第一章 破滅への旅立ち

 

  一

 

 東の空が赤らみ、摩天楼の隙間から陽の光が差し込んでくる。

 夜明けだ。

 自由の女神を載せた九十九階建てのラウンド・ザ・ワールド・レイルロード・ニュー・ニューヨーク・ステーション・ビルディングが朝日を受けて輝いている。

 そんなビルの壁面にかぶせるようにして、空中投影スクリーンによって始発ホームの様子がリアルタイムで映し出され、ラブ・アンド・ピース広場周辺に集まった人々は徹夜明けのくたびれた顔でそれを眺めている。

 ビル内の三階にあるホームにも人は溢れていた。こちらはただの観光客でなく、開通セレモニーに参加するVIPとその護衛達、厳正な抽選と身元調査と少々のコネによって選ばれた幸運な乗客とその見送り達、そして駅職員と大勢の警官とマスコミ関係者達だ。

 テレビには映らない改札口では今も警戒態勢の下、入場者の身元確認と手荷物検査が行われている。一人一人に手間がかかっているためまだ入場待ちの人々は長い行列となっており、時折後方から不満の声が上がっていた。特に今回は初運行でVIPも多いことから、金属探知機にレントゲン、爆発物や毒物を嗅ぎ当てる警察犬、更には特殊技能を持つ者まで駆り出されていた。

 金髪の女が立っている。年齢は三十代前半で、薄いロングコートを着て黒い手袋を填めていた。サングラスに隠された瞳は恐ろしく鋭い視線を入場待ちの行列に投げ、時折小声で隣の警官に囁いている。

「右の列、前から三十二番目の男。スラブ系、三十代、青い帽子」

「はい、見つけました」

 隣の警官が頷く。

「液体爆弾を事前に飲んでいます。うかつに逮捕しようとすると自爆するので、背後から忍び寄って麻酔薬を打って下さい」

「分かりました。そのように」

 警官が小型ヘッドセットを介して同僚達へ指示を飛ばす。さほど経たぬうちに私服警官数人が行列に歩み寄り、目的の男の首筋に素早く注射器を突き立てた。男は声もなく崩れ落ち、そのまま引きずられていった。あっという間の出来事で、周囲の人々も騒ぐタイミングを失っていた。

 金髪の女の視線は次のターゲットに移る。

「左の列後方、タンクトップの大柄な男。白人、二十代」

「はい」

「強化人間です。素手で人間を引き裂けるほどの身体能力があります。乗客として来ているようですが、元々そういう素性でチケット購入申請したのでないならテロリストか犯罪者ということになります。……待って下さい、仲間がいます。タンクトップの男の七つ後ろ、五十代か六十代の女、おそらくインディオ系、黄土色のジャケットに同じ色の鍔広の帽子」

「はい、見つけました」

「系統までは分かりませんが、魔術師です。……私が対応します。私服警官を強化人間の近くに、他の警官もその周囲に配置して、万が一のことがあれば全力で制圧して下さい」

「……承知しました」

 隣の警官は頷くと細かい指示を飛ばす。

 金髪の女が歩き出した。渋滞している改札を抜けて行列を遡り、タンクトップの大柄な男の横を無造作に通り過ぎる。

 その先に立つ黄土色の帽子の女が金髪の女を見て、ニッ、と笑みを浮かべた。

 瞬間、タンクトップの男が身を翻し、獣じみた瞬発力で金髪の女に飛びかかった。伸ばした両手がミキミキと鳴るのはリミッターを解除して全力モードに入ったか。その手が届く寸前、金髪の女の左手が霞み男の頭が揺れた。

 タンクトップの男はそのまま前のめりに倒れた。平手で頭部を叩かれ脳震盪を起こしたのか。いや、目耳鼻から血を流してピクリとも動かないのは脳に致命的なダメージを受けたようだ。

「ヒヒ、やるねえ」

 帽子の女がしわがれ声で笑った。金髪の女は眉一つ動かさず、同じペースで歩く。警官達がタンクトップの男を引きずって静かに退場していく。

 帽子の女が左手首のブレスレットを撫でた。様々な色の石に穴を開け、紐を通したものだ。その石の一つが鈍い輝きを発すると、薄い靄のようなものが洩れた。

 風が吹き、見えない何かが金髪の女へと飛んだ。黒手袋を填めた手がそれを叩き落とす。床を跳ねる軽い音がして、金髪の女はもう一方の手で何かを払った。見えない気配の襲撃はやまず、金髪の女は無表情に迎撃し続ける。

 行列の人々は何が起きているのか分からず、戸惑い顔で見守るだけだ。

 女同士の静かな戦いから二十メートルほど後方に、奇妙な男女がいる。

 男は長身で、百九十センチを超えているだろう。この真夏の季節に生地の厚い灰色のロングコートを着ているが、汗一つかいてはいない。年齢は三十代半ばであろうか、頬骨が高く口の幅が広く、粗削りな顔の造作をした白人だった。濃い赤色の髪はやや乱雑に膨らんでいる。顔や首筋に幾つか古い傷痕があり、特に鼻筋から左頬を斜めに裂いたような傷は男の人相を悪くしていた。ただし深い緑色の瞳には意志の光が乏しく、列の前で起きている異常事態をただボンヤリと眺めていた。

 そんな男の左手を握っているのは十才くらいの少女だった。艶のあるプラチナブロンドの髪を腰まで伸ばし、スラリとした体型を純白のワンピースで包んでいる。左手に提げた古ぼけたトランクは頑丈そうで重量もありそうだ。本来は大人の男の方が持ってやるべきなのだろうが、お互いに平然としている。少女は整った顔立ちをしていた。鋭さを感じさせる隙のない美貌でありながら嫌味なところもない。口元は淡い微笑を常に湛えながら、男と同じ緑色の瞳は冷たく冴えていた。

「戦っているな」

 男が呟いた。面白がっているふうでも心配しているふうでもなく、淡々とした口調だった。

「そうね」

 少女が応じる。澄んだ声音には、柔らかく包み込むような優しさが含まれていた。男がふと、少女を見下ろす。少女は少しだけ微笑を深め、男を見上げた。

 その間も二人の女の戦いは続いている。帽子の女が再びブレスレットを触り、見えない気配が増えた。金髪の女は両手を目まぐるしく振って何かを払う。両者の攻防が風を生み、ヒュヒュバババと音を鳴らす。

 金髪の女の頬に浅い切り傷が出来た。ゆっくりと血が滲んでくる。彼女は僅かな動揺も示さず、少しずつ距離を詰めていく。帽子の女も余裕の表情のまま、右手をジャケットのポケットに伸ばす。

 男が、少女に尋ねた。

「何かした方がいいか」

 少女は思案するように可愛らしく小首をかしげ、それから答えた。

「そーねえ。悪いのは、帽子のおばさんの方よ。素早く目立たないように、それと、殺さない程度にね」

 なかなか過激なことを喋っているのだが、近くに並ぶ人々は驚く様子もない。

「分かった」

 男が頷いて、少女の手を離した。男の姿が消えた。

 ほんの数秒後、男は再び少女の手を取っていた。

「やってきた」

 男が言い、少女はニッコリと笑みを返した。

 帽子の女が尻餅をつくように倒れるところだった。不敵に輝いていた瞳は虚ろに開いたまま、その首がクニャクニャと頼りなく揺れている。

 男は猛スピードで女の背後から忍び寄ると帽子ごと頭を鷲掴みにし、左右にひねることであっさりと頚髄を破壊したのだった。

 女は尻を床につけるとそのまま後ろにひっくり返った。ポケットから抜けた右手は小さな香水瓶を握っていた。

 その頃には金髪の女も我に返っていた。見えない気配が消え、風もやんでいる。香水瓶の中の青い液体をどう見たか、金髪の女はサングラスの奥で目を細めた。ジェスチャーで手早く指示すると、警官達が駆け寄ってきて倒れた女を回収した。

 自分の右手を見下ろして、男が言った。

「やり過ぎたかも知れん。頭蓋骨が少し割れた」

「それくらいなら大丈夫よ。多分」

 少女が答えた。

 男が顔を上げると、目の前に金髪の女が立っていた。彼女は黒手袋を填めた両手を軽く上げ、いつでも戦える態勢になっている。

「何か用か」

 男が尋ねる。

 女が答えるまで、少しの時間を要した。

「見たことがある顔ね。それに何か、人の意識を逸らすような効果を感じる……」

 そこで漸く、金髪の女は男と手を繋ぐ少女に気づいた。

「あ、あなた……」

 女の顔が強張った。サングラスを外し、肉眼で少女を見極めようとする。色素の薄い青の瞳に浮かぶのは驚愕と戸惑いだった。

「お久しぶり、リズ。さっきのは危なかったわよ。あの女、人が沢山死ぬような術を使おうとしてたわ」

 少女が告げた。

「私の名前を……まさか、いやでも、あれは私がまだティーンの頃で……」

「ねえリズ、私達のことは気にしないでね。悪いことをしに来たんじゃないから」

「……シアーシャ……」

 女がその名を呟くと、少女は微笑を深めてみせた。男に向けたものよりは愛想笑いに近かったが。

「私達、普通に列車の旅を楽しみに来ただけだから。リズ、あなたもお仕事頑張ってね」

 シアーシャに言われ、FBI特別捜査官エリザベス・クランホンは何やら難しい表情になった後、苦笑混じりの溜め息をついた。サングラスを掛け直し、軽く手を振るだけの挨拶を送ると、ホーム側へと戻っていった。見守っていた警官達も離れていく。

「知り合いか」

 男がシアーシャに尋ねた。

「そうよ。二度会っただけのちょっとした知り合い」

 シアーシャは答え、男は「そうか」と言って前に向き直った。

 改札待ちの行列はあまり進んでいなかったが、ホームの方でアナウンスの声が響いていた。ラウンド・ザ・ワールド・レイルロードの開通を祝う式典が始まったようだ。テープカットはアメリカ大統領を始め、路線が経由する各国のリーダーが並ぶ豪華なものだ。しかし、ただでさえホーム内も人が多過ぎるほどで、改札手前の行列からは何も見えなかった。

 盛大な拍手が沸き上がる。行列の人々はイベントに立ち会えず愚痴っていたが、その中で奇妙な独り言を呟く者がいた。

「えっ、リフレインマン……何それ。……あの男。へえ、有名人なんだ」

 二十才を過ぎたばかりと思われる若者だった。チェックのシャツにジーンズ、スニーカーという服装で、リュックサックを背負っている。ボサボサのダークブロンドに、ソバカスの残る顔。大きな丸縁眼鏡の右レンズに、拡張現実を投影可能な情報端末を装着している。ただし端末の電源は入っておらず、レンズにもヒビが入っていた。

「ああ、分かってる。近づかないさ。でもなんで、そんな奴がここに来てるんだ。やっぱりこの列車、ヤバいのか」

 誰かに尋ねるような台詞。しかし携帯情報端末も持たずイヤホンもつけておらず、彼は誰と会話しているのだろうか。

 ホームでの演説が構内放送でも響いている。中年男性の、張りのある自信に満ちた声音だった。

「……世界一周するだけなら列車だけでなく飛行機や船、複数の交通機関を使い分ければ充分だ。なのに限られた国家予算を浪費してこんなものを造るとは何事か。と、そういう意見もあった。今でもそう考えている国民は多いかも知れないな。だが、それでも、それでもだ。人類に必要なものは衣食住と平和だけではない。ロマンもまた、必要なのだ」

「ああ、セイン大統領だな。人気があるみたいだけど、僕はよく知らないんだ。政治には興味がないから。……え、危ない政治家なのか。……なら近づかない方がいいな。えっ。……何だよ、敵か味方か、どっちなんだよ」

 丸縁眼鏡の若者は目だけを斜め上に向け、その場にいない誰かと話し続けている。アメリカ大統領をけなすような言い草に、前の客が眉をひそめて振り返ったが若者は気づいていないようだ。

「あ、ああ、分かった。臨機応変にだな。任せるよ。……えっ、未来人って……宇宙人じゃなかったのか。……両方来るのか。なんか大変だな。……えっ、もっとヤバいのも来るのか。……分かった。大人しくしとくよ」

 若者はそれきり下を向いて黙り込んでしまった。前の客は結局何も言い出せず向き直ることになった。

「……そして最も重要なことは、このプロジェクトのために世界中の国々が足並みを揃え、協力し合えたということだ。人類は前に進める。世界中の皆で手を取り合って新たな世紀を生きていこうではないかっ」

 盛大な拍手が響く。行列の人々も釣られるように拍手する。

 スピーチはアメリカ大統領から、次の駅があるカナダの首相に移る。その次のロシア大統領に気を遣ってか、カナダ首相のスピーチは簡潔なものだった。

 肥満体の気弱そうなカナダ首相が下がり、巨漢のロシア大統領にマイクを手渡すところを一瞥し、エリザベス・クランホンは再び改札待ちの行列をスキャンする。サングラス越しの視線が丸縁眼鏡の若者に暫く留まったが、やがて小さく首を振り、視線はその後方へと流れていった。

 彼女が凍りついたのは、長い行列の最後尾に今更加わった男を認めた時だ。

 男は黒い作務衣に似た和装であった。同じく黒い履き物は足袋のように親指部分が分かれている。膨らんだ袖は中に小物が入れられそうだ。腰の上に巻いた灰色の帯には根付で引っ掛けて幾つも布袋をぶら下げていた。服装通り、日本人なのだろう。荒々しく伸び広がる黒髪を後ろで束ね、皮膚はやや浅黒い。そして、一見して不吉な雰囲気を纏っているのは、衣服の所々に付着する赤黒い染みと、病的に痩せて頬もこけているのに異様な輝きを帯びた瞳のせいだった。

 そして同伴者が二人。一人は何故か屋内で傘を差した陰気な男で、もう一人は妙に肌艶の良い朗らかな表情の男だった。傘の下には小雨のような水滴がしとしとと落ち続けているが、周囲の人は驚く様子もない。陰気な男の姿は半透明で、背景が透けて見えていた。

 クランホンは反射的にコート内側の拳銃に手を伸ばしかけ、寸前で自制した。顔にじわりと滲み出した汗は、エアコンの効きの悪さのせいではなさそうだ。

「どうしました、クランホン捜査官」

 横に立つ警官が怪訝な顔で尋ねた。

「あの男。左の行列の最後尾、着物の痩せた東洋人です。見えますか」

「……はい。汚れた着物の男ですね。あの染みは……まさか、血痕ですか」

「その横に、列から少し離れて二人います」

「二人、ですか」

「傘を差した男が見えますか」

「……いえ。一人、傘を持っていない男が、着物の男に話しかけているだけです」

「そう。やはり……」

「また魔術の類ですか。囲みますか」

 クランホンはすぐに却下する。

「駄目よ。……失礼。不用意に手を出すのは非常に危険です。私が対応します」

「承知しました。お気をつけて」

 クランホンはシアーシャという少女と連れの男の方を見たが、それはほんの僅かな間で、彼女は迷いを振り払うように力強く歩き出した。

 かつてない緊張感に、警官達が固唾を呑んでいる。クランホンは手袋を填めた両手で拳を握り締め、また開くという行為を儀式のように繰り返しながら、行列の最後尾に近づいていく。

 傘を差した半透明の男が捜査官に気づいた。じっとりとした暗い視線がクランホンを撫で上げる。それから肌艶の良い男が顔を向けたが、特に表情を変えることはなかった。

 十メートルほどまで近づいた時、初めて作務衣の男がクランホンを見た。漆黒の瞳は、迂闊に覗いた者を力ずくで引きずり込んでしまいそうな不気味な深みを持っている。その瞳とクランホンの瞳が合い、作務衣の男は黙って左手を上げ、人差し指だけを立ててみせた。

 クランホンは背を向けた。そのまま引き返して改札口を通り、元の場所に立つ。

「……クランホン捜査官」

 横の警官が尋ね、クランホンは見返した。

「どうしましたか」

「あの、着物の男の件はどうなさるのですか。傘を差した男というのも……」

 クランホンはサングラス越しに、探るような視線を警官に返した。

「どういうことです」

「えっ。いえ、クランホン捜査官ご自身が言い出したことで……」

「そうなのですか。着物の男というのはどの男のことです」

「行列の最後尾のあの……あれっ」

 警官が指差そうとしたが、着物の男はいなかった。ただ朗らかな顔をした東洋人が行列から離れ、改札手前で見物する人々の集まりへ向かっていた。

「白昼夢でも見たのですか、と言いたいところですが、そうですね……。幻術か、記憶操作の術でも掛けられたのですかね」

 クランホンはじっと警官を凝視している。

「いやそれは、クランホン捜査官の方が……いえ、何でもありません。おかしなことを言ってお手を煩わせました」

「……。そうですか」

 クランホンは頷いて、行列に向き直った。

 それからは危険人物が見つかることもなく、式典は無事に進行していった。各国首脳のスピーチも終わり、いよいよ列車がホームに滑り込んでくる。その威容に、人々は、息を呑む。

 ラウンド・ザ・ワールド・ドリーム・エクスプレス。

 最新式のリニアモーターシステムで、レールに相当するガイドウェイを含めた開発期間は二十六年。アリゾナの砂漠とロシアの西シベリア平原で実証実験を繰り返したが車両の外観は厳重に秘匿されていたため、一般人の目に触れるのはこれが初めてとなる。軌道のリアクション・プレートから常に十二ミリ浮いているという車体の動きはとてもなめらかで、上品に見えた。

 銀色の車体は従来のリニアモーター車両よりも大きく、幅四メートル、一両の長さが三十メートルほどあった。快適性と安全性に配慮して敢えて大型にしたのだと解説する声が流れていた。先頭車両は客車より長く、風の抵抗を抑えるため先端にかけてヘラのように平たくなっている。車体の側面、窓の下には七色のストライプが水平に走っている。上から赤・白・青・黄・オレンジ・緑・黒で、線路が停車する九つの国……アメリカ・カナダ・ロシア・中国・インド・ドイツ・フランス・イギリス・アイスランド・グリーンランドの、国旗に使われている色だった。それぞれ額の差はあれ莫大な出資を行った国々であるから、つい車両にも自己主張してしまうのは仕方のないところかも知れない。ただ、デザイナーが有能なのだろう、どぎつさはなくシャレた印象を与えていた。

 二十四両編成で、二号車から六号車がVIP用の高級客車、七号車はサービス部の職員の控え室もある食堂車両、八号車は医師の常駐する医務室と共同のシャワールーム、そして九号車からが一般客用の車両となる。列車の長さに応じてホームは八百メートル近い長大な規模となっていた。

 車両側面の扉が静かに開く。鳴りやまぬ拍手に笑顔で応じながら、VIPとその護衛達が列車に乗り込んでいく。それから一般の乗客も。

 VIP専用車両は各国の首脳が確保していたため、それ以外のVIPは若い番号の一般客車へ入った。ローマ教皇や、世界第二位の個人資産を持つ投資家や、巨大多国籍企業CEO、などなど。夢の列車に乗る彼らの瞳は無邪気な子供のように輝いていた。

 後方の車両は改札からやや遠かったため、急ぎ足で向かう乗客もいる。全員が乗り込むまで待つので慌てる必要はないというアナウンスが流れていた。

 長身の男と手を繋いだ少女の奇妙な二人組も列車に乗り込んでいく。少女が扉をくぐる寸前、振り向いてクランホン捜査官を見た。捜査官も見ていたことに気づくと、少女は柔らかな笑みを一瞬だけ浮かべ、車内に消えていった。

「ちょっと思ったんだけどさ。チケットとかあんたにお任せだったけど、ひょっとして相部屋とかじゃないよな。僕が人間嫌いってのはあんたも知ってるだろ。人外だったら僕も我慢するけど。……ああ、なんだ、ちゃんと一人部屋もあるのか。豪華寝台列車っていうからてっきり……ああ、そんなもんなのか」

 ボソボソと独り言を呟きながら、丸縁眼鏡の若者は乗り込んでいった。

 黒い作務衣の男は、いつの間にかホームにいた。彼の乗る車両はかなり後方のようで、独りで静かに歩いていく。足袋に似た履き物は全く足音を立てなかった。

「私のような儚い存在は何の力にもなれませんが、せめてご武運を祈っておきますね」

 力のない、弱々しい声が届き、作務衣の男は振り返る。

 改札口の向こうに見送りの人々が集まっている。その端に傘を差した男と、朗らかな笑顔の男がいた。

「私を解放して下さって、本当に感謝しています。これから本当の本当に大変だと思いますが、頑張って下さいね」

 笑顔の男が嬉しそうにそう言って、作務衣の男に向かって深々と頭を下げた。

 作務衣の男は特に返事をすることなく、ただ、唇の片端を上げて苦笑してみせた。その時に覗いた犬歯は野獣の牙のように長く、鋭かった。

 すぐに向き直ると、黒い作務衣の男は最後尾の二十四号車に乗り込んでいった。

 全ての乗客が列車に乗り終えるまで少々時間がかかり出発がずれ込むことになったが、文句を言う者はいなかった。人々は夢の列車を少しでも長く見ていたかったのだ。

 扉が閉まり、出発の準備が整うと構内アナウンスが流れる。

「お待たせ致しました。八時零分発、ラウンド・ザ・ワールド・ドリーム・エクスプレスが十三分遅れでただ今発車致します」

 見送りの人々もマスコミも警官達も一斉に拍手を送る中、最新式のリニアモータートレインは、世界一周の旅へと滑り出していった。

 銀色に輝く車体が静かにゆっくりと流れ、加速していき、ホームから見えなくなる。それでも人々は暫くの間拍手を続け、名残を惜しんでいた。

 朗らかな顔の男は人込みを抜け出し、大きく伸びをしてから呟いた。

「さあて、早速何処かで首を吊るかなあ」

 雨の降る傘を差した半透明の男が隣を歩きながら言う。

「折角のイベントですから、見届けて逝けばいいじゃないですか。イベントで死ぬかも知れませんし、死ななければその後でゆっくり首を吊ればいいんですよ」

 やがて見送りの人々もマスコミも去り始め、ホームが閑散とした頃にエリザベス・クランホン捜査官は漸く安堵の長い溜め息をついた。

 横に立つ警官が感謝の言葉をかける。

「クランホン捜査官、お疲れ様でした。あなたのご協力がなければ大変なことになるところでした。おかしな犯罪者に乗り込まれてテロを起こされたりハイジャックされたりしたら、たまったものではありませんからね。……ところで、あの黒い着物の男は何だったのか……あ、いえ、何でもありません。私の見間違いか何かだったのでしょうね」

 クランホンに視線を向けられ、警官は慌てて訂正した。

「それで捜査官、本官共は今晩打ち上げのパーティーをやる予定なのですが、よろしければ捜査官も参加しません、か……」

 クランホンはその時、別のものを見ていた。改札口の向こう、先程まで行列があった場所。

「捜査官、また何かありましたか」

「変ですね」

 クランホンはすぐに歩いていく。彼女が何を見ているのか目で探しながら、警官もついていく。

 立ち止まった場所には特に何もなかった。クランホンはしゃがみ込み、床をじっと見る。「あっ」と警官が驚きの声を上げた。

 床の石材に、小さな亀裂が走っていた。新築の、アメリカ合衆国の威信を懸けて建てられた、ラウンド・ザ・ワールド・レイルロード・ニュー・ニューヨーク・ステーション・ビルディングの床に。

 ビキッ、と、嫌な音がした。ビキッ、ビシビシビシ、と、二人が見ているうちに、亀裂が少しずつ広がっているのだ。

 そこは、黒い作務衣の男が行列待ちで長く立っていた場所だった。男の移動に沿うように、改札に向かって縦に亀裂が伸びていき、長さ一メートルを超えたくらいで停止した。

 暫しの沈黙の後、クランホン捜査官は立ち上がり、警官に言った。

「さっきのお誘いですが、ワシントンの本部に戻らないといけませんので。残念ですが」

「は、はあ。そうですか。それは、残念です」

 ざわめきが届く。残っていた人々が携帯情報端末をいじりながら騒いでいる。マスコミも動揺し、何人かのテレビクルーが急いで改札を出て外へと駆けていく。

「どうした。何か異常事態か」

 警官がヘッドセットを介して同僚に尋ねる。やがて、戸惑いのような呆れのような表情を浮かべ、クランホンに報告した。

「UFOが飛んでいるそうです。ニュー・ニューヨークの上空を複数のUFOが飛び交っているとか。このビルの上にも飛んでいるそうです」

「……そうですか」

 クランホンは疲れた声でそれだけ言った。

 

 

  二

 

「うん。なかなか良い部屋だ。暗殺されるならこんなシャレた部屋がいいな」

 二号車のA室……VIPの中でも最高の一室に入った男の第一声がそれだった。

 第六十三代アメリカ合衆国大統領ウィリアム・セインは四十八才、独特の渋みのあるハンサムで、欠かさぬトレーニングによって引き締まった肉体を保っていた。髪はダークグレイで、同じ色の瞳は面白がってでもいるようにキラキラ輝いている。魅力的な瞳と評されることもあれば、笑っている時に目だけが笑っていないようで不気味だと評されることもあった。

 VIP用の四人部屋は一般客用の四人部屋の二倍のスペースがあり、シャワールームとトイレもついていた。ソファーのあるリビングとベッドの並ぶスペースをアコーディオンカーテンで仕切れる疑似スイートになっている。走る列車内であるため、家具類は全て床に固定されていた。ベッドは当然四人分だが、特例で護衛を加えて五人以上を乗せることも許されている。その場合はベッドを使い回すか、誰かがソファーで寝ることになるだろう。

 セイン大統領はその特例を申請せず、同行者は三人だけだった。或いは、三体というべきか。

 ベッドにダイブして柔らかさを確かめ、次にワインセラーと冷蔵庫を開けて中身を吟味する。

「うん、最高級品を揃えてあるな。っと、頼んでおいたシャンパンも準備万端じゃないか。早速乾杯といこう」

「プレジデント、次のバンクーバー駅でもスピーチがあるのをお忘れですか」

 メイドの服装をした女が言った。上品で落ち着きがあり、そして感情を窺わせない声音だった。年齢は二十才前後であろう、人形のように端正な顔立ちで、そして人形のように冷たく無表情だった。長い金髪を一房の三つ編みにまとめ、当然頭にはホワイトブリムが乗っている。長袖、長いスカート丈の漆黒のメイド服に純白のエプロンというオーソドックスなスタイルではあるが、裾や袖、襟元など要所要所に銀の刺繍が控えめに施され、高級感を醸し出している。エプロンの上からでも分かるほど胸はふくよかで、逆に腰回りは細く完璧なプロポーションだった。世の男性が求める女性の理想像を、彼女は少なくとも外見的には体現していた。

「覚えているよ、メモリー。だが、バンクーバーに到着するのは八時間後だ。酔いを醒ますには充分な時間じゃないか。それに、しっかり者の君のことだから、ちゃんとアルコール急速分解薬を持ってきているだろう」

「でしたらグラス二杯までになさって下さい。まず私(わたくし)が毒見致します」

 メイドであると同時に護衛でもあり、更に、大統領首席補佐官を務めるメモリーが言った。セイン大統領はニヤリと笑い、グラスラックに手を伸ばしかけたところで、別の護衛が素早く且つ優雅に動いてシャンパングラスを二つ取り出した。

「ありがとう、ティナ」

 セインは礼を言う。ティナというその護衛もやはりメイド服を着ていた。小柄な体格で、十代半ばの少女に見える。髪はツインテールで、可憐な顔立ちにいつも悪戯っぽい微笑を浮かべていた。服のデザインはメモリーよりややきらびやかで、袖もスカートの裾も短めだ。

 ティナはグラスと保冷バンドの巻かれたシャンパンボトルをメモリーに手渡すと、ソファーに腰掛けたセイン大統領の膝にひょいと乗ってしまう。いつものことらしく、セインもメモリーも叱ったりはしない。

 メモリーはソファーの前のローテーブルにグラスを置くと、手慣れた仕草でボトルのキャップシールを外し、ナプキンをかぶせて静かにコルクを抜いた。片方のグラスにほんの少しだけ注いで、彼女は無表情に口をつける。

 十秒ほどして、メモリーは言った。

「毒物・薬物の類は含まれていません。アルコール度数十二パーセントの真っ当なシャンパンですね」

「なら乾杯だな。そうだ、ティナ、もう二つグラスを取ってきてくれ。皆で乾杯した方が美味しいからな」

 ティナはすぐにグラスラックへ向かった。セインがドアのそばに立つ三人目のメイドを振り返る。

 大きな女だった。身長は二メートルを超えているかも知れない。女性らしい体のラインを保ちながらも筋骨隆々としていて、褐色の肌に高い頬骨の野性的な美貌と、腕組みしたまま微動だにしない佇まいはアマゾネスとか女将軍といった言葉が似合いそうだ。そんな彼女のメイド服はフリルのないシンプルなデザインで、ただ、白い手袋はオペラ・グローブのように肘上までの長さがあった。燃えるような赤い髪は白いカチューシャで押さえられているが、後ろはウェーブしながら肩の辺りまで伸びている。

「ヴィクトリア、君も一緒に飲もう」

 セインが声をかけると、大柄なメイド姿の護衛ヴィクトリアは無言で頷いた。

 ローテーブルに四つのグラスが並ぶ。シャンパンを注ぐ前にメモリーが言う。

「プレジデント、私達には味覚がありませんし、頂いたシャンパンもスタマックバッグに溜まるだけです。大切なシャンパンはお一人で楽しまれた方がよろしいのではありませんか」

 彼女達はガイノイド……女性型アンドロイドであった。

 セイン大統領は笑顔で軽く肩を竦めてみせる。

「そうだね。だが、君達と一緒に飲むと私は幸せになれるんだ」

「そうですか。では、仰せのままに」

 メモリーは表情を変えず、シャンパンをグラスに注ぎ始める。

「ああ、君達のスタマックバッグに収まったシャンパンは、後から口移しで飲ませてもらおうかな。そうすると十倍は幸せになれそうだ」

 キャハッとティナが可愛らしい笑い声を上げた。普通ならセインはロリコンと非難されるだろうが、相手はガイノイドなので関係なかった。今の時代、ロリータ・コンプレックスを抱えた者達が性犯罪に走るのを防止するため、そういうガイノイドを購入することは逆に推奨されている。ちなみにセインはロリコンではなくメイドフェチの方であり、更にはメイドガイノイドフェチであった。

 メモリーはやはり無表情のまま、自身の上司であり所有者であり愛人であるセインに告げた。

「でしたらそれぞれのグラスには本来の半分の量を注ぎましょう。合計すればプレジデントのお飲みになるシャンパンは二杯分ということになりますね」

 セインは苦笑するのみだ。

 メモリーがまずセインにグラスを渡し、それから他のメイド達にも行き渡る。セインがグラスを上げて「乾杯っ」と唱えると、三人もグラスを合わせつつ応じた。メモリーは事務的な口調で、ティナは明るい声で、ヴィクトリアは無言のままで。

 セインは香りを楽しみながら少し口に含んで味わっていたが、残りは一気に飲み干してグラスを空にしてしまった。

「口移しでお飲みになりますか」

 主人にペースを合わせて飲み干したメモリーが尋ねる。

「それは後でいい。メモリー、膝枕してくれないか」

 セインがソファーに寝転がって手招きし、メモリーはそれに従った。主人の頭を膝に乗せていても彼女は変わらぬ気品があった。

 ティナは別の一人掛けソファーに座るが、ヴィクトリアはドアのそばに戻る。万が一の襲撃者に対応するためだ。

 膝枕してもらいニコニコ顔のセインが言った。

「そういえば今朝、駅前の広場で面白いイベントがあったらしいな。私が核戦争を起こして人類を滅ぼそうとしている、と叫んだ男がいたとか」

「はい。その時、予言者を自称する者達が人類滅亡の危機を訴えていたそうですが、頭部が破裂して六人が死亡しています。問題の発言者は騒ぎに紛れて逃走し、拘束が叶わなかったとのことです」

「そうかあ。残念だな。捕まえてくれていたら、その慧眼な発言者に何かプレゼントしたかったのだが」

 セインは膝枕状態のまま体を回転させ、顔をメモリーの腹側へ向けた。細い腰を愛おしげに掻き抱く。

 メモリーの腹部には核ミサイルの発射ボタンが格納されていた。

 

 

 車内アナウンスが流れる。

「ご乗客の皆様、長らくお待たせ致しました。八時零分発、ラウンド・ザ・ワールド・ドリーム・エクスプレスが十三分遅れでただ今発車致します。これが記念すべき運行初日であり、ご乗客の皆様には改めて厚くお礼申し上げます」

 列車が動き出す。磁力による浮上走行は騒音も揺れも殆ど感じさせなかった。

「当列車の運行予定をご案内致します。当列車は緩やかに加速して、約三分後に時速五百キロメートルの安定走行となります。北北西に進み、五大湖のただ中を通過します。ナイアガラの滝を合衆国側から一望出来ますので、よろしければ景色をお楽しみ下さい。その時に改めてアナウンス致します」

 

 

 二号車のB室はロシア連邦大統領アンドレイ・ガザエフと側近、それから五人の護衛の部屋だった。

 ガザエフは外見的には四十代であろうか。縦にも横にも大きな男で、身長百九十センチ、体重は百五十キロ近くありそうだったが、実際の彼の体重はその倍あった。太い寸胴体型もたるんだ肥満という印象ではない。常にいかめしい顔をしていて、表情の変化といえばごくたまに眉を少し動かしたり、薄く笑みを浮かべたりするくらいだった。

 ソファーにはカザエフ一人が座り、側近と護衛達はドアや窓のそば、壁際に立っている。誰も一言も喋らず、身じろぎもしない。不気味な静寂の中、運行予定を語る車内アナウンスだけが流れている。

 彼らは会話を厭うほど険悪な関係という訳ではない。暗号化した電磁波でコミュニケーションを取り合っているだけだ。カザエフ大統領も含めて全員が、脳の一部と肉体の大部分を機械化・電子化したサイボーグなのだ。

 カザエフの実年齢は八十六才であった。

 

 

「列車は一時的に国境を越えカナダに入り、またすぐにアメリカ合衆国に戻ることになります。それから西へ進み、ラシュモア山の四人の大統領の彫像の前を通過します。その後イエローストーン国立公園内を通過してから北西に進み、カナダのバンクーバー駅に停車します。今より約八時間後となりますが、時差の関係で現地時刻では午後一時となります」

 

 

 四号車にいる中国の国家主席・陳徳家はすぐに窓のカーテンを閉め切り、落ち着きなく客室内を見回していた。彼の懸念を解消すべく、護衛達も隠しカメラや怪しい仕掛けがないか念入りに調べている。

 強化手術を受けて死ににくくなってはいるが、彼の命を狙っている者は非常に多い。「中華人民共和『帝』国」と揶揄されるほど、長い間独裁者として君臨してきたのだから。

 国家主席としてイベントに参加し、式典でスピーチもしたこの男は、実際には整形した影武者であった。

 六号車の二部屋はアイスランド大統領とグリーンランド自治政府首相のものだ。前者は秘書と護衛一人、後者は同年代の妻だけを同伴していた。

 冷たい海の上にガイドウェイを敷設するのはコスト的にも安全の面からも難易度が高いため、出来るだけ陸地を経由しようと使われたのが二つの島国であった。どちらも人口が少なく国力はお世辞にも高いとはいえず、周辺のガイドウェイ敷設費用だけでなく駅の建設費まで他の大国に頼らざるを得なかった。そのため立場が弱く肩身の狭い思いを共有する両者は仲が良く、今も早速一つの部屋に集合してささやかにビールで乾杯していた。

 

 

「バンクーバー駅でも短い式典が行われますので一時間ほど停車しますが、ご乗客の皆様には発車時刻まで必ず車内に戻って下さるようお願い致します。発車後は西海岸に沿って北西に進み、左手に太平洋、右手に山脈を臨んでの旅となります。カナダを抜けアメリカ合衆国のアラスカ州に入り、北アメリカ大陸最西端となるプリンス・オブ・ウェールズ岬駅で車両点検のため停車します。そこから一旦海路となり、列車は海の上に固定されたガイドウェイを走ることになります。ダイオミード諸島を通過してベーリング海峡を渡り、ロシア連邦の最北東端に設けられましたナウカン駅で停車します。海上ガイドウェイの長さは約九十キロメートルで、安全な速度でも二十分前後で通過することになりますが、現地の気候などによっては手前のプリンス・オブ・ウェールズ岬駅で暫く待機する可能性もあります。ご乗客の皆様はどうかご了承下さい」

 

 

 九号車の一室には第二百七十二代ローマ教皇ウァレンティヌス二世が随伴者の枢機卿と若い司祭、そして護衛の男と共にいた。

 ウァレンティヌス二世の実年齢は八十二才だが、最先端のアンチエイジング医療を受けて肌艶良く、二十才は若く見えた。ただし、乗車の際に見せていた笑顔はなく、その瞳は重い苦悩に沈んでいる。

「ペクシガ卿には、申し訳ないことをしてしまいました」

 力なく、諦念と疲労の混じった声音だった。

「ハンガマンガの脅威を公式に語る訳にはいきませんでした。私が語れば、備えるより先に世界中がパニックになってしまうでしょう。それでも、少しでも警告しておきたくて彼に頼んだのですが……こんなことになってしまうとは……」

 若い司祭が後を継ぐ。

「くしゃみ男、ですか……。あれは一体何だったのでしょう。ペクシガ卿の必死の訴えも、荒唐無稽な予言合戦に紛れてしまいましたし。……いや、ひょっとして、ハンガマンガだけでなく、何かとんでもないことが起きているのでしょうか」

「分かりません。分かりませんが、私は恐ろしい。ハンガマンガの今度の襲来は世界規模になる筈です。聖騎士一人の力では……マイケル、あなたは優秀です。おそらく歴代の聖騎士の中でも最強でしょう」

 マイケルと呼ばれた護衛の男はただ生真面目な表情で聞いていた。年齢は三十代前半、何処にでもいそうな特徴のない顔立ちをしていた。際立って筋肉質という訳でもないが鍛え上げた肉体をゆったりとした地味な祭服で包み、腰の太いベルトから一振りの長剣を下げている。

 長剣の鞘は十字のマークが彫金されたシンプルなものであったが、小さな傷や凹みが多く、相当の年月を感じさせた。柄の部分には滑り止めの意味もあるのだろうか、茨の模様が彫られている。

 式典の間も彼は帯剣したまま教皇に付き添っていた。古い長剣は妙な存在感を放っていたが、男の落ち着いた佇まいもあり、人々は儀礼用の剣だと考え気にしていなかった。

 教皇は続けた。

「それでも、あなた一人で世界中を救うことは出来ません。なんとかしなければいけません。なんとかしなければ。それは分かっているのですが……。やはり、バンクーバー駅の式典でスピーチさせてもらい、公式にハンガマンガの危機を訴えるべきかも……」

 初老の枢機卿が慌てて止める。

「猊下、それは危険過ぎます。ハンガマンガがいつ現れるのかはまだはっきりしていません。今年中に来るのか、来年か、或いは二十年後か。もし何年経ってもハンガマンガが来襲しなければ、カトリック教会は信用を失ってしまうでしょう。そうなるくらいなら猊下の代わりに私が発表します。耄碌した枢機卿一人の発言ならダメージも少ないでしょう」

「いや、世界の存亡が懸かっているのです。やはり私が……どうかしましたか、マイケル」

 教皇に問われ、聖騎士マイケル・ティムカンは口を開いた。穏和で素朴な印象を与える声音だったが、内容は不穏なものだった。

「上空を何かおかしなものが飛んでいます。飛行機やヘリコプターなどとは異なる、何かです。猊下、嫌な予感がします」

 

 

「ナウカン駅を発車しますとツンドラ地帯から南西方向へ進み、中華人民共和国の北京へ向かいます。途中、山脈を貫く長いトンネルを通る際は当列車の最高速度である時速七百キロメートルで走行しますが、外の景色は楽しめませんのでご了承下さい。北京駅でも式典がありますので一時間ほど停車した後、インドのニューデリーに向かって西進します。万里の長城を眺められるエリアがありますのでその際にアナウンス致します。ヒマラヤ山脈をトンネルで通過し、レッド・フォートの傍らを通ってニューデリー駅に到着します。ここでも一時間ほど式典が行われます」

 

 

 十九号車の二人部屋。VIP用客室とは比べるべくもないが、二つのベッド以外にも小さなテーブルと椅子が用意され、窮屈さを感じさせない程度の広さがあった。

 シアーシャは窓ガラスに手をついて、流れる景色を眺めている。市街地をとうに過ぎ、殺伐とした荒れ地が広がっていた。

「何を見ているんだ」

 顔に傷痕のある男が少女に尋ねる。

「昔はねー、この辺って、畑ばかりだったの。農家の人が、リンゴとかキャベツとか作ってたのよ」

「そうなのか」

「核爆弾のテロがあって……そうね、ひどい爆発が起きて、沢山の人が死んで、大きな町も滅んじゃって、それから、周りの畑も駄目になっちゃったの。もう何十年も経ったからその気になれば畑に出来るのに、みんな、ここで育てたリンゴやキャベツは食べたくないみたい。だからずっとこのままなの」

 シアーシャは分かりやすい言葉を選んでいるようであった。

「そうか」

 男は無表情で、シアーシャの話をちゃんと理解しているのかはっきりしない。ただ、真剣に聞き入っている様子ではあった。

 キュルルル、と、男の腹が鳴る。男は不思議そうに自分の腹を見下ろす。

「イド、もうお腹減っちゃったの」

 シアーシャが微笑みながら男の名を呼んだ。

「そうみたいだ」

「列車に乗り遅れないように、朝ご飯はハンバーガーだけだったしねえ。ならサンドイッチ出そうか」

 シアーシャが古ぼけたトランクを開ける。替えの衣類や歯磨きセットや日記帳らしき色褪せたノートが収まっているところに手を突っ込んで、奥の方から引っ張り出したのは蓋つきのバスケットだった。トランクの中に他の荷物と一緒に入っていたにしては妙に大きかった。トランクの厚みよりも幅があるような……。

 バスケットをテーブルに置いて開くとサンドイッチが詰まっていた。シアーシャはトランクの奥から水筒を出し、二つのコップに中身を注ぐ。まだ湯気の立つコーヒーだった。

 サンドイッチの具はハムと野菜だけでなく、トンカツと千切りキャベツ、細切れの卵とマヨネーズ、スライスされたイチゴと生クリーム、辛みをつけた挽き肉などバラエティに富み、作り立てのように瑞々しかった。

 二人は椅子に座り、イドという男はまずコーヒーを飲む。眉をひそめて微妙な表情をするのを、シアーシャは好ましげに眺めている。

「甘いな」

 イドが言った。

「お砂糖もミルクも一杯入ってるの」

 シアーシャが笑みを深める。

 イドがサンドイッチを手に取り、大きく口を開けてかぶりついた。

「美味しいかな」

 シアーシャが尋ねる。

「美味しい」

 一個丸々を嚥下し終え、男は答えた。無表情だったものが、少し嬉しげに緩んでいた。

「そうかあ。沢山食べてね。それで、お昼になったらレストランに行ってみようね」

 自分はコーヒーだけ飲みながら、シアーシャは優しく言った。

 

 

「ニューデリー駅を発車した後は北西に進み、パキスタン・イスラム共和国、レジネラル管理国を通過して再びロシア連邦に入ります。尚、レジネラル管理国内では再び時速七百キロの超高速走行を行いますので、流れる景色をお楽しみ下さい。カスピ海の北部を抜け、ヴォルゴグラードの母なる祖国像の横を通過します。モスクワ駅でも式典が行われます」

 

 

 二十二号車の一人部屋で、若者は独り言を呟いている。

「ってさあ、いきなり大統領って、ハードルが高過ぎないか。そりゃあんたのアドバイスで株とFXやってかなり儲けたけど、僕自身は無名の、ただの学生だぜ。いきなり押しかけたって、セイン大統領が僕なんかの話を聞いてくれる訳ないだろ。それとも、あんたの名を出せば聞いてくれるのかい。魔神ダールってのは有名なのか。僕はあんたのことなんて全然知らなかったけどな」

 丸縁眼鏡の若者は目だけで斜め上を見て、誰かに話しかけている。しかし天井には誰もおらず、右のレンズに装着されたAR端末も電源が入っていない。

「あー、やっぱり無名かあ。……えっ、タイミング……臨機応変っていっても、僕は武器なんて持ってないんだからな。運動神経も、良くないし……VRゲームなら無双出来たんだけどなあ……」

 若者は長い溜め息をついた。

「宇宙人か、未来人か、恐怖の大王だな。宇宙人か未来人か恐怖の大王……ところでさあ、恐怖の大王って、何なんだ。……ま、まあ、あんたに任せとけばいいんだな。分かったよ。あんたには借りがあるからな。ちゃんと言うことを聞くさ。僕の命がヤバくならない限りはね。あれっ」

 若者は眼鏡のAR端末に触れた。電源が入っていないことに今更気づいたようだ。何度ボタンを押しても端末は反応しなかった。

「壊れてるじゃん。バッテリー切れか……って、バッテリー抜けてるじゃん。……あー、そういえば、交換するつもりで抜いて、そのまま……。でもさっきまで表示されてた……よな。動いてた。あんたとの通信もこれでやってたと思ってたんだけど。でもバッテリーが……あんたの声は聞こえて……」

 若者は少し考えた末、「まあ、いいか」と呟いて端末を眼鏡から外した。

 

 

「モスクワ駅を発車した後は西に進み、ポーランド共和国を通過してドイツ連邦共和国に入ります。ベルリン駅での式典を終えましたらフランス共和国へ向かい、戒めの父像を望みつつ国境を越えます。パリ駅でも式典があり、そこからは北に向かい、専用の第二ドーバー海峡トンネルを通ってイギリスに入ります。ロンドン駅に停車して、ここでも式典が行われます。その後はグレートブリテン島を北上し、最北端のダンネット・ヘッド駅で一旦停車します。そこからは海上ガイドウェイとなり、途中でフェロー諸島を通りますが、アイスランドのヘプン駅まで約九百キロメートルの長い海上走行となります。尚、気候条件などのため手前のダンネット・ヘッド駅で暫く待機する可能性がありますのでご了承下さい。ヘプン駅からは西に進み、レイキャビク駅に停車して式典が行われます。その後はまたすぐに海上ガイドウェイとなります。グリーンランドのタシーラク駅まで約七百六十キロメートルの海上走行となりますが、その間、ガイドウェイが海抜八十メートルに設けられているエリアがありますので、高所の列車から眺める海をお楽しみ下さい。タシーラク駅からはグリーンランドを横断するように西進し、ヌーク駅に到着します。行われる式典はそこで最後となります。ヌーク駅からは再び海上ガイドウェイとなり、カナダのバフィン島、イカルイト駅に停車します。そこから南に進み、キミルート駅で短時間停車後、ハドソン海峡を最後の海上ガイドウェイで渡り、オタワ駅に停車します。カナダの首都ではありますが、先にバンクーバーで行われたため式典はありません。その後も南へ向かいオンタリオ湖の傍らを通過してアメリカ合衆国に入り、ニュー・ニューヨーク駅に帰還して今回の世界一周の旅は終了となります。走行距離としては三万八百六十キロメートル、気候条件などによって若干のずれが生じる可能性がありますが、七十二時間後の現地時刻午前八時に終着予定となっております。長い道程になりますので説明を省略させて頂いた部分もございますが、列車の移動に応じて適宜アナウンスさせて頂きますのでどうかご容赦下さい。尚、申し遅れました、私は当列車の車掌兼予備運転士を務めます、ゼンジロウ・ミフネと申します。ご疑問の点やご希望などございましたら客室備えつけの呼び出しボタンをお押しになるか、巡回中の私や他の乗務員にお声をおかけ下さい。それでは、約三日間、どうかよろしくお願い致します」

 

 

 最後尾の二十四号車の一人部屋に、黒い作務衣に似た着物姿の男がいる。

 椅子に腰掛け、小さなテーブルに置いた奇妙な器具を昏い瞳で見つめている。

 径三十センチほどの木の板に文字が並んでいる。日本語ひらがなの五十音とアルファベットに数字、そして「東」「西」「南」「北」「是」「否」「緊急」などの文字もあった。こっくりさん、西洋ではウィジャボードと呼ばれるものに似ていた。

 その上でカリカリカリと微かな音を立てながら、小さな水晶が揺れている。板の中央に長い竹ひごが刺し立てられ、水晶はその先端から吊られていた。竹ひごは柔軟にしなり揺れ、水晶を板の上で広く踊らせている。カリカリという音は竹ひごの根元辺りから聞こえていた。

 列車の揺れや振動は目立たず、竹ひごと水晶は何の力によって動いているのだろうか。

 作務衣の男の見ている間に、水晶の乱雑な動きは整っていき、「緊急」と「否」の文字を往復するようになってきた。

「シヌヨー」

 甲高い声がして、作務衣の男は眉間に皺を寄せた。

「ヤバイヨー、ゲキヤバダヨー、ミンナシヌ、ガンバッテモミンナシヌヨー」

 喋っているのは板の横に転がされた干し首だった。人間の頭部から頭蓋骨を抜き取り、皮膚を茹でたり焼けた石で熱したりして手拳大まで縮めたもの。瞼は縫いつけてあった。

 干し首の小さな唇が動き、小さな声を早口で紡ぎ出す。

「ジンルイホロブヨー、シヌシヌシヌシヌミンナシヌ、ジンルイゼツメツジンルイゼツメツジンルイゼツメツジンルイゼツメツ、カグラハヒトリボッチ、エイエンニボッチ……」

 作務衣の男が手を伸ばし、お喋りな干し首を掴み上げた。っと、干し首が一際大きな声で叫ぶ。

「ウエダウエダウエダッ、キヲツケロマエダマエダマエダッアッヤッパリシヌッ」

 干し首は袖の中に仕舞い込まれた。袖の膨らみは特に大きくなった訳でもなく、もしかすると実際の見た目より多くの物が入る、マジックボックスのようなものかも知れない。シアーシャという少女のトランクのように。

 ビシッ、という音が鳴った。作務衣の男はテーブルの上の板に目を向ける。

 沢山の文字が書かれた木製の占い盤に、亀裂が入っていた。ビキッ、ビキキッ、と、見ている間にそれは大きくなり、最後はバガッと真っ二つに割れてしまった。竹ひごが倒れ、水晶と一緒にテーブルから転げ落ちていく。それで終わりではなかった。テーブルにも亀裂が入っていたのだ。それが大きく広がっていくのを作務衣の男は鋭く目を細めて見守っていた。

 袖の中から金属製のピルケースを出し、片手で蓋を開ける。赤い丸薬を一つ、掌に落とし、男はそれを水なしで飲み込んだ。

「バナナを買っておかないとな」

 作務衣の男は掠れかけの声でそれだけ呟いた。

 

 

  三

 

 空が告げた。

「余は恐怖の大王なり」

 北アメリカ大陸の空は概ね晴れていたが、所々に薄い雲が漂っていた。それらは風に流され、或いは風に逆らうようにして互いに引き合い、くっついて、次第に大きな厚い雲となっていった。

 今、五大湖の上空……特にアメリカのニューヨーク州からカナダのオンタリオ州にかけて、超巨大な黒雲が出来上がっていた。

 緩やかに中心に向かって渦を巻くような、円形で分厚い雲は、巨大なパンケーキにも似ていた。幅は四百キロメートルを超え、絶えずあちこちから雷光を発していた。

 薄暗さに気づいた人々が家から顔を出し、驚愕の表情で空を指差している。

「発端は十六世紀の占星術師ミシェル・ノストラダムスの予言集第十巻に記された詩であった。一九九九年七の月、空から恐怖の大王が現れ、アンゴルモアの大王を甦らせるという。当時はそれほど注目されなかった。人類の滅亡という意味合いを感じ取る者もいなかった。後の世の解釈ではアンゴルモアの大王とは当時のフランス王フランソワ一世であり、恐怖の大王とは当時捕虜となっていたフランソワ一世を訪問したローマ皇帝カール五世であったとする説がある。また、十七世紀にはアンゴルモアの大王が当時のフランス王ルイ十四世であると主張する者もいた。だがそんなことはどうでも良い」

 声は黒雲の中から響いていた。中年を過ぎた男の、威厳のある、怒っているような、しかし何処か虚ろな声音であった。空を震わせる大きな声であったが、地上の人々の耳に届くには距離が遠過ぎた。

 誰も聞いていないことを知ってか知らずか、声は黒雲から語り続ける。

「二十世紀に入り、一九九九年が意識されるようになると、恐怖の大王に関する詩は注目され始める。戦争、核兵器、天変地異、様々な凶事を恐怖の大王だと見立てる者が現れた。更に第二次世界大戦前後には、恐怖の大王が人類滅亡を引き起こすと考える者が出始める。だが恐怖の大王の性質を決定づけたのは、日本の作家が一九七〇年代に発表した著作と、それを元に制作された映画であろう。環境破壊と異常気象に怪物の発生、放射能によって人間が食人鬼と化し、核戦争や大地震で人類が滅亡に向かっていくというショッキングな内容が、人々の脳裏に焼きついたのだ。そして多くの者が考えた。一九九九年七の月には、何か恐ろしいことが起きて、人類が滅亡するに違いない、と。それが余だ。即ち、お前達が余を生み出したのだ」

 地上ではリニアモータートレインの進む土地が荒野から畑へ変わった。農家の子供達が超高速で進む列車に手を振っている。

 そして列車は明るい領域から黒雲の陰となる暗い領域に入る。一部の乗客は窓に顔を近づけて空を見上げている。高速走行する列車のため窓は嵌め殺しで開けられないようになっている。

 断続的に雷鳴が轟く中、声が人類へと告げる。

「お前達がそれを望んだのだ。アンゴルモアの大王との関連、予言詩にあるマルスの支配、そんなことはどうでも良いのだ。恐怖の大王という存在が世界を滅ぼし人類を滅亡させることをお前達自身が求め、余はそのために生まれたのだ。余は、人類の抱く恐怖そのものなのだ。……まあ、目覚まし時計の故障は、その、予想外のアクシデントではあったが……」

 声は目覚まし時計のところだけゴニョゴニョと弱気なものになった。

「百年が過ぎたが人は恐怖の大王を忘れなかった。故に余はあり続けた。余はお前達の期待通りに世界と人類を蹂躙……って、うるさいな、何だ上でゴチャゴチャと」

 声に怒りが篭もった。雷鳴と轟音がひどくなっているのだ。

 雷鳴は、黒雲から発せられるものだけではなかった。

 黒雲の遥か上方を二つのUFOが飛び交っていた。

 片方は横倒しになった細長い円筒形……所謂葉巻型と呼ばれるタイプだった。全長は二百メートルを超え、前面と側面の所々に丸い窓らしきものがあるが内部の様子は見えなかった。船体表面は暗赤色で、ステルス性などは全く考えていないようだ。

 もう片方は所謂円盤型と呼ばれるタイプで、丸い皿をひっくり返したような形状をしていた。直径は三十メートルほどで、全体が淡く光っている。底面は中央部と辺縁部に丸い穴が幾つも空いていた。

 葉巻型UFOの直線的な飛行に比べ、円盤型UFOの動きは乱雑で幻惑的であった。葉巻型の側面窓から黄色の光線が走り、円盤型を包む光の一部が棘のように伸びて白い光線と化す。光線は互いに相手側のUFOを狙っていた。黄色の光線を円盤型が曲芸飛行で避け、白い光線は葉巻型の装甲に弾かれる。光線の連射が空を貫き、彼方の山に切れ目を入れる。地上のトウモロコシ畑を裂いていった光線は、超高熱によって大地にガラス化した溝を作り、その深さは測定不可能なほどだった。

 立て続けに発射される破壊光線の轟音が、黒雲の雷鳴など消し飛ばす勢いで空を揺るがせる。地上の人々が怯えて指差しているのは巨大な黒雲ではなく、互いに争っている二つのUFOの方だった。

「騒がしい羽虫共めが。まずは予定通りにこの一帯の人類を殺し尽くした後で、じっくり追い潰してくれよう。予定は大切だ。万が一にも遅れるのは良くないからなっ」

 巨大な黒雲が、ウネリ、と歪んだ。

「余は、恐怖の大王なり」

 黒雲の底、渦巻く中心部から何かが、顔を、出す。それは巨大で、毒々しい色彩の、おぞましく蠢く、形容しがたい何かであった。ただ、それは金色に輝く輪のようなものをつけていた。形容しがたい何かであるそれの立場であり素性を示すもの……巨大な王冠だった。

 地上の人々の注意もさすがにUFOからそれへと移り、指差したまま腰を抜かす。口を大きく、大きく開けて、しかし悲鳴を発する力もなく、「あああぁ」と間抜けな声を垂れ流すだけだ。失禁する者もいたし、そのままショック死する者もいた。ごく一部の者は何故か笑顔で手を振っていた。

 雲の欠片をまといつかせ、更に巨大でおぞましい全容を現しながら、ゆっくりと、それが、降りてくる。暗い空を、落ちてくる。王冠のそばにある顔かも知れないが違うかも知れない箇所に裂け目が開き、底知れぬ暗い穴を覗かせる。

 口であるかも知れない穴が決め台詞か呪詛の言葉か或いは勝利の哄笑を発する前に、数条の光線が黒雲ごとそれを貫いた。

「ちょ」

 恐怖の大王による最期の言葉はそれになった。

 突き刺さった光線がそのまま流れ動き、巨大なそれは幾つかに分割された。上空でのUFO同士の戦闘はやまず、更なる流れ弾の光線がそれをズタズタに切り裂きまくった。バラバラになったどす黒い肉のようなものがドロリとした不気味な体液のようなものと共に飛散して地上へ落ちていく。巨大な王冠も数十に分解され、欠片の一つは地上七メートルに敷設されたラウンド・ザ・ワールド・レイルロードのガイドウェイに向かっていた。

 

 

 丁度その時、八十七年後の未来から送り出されたエージェントが時空のトンネルを抜けてこちら側に現界したところだった。

 遺伝子改造と激烈な生存競争によって作り上げられた強靭な肉体に、最先端のサイボーグ化手術を施された男だった。重要臓器はメッシュ状の合金被膜で保護され、人工筋肉は自前の筋肉の動きを補強しつつ装甲としても役立った。脳や心臓を破壊されても一旦仮死状態となり、時間をかけて復活を試みる再生能力も備えていた。手足の各所に銃器や刃物を内蔵し、一見丸腰状態でも充分な戦闘力を誇るが、持参した装備は更に高性能なものだ。バッテリーを消費して殆どの物理攻撃を防ぐ電磁バリアー、十キロメートル先の標的も一瞬で蒸発させる熱線銃、そして敵のセンサーを狂わせるジャミング装置。サイボーグ化されていながら電脳化はされておらず、高度なコンピュータのサポートを用いていないのは彼らの生きる未来世界の事情故だ。

 彼のコードネームは『ラスト・ホープ』。未来人類の最後の力を結集して送り出されたエージェントは、極めて重大な任務を帯びていた。

 現界した時には光の球であったものが、ゆっくりと薄れていき内部の人影を浮かび上がらせる。ステルス効果のあるフードつきマントを羽織った男だった。

 男は素早く周囲を見回して状況を確認しようとする。男の立っているのは幅数メートルの通路のような場所だった。両サイドに隙間なくフェンスが並び、コンクリートの床の中央には金属板が真っ直ぐ伸びている。それが前方にも後方にも、何処までも続いているのだった。

「何だ、ここは……」

 エージェントは呟いた。左手首に巻いた情報端末に触れる。現代のGPSや電波で流れている地域情報を捕捉しなくても、微細な地磁気の差異から現在位置を特定することが可能だった。

「西経七十八度北緯四十三度……アメリカ合衆国のニューヨーク州で間違いない筈だ。いやそんなことではなくて、ここは……もしかして線路か」

 エージェントはフェンスを乗り越えようと手をかけたところで、轟く雷鳴に気づき顔を上げた。飛び交うUFOと破壊光線よりも先に彼の目に入ったのは、猛速で自分の方へ落ちてくる金色の巨大な塊だった。

 未来人類最強の改造人間にも避ける暇はなく、王冠の巨大な欠片はエージェントを一瞬で潰れた挽き肉に変え、そのままリニアモータートレイン用のガイドウェイを破壊して地面に大穴を穿った。地上七メートルのガイドウェイラインは長さ二十メートル以上にわたって欠損し、ラウンド・ザ・ワールド・ドリーム・エクスプレスは今その五キロメートル手前を走っていた。

 

 

「いけないっ」

 危機を察知して動いたのはローマ教皇に随伴していた聖騎士だった。驚く教皇に「猊下、失礼します」と言い残し、彼は素早く客室を出た。廊下を駆け自動扉を抜け、九号車からシャワールームや医務室のある八号車へ移る。そして食堂のある七号車へ。

「いらっしゃいませ」

 笑顔で声をかけるウェイトレスに聖騎士は厳しい表情で告げた。

「列車を停めるんだ。先に危険がある」

「えっ」

 戸惑うだけのウェイトレスや顔を出したコックを置き去りにして聖騎士は更に前の車両へと駆けた。VIP用の六号車を通り過ぎた後で客室から護衛が顔を出した。五号車の客室はインドと中東の新興国・レジネラル管理国のもので、インド所属の護衛は廊下に立っており、レジネラル側の護衛も聖騎士が車両に入ると即座に顔を出した。

「緊急事態だっ。列車をすぐ停めないと危ない」

 聖騎士が叫ぶ。

 インドの護衛は聖騎士が剣を帯びているのを見てスーツの内側から拳銃を抜いた。レジネラルの護衛はバチカン関係者と分かっていたようで早口に尋ねる。

「何が起こったんです」

「詳しくは分からないが事故のようだ。停めないと脱線・転覆するかも知れない」

 と、車掌の声で車内放送が流れ出した。

「当列車は緊急停車します。ご乗客の皆様は家具などに掴まって衝撃にお備え下さい。進行先のガイドウェイに予期せぬ異常が発生しました。ご乗客の皆様には大変ご迷惑をおかけします。どうか家具などに掴まって衝撃にお備え下さい」

 アナウンスの間に乗客達は列車の減速を体感する。電磁ブレーキだけでなく摩擦ブレーキも使ったようで、引き攣るような高い音が聞こえた。

 長大なガイドウェイに損傷や異常が起きた場合、列車の運転室と各主要駅に情報が届くようになっている。普通は彼ら人間によって減速や停車などの判断が下されるが、今回は列車自身の制御コンピュータが緊急の判断を出したようだ。しかし、時速五百キロからの緊急ブレーキが間に合うか、どうか。

 護衛達は廊下側の窓から外を見る。先ほどから暗い空を稲光が走っていたが、今は別のものも加わっていた。毒々しい色彩の巨大な肉塊がボドボドと降り注いでいるのだ。レジネラルの護衛がバチカン関係者の前で「オー、ファッキンジーザス」と吐き捨てたのは行儀が悪かったかも知れない。

 聖騎士は目を細め何かに聞き入るように俯いていたが、すぐに顔を上げ叫んだ。

「駄目だっ間に合わない」

 ほんの一瞬、迷うような表情で後方の車両を振り返る。しかし彼は再び前に駆け出した。護衛達の横を通り過ぎて前の四号車に移る。衝撃に備えて椅子でも掴んでいるのか、誰も客室から出てこなかった。聖騎士は三号車に移り、そして二号車へ飛び込んだところで待ち構える者がいた。

「止まれ。怪しい動きをすれば生命の保証は出来ない」

 早口に、しかし明確で聞き取りやすい滑舌で警告したのはメイド服の大柄な女だった。ヴィクトリアと名づけられたアメリカ大統領の護衛用ガイノイド。右手にソードガンという特殊な銃を装着している。手甲を延長したような楕円形の金属板の内側には、しっかり握り込めるハンドルと幾つかのギミックが備わっていた。通常の拳銃としての機能と、刃渡り九十センチまで伸縮可能な折り畳み式の剣、そして、囲みを力ずくで切り抜けるための殺戮兵器。

「緊急事態だ通らせてくれ」

「動くな」

 ガイノイドは緊急事態に大統領の安全を優先した。武器を持つ挙動不審者に対しソードガンを向ける。

 反射的に聖騎士が腰の剣を抜いた。これまでの身のこなしから予想される動きを遥かに超えたスピードだった。それに更に反応してヴィクトリアが発砲した。敵を無力化するエレクトリックスタンバレットでなく、殺傷力の高いフラワーバレットに弾倉を切り替えて。芯は貫通力の高いフルメタルジャケット弾で、外側は着弾と同時に花開くように変形しホローポイント弾と同様の効果を発揮する殺人弾を、聖騎士の剣が弾き飛ばした。

 ガイノイドは表情を変えないが、今彼女の電子頭脳内ではどのような思考が巡っているだろうか。聖騎士は飛来する弾丸を切り落とした訳ではない。胸の前に翳すように立てて、剣の腹で受け止めだのだ。銃口の向きから弾の軌道を予測したのか、それとも超人的な反射神経で発射された弾丸を見て対応したのか。或いは、迫る危機を『予知』していたのか。

 抜き放たれた剣は、中央に血抜きの溝があるシンプルな両刃の直剣だった。剣身に細かい傷が多いが刃欠けはなく、よく使い込まれ、手入れされている。光を反射して鈍く輝く刃は、あからさまな迫力とは異なる妙な風格のようなものを醸し出していた。

 ヴィクトリアが次弾を発射した時、聖騎士が突進した。彼女の方にではなく、すぐ右にある廊下の窓の方へ。嵌め殺しの防弾強化ガラスを肩から当たってぶち破り、車外へ飛び出したのだ。減速を始めたとはいえ時速数百キロで走行中の列車だ。まともな人間なら転落すればグチャグチャの肉塊と化すだろう。だが聖騎士はうまく窓枠を掴んで身を翻し、列車の上に姿を消した。

 猛烈な風が破れた窓を渦巻き、メイド服のスカートが激しく揺らめく。ヴィクトリアが見上げた天井を、風の音に紛れて足音が駆けていく。ソードガンがウォォォォンと微かな唸りを発し、先端から銀色のワイヤーを伸ばしていく。単分子ワイヤーソー。二十メートル以上伸ばせるそれは、微細な振動によって切断力を増し、鞭のように振るうことで鉄板でも人体でも真っ二つに出来る代物だった。

 頭上を通り過ぎようとする足音に向け、ヴィクトリアが身をひねりつつワイヤーを振り上げ……と、その攻撃動作が突然停止する。ワイヤーの先端は勢い余って天井に触れかけるが、寸前で引き戻されスルスルとソードガンに収納されていった。

 足音は真っ直ぐに通り過ぎ、前の先頭車両に移っていった。

 ヴィクトリアは無表情のまま客室内に戻っていく。

「相手はローマ教皇の護衛で、聖騎士という特殊な身分の男だ。私に危害を加える可能性は低いよ。それに、殺してしまうと後々問題になってしまう」

 小柄なティナに抱きつかれた状態で悠然とソファに座り、セイン大統領が言った。ヴィクトリアの視覚情報はリアルタイムでメモリーに伝わっており、説明を受けた大統領が攻撃中止を命じたのだった。

「あの男、銃弾を剣で弾きました」

 ヴィクトリアがハスキーな声で発言し、セインは眉を上げて驚きを示した。

「それは凄いな。合衆国でもそんなことが出来る超人は数えるほどしかいない。形骸化したお飾りの組織だと思っていたが、バチカンも侮れないな」

「プレジデント、体を丸くなさって下さい。いざという時にはプレジデントをお抱えして列車を脱出しますので」

「そうだね。私は全く心配していないよ。君達に任せておけば、私が怪我をする可能性など万に一つもないだろうからね」

 セイン大統領は余裕のある笑みを見せ、メモリーは静かに一礼した。

 

 

 雷鳴轟く空の下、聖騎士は風に逆らって列車の上に立つ。凹凸がなくいかにも滑りやすそうな屋根に、彼の何の変哲もないブーツは魔法のように吸いついて微動だにしなかった。

 目を細めて前方を見据える。左右をフェンスで守られたガイドウェイは一直線に何処までも続き、いや、彼の目は一キロ三百メートル先の断裂を認めていた。聖騎士は低く重い唸りのような溜め息のようなものを吐く。

 空気抵抗を抑えるために先頭車両の前部はなだらかに傾斜している。フロントガラスの向こうでは鉄道会社の制服を着た初老の男が恐い顔で立っていた。車掌兼予備運転士である彼に今出来ることは見守ること以外になかった。

 緊急用の摩擦ブレーキは軋んだ悲鳴を上げ続け、明らかにスピードが落ちてきている。しかし時速五百キロからのブレーキはかけ始めてから停止まで数キロメートルを要する。ガイドウェイの断裂地点までは間に合いそうになかった。このままでは列車は脱線転覆・転落し、乗客の多くが死亡する大惨事となるだろう。

 聖騎士は下を覗き、フロントガラス越しに車掌と一瞬だけ目が合うが、意を決したように更に前へと足を踏み出した。フロントガラスを過ぎ、傾斜する車体前面を、更に前へ。

 ラウンド・ザ・ワールド・ドリーム・エクスプレスの最前部に聖騎士は張りついていた。ガイドウェイの床に敷かれた幅の広いリアクション・プレート。そこに落ちた障害物を掬い捨てるため、車体前部の下端にはヘラのようなパーツがついている。その上に、聖騎士は足を置く。高速で床が流れていく。

 聖騎士は右手の剣を逆手に握り直し、リアクション・プレートの横に突き立てた。彼は自らブレーキとして加わるつもりなのだ。

 剣はコンクリートの床に何の抵抗もなく突き刺さった。刃を立てた向きは列車の移動と平行で、生じた細い亀裂が後方に流れていくだけであまり意味はない。だが聖騎士はそこから剣にひねりを加えた。一気に抵抗が増し、ガガガガとコンクリート片を飛ばして列車が減速……するほどではなかった。腕にかかる負担に聖騎士は顔を歪めつつ、更に刃をひねる。コンクリートの砕ける音に混じって二つの音が鳴った。張りついた列車の高硬度ボディが凹む音と、彼の右腕の骨が折れる音だった。

 列車の減速程度がましになる。だがガイドウェイの断端はかなり近づいている。やはりこれでも間に合わない。折れた腕で必死に剣を握りながら、左足を、ヘラの下へと伸ばした。

 床に触れた靴先が一瞬で削れ、続いて細かな血飛沫が散った。足の肉が、骨が削れ飛び、列車が更に少しだけ減速する。足首が消える。脛が削れていき、しかし聖騎士は呻き声一つ洩らさずに耐える。車掌が凄い顔をして見守っている。フロントガラスに赤い粒が張りついていく。

 しかし、まだ足りない。ガイドウェイの断端がみるみる迫ってくる。聖騎士は左手で列車のボディを掴む。指がめり込んで体をしっかり固定すると、彼は右足も下ろしていった。

 

 

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