油の切れた機械のようにぎこちなかった。

 黒いローブの人物がそこに立っていた。フードで顔を隠しているのだが、そのフードが妙に大きい。頭部の幅が肩幅くらいある。

 誰だ。誰だ。これまで姿を見せなかった殲滅機関のメンバーといえば……。

 黒い手袋を填めた両手が上がり、顔を完全に覆っていた黒いフードに触れる。フードを少しずつ、開いていく。

 『地獄の召喚師』ゾーン。様々な化け物を召喚し使役する魔術士だが、彼に殺されることは絶対に避けろ、というのは有名な話だった。ヘル・ループ、または無限地獄巡りと呼ばれる悪質な技があるのだ。

 殺されて魂の弱っている状態からでもゾーンに召喚されてしまう。強制的に受肉し操られ、また殺される。また召喚される。また殺される。また召喚される。そのエンドレスな拷問によって魂をすり減らし、墜滅したカイストは数多い。

 ああ、どうして、こんなことに、なったのか。

 カイストの道は剣が峰を歩き続けるようなものだと言われる。五十二億年、シュモンはそれなりにうまく歩いてきたつもりだった。

 そしてとうとう、足を踏み外した。

 『地獄の召喚師』のフードが開く。その奥ではどす黒い闇が渦を巻いていた。

 

 

  四

 

 予定の期日となってもファントゥーラ・シュモンは戻ってこなかった。

「さて、どうしますか」

 見届け役のアリエが尋ねた。

「あなた達二人が揃っていることを前提に二人を見繕ったのですが、そのうち一人を選んで対戦しますか。それとも一旦延期にしますか。……或いは、ディンゴ専用の席に座ったことを謝罪し、許しを請いますか」

 アリエは淡い微笑を浮かべ、切れ長の目でゴスラムを見ていた。彼の反応を観察するように。ファントゥーラ・シュモンという男が既に存在しないことはディンゴ団を始め多くのカイストが知っていたが、世情に疎いゴスラムは知らなかった。アリエも敢えて教えなかった。

「このままで構わん」

 ゴスラムは答えた。

「やったことは取り消せんし、始めたことは最後までやる。折角二人来たのだから、二人共相手にする」

「ほーん、ええ根性しとるわ。カイストで上目指すなら当然か」

 対戦相手の一人・ガシュミィという男が顎髭を引っ張りながら苦笑した。五十代の外見だがちょっとした動作にも力強さがある。

「じゃが二対一だとわしらが面白くないんよ。どうしても二人相手にしたいなら、一対一の二連続でどうじゃ。まあ最初でお主が負けたらそれで終わりじゃが」

 ゴスラムは少し考え、「それでいい」と返した。スッと前に進み出たのはもう一人の対戦相手だった。黒ずくめで無口な男。腰のベルトに短剣を差しているが他にも得物を隠していそうな気配。

「ローロス」

 無表情に男が名乗った。

「ゴスラムだ」

 改めてゴスラムも名乗り返す。先を越されてしまったガシュミィは肩を竦め、その場から下がっていく。

「よろしいですね。では、始め」

 アリエのかけ声と同時に二人は動いた。

 勝ったのはゴスラムだった。だが傷を負い、次のガシュミィとの対戦で敗れた。ガシュミィは相当の手練れだった。ゴスラムが無傷の状態で戦っても負けていたかも知れなかった。

 ゴスラムは六十四年後、別の世界に転生した。肉体を整えながら修行に励んでいた数年後、アリエがやってきた。

「続けますか」

 アリエは尋ねた。

「続ける」

 ゴスラムは頷いた。

 それからは厳しい戦いが続いた。ゴスラムは勝って殺したり負けて殺されたりした。転生して少し経つとアリエがやってきて「続けますか」と尋ねた。そのたびにゴスラムは「続ける」と答えた。

 対戦相手は二人来ることもあったが大体は一人だった。稀に三人同時に相手にすることもあった。アリエは戦闘を見守り、ゴスラムが苦手としそうな相手を次の対戦に選んでいるようだった。かと思うと雄叫びを上げながらハルバードを振り回すパワー一辺倒の戦士が出てきたりもした。

 ファントゥーラ・シュモンと一緒に戦った分も合わせて九十九戦を終えた時には、ディンゴ亭の事件から八百十六年が経っていた。八十五勝、十三敗、一相討ちという戦績だった。

「そういえば、あのディンゴ亭はまだあるのだろうか」

 血みどろの死闘を辛くも勝利したゴスラムは、破れた腹を自分で縫合しながらふと思い出して言った。

「健在ですよ。当時の店主の子孫が今もやっていて、繁盛しています。あなたが書き込んだテーブルもちゃんと残っていますよ」

 敗者の死体を包み終え、アリエが答えた。

「そうか。それは良かった。……で、ディンゴ本人との対戦は、まだダメなのか」

 ディンゴに勝てる確率が万が一程度になったら、と以前アリエは言った。千年にも満たない連戦だったが、濃密な時間だった。ゴスラムは自分が鍛え上げられたことを実感していた。それが万が一に届くレベルなのかは分からなかったが。

「いえ、きりの良いところまで来ましたからね。前哨戦は次で最後にしましょう」

「次で最後か。相当強いのを呼んでくれるんだろうな」

「そうですね。相当強い者になると思いますよ」

 アリエはにっこりと、人の良さそうな或いは悪そうな笑みを浮かべてみせた。

 

 

  五

 

 傷の癒えた三年後、ゴスラムが呼び出された先はやはりサマルータの荒野だった。ただ、これまではガルーサ・ネットの出張所がある都市の近くなどが多かったが、今回は百キロメートル四方は人里がないような場所だった。それでも流れ弾が間違って人の住むところに被害を与えないよう、メビウスの輪を形成して流れ動くサマルータの大地が凸状となる夜の時間帯が選ばれた。本当の強者による流れ弾は、一直線に飛ぶし大地も貫通することがあるのだ。

 ゴスラムが到着した時には荒野が人で埋め尽くされていた。人数はゴスラムには見当がつかない。数万……いやそういうレベルを超えている。殆どが男。バラバラの服装・装備をして適当に集まって、あちこちでバーベキューをしたり酒を飲んだりしていた。端の方には幾つも屋台が並んでいた。

 全て、カイストの戦士だった。ゴスラムより劣りそうな者もいたが、明らかに実力者と思われる者も相当いた。

 人込みの苦手なゴスラムは軽い眩暈のようなものを覚えながら、丘の上に案内された。集まった者達の全体がなんとか見渡せる。大型の照明器具が荒野を囲んで強力な光を投げていた。おそらく集まったカイストの殆どはゴスラムと同じく夜目が利くのだろうけれど。

「ディンゴ団のうち丁度手が空いていて、祭り好きな者が集まりました。ざっと百十二万人といったところです」

 アリエが告げた。

「これを全員、相手にするのか」

 ゴスラムはアリエに尋ねる。皆の視線が自分に集中していることに気づき、彼の顔は真っ赤になっていた。

「そうだと言ったらどうしますか」

 アリエは淡い微笑を湛え、問い返す。ゴスラムがどんな反応を見せるか、誰もが注目していた。

 そしてゴスラムは、赤い顔を益々赤くして、告白を受けた乙女のように恥じらんだのだった。

「俺を……そこまで、評価してくれるのか。戦士冥利に尽きる。全身全霊を込めてやらせてもらう」

 爆笑が怒涛となって丘を襲い、大地が揺れた。笑い声に混じって戦士達が何やらかけ声を発していたが、ゴスラムの耳では僅かしか識別出来なかった。「若いのう、いい度胸しとる」「副官、あんたの負けだわ」など、嘲笑や罵声ではなく声援に似た温かいものだった。

「ゴスラム、いや、実に申し訳ない」

 アリエは苦笑していた。

「あなたが戦う相手はこの中から一人だけです。今からその一人を決めるので、見ていて欲しいのですよ」

「そうだったか。だが、どうやって決めるんだ」

「やり方は単純です。彼ら同士で殺し合い、最後に生き残った一人があなたと戦います。つまり、バトルロワイアルです」

 にこやかに語るアリエに、ゴスラムは目を瞬かせる。頭では理解しても、心が追いついていないようだ。仲間同士の、百十二万人で、バトルロワイアルをやってのけるというのだから。ただ、ゴスラム一人と戦う相手を決めるために。

 カイストである彼らにとって命はそれほど軽いのか。いや、そういうことではない筈だ。

 彼らが仲間同士で殺し合ってでも戦いたいほど、ゴスラムが重要人物だということなのだ。

 ゴスラムが彼らの師匠、ディンゴの専用の席に勝手に座ったから。ディンゴを貶めたから。

 だから彼らはゴスラムに、全力で殺し合いを見せつけ、『鋼』のディンゴがどれほど偉大な男なのかということを、思い知らせようとしているのだ。

「では、始めて下さい」

 アリエの声は百十二万人のひしめく荒野によく響いた。

 その瞬間から荒野は、地獄のような天国と化した。

 百十二万人が一斉に、近くの仲間達に攻撃を仕掛けたのだ。刃を打ちつけ合う音、飛び散る血液、そして腕、足、首。彼らは嬉々として殺し合う。数万年、数千万年、或いは数十億年かけて鍛え上げた技を全力でぶつけ合うのだ。大上段から振り下ろされる刀を弾き相手の胸に突き入れた男は側面から別の男に斬られ胴を分断された。横薙ぎの一撃を跳んで躱した男の足首に鎖分銅が巻きつき、引き摺り下ろされたところを違う男にハンマーで叩き潰された。鎖分銅を投げた男は更に別の男に首を刎ねられ、その刎ねた男の首も飛んできたブーメランに刎ねられていた。飲んでいた男達はジョッキを隣の男にぶつけて戦っていた。屋台の親父らは素早く店を畳んで撤収し、一部は包丁を握って参戦した。

 殺す。死ぬ。殺す。死ぬ。殺す。死ぬ。

 戦士達が死にまくる。殺し合ってどんどん減っていく。強者が強者を倒し別の強者に倒される。その強者もまた別の強者にやられる。死体がどんどん積み上がる。戦闘の余波で死体が吹っ飛んでいく。雨が降る。血と肉の雨が。

 誰も怖れてはいない。楽しげな笑みを浮かべ殺し合っている。笑顔で殺し、笑顔で死んでいく。殺して歓喜の笑み、殺されて苦笑を浮かべて。

 ゴスラムは口をポカンと開けて、美しい巨大な戦場をただ見つめていた。魅入られていた。涎が垂れていることに彼は気づいていなかった。全身が震えていることも自覚していないだろう。武者震い。自分もその輪の中に入りたいと、体が主張している。

 そんなゴスラムを、アリエは静かに見守っている。

 時間が過ぎ、参加者の半数が倒れた頃には、圧倒的な光景に酔っていたゴスラムも細部に目が届くようになってきた。

「ああ、あれは、あの男、二刀流の、どんどん斬ってる凄いのは何者だ」

 ゴスラムは思わず指差して尋ねる。

「あれはシャリハザですね。最近伸びてきた男です。Aクラス入りも近いのではないかと言われていますが、もう一つか二つ、壁を越える必要がありそうです」

「ああっ、あれは何だっ。どんどん死んでくぞ。凄いのが来てる、何だあれはっ、虫、か何かの大群みたいのは。穴が開いてるぞっ」

「あれは……部外者ですね。シュクムバーズグという組織のギザ・ミードです。身内だけで片をつけると伝えておいたのに……。悪戯と嫌がらせとお節介が好きな男ですよ。普段は人間の姿をしていますが、実際には一万匹以上の虫の集合体で……」

「あああああっ、あれっ、なんか凄いっ、一瞬で沢山死んだ、一瞬でっ、あれは誰だ、なんか凄いのがいるっ」

 唾を飛ばしてゴスラムは叫ぶ。アリエは溜め息をつき、露骨に困った顔になった。

「ああ……あの人は、ですねえ……ディンゴ団ではなくて、部外者という訳でもないんですが……オアシス会の大幹部の一人で、シド・カイレスです。惑星も割れるほどに強いのは、とても強いのですが、防御とかあまり気にしない人で、ああやっぱり……」

 光る巨大な刃でズバババとディンゴ団を切り裂いていた銀髪の男が、後ろから刺されて倒れた。ゴスラムも「えっ」と声を出してしまうあっけなさだった。大金星だったらしく刺した男は大喜びしていたが、別の男に斬られて死んだ。

 ゴスラムは少年のように目を輝かせ、次の目立つ戦士を指差そうとする。その時、鋭い殺気が彼の右側面を襲い、反射的に体が動く前に後ろから誰かの足が出ていた。

 蹴り飛ばされた男はどうやらゴスラムに不意打ちを仕掛けようとしていたらしい。既にほぼ気絶したような状態で丘から戦場へと落ちていく。男の体に下から投げつけられた刃が幾つも突き刺さり、地面にぶつかる前に死体になっていた。

「私が対処出来ましたのに」

 アリエが足を出した人物に言った。ゴスラムは振り向いてすぐ後ろに立つ人物を見た。いつからいたのか、気配に全く気づけなかった。

 血塗れの男だった。体中が傷だらけで、顔も右目が潰れているし元の人相が分からなくなっていた。刃物による傷は浅いものから致命傷寸前の傷まで、下手すると千を超えるだろう。まだ傷口は新しく、一部は縫合しているが、出血が続いている傷も多かった。更に、左腕は上腕半ばから先がなく、断端の手前を紐で縛って止血していた。腰に剣を下げているが、鞘は半ばで断ち切れて剣身がはみ出しているし、その剣自体もボロボロで切っ先が折れていた。

 そんなひどい状態なのに、男には弱っている様子はなく、堂々として余裕がありそうに見えた。ゴスラムはこの異様な男をもっと詳しく観察しようとして、その向こうに立つもう一つの人影を認めギョッとした。

 そちらも血塗れの男だった。ゴスラムのそばにいる男よりも長身で痩せている。体中が傷だらけで、左目が潰れ、左腕もない。

 奇妙なことに、二人の血塗れの男は、体中の無数の傷が、位置も、長さも、深さも、ほぼ一致していた。まるで意図的に、計算してつけたみたいに。

 ざっと見て明らかに違っているのは、長身の男は左耳が完全に削ぎ落とされているのに、もう一人は左耳が半分ほど残っていることくらいだ。後は、長身の男の得物が剣でなく、太腿に巻いたベルトにナイフが何本も差さっていることくらい。

「この人達は……今、俺を助けた……」

 ゴスラムがアリエに尋ねようとしたが、そばに立つ方の血塗れの男が右手を上げた。小指が切り落とされていたその手の、人差し指だけを立てて左右に振ってみせる。聞くな、ということらしい。

 男の喉は気管まで切り裂かれて空気が洩れており、声を出せそうになかった。それから男は右手で戦場の方を指差し、傷だらけの顔で笑ったように見えた。

「戦いをちゃんと見てろということか。分かった」

 ゴスラムは頷いて、殺し合いの続く戦場に向き直った。血塗れの男が下がっていき、もう一人の男が針と糸で傷口を縫ってあげようとしているのが横目に見えた。

 百十二万人いたという戦士達は数万人程度まで減っていた。生き残った者はそれだけの資格を持つ強者達。そこら中に転がる兄弟弟子達の死体を気にせず、時には踏みつけながら鎬を削る。そして自らも死体へと変わる。死にながら、磨き上げた技を惜しげもなく披露する。ディンゴ団の凄みをゴスラムに見せつける。そして彼らの師であるディンゴの凄さを、ゴスラムに叩き込んでいく。

 ゴスラムは瞬きも忘れて見入る。彼らの言葉にならない叫びを受け止める。握り締め過ぎた拳には血と汗が混じっている。

 その目が更に大きく見開かれたのは、戦場の一端を銀色の波のようなものが襲ったからだ。アリエが「あぁー」と声を洩らした。

 キラキラした、無数の儚い銀光。だがそれが通り過ぎた後にはバラバラに刻まれた死体しか残っていなかった。

「あ、あ……あれ……」

 ゴスラムは指差そうとするが体が動かなかった。「あれは誰だ」と尋ねようとしても声が掠れ、言葉を続けられなかった。呼吸すらまともに出来なくなっていた。恐ろしく強大な、必然の死を纏う化け物が、荒野を訪れたのだ。

 その男は真紅の髪に真紅のマントを着けていた。髪は所々が寝癖のように跳ねていたが、近づく刃を感知するという実利的な意味があるのだろう。細面なのに目と目の距離は広く、常人より大きな眼球が眼窩から半分ほどはみ出していた。薄く血色の悪い唇も合わせ、男の異相は人外の冷酷さを物語っていた。マントは前が開いてキラキラしたものが揺らめいているが、ゴスラムの目にはそれが何なのかを捉えることは出来なかった。

「フィロスです。加速歩行で感知圏外から一気に来ましたね。……おや、ゴスラムは『八つ裂き王』も知らなかったのですか。勿論部外者ですよ。ああ、折角の祭りが台なしに……」

 アリエが溜め息をつく間にも、真紅の男・フィロスから流れ出る煌きがディンゴ団の生き残りを細切れにしていた。

 『八つ裂き王』の乱入に、彼らはどよめいたり凍りついたりした。だが一部は素早くフィロスを標的に切り替え臨戦態勢に入り、凍りついていた者達も二秒後には全員がそれに倣っていた。ただしその二秒の間にも随分な数が切り刻まれていたが。

 圧倒的強者による蹂躙を、ゴスラムは目の当たりにした。ディンゴ団の生き残り達は強かった。一人一人がゴスラムと同格以上の強さを持っていた。だがフィロスの周囲に広がる銀色の何かに触れただけであっけなくバラバラにされた。

 ゴスラムは見ていた。絶望的な戦いにディンゴ団が挑むさまを。平然と、或いは恐怖を押さえ込み、いやむしろ嬉々として「カァーッ、燃えるうううっ」などと叫びながら、化け物に立ち向かい、死んでいくさまを。彼らの死に顔は悔しげでありながら気概に満ち満ちていた。次は勝つ、いずれは勝ってみせるという。そんな戦士達の想いをおそらくは分かっていながら、『八つ裂き王』フィロスの瞳は血に酔い真紅に染まっていた。「ヒャハーッ死ね死ね死ね死ね死ね」という狂喜の叫びが丘の上にも届き、ゴスラムの精神を削っていった。

「ギザ・ミードが死にましたね。フィロスにも手傷を負わせましたが。フィロスが来るまでに群れが七割ほどまで減っていましたからね」

 淡々と喋りながらもアリエの気配が微妙に変わっていた。フィロスがここまで攻め上がった時に備えているのか。しかしゴスラムにはそれに気づく余裕はなかった。

 銀色の煌きの正体が判明した。戦士達の血を吸って僅かにスピードが落ちたため、ゴスラムにも見えるようになったのだ。無数の銀色の刃。半円形だったり鉤型だったりする刃が触手のように自在に動く針金の先端についており、戦士達の肉体を切り裂いているのだ。針金はフィロスの胴体から生えていた。かなりの強者であったろう、手足も胴も削られながらぎりぎりでくぐり抜け、フィロスに一太刀入れようとする戦士がいたが、逆にフィロスのサーベルで真っ二つにされていた。右手にサーベル、左手に斧。フィロスの細い腕が握る二つの武器は、彼が操る無数の刃より千倍も恐ろしかった。

 いつしか、荒野に死の静寂が落ちていた。

 百十二万人いた筈の戦士達は全てが動かぬ屍となって地に伏し、ただ一人、狂笑をやめた赤い男だけが立っていた。

 『八つ裂き王』フィロスもさすがに傷を負っていた。真紅のマントは破れ、斧を握る左腕は肘がブラブラで使い物にならないだろう。無数の針金が操る銀色の刃も、二割くらいは減っているように見えた。それでもフィロスの異相が浮かべる表情は苦痛などとは遠く、強者達を食い尽くした満足感と新たな獲物への欲望が共存していた。

「あー、やっぱりこうなりましたか」

 アリエが言った。彼はいつの間にか細く長いレイピアを握っていた。平静な態度だが、その内面までは分からない。

 フィロスの大きな目が丘を見上げていた。血に飢えた赤い瞳がゴスラムを、射抜いていた。

「そなたか。身の程知らずにも、ディンゴに取って代わろうとした男というのは」

 ドロリと粘質な、昏い声音でフィロスが問うた。

 ゴスラムは、そんなつもりで座ったのではなかった。ただの酒場の、ただのテーブル、ただの椅子一つだ。その筈だった。

 だが、その椅子一つに、数限りない戦士達が魂を注ぎ込み、価値を守り抜いてきたのだ。

 フィロスの問いに、ゴスラムは返事が出来なかった。声が出せなかった。呼吸も出来なかった。いつの間にか自分が失禁していることにも気づかなかった。七万才の若さで受け止めるには巨大過ぎる圧力が、ゴスラムを呪縛していた。

 無数の刃はフィロスの胴体へ引き戻され、銀色の鱗鎧を形成した。右手のサーベルを軽く振って血糊を全て飛ばし、ゆらり、と、フィロスが動き出す。死体の海を渡って丘へ。丘の上で震えているゴスラムを目指して。

 優美な曲線を描くサーベルはフィロスの我力を帯びて、陽炎のように周囲の空間を歪めていた。一歩、一歩、土を踏みしめてフィロスが丘を上ってくる。その一見悠然とした歩みはフィロスの怒りの深さを暗示していた。

 ゴスラムは自分の武器に手を伸ばそうとした。左腰に吊るした二振りの鉈。戦わねばならなかった。この乱戦を制した者とゴスラムは戦うことになっていたのだから。鉈を抜いて立ち向かわねばならない。こんな化け物相手に今の自分では絶対に勝てないと、本能レベルで理解していようとも。ディンゴ団の戦士達は立ち向かったのだから。

 手は震えるばかりでゴスラムの思うように動かなかった。それでも少しずつ、本当に少しずつ動かして、なんとか鉈を握り締めた。愛用の得物に触れた途端に震えが止まった。ゴスラムを呪縛していた恐怖を、闘志が上回ったのだ。殺し合うために震えは邪魔だった。

「ふむ、小童(こわっぱ)ながら、良い胆力を持っておる。……その胆が粉々になるまで、念入りに刻み尽くしてくれようか」

 フィロスが細く尖った舌を出して唇を舐める。殺戮者の顔は戦士達の返り血に塗れていた。

 近づいてくる強烈な殺意に対し、ゴスラムは二振りの鉈を構える。頬を流れるのは涙ではなく、極端な血圧の上昇により結膜の毛細血管が切れて出血したものだった。彼は強大過ぎる敵に立ち向かうため、まず雄叫びを上げようと、した。

 その時、既に、フィロスはゴスラムの目の前にいた。

「うお「おや、来ておったのか」

 ゴスラムの雄叫びはフィロスの驚きの声に遮られた。ドロドロに煮詰まった殺意が急に霧散した。

 フィロスの目はゴスラムでなく、その後方を見ていた。ちっぽけなゴスラムのことなど忘れてしまったというように。

 安堵と屈辱を同時に感じながら、ゴスラムはその視線を追って振り返る。

 フィロスが見ていたのは片目片腕で血塗れ、傷だらけの二人の男だった。二人は先程と同じ場所で、フィロスという化け物を前にしても平然と立っている。

 長身のナイフ使いの方はニヤニヤしながら、相手にジットリと絡みつくような不気味な気配を滲ませていた。

 もう一人の方、ゴスラムに奇襲をかけた男を蹴り飛ばした剣士は、全く緊張を感じさせず気楽にフィロスを見返していた。一般人がちょっと町のお祭り見物に立ち寄ったみたいな、自然で緩い気配だ。だがそもそもこんな場所、こんな状況で自然というのがおかしなことなのだ。

 ゴスラムが気配に気づけなかったことも含めて、二人が異常なレベルの実力者であることに間違いなかった。

 フィロスの大きな目は長身の男でなく、もう一人の剣士の方を見ていた。

 彼は縫合の終わった喉の傷を右手で撫で、軽く咳払いしてからフィロスに言った。

「折角来てくれたんだ。やってくかい」

 古い友人を相手にするような口調だった。

「いや、どうやら出しゃばって、道化を演じてしまったようだ。そちらも途中のようであるし、そなたが万全の時に、またやろう」

 フィロスはそう返すと、ゴスラムに短い一瞥をくれてからあっさり背を向けた。それから「ワハハハハ」と笑い出した。

 唐突にフィロスは消えた。おそらくはゴスラムの目に留まらぬスピードで駆けていったのだろう。

 そして、ゴスラムは置き去りにされた。

 フィロスと戦わねばならなかった筈だ。そうでないと本命のディンゴとは戦えない。八百年以上かけて、最後は百万人以上の戦士達がバトルロワイアルをやってまで、お膳立てしてもらったのだ。それを、ふいにしてしまった。ゴスラムが弱かった故に。フィロスに見逃されるほどちっぽけな存在だった故に。

 キリキリと、ゴスラムの中で湧き上がるものがあった。屈辱であり、情けなさであり、申し訳なさであり、何より、弱い自分への激烈な怒りであった。

「さて、どうしましょうか」

 結局見ているだけで何もしなかったアリエが言った。

「うん」

 返事をしたのは片目片腕の剣士だった。フィロスと言葉を交わした方の彼が、ゴスラムに歩み寄り、正面に立った。

「よう、俺がディンゴだ」

 彼は名乗り、傷だらけで指の欠けた右手を、無造作にゴスラムの左肩に置いた。

 その瞬間、そのちょっとした動作だけで、ゴスラムは自身の敗北を悟った。

 攻撃、ではなかった。殺気も敵意もなく、素早くもなかった。一般人と同レベルの、いやむしろゆっくりした動きだった。

 避けようと思えばどうにでも避けられる筈だった。反撃しようと思えば、その間に一万回でも鉈で切り込める筈、だった。さあ勝負だ、と告げられた訳でもなかった。

 それでも何故か、肩に触れられてしまってから、自分が何も出来ず、完璧にやられたことを自覚したのだ。自覚させられたのだ。

 ゴスラムの手から力が抜け、二振りの鉈が地面に落ちた。いつもは死んでも離さないのに。膝が折れ、ゴスラムは地面に座り込む。

「悪い。ここに来る途中でこいつに絡まれちまってな。それまではちゃんと、万全のコンディションだったんだぜ」

 ディンゴが言って、立てた親指で後ろの長身の男を示した。アリエがゴスラムに説明する。

「彼は部外者で、『サドマゾ』ディクテールです。自分が受けた傷と同じ傷を相手につけたり、自分が与えた傷と同じ傷を相手からつけさせたりする趣味の人です。……で、ディクテールとの勝負はもういいのですか」

「ああ、一時中断。イベントに遅刻するって言ったら、待ってくれることになった」

「これから続きをやるのだがね」

 ディンゴの言葉を引き継いで、初めて長身のナイフ使い・ディクテールが喋った。歪んだ性格が丸分かりのねじくれた声音だったが、心底楽しげでもあった。

「それはそれとして、な。ゴスラムといったな」

「……ああ」

「強くなりたいんだろ。俺の弟子になりなよ」

 ゴスラムに向けるディンゴの眼差しは温かかった。かなり年の離れた後輩に対する眼差し。或いは、遥か昔の自分自身を懐かしむような、眼差し。

「……ああ。分かった」

 ゴスラムは頷いた。

「うん。俺に一度勝ったら卒業な。それまでは俺の弟子だ」

 アリエが呆れ顔でディンゴに言った。

「何というか、ずるいですよねあなたは。良いところだけ攫って」

「いいじゃないか。これで丸く収まったろ」

 ディンゴは片目しかないのにウインクと分かる器用な仕草をやってみせた。

 それからディンゴとディクテールは、ゴスラムの見ている前で物凄い削り合いを敢行した。双方両足も失って片腕だけとなり、最後は瀕死のディンゴがディクテールの心臓を抉って止めを刺した。

 

 

  六

 

 サマルータにディンゴ亭という名の飲食店や酒場は数あるが、シラマ共和国のアディペトという都市のディンゴ亭には自慢の家宝が飾ってあった。

 店の中央に置かれたディンゴ専用の丸いテーブル。その上面には二人のカイストの名前が刻まれていた。ファントゥーラ・シュモンと、ゴスラム。

 ファントゥーラ・シュモンの名の横には検証士の署名入りで、彼が墜滅したことが記されていた。

 ゴスラムの名の横には彼自身の字で、ディンゴの弟子になったことが記されていた。

 

 

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