遺跡の見える町で

 

  一

 

 その男の何処に惹かれたのか、ルシア・アリスト自身にも分からなかった。

 特に好きでもない酒を飲みながら、取り巻きのヤンキーが発したワンパターンなジョークに飽き飽きして溜め息をついた時、店の隅にひっそりと立つ彼を見つけたのだ。

 大きな男だった。身長は二メートルを余裕で超えていて、それに合わせて体も太かった。ただし肥満ではなく、オーバーオールで隠せない大胸筋や腕の筋肉は異様に盛り上がっている。テレビに出るレスラーにもこれほどの体格の者はいない。

 そんな迫力のある肉体に比べ、顔の方はなんとも締まらないものだった。ボサボサの髪にまばらな不精髭を生やし、口元はだらしなく緩んでいる。トロンとした眠たげな目は優しく微笑んでいるようにも見えた。

 知的障害者だと、ルシアは一目で悟った。こんな凄い体をしているのにもったいないな、と思う。

 大男の年齢はルシアとそう変わらないようで、二十才前後だろう。何もせずその場に立ち尽くしていた彼に、やがて酒場の店主であるカスポロという親父が何やら話しかけ、中央のステージへ引っ張っていった。いつもは売れない歌手やバンドがBGMを奏でる場所だが、今夜は立てたポールにロープを張り渡して四角いリングを作っていた。

 カスポロに促され、大男はリングの中に入った。ロープを上げてくぐる動作はもっさりして鈍臭かった。

 続いて一人の男が押さえたロープを跳び越えてリングに入る。こちらも若く、金髪の優男だが裸の上半身はなかなか鍛えられていた。ただし、大男の肉体にはまるで及ばない。拳を守るためだろう、指抜きグローブを填めている。

 金髪の男の顔は自信に溢れており、上体を振りながら素早いシャドウをやってみせた。

 どうやら、これから殴り合いが始まるらしい。

 ルシアの見ているものに気づき、ライゼンが言った。

「最近たまにやってんだぜ。希望者がいればな。ストレス解消のサンドバッグショーって奴さ」

 ライゼンは皮肉っぽい笑みを浮かべていた。彼はルシアの取り巻きの一人で、この町の不良達のリーダー格だ。人を何人か殺したことがあるという噂だが、ルシアにとっては単なるチンピラ頭に過ぎなかった。

 ただ、それはアリスト家が代々続く名家であちこちにコネを持ち、父が町長を務めているからで、ルシア自身が力を持っている訳ではない。

「どっちがサンドバッグよ。あのでかい奴に本気で殴られたら首がちぎれるんじゃない」

「まあ、見てなよ」

 ルシアが反論するとライゼンは笑みを深めた。他の仲間達もリングに視線を移す。

 カスポロがゴングを鳴らし、試合が始まった。金髪の男は軽快なフットワークで接近し、大男は緩んだ微笑でそれを迎えた。

 戦いは、呆れるくらいに一方的だった。

 金髪の男が好き放題に殴りまくるのを、大男は棒立ちのまま受けていた。ディフェンスなど知らないようだった。「反撃しろよ」と客の野次が飛ぶと、大男は思い出したように太い腕を伸ばす。しかし、全く力の篭もっていないフラフラしたパンチで、金髪の男は余裕で躱した。

 何だろう、これは。ルシアは胸の奥に生じたモヤモヤした感覚に驚いていた。別に障害者の虐待に憤るような正義感など持ち合わせてはいなかったし、他人を無駄に憐れむ趣味もない。だが、どうも、ただ殴られるばかりの大男を見ていると、むず痒いような嫌な苛立ちを覚えるのだった。

 数分ほどそんな状態が続いただろうか。金髪の男に疲れが見えてきた。汗の滲んだその顔が焦りに歪んでいる。大男は相変わらず微笑んでいる。ルシアは気づいた。あれだけ殴られているのに、全くダメージを受けていないのだ。もしかすると痛みさえ感じていないかも知れない。

「お客さん、もう一息ですぜ」

 カスポロの励ましに、金髪の男は必死の形相で猛ラッシュをかけた。と、大男が自分の頭を抱え、体を折り曲げていく。金髪の男の目に希望の光が差した。「おっ、効いてるぞ」と客の声。

 大男が完全に蹲ってしまったところで、カスポロはゴングを鳴らして終了を告げた。

「な。いつもこんな感じさ」

 ライゼンはルシアを振り向いて、肩を竦めてみせた。

「茶番ね」

 ルシアは言った。

 カスポロの「もう一息」という台詞がきっと合図だったのだ。あの言葉を聞くと蹲ってみせるように躾けられているのだ。

「気分が悪くなった。帰るわ」

 ルシアが立ち上がると、ライゼンはちょっとがっかりしたようだった。

「まだ夜はこれからなのによ。……まあいいさ。送るぜ」

 ライゼン自慢の赤いオープンカーは時速三百キロでぶっ飛ばせる代物らしいが、流石にルシアを乗せてそんな無茶はしない。後部座席に死体を乗せたことがあると取り巻きが話していたのを聞いて以来、この車に微妙な嫌悪感を抱くようになっていた。それでもしばしば乗せてもらっているのだけれど。

「要らない。家から迎えに来させるから」

 ルシアはさっさと酒場を出た。

 屋敷へ向かうリムジンの中で、ルシアはあの大きな男の何が気になったのか考えていた。見事過ぎる肉体に感心したのか。いや、違う。あの体とぼんやりした顔のギャップがおかしかったのか。……違う。でも何かが気になる。いいように殴られていた時のモヤモヤ……胸の疼きは何故だったのか。そんな筈がない、という違和感、怒り……よく分からない。

 ふと思う。誰かに似ていたのだろうか。

 いや。特に思い当たる人物はいない。

 ルシアは首を振り、窓の外に目を向けた。それなりに栄えた父の町。

 街並みの向こうにクラレス山が見える。その中腹でライトアップされているのは小さな白い遺跡だ。

 大したものは何もない、つまらない遺跡だが、ルシアはなんとなく好きだった。

 幼い頃から眺めてきた。このままあの小さな遺跡を眺めながらこの町で年を取って、死ぬのだろう。ルシアはそう思っていた。

 

 

  二

 

 それからもカスポロの酒場でたまにショーを目にすることがあった。力自慢の荒くれ男や、恋人を前にかっこつけてみせたい若者、更には中年のくたびれたサラリーマンまでもが大男を一方的に殴っていた。幾らボコボコにされても大男は平然としていて、カスポロのいつもの合図で蹲る。この下手過ぎる芝居に、殴っている男達は気づかないのだろうか。分かっていても好き放題に殴れるからストレス解消になるのだろうか。ルシアは後で知ったが、『試合』の料金は安かった。

 ある朝、酒場の前を通りかかると、あの大男が道端の掃除をしていた。いつものオーバーオールを着て、箒を動かす仕草はやはり鈍臭くて、落ち葉がまとまる前に風に吹かれて散ってしまい、大男は何度も同じ工程を繰り返していた。

 立ち止まって見ているルシアに気づき、大男はゆっくりと顔を向けた。緩い微笑を浮かべたその顔。鈍い輝きを帯びた優しい瞳。ルシアはまた胸に妙なモヤモヤを感じる。苛立ちと、訳の分からない痛みのような、不安のようなもの。

 近くで見ると、大男の左のこめかみ付近が凹んでいることに気づいた。傷痕、だろうか。殴られて出来たもの、ではなさそうだが、割と深い凹みで……。

 急にルシアはゾクリ、と悪寒を覚えた。恐ろしい、見てはいけないものを見てしまったような感じ。何故かは分からないが、胸の痛みがジクジクと強くなってくる。

 ルシアは黙って大男の横を通り過ぎた。

 大男の名がトーカだというのを、その数日後に知った。覚えのない名前だった。何かが違うような気がした。

 トーカは親に捨てられ孤児院で育ったのを、カスポロが引き取って働かせているのだそうだ。給料はなし。「大食らいの役立たずだからな」とカスポロは言っていた。でも食材の入った大きな箱を軽々と運ぶのは見たことがあった。

 ルシアはカスポロの酒場に行くことが増えていた。あの恐ろしい感じから逃げたくもあったが、同時にこの訳の分からないモヤモヤの正体を掴みたい気持ちも強かった。一方的に殴られる茶番には苛立ちが募ってしまう。しかし、ショーがないとトーカは奥に引っ込んでいるようで、それはそれで損をした気分になるのだった。ルシアは自分から彼の話題を出すことは控えた。自分が気にしていることを、取り巻きには知られたくなかった。ライゼンは一緒に飲む機会が増えたことには喜んでいたが、時折探るような目でルシアを見つめていた。

 あからさまに自分に取り入ろうとしている彼らのことがルシアは嫌いだった。そして、こんな取り巻きにしか相手にされない自分自身のことも。

 そんな日常の繰り返しで二ヶ月が過ぎた頃、アリスト家にカイストの来客があった。

 カイストというのは長い年月をかけて世界を渡り歩く、特別な人達のことだ。何万年も何百万年も生きていて、剣で山を割ったり魔法で星を消したり出来る者もいるとか。科学が進歩した現代にそんな者達が実在するとは驚きだが、ルシアも何人かと会ったことがある。VIPが町を訪れたら町長である父の屋敷に泊めることが多いのだ。カイストの一人が作ってくれたダイスを、ルシアは今も自分の部屋に飾っている。元はただの石ころだったもの。放り投げたそれが地面に落ちるまでの短い時間に、素早く剣で削ってダイスにしてしまったのだ。

 今回やってきたのはそんな派手な技を持つ剣士ではなく、検証士というタイプらしかった。

 そのソツメという名のカイストはまだ十五、六才くらいの少年に見えたが、深みのある瞳と落ち着いた物腰は妙に老成した感じだった。白い布を頭に巻きつけて覆っており、屋敷の中でも取らなかった。

 晩餐にはルシアも同席した。日頃の不良娘ではなく、アリスト家の令嬢として上品に振る舞う。

「検証士というのはどういうお仕事ですの」

 ルシアが尋ねると、ソツメは微笑を崩さず答えた。

「そうですね。一言で表現するならば、真実の探求者です。しかしそれだけでは想像しにくいでしょうね。もっと分かりやすく例えるならば、検証士とは考古学者であり、歴史家であり、殺人現場を調べる鑑識官であり、人の家に勝手に上がり込む近所の詮索好きなおばさんでもあります。大きな交渉事に立ち会い、誰が何を発言したか責任を持って記録する証人になることもありますね。そのために必要な技術を磨き上げてきた者が検証士です」

「はあ……。素敵なお仕事ですのね」

 ルシアは尊敬の眼差しを送ってみせたが、内心ではつまらないことに人生を捧げているなと思っていた。

「それで、この町にはどんなご用事でお越しになったんですの」

「クレイラム遺跡のためです」

 ソツメの答えは意外なものだった。クラレス山の中腹にある、町と同じ名前がついたあの遺跡。土に埋もれかけた白い石柱を、町の何処からでも眺めることが出来るが、ただそれだけの代物だ。

 町の住民なら皆、学童時代に遠足でクラレス山に登り、遺跡の周辺で弁当を食べたことがある筈だ。ロープウェイがあるので山頂から町を一望するのもデートコースの定番だったりする。そして、遺跡自体に面白味がないことも皆知っている。

 千年以上前のものらしいが詳しいことは分かっていない。遺跡の本体が地中にあって、実はクラレス山と同じくらいに大きいらしいことも、まあ聞いたことはあった。十年に一度くらい考古学者連中が発掘挑戦に来るが、最新の機器を使っても掘り進められない、中に入れないとのことで毎回悪態をついて帰っていく。なので相変わらず、観光客も呼び込めない、つまらない遺跡のままなのだった。

「確かに、考古学者でいらっしゃるのなら遺跡の発掘は得意分野ですわね。でも、あの遺跡は中には入れないと聞きますけれど。検証士様は特別な手段をお持ちなのですか」

「私なら封印を解けます。今がその時期のようですから」

 ソツメはあっさり断言した。父の表情を見ると、既に話はすんでいるようだ。

「封印……ですか」

「はい。カイストが施したものですから、一般人には開けられません。幸いにしてこの千六百十七年間、他のカイストに荒らされることもなかったようです」

「クレイラム遺跡って、そんな凄い遺跡だったのですね」

 カイストの封印した遺跡なんて。ルシアはちょっとしたワクワク感と、そして身近だったものが遠くへ行ってしまうような妙に残念な気持ちを覚えた。

「遺跡の中には何か、特別なものでもあるんですの。宝物とか……」

「そうですね。明日の朝、遺跡に入る予定ですが、ルシアさんも一緒に行きませんか」

 これはまた意外な誘いだった。千数百年間誰も入らなかった遺跡に、専門家でもないルシアを連れていってくれるという。屋敷に泊めた礼のつもりだろうか。まさか罠に掛ける、とかそういう類でもないだろうし。

 父も驚いたようで、ちょっと心配そうに尋ねた。

「ソツメ様、よろしいのですか。娘が大切な調査のお邪魔になりませんか。国の調査隊が入るのはソツメ様が許可なさってからという取り決めでしたし。その……娘に危険の及ぶ可能性、などは……」

「二十九億才のBクラス検証士、ソツメの名と命に懸けて、私がクレイラム遺跡内におけるルシアさんの安全を保証します。これで安心出来ますか」

 信じ難い年齢を持ち出され、名に懸けて保証されてしまったので、父も反論出来なくなった。カイストの名が途轍もなく重いものであることは、ルシアも知っていた。下手に貶めると国一つ滅ぶくらいに。

 それでなし崩しに、ルシアは遺跡についていくことが決まってしまった。

 ソツメは最初から最後まで微笑を浮かべたまま、表情を変えなかった。まるで仮面のようだとルシアは思った。

 

 

  三

 

 翌朝、特別な装備は不要とのことでルシアは普段着のまま出発した。高級ブランド品ばかりの衣類から、比較的肌の露出が少なく丈夫そうなものを選ぶ。靴もハイヒールからトレッキングシューズに替えた。父が昨夜のうちに慌てて買ってこさせたものだ。

 遺跡の手前まで道路が通っているためルシアはソツメと共に車で送ってもらう。父も入り口までは立ち会うと言って同乗していた。父のそんな過保護なところがルシアは嫌いだったが、親不孝な自分に若干の後ろめたさも感じていた。

 ソツメは特に荷物を持っていないように見えた。封印を解いたり調査したりするのに道具は必要ないのだろうか。それを尋ねてみると不要とのことだが、変換機器は携帯しているのだという。手に入れた情報を他人が体感可能な幾つかのフォーマットに変換する装置で、検証士なら皆持っているらしい。文章とかビデオ映像とかではないのか。ルシアにはよく分からなかった。

 遺跡内部への入り口とされているものは本来の地面から半階分ほど下で、そこへ斜めに下りるトンネルは長い年月で踏み固められていた。据えつけのライトで淡く照らされた行き止まりは、中央に縦溝の走る白い石壁だ。取っ手も装飾もなく、文字が書かれている訳でもないが、これが入り口の扉らしい。城や神殿などではなく、古代の王や豪族の墓ではないかと言われていた。

「では、開けますね」

 ソツメはあっさり宣言し、左右の掌で縦溝を挟むようにして石壁に触れた。

 数秒後、ゴグン、と、重い音がした。ソツメが手を離すと石同士の擦れる粗い響きが続き、ゆっくりと、扉が左右に滑って消えていく。ライトの届かぬ奥の闇が、広がっていく。見守っていた父と使用人が嘆息した。

 その時、ルシアは奇妙な感覚に襲われたのだ。

 期待に満ちたワクワクする感じと、嫌な胸の疼き。それと、めまいを伴った強烈なデジャヴ。

 これを、この場面を、以前見たような気がする。そんな筈はないのに。でも、扉の開く音に聞き覚えがあるような。いや違う。あの時一緒にいたのは……。ルシアの頭にふと何か浮かびかけ、すぐに消えてしまう。

 遠足の時を含め、入り口の扉はこれまで何度か見たことがあったが、こんな感覚は初めてだった。扉が開いたせいだ。何だろう、これは。気持ち悪い。

 ルシアの動揺を、傍らの父は気づいただろうか。だが父の表情を確かめる前に、ソツメが振り向いてルシアに告げた。

「では、ルシアさん。行きましょうか。明かりを点けますね」

 ソツメが手を突っ込むと、闇が少しずつ薄らいでいき、内部の様子が見えた。白い壁と床。小さな石片が転がっている。通路は真っ直ぐに伸びている。

 見えない力に引っ張られるみたいに、ルシアの足が進んでいる。ゾワゾワしたふくらはぎの感触。

「ルシア、気をつけてな」

 父の声が遠くに聞こえた。ソツメは変わらぬ微笑を湛えて父へ軽く一礼し、先導して遺跡に入った。

 内部の空気は少しひんやりとしていたが、気になるほどではなかった。変な匂いもしない。静寂。ルシアの靴音だけが深さも知れぬ空間に響く。ソツメは全く音を立てなかった。

 通路の壁には一定間隔で光源が取りつけられていた。球形のガラス容器の中で小さな炎が揺れているのだが、完全に密封されていて酸素も燃料もないだろうに、どうやって燃えているのか不思議だった。

 この炎。これもデジャヴだ。見た覚えが、ある。通路を二人で進んでいた。ソツメとではなかった。頭に布を巻いた少年ではなく、もっと逞しい男で……。

 ソツメは黙って分かれ道を右に曲がり、階段を下りていく。道筋が分かっているみたいだ。でもこの道は、何処に向かっているというのだろう。

 大きな鉄板が転がっていた。片端が刃になっている。侵入者を殺すためのトラップだったのだろう。鉄板は派手に凹み、変形している。トラップは侵入者に片づけられた。そうだ。拳で殴ったのだ。

 ソツメが立ち止まって振り返り、ルシアの顔を見る。深みのある瞳。今、心を覗かれたような気がした。

 息苦しさを覚えながらルシアは尋ねた。

「ここは……何の遺跡だったんですか」

「二万六千年前にこの地を治めていた、イグナス六世という王の墳墓です。彼は生前のうちに自分の墓を建造させ、決して盗掘されることのないようカイストの錬金術士に依頼しました。錬金術士は力を尽くして内部に罠を仕掛け、定められた手順を踏まなければ入ることも出来ない迷宮を造り上げました」

 正規の手順。そうだ。書物が残っていたのだ。宝。

 宝がある筈だった。だから私は……。ルシアは自分の思考に驚いたが、強くなる一方のデジャヴに意識が引っ張られていく。

 ソツメが先へ進んでいく。曲がりくねった通路を進んでいく。覚えがある。ルシアは以前、この通路を歩いたことがある。でも違う男だった。大きな背中の男で……。

 今見ている遺跡内部の光景に、別の光景が重なり始めた。

 

 

 大きな背中だった。大男という訳ではない。自分より少し高いくらいの背丈。でも腕も首も太くて、それどころか体の隅々、足の小指の先まで鍛え上げたような肉体だった。

 そんな筋肉で盛り上がった背中は、実際よりも更に大きく見えた。膨大な年月をかけて積み上げ、背負ってきたものの重みがそう感じさせるのだろうか。

 ディンゴ。

「そろそろゴールのようだぜ、エリカ」

 振り向いて彼は言った。不精髭を生やした頬。唇の左端が僅かに上がって淡い笑みを浮かべている。面白がっているようにキラキラと光る瞳。彼はハンサムではないが、魅力的な顔をしていた。

 エリカは、彼を愛していた。

 彼と知り合ってからまだ十七日しか経っていなかった。きっかけは、財宝が隠された迷宮の場所とその侵入法が記された地図。エリカに売った情報屋は、既に同じ写しを百人以上に売りさばいていた。競争相手にカイストを雇った者がいると聞き、エリカも慌ててカイストの集まる酒場に向かった。声をかけた相手は、中央のテーブルで酒を飲んでいた山賊みたいな恰好の男だった。

 何故彼を選んだのかというと、カイストにしては気さくな雰囲気があって、話しかけやすそうだったから。ただ、それだけの理由だった。

「あなた、カイストでしょ。強いの」

「ああ、割と強いな」

 彼はさらりと答えた。それが、最初に交わした言葉だった。

 やり取りを聞いた周囲のカイスト達が大爆笑した意味を、エリカは翌日に思い知ることとなった。

 彼は、「割と強い」どころではなかったのだ。

 帝国軍百万と共和国軍四十万の追跡をぶっちぎり、帝国の戦船を乗っ取って乗組員を全員放り出すと、たった一人で操船して荒れ狂う海を渡りきった。連合を組んだ競争相手が奇襲をかけてきて、五十名を超えるカイストが駆使する超能力で大地が鳴動し天がねじれた。彼は足手まといのエリカを守りながら、そのことごとくを撃退した。

 最後に一騎打ちを申し込んだカイストがいた。彼は笑顔で応じ、皆の見守る中、一瞬で勝負はついた。胴を真っ二つにされて倒れた男も、満足げな顔をしていた。それで競争相手の殆どが撤退した。

 エリカはただ、圧倒されるばかりだった。

 ディンゴ。

 彼の大きさ。その強さ、精神力、敵にも尊敬される魅力。

 彼は基本的にカイストでない一般人を殺さなかった。手足を叩き折ったり気絶させたりはしたけれど。「別に戦争でもねえし、相手は悪人って訳でもねえ。一般人の人生は一度きりだからな。インチキしてる者としちゃあ、遠慮しちまうのさ」と語っていた。

 エリカが知る限り彼が殺した一般人は、競争相手の一人・オルレックという悪徳商人だけだ。いきなりエリカに銃を突きつけたオルレックを、彼は刑を宣告する裁判官のようにビシリと指差して、「やめとけ」と言った。いつもよりむしろ穏やかな、低い声だった。

 オルレックが発砲したのはもしかしたら、恐怖のために引き金を握り込んでしまったのかも知れない。銃声が響き、穴が開いたのはオルレック自身の額だった。飛んでいる弾丸の軌道を自由自在に曲げる超能力を、彼は持っていた。銃口からエリカのこめかみまで二十センチほどの距離もなかったのに。

 彼は本当にうまそうに飯を食い、酒を飲んだ。夜になると本当に愛おしげにエリカを抱いた。何処かの国の姫君に触れるみたいに、あるいは宝物に触れるみたいに、優しく、丁寧に。エリカの依頼に対し、彼が求めた報酬だった。そして、エリカにとってそれは、夢のような時間だった。

 彼はしばしば馬鹿な冗談を言って笑った。カイストは長い間生きてきたので世俗的なことには興味がないのだと思っていた。エリカがその疑問を口にすると、「俺はな、欲張りなんだ」と彼は言った。

「カイストは何かを極めるために、他の色んなことを捨てていくもんらしい。俺はそういうのが嫌いでな。大事なもんを全部抱えたまま走ることにした。割とやっていけるし、楽しいぜ」

 ディンゴ。

 彼の輝きに比べ、自分はなんてちっぽけなのだろう。貧民街育ちの、ただの女盗賊。生きるために色んなものを諦めてきたし、汚いこともやった。高い志もなく、他人を気遣う心の余裕も持たない、何処にでもいる、地を這う一般人。

 どうしてあっさり依頼を引き受けたのか、後になって尋ねてみたら、「美人の頼みだからな」と悪戯っぽい笑みを浮かべて彼は答えた。その時の彼の笑顔はエリカの荒んだ心の中で、温かい灯火となって今も燃えている。

 ゴールが近いと言われ、エリカは胸に痛みを覚える。辿り着きたくなかった。地図がデタラメで、迷宮など見つからなければ良かった。そうしたら、彼とずっと一緒にいられたのに。

 左右の壁から何かが飛び出してきた。彼は瞬時に剣を振って対応し、切り払われた数十本の槍が辺りに散らばる。切断された槍の穂先がエリカに当たらないように計算していることも分かっていた。

 石の扉。これまでのものとは違い、表面に上品な模様と絵が彫り込まれている。王冠らしきものをかぶった男の絵。

 ああ。本当に、辿り着いてしまったのか。

 彼は無造作に片手を当て、押し開けた。開くことを想定していない造りだったらしく、石がこすれ、削り合う異様な音が鳴った。

 闇。数秒して奥に光点が生じ、王の玄室を照らしていく。

「王は暗くして寝てたかったんだろうが、墓を建てた奴は客を迎える用意もしてたみたいだな」

 彼は言った。

 約二十メートル四方の玄室。中央にある棺らしきものを囲むようにして、無数の金貨や宝石が埋め尽くしていた。更にはきらびやかな装飾品、美術品の数々。二万年以上も前のものなのに、その輝きは失われていない。

 どれほどの価値になるのか。一生贅沢して暮らせる……いや、それどころか都市の一つや二つ買い取れるのではないか。あるいは、小さな国さえも……。だが高揚感はほんの一瞬で、エリカはすぐに暗澹たる思いに支配されていく。

 これで終わりだ。

 もう、彼とはお別れになる。財宝を運び出して、売り払うまでは手伝ってくれるだろう。でもそれで、契約終了だ。

 嫌だ。

 財宝など要らない。もう欲しくなくなってしまった。それよりも欲しいものが出来てしまった。

 ディンゴ。

 財宝は要らない。あなたが欲しい。ずっと一緒にいて。

 しかしエリカは、自分が彼に釣り合わないことを知っていた。絶世の美女でもない。洗練された淑女でもなく清らかな聖女でもない。カイストでもない。彼の輝きに値しない、みっともなく地を這う女盗賊。

 それでもエリカが頼めば、涙を流して想いをぶつければ、多分、彼は受け入れてくれるだろう。唇の左端を少し上げたいつもの笑みを浮かべながら、「ああ、いいぜ」と即答するだろう。きっと。

 エリカは言えなかった。言えばきっと、幸せになれるのに。もしも拒絶されてしまったらという不安のせいか。それとも、何処にあるか分からないちっぽけなプライドか。……いや。こんな無価値な自分が泣き落としで彼を操り、足を引っ張ってしまうことへの罪悪感ではないか。

 無価値な女が、天上の太陽に汚い手を伸ばそうとするとは。

 何度も声に出そうとして、そのたびにエリカの口は固まり、手足が痺れ、息が詰まってしまう。

 ああ、このまま、本当に、終わってしまうのか。

 行かないで。行かないで欲しい。ずっと、私と……。

「もう罠はなさそうだな。どうする、エリカ。棺も開けとくか」

 彼が尋ねた。

「そうね。お願い」

 エリカは自分の声が震えていないか気になった。気づかれたろうか。いや、彼は頷いて棺の蓋に触れ、両手で丁寧にずらしていく。

 玄室に満ちた財宝の中に、長柄の斧を見つけた。きらびやかな他の品と違って装飾のない質素な斧だったが、妙な存在感があった。エリカは斧を手に取った。予想していたよりも軽かった。

 彼はまだ、エリカに大きな背中を向けていた。

 ディンゴ。

「ディンゴ」

 愛してる。

「ん……」

 振り向きかけた彼の頭に、エリカは両手で握った斧を、渾身の力で振り下ろした。

 信じられなかった。本当に信じられなかった。

 まさか斧が本当に、彼の頭にめり込むなんて。

 私は、なんてことを、してしまったのだろう。

 彼は、力なく、崩れ落ちていく。

 その顔。額に血が流れ落ちる、その顔は、驚いてはいなかったし、怒っているようにも見えなかった。

 彼の口元は、唇の左端を少し吊り上げた、いつもの笑みを浮かべていた。

 

 

 玄室にいた。ルシアは玄室にいた。きらめく金銀財宝の山。ついさっきまで見えていた光景と同じだった。

 中央に蓋が開いた棺。中身は知らない。そんなものはどうでもいい。棺のそばに転がるものに、ルシアの目は吸い寄せられていた。

 パリパリに乾燥したミイラだった。元は毛皮だったらしきベストの残骸と、腰に下げた剣の鞘に覚えがあった。短剣よりちょっと長い程度の曲刀。

 ミイラの頭に、長柄の斧が突き刺さっていた。

 ゾワ、ゾワ、と、震えがやってきた。足の裏が痺れ、震えと一緒に上がってくる。ガク、ガク、ガク、とルシアの体は勝手に激しく震えていた。

 ディンゴ。ディンゴの死体だ。

 それと、もう一つのミイラ。ディンゴの死体に寄り添うように横たわっている。女のミイラ。手にナイフを握っている。

 女ミイラの喉が横に、裂けている。分かっている。自分で、自分のナイフでやったのだから。

 ルシアは、愛する人を殺した後で自殺したのだった。

 いや、それはエリカだ。自分はルシアだ。女盗賊ではなく、アリスト家の一人娘。見たのはただの幻……でも現実に二人のミイラが転がっている。

 重い。体が震える。これは、罪の重みなのか。心臓がバクバク鳴っている。ここに来るべきじゃなかった。いや、でも、知るべきだったのではないか。そう。知らねばならなかったのだ。

 傍らに立つ人影に気づいた。頭に布を巻いた少年。カイストのソツメ。

「あ……あなたがやったの。あの、幻を……」

 ルシアはそんなことを口走っていた。でも分かっていた。あれは幻ではなく現実の出来事だったと。あれは……前世、なのか。生まれ変わり。転生。そんなことがあるのか。いや、でもディンゴは言っていた気がする。人は皆転生するもので、そのうち記憶と能力を保持しているのがカイストなのだと。

 変わらぬ微笑を湛え、ソツメは答えた。

「私は検証士です。あなたの思考や感覚を歪めるような干渉はしていません。私が行ったのは千六百十七年前に現場保存のため遺跡を封印し、本日その封印を解いたことくらいです」

 封印。この男は遺跡を封印したと言った。そうだ、元々は封印じゃなかった。カラクリ仕掛け。決まった手順で床を踏めば良かったのだ。封印したのはこの男だったのか。千六百年前に。そして今日、自分で解いたのか。何のために。

「覚えていないようですが、あなたとは当時会っています。あなたがディンゴを勧誘した酒場で、近くのテーブルに私もいたのですよ」

 ディンゴの知り合い。関係者だったのか。だとすると、ルシアを遺跡に連れてきたのは……。

「復讐ですか。ディンゴを殺した私に、罰を与えるために……」

「違います」

 ソツメは首を振った。

「お二人の死を確認して、私はオアシス会に連絡を取りました。ディンゴが所属するカイストの組織です。いつものように『放置で良い』と言われるかと思っていたのですが、幹部の一人が面白いことを主張したのです。『奇跡が起きるのか見てみたい』と」

「奇跡……」

 ルシアには意味が分からなかった。その幹部はどういう意図で、どんな奇跡を望んだというのか。

「そのため私は本来の検証士としてのスタンスからは少々外れることになりますが、小道具としてこの墳墓をそのまま保存することになったのです。奇跡の起きるまで」

 ということは、今封印を解いたというのは、奇跡は起こった、ということになるのか。

「奇跡というのは。私が……」

 ルシアがこの場に来ることは予定通りだったのか。彼らがそれを望み、お膳立てをしていたのか。

「望んでいたのはあなたですよ」

 ルシアの心を読んだようにソツメは告げた。

「覚えていませんか。あなたは自らの喉を切り裂く前に願った筈です。もし許されるのなら、来世でまた巡り会いたい、と。思い出しましたか。思い出しましたよね。私達は干渉しませんでした。私も、私の知る限りオアシス会の面々も意図的な状況操作は行っていません。それなのに高々千数百年で達成してしまうとは、まさしく奇跡ではありませんか。おめでとうございます。あなたは、勝ち取ったのですよ」

 どういう意味だろうか。ルシアには違和感があった。ソツメは皮肉でなくルシアを祝福しているようだ。奇跡は起きた、ルシアが勝ち取ったのだと。ルシアが望んだことで、それは死ぬ間際にエリカが望んだことで、それは……。

 突然、閃いたものがあった。大きな男。トーカ。彼にずっと感じていた不思議なモヤモヤ。

 そうか。

 彼がディンゴだった。

 トーカの緩んだ微笑はディンゴの不敵な笑みとは違っていたし、瞳の鈍い光も、ディンゴの面白がっているような輝きとは違っていた。でも、今なら分かる。面影は残っていた。

 彼は優しかった。

 心がざわめく。急に叫びながら駆け出したい衝動に襲われる。早く会わなければ。会って確かめなければ。

 そんなルシアを制するようにソツメが片手を上げた。人差し指を伸ばし、向けたその先はミイラの頭にめり込む斧だった。

「ところで、この斧は『神工』と呼ばれる鍛冶士レオバルドーの作です。分かりやすく表現するなら魔法の武器、のようなものですね。狙った箇所へ滑るように打ち込まれ、相手は防御することも躱すことも出来ません。必殺の武器です」

「……だから、ディンゴはよけられなかったの」

「いえ、余裕で避けられた筈ですよ。彼はゴールデン・マークと言われる、カイストの戦士の中でもトップクラスの一人ですから。ならば何故避けなかったのかということになりますが……わざわざ説明するほど私は野暮ではありません」

 ソツメは表情を変えずに続ける。

「ただ、魔法の武器を避けなかった結果、ディンゴは頭部に相応のダメージを負うことになりました。治るまで数千年か数万年か、転生しても引き摺るダメージです」

 そうか。頭のダメージが。

 そういうことだったのか。

「ひとまず私の説明は以上です。後はどうぞ、ご自由に」

「会いに……会いに、行かないと」

 ルシアの口からそんな言葉が洩れていた。喋ることが、出来た。だから今度こそは、うまく、言える筈だ。

 ルシアは急いで遺跡を出た。二つの亡骸を置いて。ソツメが出口まで案内してくれた。調査の仕事も残っていたろうに。いや、彼の目的は遺跡ではなくルシアの方だった。それともう一人。

「カスポロのバーまで送って」

 いきなり頼むと、待っていた父は驚いていた。その時のルシアはひょっとすると、凄い顔をしていたのかも知れない。

 リムジンのリアシートで、ルシアは震えていた。ずっと抱えていた得体の知れない違和感が溶けた思いだったが、それはもしかすると、ルシアが生まれた頃から持っていたものかも知れない。同時に、自分の犯した罪を直視したことによって胸の暗い疼きは明確な痛みとなっていた。

 しかし、それらを押しのけて、心の奥底から湧き上がってくるものがあった。次第に大きく、大きくなって、ルシアの心を炙り尽くしていく。

 それは、喜び、だった。

 酒場に到着すると、まだ開店前でトーカが道を掃除していた。手際の悪い、いつ終わるか分からない作業に彼は黙々と従事していた。あのディンゴが、自分の素性も分からなくなって、こんな姿に。ルシアはせつなくなる。ああ、それは、ルシアのせいだったのだ。

「ディンゴ。あ、いや、トーカ」

 呼びかけられて彼は手を止め、ぼんやりとした顔をルシアに向けた。

 確認を。確認しなければ。

「トーカ。しゃがんで。頭を見せて」

 頼んでも、理解出来ないのか彼は首をかしげるだけだ。彼の頭はルシアより遥か上だった。左のこめかみにある凹み。それは髪の生え際に続いている。

「ええっと……そうだ。もう一息。もう一息だから」

 カスポロの親父が使っていた、サンドバッグショーのキーワード。それを聞くと彼はゆっくりと頭を抱え、その場にしゃがみ込んだ。

 彼の大きな手を優しく払いのけ、ボサボサの髪を掻き分ける。左こめかみの凹んだ傷痕が……。ルシアの手が震え、止まる。

 傷痕は頭の天辺まで続いていた。そこだけ髪が生えていない、太く、深い溝。指の第二関節まで入りそうな深さだった。ルシアの前世の罪の証。彼が彼である証。

 ディンゴ。

 自然に涙が滲んできた。この十年くらい、泣いた覚えはないのに。胸が熱くなる。胸が痛む。苦しくなる。愛おしさでいっぱいになる。申し訳なさで心が切り刻まれる。喜びで気が狂いそうになる。ルシアの中で様々な感情が混ぜこぜになり、訳が分からなくなり、しかし、なんとかその言葉を発することは出来た。

「ごめんなさい。愛してる。ごめんなさい」

 ルシアは彼を抱き締めて泣いた。大声で泣き続けたので、カスポロの親父が飛んできて、「うちの馬鹿が何かしでかしたんですかい」と尋ねた。

 今はトーカと呼ばれている男は、ちょっと困ったような表情になって、その大きな手でルシアの頭を撫でた。ルシアがどうして泣いているかも分からぬまま、慰めようと思ったのだろう。ルシアはそれでまた泣いてしまった。

 

 

  四

 

 結婚式は内輪だけの少人数でひっそりと行われた。

 ルシアが事情を説明すると、父は暫く黙って考え込んだ後、「それで、お前が幸せなら」と頷いてくれた。ルシアが幼い頃に母は亡くなり、残された一人娘として随分甘やかされてきたが、この時ばかりは心から感謝した。彼がカイストであることや前世の因縁を、父がどのように捉えたのかは分からない。少なくとも、荒唐無稽だと否定したり、逆にカイストのコネを利用したがったりはしなかった。

 彼の名はトーカ・アリストになった。本来のディンゴの名に改名させるかミドルネームに入れることも考えたが、ソツメとも相談して結局そのままとした。記憶も判断力も弱っている今のような時期にディンゴの存在を表沙汰にするのは、あまり良くないらしい。ディンゴ本人は気にしないだろうが、弱っている相手を狙うようなカイストもいるらしいのだ。ただ、ルシアは人目のない時には彼をディンゴと呼んでいた。

 式の前に彼の生みの親についても調べてもらったが見つからなかった。匿名で捨てられたらしいので相手方も見つけて欲しくないだろうし、わざわざ検証士のソツメに調査を依頼したりはしない。ルシアにはどうでも良いことだ。

 結婚するための最大の問題は、本人の承諾が得られるかどうかだった。しかしこれはルシアが何度も問いかけた末、彼がなんとなく頷いたことで解決した。ルシアは新たに強い後ろめたさを感じ、それに倍する喜びを覚えていた。

 式にはソツメも静かに参列していたが、もう一人、ディンゴ側で参列した者がいた。シド・カイレスと名乗ったその男は、ディンゴの古い友人ということだった。

「たまたま近くにいて暇だったからな。それだけだ」

 ルシアは最初、男が怒っているのかと思った。キラキラ光る銀色の髪で、モデルでもそういない綺麗な顔立ちだったが、同時に目つきは剃刀のように鋭く、冷たかったからだ。

「私のこと……恨んでますよね」

 ルシアが言うと、シドは鋭い目つきのままニヒルに口元を歪めて笑みを見せた。

「恨んではいない。カイストに殺し合いは日常茶飯事で、誰に殺されようが自己責任だからな。特に一般人相手にカイストが恨み言など、恥ずかし過ぎて墜滅するレベルだ。……それに、これはディンゴの趣味だ。つき合ってやるがいい」

 知らない単語もあり、ルシアにとっては分かったようなよく分からないような感じだったが、ちょっと安心出来た気がした。

「もしかして、『奇跡を見たい』と言って下さったのはあなたですか」

 シドはそれには直接答えず、別の話を始めた。

「長く生きていると、奇跡のようなものを結果的に目にする機会はある。だが、奇跡は望んで起こせるものでないから奇跡と呼ぶ。『来世で一緒になろう』などと言って心中する奴らは無数にいても、実際にそれが叶うことは殆どない。ある検証士がそんな一般人を対象に一万年間の追跡調査をしたら、転生後に巡り合って結ばれる確率は十億分の一未満だったらしい。カイスト同士なら簡単なんだがな」

 シドはルシアでなく遠い何処かへと視線を向け、軽い溜め息のようなものを吐いた。

「俺の知り合いで、婚約者だった一般人の女を五十二億年も探し続けている奴がいる。相手はもう記憶など、とっくに風化している筈なのにな。だから、千六百年かそこらで会えたのなら、なかなかのものだろうさ」

「……。ありがとうございます」

 ルシアは礼を言った。シドは、ディンゴに対しては軽く手を振って挨拶しただけだった。

 式は無事に終えることが出来た。段取りは簡略化され、今のディンゴにも分かるように何処に立って誰に礼をするのか単純な指示ですむようにした。彼は頷くだけで、最後まで言葉を発することはなかった。

 遺跡の財宝については、エリカの前世を持ちディンゴと結婚しているルシアが所有権を主張することは可能だとソツメは言ったが、辞退した。ソツメも特に財宝自体に興味はないようで、政府の調査隊に最小限の申し送りをして去った。ディンゴを殺した魔法の斧だけはソツメに引き取ってもらったが。

 ルシアは遊び歩く日々に別れを告げ、父のコネで小さな会社の受付嬢として働くことになった。自分の力でディンゴを養いたかったからだ。横柄な客相手に辛いこともあったが、この辛さがディンゴを支えていると思うと嬉しかった。仕事が終わって屋敷に帰ると、ディンゴは鈍い微笑を浮かべてルシアを迎える。

 ディンゴはルシアがいない平日の昼間、ぼんやりと庭を散策するのが好きなようだった。飼い猫や番犬にじゃれつかれたり、頭や肩にいつの間にか小鳥が乗っていたり、屋敷の使用人からの評価は「人畜無害な旦那様」であるようだった。それはそれで、悪くない。

 夜の営みもルシアがリードすれば問題なかった。ディンゴはやはり喋らない。「抱き締めて」と伝えると、優しく抱き締めてくれる。「愛してる」と伝えると、相変わらずぼんやりした顔で頷いてくれるのだが、言葉の意味を理解しているのかは分からない。ただ、ディンゴの目は穏やかで優しくて、彼の体は温かかった。

 ルシアは、幸せだった。

 あのディンゴが、自分の腕の中にいる。

 あのディンゴを、自分が支えている。かつてただの盗賊であった自分が、生きていくために必死で地べたを這っていた自分が。この偉大な男の生活を自分が支えているのだ。

 それは、ゾクゾクするほど恐ろしい愉悦だった。

 だが、ディンゴをそんな状態に突き落としたのも自分であることに思い至ると、今度は恐ろしい痛みと震えがやってくる。「ごめんなさい」と繰り返し泣いているルシアの頭を、ディンゴは大きな手で優しく撫でるのだった。

 自分が歪んでいる、邪悪であるという自覚はあったがどうにもならなかった。ルシアは幸せで、苦しくて、喜びに思わずニヤケ、後ろめたさに焼かれ、ディンゴの優しさに浸り、突然罪悪感に叫びそうになり、ディンゴを撫で、撫でられ、混乱し、甘え、自己嫌悪し、とにかく幸せだった。

 

 

  五

 

 雨が降り続いている。リムジンのサイドガラスに叩きつけられた雨粒が流れ落ちていく。その向こうにクラレス山の輪郭が浮かぶ。

 山腹から顔を出した白い石塊群。封印が解かれたので政府が発掘調査を進め、いずれ特定文化遺産に指定するらしい。町としては観光の目玉にする予定で、父はそのための根回しをやっているようだった。王の棺は展示されるのだろう。傍らに転がる二つのミイラはどうなったのだろうか。たまに考えるが、ルシアはなるべく気にしないようにしていた。

 物心ついた時には、見上げたらあの遺跡があった。

 自分の人生は、あの遺跡とずっと繋がっていたのだ。ルシアはそんなことを思う。

 左手の感触。大きなディンゴの右手。リムジンの中でもずっと手を握っている。隣の彼の温もりを感じている。

 珍しく遠出をしての帰りだった。

「水族館、楽しかったね」

 ルシアが言うと、ディンゴは柔らかい微笑を浮かべて頷く。

「雨になっちゃったね」

 ルシアが言うと、ディンゴはまた同じ微笑で頷く。分かっていないのだろうなと、ルシアは苦笑する。

「お嬢様」

 運転手が仕切り越しに声をかけてきた。

「どうしたの」

「後ろから妙に煽ってくる車がいます。警察を呼びましょうか。かなり荒っぽい運転で……」

 ルシアが振り返ると、すぐ近くに赤い車が見えた。ぶつかりそうな距離だ。オープンカー。雨のため幌を張っているが、覚えがある。

 ライゼンの車だった。遺跡の件以降、彼らとのつき合いを切っていた。

 ルシアが見ている間にオープンカーは猛加速でリムジンの横を抜けていった。運転しているのはライゼンの筈で、よく見えなかったがその顔は笑っているような気がした。ゾワリ、と、嫌な予感がする。ディンゴの手をつい強く握ってしまう。まだ郊外で、目撃者もいない。

 オープンカーが強引に前に割り込んできた。ぶつかるっ。運転手の慌てた声。衝撃と共にリムジンが揺れ、ルシアは無意識にディンゴにしがみついていた。

 リムジンは道から外れ、ガードレールを破って土手を滑り落ちた。何かに激突することなく止まったのは良かったが、車体が斜めに傾いている。タイヤがぬかるみに嵌まり込んだか、運転手が必死に操作しても動かない。

「警察に連絡を……」

 ルシアが指示した時には、リムジンの外に数人の人影が立っていた。ライゼンと、いつもの取り巻きではないが知った顔もあった。ライゼンの部下の一人で、荒事担当の男だ。屈強な体格で、大きな金属製のハンマーを持っていた。

「お嬢様、ああっ」

 ハンマーが勢い良く叩きつけられ、運転席のサイドガラスが派手な音を立てて砕け散った。運転手が男達に引き摺り出されていく。

「ディンゴッ」

 ルシアが叫んでも、彼はいつものぼんやりした顔で見返すだけだ。襲われたことが分かっていないのだ。

 銃声がした。運転手が崩れ落ちるのが見えた。殺した。あっけなく撃ち殺した。拳銃を持っているのはライゼン。ルシアの見ている前で。ということは彼女も殺す気なのか。何故。

 後部ドアが開けられ、ルシア達も引っ張り出された。冷たい雨が髪も服も濡らしていく。

「どういうつもり。私の父を敵に回すことになるわよ」

 ルシアの糾弾に、ライゼンは低い声で応じた。

「俺はなあ。お前に惚れてたんだぜ。分かってたろ」

 雨の中、ライゼンの目はどす黒い憎悪に光っていた。

「お高く留まってちっとも俺になびきゃあしなかったが、まあ、それだけの価値がある女だと、俺は評価してたんだ。仕方ねえ、いつかは俺の魅力に気づくだろうって、思ってたんだぜ。それがよう……」

 男達がディンゴからルシアを引き剥がした。彼らは鉄パイプや大きな鉈を持っていた。

「ディンゴッ」

 叫んでもディンゴは突っ立ったままだ。鉄パイプで殴られるままキョトンとしている。本来のディンゴなら、こんな屑共一瞬で粉々に出来るのに。

 でも、ディンゴをこんなふうにしたのはルシア自身なのだった。

「なあ。俺よりも、こんな薄ら馬鹿がいいってのか。こんな知恵遅れの役立たずがよう」

 怒りの滲む声音。ルシアはライゼンに向き直る。銃口はまだ下を向いている。でも逃げることは無理だろう。ディンゴを置き去りにも出来ない。

 その時ルシアは、不思議な感覚に囚われていた。

 何処か緊迫感のない、現実味の薄い感じ。ただし、おそらくここで死ぬことになるだろうとは理解していた。

 ルシアは内心で自嘲する。前世ではあれだけ派手な戦いを経験したのに。生まれ変わってディンゴと再会出来て、奇跡と言われたのに。この程度の屑に殺されることになるなんて。

 いや。ここでなすがままに殺されるだけではいけない。ディンゴを助けなければ。

 カイストは見えない鎧をまとっているというのは割と有名な話で、ある程度のレベルになれば刃物も銃弾も通さないということをルシアも知っていた。下手すると刃物の方が折れる、と。

 ただ、彼は酒場で散々に殴られていた。効いている様子はなかったが、鎧がちゃんとしていれば殴った方の拳が砕ける筈ではないのか。カイストの力は意志の力なのだと聞く。ならば今の彼は、力を振るうことが出来ないのだろう。

 自分がディンゴを助けなければ。彼を愛する者として、彼を支える者として力を尽くさねばならない。それがルシアの責任であり、愛の証明でもあるのだ。ディンゴのために死ねると考えると、恐怖よりも喜びの方を強く感じ、一瞬自己嫌悪が混じる。しかし、そもそも、この状況で彼を助けることが出来るだろうか。

 それでもルシアは口を開く。

「私はこれから輪姦されて殺されるんでしょうけど、彼だけは助けてあげてくれない。結局あんたの目当ては私で、彼のことはどうだっていいんでしょ」

 ライゼンはちょっと驚いた様子で口を半開きにした。ルシアがそういう直接的な言葉を使ったことに面食らったらしい。

 だが、ライゼンの口元は次第に陰湿で邪悪な笑みへと変わっていった。

「そうか。そうかよ。そんなに大事か。こんな薄ら馬鹿を、なあ。ふうーん」

 ああ、まずい。ルシアは悟る。こいつは、そういう男だった。

 ライゼンが部下に命じる「そいつを殺せっ」という声と、ルシアの「ディンゴッ」という叫びはほぼ同時だった。彼を取り囲んだ男達が鉈を振り上げる。駆け出そうとするルシアをライゼンが蹴り倒す。痛いが無意味な痛みだった。泥にまみれながらルシアは心の中で叫んでいる。彼を守らなければならなかったのに。少なくとも、彼より先に死ななければいけなかったのに。昔も今もルシアは地を這う無力な一般人で、奇跡なんて都合の良いものを望む権利はなくて、全ては自分の卑劣さ故の自業自得で……。

 雨の音に混じって、ビジャアッ、と、異様な音が聞こえた。ライゼンが後ろを振り返る。

 変わらず突っ立っているディンゴの周囲に肉が散らばっていた。肉の塊。一瞬前までディンゴを殺そうとしていた者達。異常な筋力によって素手で引き裂かれた人間の残骸だった。

 ディンゴの両手が赤く染まっていた。

「な、な……」

 ライゼンが絶句していた。

 ディンゴは首をかしげ、自分の喉の辺りを触っている。「あー、う、なー。げふっ。げふっ、うー」と、少し咳き込みながらおかしな唸り声のようなものを発した。それが、現世で初めて聞いた彼の声だった。

 彼が、こちらに歩いてくる。ゆっくりと、のっそりと。長い髪が、いつもルシアが整えてあげる髪が雨に濡れて顔にかかり、その表情は見えなかった。

「てめえっ、ち、近づくなっ」

 ライゼンが拳銃をディンゴに向けた。

「……やめとけ」

 ディンゴがそう言った。ちょっと舌足らずで、声も掠れ気味だったが、かつて聞いたあの台詞だった。差し上げた血まみれの右手がライゼンを指差す。力の抜けた、洗練されていない動作だったが、かつて見たあの仕草だった。

「ディンゴ」

 万感の思いを込めて、ルシアは改めて彼の名を呼んだ。

 ルシアの言葉が妙な方向に刺激してしまったのだろうか。人質に取るつもりだったのだろうか。それとも、単に混乱しただけなのか。ライゼンは泣きそうに歪めた顔で、急に銃をルシアの方に向け直した。

 発砲したのはもしかしたら、恐怖のために引き金を握り込んでしまったのかも知れない。

 銃声が響き、倒れたのはライゼンだった。その額に穴が開き、血が流れ出してくる。撃った弾丸の軌道を曲げられて、ライゼン自身に返されたのだ。ディンゴは、それが得意だった。

「ディンゴ」

 再び名を呼ぶ。

 ルシアを助けてくれた。記憶が戻ったのか。喋れるようになったのか。それは嬉しいことではあったが、同時に不安も湧き上がってきた。ディンゴの頭がちゃんと働くようになってルシアのやったことを思い出したら。彼は、ルシアを許してくれるのだろうか。きっと許すだろう。多分。でも……。

 髪の間から覗くディンゴの瞳は、キラキラと面白そうに輝いていた。その口元は、唇の左端を少し上げて淡い笑みを浮かべていた。

 そして彼は片目をつぶってウインクした。悪戯っぽく。それがどういう意味なのか、ルシアが尋ねるより早く、彼の瞳にあった意志の光は鈍く沈んでいき、いつもの、ぼんやりとした目つきに戻ってしまった。

 緊急事態に無理をしての復活で、ほんの一時的なものだったのだろうか。

 それとも、ルシアのために、愚鈍な男を演じ続けているのだろうか。

 ルシアには分からないし、尋ねるつもりもなかった。ただ涙が溢れてきて、ルシアはまた彼の名を呼んだ。

「ディンゴ」

 ディンゴはのっそりとルシアの前に立ち、手を取って引き起こしてくれた。

 冷たい雨の中、ディンゴの手は血にまみれていたけれど、とても温かかった。

 ディンゴはいつも優しかった。ルシアはそれを知っていた。

 

 

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