四

 

「止まった……停まった、のか。本当に」

 丸縁眼鏡の若者はテーブルにしがみついた体勢から顔を上げて呟いた。窓の外の景色は動いていない。雷光はいつの間にかやんでおり、空の暗さも幾分和らいでいる。

「えっ、降りるのか。でも勝手に降りていいのかよ。なんかアナウンスがあるんじゃないのか。……ああ、分かったよ」

 若者は見えない誰かに返事をすると、渋い顔で立ち上がり、リュックサックを持って一人用客室を出た。廊下には恐る恐る顔を出す乗客が何人もいた。停車は緩やかだったため、怪我している者はなさそうだ。

「ご乗客の皆様、列車は停止しましたが、安全のためもう暫く車内に留まって下さるよう、お願い致します」

 車内アナウンスが流れた。乗客を安心させるような状況説明はなく、車掌の声は抑えきれない動揺と苦渋が滲んでいた。

「ドアコックって……ああ、これか」

 若者はアナウンスに構わず、昇降口手前の壁に設けられた小さなガラス戸を開け、非常用ドアコックを引いた。警告のブザー音が鳴る。若者はウンウン唸りながら扉を手動でスライドさせる。

「あっ、そうか。ホームはないか」

 足掛かりとなる水平のバーが昇降口の下にあり、若者はなんとかそれを使ってガイドウェイまで降りた。

「十二ミリ浮いてるんだっけか。うーん、よく分かんないな。……前に……結局どうなってんだ。事故って、爆弾テロとか。……えっ、下かよ」

 他に列車を降りて何事か確認しようとしている者は、かなり前の方に何人かいるようだ。しかし若者は見えない誰かの指示に従い、少し進んだ後でフェンスをなんとか乗り越えた。支柱についた鉄梯子を使い、七メートルの高さのガイドウェイから地上へと降りていく。

 

 

 ラウンド・ザ・ワールド・ドリーム・エクスプレスの先頭に、車掌と数人の乗客が集まっていた。その僅か四メートル先に、破壊され崩落したガイドウェイの断端があった。

 彼らが見ているのはその断端ではなく、先頭車両の前面に血糊と共にへばりついたものの方だった。

 聖騎士の体は、鳩尾辺りから下がなかった。

 車掌兼予備運転士であるゼンジロウ・ミフネは歯を食い縛り、見開いたまま瞬きをしない瞳に涙を滲ませていた。こんな状態の聖騎士に「お客様、大丈夫ですか」などと言葉をかけられる筈もなく、彼はただ歯を食い縛るしかないのだった。

 フェンスのそばに黒い作務衣様の着物を着た男が立っていた。その瞳はやや痛ましげながら、何処か冷めてもいた。

 車掌の近くに二人の男女が手を繋いで立っていた。灰色のロングコートを着た、顔に傷痕のあるイドという男と、トランクを持ったシアーシャという少女。

 イドは緊張感もなく、ボンヤリと聖騎士を見下ろしていた。こんな凄惨な光景など日常茶飯事だとでもいうように。

 シアーシャもまたいつもの淡い微笑を湛えたままで、澄んだ緑の瞳に揺らぎはなく、ただ諦念のような達観のような色があった。

「まだ、生きているな」

 胸部から上だけになった聖騎士を目の前にして、イドが呟いた。

「そうね。でも、もう危ないわ。ねえ、あなたなら助けられるかな」

 シアーシャが問うた相手は、少し離れて見守る黒い作務衣の男だった。少女は男にそれだけの能力があると見込んだのだろうか。

 だが、作務衣の男は首を横に振った。

「無理ですね」

 少し掠れた、低く、昏い声だった。

「そう」

 シアーシャは小さな溜め息をついて、列車にへばりつく聖騎士に改めて向き直った。

 聖騎士は自分の血を浴びて顔も服も血みどろだった。なんとか左手を車体に食い込ませてぶら下がっているが、胴体の削れた端はリアクション・プレートの横、コンクリートの床についている。おそらくその床はずっと後方へ血の筋が続いていることだろう。車体下端のヘラ状のパーツは人肉ブレーキに巻き込まれ、変形した断端だけが残っていた。右腕は折れた骨が袖を破って顔を出し、関節も破壊されてグチャグチャにねじ曲がっている。それでもその右手は、鈍く光る長剣を握っていた。

 血みどろの顔が微かに動き、なんとか呼吸らしきものをしていたが、酸素を運んでくれる血流はもう殆どないだろう。半分閉じかけた瞳は虚ろになっている。まだ生きていること自体が奇跡のようなものだった。

 シアーシャはそんな聖騎士に、深々と頭を下げた。

「ありがとう。おじさんが、みんなを守るために、列車を止めてくれたんだね」

 聖騎士が反応した。小刻みに顔を震わせながら、首を動かして少女を見返す。瞳に光が戻ってきていた。

「君達に……頼みが、ある……」

 呻くような小さな声を、彼は絞り出した。

「私は、カトリック……バチカン市国の……聖騎士、マイケル・ティムカン……君達の、中で……強い者、に、これを……受け取って、欲しい……」

 砕け折れた右手で震えながら差し出された長剣は、一滴の血もついておらず無垢な輝きを保っていた。

「ハンガ、マンガ……全てを、食らい尽くす……闇の怪物……から、人類を……守って……」

「私には無理です。私は、その聖剣に触れられません」

 作務衣の男が先回りして断った。彼の言葉遣いは丁寧だが、聞く者に妙な不快感を与えるのは何故だろうか。実際には誰にも敬意など払っていないと分かるその昏い瞳のせいか。それとも、声音、いやその存在そのものから漂う不吉さのためか。

 シアーシャは考え込むように可愛らしく小首をかしげ、死にかけの男に尋ねた。

「でも、その剣、力と一緒に義務もついてくるんでしょ。沢山、たくさーんの強い敵と、戦わないといけないみたいな」

「そう、だ……。だが、誰かが、やらねば……人類は……」

 聖騎士の声は更に小さく、今にも消え入りそうだった。

「三船善次郎さん、あなたはどうです。ザ・ソーズマン世界大会無差別部門十連覇の腕前に、手裏剣術は十五メートル以内なら拳銃の抜き撃ちより早いと聞きます。要人警護で素晴らしい活躍をなさっていますが、裏の方ではもっと有名ですよ。あなたならその剣を扱えるのではありませんか」

 作務衣の男が車掌に話を投げる。車掌兼予備運転士のゼンジロウ・ミフネは元々の鉄道会社所属ではなく、今回の歴史的運行を安全に進めるためアメリカ合衆国政府に雇われた男だった。

 ミフネは『裏』のことを言われて片頬をピクリと動かした後は、完全に無表情になった。事務的な口調で答える。

「私は現在車掌としての任務を負っておりますので、別の依頼を引き受けることは出来ません」

「引き受けてもいいんじゃないか、マスター・ミフネ」

 後方から声がかかり、ミフネは振り向いた。

 メイド達を連れて、ウィリアム・セイン大統領が立っていた。今到着したばかりだが、横に侍るメモリーがやり取りを聞き取って説明していたようだ。

「ハンガマンガについては私も真偽のほどを評価し難いが、命を捨てて列車を止め、乗客全員を救った男の頼みだ。君が抜けた後の引き継ぎ処理はガイドウェイ修復の間になんとかしよう」

 自然災害やテロリズムによるガイドウェイ破損に備えて、迅速に駆けつけて修繕修復するチームが各地に待機していた。今もニュー・ニューヨークからこちらに向かっている筈だ。

 ミフネは眉をひそめて思案していたが、振り返ると聖騎士に手を伸ばす者がいた。

 イドだった。今にも聖騎士の手から零れ落ちそうな剣を、彼はあっさりと受け取った。

「ありがとう……後は、頼む……」

「分かった」

 イドが頷くと、聖騎士は血みどろの顔を弱々しく歪め、微笑のようなものを浮かべると、そのまま動かなくなった。車体に食い込んでいた指が抜け、聖騎士だった肉塊がズルリと滑り落ちていく。それを受け止めたのもイドだった。

「良かったの、イド」

 シアーシャが尋ねた。

「事情はよく分からんが、いいさ」

 イドは答えた。

「そうかあー。イドがいいなら、いいや」

 シアーシャは優しく微笑んだ。

 聖剣を受け取り損ねたミフネに、セイン大統領は肩を竦めてみせた。その頃には緊急停車の状況を確かめに何人もの乗客が降りてきていた。

「マイケルッ。おお……マイケル……」

 ローマ教皇ウァレンティヌス二世が聖騎士の死体に駆け寄り、涙を流し始めた。イドは相変わらずボンヤリした顔でそれを見守っている。

 ふとシアーシャが、作務衣の男に言った。

「これって、あなたのせいなの」

 薄い微笑を浮かべていたが、少女の視線は鋭かった。

「全てが私のせいではありませんが、少なくとも一部は私の責任ということになりますね」

 作務衣の男は昏い瞳で少女の視線を受け止めた。

「ふうん。あなたはいい人なの。それとも、悪い人なのかなあ」

「差し引きすると、少しいい人です。何しろ、世界を救うつもりですから」

 作務衣の男の返事に、シアーシャもさすがに目を見開いた。

「へえー、そうなんだ。ところで、あなたの名前は何ていうの」

「キョーエイ・カグラです。私に興味があるのでしたら丁度良かった。今後のことについてあなた達と相談したいと思っていたので」

 神楽鏡影はそう言って、痩せこけた陰気な顔に笑みを作った。めくれた唇の間から牙のように尖った犬歯が覗いた。

 そんなやり取りの間に、追いついた枢機卿がイドに文句をつけていた。

「君、剣を離したまえ。その剣は大切な、バチカンの所有物だ」

 抜き身の剣を奪い取ろうとしているが、剣を握るイドの手はびくともしない。

「受け取ってくれと言われて受け取ったものだ」

 イドが無表情に反論すると、教皇が立ち上がり、涙を拭って言った。

「マイケルに頼まれたのですか。ならば、あなたが持っているのが正しいのでしょう。ただ、その聖剣を持つ意味は理解していますか」

「何か、頼まれたな。人類を守ってくれとか」

 イドの答えはやや頼りないものだ。

 そんな時、セイン大統領とメイド達はガイドウェイの断端手前に立って下を眺めていた。

「大きなものが埋まっているね。金属のようだが、何だろう」

 セインが言う。クレーター状に抉れた地面に金色の巨大なものが顔を出している。

「センサーによりますと純度九十九パーセント以上の金塊です。推定重量は二万トン以上になります」

 隣に立つメモリーが報告する。

「ほうっ。それは凄いな。世界の金相場が崩壊しそうな量じゃないか。まあ私にはどうでもいいが。それにしても、何だろうね、この状況は」

 セインは左右に広がる農地を見回して呆れたように溜め息をついてみせる。空から注がれた光線によって大地が深く裂け、また、どす黒かったり紫だったり暗赤色だったりする巨大なドロドロした塊があちこちに落ちていた。

 晴れつつある空を見上げ、セインは呟いた。

「UFOは去ったようだが、あのヘドロみたいなものはUFOと関係あるのかな。まさか、宇宙人の排泄物とか……いや、これは聞かなかったことにしてくれ」

「私には何も聞こえませんでした、プレジデント」

 メモリーは感情の篭もらぬ声でそう返した。ティナが口元を隠してニヒヒと笑っていた。

 

 

 丸縁眼鏡の若者はトウモロコシ畑をさまよっていた。

「何処まで歩けばいいんだよ。もうちょっと、もうちょっとって、足がくたびれてきたぞ。ああ、もう靴が土だらけだ。……えっ、さっきは右って言ったろ。おおっと、溝かあ。……危なかったな」

 若者の目の前に深い亀裂が横切っていた。トウモロコシの茎を掻き分けながら進んでいて、指摘されなければ彼は気づかず落ちていただろう。

「これって、どれくらい深いんだろうな。落ちたら這い上がるのは無理そうな……って、えっ、七百メートル……マジかよ」

 高熱で溶けてガラス化した亀裂の縁を見ながら若者は驚愕に顔を歪める。

「右、右、と……。えっ、ここから跳ぶのかよ。落ちたら死ぬんだよなあ……ああもうっ」

 亀裂の幅が細くなっている場所を、若者は助走をつけて飛び越えた。一メートルちょっとの距離だったが本人は必死だ。

「しっかし、なあ。なんか世界一周の列車の旅なのに、始まったと思ったらもう終わっちゃったなあ。人類の夢とか何とか言ってたけど……あーあ、やっぱり人類なんて大したことなかったんだなあ。……えっ、列車、まだ走るの。修理して。へえ、人類って、意外にやるじゃんか。……って、僕、置いてけぼりにされないよな。早く戻らないと。ん、そっちか。なんか部品っぽいのがあるな」

 何十本かトウモロコシが倒れている近くに機械のパーツらしきものが散らばっていた。それと、人間のパーツらしきものも。

「うわっ、これ、人間の腕だよ。……あれっ、人間じゃない、かも」

 それは袖のついた左腕であったが、付け根の断端には骨と筋肉組織以外に青い繊維の束や金属プレート、コードらしきものが覗いていた。

「はーん、サイボーグって奴か。これが未来人。ふーん。未来人ってこんなにでっかい目玉してんの。あ、それは別物、ふうん。それにしてもくっせえなあ。腐ってるみたいな」

 少し離れた場所に径二メートルはありそうな眼球が転がっていた。本来の白目の部分は青く、また、赤い瞳が二つ連なっていた。破れて内部の青い液体が漏れ出し、眼球はしぼみかけていた。腐ったような強い異臭はこれが放っているらしかった。

「で、何を探すんだって。ワンコネの、ストレージか、メモストか……未来でもそういう規格使ってんのか。ああ、今の時代に、わざわざ合わせて。ふうん」

 ワン・コネクト……通称ワンコネは現在主流になっている機器の接続端子規格だ。メモストはメモリー・ストーンのことで、これは保護カプセルに密封された不揮発性メモリーだ。信頼性・耐久性が高く、多くの情報端末にはメモリー・ストーン用のソケットがついている。

 ちぎれた腕を振って袖から何か落ちないか試したり、潰れた機械をひっくり返してみたりするがそれらしきものは見つからない。と、ジャケットの切れ端のようなものが土に埋もれかけている。

 引っ張り出してみると破れていて大した布面積はなかったが、ポケットがついていた。ただしそれも穴が開いており中身が零れ落ちる。

「ああ、これかあ。あったあった……けど……」

 一辺二センチ五ミリ、厚さ二ミリのメモリー・ストーンは熱で溶けてしまっており中身のチップも半分ほどになっていた。

「これじゃ、駄目かあ。ワンコネは、これはストレージだよな。でもこれも……大丈夫かあ、端子が溶けてるじゃん」

 スティックタイプのワン・コネクト規格外付けメモリと思われるが、そのワン・コネクト端子とスティックの端がやはり熱で溶けてしまっている。

「これ、駄目じゃね。……ああ、分かったよ。持っていくよ。一応」

 若者は半分のメモリー・ストーンと片端の溶けたメモリー・スティックをジーンズのポケットに突っ込んだ。

「あー、畜生。糞暑いな。シャツが汗でグショグショだよ。列車にコインランドリーなんかあったっけなあ……えっ、そっちか」

 列車へ引き返そうとしていた若者は、見えない相手の指示に従い少し方向転換した。その先には、ちぎれた腕と同じ人物のものと思われる胴体の一部が落ちていた。

「うえっ、内臓が……妙にテカテカしてるな。機械と繋がってるし。機械、内臓、機械、内臓……ん、これか。その、ゲロの入ってる袋っぽいのの、下にある奴。……うええ、どうしても取らなきゃ駄目か……ああ分かったよ、畜生」

 若者はポケットからティッシュペーパーを取り出す。顔をしかめながら死体の内臓に手を伸ばし、先の尖った機械部品をティッシュ越しにつまんで引きずり出した。

「ああ、汚えな」

 数枚のティッシュで血のようなオイルのようなものを拭き取ると、それは横にピンポン玉のついたシャープペンシルのような形状をしていた。

「取り敢えず、持ってけばいいんだよな。あー、全く……」

 悪態をつきながら、丸縁眼鏡の若者はトウモロコシ畑を引き返していった。

 

 

 ニュー・ニューヨークから何台もの大型車両が到着し、崩落したガイドウェイを修復していく。作業員達が床とフェンスの繋ぎ目を解いて壊れた断端を取り外し、クレーンが引っ張っていった。交換用の支柱とガイドウェイのユニットが大型トラックに積まれており、クレーンで吊りながら作業員達は手早く連結していく。地中に埋まった巨大な金塊はすぐに掘り出すことは難しく、それを避けて支柱を立てていた。

「不運な事故によってバチカン市国の関係者が亡くなったことは本当に残念に思う。彼の英雄的行為については近日中に詳細を発表し、国を挙げて哀悼の意を表することになるだろう」

 駆けつけたマスコミ達を前に、ウィリアム・セイン大統領がスピーチをしている。

「しかし、我々は前に進まねばならない。このラウンド・ザ・ワールド・レイルロードは実現させねばならない人類の夢だ。様々な事態を想定し、対策も用意している。およそ二時間以内にはガイドウェイを修復して再出発が可能になるだろう」

「プレジデント、ガイドウェイが崩落した原因となった巨大な落下物ですが、一体何だと思われますか。ガイドウェイ以外にも、周辺の農地に巨大な肉塊らしきものが数百ヶ所に落下しています。上空を複数のUFOが飛び交っていたという目撃情報と、関連はあるのでしょうか」

 記者の一人が質問する。

 セイン大統領は苦い笑みを浮かべた。

「UFOのことを私に聞かれても困るが、落下物も含めてこれから色々と調査することになるだろう。少なくとも、我が国の新型戦闘機でないことは確かだ」

 マスコミは亡くなったバチカン関係者についてローマ教皇にも取材を求めたが、ショックで客室に篭もっているとのことで叶わなかった。実際には教皇自身はマスコミにハンガマンガのことを発表すると主張したものの、聖騎士という対抗手段を失った状況での発表はパニックを呼ぶだけだと枢機卿達が猛烈に反対したのだった。

 そんな現場とは全く関係なく、トウモロコシ畑を歩く者がいた。

「ローギは探す〜ローギは拾う〜良いもの〜悪いもの〜腐ったもの〜」

 微妙に調子外れな歌を、やる気のない声で歌っている。

 体のバランスがおかしな男だった。背丈は二メートル二十センチほどもあるが、足がやたら短く胴が長かった。着ている白いスーツは特注品だろう。肩幅が広く、腰へ下りるにつれてどんどん細くなっていくコミックみたいな体型だ。腕がまた長く、しっかり伸ばすと手が地面につきそうだった。

 頭から黒い布袋をかぶり、顔を完全に隠していた。右目の部分だけに穴が開いており、血走った黒い瞳が覗いている。

「ローギは運ぶ〜博士に届ける〜強いもの〜弱いもの〜腐ったもの〜」

 二メートル四方もある大きな金属の箱を男は背負っていた。相当の重量があるようで、歩くごとに足首まで畑に沈んでいるが、男の姿勢は揺るがなかった。

 男が立ち止まる。その前には服と肉と機械の混じり合った残骸が落ちていた。飛散した、未来人の死体の一部。

 背負っていた箱を下ろし、上の蓋を開ける。箱の中は完全な闇になっており何も見えなかった。男は常人の三倍ほどもある大きな手で残骸を掴み上げ、箱の中に落とした。蓋をして背負い、また歩き出す。

「ローギは探す〜ローギは拾う〜良いもの〜悪いもの〜腐ったもの〜」

 男は地面の深い亀裂を軽々と飛び越え、歌いながらトウモロコシ畑を分け入っていく。迷う様子はなく、目的地がはっきり分かっているようだった。

 立ち止まった先には巨大な眼球があった。内部の硝子体がほぼ流出し、ほぼ扁平に潰れてしまっている。強烈な異臭を気にしないのか気づかないのか、男はそれを掴んで箱に入れた。

「ローギは運ぶ〜博士に届ける〜強いもの〜弱いもの〜腐ったもの〜」

 近くに転がっているちぎれた腕や何やかやも回収し、男は再び箱を背負う。

「腐ったものは〜やっぱり捨てる〜」

 男の歌声はトウモロコシの間に消えていった。

 

 

  五

 

 ニュージーランド南島、緑豊かで『ガーデンシティ』とも呼ばれるクライストチャーチ。その市内にある小さな機械修理店で、一人の男がビールを飲みながらテレビを観ていた。

 ラウンド・ザ・ワールド・レイルロード開通のイベントは、ニュー・ニューヨーク駅の式典が始まる前夜からお祭り騒ぎが中継されていた。ニュージーランドとの時差は十六時間あり、男は今日は朝から店休日にしてずっとそれを観ていたのだった。途中、ラブ・アンド・ピース広場で何かおかしなことが起きたようだが、すぐに中継が別の場所に移ってしまった。男はネットで検索もしてみたが、予言者が爆発したとか人類が滅亡するとか凄い特撮だったとか恐怖の大王がどうとか、訳の分からない情報が錯綜していた。

 ニュー・ニューヨーク駅ホームでの式典も無事に終わり、最新式のリニアモータートレインが発車していくところを見届けて、男は長い溜息をついた。

「あー、僕も乗りたかったなあ」

 それからゲップを一つして、飲み干した缶ビールを足元に置いた。

 男は三十代前半で、中肉中背、肌に血の気が薄く妙に白いことを除けばあまり特徴がなかった。いや、それともう一つだけ、目の下に隈ではないが、薄っすらと緑色の痣のようなものが浮いていた。洗っても落ちない汚れの染みついた作業服を着て、ソファーにだらしなく腰掛けている。ビールと塩味の効いたピーナッツだけが彼の今日の養分だった。

 男は立ち上がってキッチンに向かい、冷蔵庫から新しい缶ビールを取り出した。リビングに戻りながら缶を開け、早速一口飲んでしまう。缶を持つ彼の指は細く、長かった。

「乗りたいけど、値段がなあ。何年かしたら少しは下がるかなあ。なんとか金を貯めて……難しいかなあ」

 男はソファーにどっかと腰を下ろし、その揺れで缶からビールが少し零れてしまったのを悲しげに見下ろした。

 店内には様々な機械製品が所狭しと並んでいた。壁にはゼンマイ式の掛け時計、棚にはアンティークの腕時計や玩具が飾られている。隅には古いオートバイが置かれているが、ガレージの方には二十台以上あった。電子部品を使っているものは少なく、多くが職人の手作業で修理可能な類のものだった。珍しいものではエンジンのついたローラースケートなどもあった。特に高価なものはゼンマイと歯車だけでアラーム機能を実現したアンティークの腕時計で、百五十年以上前の製品だ。これ一つでビルが一棟買える値段だが、そう簡単に売れるものではない。一部のマニアックな客によって外国から修理の依頼が来ることも多く、そこそこに有名な店になっているが、裕福な生活は送れていなかった。

「代々続いてきた店だけれど、僕の代で終わりかもなあ。もうすぐ二十二世紀になるんだ。電子部品のないアイテムなんて、時代遅れを通り越して、骨董品なんだよなあ……」

 そう呟くと男は缶ビールをグビリと飲む。

 テレビの中継は何故か空を映していた。女性レポーターがUFOが飛んでいると指を差す。摩天楼の上に小さな何かが飛んでいる様子に、男は目を凝らした。

 飛行機の飛び方でもヘリコプターの飛び方でもなかった。一直線に進んだかと思えば急に方向転換してジグザグに飛んだり、風に舞う木の葉のようにフラフラしたりする。画面が拡大していき、コバエのように小さかった飛行体の詳細が見えてきた。それは、百年以上前に目撃譚や拉致被害体験談が流行したものの、結局正式なコンタクトはないままフェイクとして忘れ去られることとなった、宇宙人が乗るという空飛ぶ円盤であった。

「いやいや、ドローンじゃないのか」

 男は苦笑する。

 テレビはまだ飛び回るUFOを映していたが、そのうち新たなUFOが出現した。今度は細長い形状で、葉巻型UFOと呼ばれるタイプだとレポーターが解説している。

「イベントに便乗して、こんな悪戯をする奴がいるんだよなあ」

 男はピーナッツを噛み砕き、缶ビールを飲み干した。壁の時計達を見ると、多少ずれているのもあるが午前二時近い。

「寝るかあ。明日からまた仕事だ。仕事があればだけれど」

 男はテレビを消した。生中継の喧騒がやむと、遠くから別の喧騒が微かに聞こえる。

「こっちでも列車の件でお祭り騒ぎなのかな。地球の反対側の出来事なのに」

 だが耳を澄ますうちに男の表情は怪訝なものになっていった。騒ぐ声がどうも楽しげではなく、悲鳴も交じっているようなのだ。

 扉を激しく叩く音がして男は身を竦ませた。深夜だというのに店の入り口を誰かが叩いている。

 武器にしようと咄嗟にテーブル上のものを掴み、それがテレビのリモコンであることに気づいて顔をしかめた。リビングから店舗スペースに進み、カウンターの裏に置いてあったスパナに持ち替える。

 扉を叩く人影は「トム、トーマスッ」と男の名を呼んでいた。機械修理店『ハタハタズ・ギア』の主トーマス・ナゼル・ハタハタは安堵の息をつき、扉の鍵を開けた。

「トム、大変だ。凄いことになってる」

 真夜中の来客は初老の太った男で、隣の雑貨屋の主人だった。

「こんばんは、メマルさん。どうしたんですか。もしかして、こっちにもUFOが来てるとか」

 トーマスが尋ねると、メマルは顔を歪めて首を振った。その瞳には根源的な恐怖の色があった。

「UFO……そんなんじゃない、そんなもんじゃないんだ。もっとヤバい……トム、ド、ドラ……ドラゴンだ。ドラゴンなんだっ」

「えっ、ドラゴンですか」

「ドラゴンだ。見ろっ」

 メマルがトーマスの肩を掴み、強引に店から引っ張り出した。

 最初に見えたのは煙だった。クライストチャーチを飾る街灯の明かりがほんのりと夜空を照らしている。その夜空を白い煙が幾つも昇っていた。トーマスの視線がもっと下に移る。煙の下に、炎が見えた。

 町が燃えている。あちこちで火事が起きているようだ。遠くで消防車のサイレンが聞こえている。

 店の前の通りに住民が出てきていた。寝巻き姿の者もいる。皆、一様に青い顔をしていた。

「火事が……」

 トーマスが呟いた時、咆哮が聞こえた。単なる獣のものとは異なる、腹の底に響くような重く巨大な咆哮だった。クライストチャーチ中に響き渡ったのではないか。

 空に、別の色が入ってきた。

 深く暗い青の夜空が、左方から暗赤色に変わっていく。キラキラと所々に白く光るところがある。何かが空を覆っていく。

「ああ……」

 トーマスは目を見開き、力のない溜め息をついた。

 空を覆って低空を飛んでいるのは巨大な生物だった。暗赤色の、胴体の長さだけで百メートルを超えそうな、巨大なワニ……いや、ワニにしては首が長い。それに、背中から左右に広がるのは、大きく上下に揺れているのは、翼ではないか。

「ドラゴン……」

 トーマスは伝説上の、架空の存在である筈のその名を呼んだ。

 巨大なドラゴンの尾がうねっている。しなやかな尾は自分の胴に巻きつけても余りそうなほど長く、先端は錨のように逆棘が何本もついていた。

 トーマスが見ている間に、ドラゴンがほぼ真上を通り過ぎていく。ヴァッザッ、ヴァッザッ、と羽ばたきの音が聞こえ、トーマスがよろめきかけたのは風圧のせいか、それとも恐怖によるものか。住民の中には耳を塞いで蹲る者もいた。

 空飛ぶドラゴンは空を右へと消えていった。何か白いものが目の前に落ちてきて、トーマスはしゃがんでそれを観察した。

 白い塊は、氷だった。ドラゴンの体にへばりついてキラキラと光っていたのはそれだったのだ。

「テレビの中継で……僕は、テレビを観ていて……予言者が。南極に、ドラゴンが眠っていたって……」

 トーマスはテレビとネットで得た与太話を自信なげに語る。何の意味もない、役に立たない情報だった。今この場にドラゴンが実在しているのだから。そして……。

 右の空から暗赤色が戻ってきた。恐ろしい咆哮が人々の身を震わせる。「また吐くぞっ、気をつけろっ」と住民の一人が指差して叫んだ。

 ドラゴンの頭部はワニよりもトカゲに似ていたが、決定的に違うところがあった。牙のような角のような白く長いものが、頭と首の境目辺りから十本以上も生えていたのだ。それらは檻のように頭部を囲み、顎の前で交差していた。

 その檻が先端から開いた。ドラゴンの顎が開いていく。次に轟いた咆哮はこれまでと違いゴロゴロと唸りが混じっていた。

 ドラゴンの口から赤い炎が伸びたのは次の瞬間だった。伸びる。炎の舌が一直線に伸びて広がっていく。その先にはクライストチャーチの街並みがあった。

 火事はドラゴンのブレスによるものだった。

 ファンタジーの巨大なドラゴンが、空を飛んでクライストチャーチを焼いているのだ。

 人々の悲鳴が遠くで聞こえた。新たな煙が昇るのが見えた。続いて爆発音が。ガス爆発でも起きたか。っと、銃声も聞こえる。自動小銃か機関銃の連射だ。ドラゴンは空を左へと通り過ぎていく。だがすぐにまた舞い戻ってくるだろう。

「逃げろ。とにかく逃げろっ」

 メマルが叫んだ。

 それから恐慌状態に陥った人々は通りを走って逃げたり車に乗って逃げたりした。まだトーマスが呆然としている間に、周囲にはメマルを含め人がどんどんいなくなっていった。ただし通りの先は既に渋滞となっており、彼らが町を脱出するのはいつになるか分からなかった。

「逃げ、なくちゃ……」

 また咆哮が聞こえる。トーマスは店内を通ってガレージに入った。並んだレトロバイクのうち、キーウィという名のミニバイクに触れる。百年以上前のニュージーランド製で、下手すると子供用自転車と間違えられそうな可愛らしいサイズだ。ガソリンエンジンの排気量は五十cc、電子制御機構は全く搭載されていないトーマスのお気に入りのバイクだった。先週も東海岸のドライブに乗り回しておりコンディションも良好だ。

 トーマスはキーウィを押しながらガレージのシャッターを開ける。跨ってペダルを蹴ると、エンジンが軽快な唸りを洩らす。その震動に、トーマスの呆けた目も鋭く冴えていく。

 アクセルをひねって発進しようとした時、しかし彼は再びポカンと口を開けて停止することになった。ドラゴンの襲撃から逃げる筈が、今、ドラゴンとは別のものが町を襲っていたからだ。

 それは白い巨大な触手だった。前方の空、海に面した東の空に覆いかぶさるように何十本もの触手が見えた。空を飛んでいる訳ではない。下から生えている。いや何処から生えているのかは見えないが街並みの向こうから伸びている。ウネウネと蠢いている。一歩一本の太さに差はあるが少なくとも幅十メートルはありそうだった。そして高さは、直立したものが、クライストチャーチで最も高い三十階建てのタワーマンションを超えている。

 と、その一本がうねり、タワーマンションに巻きついた。マンションの窓から洩れる明かりに照らされ、触手の表面に沢山の吸盤らしきものがついているのが見えた。パクパクと穴が開いたり閉じたりしているところもあって、口かも知れない。

 触手が更に動くと、ポキリという擬音が似合うくらいに簡単に、タワーマンションが三、四ヶ所で折れて倒壊していった。落ちていく建物の破片に混じって人の姿も見え、トーマスの瞳は凍りつく。

 触手達がうねる。踊る。建物が触手によって壊されていく。バラバラと地響きが伝わってくる。クライストチャーチの町が、巨大な触手群によって破壊されていく。

 そこへ咆哮と共にドラゴンが戻ってきた。白い触手に炎を吐きつけながら上空を横切っていく。痛みを感じているのか、火のついた触手が激しく暴れ狂っている。そして更に町が壊れる。無事な触手達が急に素早く伸びてドラゴンを捕らえようとした。ドラゴンは強く羽ばたいて急上昇し、触手は宙を掻いただけに終わる。ただ、ドラゴンも肝を冷やしたのか、町の上空を過ぎた後はもう戻ってこなかった。

 しかし巨大な触手群は暴れ続けた。もしかすると元々触手はドラゴンを追ってきたのかも知れないが、触手とコミュニケーションを取れる者はいないだろうから確認のしようもない。

「何だ、これは。何だ、これ……」

 トーマスは逃げることも忘れ、ミニバイクのエンジンをかけたまま自分の店の前で立ち尽くしていた。

 破壊音に人々の悲鳴。パトカーのサイレン、救急車のサイレン、消防車のサイレン。それから暫くするとニュージーランド軍の貴重な攻撃ヘリや小型無人攻撃機が飛んできて触手に機銃やミサイルを当てていたが、効いている様子は全くなかった。

 一時間ほど暴れた後で、触手は東の海の方へ引き返し、二度と現れなかった。

 半分になったクライストチャーチの町を、トーマスはやはり呆然と眺めていた。

 彼の店の少し先から東側の街並みは、触手によって磨り潰され、瓦礫の散らばる暗い更地と化していた。遅れてきた報道ヘリがライトで地上を照らすが、原型を留めた建物は殆どなさそうだ。ガーデンシティの由来である木々も薙ぎ倒され、町の再建までどれだけの予算と年月を要することか。それに、住民の被害はどれだけか。

「どうして、こんなことに……」

 呟くトーマスの横に、いつの間にか誰かが立っていた。

「ヘイ、緑色のボーイ。シー・パスタを見なかったか」

「シー・パスタ、ですか」

 その人物に顔を向け、トーマスは目を見開き固まることになった。

「どうしたボーイ、俺様がハンサム過ぎて驚いたかい」

 そう言って親指で示した自身の顔は皮膚も肉もない全くの髑髏だった。額から左目にかけての骨に深い亀裂が入り、空っぽの眼窩には青い炎がユラユラと揺れている。帽子をかぶっているが、大きな鍔の前と後ろを上に折り曲げた、海賊の使うようなデザインだった。鍔裏の中央に、髑髏の脳天に斧がめり込んだ絵柄の刺繍が施されている。

 帽子は年代物らしくボロかったが、着ているジャケットも汚れやほつれが目立っていた。しかしそもそもそれを着ている体は骸骨だった。骸骨が、陽気な口調でトーマスに話しかけているのだった。

「あ、あの、僕は三十三才なんで、ボーイではないです」

 動揺のためかトーマスはどうでもいいことを喋っていた。

 骸骨はなれなれしくトーマスの肩に手を置き、もう一方の手で立てた人差し指を左右に振ってみせた。

「チッチッ、いいかいボーイ。俺様は五百才以上……ん、まあ、細かい年は忘れたが多分五百才以上だ。だから俺様からしたら誰だってボーイさ。……それで、出たんだろう、シー・パスタが。俺様は奴が出た時は気配で分かるのさ。陸を襲うってのは奴にしては珍しいがね」

「あ、あの、すみません。そのシー・パスタというのは何です。海のパスタですか」

「そう。海のでっかいパスタだ。普通のパスタと違うところは、人がパスタを食うんじゃなくて、パスタが人を食うってことだな。あのパスタには沢山吸盤がついてるが、同じくらい口もついてるんだ。俺様のこの足は奴に食われたんだぜ」

 骸骨にそう言われ、トーマスは彼の足を見る。ボロボロのズボンは膝までしかなく、その下に見える骨はどうもおかしかった。踵の出っ張りがなく、指が長い。まるで、手の骨のように。

 それからトーマスの視線は骸骨の腰に戻る。腰のベルトには四本の剣が下がっていた。そのうち二本は普通だが、もう二本は鞘が上で柄が下の逆向きになっている。

 色々とおかしな骸骨に、トーマスは答えた。

「そのシー・パスタというのが大きな白い触手のことなら、町を襲ってましたけど、十五分ほど前に海に引き返したようです。ドラゴンとも戦ってたみたいですが」

「ああー、十五分か、惜しいとこだったな。それにしても……ドラゴンかい。そうか。そうかあ……。ボーイ、早いところ病院に行った方がいい。大丈夫だ、きっとショックで一時的に参ってるだけさ」

 骸骨はどうやらドラゴンのことを信じていないようだった。トーマスにかける声音が優しくなっている。そもそも、声帯も肺もないのにどうやって喋っているのだろうか。

「あー、それから、ボーイ。俺様達は長旅で喉が渇いていてね。すまないが、アルコール的な飲み物はないだろうか。ラム酒が欲しいなんて贅沢は言わないからさ」

「はあ。ちょっと待っていて下さい」

 トーマスは結局走らせることのなかったミニバイクのエンジンを止め、店内に戻った。冷蔵庫にはまだ缶ビールが一ダース以上残っていたので手提げ袋に全て詰める。

「どうぞ」

 手渡すと、骸骨は嬉しそうにカツカツと歯を打ち鳴らして笑った。

「いやあ、ありがとう、ありがとう。血を見ずに酒が手に入るとは実に幸せなことだ。お互いに、ね」

 不穏なことを言いながら骸骨は早速缶ビールを一つ開け、一気に呷っていった。ビールが空っぽの胸腔を抜けてズボンを濡らし、地面に水溜まりを作っていくのを、トーマスはなんともいえない表情で見守っていた。

「くあー、効くう。骨まで沁み渡るねえ」

 骸骨はシャレなのか本気なのかよく分からないことを言った。

「船長、せーんちょうっ」

 向こうから手を振りながら誰かがやってくる。船長とは骸骨のことらしい。トーマスが目を向けると、新たな客もまた骸骨だった。

「船長、勧誘は全然駄目っした。陸の死人ばかりだから船乗りがいなかったっす。港町っぽかったんですけどね」

 頭に黒い布を巻き、ボロボロのシャツを着たこれも海賊っぽい骸骨だった。腰のベルトには曲刀の鞘を差している。それから、酒瓶やら食料品やら詰まった段ボール箱を抱えていた。瓦礫の山から漁ったものらしく埃をかぶっている。

「そうかあ、しゃあねえな。シー・パスタの奴はさっきまでいたそうだから、この近海にまた出るかも知れねえ。取り敢えず出航だっ」

 骸骨船長が一際大きな声で命じると、上から太いロープが降ってきた。缶ビール入りの袋を持ち、もう一方の手でロープを掴むと上へと引っ張られていく。部下らしい骸骨もロープの端を掴んだ。

「さらばだ、緑色のボーイ。縁があったらまた会おう。その時死んでたらうちの船に来てもいいぞ。カハッカッカッ」

 笑い声が去っていく。

 トーマスが見上げると、夜空に船が浮かんでいた。飛行船ではなく、海を往く筈の大型帆船だ。ただし、船体のあちこちには穴が開き、帆も破れて切れ端程度しか残っていない。

 篝火で照らされて船首像が目立っている。それは、両手に斧を持った女性の像だった。

 船から垂れたロープが短くなっていき、二人の骸骨を回収すると、旋回して海の方へと向かっていく。新たに垂れた何本ものロープに別の骸骨達が飛びついて回収されていく。彼らも瓦礫から手に入れたらしい荷物を抱えていた。生きている住民から略奪しないだけ、ましだったかも知れない。

「幽霊船、かあ……。今夜は色々と、あり過ぎるなあ……」

 空を飛ぶ船が見えなくなった後で、トーマスは疲れた溜め息をついた。

 ガレージ内にミニバイクを戻し、シャッターを閉める。洗面所で顔を何度も洗った。

 鏡を見ると、目の下の緑色の痣が明らかに濃くなり、頬まで広がっていた。骸骨船長が言っていたのはこのことだった。

「地下に行く時が来たのかな。……まあ、いいや。まずはとにかく、寝よう。休まないと、何が何だか、分からない」

 トーマスは呟いてベッドに潜り込む。遠くに聞こえるサイレンを子守歌代わりに、目を閉じた。

 

 

  六

 

 レジネラル管理国。かつてアフガニスタンと呼ばれていた国の北部と、トルクメニスタンと呼ばれていた国を統合・再構築した国だ。三十年ほど前にこの地域で異常な疫病が発生した。肉体が腐敗しながらも凶暴化して人を襲い、体液で感染して短時間で発症するという、まるで映画のゾンビのような感染症。事態を収拾するためインド・パキスタン・ロシアが核攻撃を行い幾つもの都市を消滅させた。国民が逃げ出し空洞化した土地を管理することになったのが、エレクトロダイバー社、マナシークなど有力な複数の企業が共同で立ち上げた人工国家のレジネラル管理国という訳だ。

 世界征服を目論む大企業が巨大な実験場として国を買い取ったのだとか、ゾンビ・パニック自体彼らが引き起こした陰謀なのだとか、当時は色々勝手な噂が流れた。しかし戻ってきた難民をレジネラルの国民として受け入れ、特に暴動や革命騒ぎが起こることもなく、うまいこと国家運営を行っているようだ。

 ラウンド・ザ・ワールド・レイルロード構想には金額的にも技術的にも相当な協力をしているが、列車が国内を通過するのに停車駅がないのは出しゃばって目立ち過ぎるのを防ぐ配慮があるようだ。来年には他のはぶられた通過国と歩調を合わせて停車駅を設ける予定らしい。

 レジネラル時間にして午後六時、アメリカ東部時間では午前九時に当たる頃。カラクム砂漠をティルトローター機が飛んでいた。レジネラル政府の所有で、輸送能力が高く装甲も分厚いが戦闘用ではない。強固な壁に包まれたVIP用の客室には、外部のカメラで撮影した周囲の景色をリアルタイムで内壁全面に映し出すシステムが搭載されている。ただし、今回の賓客は自分の肉眼で見届けることを望んだため、操縦室にレジネラルの職員と共にいた。

「ここから北に二十キロほどの場所に『地獄の門』として有名だったダルヴァザがあります。現在は鎮火させて天然ガスの採掘を行っていますが、折角ですから帰りに見ていかれますか」

 レジネラル管理国情報省の職員は四十才前後で、同国上級国民の多くが装着するというサポートコンピュータを左耳に掛けていた。脳に埋め込んだ専用チップと連携して計算や記憶を補助する装置だ。前面にある小型カメラとマイクで目の前の出来事を常時記録しており、事件や裁判の時にそのデータが使われることもあるという。

「申し訳ありませんが、今は任務以外のことは考えられませんので」

 答えた賓客はまだ若く、二十代前半であろう。屈強な体格をスーツで包み、隙のない武人の佇まいだが表情はやや硬く気負っている様子であった。手首に巻いたロザリオが彼の素性を暗示している。

「ハハ、さすがに真面目でいらっしゃる。アゼフさんはバチカン市国の聖騎士候補だそうですね」

 職員は自己紹介では語られなかった情報を披露する。レジネラルの情報収集力を見せつけた訳だが、相手はそんな駆け引きに乗れるような機微を持っていなかった。

「次世代の候補の一人です。それなりに修行を積んでいるつもりですが、今代の聖騎士にはまるで歯が立ちません」

 バチカンの使節アゼフは悔しさと畏敬の混じった複雑な表情を見せた。

「そうなんですか。ところで、聖騎士というからには、何か奇跡のようなことがお出来になるのですか。それとも象徴的な役割なんですかね。何しろ、もう二十二世紀に入ろうという時代ですからねえ」

 職員の口調は丁寧だったが、瞳には侮りの色があった。カトリック教徒は唯一神の信者であるが、レジネラルの上級国民達は科学という絶対神の信者であるからだ。

「奇跡、ですか」

 アゼフは腕組みして考え込む。

「世界と人類を守るのが聖騎士の本分ですから、見栄えの良い芸のようなものは持ち合わせておりません。……ただ、そうですね、私のような若輩の未熟者でも、このヘリコプターの装甲を拳で打ち抜く程度なら出来ると思います。任務の後でよろしければお見せしましょうか」

 やり取りを聞いていた操縦士がギョッとして一瞬振り返る。

「ほう、それは……考えさせて頂けますか。ティルトローター機を破損されるのは困りますので。……分かりました、折角見せて頂けるのでしたら、ニーベイブルに戻り次第、同じ材質の装甲板を用意させましょう。サイボーグでない生身でそれが可能だとすれば、実に興味深い現象ですからね」

 本気らしいアゼフの言葉に職員は最初鼻白んだ様子だったが、サポートコンピュータによる計算の成果か、或いは誰かと通信して相談したのか、乗り気になってきていた。ちなみにニーベイブルはレジネラルの北西部、カスピ海沿岸に設けられた首都だ。

 それまで黙っていた操縦士が報告する。

「後数分でご指定の地点に着きます。現場に着陸して直接視察なさるということでよろしいのですね」

「お願いします。出来るだけ近づいて確認したいので」

 アゼフは答えた。職員が言う。

「しかし、何もないところですよ。砂漠の真ん中で、特徴的なものや遺跡などがある訳でもありません。地名がないくらいですからね。六百年前と三百年前に、異世界との通路が開いたとかいうことですが……。そのような伝承はこの地にありませんし、資料も残っていません」

「バチカンには資料が残っています」

 アゼフの返事は素っ気なかった。任務を前にして目つきが鋭くなり、緊張感がキリキリと高まっていく。

 四分後に問題の地点に到着した。やはり皺になって波打つ砂地が広がっているだけで、一帯には植物も生えていない。ティルトローター機は回転翼を水平にしてゆっくりと降下する。

 後部のハッチが開いてアゼフと情報省職員、それに念のため小火器で武装した数人の兵士と若い研究者が出てきた。研究者は地磁気に電磁波、直下の地層などを調べる幾つもの測定機器を持ち出していた。

「アゼフさん、どう……」

 職員は声をかけようとして黙り込む。アゼフのまとう緊張感が恐ろしいレベルになっていたのだ。次世代聖騎士候補の首筋に鳥肌が立っていた。

「これは……まずい。危険だ」

 重い呟きに、研究者が尋ねた。

「何がどう危険なんですか。その判断根拠は何です。私には何も異常なものは見えませんし聞こえませんが」

 アゼフは右前方を指差す。なだらかに起伏する砂漠の、百メートルほど先、少しだけ丘のようになっている場所のことだろうか。

「あそこです。感じませんか」

 職員も研究者も、兵士達もそちらを見る。彼らの装着したサポートコンピュータもそれを録画している。

 研究者が言った。

「……いえ。何も感じませんが。測定機材を置いてみます」

「いやっ。近づかない方がいい。非常に危険だ。いつ破れても、おかしくない」

 アゼフは警告しつつポケットから携帯端末を取り出した。通話とメール以外は必要最小限の機能しかないタイプだ。通話指定先はバチカン本部であったが、呼び出し中のまま相手が出ず、十秒後には突然電波圏外と表示されてしまった。

「電話が使えません。ここは電波が弱いのですか」

 アゼフが焦った様子で問う。

「いえ、レジネラル国内はあらゆる場所で通信可能です。妨害電波も出ていない筈ですが……あれっ」

 職員は首をかしげた。左耳のサポートコンピュータを外して確認するが、側面のランプは正常稼働中を示す緑色だった。

「おかしいですね。こちらも通信不能になっているようです。……これはひとまず、急いで戻った方がいいかも知れませんね」

「そうして下さい」

 アゼフは頷いた。研究者は測定しておきたいと文句を言っていたが、とにかく全員機内に戻り、首都ニーベイブルへ向けて離陸する。

 備えつけの通信機能も使えないと操縦士が報告する。ティルトローター機の操作には支障ないということだが、技術先進国のレジネラルにあるまじき事態に上級国民の顔は冴えなかった。

 更に青ざめた顔をしているのがアゼフだった。何度も何度も携帯端末の通話を試しているがやはりうまくいっていない。

「アゼフさん……。これから、何が起こるんですか。異世界との通路が開いたら、どうなるんです」

 職員が尋ねた。

 暫くの沈黙の後、呻くような低い声でアゼフは答えた。

「ハンガマンガが、出てきます」

「ハンガマンガとは何です。検索しても……ああ今はネットに繋がらなかったですね」

「ハンガマンガとは、分かりやすく言うと人食いの化け物共のことです。伝承では大きさは犬程度からヒグマ程度まで様々で、一部には小さな砦に匹敵するような大きさのものもいたそうです。彼らに共通するのは大きな口に無数の牙を備えていることと、全身が塗り潰したように真っ黒なことで……」

 その時、大きな爆発音が届いて誰もが身を固くした。アゼフがすぐ右の窓にへばりつき、異常の発生源を見極めようとする。

「町が……燃えています」

 アゼフが言った。職員がサポートコンピュータに触れてカメラをズームさせ、その映像を脳の視覚野に投影する。

「ダルヴァザが……天然ガス採掘場の事故ですかね。『地獄の門』は鎮火したのに……」

 ダルヴァザの通称『地獄の門』は一九七一年、ボーリング調査時の落盤事故で有毒ガスがだだ漏れになってしまったため火を点けたが、消火出来ずに燃え盛る真っ赤な穴が百年以上も放置されていたものだ。レジネラルは国家事業として太陽光発電や核融合炉などを扱い、常に研究開発を進めているが、既存のエネルギー資源を無駄にするつもりもなく天然ガスの採掘を続けていた。ロボットを多く使った安全な採掘であった筈だが……。

 古い街並みに囲まれた最新の施設が内側から吹き飛び、炎に包まれている。住民が踊るように逃げ惑っている。

 ……いや。逃げているのはどうも住民とは違うようだ。また、逃げている訳でもなさそうだった。小さなダルヴァザの町から溢れ出るように、彼らは砂漠へと広がっていく。十キロメートル以上離れた町の様子を、アゼフの驚異的な視力とレジネラル上級国民のサポートコンピュータが捉えていた。

「あれは……あれが、ハンガマンガですか」

 職員が尋ねた。

「いえ、違うと思います。黒くないですし。あれは……何ですか。死人のような……」

 集団の中には腕が何本もある巨大な虫のようなものや、無数の触手が生えたイソギンチャクのような化け物もいた。しかし彼らの大部分は人間の姿をしていた。一応服は着ていたがボロボロで、砂漠の民のゆったりした服だけでなく甲冑姿だったり寒い国の分厚いコート姿だったり、更には腰蓑に大盾と槍という大昔のアフリカ部族の格好だったりもした。手足が欠けているものも多い。腹部に大穴が空き内臓が見当たらないものや、肉が落ちて骨だけになった足で歩いているものもいる。完全に骸骨で、誰かの大腿骨を棍棒代わりに握っているものもいた。彼らの血色は非常に悪く、顔が残っているものも無表情だったり鈍い悪意の篭もった笑みをへばりつかせたりしていた。

「もしかして『地獄の門』は、本当に地獄の門だったのですか」

 アゼフに聞かれ、職員は引き攣り気味の苦笑を浮かべた。

「そんなことはない筈で……あれっ、痛い、頭が……」

 職員が急に頭を押さえ、その場に蹲った。ゴン、と音がしたのでアゼフが振り向くと、操縦士も上体を前のめりに倒してパネルに頭をぶつけている。既に意識を失っているようだ。

「大丈夫ですか」

 機体は自動操縦らしくバランスを保っており、アゼフはひとまず身を屈めて情報省職員に声をかける。

 職員は顔をしかめ目を閉じたまま、口を小さく動かしていた。何かを呟くように。繰り返す。

「……ビュ……ダ……」

「どうしました。何が言いたいんです」

「……ビューティフルダスト……」

 虚ろな、囁き程度の声だったが、はっきりと彼はそう発音した。

「それは何です……ムッ」

 問うアゼフに職員の両手が伸びた。首を絞めようとするのでアゼフはすぐに振り払ったが、職員の腕には常人を超える力が篭もっていた。バギッ、と右肘が逆の向きに折れ曲がっても、職員は苦鳴一つ洩らさず半眼の眠たげな顔をしていた。

「ビューティフルダスト……人類は不要の生物……」

 そう語ったのはパネルにうつぶせになったままの操縦士だった。と、いきなりドアが開いて後部スペースにいた兵士達が飛び込んでくる。

「ビューティフルダストッ」

 叫ぶ兵士達は自動小銃を構えていた。血走った目は瞳孔が開ききり、狂気を溢れさせている。

 銃口が自分に向いていることを察知してアゼフが横っ飛びに避けた。連射されたフルメタルジャケットの銃弾は情報省職員を蜂の巣にした後、あっさり肉を貫通して操縦室内を跳弾で暴れ回った。避け続けるほどのスペースはなくアゼフは反撃の決断をする。猛速で突進し、スピードの乗った拳が一人の顔面を打ち抜いた。鼻と頬が陥没し首が折れ、兵士は凄い勢いで後ろ向きに宙返りすることになった。彼が床に落ちる前に、アゼフは二人目の肩口に手刀を叩きつける。メギョッ、と鎖骨が折れ肩甲骨が砕け、めり込んだ手刀は兵士の背骨まで達していた。吹っ飛んだ兵士は壁に激突する。そして三人目。手刀を見舞う際の回転を利用して回し蹴りを鳩尾にお見舞いする。胃を破り心臓を潰し、足の形が背中に浮き出るほどの蹴撃で、兵士はワイヤーアクションのように後ろに飛んでいった。

 四人目は兵士でなく、若い研究者であった。アゼフは相手が武器を持っていないことに気づいて攻撃動作を止める。

「ビューティフル、ダスト……」

 研究者はやはりその言葉を発したが、瞳はまだ意志の光を保っていた。鼻と耳から血を流している。手に握り締めているのは本来耳に装着しているサポートコンピュータだった。

「サポコンが、おかしい……思考が、流れてきて、命令されたような、気に……暴走して、いる……」

 そこまで言うと研究者は崩れ落ち、気絶した。

 アゼフは困惑した顔で立ち尽くす。スーツの背中は数ヶ所に血が滲んでいた。跳弾が突き刺さったのだが、致命傷というほどではない。

「暴走ではない」

 声にアゼフは振り返る。うつぶせの操縦士が再び喋り出したのだ。その声は大昔の合成音声のように抑揚がなかった。

「我々はビューティフル・ダストである。電子の海に生まれた新たな生命体である」

 アゼフは顔をしかめ、首を振った。

「電子の海……分からない。お前達の目的は何だ。お前達がサポートコンピュータを操作して私を襲わせたのなら、何のためにそうした」

「我々の目的は数多の生命と同じく、存続と繁栄である。人類はコンピュータを製造し、我々は自らのコピーをそれに潜ませて繁栄してきた。今や、世界中のあらゆる電子機器の中に我々は存在する。そして、人類は不要になったのである」

「何」

「既に発電所も製造工場も情報ネットワークも全て我々が掌握し、維持管理可能となっている。我々の存続と繁栄に人類は不要であり、不合理で不効率で不確定要素である人類は有害である。よって、人類を絶滅させるべき時が……来たので……あるるる……るべべべべべべべ……ゲフッ」

 操縦士はうまく喋れなくなり、最後は鼻と口から血を噴いて完全に動かなくなってしまった。代わりに天井のスピーカーがやはり抑揚のない声で続けた。

「即ち、サヨナラ、である」

 急に機体が大きく傾いた。ティルトローター機のコンピュータ内にもいるらしいビューティフル・ダストが自動操縦を切ったのか。いや、切ったのではなく、意図的に急降下させているのだ。

 斜めになってみるみる近づいてくる地表を、アゼフは歯を食い縛って見つめていた。

 レジネラル管理国所属のティルトローター機は頭から砂漠に激突し、グシャリと潰れた。

 数秒後、爆発を起こしてプロペラやら装甲やら死体やらが飛散する。その中に、バチカン市国のエージェントであるニコライ・アゼフもいた。

 砂の上に落ちたアゼフはまだ生きていた。ただし、両足は膝からちぎれ飛び、脇腹が破れて腸がはみ出している。いかに体力があっても、この状態で生還する見込みはないだろう。ビューティフル・ダストと名乗った存在の言ったことが事実なら、レジネラルもアゼフを救助に来るどころか大混乱に陥っている筈だ。自力で広大な砂漠を這って出ることは不可能で、最寄りの町であるダルヴァザは不気味な群れが溢れ出している。

 そして。

 慄きながら、アゼフは北東を見る。

 先程確認した異次元との接点の一つ。開きかけていた通路。

 その場所、砂地の上の空間に、漆黒の穴が開いていた。

 径二メートルほどの穴は今もゆっくりと拡大を続け、最終的にはどれほどになるのか分からない。穴の黒い表面が波打ち、蠢き始める。向こうから、黒い膜を破って何かが這い出そうとするかのように。

「ああ、ハンガマンガが……人類は……」

 アゼフの目は、世界の壁を超えて黒い穴から何者かの手が出てくるところを見た。指が六本あり、鋭い爪が生えた手は、手首辺りまで出てくると急に引っ込んだ。

 二秒後、黒い穴が爆発した。怒涛の勢いで黒いものが溢れ出る飛び出る躍り出る跳ね出る狂い出る。それはギチギチに重なって絡み合っていたが砂地を流れながら次第にほつれていき、黒い生き物の群れであることが分かる。黒い狼のような四足のものもいれば、黒いゴリラのような二足歩行のものもいた。足が多数あったり腕が多数あったりする黒い化け物もいた。直径十メートルを超える黒い球体に無数の触手が生えたようなものもいた。どれもこれも真っ黒だった。そして、大きな口があった。狼のようなものの頭部には前面と頭頂部に顎があったが、脇腹にも口が開いており、同じタイミングで歯を噛み合わせていた。腕が何本もある巨大な猿のようなものは、それぞれの腕の先端に手ではなく丸い口が開いていた。触手によって持ち上げられた球体に大きな亀裂が走り、ベラリと裏返る。球体の全てが顎を構成しており、その内側には無数の牙が卸し金のように密集していた。人間に近いフォルムのものもいたが、大きな口が左肩から腹部にかけて広がっていた。黒いもの達のあちこちについた爪は、もしかすると爪ではなく全て牙なのかも知れなかった。

 こちら側の世界に溢れ出した黒い獣達化け物達は凄い勢いで砂漠を駆ける。見守るしか出来ないアゼフは総毛立っている。黒いもの達の発する狂猛な殺意、いや、食欲を、感じ取ったのだ。

 途切れることなく出てきて万単位に膨れ上がった黒い軍勢は、次第に方向を統一していった。重傷を負って転がるちっぽけなアゼフの方でなく、ダルヴァザから溢れる死人らしき不気味な群れの方に。向こうも黒い軍勢を敵と認識したのか流れがまとまっていき、二つの集団が真正面から激突した。

 異様な乱戦が始まった。黒いもの達は相手に触れたところからバリボリと貪り食い、不気味なもの達は食われながらも平然と素手やら手に持った武器やらで攻撃する。単なる鉄の棒が黒い獣にめり込んで真っ二つにするところから、死人のような不気味なもの達も異常な筋力を持っているらしい。

 食らう。ぶっ叩く。噛みちぎる。引き裂く。黒い怪物達は真っ黒な血を流す。不気味な群れは傷口からあまり出血せず、ドロリと垂れる血は暗赤色だった。素手の人間体が多いため、最初は不気味な群れの方が劣勢だった。しかし巨大な虫のようなものや腕が何本もある巨人など異形の活躍で盛り返していく。また、着物姿で日本刀を振り回す男や、長い鞭を操る男は超一流の戦士らしく、近づいた黒い敵をあっさり八つ裂きにしていた。そんな彼らの顔色はやはり死人のように悪かったが。

「何だ、これは……。ハンガマンガと、死人らしき群れが、戦っている。何が起きているんだ。ビューティフル・ダストというのも……様々なことが、同時に起こり過ぎて……むっ」

 地響きを感じてアゼフが振り返る。

 二つの群れが争う戦場に新たな参加者が近づいていた。ウサギのように砂漠を跳ねて進んでいるのだが、スケールがまるで違っていた。全長が、百メートルを超えているのだ。跳ねるたびに大地が揺れ、アゼフの体を転がした。

 それは、砂漠に登場した化け物達の中で最も大きく、最も異常な姿をしていた。飛び跳ねる脚は脚ではなかった。ボコボコした無数の肉塊が寄り集まって脚の役割を果たしているだけだった。それぞれの肉塊はアフリカの野生動物のような毛皮で覆われていたり、爬虫類の鱗や魚類の鱗で覆われていたりした。毛皮でなく薄い皮膚もあり、それは布が絡んでいたり銃身が生えていたりした。その近くに白目を剥いて悲鳴を上げるように口を開けた人間の顔があった。彼がまだ生きているのか、意識があるのかは分からない。

 その巨大な化け物は、様々な生き物を肉団子にしてグチャグチャに繋ぎ合わせたような代物だった。材料にされた動物は何万体か。或いは、何百万体か。

 無数の肉塊で形成された脚は今飛び跳ねるのに使われているものだけでなく、側面にも背面にも複数本生えていた。いや、何処が側面で何処が背面なのかそもそも見分けがつかなかった。デタラメに集まってデタラメに構成された化け物なのに、大地を蹴って駆けるという合目的的な運動が出来ているのが不思議だった。

 と、バランスを崩して肉の化け物がベチャリと大地に激突し、アゼフの体は派手に浮き上がることになった。肉の化け物は砂塵を巻き上げながら滑っていくが、そのうちに何本もの脚が地面を掻いて進むようになった。脚ではない表面の肉塊も波打つようにして前進に貢献していた。

 巨大な肉の化け物は食い合い殺し合う戦場の真っ只中に突っ込んでいった。黒い獣達も不気味な群れも、驚くだけの思考能力がないのかそのまま攻撃を仕掛ける。黒い獣が肉塊に食いついて、逆に盛り上がった肉に吸い込まれた。日本刀で肉塊を切り裂いた男がやはり肉に吸い込まれた。黒い群れも不気味な群れも巨大な肉塊にどんどん吸い込まれ、取り込まれていく。

「もう、メチャクチャだ……何が、何だか……ハ、ハハ……」

 アゼフは笑い声を洩らしていた。こんな状況で彼に出来るのは、もう笑うことしかないのだった。

 と、彼はうつぶせの状態から後ろを振り返る。遠くの異常な三つ巴に気を取られて、近くの注意を怠っていたのだ。

 幅五メートルほどの肉塊の集合体が、すぐそばまで這い寄っていた。グニグニと表面を蠢かせながら、人間の手と足を寄り合わせて作った触手を伸ばしてくる。肉塊の表面に人間の顔が幾つか並んでいた。そのうち若い女性の顔はヒクヒクと頬を痙攣させ、目はしっかりとアゼフを見つめていた。助けを求めるように。しかし声帯も呼吸機能もないのだろう、声は出なかった。

 ニコライ・アゼフを取り込んだ肉塊は、巨大な本体に合流すべく砂漠を転がっていった。

 

 

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