倦怠感

 

  一

 

 男が初めて人生というものについての噂を耳にしたのは、幼稚園に通っていた頃だった。何やらとても素晴らしいものであるということだった。

 男は幼い頃、親の言い付けに良く従った。近所では素直で良い子だという評判が高かった。

 小学校に進んだ男は、真面目な生徒であった。学級委員に選ばれることも多かった。

 テレビの特撮番組ではヒーローが怪人を倒しながら、正義は必ず勝つと叫んでいた。

 小学校半ばを過ぎて、男は自分の人生が既に始まっていることを知った。

 クラスでも時に、人生についての話題が出ることがあった。誰もが希望に満ちた顔で、パイロットや宇宙飛行士や警察官や政治家やスポーツマンへの夢を語っていた。

 テレビでは元総理大臣が汚職事件の裁判で有罪になった。その後の選挙でも彼は当選した。

 韓国の旅客機が領空侵犯でソ連の戦闘機に撃墜され、二百人以上の乗客が死んだ。

 男が小学校の卒業文集に書き残した将来の夢は、ロボット博士になることだった。

 男は中学でも優等生だった。宿題を忘れることはなく、試験前にはスケジュールを立てて勉強した。

 アメリカでスペースシャトルが打ち上げに失敗して爆発した。

 男は不良達に絡まれて、散々殴られた。男は抵抗出来なかった。家に帰っても親には黙っていた。

 ソ連のチェルノブイリ原発で事故があり、大量の放射能が撒き散らされた。

 男は父親に、歌手か小説家になりたいと言ってみたことがある。父親は、歌手とか小説家なんてのはカスだ、と答えた。

 男は親の勧めに従って進学校を受験し、合格した。高校でもそれなりに勉強はしたが、テレビゲームをする時間が増えた。

 ソウルオリンピックでは、百メートル走の金メダリストがドーピングで失格となった。

 血友病の人々が、輸入非加熱血液製剤でエイズウィルスに感染し、裁判を起こした。感染の危険性を医者は分かっていたのに、使用継続を強行したということだった。

 消費税が実施された。売上税案は国民の猛反発にあって引っ込められたが、名称が変わったら法案が通った。

 男は将来についてあまり話さなくなった。

 中国の天安門で、軍隊が市民を攻撃した。

 イラクがクウェートに侵攻した。アメリカはイラクの指導者を悪者と呼んでいたが、イラク国内では英雄らしかった。湾岸戦争が始まった。手違いで一般市民が虐殺された。パトリオットは喧伝されていたが、後でばれたことだが実際には大して役に立たなかったという。

 男は本命の大学を落ち、滑り止めの大学に入学した。経済学部であった。男はそこそこの友達付き合いをして、時には合コンにも出た。一人暮らしのマンションでは専らテレビゲームをやっていた。

 ロスアンゼルスで暴動が起きた。欲しい物が盗り放題だと、誰かが嬉しそうに記者に語った。

 アメリカで日本人留学生が射殺された。フリーズをプリーズと間違えたのではないかとか、アメリカ文化を理解していなかったのではないかとか言われた。銃の規制について論議が巻き起こったが銃は消えなかった。

 山形県で中学一年生がいじめられ、マットに押し込められて死んだ。

 北朝鮮で主席が死んだ。絶対に起きると言われていた革命は起きなかった。

 愛知県で、同級生にいじめられ金を脅し取られた中学生が遺書を残して自殺した。

 長野県の住宅街でサリンが撒かれ、七人が死に、二百人以上が被害を受けた。警察が逮捕した容疑者は冤罪だった。

 阪神大震災で五千人以上が死んだ。国民の大部分は呆然と見ているだけで何もしなかった。

 東京の地下鉄でサリンが撒き散らされた。十二人が死に、五千人以上が被害を受けた。オウム真理教が捜索を受けた。逮捕された教祖はメロンが好物だったという。

 男は一流ではないがそれなりの企業に内定し、就職した。同僚との付き合いもそれなりにこなし、マンションに帰ればテレビゲームをやった。

 沖縄で少女を米兵が暴行した。沖縄知事が代理署名を拒否して大騒ぎになったが、結局何がどう変わったのか分からぬままニュースに出なくなった。

 薬害エイズ問題で、帝京大の副学長だった老人が逮捕された。

 男は職場の同僚と結婚した。美人という訳ではないが気立ての良い女性だった。息子が生まれ、安いアパートへ引っ越した。テレビゲームとは遠くなった。

 ペルーの日本大使公邸をゲリラが占拠した。四ヶ月後に全員射殺された。日本では消費税が五パーセントになった。神戸市で学校の塀に小学生の生首が飾られ、中学生が逮捕された。イギリスの元皇太子妃が自動車事故で死に、様々な憶測が流れた。プロ野球選手が経営コンサルタントを通じて脱税した。エジプトでは皆殺しと書いた鉢巻をしてテロリストが銃を乱射した。栃木で男子生徒が女性教師をバタフライナイフで滅多刺しにして殺した。バイアグラが発売され、心臓発作で死ぬ人が続出した。和歌山でカレーに混ざった毒物で四人が死んだ。北朝鮮から発射されたテポドンミサイルが日本上空を横断して海に落ちた。マイクロソフトが独占禁止法に違反していると訴えられた。インターネットで知り合った人から青酸カリを送られて女性が自殺した。失業率が戦後最悪となった。自己破産が過去最多となった。自殺者が年間三万人を超えた。ダイオキシンの測定結果を政府は隠し、プロ野球の監督の妻が学歴詐称で訴えられ、トレンチコートマフィアが学校で銃を乱射し、政治家は暴力団に金を払い、手抜き工事でトンネルの天井が剥がれ落ちてJRがもう大丈夫だと宣言した後にまた剥がれ落ち、国旗・国歌法が成立し、ゲルニカ事件は原告が敗れ、芸能人が息子を合格させるために裏金を払い、東海村のウラン加工施設で裏マニュアルさえも無視して臨界事故が起き、人気歌手が覚醒剤で逮捕され、池袋で通り魔が包丁とハンマーを持って襲いかかり、環境ホルモン問題でカップ麺のカップは安全だと企業は主張し、集団訴訟で人々は企業に莫大な金額を要求し、インドとパキスタンの核実験競争を非難していたアメリカもまた核実験を行い、煙草会社は健康のため吸い過ぎには注意しましょうと宣伝し、大学生は集団で女性をレイプし、下関で通り魔が車ごと駅の構内に乗り入れて三人を殺し、企業は訴えられると訴状の内容をまだ読んでいないので答えられないとコメントし、クローン技術は倫理的な問題が解決せぬまま着々と進行し、援助交際が流行り、人気のあったテレビ番組はやらせ疑惑で主婦が自殺し、落ち目になった女優はヘアヌードを出版し、大相撲は八百長疑惑が延々と燻り、男は、それらのニュースを見ながら、黙々と、自分の生活を続けていた。

 

 

  二

 

 その日も朝六時に男は目覚めた。妻は既に朝食の準備を始めていた。男は妻におはようと言って穏やかな笑顔を見せ、洗面所で顔を洗った。

 髭を剃りスーツに着替え、朝刊を読んでいるうちに妻が食卓にトーストと目玉焼きを並べた。男は新聞を置いて妻と向かい合って朝食を摂った。そろそろ二才になる息子はまだ布団で小さな寝息を立てていた。

 妻が食器を片付けて弁当を作っている間、歯磨きを終えた男は新聞の続きを読んだ。幼稚園児が母親同士の諍いが元で殺されたという。横から記事を覗き込んだ妻が、ひどい時代ねと言った。

 七時になり、男は鞄に愛妻弁当を詰め、妻の笑顔に見送られて玄関を出た。丁度、隣に住む老人と鉢合わせ、二人はにこやかに挨拶を交わした。これから散歩に行くところだと、老人は言った。

 この時間帯でも、部活か課外に行くのであろう学生や、背広姿のサラリーマンは多かった。男はその中の一人として、駅への道を歩いた。

 男はふと足を止め、忙しなく車の行き交う道路を見た。

 アスファルトの地面に、茶色の毛皮と潰れた赤い肉の塊がベッタリとへばり付いていた。車の過半数はそれを避けて通っていたが、残りは気づかないのかどうでもいいのか、肉塊に駄目押しのプレスを重ねていった。

 元は愛らしい犬であったのだろうその肉塊を、男は少しの間見守っていたが、やがて目を逸らし、歩みを再開した。

 駅に着いた男は定期券で改札口を通った。ホームには既に多くの客が待っていた。男は列の後ろに並び、静かに待った。

 やがてアナウンスと共に列車が入ってきた。車両内は既に乗客がすし詰めになっていた。扉が開き、出て行く僅かな客を横目に人々が乗り込んでいく。

 男の前で、並んでいなかった客が平気で割り込んでいった。男は何も言わず、なんとか車内に体を押し込んだ。

 掴める吊革もなく、男は揺れる車両内でなんとかバランスを保っていた。駅に停車する毎に、少しずつ乗客は入れ替わっていったが、男が座る余地はなかった。

 途中乗り換えて、一時間かけて男は目的の駅に着いた。アパートに引っ越した際に、会社への距離が遠くなっていた。

 八時三十分に、男は自分の職場に着いた。やがて他の同僚も来て、男は挨拶した。同僚が、そういえば奥さんは元気かいと尋ね、元気にしていますよと男は答えた。

 男の仕事は経理であった。帳簿を眺めコンピュータ端末と向き合い、男は黙々と仕事をこなした。

 昼休みに男は、妻の作った弁当を食べた。同僚の大部分は外食に出て、室内は係長との二人だけになった。食べながら、係長とは当り障りのない会話をした。

 午後も男は真面目に仕事をこなした。自分から私語をすることはなかったが、誰かの冗談に皆が笑う時には、一緒になって笑った。

 少し残業をして、午後六時過ぎに男は仕事を終えた。飲みに行かないかと同僚に誘われたが、男は妻が待っているのでと丁重に断った。

 会社を出た男は、駅に向かう途中で、開店したばかりのキャンプ用品店を見つけた。

 男は店に入ってみた。トレッキングシューズやリュックサックや携帯用の食器類や寝袋やバーベキューセットなどの並ぶ中、登山ナイフが陳列された棚の前で男は立ち止まった。

 男が目を留めたのは、端の方に置かれている、金属の柄の、手斧だった。握りの部分は黒いラバーだった。

 値段は、五千九百円となっていた。

 これを下さいと男は店員に言った。

 手斧の入った包みを鞄に詰め、男は駅に向かった。再びぎゅうぎゅうの車両で一時間過ごし、男は目的の駅に到着した。

 吐き出される人込みの中で、男の顔は、飽くまで物静かだった。

 男は自分のアパートに戻った。呼び鈴を押すと妻がドアを開け、お帰りなさいと言った。

 幼い息子が玄関口に立ち、男を見上げていた。もじもじしている息子に妻が、お帰りなさいでしょと後押しし、息子はその通りに言った。男は微笑しながらただいまと応じた。

 妻は台所に戻って夕食を作っていた。息子はどの程度内容が理解出来ているのか不明だが、正義のヒーローが活躍するテレビアニメを観て喜んでいた。

 男は、鞄を開け、包みを取り出した。包みを破り、手斧を右手に握り、刃の部分のカバーを外した。妻も息子も、男のやっていることに気づかなかった。

 男は静かに立ち上がり、妻の背後に歩み寄った。

 妻は鼻歌を歌いながら野菜を刻んでいた。

 男はゆっくりと手斧を振り被り、妻の頭にそれを叩き付けた。

 渾身の力が込められた斧は皮膚を裂き骨を割り、妻の後頭部に半ば以上減り込んだ。妻はウッと呻いて顔面を俎板にぶつけ、続けてグニャリと床に崩れ落ちた。キャベツの切れ端を絡み付かせながら。

 血はあまり出なかった。男は手斧をこじって、妻の頭から凶器を引き抜いた。割れた頭蓋骨の隙間からピンク色の脳が覗いていた。

 妻はもう、動かなかった。

 男は、無表情に、妻を見下ろしていた。

 物音に振り向いた息子が、どうしたのと声をかけてきた。なんでもないよと男は答えた。ちょっとお母さん、気分が悪いみたいなんだ。休ませてあげようよ。

 ふうん。息子はテレビに向き直った。

 男は息子の背後に忍び寄った。血の付いた手斧を大きく水平に振り被った。

 男は、手斧を横殴りに振った。

 分厚い刃は息子の首筋を叩き切り、反対側まで抜けた。息子は声一つ上げなかった。大きな斧ではないので、首を完全に切断出来ず、前三分の一程が胴体と繋がっていた。

 息子の頭が前のめりに転がり、骨と肉が覗く断面から大量の血が噴き出した。それは男の顔にもかかった。

 ぐらりと、息子の体が傾いて、横に倒れた。流れ出た血が畳を濡らしていった。

 男は、無表情に、息子の死体を見下ろしていた。

 男は息子の死体を抱え上げ、台所の隅に転がした。妻の体もそうしようとして、男は目を細めた。

 後頭部が割れた妻は、それでも、浅い呼吸を続けていた。意識は失っているようだった。

 男は、妻の首筋に、手斧を振り下ろした。血が撥ねた。

 何度か繰り返すと、妻の首は完全に切断された。

 男は妻の死体を息子の死体の上に積み重ねた。

 男は、小さく気怠い溜息を洩らした。

 男は手斧を風呂場で洗い丁寧にタオルで水気を拭き取ると、次に血塗れの服を脱いでシャワーを浴びた。

 男はパジャマに着替えて台所に戻った。夕食はほぼ出来上がっていた。

 男は、自分でご飯を装い、妻子の死体を足元に、一人で夕食を摂った。

 食べ終わった男は、食器を片付けることもなく、暫くテレビを観ていた。

 夜十一時を過ぎ、男は血の付いた畳の上に布団を敷き、一人で床に就いた。目覚ましはいつも通り、アラームを六時にセットした。

 男は眠った。

 翌日の朝六時に男は目覚めた。

 男が起き上がると、台所の隅に相変わらず妻と息子の死体が転がっていた。

 男は顔を洗い、髭を剃り、新しいスーツに着替えた。自分で焼いたトーストを食べながら朝刊を読んだ。

 新聞はまだ、幼稚園児殺害の記事で賑っていた。お受験を巡る親達の狂乱について長々と述べられていた。

 七時になった。男は鞄でなく手斧を握り締めた。靴を履きかけて、男は俎板の上の包丁に気づき、左手にそれを持った。

 玄関を出ると丁度、隣に住む老人と鉢合わせ、二人はにこやかに挨拶した。

 挨拶の後、老人は、男が握っている物に気がついた。

 男は無造作に右手の斧を振った。それは老人の顔面に、斜めに減り込んだ。鼻が潰れ、左の眼球がせり出した。うぐぐ、と、老人は呻いた。

 男は手斧を引き抜こうとしたが、填まり込んでしまいなかなか抜けなかった。傷口から血と透明な液体が流れ出した。老人が手足をばたつかせた。

 男は右腕を振って老人の体を引き倒した。

 男は左手の包丁を、老人の首に突き刺した。

 深く抉ってから引き抜くと、傷口から鮮血が噴き出した。男の左の袖にも血がかかった。

 老人の動きが弱々しくなった。男は右足で老人の顔面を踏み付け、手斧をこじって引き抜いた。

 老人の死体を置いて、男は駅へ向かって歩き出した。

 道は学生やサラリーマンが多く見かけられた。その中に混じって男は歩いた。

 右手に血塗れの手斧を、左手に同じく血塗れの包丁を持った男に、人々の何割かが目を留めた。しかし男が平然と落ち着いているので、彼らは首を傾げこそすれ騒ぎ出したりはしなかった。並んで歩いていた高校生達が、男を指差してひそひそと話していた。

 人々がどよめいたのは、男が前を歩く中年のサラリーマンの背に、手斧を打ち下ろした時だった。

 背中に斧が減り込んだサラリーマンは、自分に何が起きたのか分からないように、後ろを振り向こうとした。だが、背中に血が滲み出すにつれ、彼は前のめりに倒れていった。

 男が手斧を引き抜いて、周囲を見回した。人々の大部分は悲鳴を上げて逃げ出した。

 一人の女子高生が、腰を抜かしたらしく尻餅をついて動かずにいた。男は血の滴る凶器を持って彼女に迫った。

 女子高生は、涙目になって助けてと言った。同級生らしい女生徒が口に手を当てて遠くから見守っていた。

 男は躊躇なく、女子高生の胸目掛けて包丁を突き出した。彼女は泣きながら手で払おうとして、右の掌がざっくりと切れ、血が流れ出した。

 男は手斧を振り下ろした。分厚い刃は身を庇おうとした女子高生の左腕に減り込んだ。腕の骨が折れた。

 男は包丁を彼女の胸に突き刺した。返り血を浴びながら、無表情に、何度も何度も突き刺した。

 女子高生の血みどろの死体を置いて、男が立ち上がった時には、もう近くに人はいなかった。

 男は悠然と、駅に向かって歩いた。角を曲がると、そっちに逃げていた人々が男の姿を認めて、また蜘蛛の子を散らすように走り去った。

 男は駅に辿り着いた。人々の多くは逃げていたが、状況が分からずぼんやりと改札口に向かう人もいた。男はその内の一人である若いOLの脳天に、手斧を振り下ろした。

 男は定期券を差し込んで自動改札口を通り抜けた。駅員は何も出来ず受付の奥で震えていた。

 危険ですので皆さん逃げて下さいと構内アナウンスが響いた。男はホームへの階段を下りていった。脱出しようと階段を上りかけた人々が、男の姿を認めて凍り付いた。

 男は平然と下りていく。人々は慌てて引き返し、ホームへ逃げ戻っていった。一人の老婆が足を踏み外して階段を転げ落ちた。助けを求め呻いている老婆の背中に、男は包丁を突き刺した。ホームの人々が悲鳴を上げた。

 返り血で顔とスーツを真っ赤に染め、男はホームを歩いた。人々は我先に別の階段へと走っていく。押されて何人かが倒れる。男はそれらの内、三人に追いついて手斧と包丁で殺した。

 そして、ホームには、人がいなくなった。

 男は乗降口の手前に立った。電光掲示板には次の列車の情報が流れていたが、時間になっても列車は来なかった。

 男は、右手に手斧を、左手に包丁を持ったまま、静かに立ち尽くしていた。

 やがてドタドタと階段を駆け下りる音が聞こえ、数人の警官が駆け込んできた。

 彼らは拳銃を構え、男に銃口を向け、凶器を捨てろと言った。

 男はそれに従った。

 男の顔は、飽くまで穏やかだった。

 男の口から、気怠い溜息が洩れた。

 

 

  三

 

 取調室の小さなテーブルに、男はついていた。

 正面に刑事が一人立ち、男を睨み付けていた。

 部屋の隅では警官が記述の用意をしていた。

「……。何故なんだ」

 呻くように、刑事は言った。

 男は、黙っていた。

 刑事が、言葉を続けた。

「何故、お前は、通り魔なんかやって、罪もない人々を殺したんだ」

 やがて、男は答えた。

「さあ。なんとなくでしょう」

 男の顔には、憎悪も、悲嘆も、後悔も、満足感も、何もなかった。

 男の顔は、殺人を犯す前の顔と、少しも変わりはしなかった。

 刑事の太い眉が、ヒクリと動いた。

「何故お前は、隣の老人を殺したんだ」

 男は、きっぱりと答えた。

「理由なしっ」

 刑事の顔が、苛立ちと怒りに歪んだ。

 刑事は、嗄れた声を絞り出した。

「な、何故、お前は、自分の妻子を殺したんだ。夫婦仲は、良かったそうじゃないか。……何故、あんなふうに、自分の家族を、残酷に、殺すことが出来るんだ」

 男は、気怠い息を吐いた。

 そして男は、穏やかな口調で答えた。

「パミョーン」

 刑事の目が、一杯に見開かれた。

 刑事の顔は、泣きそうになっていた。

 刑事は、顔を男の顔に目一杯近づけると、疲れた声で告げた。

「お前は、狂ってる」

 男は表情を変えなかった。

 男はふと、相手の顔についたゴミでも取るかのように、右手の人差し指を刑事の左目に突き入れた。刑事の眼窩から眼球がはみ出した。

 

 

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