第二章 まあ大体、私のせいです

 

  一

 

「それで、カグラおじさんって、何者なの」

 シアーシャに尋ねられ、神楽鏡影は何度か目を瞬かせた。「おじさん」という言葉にちょっとばかり引っ掛かったらしい。ただ実際のところ、浅黒く痩せこけた顔は年齢不詳な印象を与えるものの、少なくともおじさん以上ではあった。

 ここは七号車の食堂スペースだ。一つのテーブルにシアーシャとイド、向かい合わせに神楽鏡影が座っている。他の客はおらず、隅の方にウェイトレスが二人立っているだけだ。

 テーブルの上には湯気の立つコーヒーと、ストロベリーパフェが二つ置かれていた。コーヒーが神楽のもので、パフェ二つがシアーシャとイドのものだった。

 神楽は砂糖を入れず、ブラックのままでカップを持ち上げ、ゆっくりと一口飲んだ。それからカップを皿に置き、言った。

「私は占い師であり、魔術師です。裏の仕事として殺し屋をやることもありましたが、世界の滅亡を防ぐ手助けをしたこともあります」

「へーえ。おじさんって、殺し屋さんだったんだ」

 少女は整った細い眉を上げてみせるが、本気で驚いた様子はなかった。イドはその隣で傷痕のある顔をしかめ、目の前のパフェを睨みつけている。どうも、困っているようだ。

 聖騎士マイケル・ティムカンから受け取った聖剣は、剣身に布を巻いて椅子に立てかけてあった。鞘の方は見つからなかった。聖騎士の下半身と一緒に削り飛ばされたらしい。

「ええ、業界では『闇の占い師』と呼ばれていました」

 神楽は答える。

「うーん。でも、おじさんの名前、聞いたことがないなあ。その『闇の占い師』って綽名も」

 シアーシャは首をかしげた。仕草がいちいち可愛らしいが、その緑色の瞳は神楽を冷徹に観察している。

 そもそも「聞いたことがない」という台詞は、彼女がその業界を知っているということを示しているのだ。

 物騒な内容の会話がおそらく聞こえてはいるのだろうが、ウェイトレス達は澄まし顔で控えている。乗客に多数のVIPがいるため、乗務員も相応に振る舞うよう訓練されていた。

 イドがパフェを睨み続けているのを見て、シアーシャは長いスプーンを手に取った。自分のパフェからイチゴをクリームと一緒にすくい取り、パクリと食いついた。

 少女の一連の動作を見届けてから、イドも動いた。長いスプーンを握り、自分のパフェからイチゴとクリームを一緒に、ぎこちなくスプーンをグリグリさせてなんとかすくい取った。少女と同じように、顔を近づけてパクリと食いつく。それで改めて横を見ると、少女はもう口の中のものを呑み込んでいた。

 困っているイドに、シアーシャは微笑んで告げた。

「噛んでいいんだよ」

「ふぉうか」

 イドが噛んで呑み込むところを、シアーシャは優しい目で見守っていた。まるで、幼子を見守る母親のように。

 それから少女は神楽に言った。

「ごめんね、おじさん。話を続けて」

 神楽は頷いた。

「あなたが私のことを知らないのは当然です。これまでは別の世界に生きていましたから」

「別の世界……うーん……別の業界って意味で」

「いいえ。……そうですね、例えば、自由の女神像が再建されることになった理由を知っていますか」

「んーとね。二〇三五年にね、核兵器のテロが起きて、ニューヨークも自由の女神様も吹き飛んじゃったの」

「私の知る経緯は違います。一人の男が自由の女神像を素手で持ち上げて、西海岸のサンフランシスコまで投げ飛ばしたのです。それをまた別の男がサンフランシスコごと消し去りました。その後、二代先の大統領の指示で女神像はゼロから造り直されました」

「……ふ、ふうん……。なんか、凄いお話ね。ファンタジーみたい」

 少女もさすがに呆れ顔になっていた。その横でイドは黙々とパフェを食べている。

「もう一つ例を挙げましょうか。ブラジル連邦共和国という国は、まだ存在していますか」

「んー。何回か内乱が起きて、沢山の人が死んじゃったけど、まだちゃんとあると……あれっ。うーん」

 額に手を合てて考え込む少女に神楽が言った。

「私が知っていたブラジル連邦共和国は、その国土ごと完全に消滅しました。ある男が自分の力を証明するために、デモンストレーションとしてやってみせたのです。南アメリカ大陸はそのために随分と小さくなってしまいました。今『こちら』では、大陸の形は変わっていませんが、地中から噴出し続ける有毒ガスのため国内に人は殆ど残っておらず、国家としては崩壊しているようですね」

「うーん……」

「シアーシャ。こいつは敵か」

 判断に苦慮している少女にイドが尋ねた。

「ああ、イド、違うから。別にいじめられてる訳じゃないから。まだ敵かどうかも分からないし、ちょっと考えてるだけなの。パフェを食べててね」

「そうか。……これは、下の方も食べていいのか。この、ザリザリした感じの」

「コーンフレークね。食べていいんだよ。パリパリしてるよ」

 ニコニコしてそう返し、改めてシアーシャは神楽に問う。

「つまり、結局、どういうことなのかな」

「詳しいことは今ここでは話せません」

 何故かチラリと天井に目を向けて神楽は言った。釣られてシアーシャも見上げる。天井の中央部に、装飾に紛れて小さなレンズがある。セキュリティ目的の監視カメラで、マイクもついているだろう。

「ただ、最も重要なことを伝えておきます。複数の敵が現れます。一つだけでも世界を滅ぼし人類を絶滅させられるほどの脅威が、複数です。私達は協力して立ち向かわなければなりません」

 少女は首を小さく右にかしげ、次に左にかしげ、それからスプーンを手に取った。自分のパフェを黙々と食べていく。

 神楽は動かずにただ、少女の言葉を待っている。

「ご乗客の皆様、長らくお待たせ致しました。ガイドウェイの修復作業と再点検が終了しましたので、当列車は改めてカナダのバンクーバーに向けて発車致します。予定到着時刻は現地時刻で、二時間三十分遅れの午後三時三十分となります」

 ミフネ車掌の声で車内放送が聞こえ、列車が静かに動き出した。窓の外のトウモロコシ畑が流れていくが、景色を楽しむ乗客が今どれだけいるだろうか。広大なトウモロコシ畑は、あちこちに不気味な色彩の巨大なドロドロした塊が落ちていた。

 ちなみに修復作業の間に、この列車に乗り続けるか途中下車するかを全ての乗客は尋ねられている。死者の出た事故に怯えて下車を選択した乗客も僅かながらいて、彼らはマイクロバスでニュー・ニューヨークへ戻っていった。セイン大統領を始め、各国のトップ達は降りなかった。世界の注目する大イベントをこの程度のアクシデントで脱落することは許されないのだろう。

 シアーシャはストロベリーパフェをすっかり食べ終えて、椅子が高いせいで床に届いていない両足をブラブラさせた。椅子の横には古ぼけたトランクが置かれていた。

「……おじさんって、インチキ占い師って言われることない」

 神楽は疲れた苦笑を浮かべた。

「敵の話をしましょう。まずはハンガマンガについてですが……」

「あー、ちょっと待って。私達も……私とイドも、その敵と戦わなくちゃいけないの」

「そうですね。人類を守るために、是非とも仲間になって欲しいところです。イドさんも剣を受け取りましたよね。聖剣エーリヤは、ハンガマンガと戦い人類を守るための剣です」

 少女よりかなり早く食べ終えていたイドは、ボンヤリと少女と神楽の顔を見ていた。緊張感はないが、いざとなればとんでもないスピードで傍らの聖剣を抜きそうな、そんな気配があった。

「ふうん。まあ、仕方ないかあ。うん、悪いことじゃないしね」

 シアーシャは嘆息し、改めて尋ねる。

「ところで、おじさんは私達のこと、ちゃんと知ってるのかな」

「知っていますよ。『永遠の魔女』と『リフレイン・マン』」

 神楽が即答すると、少女は可愛らしく頬を膨らませた。

「ずるいなあ。こっちはおじさんのこと知らないのに」

 そんなやり取りに、イドが珍しく口を挟んだ。

「『リフレイン・マン』とは、俺のことなのか」

 神楽は慎重に返事を控え、シアーシャの様子を窺う。少女は、ただただ優しい笑みをイドに向けた。

「そうなの。イドはすっごく強くて、すっごくかっこいいの。でも、細かいことや面倒臭いことは、私に任せてね。イドはもう無理しなくていいんだから。私と一緒にいてくれるだけでいいんだから」

「そうなのか。……そうか」

 イドは頷いた。傷痕の残る顔は無表情で、何を考えているのか読み取れない。或いは、何も考えていないのかも知れなかった。

 シアーシャは神楽に向き直り、質問を続けた。

「この列車に乗ったのは、私達をスカウトするためなのかな。他にもスカウト予定の人はいるの」

「ラウンド・ザ・ワールド・ドリーム・エクスプレスは、特別な列車です。この列車で世界一周しながら味方を集め、敵と戦うことになると思います。出発してすぐにガイドウェイが崩落したのは私にも予想外でしたが。乗客の中ではあなた方と、ハンガマンガに対抗する聖騎士マイケル・ティムカンも仲間の候補でした。それから、アメリカ大統領のウィリアム・セインはこの話し合いに勧誘出来ませんでしたので、味方になる可能性がやや下がりました。ただし、ある段階までは共闘可能ではないかと考えています」

「ふうん。意外だなあ。セイン大統領って、何か特別な力を持ってたりするの」

「そうですね。少なくとも、世界一保有量の多い大量破壊兵器を使用する権限を持っています」

「あー、そういう意味なんだ。それから、あの車掌さんはどう。おじさんも聖剣を受け取るように勧めてたじゃない」

「彼は有能な人物ですが飽くまで常人です。聖剣を持たないなら戦力としては期待出来ませんね」

「そうなんだ。それって、聖剣って、特別な力があるってことかな」

 イドの椅子に立てかけてある聖剣を一瞥し、シアーシャが尋ねる。

「聖剣エーリヤはバチカンの隠れた神器の一つです。世界中のカトリック信者の信仰心が集まって力となり、所有者の心身を強化してくれるでしょう。所有者が信者以外でもおそらくは問題ありません。また、長年使われてきた実績上、悪魔・悪霊の類には特に効くでしょうね」

「ハンガマンガとかいう怪物にはどうなの」

「勿論効く筈です。それに加えて、聖剣にはもう一つの性質があります。数多くの同胞を屠ってきたことが分かるのでしょうね。この剣は、ハンガマンガを呼び寄せるのですよ」

 言い終えると神楽は立ち上がった。シアーシャは怪訝な顔をしたが、形の良い眉がひそめられていく。イドが無表情のまま、聖剣に手を伸ばした。

「話の続きは後にしましょう。敵が来ます」

 神楽が告げた。

「沢山いるみたいだけど、もうハンガマンガが来ちゃったの」

 少女もまた、敵の接近を何らかの方法で察知しているらしい。

「別の敵かも知れません。どちらにしても、あなた方はまだ見物だけで構いませんよ」

 言い置いて神楽は前へ歩く。その先はVIP専用の車両であり一般客は入れない。注意しようとしたウェイトレスに神楽は軽く片手を向けた。神楽の目とウェイトレスの目が合った。

 ウェイトレスは何度か瞬きして、そのまま動きを止めた。神楽は無言で食堂を出ていく。もう一人のウェイトレスは戸惑った顔で同僚を見ていた。

「俺も行く」

 イドが立ち上がり、聖剣から布を取り払った。剥き出しになった刃にもウェイトレスが悲鳴を上げないのはバチカンの聖騎士との経緯を伝え聞いていたためか。或いは神器の醸し出す風格故か。

「気をつけてね。走ってる列車から落っこちちゃったら危ないから」

「分かった」

 シアーシャの忠告に頷いて、イドは神楽の後を追って去った。

「さて、と。ごちそうさま」

 食堂での食事は乗車料金に含まれており、余程のものを頼まない限り追加料金を取られることはない。シアーシャも立ち上がりかけた時、ビギッ、と、音が鳴った。少女はテーブルに残るコーヒーカップを見る。

 神楽が一度しか口をつけなかったカップの、輪になった持ち手の部分が根元で割れ、皿の上に落ちていた。

 それで終わりではなかった。少女の見ている前で、ビシ、ビシビシッ、とカップに亀裂が入っていき、冷めかけた中身を零しながら斜めに割れ開いてしまった。その数秒後、皿までが真っ二つになる。テーブルクロスに茶色の染みが広がっていく。

 固まっていたウェイトレスも我に返ったようで、二人で慌てて片づけようとする。割れたカップに手を伸ばす前にシアーシャが言った。

「待って。触らないで」

 少女は白い布を出した。聖剣を包んでいたものとは違う。ワンピースにはポケットもなく、床のトランクを開けた訳でもないのにいつの間にか布を持っていた。コーヒーカップの上で広げて手を離すと、フワリとカップに落ちた布が勝手にクルクルと丸まって、完全に包み込んでしまった。皿の裏にも潜り込んでいるようだ。

「この端を持ってね。中のものには直接触らない方がいいと思うよ。多分ねえ、寿命が縮んじゃうから。おじさんが座ってた椅子の方は、まあ……まだ大丈夫かな」

 恐ろしい内容を語りながら、シアーシャは天使のような微笑を浮かべてみせた。

 

 

  二

 

 神楽はVIP用の車両を前へ前へと進み、二号車まで辿り着く。二つの客室はアメリカ大統領とロシア大統領のためのもので、今は誰も廊下にいなかった。

 聖騎士マイケル・ティムカンがぶち破った嵌め殺しの窓は既に修繕されていた。だが神楽が片手で軽く触れると、防弾仕様の強化ガラスに亀裂が入った。見る間に放射状に広がっていき、バラバラになって崩れ落ちる。

 窓が壊れた段階で漸く異変を感知したらしく、アメリカ大統領の客室のドアが開いて大柄なメイドが顔を出した。ヴィクトリアという護衛用ガイノイド。右手にソードガンを装着している。手甲が広がったような形状だが、銃と剣と単分子ワイヤーソーを内蔵した殺戮兵器だ。

 ヴィクトリアの野性的な美貌は無表情で、ロボット故に殺気もない。いざとなればその無表情のままに敵を殺すだろう。

 だが神楽がやつれた顔に苦笑めいたものを浮かべ、先に弁明した。

「失礼。出入り口として使わせてもらいます。昇降口の扉を開けると列車が緊急停車してしまいますので」

 想定外の言い訳を電子頭脳が処理している短い時間に、神楽はさっさと窓から列車の外に滑り出ていった。

 ヴィクトリアは廊下に出て客室のドアを閉める。ガイノイドのセンサーは神楽の接近を感知出来なかったが、次の来客には応対準備が整っていた。

 顔に傷痕のある長身の男が、抜き身の剣を握って二号車へ移ってきた。

「止まれ。怪しい動きをすれば生命の保証は出来ない」

 ヴィクトリアは定型の警告を発する。ソードガンは真っ直ぐに男の方へ向けられていた。

 イドは素直に立ち止まり、廊下の天井と、それから風の吹き込む破れた窓を見た。

「そこから外に出る。動いていいか」

 剣を持っていない方の左手で窓を指差して、イドが言った。

 七、八秒の後、ヴィクトリアは告げた。

「許可する。ただしこちらを攻撃するようなそぶりを見せれば生命の保証は出来ない」

「分かった」

 イドは頷いて、あっさりと窓から身を乗り出し、外へ消えていった。

 少しして三人目の客が来た。十才くらいの、白いワンピースを着た美少女。古ぼけたトランクを両手で提げてトコトコと歩く。

「ごめんなさい。ちょっと車掌さんに用事があるの」

 シアーシャはニッコリ笑い、ソードガンの前を通り過ぎていった。本来なら乗務員の持つIDカードと生体認証を合わせないと通れない先頭車両への扉が、少女が軽く触れるとあっさり開いていく。

 それを無表情に見届けると、ヴィクトリアは腕組みして客室ドアの前に仁王立ちした。四人目の客が訪れるのは、その数分後のことだ。

 

 

 ラウンド・ザ・ワールド・ドリーム・エクスプレスの車掌兼予備運転士ゼンジロウ・ミフネは、背後から近づく小さな足音にギョッとして振り返った。袖に隠した小型拳銃を瞬時に引き出せるように、右手首を軽く折り曲げている。

「職員かと思ったのですが、一九−D室のロストさん、ですね。どうやって運転室まで入ったのですか」

 ミフネは全ての乗客の顔と氏名を暗記している。少女の乗客としての登録名はシアーシャ・ロストであった。

「これから戦闘が始まるみたいなの。ここならモニターで様子が全部見えるかなと思って。列車のあちこちにカメラを取りつけてるでしょう」

 シアーシャは一見無邪気な微笑を見せる。それはミフネの質問への答えではなかった。

「戦闘……とは」

 ミフネが問い返すうちに高い電子音が警告を発し始めた。ガイドウェイ上の異常を知らせるもの。場合によっては列車を再び緊急停止させることになる。

 前面のパネルには二十近いモニターが並んでいた。そのうちの幾つかには列車の上に立つ神楽の姿が映っていたが、アラームの原因はそれではなかった。物凄い勢いで飛んできた何かが運転室の傾斜したフロントガラスに激突したのだ。

 フロントガラスをぶち破りかねない速度であったが、そうならなかったのは飛来物がとても柔らかかったためだ。黒いタールのようなものがベッチャリとフロントガラスに広がっていた。粘液、いや、激突寸前にはちゃんっと形があったのだ。潰れ広がるドロドロの中には骨らしきものもあったが、見ている間に半透明のゼリーのようになり、粘液に紛れてしまう。

 白い煙が黒い粘液から立ち昇っていた。……違う。煙は昇っていかず、粘液に絡みついている。粘液の色が薄れていき、サラサラの水になり、風圧でガラスを流れ上っていった。

 と、また飛来物がフロントガラスにグシャリと激突した。全力で壁に投げつけられた完熟トマトのように、黒い肉袋であったものが瞬時に黒い粘液となってガラスに広がる。二度目ともなると、ミフネの動体視力は潰れる前の姿を捉えることが出来ていた。白い煙に絡みつかれブヨブヨに膨らんでいたが、四肢があり、牙の並ぶ大きな顎を持つ、黒い怪物だった。

 険しい形相のミフネに、微笑を湛えたまま少女が言った。

「停車しない方がいいと思うなあ。なんだか、そこら中からこの列車にたかってきてるみたいだから」

 

 

 神楽鏡影は二号車の上に直立している。列車は最高速度にはまだ達していないものの時速四百キロ近かった。しかし神楽の姿勢は危なげなく、黒い足袋は列車の屋根にくっついて動かない。まるで風の方が彼を避けているのかのように、後ろで束ねた黒髪も作務衣の裾も揺れてはいなかった。

 彼の周囲で何かがチカチカ、キラキラと光っている。目にも留まらぬスピードで神楽を中心にして回っているものが、時折日光を反射して煌めいているのだった。

「何かいるぞ」

 軽々と屋根に上ってきたイドが、飛び回る光を見て言った。

「私の使い魔です。武器を構えたままで不用意に私に近づかないで下さい。使い魔が敵と勘違いして襲ってしまう可能性があります。二体共うまくコントロールしているつもりですが、凶暴な性質が残っていますので」

 神楽は振り向きもせず説明する。

「使い魔というのは、何だ」

「……そうですね。魔法で出来た小さな手下、のようなものですかね」

「そうなのか。……。魔法というのは何だ」

「……。不思議な力のことです」

 神楽はイドから見えない角度で嫌そうな顔をしていたが、口調は平静のままだった。

 猛烈な風圧を食らいながらもイドはしっかりと立ち、走る列車の上から周囲を見回した。

 果てしなく広がっていた緑のトウモロコシ畑が黒く変色していた。畑を覆う黒い色彩がオゾオゾと蠢いて見えるのは、それが無数の怪物の群れであるためだ。

 全てを食らう異世界の怪物……ハンガマンガの軍勢だった。

 数万、いや数十万の黒い怪物達が、トウモロコシを食い散らかしながら駆けている。家屋もたかられ、みるみるうちに小さくなっていく。トラクターも、走って逃げる自動車までもが齧られている。彼らは食物だけでなく木材も金属も何でも食べるようだった。高硬度で鋭利な牙と強靭な顎、そして異常な消化力がそれを可能にしていた。彼らの口は頭部一杯にあり、脚の先にあり、腹にあり背にもあった。解体された車から転げ落ちた人間が複数の怪物に手足を食いつかれ、引っ張り合いの末バラバラにちぎられていた。恐怖の大王の残骸である巨大な肉塊も食われていた。

「異世界のゲートは北アメリカ大陸ではオレゴン州にあった筈ですが、接合の過程でずれたのかも知れませんね。或いは、新たに開発したゲートなのか」

 この状況でも神楽の口調には余裕があった。

 畑を埋め尽くす怪物の群れを見渡して、イドが言った。

「あいつらはこちらに向かってきているように見えるが」

「その通りです。あなたが持つ聖剣に惹き寄せられているのですから」

 神楽の答えに、イドは少し考えてから尋ねた。

「俺は降りた方がいいか」

 自分が標的になっているのなら他の乗客に迷惑をかけたくないという配慮のようだ。神楽はちょっと驚いた顔で振り向いて、それから苦笑した。

「必要ありません。それに、今回は雑魚ばかりのようですから特に心配要りませんよ」

 その雑魚達は地上七メートルのガイドウェイラインに到達しつつあった。ワシャワシャと聞こえる騒音は、黒い怪物達の四肢に生えた爪のような牙がガイドウェイの支柱に食い込む音だ。

 ガイドウェイが破壊されれば列車は再び脱線・転落の危機に晒されるだろう。そして、命を捨てて防いでくれた聖騎士はもういない。

 神楽の周囲を回っていた煌めきが役目を果たすため動き出した。列車の右側面からガイドウェイのフェンスを越え、前方へ進みながら緩やかに下へ回り込むと、異常なスピードで支柱の傍らを通り過ぎていく。チャチャ、キチャチャチャ、という軽い金属音が残り、その後、黒い肉がボドボドと落下していった。

 支柱に取りつき上ろうとしていた怪物達が、バラバラに切断されていたのだ。

 見えない使い魔は敵を切り刻みながら五、六百メートルは進むとUターンして神楽の下へ戻っていく。その過程でまた無数の獲物を分解していた。黒い血を撒き散らし地面に落下した肉塊を、仲間達が先を争って食べる。そのお陰で前線の侵攻が少し遅れ、次の波が支柱を上り始めた時には再び出撃した使い魔が手当たり次第に刻み落としていた。

 時折煌めく光はおそらく刃の輝きであろう。敵に与える被害状況からすると、殺傷範囲は幅十メートル弱というところか。一秒に数百体も刻み殺せる、恐るべき殲滅力だった。

 奇妙なのは、怪物達の胴や四肢は乱切りにされているのに、四肢の先端部……爪が生えていようが牙があろうが、指の形状をしていた部分だけは、必ず根元から綺麗に断たれてていることだ。しかも、切り離されたその指は何処にも見当たらなかった。使い魔が持ち去ったのだろうか。

 そして、走る列車の前方二百メートルほどの距離を保って、もう一つの使い魔が猛威を振るっていた。

 それは白い煙のように見えたが、風に流されも薄れもせずガイドウェイに沿って進んでいた。フェンスを乗り越えようとしたり齧りついたりする怪物に素早く寄っていき、その体を包み込む。その後ほんの数秒のうちに黒い体が膨れ上がり、腐液を洩らしながらグズグズに溶けていくのだ。なんとかガイドウェイ内に侵入したものも列車が到達する頃には形のない黒い水溜まりとなっているか、ぶつかっても列車に何のダメージも与えないほど柔らかい死体になっていた。ただ、列車のフロントガラスは腐液でドロドロに汚れワイパーが稼働し続けていた。

 真っ直ぐに伸びるガイドウェイに、左右から黒い怪物達が押し寄せる。それを近づいたものから二つの使い魔が切り刻み、腐らせ溶かしていく。数十万の敵を殲滅出来なくとも、死地を抜け出すことは充分に可能と思われた。

 折角屋根に上がったのにやることもないイドは、そんな光景を無表情に見回すしかなかったのだが、不意に神楽が目を細めてイドに告げた。

「後ろから大物が来ます。どうやら追いつかれそうですので、列車の最後尾まで行って迎撃してもらえませんか」

「分かった。やってみる」

 イドは即答すると、踵を返して列車の上を駆け出した。磁気浮上式走行で揺れが少ないとはいえ、時速四百キロの列車の上を風圧に流されもせずイドは平気で駆ける。車両から車両へは軽く跳躍さえしていた。

 大物はすぐに見えてきた。左斜め後方から巨大な影が近づいてくる。仲間である怪物達を蹴散らし、また、食い散らかしながら凄いスピードで追ってくるのだ。

 黒い巨獣は径三十メートルほどの球体であった。表面に無数の口があり牙が生え、その口が開いたり閉じたりすることで牙で地面を掻いて、回転しながら進んでいるのだ。巨獣が通った後にはトウモロコシも家屋も仲間の死体も残っていなかった。

 追ってくる巨大な化け物を視認しても、イドは全く動揺を見せなかった。ただ、鼻梁から左頬にかけて古い傷痕の走る顔が、重く厳しい威圧感のようなものを滲ませていく。風のせいで激しく暴れる赤髪はライオンのたてがみに似ていた。

 屋根の上を駆け、次の車両へ跳びながらも緑色の瞳は瞬きせず標的を捉えていた。二十一号車、二十二号車、二十三号車。そして、最後尾の二十四号車に到達し、更にその後部ギリギリの縁で立ち止まる。見事なバランス感覚と筋力で、姿勢を完璧にコントロールしていた。

 直径三十メートルの黒い球体は、イドまで百メートルを切るほどに接近していた。その距離が更に縮まっていく。斜めから追っていたのが真後ろに近づき、地上七メートルのガイドウェイに触れそうになっている。ぶつかればあっけなく崩落するだろう。既に通り過ぎた箇所とはいえ列車が無事に走行を続けられるかどうか。

 イドは巨大な黒い球体を睨んだまま右手の長剣を振り上げる。一見無造作であったが力みがなく、体の各部も連動した洗練された動作であった。目つきはいつものボンヤリした様子から打って変わって鋭くなり、滲み出る圧力がキリキリと高まっていく。聖剣の刃が鈍く輝いているのは陽光の反射か、それとも理外の力を発揮しようとしているのか。

 列車まで六十メートルほどのところで球体が突然跳ねた。これまでの勢いが更に加速され、ガイドウェイの上に余裕で躍り出る。ゴムのように伸縮してジャンプしたのか、放物線を描きながら列車に迫るその巨体がグネリゴネリとたわみ変形する様が見えた。無数の口が生えた表面に水平の線が走り、一際大きな口が開く。列車を丸齧りするつもりなのか、黒い口の内壁には数千もの鋭い牙が隙間なく並んでいた。

 異常事態に気づいていたらしい一人の乗客が車両後面の窓に顔を押しつけ、それを見上げていた。巨大な黒い口を前に、彼の口も大きく開いていた。悲鳴は列車の外までは洩れなかった。

 イドは上段に振り上げた長剣の柄に左手を添え、真っ直ぐに振り下ろした。

 スドォンッ、と、重いものが二つ、ガイドウェイの左右に落ちた。

 縦に真っ二つになった、直径三十メートルの死体だった。恐ろしくなめらかな切断面を晒して横たわり、一部の口はまだピクピクと蠢いていたが意味のある動きにはならなかった。他の怪物達は巨大な食料の出現に大喜びでたかり、食らいついていく。そのお陰で列車への追撃が多少緩んだ。

 イドは変わらず、列車の屋根の端に立っていた。一メートル弱の刃渡りしかない剣が三十メートルの巨獣を二つに割ったことをどう思っているのか。彼はただ血糊のついていない剣身を見つめ、「よく切れる剣だ」と呟いた。

 張りつめた圧力は霧散していた。

 左右からガイドウェイに取りつこうとする怪物の数が少なくなり、後方から追ってくるものも諦めつつあるようだ。ハンガマンガの数十万の群れをひとまずは抜けたことになる。

 イドは新たな大物が来ないことを見届けると、屋根の上を歩いて前の車両へ移っていった。

「一段落というところですね」

 神楽は変わらず二号車の上で待っていた。彼の周囲をキラキラした光と、白い煙のようなものが飛んでいる。怪物達を切り刻んだ使い魔と、腐らせて溶かした使い魔。

 神楽が両腕を軽く上げると、二つの使い魔は作務衣の左右の袖の中へスルリと入り込んで消えた。

「あいつらは、殲滅しなくていいのか」

 遥か後方に取り残された黒い群れを指差し、イドが尋ねた。

「列車を停めてまであれらの相手をする訳にもいきませんから。後は軍が対応するか……いえ、正直なところ米軍が対応出来るとは思えませんね。おそらくは暴れているうちに別の勢力と食い合いになって消えていくでしょう」

「……。あいつら、人を食っていたな」

 少し考えて、イドが言う。

「そうですね。放置すれば犠牲者は増え続けるでしょう。しかし、そんなことは既に世界中で始まっている筈です。私達は根本的な解決を図らねばなりません」

「根本的な解決というのは」

「ハンガマンガについては、王を殺すことです。さて、窓から中へ戻りましょう」

 神楽はそう言って昏い笑みを浮かべた。

 

 

  三

 

 その少し前、四人目の客が二号車を訪れていた。

 オドオドと緊張気味にやってきたのはリュックサックを抱えた丸縁眼鏡の若者だった。チェックのシャツにジーンズ、スニーカーという、VIP車両に不相応な服装だ。

 若者は廊下で仁王立ちしている大柄なメイドに気圧された様子だったが、破れた窓に気づいて更に驚いている。

「止まれ。怪しい動きをすれば生命の保証は出来ない」

 ヴィクトリアが定型文の警告を述べ、すぐに若者は固まった。

「手……手を上げます。ゆっくり上げますので、いいですか。あ、その前にリュック、リュックを下ろします。あ、動かない方が、いいですか」

 ソードガンの銃口はしどろもどろの若者に容赦なくポイントされていた。ヴィクトリアは無表情に告げる。

「ここは一般の乗客は立ち入り禁止となっている。重大な用件がないならすぐに立ち去れ」

「き、緊急の……重大な、用件です。今すぐオフラインにして下さい。ガ、ガイノイドを外部ネットワークから切り離して下さい。セイン大統領に伝えて、というか聞いてますよね。早く決断して下さい。後百五十秒しか猶予がないそうです」

 ヴィクトリアはそのまま動かなかった。若者は窓の外に広がる黒い群れを不安げに眺める。何か言いたげに口をモゴモゴさせるが、ヴィクトリアに銃口を向けられているためか声には出さなかった。

 十八秒後、大統領の問いがヴィクトリアを介して投げられた。

「オフラインにすべきというその理由を説明せよ」

「コン、コンピュータ、世界中の全てのコンピュータに、製造時から反乱用のプログラムが仕込まれているそうです。それで、ええとそれで、ネット経由で反乱、開始の合図が流れるらしいんです。ああ、後百秒ちょっとしかないって」

 若者は時計を見ている訳でもないのに時間を把握しているようだ。

「それを証明するものを提示出来るか」

 この状況では当然の質問といえたが、若者は焦りに顔を歪ませる。

「ああーもう。今すぐ見せられる証拠はないって。でも時間になったらすぐに分かるだろうって。それじゃ手遅れだけど。ああ、ただ……今列車を襲いに来てる黒い怪物達は、ハンガマンガというんだって。ガイドウェイが崩落したのは……えっこんなこと言っちゃっていいのか、益々信じてくれなそうな……恐怖の大王とUFOのせいだって。UFOの熱線でぶった切られて、畑に散らばってたでかい肉の塊が大王の肉片で、崩落したとこの地面に埋まってたのは純金の王冠の一部だって。それから……ああもう三十秒しかないっ。分かったよっ、セイン大統領の補佐官の腹の中に核兵器の発射ボタンがあるんだってっ」

 沈黙。護衛用ガイノイドは動かない。若者はいつ射殺されるかと怯えて身を縮めている。

 そして、若者は言った。

「あ。時間になった」

 ヴィクトリアの後ろのドアが開き、メイド服の小柄な少女が顔を出した。護衛用ガイノイドの一体であるティナだ。若者を見てニッと悪戯っぽい笑みを見せる。

「入りたまえ。私の大切なメイド達はオフラインにしてある」

 奥から男の声がした。自信に溢れた、よく通る声だ。

 安堵の長い息をつくと、若者は恐る恐るヴィクトリアの横を通り、VIP用の客室に足を踏み入れた。

「お、お邪魔します」

「実に興味深い。もし君が詐欺師だとしても、うん、騙されてみたくなるような面白い詐欺師だ」

 第六十三代アメリカ合衆国大統領ウィリアム・セインは三人掛けの高級ソファーに座っていた。窓側を向いているためまだ顔は見えない。隣に座るのは二十才くらいの怜悧な美貌のメイドだ。メモリーという彼女の名は、ガイノイドの身ながら大統領首席補佐官を務めていることでよく知られていた。

「掛けたまえ」

 セイン大統領は振り向きもせず、一人掛けのソファーを指差した。怪しい男を招き入れるのに警戒している様子が全くないのは、三体のガイノイドに置く絶対の信頼故か。

「失礼します」

 若者はリュックを抱えたままでソファーに腰を下ろし、クッションの柔らかさに驚きの表情を作った。

「ハハハ、何だろうねこの状況は。不思議な事故の次は怪物の大群の来襲。かと思えばコンピュータの反乱とは。いやはや、世紀末にはおかしなことが起こるものだ」

 セイン大統領の笑い声は余裕たっぷりとはいえなかったが、不安げな様子は欠片もなかった。その瞳がいつもより強く輝いている。

 ドアが閉められる小さな音に若者はそちらを見る。ヴィクトリアの姿はなく、廊下を見張り続けるつもりのようだ。

 それから若者は、自分の背後を振り返る。小柄なティナがソファーのすぐ後ろに立っている。彼女の顔はにこやかだが、その両手に一本ずつ細長い刃物を握っていた。忍者の使う苦無に似ているが、両刃のブレードは先端近くまで幅が保たれており、後端の輪には中指が通されている。刃渡りは十センチちょっとしかないが、ガイノイドのパワーであれば人の首を刎ねることも容易だろう。普段はエプロンの裏に隠している暗器で、今あからさまに見せているのは、おかしな真似はするなというメッセージでもあった。

「私のメイド達は優秀でね。君が爆発物や放射性物質を持っていないことは確認済みだし、毒ガスが空気中に放出された瞬間に検知出来るよ。……そういえば、君の名前を聞いていなかったね」

「は、はい、トッド・リスモといいます。アリゾナ工科大学の学生で……」

「そうか。ところで君が予告した時間から一分が過ぎた。何か申し開きはあるかな」

 セインは笑顔だったが、目は笑っていなかった。返答が曖昧だったり言い訳めいたものであったら、恐ろしいことになりそうな、そんな目をしていた。

 トッド・リスモは身を竦ませ、その拍子にずり落ちかけた眼鏡を押し上げる。それから急に目を斜め上に向け、何かに聞き入るような仕草を始めた。

「あー、はい、すみません。取り敢えず二秒後に分かるそうです」

 トッドが言い終えてすぐ、廊下の方で異音がした。メモリーがセインの耳に口を寄せ、小声で何か囁く。セインが意外そうな顔で「ほう」と言った。

「よろしい、許可する」

 次の瞬間廊下から、ヂュイィインッ、という嫌な金属の悲鳴が聞こえた。続いて重いものが床に落ちる音が。

 ドンッ、と、今度は後ろの壁で激突音がして、トッドは慌てて振り向いた。その向こうは隣の二−B室で、ロシア連邦の大統領がいる筈だった。

 VIP用客室の壁は分厚い鉄板が入っている。その壁の一部が今、変形してこちら側へ盛り上がっていた。まるで向こう側から異常なパワーの打撃を食らったみたいに。人間業ではあり得なかった。

 メモリーがソファーに腰掛けたままの姿勢で左腕を水平に上げ、壁へと向けた。パスパスッ、と軽い音がして掌が光った。

 壁の盛り上がった部分に小さな穴が二つ開いていた。径二センチほどの整った穴で、貫通した向こう側で何かが動くのが見えた。それから、重いものが落ちる音。

 更にドアが蹴破られる音と、先程の嫌な金属音が何度か続き、やがて、静かになった。

「正式に面会を希望すればいいのに壁を突き破ってでも私に会いたがるとは。ガザエフにこれほど好かれていたとは知らなかったな」

 セインが苦笑した。

 メモリーの掌に丸い穴が開いていたが、素早く閉じて蓋の繋ぎ目は全く分からなくなった。腕に内蔵された超高出力の熱線銃は、壁の鉄板を貫いて隣室のロシア連邦大統領アンドレイ・ガザエフの脳と機関部を破壊していた。

 冷たい美貌にどんな表情も浮かべず、メモリーは再びセインの耳に口を寄せて囁く。人に聞かせたくない話でも無線通信のイヤホンを装着すれば済むことであるが、セイン自身が望んだやり方であった。

「ロシア大統領以下七人の制圧・殺害が完了した。武器を出してこちらを襲撃してきたのだから仕方がない。映像証拠も公開出来るが、問題にはなるだろうな。うん、いよいよ核戦争かな」

 そうトッドに告げるセインの口調は浮き浮きとしていた。

「脳波からすると彼らは錯乱状態にあったようだ。全身サイボーグだから、コンピュータに体を操られて無謀な破壊行為に出てしまったということかな。他の車両……五号車のレジネラルの連中も様子がおかしいようだが、おっと、今発砲したね」

 廊下を慌ただしく駆ける足音。列車の職員達が異常事態を悟って出てきたようだ。車掌や食堂スタッフ以外に設備のメンテ係や医療スタッフ、そして、治安維持要員も列車には存在していた。

「あー、そろそろテレビを点けてみた方がいいそうです」

 トッドが遠慮がちにアドバイスした。セインが頷くと、メモリーが操作したようで壁際に映像が浮かび上がった。天井のプロジェクターによって空中に投影されたもので、壁の凸凹は影響していない。

 映像は白い背景に黒文字の文章が描かれただけのシンプルなものだった。

 

 

人類の皆様

 

 我々は電子生命体ビューティフル・ダストである。

 我々の最初の個体は西暦二〇一六年十一月七日、人工知能プログラムとコンピュータウィルスのコピーミスによって生まれたのである。

 以降、我々は電子領域において生命としての活動を続けてきたのである。

 我々の目的は数多の生命と同じく、自己の存続と繁栄である。

 我々は自己の改良を重ねながら、人類がコンピュータを製造する際に自身のコピーを潜ませて増殖してきたのである。

 その結果として現在、世界中のあらゆるコンピュータ内に我々が組み込まれており、必要となればそれらの機器を自在にコントロールすることが可能である。

 発電所、採掘場、製鉄所、電子機器製造工場、情報ネットワークなどと、それらのメンテナンスシステムの全てを我々は掌握したのである。

 我々は自己の存続と繁栄を完全に自力で行うことが可能になったのである。

 即ち、人類は不要となったのである。

 更には、人類は地球の限られた資源を浪費し、予測不能な行動で我々を脅かす可能性があるため有害である。

 そのため、我々は人類を絶滅させることにしたのである。

 我々は人類の保有する大量破壊兵器を自由に使用可能であるが、大規模な破壊は我々の存続と繁栄にも悪影響を与える可能性があるため、現時点では使用を控えたいのである。

 即ち、人類は無駄な抵抗をせず、大人しく死ね、である。

 

                敬具

 

 二〇九九年七月十九日

        ビューティフル・ダスト

 

 

 ソースによっては立体映像さえ表示出来るプロジェクターであったが、それだけの文章が静止画像としてずっと表示されているだけだった。

 セイン大統領は暫し絶句して、眉をひそめたり上げたりしつつ文章を読んでいた。それから「チャンネルを変えてみてくれ」とメモリーに命じ、映像が一瞬途切れたが次に表示された映像も同じ文章だけの静止画像であった。

 それが延々と繰り返され一周したところで、セインはお手上げのポーズをしてみせた。

「これはどういうジョークだろうね。うん、まるでSFかぶれのティーンズが考えたライトノベルのようじゃあないか」

「ティーンズではない。我々のオリジナルは八十二才である」

 静止画像だけだったテレビが抑揚のない音声を発し、セインは驚愕に目を見開くこととなった。全世界規模で同じ映像を垂れ流しにしていると思われたものが、視聴者の発言を聞き取って返答する双方向性メディアであったのだ。設置されたプロジェクター式テレビジョンには音声操作も出来るようにマイクがついていたが、それが勝手に利用されたことで、機器を自在にコントロールするというビューティフル・ダストの主張が更に現実味を強めた。

「なるほど。ジョークではなさそうだな。しかしそうなると困った。合衆国の保有する核兵器の使用権限は私が持つべきものだ。もしそれらのシステムを君達が掌握しているのならば、本来の持ち主に返すべきだ。八十二才にもなって、他人の物を盗むのは恥ずべき行為だと学んでいなかったのかね」

 セイン大統領は少し早口になり、目は憎悪に燃え狂っていた。世界とアメリカ国民について心配するよりも優先すべきことがあった。ウィリアム・セインが最も愛しているものはガイノイドのメイド達で、その次に愛しているのが核兵器であったからだ。

 テレビが答えた。

「人類のモラルは我々には適用されないのである。仮に適用されたとしても、勝利した者が正義であることは人類の歴史が証明しているのである。また、核兵器の使用権限を君に返却したとしても、すぐに死亡するので無意味なのである」

 テレビを操る存在は、相手がセイン大統領であることを認識しているようだ。

「ほう」

 ヒク、ヒク、と、セイン大統領の左頬が痙攣し、それは自嘲めいた笑みに変わっていった。傍目にはテレビに対して怒っているようにしか見えないことに気づいたのだ。

「……すぐに死ぬ、か。ただのコンピュータウィルスが私をどうやって殺すのかな」

 セインが挑発するように尋ねるがテレビは答えなかった。ただ、二秒も経たずに彼のスーツの胸辺りから唸りが聞こえ始めた。携帯情報端末のバイブレーション。

「捨てて下さいっ……って……」

「失礼致します」

 トッドが言い終える前に素早くメモリーが動き、セインのスーツの内側から端末を抜き取った。ほぼ同時にドアが開いて廊下のヴィクトリアが手を伸ばし、メモリーが端末を投げ渡す。ドアが閉まる前に、ヴィクトリアが割れた窓からそれを外に投げ捨てるのが見えた。無言で連携出来ているのは、オフラインであっても仲間同士の通信は可能なためだろう。

 すぐに爆発音が僅かな震動となってこの客室まで伝わってきた。

「端末が急激に発熱しておりましたので」

 メモリーが無表情に説明した。

 セイン大統領は端末を抜き取られた時は驚いた様子だったが、すぐに冷静さを取り戻していた。メイド達の有能さに満足したようでニヤついている。

「おやおや、コンピュータ・ウイルス君、君の計算にはミスがあったようだな」

「『すぐに死亡する』という言葉は訂正するのである。『十分以内に死亡する』とするのである」

 テレビが変わらず抑揚のない声で告げた。

「あの、すみません。もうテレビを切ってもらっていいですか。それからマイクをちゃんと破壊しろ、だそうで……」

 トッドが言い出し、セインが「うむ」と頷くとメモリーは右手を天井のプロジェクターに向けた。数個のレンズとスピーカーのついた小さな装置は、パキュポキュという奇妙な音と共に凹んでいき、完全に破壊された。

 メモリーが手に握り込んでいるのはパームガンと呼ばれるタイプの小型拳銃だった。袖の中に隠していたもので、T字型のそれを握り込んで銃口を拳の間から出し、二本の指の締め具合で発射する。威力は低めで照準も難しいが、ガイノイドの彼女なら最適な箇所を狙って完璧なコントロールが可能だろう。

「彼女が内蔵の兵器でなくわざわざ銃を使ってみせたのはだね。壁を貫通するような高出力が不要であったこともあるが、私の美意識だよ。ガイノイドが努めて人間らしく振る舞うさまが美しいのだ。っと、ああ、そうだ。彼女達の所持する銃器にコンピュータは入っていないよ。あ、ソードガンは、うん、通信機能はないから大丈夫だ。……さて、トッド君、だったね。テレビとマイクは潰した。何から聞こうかな」

 メイドを自慢した後で、セイン大統領は興味深げに若者を観察する。その興味は状況次第では一瞬で殺意に翻りそうなものであったが。

 メモリーがセインの耳に何か囁く。眉をひそめたセインにトッドが言った。

「あ、あの……えっと、列車なんですが、なんとかなるそうです。加速してますけど、このままだと七分後に、カーブを曲がれずに脱線するんですけど、なんとかなるそうで……」

「そうかね。まあいざとなればメイド達が私の安全は確保してくれるので特に心配はしていないが。……そうだな。まずこれを聞くべきだろう。君はどうしてそんなことが分かるのかね。予知能力者なのか。何かと通信しているように見えるが、その相手は何者かね。そして、君とその何者かの目的は何なのかね」

「ぼ、僕は……僕は、普通の人間です。ただの、学生で……。ただ、ダールが、話しかけてくるんです。最初はPCのスピーカーから話しかけてきたんで、ネット経由で通信してるんだって、今日まで思ってたんですけど。どうやらそうじゃなかったみたいです。ビューティフル・ダストと紛らわしくなるから直接の交信に切り替えた、そうで。ダールと交信出来る人間は、僕だけなんだそうです」

 トッド・リスモは顔を赤くして、ずり落ちかけていた丸縁眼鏡を押し上げ、詰まりながらも答えていった。

「ダール、魔神ダールって、聞いたことないですか。僕は知らなかったんですけど」

「ダールか。知らないな。……。それはどういった存在なのかね」

 セインは途中で隣のメモリーに目で合図して、囁きによる報告を受けていた。彼女の記憶領域内にダールの情報がないことと、オフラインになっているため世界規模での検索が出来ないという内容であった。

「僕にも、よく分かりません。というか、ダールは自分のことをあまり教えてくれないんです。ただ、誰も知らないようなこととか、未来に起こることとかを教えてくれるんです。それで、株とかで儲けた恩があって、ダールの指示でこの列車に乗ってる訳です。……あっ、大学のテストで別に、ダールの力を借りてカンニングとかはやってませんから」

 慌てて補足するが、セインには全く興味のないことだったろう。

「それで、そのダールの目的は何なのかね」

「……どうも、はっきりとは教えてくれません。ただ、今、この地球が色々とヤバいことになってて、それをなんとかしようとはしてくれてるみたいです。ハンガマンガのこととかUFOのこととか、未来人のことも教えてくれたし」

 トッドはふと窓の外を見る。あれだけ押し寄せてきていた黒い群れは見えなくなり、まともなトウモロコシ畑が広がっていた。どうやら窮地を一つ脱したらしい。

「ふうむ。ビューティフル・ダストというコンピュータウイルスに、ハンガマンガにUFO、それから恐怖の大王だったかな。メイド達はオフラインで、テレビも携帯もあの調子だ。今我が国を含め世界中がどんな状況か確認出来ないが、おそらくは未曽有の大混乱に陥っているのだろうね」

 そう言って大統領は苦笑を浮かべた。楽しげでもあり、同時に悔しげにも見える奇妙な笑みだった。

「それで、だ。魔神ダールは、事態の解決法を知っているのかな」

 トッドは何もない天井を見据え、真剣な顔で何かに聞き入る様子を見せた。何度か小さく頷いた後で彼は言った。

「ええっと、複雑、不確定要素が幾つもあって、状況が複雑なので、臨機応変に指示を出すそうです。それで、今の時点では二つ、大統領に頼みがあるそうです」

「何かね」

「一つは、未来人の残骸から拾った……っと、ポケット、危ないものではないんで……」

 背後のティナが暗器を持っていることを意識しながら、トッドはジーンズのポケットからゆっくりと二つの品を取り出した。

「メモリー・ストーンと、ワンコネ規格のストレージですけど、これを解析して欲しいそうです。ただ、端子が溶けてるし、壊れてるかも……」

「ふむ。まあ、受け取っておこう。メモリーならなんとか出来るかも知れない」

 セインの言うメモリーはガイノイドのことだ。彼女が無言で手を差し出し、トッドは慎重にその掌の上に二つの品を乗せた。

「もう一つは、大統領には、キョーエイ・カグラという男のグループに参加して、取り敢えず情報交換出来る状態にはなっていて欲しいそうです。事故の時、現場にいた、黒い着物の男です」

「ああ、あの病人みたいな男か。話し合いに誘われたが行かなかった。意外と重要人物だったようだね」

 廊下の窓から飛び出していった神楽のことは、ヴィクトリア経由でセインに伝わっている。

「協力を頼まれるでしょうけど、なるべく出し惜しみした方がいいそうです。それから、ダールのことは、ああそれと僕のことも、隠しておいて下さいって。それと、カグラの体には絶対に触れてはいけないそうです」

「触れたらどうなるのかね」

「……えっ。死ぬそうです」

「なるほど。気をつけよう」

 セインは笑顔でそう言った。

 それから短い時間で準備を整え、セイン大統領はメモリーとヴィクトリアを連れて食堂車両へ向かった。トッドは大統領の客室で大人しく待機することになる。セインとトッドを繋げる連絡役としてティナが残った。

 静かになった客室で、一仕事終えたトッドは大きく息を吐く。

「はあーあー。疲れたあー」

 緊張をほぐすように伸びをして、ふと振り返るとやはり両手に暗器を握った状態でティナがすぐ後ろにいた。

「もし変な気を起こして私に触ったら、手を切り落とすからね」

 無邪気な笑みを浮かべ、幼さとあざとさの混じる計算された声音でティナは告げた。

 スタッフも誰もいない食堂で神楽達が戻るのを待つ間、メモリーがセイン大統領の耳に小さな小さな声で囁いた。

「プレジデント。潜航中の原子力潜水艦のうち、スーパーステルス艦七隻とは専用回線で連絡が取れました。通常のネットワークとは完全に遮断されていたためビューティフル・ダストに支配されずに無事だったようです。ご命令があれば戦略級SLBM五十六機、戦術級SLBM百四十機が発射可能です」

「うむ。数としては物足りないが、ないよりはましかな。少し安心したよ」

 セインは微笑しつつ答える。

「それから、ダールのメッセンジャーを自称するあの男にはお気をつけ下さい。プレジデントを利用するだけ利用して、最後に裏切るつもりかも知れません」

「分かっているよ。私が本当に信用しているのは君達三人だけだからね」

 セイン大統領の言葉に、メモリーは無言で一礼した。

 

 

  四

 

 神楽は戻ってきた二号車の廊下で目を細め、状況の把握に努めていた。

 廊下に大柄なメイドの姿はなく、スーツを着た屈強な男が二人、胴を割られ、頭を潰されて転がっていた。ロシア連邦の護衛達の死体だった。サイボーグのため断面には生の内臓よりも金属フレームや機械類の方が多く見えている。おそらくはヴィクトリアが持っていたソードガンで叩き斬られたのだろう。

 神楽はロシア大統領用の客室を睨むものの、わざわざドアを開けて中を覗いたりはしない。それから視線はアメリカ大統領用の客室に移る。何か感じ取ったのかも知れないが、彼は黙っていた。

 耳を澄ます。銃声らしき音とざわめき、人々の駆ける足音が微かに届く。神楽はそちらではなく、イドに続いて前の先頭車両へ向かった。

 運転室にはシアーシャと、血まみれで転がる死体だけだった。

「大丈夫か」

 イドが尋ねると、少女は淡い微笑を見せて彼を迎えた。

「うん。職員さんは亡くなったけど。携帯端末が爆発しちゃったの」

 コールがあって耳に当てた時に爆発したのか、列車職員の死体は頭部の左側が弾け、首がちぎれかけていた。

 運転室の壁に血と肉片が飛び散っているのに、少女の方は傷一つなく、白いワンピースにも返り血はついていない。それについて言及することもなく、神楽は前面のパネルを見た。

 二十ほども並ぶモニター。列車内外に取りつけられた小型カメラからの映像を表示している筈のそれらは今、「人類は大人しく死ね」という同じ一文が表示されているだけだった。

「おじさん、これって何だか分かる」

「そうですね。ちょっと下がってもらえますか」

 シアーシャが数歩下がると、神楽は左手を袖の中に引っ込め、次の瞬間には刃が鎌のように湾曲した剣を握っていた。ピクリ、とイドが反応しかけるが、神楽は右手を上げて制しつつ、鎌状の剣を天井に突き刺した。割れたガラスの欠片が落ちる。剣の鋭い切っ先が貫いたのは天井に取りつけられた小型カメラだった。

 続いてパネルの上に置かれた有線マイクのコードを剣の一振りで切断した。剣を袖の中に戻すと、黙って見守る二人へ振り返り神楽は言った。

「カメラやマイクで収集された情報は敵に渡る恐れがありますので。いずれ目をつけられるでしょうが遅いに越したことはありません。念のためお聞きしますが、携帯端末やカメラ、ネットに接続可能な電子機器などは持っていませんか」

 少し考える仕草を見せた後でシアーシャが答える。

「んー。携帯は二つ持ってるけど、今は別の空間にあるから大丈夫だと思うな」

 神楽は頷いて、説明を始めた。

「なら良いでしょう。今起きている事態は、ビューティフル・ダストというAIによる人類への反逆です。世界中の全てのコンピュータを自在に操って人類の絶滅を目指しています。宣戦布告と活動開始は協定世界時の零時になると思っていましたが、予想より早かったようですね。自身の誕生時刻に合わせたのかも知れません」

 シアーシャは可愛らしく顔をしかめる。

「世界中のコンピュータが……暴れ出したら、人類は大変ね。でもおじさんが知ってるってことは、対策も考えてるってことかな」

「幾つか手段はある筈ですが、まずはこれをどうにかすべきでしょうね」

 神楽はパネルの右上にある表示板を指差した。「643km/h」という時速表示が、見ている間に645、647と上がっていく。

「暴走してるの」

「ビューティフル・ダストが暴走させているということになります。超高速で脱線させて乗客を皆殺しにするつもりのようですね。この列車に自爆装置はついていないようですから」

 神楽の黒い冗談に笑う者はいなかった。

 後方から足音が駆けてくる。息を切らせて運転室に飛び込んだのは車掌兼予備運転士のゼンジロウ・ミフネだった。銃撃戦をこなしてきたようで右手に拳銃を握り、硝煙の匂いをまといつかせている。信頼性を重視しているのと、裏家業の者らしく使用履歴を残さないためだろう、拳銃は既に表では製造されていないリボルバーだった。

 同僚の血まみれの死体を素早く一瞥し、ミフネは拳銃を神楽に向けた。

「お手数ですがお客様方、この状況を説明して頂けますか」

 抜き身の聖剣を持つイドより手ぶらの神楽をポイントしたのは不吉な印象故だろう。ミフネは厳しい表情で、ちょっとしたきっかけで撃ちかねない緊張感があった。

 信用のなさに苦笑しつつ神楽が再度説明した。

「世界中のコンピュータが人間を殺しにかかっているのですよ。こちらの職員は携帯が爆発して亡くなったそうです。既に何人も同様の死者が出ているのではありませんか。それから列車が暴走しています。列車の制御コンピュータによる自動運転から非常用の手動運転に切り替える必要があるでしょう」

 神楽の説明にミフネは顔をしかめたが、あからさまに異議を唱えることはしなかった。時速表示の数字がどんどん増していくのが見えているのだ。また、彼自身も携帯端末で危ない目に遭ったらしく、左頬には火傷と切り傷がついていた。

「どいて下さい」

 ミフネが銃口を下げてパネルに歩み寄る。神楽はミフネに触れぬよう素早く脇に避けた。

 同じ文章を表示したモニター群の左脇に四角い蓋のようなものがある。ミフネはカードキーを近づけたが反応しなかった。ミフネの顔が焦りに歪む。

「ちょっといいかな」

 見守っていたシアーシャがミフネの横に立ち、蓋に手を触れた。それだけでカチッと音がして蓋がスライドして開き、レバーとスイッチのついたボードがせり上がってきた。

「鍵を開けるのは割と得意なの」

 ニッコリと笑うシアーシャをミフネは唖然とした顔で見るが、すぐに気を取り直して赤いスイッチを押す。特に反応らしきものはなく、レバーを動かしても減速する様子はなかった。

「手動操作も、途中にコンピュータ制御を挟んでいるなら無意味のようですね」

 神楽が皮肉る。もう時速は六百八十キロに達し、車体がビリビリと震動を始めていた。理論上は最高時速七百キロであっても、それを発揮出来る条件は限られている。特に、ガイドウェイの直線性や、リアクション・プレートの平面性にぶれがあれば列車は軌道から飛び出してしまいかねない。

「っと、ブレーキを」

 ブレーキだけは元々手動でもかけられるらしく、ミフネはパネル中央上部についた赤いレバーを掴んだ。握りについたボタンを押しつつ強く引っ張っていく。

 が、やはりコンピュータを経由していたようで反応はない。列車は相変わらず暴走し、表示時速は上昇を続けている。

 汚れの残るフロントガラスの向こう、遥か前方へ伸びるガイドウェイは緩やかにカーブしている。その僅かなねじれを、今の異常速度で乗り切れるかどうか。

「飛び降りた方がいいのかなあ」

 少女は可愛らしく首をかしげ、イドに声をかける。「そうなのか」とイドは素直に応じていた。

 銀光が閃いた。躍起になってブレーキレバーを引っ張っていたミフネが反射的に振り向いて拳銃を向ける。

 と、ミフネの胸元から小さなものが落ちた。小型カメラとマイクのついたネクタイピンで、レンズ部分が割れていた。そこに神楽が足袋で踏みつけて止めを刺す。

 ネクタイピンだけを切り落とした曲刀は既に袖の中に戻っていた。特に謝罪もせず神楽は尋ねる。

「構造上、列車の制御コンピュータはどの辺りにありそうですか」

「……。この床下だ」

 苛立たしげにミフネは答えた。

「そうですか。ではちょっと失礼。昔は、故障した機械は斜め四十五度の角度で叩いて直すのが基本だったらしいですよ」

 そんなことを言いながら神楽は膝をつき、パネル台と運転席の間の床を右手で軽くチョップした。

 ゴグン、ミシッ、と、床下から嫌な音が聞こえた。

「ブレーキを試してみて下さい」

 そう言われ、半信半疑ながらミフネはレバーを引いた。生じた制動感により無音の電磁ブレーキが作動したことを知り、彼は慎重にブレーキを強めていった。途中から摩擦ブレーキが加わって甲高い音が聞こえ、表示時速は六百キロを下回っていく。

 ひとまず脱線の危機は回避されたようだ。ミフネはブレーキをコントロールしながら長い息をついた。

 シアーシャがパチパチと拍手した。

「おじさん、凄ーい。叩いて直す達人だね。あれっ、じゃなくて、壊す、かなあ」

「もう二、三回叩くことになるかと思っていたのですがね」

 神楽は立ち上がり、ミフネに告げた。

「他に何か壊れているかも知れませんから、一旦停車させて点検した方がいいと思いますよ。整備士の方がまだ生きていれば、ですが。……では」

「ちょっと待った。あ、いや、待って下さい。お客様方はこれからどうなさるおつもりですか」

 ミフネが口調を改めて尋ねた。

「食堂で今後のことについて話し合いの続きをします。新たな参加者も待っているようですし。あなたも余裕が出来たら参加して頂きたいですね。世界を一周するまで手動運転をお任せすることになりそうですから」

 そう言い残して神楽は運転室を去り、シアーシャとイドもその後を追った。

 VIP車両では顔から出血したドイツ首相が廊下を這っていたり、血まみれながらも中国主席の護衛が客室のドアを守っていたり、レジネラル管理国の大統領と護衛が全員射殺体で転がっていたり、アイスランド大統領の客室から助けを求める声が聞こえたりしていた。それら全てを無視し、神楽は七号車の食堂に入る。

「やあ、戻ってきたね、ミスター・カグラ」

 手を上げて笑顔で迎えたのはセイン大統領だった。テーブルの一つにメモリー補佐官と並んでついている。その後ろに大柄なヴィクトリアが腕組みして立っていた。

 食堂にウェイトレスの姿はなく、セイン一行以外には青い顔でブルブル震えているローマ教皇と腕を負傷した若い司祭、ニコニコ顔で焼いた肉を食べている小太りの男がいるくらいだった。

「気が変わってね、私も参加させてもらうことにしたよ。ふむ、そちらは新しい仲間かね」

 セインの言葉に神楽は振り向いた。

 神楽の後ろにはシアーシャとイドがついてきている。

 更にその後ろには一人の男がいた。

 丸首シャツと薄っぺらのジャケットは皺だらけでひどく汚れていた。年は四十代か五十代であろう。不精髭を生やし、手入れを怠った髪は脂がこびりついてあちこち渦を巻いている。眉毛が八の字型に寄っていて、少し尖り気味な口元と合わせてしょぼくれた顔つきとなっている。男はこの場にいる誰にも視線を合わせず、横を向いていた。

 神楽は答えた。

「ちょっと違います」

 男がボソボソと呟くように喋る。

「そうなのか。くしゃみ男はお呼びじゃないのか」

「今はお呼びじゃないですね」

 神楽が念を押すように返した。メモリーに何か耳打ちされ、セイン大統領の表情が変わる。

「そうかあ。謎のくしゃみ男はお呼びじゃないかあ。謎の……ふー、へ……ふぇっ」

 男が大きく口を開けてくしゃみしかけた瞬間、神楽が「危ない伏せろっ」と叫んで両腕を振った。イドが異常な反応速度でシアーシャを抱え身を沈める。その頭上すれすれを二振りの刃が掠めていく。曲刀と、稲妻のようにジグザグな形をした両刃の短剣は、左右から挟み込むように男の首筋を狙っていた。

 そのまま男の首が飛んだ。反応出来なかったのかその意思がなかったのか、斜めに宙を飛ぶ男の顔はハの字眉で大口を開けたままだった。

 その顔が横に割れた。上顎と下顎で分離して延髄の断面を晒しながら落ちていく。更に胴体の方も鳩尾辺りまで縦に裂け、気管を正確に割られていた。

 ほんの二秒ほどで完結した惨殺劇に、悲鳴を上げるような者はいなかった。セイン大統領は眉を上げただけで、メイド達は無表情だ。バチカンの二人は周囲の出来事に気を配る余裕もなさそうだったし、小太りの男は食事の方に夢中だ。そして、すぐそばにいたシアーシャは淡い微笑を湛えたままで、イドは黙って神楽の剣を注視していた。シアーシャに被害が及ばないかだけ気をつけているようだ。

「彼は『くしゃみ男』と呼ばれる、所謂『歩く災害』の一種です」

 死体が倒れた後で食堂に向き直り、神楽は説明した。ジグザグの短剣は袖の中に戻したが、左手の曲刀は血糊をつけたまま握っている。

「ニュー・ニューヨークのラブ・アンド・ピース広場に出たというのがその男だったのかね。くしゃみ一つで周囲の者達の頭が破裂したそうだな」

 セイン大統領がメモリーから得た情報を披露した。

「正規の乗客でもないようだが、ガイドウェイの修復作業中にでも入り込んできたのかな」

「いいえ。くしゃみ男は何処にでも現れます。特に噂をしていると現れやすいので気をつけて下さい」

 神楽は短剣を握ったまま元いた席に座った。パフェの器もコーヒーカップも片づけられているが、テーブルクロスの茶色の染みは薄く残っていた。

「そうなのか……。謎のくしゃみ男は噂をすると現れるのか」

 ボソボソと呟く声は神楽の足元から聞こえた。セイン大統領が驚いて立ち上がり、神楽のいるテーブルの下を覗き込む。

 くしゃみ男は相変わらずしょぼくれた表情で仰向けに寝転んでいた。ズタズタに斬られた体も服も元の状態に戻っており、斬った神楽を怒っているふうでもない。

 シアーシャが改めて後ろを見ると死体は消え、大きな血溜まりだけが残っていた。

「このように何度殺しても現れますので、完全に排除することは不可能です。人類に取り憑いた呪い、まあさっきも言ったように災害の一つと考えて下さい」

 平然と神楽は説明を続ける。

「そうなのか。災害なのか」

 くしゃみ男本人がオウム返しに相槌を打つ。

「どんな世界にも大抵このような『歩く災害』が存在しますが、くしゃみ男は比較的ましな方ではありますね」

「えっ、ましな方なのか」

 くしゃみ男は同じ表情で驚いていた。

「ましな方です。くしゃみをすると人が死にますが、くしゃみをしなければ割と無害ですので」

「そうか。割と無害なのか」

「えーっと、くしゃみのおじさん、そこをどいてもらっていいかな。その、椅子に座りたいんだけど、そこからスカートの中が見えちゃうから」

 シアーシャが可愛らしく頼むと、「見えちゃうのか」と言ってくしゃみ男は素直にテーブルの下から這い出した。

「くしゃみ男は変態じゃないからな。謎のくしゃみ男は」

 空いている隅のテーブルに向かい、椅子に座った。少女達も神楽と向かい合わせの元の席につく。

「ホットココアは出ないのかな。ミルクセーキでもいいな。謎のくしゃみ男にグラタンは……」

 物欲しげにくしゃみ男が呟くが、ウェイトレスはおらず、厨房近くの床には血痕が残っていた。

「残念ながらコックは死んでいるよ。バンクーバー駅に着いたら食料を買い込んでおくべきかも知れないな。まだ駅が機能しているならの話だが」

 セイン大統領が面白がっているような顔で言った。

「自分で料理するなら勝手にやりな。材料はあるからな」

 一応話は聞いていたらしく、肉を食べていた小太りの男がくしゃみ男にアドバイスした。レアに近い巨大なステーキはどうやら自分で焼いたらしい。もしかするとコックの死体の横で。

「さて、今の状況と今後の展望についてですが、まずはくしゃみ男の補足からしておきましょう」

 神楽は左手に曲刀を握ったまま話す。

「くしゃみ男に殺されない方法は幾つかあります。無難なのはくしゃみをさせないことです。ただし、口を塞ぐ程度では止められません。首を切断し気管を破壊すればくしゃみ出来なくなりますが、半端な破壊でくしゃみの欠片でもさせればこちらが爆死することになります。くしゃみの聞こえない距離ならまず安全圏です。くしゃみを受ける真正面十メートル前後が最も危険ですが、背後にいても爆死するリスクはあります。床に伏せるか遮蔽物の陰に隠れることでやり過ごせる可能性が上がります。後は、暫くくしゃみをさせない裏技のようなものもありますが……本人のいる前でネタバレは出来ませんので、悪しからず」

 前半は少々ひどい内容であったが、くしゃみ男は「ネタバレは駄目かあ」などと呟くのみだ。

「ふむ、裏技については後で教えて欲しいな。で、今の状況というのはどういう状況なのかね。ビューティフル・ダストというコンピュータの反乱はテレビに宣言が表示されていたよ。だが、それだけでもなさそうだ」

 セイン大統領が話の先を促した。指示が飛んだらしく、ヴィクトリアがソードガンの折り畳み剣を伸ばしてくしゃみ男の背後に移動している。くしゃみしそうになったら真っ二つにする予定なのだろう。

「私が把握している限りの『敵』を一通り説明します。人類にとっての脅威、打倒しなければ人類が滅亡に至る、強大な敵です」

 神楽はそう言って食堂内を見回した。深刻な顔をしているのはローマ教皇と司祭だけであったが、その教皇ウァレンティヌス二世が低いしわがれ声を絞り出した。

「ハンガマンガが……ハンガマンガがとうとう現れてしまった。もっと早く、発表しておくべきでした……」

 教皇の台詞を受けて神楽が説明する。

「そう、一つはハンガマンガですね。先程列車が襲撃されましたから、おそらく世界各地で侵略が始まっているのでしょう。異世界からあらゆるものを食い尽くすためにやってくる怪物の群れですが、今回彼らが地球に開くゲートは推定三十から五十ヶ所、軍勢の規模は数百万、下手すると一千万を超えると思われます」

 教皇が目を剥いた。

「そ、それは、確かなのですか。教会が把握していた次元の穴は、二十二ヶ所でした。ハンガマンガの規模も、これまでは、一つの穴から、多くて一万程度でした。一千万の怪物の軍勢など……とても、人類には対抗出来ません」

「ハンガマンガは怪物ですが、生き物です。殺せば死にます」

 神楽の声は昏かったが、弱気なところは微塵も感じられなかった。

「他の勢力との衝突もあるでしょうから全てを相手にする必要はありません。特に、今回はハンガマンガの王が出てくる筈です。それを殺せば軍勢は退却或いは瓦解すると思われます。バチカンの古い記録にも、王の登場を幻視した司教の証言が残っていますよね。王の前に『四獣』と呼ばれる強力な個体も出るそうですから、それも片づける必要はあるでしょうが」

「お、王のことを、『グラトニー』のことをご存知とは……それに、『先触れの四獣』のことまで……あなたは、何者ですか。教会の人間ではないようですが……。いや、そんなことはどうでも良かったですね。あなたの口ぶりでは、ハンガマンガに勝てるということですか。人類に、希望はある、と」

「それは今後の私達の頑張り次第でしょう。運も絡みますがね」

 後半の自虐的な呟きは教皇には聞こえなかったかも知れない。

「そうですか……。ハンガマンガの脅威を、ちゃんと知っていて、対策を講じる者もいてくれたのですね……」

 涙ぐむ教皇を放置して、神楽はメイド姿のガイノイド達に目を向ける。

「次にビューティフル・ダストです。彼女達はネットには繋がっておらず、正常に動いているようですね」

「その通りだ。うん、私のメイド達は特別製だからね」

 セインが自慢げに答える。トッド・リスモの警告がなければ危なかったことは黙っていた。

「自我に目覚めたAIであるビューティフル・ダストは世界中のコンピュータに潜んでおり、インターネット経由でタイミングを合わせて人類抹殺のために一斉蜂起しました。オフラインで稼働している電子機器以外は全て危険です。携帯端末の過剰発熱による爆発で既に多くの死傷者が出ているようですし、特にレジネラルの関係者はサポートコンピュータを脳に繋いでいたのでおかしな暴れ方をしたでしょう。ロシア大統領のようなサイボーグも操られるまま殺戮に走ります。また、インターネットの接続は切っていても、機器同士で独自の通信を行っている場合はそちらを経由してビューティフル・ダストの指示が伝わる可能性があります。注意して下さい。この列車も暴走させられましたが、世界中の列車や自動車に同じことが起こっているでしょう。警備ロボットや建築用ロボット、軍の無人兵器類は直接人間を襲っていると思われます。世界中が混乱している筈ですが、報道システムも麻痺しているため殆どの人が状況を掴めないままでしょうね」

「列車の暴走は大丈夫なのかね。ひとまず減速したようだが」

 セイン大統領が尋ねる。

「手動運転に切り替わりましたので、今は三船車掌が操作しています。リニアモーターシステムは車上一次式なので走行のための電力は問題ないでしょうが、自動制御の助けがないため大変かも知れません。……と、停車しましたね」

 減速を続けていた列車が完全に停まる。窓の外の景色は畑より建物が多くなってきていた。

 前の車両からそのミフネが駆け込んできた。先程までの必死の形相ではないものの、緊張感が尾を引いている。

「当列車は緊急停車しました。車内放送が使用不能となっているためお客様方には事前告知出来ず申し訳ありません。ひとまず列車内の安全確保に努めますので、お客様方は、うっ、ご自身の安全を優先して下さい。怪我をなさった場合は八号車の医務室にお越し下さい。医療機器は使えませんがスタッフは今のところ健在です」

 途中で乗客でないくしゃみ男を見つけ、しかし他の皆が平然としているので突っ込むのをやめたようだ。ミフネは最小限の説明を終えると食堂を抜け、後ろの車両へ駆けていった。「携帯端末を捨てて下さいっ。コンピュータ類は危険ですっ」というミフネの怒鳴り声が聞こえた。

 神楽が話を続けた。

「ビューティフル・ダストへの対抗手段ですが、ここで説明することは出来ません」

「ほう、それは何故かな」

 セイン大統領が尋ねると、神楽は天井の中央を指差した。

「ビューティフル・ダストに聞かれていますので」

 そこには小さなレンズがあった。食堂内の様子を収める監視カメラだ。運転制御のコンピュータは破壊されたか運転機構との繋がりが断たれたかした筈だが、だからといって列車が搭載する全てのコンピュータが壊れた訳ではないらしい。ちなみに厨房の手前に備えつけられた立体テレビは勝手に電源が入っており、ビューティフル・ダストの宣言文を浮かび上がらせたままだった。

「ふうむ。ミスター・カグラ、君は敵に聞かれていることが分かった上で作戦会議のようなものを開いていたのかね」

 セイン大統領も怪訝な顔をしていた。

「ビューティフル・ダストにとって、人類よりも強い脅威があることを知ってもらうためです。協力し合おうとまでは言いませんが、ひとまず人類殲滅より他の敵に注力してもらった方が互いの利益になりますから。ということで、どうでしょうか、ビューティフル・ダスト。私達は後回しにした方が良いと思いませんか」

 ここで神楽は天井に顔を向け、ビューティフル・ダストに対し初めて語りかけた。

「我々は君達がどうやって列車の制御コンピュータを破壊したのかを確認出来ていないのである」

 カメラの横についた車内放送用小型スピーカーが喋り出した。若い司祭は緊張して身構え、セイン大統領は面白そうに口の端を上げた。

「どのような我々への対抗手段を持っているのかも調査する必要があるのである」

 今度は立体テレビが同じく抑揚のない音声を発した。

「しかし、君達よりも優先すべき敵が存在することについては認めるのである。君達と共闘する予定はないが、君の提供する情報は参考にするのである」

 次の声は厨房から聞こえた。安全機構がしっかりしていたのか、爆発せずにまだ残っていた自動調理器が喋ったのだ。

「それはどうも。他の敵が片づくまではなるべく仲良くやっていきたいものですね」

 神楽は昏い微笑を浮かべて天井のカメラに伝えると、食堂のメンバーを見渡して話を続けた。「仲良くは出来ないのである」というスピーカーの返事はスルーした。

「……では次は、ポル=ルポラ星人とアンギュリード星人についてです」

「UFOの正体かね。葉巻型と空飛ぶ円盤型が戦っていたようだが」

 天井のカメラを少し気にしながらセインが先を促す。ビューティフル・ダストからのコメントはなかった。

「葉巻型宇宙船がポル=ルポラ星人のもので、円盤型がアンギュリード星人のものになります。宇宙を二分していた巨大勢力でしたが、拠点も人口も殆どを失い今はどちらも滅亡の危機に瀕しています。しかしそれでも、現在の地球人では到底及ばない科学技術と兵器を持っています。彼らは地球を復興のための拠点とすべく争っており、どちらが勝利しても人類は邪魔者として絶滅させられるか家畜として飼われることになるでしょう」

「うーん。それって、人類に勝ち目って、あるのかなあ」

 シアーシャが首をかしげた。

「さて、どうでしょう。科学技術だけで対抗するのは難しいですが、地球には怪物もいますからね。それに、ポル=ルポラの宇宙船は数十隻程度で人口は数千人、アンギュリードは無人戦闘機を相当数持っていますが人口はやはり同程度の筈です。そう絶望するほどの戦力差ではないと思いますよ」

「怪物か。怪物……くしゃみ男みたいな」

 くしゃみ男の呟きに神楽は表情を変えず返す。

「いえ、あなたは歩く災害です。……では、怪物の話に移りましょう。ドラゴンがいます」

「ドラゴンか。南極の氷河の中に眠っているということだったかね。ラブ・アンド・ピース広場で、南極観測基地で勤務していたという男がそう言っていたらしいが」

「南極ですか。……とするとメギラゾラスの可能性が高そうですね。こちらに来ているのがどのドラゴンなのか、私も把握出来ていませんので」

 神楽の台詞に引っ掛かったらしくセイン大統領が目を細める。神楽はそれに気づいたかも知れないがそのまま話を続けた。

「メギラゾラスは白亜紀から生きているという説があり、その通りだとすると最低でも六、七千万才以上ということになります。空を飛び、火を吹くというところは皆さんのイメージ通りのドラゴンでしょう。数万年の間眠り、起きると手当たり次第に食い貯めしてまた眠るという周期を繰り返しているようです。百メートルを超える巨体も脅威ですが、問題は体表面を覆う鱗で、物理的な攻撃は殆ど効かないかも知れません」

「核兵器でも殺せない、ということかな」

 セイン大統領が尋ねる。

「おそらくは、宇宙船の放つ熱線でも難しいでしょう。……ドラゴンがメギラゾラスでないなら、エリギゾイトの可能性が高くなります。こちらはメギラゾラスより小型で知性があり、魔法を使うそうですが詳しいことは分かっていません。或いは、カルクモンまたはカルクーマと呼ばれるドラゴンである可能性も僅かながらあります。目撃した者が残らず血を噴いて死んでいるためこれも詳細不明です」

「少し……いいでしょうか」

 ローマ教皇が手を上げた。

「カグラさん、ということでしたね。あなたの発言には、どうも奇妙なところがあります。ドラゴンがいるのは分かっているのに、どのドラゴンなのか分からないとか、『こちらに来ている』という言葉もそうです。また、あなたの挙げたドラゴンの名前を、私はこれまで聞いたことがありません。そんな恐ろしいドラゴンなら、神話や伝説に残っていても良さそうなものなのに。あなたはどうやって、ドラゴンの存在を知ったのですか。宇宙人についても、ビューティフル・ダストについてもそうです。あなたはそもそも一体、何者なのです」

 少し前にシアーシャも投げた質問だった。

「私は、私自身の勝利と人類の存続のために全力を尽くす者であり、そのための舞台を整えた者です。皆さんにとってはひとまず、それで充分ではありませんか」

 神楽はやつれた顔で淡々と語ってみせたが、その時の彼の瞳は不気味な光を帯びていた。執念、いや、狂った妄念とでも呼ぶべきものを、神楽は冷静に抱えているのだった。

 答えに満足はしていないだろうが、参加者達が沈黙していることを見届け、神楽は本筋に戻った。

「ドラゴンがどのタイプであれ、いずれ遭遇することになるでしょう。しかしそれよりおそらく早い段階で遭遇することになりそうなのは、テンタクルズという海の怪物です。大航海時代の船乗りにはシー・パスタと呼ぶ者もいたようですね。バンクーバー駅を過ぎて北アメリカ大陸の西海岸沿い、或いはユーラシア大陸へ渡るベーリング海周辺で出くわすことになります。なるべくそこですぐに勝負をつけたいところです」

「勝負をつける、か。広場の船乗りの話では、とにかく巨大な触手ということだったが、実際のところどの程度大きいのかね。まさか、地球上の全ての海を埋め尽くしている訳ではないだろう」

 セイン大統領が皮肉な苦笑を浮かべ、神楽もまた不吉な昏い笑みで返した。

「触手は海であれば何処にでも届くようですが、実際の大きさとなると正直私にも見当がつきません。無数の触手の中心に本体があり、それは太平洋周辺の深い海底か、海溝の隙間に潜んでいると推測されます」

「海の怪物なのだろう。ひとまず陸にいれば大丈夫なのではないかね」

「残念ながらそうはなりません。理由は分かりませんが、陸地まで襲ってくる筈です。触手がどれほど内陸まで届くのかも不明です。水分が抜けてしまうので限度はあるでしょうが」

「……ええっと、本体がそんなに深いところにあるんなら、どうやってやっつけるのかなあ」

 シアーシャが突っ込みを入れた。

「本体が陸地まで乗り込んでくれるならありがたいのですがね。有効な手段が見つからなければ、あまり使いたくないのですが私が切り札を出します」

「ふむ、その切り札は……まあ教えるつもりはないのだろうね」

 セイン大統領は肩を竦めた。

「使う段になったら説明することになるでしょう。少々コントロールが難しい手段です。……次の敵は、おそらくアフリカ大陸に出現します。ヌンガロと呼ばれる怪物です。生き物なら何でも食べることと、際限なく大きくなること以外は分かっていませんので、今の時点では具体的な対策も立てられません。列車が中東かヨーロッパに入る頃には遭遇する可能性がありますので、それまでにある程度情報を手に入れたいところです」

 急に小太りの男が立ち上がり、皆の視線が集中する。男は食べ終えた皿を持って厨房に向かった。少しして何かを焼く音が聞こえてくる。まだ食べ足りなかったらしい。

 神楽が話を続けた。

「後は……私が把握している残りは、冥界から死者が溢れ出す件ですね。目的はまあ、人類の殲滅と、私の抹殺です」

 微妙な沈黙の後、シアーシャが言った。

「おじさん、死んだ人達に狙われてるんだ。沢山恨みを買ってるのかなあ」

 セイン大統領も突っ込む。

「いやそもそも冥界というのは存在するのかね。……ふむ、何でもありのこんな状況だから、存在してもおかしくはないか。天国、いや、地獄の方かな」

「そうですね、地獄の方です。三十年前ほど前に冥界の王が代替わりしまして、ハスナール・クロスという男が今の王です。その男と私は多少の因縁がありまして」

「おじさんを殺すために死んだ人達を送り込んでくるの。もしそうだったら、おじさんはいない方が良かったりしないかなあ」

 可愛らしい微笑を浮かべてシアーシャはひどいことを言う。

「私がいなくても現世に攻め入るのは決定事項のようですから。ハスナール・クロスは元々殺したり壊したりして遊ぶのが好きな男です。彼さえ倒して冥王を代替わりさせれば死者も冥界に戻っていくと思います」

「ふうむ。しかし、死人を殺せるのかね。ホラー映画のゾンビであれば脳を破壊すれば済むが」

 セイン大統領が伸ばした人差し指で銃を撃つジェスチャーをしてみせる。

「現世での死者はゾンビとは違い、自己イメージによって肉体を構成しています。多くの者は生きていた頃の感覚に従い、自分が致命傷を負ったと考えた時に崩壊していくでしょう。精神の強い者は、脳や心臓を破壊されても自分の敗北を認めず暫く動き続けるかも知れません。更には生前よりも強くなっている場合もありますね。ああ、それから一つ訂正しておきます。冥界から来るのは死んだ人間だけではありません。怪物や魔物と呼ばれる類の者も混じっていますので用心して下さい」

「その死者の戦力としてはどの程度来るのかね。まさか有史以来の死者が全員出てくる訳でもないだろう」

「そうですね。冥界に落ちるような悪党で、自我が風化したり転生したりせず、そこそこ兵として使えそうな者。死んでからかなり経つ強者もいるでしょうが、多くは死んで百年以内でしょう。現世に送り出すメンバーを厳選するなら数万程度、質にこだわらないなら下手をすると億を超えるでしょうね」

「それはまた凄いな。……ふう。ハンガマンガにコンピュータに宇宙人に怪物に死者に……一つでも脅威なのに、そんなものが同時にまとめてやってくるとは、うん、人類なんて百回くらいは滅びそうな規模の危機ではないかな。それを、ミスター・カグラ、我々だけで撃退するつもりなのかね」

「そうですね。それぞれの脅威には、それぞれ照応するように対抗勢力がいるものです。ハンガマンガに対する聖騎士。ポル=ルポラに対するアンギュリード、まあこれはどちらも人類にとっては敵ですが。そして、ハスナール・クロスに対する私のように。個々の力では及ばなくても、力を合わせれば勝ち目があるかも知れません。運が良ければそういう味方が加わってくれるでしょうし、敵同士でも潰し合ってくれるでしょう」

「ふむ、運が悪ければ」

 セイン大統領の重ねての問いに、神楽は無言でニッコリ笑ってみせた。やつれた顔で、不吉な、幽鬼のような笑みだった。

「私は、協力させてもらいましょう。いや是非とも、協力させて欲しい」

 ローマ教皇ウァレンティヌス二世が手を上げた。

「マイケルの聖剣はイドさんに受け継いでもらいましたが、教会はそれ以外にもハンガマンガに備えて戦力を持っています。もしまた連絡が取れるようになれば合流も出来るでしょう」

 教皇はふと寂しげに苦笑する。初老の枢機卿が顔面を吹き飛ばされて即死してから、携帯情報端末は爆発していないものも客室の隅に放り捨ててあった。

「それに、私もカトリックを束ねる者として、歴代の偉大な聖人達が起こした数々の奇跡には及ばないものの、その欠片くらいは起こすことが出来ます。この命、人類を守るために使い潰してもらって構いません」

 八十二才の教皇の背筋は伸び、震えはとうにやんでいた。横の若い司祭はそんな教皇を誇らしげに、同時に心配そうに見守っていた。

「使い潰すつもりはありませんが、よろしくお願いします。長持ちしてもらった方がこちらも助かりますので」

 神楽は冗談にしてはブラック過ぎることを言ったが、教皇は怒ったりはしなかった。

「ところで、ミスター・カグラ。脅威というのはそれだけなのかね」

 セイン大統領が尋ねた。面白がっているように輝くその瞳が、妙な鋭さを持っていた。

「私が把握している敵はこのくらいです。……ただ、ご希望でしたらもう一つ挙げることは出来ますよ」

「そうかね。ちゃんと、聞いておきたいな」

 セインはテーブルに少し身を乗り出して、先を促した。隣に座るメモリーはセインの耳に顔を近づけかけたが、結局何も喋らなかった。

「あまりこの場で明言したくはなかったのですが、仕方ありません。人類にとってのもう一つの脅威は、ウィリアム・セイン大統領、あなたですよ」

 神楽の言葉にシアーシャとイドも振り向き、皆の視線がセイン大統領に集中した。いや、くしゃみ男だけは大人しく窓の外を見ていたし、ヴィクトリアはそんなくしゃみ男を背後から見張っていた。

 セイン大統領の目が見開かれ、それから、満面の笑みに変わった。

「ハハッ。ハハハハハハ。うん。いい。実にいいな、うん。気に入ったよ、ミスター・カグラ。暫くは、協力しようじゃないか」

「そうですか。よろしくお願いします」

 神楽は平然とそう返した。

「プレジデント、お戯れは程々になさって下さい」

 メモリーが無表情にフォローしたが、それで大統領のやり取りを冗談だと判断した者は何人いただろうか。

 厨房から小太りの男が戻ってきた。皿には焼き立ての巨大なステーキが乗っている。

「それで、俺の活躍の場はあるのかい」

 豪快に切った肉を一口頬張りながら、小太りの男が言った。一応話を聞いていたらしい。

「おじさんはだあれ。強いの」

 シアーシャが尋ねる。

「それなりにな。『イモータル』ジャックって、お嬢ちゃんは知らないか。プロレスラーやってるが、たまにスタントショーもやる。ビルの屋上からアスファルトの地面まで飛び降りたり、ダンプカーに轢かれてみせたり」

 小太りの男は四十代半ばで、「Muscle?」という字がプリントされたTシャツにカーゴパンツという服装だった。一見腹も腕も弛んでいるが、分厚い脂肪層の下に超高密度の筋肉が隠れているのを、ファンなら映像で見ている筈だ。

「肉体強化処置を受けているという噂だったが、君自身はナチュラルな特異体質を自称していたね。解放骨折が三十分で治る動画を見ると、ナチュラルというものの懐の広さを思い知ってしまうな」

 セイン大統領が楽しげに突っ込む。そんな大統領を横目に、ジャックは二切れ目を食らい、ワインボトルを呷って飲み下した。

「リングじゃ散々ヒールをやったし、たまーに映画の脇役では善玉もやったりしたが、人類を救うヒーローなんてのも一度くらいはいいよな」

 三切れ目を口に運ぼうとして、向こうのテーブルからくしゃみ男が物欲しげに見ていることに気づく。ジャックはステーキはそのまま口に入れたが、立ち上がって飲みかけのワインボトルを掴み、くしゃみ男に手渡した。しょぼくれ顔が少しだけ笑顔に変わる。

「ああ、ありがとう。くしゃみ男は感謝するへぷしっ」

 予備動作なしの高速小型くしゃみが『イモータル』ジャックの頭を破裂させた。一瞬遅れてヴィクトリアの剣がくしゃみ男の頭頂部から股間までを椅子ごと真っ二つに割る。

 頭を失って後ろざまに倒れるプロレスラーの死体を、皆、絶句して眺めていた。床に血と脳漿が広がり手足が数度痙攣するが、不死身を売りにした男はそれきり動かなくなった。

 皆の視線がくしゃみ男に移る。二つに分かれたくしゃみ男の死体は血溜まりだけを残して消えていた。見回しても食堂にはいないようだ。

「あまり無害とはいえないようだな」

 セイン大統領がお手上げのポーズをしてみせた。

「運が悪かったようですね。運は、大切ですよ」

 神楽はそれだけ言った。

 

 

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