原点

 

  一

 

 事件は、ハルーランが村に戻る前日の朝に起きた。

 アンテは人口五百に満たぬ小さな村だ。気候の厳しい土地ではないが肥沃でもなく、交通の要衝でもないため滅多に旅人も来ない。唯一の特産品といえばモセイアだろう。丈一メートルほどの低木で、この地域でしか育たない。小さく白い花は香水の原料になるのだが、それほど高く売れる訳でもない。女達はモセイアの手入れに従事し、男達は何日もかけて狩りに出る。そんな平凡な、村だった。

 エミルは仲の良いロゼと一緒に、モセイアの畑に水を撒いていたという。

 奇妙な男に気づいたのはエミルの方だった。ロゼとのお喋りをやめ、「あら」と荒れ地の方に顔を向けた。

 そこは正確には村の外ということになろう。外敵がいないため村を囲む柵も塀もなく、見通しも良かったし何処からでも出入り可能だった。しかし、商人や旅人がやってくるのは街道に繋がる北側であり、こんな場所で部外者を見かけることは非常に稀なことだったのだ。

 岩の横に白いマントを羽織った男が立っていた。エミル達からは五十メートル以上離れていた。何をしている訳でもなく、遠くを眺めているような白い横顔が見えた。マントの背中側がえらく出っ張っていて、ロゼは最初、尻尾が生えているのかと思ったそうだ。

「珍しいわね。お客さんかな」

「客が来てるなんて聞いてないけど。旅の人じゃない。道に迷ったとか」

「声をかけてみようか」

 エミルに言われてロゼは黙った。エミルは物怖じしない娘だったが、ロゼにはとても気軽に声をかけられる相手とは思えなかったという。どうしてそう思ったのかと後で村の者に尋ねられ、ロゼはうまく説明することが出来なかった。俗にいう威圧感とか迫力ではなかった。ただ、自分達が関わってはいけない、異質な感じがしたのだという。ポッカリと空いた深い穴の縁に立ってしまったような。

 だが、関わってきたのは向こうからだった。

 エミルの提案に答えられず下を向き、柄杓を水桶に突っ込んだ時、ブジャリという不気味な音がした。

 ロゼが顔を上げると目の前に男がいた。

 男は、刃渡り一メートル半はありそうな長大な剣を握っていた。マントの出っ張りは腰に差した鞘のせいだった。普通なら抜刀出来そうにない長さだ。男の顔は陶器のように白くなめらかで、凹凸が少なかった。低い鼻に、色のない薄い唇。眉毛もなく、閉じる寸前のように細い目が地面を見ていた。

 男の足元に肉塊が散らばっていた。

 一瞬前までエミルであったものが、今は二十以上の部品となっていた。手足は関節ごとに断ち切られ、輪切りにされた胴体から腸が零れていた。毛髪のついた顔の左上部分が落ちていた。血の滲んだ左目が、グルリ、と左上から右横に視線を移し、止まった。

 モセイアの白い蕾が赤く染まっていた。肉塊から溢れ出した血はみるみる土に吸い込まれていく。このモセイアはもう出荷出来ないだろう。

 ロゼは呆然と、その場に尻餅をついた。男は彼女には一瞥すらくれずに、右手の長剣でエミルの肉塊をより分けて観察していた。

 仮面かとも思われた無表情な男の顔が、僅かに動いた。薄い唇を開いて小さく溜め息をついたのだ。

 唐突に、男の姿は消えた。幻のように、足跡も残さずに。

 分解されたエミルの死体は幻ではなかった。ロゼは何度も深呼吸をして心を落ち着かせた後で、自分に出来る最大限の悲鳴を上げた。

 

 

  二

 

 ハルーランは信じられなかった。世の中に色々と残酷なことがあるのは承知しているつもりだった。だが、村に帰ったら許婚が二十六個の肉塊に変わっていたというのは、あまりにも理不尽ではないか。

 かつてエミルであった物体が、筵の上に並べられていた。村の者が香水を使っていてくれたため匂いにも耐えられたが、帰還がもう一日遅れていれば腐敗が進んでハルーランは吐いていただろう。

 エミルのしなやかな肢体は今、土と血で汚れたブツ切り肉で、零れた内臓はハルーランが仕留めた獲物を捌く時に見るものと大差なかった。自分の許婚の中身をこの目で見ることになろうとは、ハルーランは想像だにしていなかった。

 三つに切り離されたエミルの顔。別々の方を向いた眼球。この不細工な肉塊が、四日前出発するハルーランに向けた笑顔と同じものだとは、どうしても思えないのだ。

「一瞬の出来事だったようじゃ。苦痛を感じずに死んだことがせめてもの救いじゃろう」

 村長が言った。そんなことが何の慰めにもならないことを自覚している、重い声音だった。

「どうして、こんなことに」

 ハルーランは勝手に喋る自分の声を聞く。力のない、しわがれた声を。

「理由も何もない。見ていたのはロゼだけじゃが、いきなり斬られたらしい。……おそらく、相手はカイストじゃ」

 カイストという特殊な存在のことはハルーランも知っていた。何度でも生まれ変わり、幾つもの世界を渡り歩く超能力者達。剣の一振りで山一つ消し去る剣士や、世界を丸ごと食べてしまったという名のない男のおとぎ話は、子供の頃によく聞かされたものだ。そんな伝説の真偽は別にして、カイストというものが実在するのは確かだった。大国に武将として雇われるカイストもいるらしいが、アンテのような小村で暮らす者にとっては関わる機会はほぼないに等しい。ハルーランが実際に見たことのあるカイストは、五、六年前に村を訪れた検証士という痩せぎすの男と、シィトスの港町で呪殺を請け負っているという怪しげな男。検証士の方は村の周辺をうろついた後あっさり帰ってしまったし、もう一人の方も二、三言当たり障りのない会話をしただけで、それほど強烈な印象もなかった。自分の人生には無縁のもの。ハルーランは、そう思っていたのだ。

「どうしてカイストが」

「奴らの考えとることは分からんさ。白いマントに、のっぺりした白い顔の男だったそうじゃ。やたら長い剣を持っておったと。手掛かりはそれだけじゃ」

「そいつが何処に行ったか分かるか」

「分からんな。ロゼの言うには、突然跡形もなく消えたそうじゃからな。人間には手に負えぬ代物じゃろう。……ハルーラン。追うつもりか」

 ハルーランは筵の上の肉塊から目を離し、村長を見た。感情をあまり表に出さぬ皺深い顔に、不安の翳りが染みついていた。ハルーランと一緒に帰還した男達も戸惑っている。相手はカイストだ。剣一振り山一つの伝説は誇張だろうが、普通の人間が敵う筈もない。ハルーランは槍の扱いには自信があったし、村の男達の中でも一角鹿に最初に槍をぶち込むのは大抵ハルーランだった。

 しかし、それでも、相手はカイストなのだ。

「追う。エミルの仇を取る」

 ハルーランは答えた。

「死ぬことになるぞ」

 村長は静かに念を押した。

「分かっている」

 エミルは死んだ。一生を共にするつもりだった相手が消え去り、ただの腐りかけの肉塊に置き換わった。もう彼女はいない。

 ならば、ハルーランが死ぬのに何の支障もないのだ。

「そうか。なら支度をしろ。まず行くべき先はバスキトになる」

 村長は言った。

 

 

  三

 

 村の皆は乏しい金を出し合って路銀をカンパしてくれた。ハルーランは感謝している。多分、恩を返すことは出来ないだろうけれど。

 健闘を祈る、と狩りの仲間達は言った。手伝えなくてすまない、とも。分かっている。彼らには彼らの人生がある。ハルーランは自分のやるべきことをやらねばならない。

 村長は秘蔵の宝石を幾つかくれた。いざとなったら売り払うのもいいし、カイストとの交渉に使ってもいいだろう、と。

 村長の提案は、仇討ちの助太刀を、別のカイストに頼むというものだった。

 カイストにはカイスト。昔からそういうことになっているらしい。事情を話せば手伝ってくれるカイストもいるだろう、と。

「ただし」

 村長は厳しい顔で付け足した。

「カイストには色々おる。報酬に無茶なものを要求してくるカイストもおるぞ。お前の手足とか、目玉とか、命、とかな」

 いいだろう。命でも何でもくれてやる。ハルーランに残っているのはもう復讐だけだ。

 悲しい顔をした村人達に見送られ、ハルーランは出発した。バスキトを目指して馬を駆る。

 干し肉を齧りながら、狩場の草原と森を横目に過ぎ、村長に教えられた方角に街道を辿る。一人で見知らぬ土地を進むことにも不安は感じなかった。ただし、野宿していて六本足の群れに囲まれた時は死を覚悟した。噂には聞いていたが、闇に紛れる黒い狼は用心深く尚且つ執拗で、武装キャラバンが通りかからなかったらハルーランは餌になっていただろう。

 途中、幾つかの町に寄って食糧を確保しつつ、カイストを探す。ハルーランは何人かのカイストに会うことが出来た。別の契約をこなしているからと断られたが、一人はその力を見せてくれた。拾った小石を投げつけると、大木二本の幹を貫通して爆裂させたのだ。このレベルに達するまで二万年かかったと、カイストは苦笑した。それがどういう意味の苦笑なのか、ハルーランにはよく分からない。

 もう一人のカイストは重要なことを教えてくれた。仇の外見を聞いてすぐに呟いた名前。

「リギスだな。『白面のリギス』」

「何者ですか、そいつは」

 ハルーランが尋ねると、その片腕のカイストはちょっと驚いたように目を瞬かせた。

「まあ、一般人なら、知らんのも無理はないか。今、このサマルータにいる中では唯一のAクラスじゃねえかな。わざわざあいつの姿を真似るカイストもいないだろうから、まず間違いなかろう。Aクラスってのは分かるか」

「……いえ」

「カイストにはランクがあってな。Cクラスは駆け出しだ。武器や工夫次第で、一般人が勝てる余地はある。Bクラスになると、一般人が勝つのは無理だ。剣も弾丸も通さない。……銃のことは分かるか」

「ええ、一応は」

 ハルーランは答える。シィトスで拳銃を持っている男を見たことはあった。離れた場所の獲物を一瞬でぶっ飛ばせる代物だが、とても高価らしい。

「それでも、Bクラスなら別のBクラスに仇討ちを頼めば済む。割といるんだよ、俺も含めてな。……だが、Aクラスは神の領域なんだ」

「神、ですか」

 ハルーランにはうまく実感出来ない。

「一つの道を極め尽くした、化け物中の化け物達さ。剣一振り山一つなんてのは典型例だろうが、まあ、リギスならその気になれば、このサマルータの人間を皆殺しに出来るだろうな」

「たった一人で、ですか」

「ああ。Aクラスの力ってのはそういうものだ。……だからあんたの言いたいことも分かるが、俺の返事はこうだ。お断りする、俺の手には負えない」

 彼はそう言って、片腕でお手上げのポーズをしてみせた。

 どうやら相手は最強の男らしい。仇討ちは益々難しいことになりそうだ。だが別に構わない。ハルーランの麻痺した心は動揺することもない。

 更に街道を進む。砂漠では野宿中、砂ミミズに腕の肉をほじくられた。疲労は溜まるばかりだったがハルーランは道を急いだ。

 アンテを出発して十七日、ハルーランは城塞都市バスキトに辿り着いた。

 住民は十万を超えると聞く。巨大な塀に囲まれた広大な敷地。門はいざとなったら頑丈な扉が下りるようだが、大勢の旅人や商人が自由に出入りしている。彼らに混じって入ったハルーランにも衛兵は声をかけなかった。平和な都市なのだろう。或いは、カイストに守られているためか。

 村長によると、バスキトは多くのカイストが立ち寄る拠点の一つらしい。助太刀を頼むのなら最適の場所だろう。バスキトが五十年前と変わってなければな、と村長は付け足したが。

 石の敷き詰められた通りを歩き、露店を見かける。コルンの実を買ったついでに道を尋ねる。

「カイストの集まる店は何処ですか」

「この大通りを真っ直ぐ行って、突き当たりを右に曲がれば『ディンゴ亭』という看板が出てるよ」

 慣れっこになっているのだろう、店の主人は特に詮索もしなかった。

 ディンゴ亭という名前は、途中に寄った町でも見かけたことがあった。経営者が繋がっているのだろうか。ハルーランにはよく分からない。

 露天商に言われた通りに歩くとすぐ店は見つかった。大きな酒場で、宿を兼ねているようだ。ただし、おそらくはカイスト用のためハルーランは宿泊出来ないだろう。

 扉を開けて中に入る。ドアの軋みにもハルーランの足音にも、振り返る者はいなかった。

 五十ほどのテーブルが並んだ広いフロアに、十数人の客がいた。殆どの者は一人で座り、同じテーブルを囲んで談笑しているのは一組だけだ。黒いローブを着た男は粥を食べていたし、フードで顔を隠した男はテーブルにカードを並べている。腕の太さが人の腰くらいありそうな男は、誇らしげに裸の上半身を晒している。珍しい衣装の者もいれば、ハルーランのように辺境の粗末な服の者もいた。ただ、共通しているのは、彼らが普通の人間とは違う、独特の雰囲気を纏っていることだ。それは野獣のような獰猛な威圧感であったり、暗がりから覗く影のようなひっそりとした不気味さであったりした。

 これだけの人数のカイストが集まっているのを見るのは、初めてのことだった。

 流石に緊張を覚え身を固くするハルーランに、カウンターの向こうに立つ店員が声をかけた。

「依頼か」

「……ええ」

 ハルーランは頷く。カイスト達はそれでもこちらを見はしない。

「掲示板はあっちだ。使い方は」

 店員の指差す方を見ると、壁一面に貼り紙が並んでいた。二百枚ほどはあるだろうか。それぞれ何か書きつけてある。ハルーランは向き直り、店員に答えた。

「知りません」

「依頼の内容を書いて、サインするんだ。読んでその気になったカイストがいれば、契約の交渉が始まる。店の近くに幾つか待機所があるから、そこで大人しく待つのが無難だろうな。ここに居座っていてもうざがられる。字は書けるか」

「いえ。簡単な字を読むくらいしか」

「なら代筆する。料金を貰うが」

「お願いします」

 店員は事務的に話を進めていく。これまで何千回と同じ作業をこなしてきたのだろうか。

 と、テーブルの方から野太い声がかかった。

「どんな依頼だ、言ってみろよ。手間が省けるかも知れんぞ」

 あの上半身裸の男だった。気さくなカイストもいるものだと少し感心しながらハルーランは一礼する。

「仇討ちの助太刀をお願いしたいのですが」

「ふうん。相手はどんな奴だい。カイストか」

「白面のリギスです」

 瞬間、酒場の空気は冷え冷えとしたものに変わっていた。上半身裸の男も途端に押し黙り、あっちを向いてしまった。

 なるほど、そんなものか。

 店員に尋ねられ、ハルーランは概要を説明する。依頼人はアンテの村のハルーラン。依頼内容は『白面のリギス』に対する仇討ちの助力。理由は許婚をリギスに殺されたため。報酬については、持っている金と宝石を見せ「このくらいしかありません」と伝える。それを一瞥して店員は問うた。

「他に何が出せる。体で払う覚悟は」

「……あります。必要なら、命も」

「ではそう書いておく」

 店員は淡々と文字を書きつけた。

 ふと横を見ると、白い服を着た若い男がいつの間にかそばに立ってハルーランを見つめていた。確かさっきまでテーブルにいた男だ。感情的色合いはなく、単に興味があったので覗いている、という感じだった。

「何ですか」

 ハルーランが尋ねると、白い服の男は「ふむ」と頷いただけであっさり酒場を出ていってしまった。

 カイストというのは、人間とは違う行動原理で生きているのだろうか。

 料金を支払って「お願いします」と告げ、一応酒場の連中にも目礼をしてハルーランは酒場を出た。店員が言ったように、この周辺には幾つか広場や小さな宿があった。ぼんやりと佇む人々は、いつ来るか分からぬ救い手を待ち続けているのだろうか。

 同じ境遇の彼らと話をして、色々なことが分かってきた。

 世界は幾つもあって、ハルーランが住むこの世界はカイスト達にサマルータと呼ばれていること。

 別の世界に繋がる通路がバスキトの近くにあるため、サマルータに来たカイストはここに立ち寄ることが多いという。また、カイストの組織の出張所もあるという話だが、一般人は近寄れないらしかった。

 Cクラスのカイストは多いが、Bクラスになるとサマルータには数十人くらいで、Aクラスはその時によって一人いるかいないか程度だという。そして、今いるただ一人のAクラスが、リギスという訳だ。

 カイスト達は基本的に個人主義で、馴れ合ったりはしない。彼らの目的も性格も様々で、一般人の依頼を受けるのは単なる気紛れや修行のついでということらしい。

「カイストに人間の情を期待してはいけない」

 王国の使いで来ているという中年男は、疲れた顔でそう語った。

 依頼人達がカイストに求める内容は様々だった。傭兵・用心棒として雇いたいというのが多いようだが、灌漑やトンネル掘りなどの依頼や、遺跡や奇妙な器具の鑑定依頼もあった。病気の母親の治療を求めてきたという少女は、待機している半年のうちに故郷の母親が死んでいないか気にしていた。不治の病を治せるカイストも存在するらしい。

 ハルーランは彼らのように安い宿を借り、毎日ディンゴ亭を訪れた。店員の顔を見ると黙って首を振るだけだ。今のところ受けるカイストはいないという、喋る労力さえ節約した単純な回答。ハルーランはその場にいた数人のカイストに直接頼んでみたが、「出来ない依頼は受けない」と断られるか、最初から無視されるだけだった。

 三日目の午後、店員は「お前の貼り紙に付け足しがあった」と教えてくれた。壁の低いところに貼られた依頼の紙に、青いインクで何か書き加えられている。見たことのない文字だ。

「何と書いてあるんです」

「アンテの村の一般人・エミルを殺害したのは確かに『白面』リギスである。検証士ラリー・ハウゼン。簡単に言うと、それだけだ」

「……。どういう意味です。このラリー・ハウゼンという人は」

「お前が来た日にすぐそばで見ていたカイストだ。おそらく直接アンテまで行って確認してきたのだろう。検証士はそういう力を持っている。重要な案件は間違いのないよう、検証士が事実関係を確認しておくことも多いんだ。ただ、彼がここに書き足してくれたのは単なるお節介だろうが」

「私の仇がリギスであることの確認が取れた、と。そうしたら、カイストが依頼を受けてくれる見込みは増えますか」

「いや、逆だろうな」

 店員は無表情に首を振った。

 一週間経っても、ハルーランの依頼を受けてくれるカイストはいなかった。彼らがバスキトに留まるのは長くても数日のようで、数は多くないが頻繁に入れ替わる。それでもAクラスのリギスに対抗しようとする者はいなかった。待機していた人達の一部は契約に応じてくれるカイストを得て去っていく。病気の母親を治したいという少女も笑顔で去った。少女が連れ帰ったカイストがうまく治療してくれればいいが。また、少女は報酬として何を払うのだろう。そんなことをハルーランは考える。

 気になることがあった。カイストは別の世界にも出入りする。リギスがこのサマルータを出ていってしまったら、ハルーランにはなすすべがなくなるのだ。ゲートと呼ばれる異世界への通路は、一般人が使うことは許されていないらしい。また、一般人の依頼によるカイストへの復讐は、その世界を出てしまえば追及しないのがカイスト同士の暗黙の了解だという。

 リギスがまだこの世界にいることだけはディンゴ亭の店員が保証してくれた。有名なカイストだから移動の噂は耳に入るのだという。店員は無表情だが意外に親切な人かも知れない。

 誰も協力してくれなければ自分一人でやるしかないか。元々そのつもりだったのだ。一人で突撃して、エミルのようにブツ切りの肉塊になって死ねばいいだけの話だ。このまま無駄に待ち続けて仇に去られることの方が怖かった。

 宝石を一個売って滞在費に換えたが、それが尽きたら一人で出発しよう。ハルーランは決心した。

 

 

  四

 

 バスキトで三十二日を過ごし、予定の路銀は尽きた。こんなものか。ハルーランは溜め息を一つつき、ディンゴ亭に入った。

 酒場には四、五人のカイストがいた。カウンターの向こうに立ついつもの店員は、ハルーランを見ると黙って首を振った。やはり駄目だったか。ハルーランは歩み寄って、「もう貼り紙は剥がして下さい」と告げた。

「そうか」

 店員が頷いた時、テーブルの方から声がかかった。

「諦めたか」

 声の主は一番奥の薄暗い場所にいた。引き締まった体つきの男で、武器は持っていないようだ。短い黒髪に、整ってはいるが地味な顔立ち。昏い瞳がハルーランを見据えていた。

 ハルーランはふと奇妙な感覚に囚われた。このカイストには見覚えがあり、ずっと前からいたような気もするのだが、ハルーランはあまり意識したことがなかったのだ。カイストは頻繁に入れ替わっていたから、長く滞在する者がいれば珍しいと思うのだが。男の地味な雰囲気のため、意識しなかったのかも知れない。

 男のテーブルには瓶が置いてある。おそらくは酒だが、封は切っていない。その瓶にも覚えがあった。

 からかうつもりなのか。ハルーランは内心警戒しながら答えた。

「ええ、諦めました」

「俺の聞いているのは、仇討ちを諦めたのかということだ」

 陰鬱な口調には特に悪意は感じられなかったが、ハルーランは少しムッとしていた。「果たせない依頼は受けない」などと偉そうに言って、あっさり断り続けてきたのは彼らの方なのだ。

「仇討ちは一人でやります。カイストとかいうものに期待したのが間違いでした」

 ハルーランの嫌味に男は薄い苦笑を見せた。居合わせた他のカイストが探るように男を見ている。

 男は言った。

「俺はずっと見ていた。お前がこの店に来て、依頼の張り紙を出した時からな」

 最初からいたのか。ハルーランは驚いたが、男の真意はやはり読めなかった。

「何が言いたいんです」

「助太刀してもいい。ただし、条件がある」

 ハルーランが感じたのは喜びよりも戸惑いだった。このカイストは最初からハルーランを見ていたという。なのに何故、募集を取りやめようとした今頃になって協力すると言うのか。

「どんな条件ですか」

「まず、俺はBクラスだ。まともにやり合っても『白面のリギス』に勝てる見込みは万に一つもない。つまり、成功の保証は出来ない」

 どうやらこの男は本気かも知れないとハルーランは思う。大口を叩く奴よりは信用出来る。

「構いません。協力して頂けるのなら、結果はどうでも」

 男はまた苦笑した。何故か優しい笑みだった。手招きされ、ハルーランは男のテーブルに歩み寄った。

「次に、お前は俺の指示に従ってもらうことになるが、死ぬ可能性はかなり高い。失敗すれば死ぬし、成功しても死ぬかも知れない」

「構いません」

「ある程度は知っているようだが、カイストは何度でも転生する。もしリギスを殺すことが出来ても、いずれはまた生まれ変わってのうのうと好きなことを続けるだろう。つまり、リギスを完全にやっつけることは出来ない。それでも命を懸けられるか」

 それについては既に考えていた。しかし、だからといって何もしなければ、エミルは本当に無駄死にになってしまう。無駄死にの上乗せになろうとも行動するのが人間としての意地ではないか。

 ハルーランは頷いた。

「構いません」

「良かろう。お前の仇討ちの助太刀、引き受けよう。座ってくれ」

 男に促され、ハルーランは向かいの椅子に腰掛けた。カイストの酒場で席に着くことに多少の居心地悪さを感じながら。

「俺はナラク・ショーゼンだ」

 男は漸く名乗った。

「ハルーランです」

 相手は知っているだろうが、一応ハルーランも名乗り返す。

「お前の年は幾つだ」

「十九です」

「アンテの村はどんなところだ」

「小さな村です。旅人もあまり来ません。あまり豊かな村でもないです」

「気候はどうだ。厳しいか」

「いえ、暖かい方だと思います」

「村のことは好きか」

「ええ。私が出発するのに、皆で援助もしてくれましたし」

 ハルーランは奇妙な感じがした。このナラクという男はどうしてこんなことを尋ねるのだろう。カイストは一般人のことになど興味がないと思っていたが。

 ナラクは正面からハルーランの顔を見つめ、質問を続けた。

「エミルという娘は幾つだった」

「……十六でした」

「幼馴染みか」

「ええ。小さな村でしたから」

「どんな娘だった」

 ナラクの声は、優しかった。

「……。美人でしたよ。村一番の。無邪気で、恐いもの知らずなところがあって、自分も花の世話なんかじゃなくて狩りに参加したいと言って、皆を困らせてました」

「リギスがどうして彼女を殺したのか、理由に心当たりはあるか」

「……いえ、全く。フラリと現われて、いきなり斬ったと」

「ハルーラン。お前は彼女を愛していたか」

 そういう質問が来るとは思わず、ハルーランは刃物で胸を刺されたような気がした。乾いた記憶が色を取り戻していく。ハルーランはエミルの笑顔を思い出した。狩りに出る際はいつも見送って手を振ってくれた。エミルが鹿の骨を細工して作った御守りは、今もハルーランの首に掛かっている。ハルーランが仲間達と喧嘩して袋叩きにされた時、エミルは泣きながら一晩中看病してくれた。片親の母が病死してハルーランが独りになった時、エミルはずっと一緒にいるからと言ってくれた。祝言は来年の春の予定だった。それまでは清い体でいようと誓い合ったのだ。ハルーランが狩りに出て、エミルが花の世話をする生活は変わらないだろう。しかしいずれ子供が生まれ、温かい家庭を築き、幸せに年老いて……。結局それは叶わなかった。エミルは通りすがりの男に殺され、ハルーランはその復讐のためだけに生きている。

「はい。愛していました」

 なんとかその言葉だけ絞り出すと、ハルーランは嗚咽していた。目が熱くなり、これまで出なかった涙が止め処なく溢れてきた。

「グラスを二つ持ってきてくれ」

 ナラクが店員に告げた。店員が無言で従うと、ナラクは瓶の封を切り、中身をグラスに注いだ。

「バルサブという酒だ。俺の故郷で作っていた。とっくの昔に滅んでしまったが」

 泣いているハルーランにグラスの片方を渡して、ナラク・ショーゼンは言った。

「一緒に酒を飲んでくれないか」

 ハルーランは頷いた。

 バルサブは強くて、とても苦かった。

 

 

  五

 

 白面のリギスはクスの町に滞在しているらしい。

 ナラク・ショーゼンは寡黙な男だった。一緒に酒を飲んだ日以外は最小限の話しかしなかった。振り向くといつの間にかいなかったり、またいつの間にかすぐそばを歩いていたりした。馬で駆けるハルーランと違って徒歩だが、遅れることはなく息を切らせもしない。

 野宿中、ナラクは何も食べず、眠りもしていないようだった。カイストとはそういうものなのだろうか。仇を取ることだけに集中しろと言われたので、余計な詮索はしなかった。

 旅は次第に厳しさを増していた。寒いのだ。クスは世界の縁にあって、太陽の光が最も届きにくいらしい。恐怖以外で鳥肌が立つことをハルーランは知った。寒さがひどくなれば痛みに変わることも知った。

「手足を保護しろ。血が通わなくなると指が落ちるぞ」

 ナラクは忠告した。予めバスキトで購入しておいた手袋とブーツを着ける。それでも未体験の痛みはハルーランを苦しめた。

 だがクスに近づくにつれ、ハルーランの心は鋭くなっていった。エミルの仇を討つ。ただその一点に集中していく。

 クスの町は白かった。雪というものをハルーランは初めて見た。雨の代わりに舞い落ちるそれはハルーランの外套にへばりつき、ゆっくり溶けていく。地面は雪で覆われ、歩くたびにシャクシャクと音がする。通りかかる人々は皆分厚い毛皮を着ていた。震えているハルーランに、憐れみと侮蔑の視線を投げていく。

 町に入る前にナラクとは別行動となっていた。一通りの指示だけを貰って。

 まずは入り口の門を抜けると案内所がある。そこで宿を尋ねること。マグスロールという宿の名前と道順を聞き出せるだろう。同時にさり気なく、カイストがいるか聞いてみること。リギスが宿にいるかどうかも確かめられるだろう。余計な騒ぎを起こさず、真っ直ぐ宿に向かうこと。途中、温かい飲み物程度は買っても良い。

 宿の入り口が見える場所で、リギスが出てくるのを待つこと。

 ナラクが繰り返し念を押したのは、助太刀に頼る気持ちを持つな、ということだった。ナラクが介入出来るのはハルーランが死んだ後になるかも知れない、或いは、ハルーランがリギスと対峙した時には既にナラクは死んでいるかも知れないと。だから結果に期待するなと。

 返り討ちに遭うことは確定していると考え、死んだつもりになって全力で当たれとナラクは言った。

 ハルーランがやるべきは、出てきたリギスに対し大音声で名乗りを挙げ、アンテの村の許婚の仇討ちであることを告げてから、真正面から襲いかかることだ。

 それが戦法と呼べるのか、ハルーランには分からない。しかしナラクの指示に従うしかない。また、結果がどうあれ真正面から当たるのはハルーランの心情に合っているように思えた。

 もう迷いはない。体の芯まで通る寒さに耐えながら、ハルーランは薄暗い街並みを歩いた。

 案内所で聞いた通りに進み、マグスロールの宿を見つけた。傾斜した黒い屋根の平屋だ。ハルーランは斜め向かいの建物の陰に立ち、リギスの登場を待った。

 たまに通行人の怪訝な視線を浴びながら、外套の中で両手を握ったり開いたりして感覚を失わないよう努める。愛用の槍は柄を短く切り、紐をつけてある。その紐を手に巻きつけていれば、すっぽ抜けることもないだろう。

 ハルーランの心は静かに澄んでいった。このまま固まった死体となって、この冷たい町と一体化していくような気がした。ふとエミルの笑顔が脳裏を掠め、次の瞬間には分断された肉塊となって消えていく。それでもハルーランは動揺しない。麻痺してきた指を何度も動かす。足先の感覚がないが、あまり気にしていない。ただ冷たく、沈んでいく。

 どれだけの時間が過ぎたろうか。何人かが宿に入り、何人かが出てきたがリギスではなかった。白いマントにのっぺりした白い顔、長い剣を持つ男。間違えることはないだろう。

 まさに、その男が出てきた瞬間、ハルーランの頭は熱く燃え上がっていた。

「リギスッ、白面のリギースッ」

 彼は仇の名を叫んだ。

 『白面のリギス』がこちらを向いた。白くなめらかな顔。鼻は極端に低く、眉毛もない。感情の読み取れない細い目がハルーランを見据えている。寒風にマントが翻り、銀細工の施された長剣の柄が見えた。

 相手が神とも呼ばれるAクラスのカイストであることは意識になかった。相手の纏っている異質な雰囲気など感じなかった。ただハルーランは全力で叫んだ。

「俺はアンテの村のハルーラン。お前が殺したエミルの許婚だ。彼女は何もしなかったのに、お前に八つ裂きにされたんだっ」

 リギスは黙って立っていた。仮面のような顔に変化はない。ハルーランは外套を落とし、短槍を固く握り締めた。

「今ここで、エミルの敵を討つ」

 宣言し、ハルーランはリギスへと走った。死を間近に感じながら、何も怖くなかった。全身が熱い怒りだけになっていた。せめて一撃でも食らわせたい。手傷を負わせたい。掠り傷でもいい。人を虫けらみたいに殺して何とも思わぬ傲慢な神に、思い知らせてやる。エミルの味わった痛みの百分の一、千分の一でも。

 リギスの姿が霞んだ。

 次の瞬間、リギスはその場に片膝をついていた。何が起こったのか。リギスの胸に刃が刺さっているのを見てハルーランは足を止めた。

 白面のリギスの右肩を割り、半透明の曲刀が深く食い込んでいたのだ。背後から斬り込まれたらしく、切っ先は前にある。バジュ、と湿った音がして、傷口が開いて肋骨と赤い肉が覗いた。流れ出る神の血は人間と同じく赤かった。

 曲刀を握る腕は肘の辺りで断ち切られ、ブラブラと揺れていた。見覚えがある腕。ナラク・ショーゼンの腕だった。

 ナラクの胴がリギスの後ろに倒れていた。胸の高さで水平に切断され、冷たい地面に血溜まりを広げている。胸から上の部分はもっと離れた場所に転がっていた。両腕共ない。胴と一緒くたに切られたようだ。細い剣を握った左腕は別の場所に落ちている。

 ナラクとリギスの戦闘は、ほんの一瞬だったらしい。

「むう」

 リギスが低く呻いた。薄い唇の間から血が零れる。Aクラスカイストの右手から抜身の長剣が落ちた。左手がそれを拾いかけ、何故かやめた。

 リギスが顔を上げ、戸惑っているハルーランに告げた。

「止めを、刺せ」

 白面のリギスが、自分を殺せと言っている。意味が分からない。何故こいつは……。

「やれ……ハルーラン」

 か細い声がした。胴を輪切りにされたナラクの声。彼はハルーランの助太刀をして致命傷を負った。

 ハルーランは躊躇いを捨てた。短槍を両手で握り直し、槍の穂先をリギスの左胸に突き刺した。カイストは見えない鎧を着ていると噂されていた。Bクラス以上のカイストには普通の武器は通らないと。だが、穂先は一角鹿の胴を刺すよりも簡単に、神の肉にめり込んでいった。心臓を貫く感触。

 リギスは、ゆっくりと、崩れ落ちていった。槍が抜ける。倒れながらも白い顔をハルーランに向け、彼は言った。

「すまなかった。あれは、我の勘違いであった……」

 リギスの顔は陶器のようになめらかで、硬そうに見えた。彼が無表情なのは、表情を作りたくても作れないのだと、唐突にハルーランは悟った。

 カフッ、と、血を吐いて、リギスの顔が地面に伏せた。そして、動かなくなった。

 『白面のリギス』は死んだ。

 ハルーランに満足感はなかった。ただ、畏怖のような感情と、悲しみだけが冷えた体に沁みていた。それから大切なことを思い出した。転がっているナラクに駆け寄る。

 胸から上部分だけとなったナラク・ショーゼンは、血の気のない顔でハルーランを見ていた。

「やったな……」

 ナラクの声は囁き程度に小さくなっていた。ハルーランは彼の前に跪いた。

「ありがとうございます。あなたのお陰です。早く、報酬を言って下さい」

 カイストとの契約は何らかの報酬を払うことになっている。金でも、肉体の一部でも、命でも。だがナラクはこれまで「報酬は貰っている。事がうまく片づけば説明する」と言うばかりで具体的な話をしなかったのだ。

 そして、ナラクは微笑みながら答えた。

「もう充分に……貰った……」

 彼はまだ唇を動かしていたが、声にはならなかった。そのまま目を閉じて、ナラク・ショーゼンは動かなくなった。

 

 

  六

 

 あれから多くの月日が流れたが、ハルーランはしばしば思い出す。死ぬ間際に謝罪した『白面のリギス』と、微笑を浮かべて死んだナラク・ショーゼン。取り残されて立ち尽くす、一般人の自分。それらがエミルの笑顔と混じり合ってハルーランの中で渾然一体の記憶となっている。

 ハルーランには分からないことだらけだったが、謎解きをしてくれる者はいなかった。ハルーランがアンテの村に戻って数日後、一人のカイストがやってきた。検証士であるというその男は、リギスの一件について幾つか質問をした後、独りで頷いて帰っていった。彼は何も教えてはくれなかった。検証士とはそういう者達らしい。

 疑問も全て呑み込んだまま、ハルーランは淡々と生きた。

 四十三才となったハルーランは、貿易都市テク・サクを一人で訪れていた。モセイアの新しい出荷先にするため、副村長として商人との交渉を済ませ、夕食を摂るための店を探す。市場の方に人の波が流れていて騒ぎになっているようだ。そちらに行ってみようと思ったが、途中に『ディンゴ亭』という看板を見かけてハルーランは立ち止まった。

 懐かしい名前だった。勿論バスキトの店とは別物だろうが、ハルーランは入ってみることにした。カイストのための店だろうか。カイストはいるだろうか。一般人でも食事は出来るだろうか。

 扉を開けると、小さな酒場のスペースに数人の客がいた。おそらくカイストだろう。

 ハルーランが驚いたことに、中央のテーブルに着いている者がいた。幾つかディンゴ亭という名の酒場を見てきたが、中央のテーブルは他と違う高級品だったり、綺麗な布がかかっていたりした。そして『ディンゴ』の文字の入った札が立っていたのだ。ハルーランが知る限り、そこに座るカイストはいなかった。

 その男は背が高い方ではないが、屈強な体格をしていた。毛皮のベストから日に焼けた太い腕が伸びている。不自然な異形ではなく、鍛えた者の理想的な筋肉に見えた。腰には古い剣を下げている。リギスのとんでもない長さの剣や、ナラク・ショーゼンの曲刀とは違う、何処にでも売っていそうな普通の剣だった。

 ハルーランが強い違和感を覚えたのは、カイストであるのは間違いないと思われるのに、独特の異質な雰囲気が感じられないことだった。威圧感もなく、なんだか気軽に声をかけられそうにも思える。だが弱そうには見えない。ベテランのハンターが見せる風格のような、それがそのまま遥か高みまで昇ってしまったような、自然な強さを感じさせた。

 凄い勢いで肉を食べていたその男は、ふと顔を上げてハルーランを見た。

「仕事の依頼かい」

 渋いが気さくさも感じさせる声音だった。

「いえ。そのテーブルは……」

 ハルーランもつい思ったことを口にしてしまう。酒場の親父が何か言おうとしたところで、男はひょいと片手を上げて制した。

「ここは俺専用の席でな。久々にサマルータに帰ったが、こんな風習を残してくれてんだからありがたいこった。俺の名のついた店を見かけると、嬉しくてつい寄っちまうって訳だ」

 カイストの名前のついた店か。

「ということは、あなたは……」

「俺はディンゴさ」

 グラスの酒をスイと飲み干して、ディンゴというカイストは名乗った。ハルーランの表情を見て続ける。

「ふうん。俺のことは知らんか。やっぱ、八千年も故郷を空けてたら伝説も風化しちまうわなあ」

「申し訳ありません。生憎田舎育ちなもので」

 ハルーランが謝罪すると、ディンゴはガハハと快活な笑い声を上げた。

「構わんさ。俺も元はちっぽけな町の出だからな。忘れてもらった方がいい恥も沢山掻いてきた。……で、何か用かい」

 用のありそうな顔をしていたらしい。ハルーランはその理由に思い当たり、正直に言った。

「カイストの方に、お聞きしたいことがあります。少し長い話になりますが、お時間を頂けますか」

「いいさ。酒のつまみになるかも知れんしな。座りなよ」

 ディンゴは隣のテーブルの椅子を片手に持って、軽く放り投げた。水平にスピンしながら椅子は緩やかに飛び、音もなく綺麗に着地した。丁度、ディンゴと向かい合わせの席となった。

「よろしいのですか」

 ディンゴ専用という特別なテーブルに着いて良いのか。カウンターにいるカイストがちょっと恐い顔をしている。いや、それは羨ましがっているのだろうか。

「いいさ。俺が許すんだから」

 ディンゴは答え、ハルーランは礼を述べて座った。

「兄ちゃん、酒の追加ともう一つグラス頼むわ」

 兄ちゃんと呼ばれる年齢は過ぎていそうな店の親父に言い、改めてディンゴは正面からハルーランを見据えた。

 ディンゴは三十才くらいに見えた。カイストの外見年齢は無意味だろうけれど。髪は短く刈り、頬顎には不精髭が生えている。武骨で荒削りな顔立ちだが不思議な愛嬌があった。山賊の頭領。一瞬そんなイメージが浮かぶ。

「それで、何を聞きたいんだい」

 ディンゴは言った。

 ハルーランは自己紹介をした後で、二十四年前の出来事を話してみた。そして、ずっと抱いていた疑問を口にした。

 何故、白面のリギスは、罪もないエミルを殺したのか。

 何故、神の領域と言われるAクラスのリギスが、Bクラスで勝つ見込みは殆どないと言っていたナラク・ショーゼンの攻撃を食らったのか。

 何故、リギスは、敢えてハルーランの槍を受けて謝罪したのか。

 何故、ナラク・ショーゼンは、報酬はもう貰ったと言って、微笑みながら死んだのか。

 ディンゴはハルーランの話を、茶化したりせず聞いていた。酒を飲みながらだが。そして、さっさと自分のグラスに酒を注ぎ、「ううむ」と唸ってから言った。

「多分、理由は分かるぜ。だが念のため確認しとかねえとな。ソツメ、お前なら知ってるだろ。ギノスクラーレは……」

 ディンゴは振り返って、離れたテーブルにいたカイストに声をかけた。あどけなさの残る少年のような外見で、頭に布を巻いている。

「知ってますよ。『アクター』ギノスクラーレはリギスが倒しました。そこのハルーラン氏がクスに到着する八日前です」

 ソツメは微笑しながら即答した。

「よし、流石検証士。ならナラクって奴はギノスクラーレとは無関係ってことでいいな」

 それからディンゴはこちらに向き直り、ハルーランに告げた。

「リギスがお前さんの許婚を殺したのは、本当に勘違いだ」

「勘違い……ですか」

「当時、リギスはギノスクラーレの挑戦を受けていた。こいつもAクラスだが、嫌な奴でな。単純な戦闘技術じゃない。誰にでも化けて、なりすませるのさ。『俳優(アクター)』って綽名がついてる。その辺の一般人に化けて近づいて、油断したところをブスリとやるのが奴の得意技だ」

「……つまり、エミルは」

 エミルを惨殺した後、リギスは死体を暫く観察していたという。

「おそらく、ギノスクラーレが化けてると勘違いされた。リギスも追い込まれてて、あまり余裕がなかったんじゃないか。もしかしたら実際に近くにギノスクラーレは潜んでたのかも知れん。何にせよ、お前さんの許婚は、カイスト同士のつまんねえ争いの犠牲になっちまった訳だ。リギス自身も動揺しただろうがな。お前さんへの謝罪は本気だったのだろう」

 そういうことだったのか。ハルーランの中で固いしこりが溶けた気がした。だがまだ疑問は残っている。

「それから、ナラクの指示した方法の件だな。確かにAクラスのリギスと普通のBクラスじゃあ天と地ほどの差がある。特に同じ戦士の系統なら、実力差は埋めようがなかろう。だからナラクは、カイエンス・パラドックスに賭けた」

 聞いたことのない言葉だった。

「それは何ですか」

 ディンゴは唇の左端を僅かに吊り上げて笑った。

「別名『Aクラスの金縛り』って奴だ。Aクラスってのは神の領域で、カイストにとっちゃ究極の完成形だ。自分と同格のAクラス以外にゃ負けねえし、脅かされることもない。もし万が一負けて死んだところで、また生まれ変われるしな。だが、Aクラスのカイストにも弱点がある。一般人にも劣る部分がな。……それは、勇気だ」

「えっ」

 ハルーランは一瞬聞き違えたかと思った。勇気。そんなものが神の戦いにどう影響するというのか。

「一般人ってのはカイストと反対だよな。弱くてちっぽけで、死ねば終わりだ。そんな一般人が、一つしかない人生の全てを失う覚悟で、強くて安全なカイストに向かっていく。その勇気に……なあ、たまに、カイストが怯えるんだよ。Aクラスのカイストが、無力な一般人に刺し殺されちまうんだ」

 ハルーランの突進に対し、動かずに立っていたリギス。決死の覚悟だったあの時の自分を、ハルーランは思い出した。

「カイストが一般人に敬意を払っているのはそういうことなのさ。勇気においては俺達よりお前さん達の方が上だからな。ただ、金縛りになっても、刃が刺さる前に我に返っちまうかも知れない。そうなれば一般人はあっさり殺されるか、正当な決闘の手続きとやらを踏まされて、やっぱり殺される。だから、リギスが固まった短い隙を衝いて、隠れていたナラクが襲ったんだろう。流石のAクラスも防ぎきれなかったって訳だ」

 ディンゴはグラスの中身を一気に飲み干した。相当飲んでいるようだが、大して酔ってはいないように見える。確か、ナラクもそうだった。

「ナラク・ショーゼン様は、成功することを分かっておられたのでしょうか」

「いや、かなりの博打だった筈だぜ。カイエンス・パラドックスなんて滅多に起きねえもんさ。今回はリギスの方に非があったから、確率は高かっただろうがな。それでも百に一つか、二百に一つってところだろう」

 なるほど。また一つ、疑問が解けた。しかし、ナラクのあの微笑は。何故彼は、リスクの高い戦いに身を投じてくれたのか。

 ディンゴはまた唇の左端を吊り上げて、酒をハルーランのグラスに注いでくれた。ハルーランは慌てて礼を述べる。ディンゴはこのように微笑するのが癖らしかった。

「質問が残ってたな。ナラクの報酬の件だ」

 ハルーランがお返しに注いだ酒をまたあっさりと飲み干して、ディンゴは言った。

「ナラクは確かに報酬を貰ったんだろうさ。お前さんの姿を見て、原点を取り戻したんだ」

「原点……ですか」

「カイストはなあ、長いんだよ。何か目標があって、俺達はカイストになるんだ。だが、何万年、何億年と修行を続けるうちに、ふと分からなくなることがあるのさ。自分は一体何のために、カイストをやっているのだろうってな。大切な原点なのに、積み重なって消せない記憶に埋もれて、段々色褪せていくんだ」

 ハルーランはバルサブという酒のことを思い出した。苦い酒だった。ナラクの故郷の酒。とっくに滅んだという故郷。

 それは、どれだけ昔のことだったのだろう。

「それで自分を見失って、カイストから脱落していく奴も多い。だからたまに、原点を間近に感じて輝きを取り戻そうとするんだ。俺達戦士の出立理由は似たようなもんだ。強い奴に憧れてってこともあるが、大概は強大な力に叩き潰されて、自分が弱かったばかりに仲間を救えなかったりしてな。そんな理不尽への怒りが、俺達の原点なんだ。……ナラクも、お前さんみたいに恋人を殺されたのかも知れん。だから、報酬は充分に貰ったんだ」

 ハルーランの許婚のことを、ナラクは興味深そうに尋ねていた。どんな娘だったか。彼女を愛していたか、と。

 ナラク自身は遠い昔の原点において、仇を討つことは出来たのだろうか。いや、それが出来なかったからこそ、カイストになったのだろうか。

 ディンゴはまたさっさとグラスを空けてしまってから付け加えた。

「もしかするとリギスの方も、お前さんの中にかつての自分の姿を見たのかも知れんな。カイエンス・パラドックスってのは、そういうことかも知れん。お前さんの姿は、リギスの原点でもあったのかも。……まあ、そこまでは俺にもはっきり言えんが」

 ハルーランの疑問は全て解けた。何度も礼を言って酒場を出た後、ハルーランは人生の大きな区切りを経たことを自覚していた。

 市場ではまだ凄い人だかりが出来ていた。覗いてみると、頭から尾の先まで五十メートルはあろうかという巨大な獣が横たえられていた。今も解体と料理が続けられ、人々はそのお裾分けに預かっているのだ。

 巨大な獣はディンゴが獲ってきたそうだ。『鋼のディンゴ』が有名なAクラスのカイストであることを、ハルーランはその時になって知った。

 

 

  七

 

 ハルーランは生涯独身で通した。

 

 

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