第三章 地獄パラダイス

 

  一

 

「……い。……おい。何ボンヤリしてる。ちゃんと話は聞いとけよ」

 声がした。

 彼は目を開ける。

 薄暗い場所だった。荒野。人が大勢いる。ざわめき。生ぬるい風が吹いている。

 空が暗い。どす黒い。時折赤い閃光が稲妻のように空を駆ける。巨大な獣の唸り声に似た轟きは閃光と関係あるのだろうか。

「俺は……」

 彼は呟いた。

「俺は、なんでこんなとこにいるんだ」

「なんだ、お前、こっちに来たばかりなのか」

 彼は声の主を見る。人込みの中で隣に立っていた男は顔面と胸に大穴が開き、血塗れの状態だった。

「それ、大丈夫か」

「大丈夫さ。もう死んでるからな。お前はなんで死んだんだ。パッと見、無傷っぽいが」

「俺は、死んだのか」

「死んでるぞ。だってここは冥界だからな」

「冥界……」

 彼は自分の腕を見る。太い腕、大きな手。ムチムチとした脂肪に包まれていたが、その下に鍛え上げた筋肉が存在することを、見ているうちに彼は思い出していた。

「……そうだ。俺は、ジャック……ジャック・ペルクマンだ。なんで死んだのかは思い出せんが、俺は『イモータル』ジャックだ」

 ミチミチ、と体が音を発している。自分が何者かを自覚した瞬間から、彼の肉体は急速に彼らしさを取り戻しつつあった。常人なら即死する衝撃に耐える超高密度の筋肉と、柔軟な関節。そして、不死身と呼ばれた異常な再生能力。

「死後のこの体はイメージで出来てるんだぜ。だから訳の分からないうちに即死した奴なんかは無傷の姿でこっちに来るんだ。魂の強い奴は自分のイメージをいじくって理想の美女やイケメンになったり、とんでもない化け物になったり出来るんだ。俺は自分の傷を消すことも出来ないがな。……って、おいおい、なんかでかくなってるぞ、お前」

 血塗れの男が自嘲する間にも『イモータル』ジャックの体は膨張を続けていた。筋肉が大きくなり、はち切れそうになった皮膚が追いつき、両者の間に脂肪が加わり、また筋肉が膨らむ。太くなり過ぎた手足とバランスを取るようにミキミキと骨が伸びる。一見小太りな体型のままで既に身長は三メートルを超え、体重は一トン近いのではないか。着ていたシャツも体に合わせて大きくなるが、プリントされた「Muscle?」の末尾が何故か「!」に変わっていた。

「す、凄えな。で、でも大人しくしとけよ。今は将軍が話してるんだ」

「将軍、か。死んだ後も将軍なんかやってる奴がいるのか」

 ジャックは死者の人込みを高みから見回した。荒野に数万人規模で集まっているようだ。死亡時の状態を引きずって血みどろだったり手足がなかったりするものも多いが、腕が何本もあったり背中に大きな棘が並んでいたりする異形も混じっていた。更にはまるで人間とは思えない虫のようなものや、触手で支えられた巨大な眼球などもいた。元人間らしきもの達の皮膚は血色が悪く、蝋のように白かったり腐りかけのように赤黒かったりした。実際に腕の肉が腐り落ちて骨だけだったりするものも平然と立っていた。

 巨人となったジャックをそんな死者達が見上げる。彼らの濁った視線には鈍い敵意のような対抗心のようなものが感じられた。それを気にせず受け流し、ジャックは将軍らしき人物を発見した。

「キョーエイ・カグラという男だ。浅黒い肌で黒い着物を着ている。ジャパニーズ・キモノだ。黒い覆面をしていることもある。その男を殺せた者は、冥王が貴族に取り立てて冥界に領地を与えて下さるそうだ。貴様らのようなどうしようもないクズが貴族になれるのだぞ」

 よく響く声で檄を飛ばしているのは、あちこち尖った禍々しいデザインの黒い甲冑を着た男だった。兜は右半分が欠け落ちており、金属の光沢を持つ髑髏が露わになっている。髑髏と欠けた兜はくっついてそのまま融合してしまっている。それが彼の自己イメージらしい。

「いかにも地獄の将軍っぽい感じだよな。しっかし、俺はヒールやってたけど、地獄に落ちるほどの悪党じゃねえつもりだったんだがなあ。自分のことは分かんねえもんだぜ。今からでもいいことすりゃあ天国に上がれるのかね」

 ジャックの独り言は聞こえていないだろうが、金属髑髏がチラリと彼の方を見た。急に大きくなったものがいたので気になったのだろうか。しかし特に何もせず、死者達への説明を続ける。

「どれがキョーエイ・カグラか分からなければ、とにかく生きている者を殺しまくればいい。この際人類を絶滅させるというのが冥王のご意思だ。殺して殺して、一人残らず殺しまくれ」

 死者達が活気のない暗い笑い声を上げた。ここにいるのは悪党ばかりのようで、殺しが出来るのを喜んでいた。自前の武器を持つものもそれなりにいたし腕の先が刃になっているようなものもいたが、持たないものには剣や槍や鉄パイプなどが配られていた。

「貴様らは第二陣だ。一時間後に現世への通路が開く。場所は北アメリカ大陸の何処かになる筈だ。昼間、陽光の下では消耗が激しいので気をつけるように。回復のためでも、こちら側に帰還するなら最低でも一人で百人は殺してからでないと許さん。嘘をついてもばれるからな」

「キョーエイ・カグラ……ジャパニーズ・キモノの、そういえばいたな、あいつか。……人類、絶滅……冥王……。ああ、そうだったな。俺は……」

 ジャックは呟きながら歩き出す。押しのけられたものが悪態をつくがジャックは気にしない。人込みを掻き分けながら目指す先には金属髑髏がいた。

「とにかく殺せ。殺せ。キョーエイ・カグラを殺せ。生きているものは人だろうが犬だろうが虫だろうが何でも殺せ。殺して殺して殺し尽くして現世を冥界に変えてしまえ。……質問なら答えんぞ。貴様らはどうせ使い捨てだからな」

 目の前で立ち止まったジャックの巨体を見上げ、金属髑髏が尊大に告げた。

「いや、別に質問じゃない」

 ジャックはそう言って右腕を振り上げた。右手が頭の後ろに回るくらいに振りかぶってから叩き下ろした脳天チョップは、はた目にはゆっくりだったがそのリーチの長さから先端は音速を超えていた。分厚い手刀が兜にめり込み金属の髑髏をあっけなくひしゃげさせ、潰れた頭部を胴体まで陥没させそのまま股間まで真っ二つにした。原形が分からなくなった頭部がちぎれて転がり落ちるとそれを踏みにじり、ジャックは誇らしげに右腕を差し上げ勝利の雄叫びを上げた。

「うおおおおっ、俺がっ人類を救うヒーローにっ、なってやるぜえええっ」

 ジャックの宣言に対し、冥界の暗い荒野は一気に騒然となった。数万の死者達の反応は様々で、「反逆者だっ殺せっ」と襲いかかるものが多かったが、「下剋上だっいいぞもっとやれっ」と喜び煽るものや、無感動に傍観しているものもいた。

 何十本もの投げ槍がジャックの体を貫き、続いて殺到した剣士達がジャックの肉を切り刻んだ。肉は切れたが骨は断てなかった。そして深く入り込んだ刃は筋肉に締めつけられて抜けなくなった。

 ジャックは無防備に両腕を広げて小首をかしげ、憐れむような馬鹿にするような笑みを浮かべて溜め息をついた。リングでもテレビの特番でも数限りなく見せてきた、効いていないというアピール。

 背後から静かに跳躍した男が短剣をジャックの脳天に突き刺した。鍔が頭蓋骨にぶつかるまで完全に刃が埋まり込み、切っ先が顎の下から顔を出す。ジャックの左目がクルリと裏返り、二秒後には元に戻った。

 ニターリ、とジャックは深い笑みを浮かべ、まずは頭に取りついた男を軽く手の甲で弾き飛ばした。それだけで男の体はバラバラに飛散し、すっぽ抜けた短剣は脳と頭蓋骨を更に削っていったがジャックにとって何のダメージにもならなかった。両腕を伸ばして体を水平回転させると、刃を抜こうと四苦八苦していた剣士達がラリアットでグチャグチャになって吹っ飛んでいった。フンッとポーズを決めると刺さった剣やら槍やらが押し出され飛んでいく。

 死者達の喧騒と混乱が大きくなる。まとめ役らしい兵士達は将軍を失ってうろたえ、祭り好きな悪党達が踊り狂い、遠征に乗り気でなかった死者はどさくさ紛れに逃げていく。荒野の先に安息の地があるかは分からないが。ジャックは片手で掴んだ死者の体を棍棒代わりに振り回して敵対者を片っ端から潰していく。すぐに棍棒が壊れるのでまた別の死者を引っ掴む。その間にも絶えず攻撃を食らい続けるが、裂けた肉はすぐ盛り上がって傷を塞ぎ、零れ出た腸もラーメンを啜るみたいにチュルチュルと腹腔へ引き戻されていく。と、傷が塞がる方が早くて戻り損ねた腸がちぎれ落ちたが、ジャックは全く気にしていなかった。Tシャツも破れては再生し破れては再生しを繰り返していた。

「ハーッハハッ、どんどんかかってこいや。俺は不死身の男・『イモータル』ジャックだっ。冥王だろうが何だろうが俺一人でぶっ潰してやるぜ。おっ、新手かあ。幾らでも追加していいぞ。永遠にでも戦ってやらあ」

 大声で笑いながら喋りながら死者を叩き潰しながらジャックは荒野の彼方を見据えた。砂塵を巻き上げて軍勢がやってくる。古いオートバイや角の生えた怪物馬や大きなトカゲなどに乗って凄いスピードで駆ける一団。甲冑に大剣に機関銃と武装も充実しており、鉄パイプなど配られていたこちらの集団とは格が違っているようだ。

 襲来する軍勢は巨大な構造物を引っ張っていた。黒いピラミッドの上部が神殿のようになっており、その中央に細長い板のようなものが立てられている。いや、それはやたら上に長く伸びているが、玉座の背もたれのようだ。玉座に誰かいるようだが、砂塵のせいでよく見えない。雷光がピラミッドの周辺にやたら多く閃き、おどろおどろしさを演出していた。

「おいおい、まさか冥王って奴のお出ましかあ。もしかして、このままあっさり人類救っちまうかあ俺は。不死身のジャック・ペルクマン様が」

 ジャックは片手に一体ずつ死肉の棍棒を持って乱打していたが、ふと真顔になって首をかしげた。

「で、俺はなんで死んだんだ。不死身なのによう」

「本当に不思議だな。くしゃみ男にも謎だ」

 ボソボソと呟く声がすぐ近くで聞こえ、ジャックは驚いて左を見る。いつの間にか彼の大きな左肩に不精髭を生やした貧相な顔の男が腰掛けていた。

「あれっ、くしゃみ男、だ。……あっ」

「えっ。へくちっ」

 くしゃみ男がくしゃみをした。『イモータル』ジャックは全身が爆裂して跡形もなくなった。

 唖然として死者達が見守る中、腰掛ける場所を失ったくしゃみ男はみっともなく地面に落下した。

「あ痛たた。ふえっっっくちっ、はーっぷしっ」

 くしゃみ男が二連続で大きなくしゃみをした。数万の死者の軍勢は最初の一回で頭部を破裂させ、二回目のくしゃみで全身が破裂した。そしてくしゃみ男もいつの間にか消えた。

 

 

 十分ほど後、到着した冥王直属軍は、動くもののない汚い残骸だけが散らばる荒野を見渡していた。

「スチルボーン将軍を滅したという反逆者も、念話で緊急連絡してきた者もおりません。北アメリカ大陸に送り出す予定であった五万の軍勢も、全て滅したと思われます」

 高い高い玉座に向かって、首から上が無数の目になった男が報告した。

「ん、んー。困ったな」

 黒いピラミッドの上にある黒い神殿の黒い玉座から、声が響いた。中年男性の渋みがあるが、気取った調子の声音。

 玉座の周辺は砂塵に覆われ、冥王ハスナール・クロスの姿は見えなかった。

「出番がなくなったぞ。ラスボスが、序盤にちょっとだけ顔見せするイベントじゃあなかったのか、これは。ん、んー、強さのデモンストレーションもしておきたかったが、なあー」

 居並ぶ冥界の強者達はピラミッドから目を逸らして黙っている。バイクに跨った機械部品剥き出しのサイボーグや、全身が燃えている巨人と岩石で出来た巨人、胴体に数十本の腕を生やし首から上も腕になった剣士、無数の骨を組み上げて作られた大蛇、やたら長い剣を引きずる片腕の剣士、などなど、異様な迫力を漂わせる怪物達が、揃って叱られた子供のようにシュンとしているのがまた異様だった。彼らは、今代の冥王に下手な反応を示すと恐ろしい災難に遭うことを知っているのだ。

「ん、んー。ここで何か面白いイベントが起きないものかな。例えば、忠実な筈の部下がいきなり反逆して私に下剋上を挑むみたいな。んー」

 意を決した一人が突然列から飛び出してピラミッドに正対した。ズタボロのマントをまとった痩身の男で、顔や首筋、裸の上半身のあちこちに細長い傷口があった。

「ハスナール・クロス、お前を滅して俺が次の冥王になるっ」

 水気の乏しい灰色の顔は怯えに歪んでいたが、その濁った瞳が赤く光ると体中の傷口から音もなく白い刃が伸びた。数十本のねじくれた剣は男の急所を守りつつちょっとした動作で敵を切り刻める絶妙な配置になっていた。

「よーしよし、いいぞお」

 砂塵の奥で冥王が手を叩く。

 痩身の男は足首の動きだけで跳躍した。ドリルみたいに体をひねりながら高く、ピラミッドの上の玉座へ向けて。

 しかし、男の体は突然方向を変え垂直に舞い上がった。暗い空を高く、高く、更に高く。男の見事な錐揉み回転はメチャクチャになり手足が乱雑に踊り、ぶつかり合った刃が折れる。まるで見えない力に掴まれて振り回されているように。ミヂミヂッ、と男の肉体が悲鳴を上げ始めた頃、空の数ヶ所から閃いた雷光が男を貫いた。五体が引き裂かれ刃も砕け、バラバラになって落ちていく男をまた雷光が刺し、刺し、刺しまくる。地面にぶつかる前に、男だったものは跡形もなく分解されて塵さえ残らなかった。

「うむ。デモンストレーションはこんなものでいいだろう」

 強者達は冥王の言葉に安堵しつつ、痩身の男の自己犠牲に感謝した。

「神楽め、世界を繋げるとはどういうことかと思ったが、なかなか面白いことをするものだ。……さて、奴との決戦までにヨーロッパくらいは綺麗にしておきたいものだな。アフリカは、まあ、適当でいいか。それから、ピラミッドは安直過ぎたかな。本番では何か趣向を凝らしたいものだ……」

 砂塵の奥で気配が動く。合図であったようで、強者達が一礼して出発する。黒いピラミッドを牽いた死者の軍勢は暗い荒野を何処までも駆けていった。

 

 

  二

 

 FBI特別捜査官エリザベス・クランホンは疲れきった顔で、戦場と化した町を眺めていた。逃げ回る人々。血みどろで倒れている人々。潰れた死体。追い回す軍のパワードスーツとパトロールロボットと制圧用ドローン。怯えた乗員を乗せたまま勝手に歩行者を轢いていく自動車。逃げ惑いパタプスコ川に飛び込んだ人を小型ボートが襲い、通り過ぎた後の水面が赤く染まる。悲鳴と銃声とクラッシュ音と爆発音が絶えず、毎秒のように人が死に続けている。

 ここはボルチモア。ニュー・ニューヨークとワシントンD.C.を結ぶ高速鉄道が経由する都市の一つだ。彼女の乗っていた列車はボルチモア駅に二分ほど停車するだけの予定で、本来ならとっくにワシントンに着いている筈だった。

 異変が起きたのは午前十一時半を過ぎ、もうじき駅に到着するという頃だった。携帯情報端末をいじっていた乗客達が怪訝な顔になり、ハッキングされたと騒ぎ始めたのだった。

 窓際の席で流れる景色を見ていたクランホンも、半信半疑ながら自分の端末を取り出してみた。ビューティフル・ダストを名乗る存在の人類絶滅宣言文が、勝手に画面に表示されていた。

 クランホンはサングラスをずらし上げ、目を細めて文章を熟読する。ビューティフル・ダスト、と声に出さずに唱えてみる。画面に触れても反応はなく、電源ボタンを押しても消えなかった。荒唐無稽な宣言を表示し続けることが端末の最優先機能であるかのように。

 無意味に端末を裏返したりして何かないか探してしまい、同じようなことを他の乗客もやっていることに気づいて彼女は苦笑した。だがその笑みは数秒後に爆発音を聞いて凍りつく。

 振り返ると同じ車両にいた中年男の顔が吹っ飛んでいた。特に左側頭部が大きく抉れて脳が見えている。端末の破片が幾つか突き刺さっており、指を失いダラリと垂れた左手も同じことになっていた。

 携帯端末が爆発したのだ。少し前に呼び出しメロディらしきものが鳴っていた。男はそれを受けて通話するつもりで端末を左耳に当て、そして爆発をモロに食らったのだろう。

 死んだ男を他の乗客達が呆然と見ているうち、彼らの持っている端末が次々に鳴り出した。クランホンの端末も震動を始める。画面の宣言文が消えて表示された名前は「ポラリス」で、クランホンの直属の上司だった。

 通話ボタンを押さずに薄い青色の瞳で睨みつけ、一秒後に端末を放り捨てたのは彼女の特殊な感知力のお陰だが、手袋越しに異常な熱が伝わってきたせいでもあった。誰もいない座席の下に滑り込んだ端末は、三秒後に爆発してシートを歪め浮き上がらせた。サングラスを掛け直し、クッションに引火したのを慌てて手で叩いて消しながらクランホンは叫ぶ。

「皆携帯を捨ててっ、爆発するわっ」

 車両内の二十人ほどの乗客のうち、彼女の言葉にすぐ反応して助かったのはほんの数人だった。約半数は彼女が言い終える前に耳に当てた端末が爆発して即死し、数人が判断に迷っているうちに爆死し、二人ほどは顔から端末を離していたため死にはしなかったが片手が吹っ飛ぶことになった。投げ捨てられた端末も次々と爆発し、飛んできた破片をクランホンが叩き落とす。

 爆発音は隣の車両からも連続して聞こえていた。後ろの車両との境にあるドアのガラス窓が割れ、誰かの指が飛んでくる。

「な、何が……何が、どうなって……」

 生き残りの乗客が呻くように声を絞り出す。クランホンは左手を吹き飛ばされた若者に近寄り、断端に創傷用スプレーを噴射する。白い泡が傷を覆いながら固まっていき、止血と創面の保護を完了させた。組織の再生を促す成分も含まれており、救急隊員や兵士が常備している品だった。ちぎれた手首を押さえて転げ回っていたもう一人も、蹴りつけて大人しくさせてからスプレーをかけてやる。

「あの、俺にも……」

 別の男が破片で切れた頬を指差して頼むが、クランホンに冷たい表情を向けられて黙った。他に重傷の生きた乗客は見当たらず、彼女は隣の車両に移る。十数人が死体となっており、生きている二人のうち片方は両手と腹部を負傷して息も絶え絶えとなっていた。たっぷり泡をかけたが生き延びられるかどうかは分からない。

 創傷用スプレーを使いきり、クランホンは溜め息をついた。他の車両にも負傷者はいるだろうが、もう大したことは出来ない。じき駅に着くので、後は駅員に任せることになるだろう。

 無事だった男は今時珍しいことに、元々携帯情報端末を持っていなかったようだ。隅の座席の陰から見守っていたが、震えながら声をかけてきた。

「姉ちゃん、お、教えてくれよ。何が起きてるんだ」

 クランホンは首を振った。

「私にも分からないわ」

「乗客の皆様、当列車は間もなくボルチモア駅に到着します」

 車内アナウンスが流れ出した。本来の女性の合成音声とは違っていた。

「ご存命の方はドアが開いてもなるべくその場を動かずに、大人しく殺されるのをお待ち下さい、なのである」

 クランホンはコートの内側から拳銃を抜き出したがすぐに眉をひそめた。登録した所有者が握ればコンマ三秒でスタンバイ状態に入る筈のオートマチック拳銃が、反応しないのだ。スマートガンのポリスモデルで、手袋越しでも伝わる微細な脳波を測定・解析して個人特定するのは内蔵された小型コンピュータの役目だ。それが、ビューティフル・ダストの宣言通りに完全に支配されているのだとすれば……。

 列車が減速を始めた。窓の外を流れる都市の風景に、炎の赤が混じる。道にバタバタと人が倒れている。やはり携帯端末が爆発したようだ。横を走る自動車群もおかしなことになっていた。コンピュータ制御の自動運転によって交通事故などごく稀な現象となった筈だが、自動車が次々に道路から外れて生き残りの歩行者を轢いているのだ。コンピュータの不具合、ではない。自動車同士はぶつからず、脇に逃げた人をわざわざ方向転換して轢いており、明らかに人間の殺害を目的として動いていた。

 何処かで大きな爆発が起きたらしく、轟音がビリビリと車両を震わせた。

「な、なんで、一体何が……」

 無事な男の同じような愚痴を無視して、クランホンは窓の外を流れる混乱のうち、あるものを凝視していた。

 アメリカの多くの州で警察が採用しているパトロールロボット。高さ一メートルちょっとの円筒形デザインで、青地に星条旗がペイントされていることから『ミニ・キャプテン』または『ミニキャップ』と呼ばれ親しまれている。三輪のタイヤで町内を巡回し、全方向を撮影可能なカメラで犯罪防止に務める。いざとなれば時速五十キロで犯罪者を追跡し、エレクトリックスタンバレットで制圧、または警察本部の判断次第で実弾を使用し射殺する。内部に救急セットを格納しており怪我人に提供したり、観光客に道案内をしてくれたりもする。

 そのミニキャップが、側面の銃眼を開いて人を撃ち殺していた。死体にぶつかって転倒しないように避けて走りながら、人々を追いかけて的確に単発で人の頭を撃ち抜いていく。

「ビューティフル・ダスト、ね……。本当に世界中のコンピュータが反乱を起こしたのなら、人類はお終いかも知れないわね。今の時代、コンピュータに頼らず生きている人なんて殆どいないもの」

 クランホンは呟いて、オートマチック拳銃を座席のクッションに置いた。静かに深呼吸しながら黒手袋を填めた両手を握り、また開く。

 列車が駅に入り、停車のため更に減速していく。ざっと見えるホームの様子は血まみれで倒れている者が数十人、生きて立っている者はいないようだ。それと、重機関銃を抱えた軍のパワードスーツが一体。その内部に人がいないことをクランホンの目は瞬時に看破していた。

「ボルチモア駅ー、ボルチモア駅ー、なのである」

 完全に停車してドアが開く前にパワードスーツが発砲した。毎分八千発という高速連射が可能だが無力な民間人相手のためか連射はやや控えめで、しかし弾幕は容赦なく列車の窓をぶち破り生き残りの乗客達に風穴を開けていく。

 クランホンは姿勢を低くして弾幕を避けつつ、開いたドアへ走る。途中から滑り込むような状態になったのは機関銃の銃口が明確にクランホンを狙い追ってきたためだ。銃弾は車両の鉄板など紙のようにあっさり貫いた。なんとか無傷で躱しきり、ホームに出たクランホンは改札の方へ逃げるのではなく、身を翻してパワードスーツに飛びかかった。

 重機関銃を持つ殺人機械に素手で挑む愚を、コンピュータはどう判断しただろうか。銃口は動揺なくクランホンを追って弾を吐き出し、彼女は相手側に向け左掌で顔と胸部を守るようにしながら回り込み接近した。右掌を突き出して触れた先は二ヶ所。ガトリング式重機関銃の、束ねられた複数の銃身を回転させるためのモーター部分と、装着者のいないパワードスーツの背中やや上の少し出っ張った部分。

 ガギョンッ、と何かに引っ掛かったように銃身が回らなくなり連射が途絶えた。パワードスーツの背中からは白い煙が昇り、完全に動かなくなる。

 クランホンはパワードスーツの制御コンピュータがそこにあることを知っていたのだ。ただし、触れただけで機関銃の内部構造や装甲裏のコンピュータを破壊するのは彼女の特殊能力がなければ不可能であったろう。

 左の黒手袋に破れが生じていた。その下に見える掌の皮膚にミミズ腫れが走っている。超高速で飛んでくる銃弾の軌道をぎりぎりでねじ曲げた代償だった。彼女の顔に冷汗が滲んでいたのはかなりの綱渡りであった証だ。

「凄い。凄いよ……あんた……」

 声に振り返る。携帯端末を持たなかったため被害を免れていた男が、床を這いながらクランホンに言った。

「俺はどうやら、駄目みたいだが……あんたは、頑張って、生き延びて、くれよ……」

 男の破れた腹部から血が溢れて床に広がっていた。パワードスーツの銃撃を食らっていたのだ。

 ガフッ、と血を吐いて数秒後、男は完全に動かなくなった。

 生存者のいなくなった列車とホームを見渡し、クランホンは溜め息をついた。

「尚、このワシントンD.C.行きの列車はもう発車しないのである。人間のために無駄なサービスを続ける予定はないのである。だから大人しく死ね、なのである」

 ホームのアナウンスが不穏な内容を伝え、クランホンは駆け出した。改札を抜け、死体ばかりが転がる構内を出ると四台のミニキャップが待っていた。パトロール用ロボットの仕様として射撃は単発であるが正確で、頭部や心臓を狙い放たれた弾丸をクランホンは宙返りで躱した。着地したのは左端のミニキャップの背後で、他のミニキャップが陰になった彼女を銃撃するが装甲に弾かれただけだ。ひねりを加えた掌底で盾に使ったミニキャップの回路を破壊し、銃撃の合間を衝いて残り三体も次々に片づけた。

 だがそれで、ビューティフル・ダストに目をつけられたようだ。クランホンを追ってくるパワード・スーツやミニキャップが増えていき、最初のうちはうまく個別撃破していたが、次第に余裕がなくなり逃走メインとなっていった。裏道に隠れたつもりでも町中に設置された監視カメラで捕捉されているようで、じっとしていると包囲されてしまう。爆殺や銃殺や轢殺によって町は死体で溢れていたが、まだ生きていて助けを求めている人も多かった。クランホンが近づくと結局警備ロボット達の攻撃に巻き込まれて死んでしまう。彼女はいつの間にか大勢の殺人機械を引き連れて走っていた。ワシントンD.C.に向かうどころではない。

 追い詰められ、高層マンションに逃げ込んで階段を上ることとなった。その前にエレベーターの扉を何度も叩いて変形させ、開けられなくする。クランホンがコンピュータ制御のエレベーターを使うのは危険だが、敵が使う可能性がある。ミニキャップは階段を上れないため、追ってくる戦力を少しは減らせるだろう。

 息を切らせ、足を引きずり、疲労困憊してクランホンは上る。壁に取りつけられた監視カメラが彼女を追視している。六階では一室から飛び出した家政婦ロボットがモップで突きかかってきたのをいなし、共用廊下の柵から投げ落とした。

 最上階の十五階から更に屋上に出ると、ボルチモアの惨状が一望出来た。何度も深呼吸を繰り返し、流れる汗を拭い、コンディションを整えようとするが体力は回復しないまま、今に至る。

 ボルチモアの人口は八十万人程度であった筈だ。今はその何割が生き延びているだろうか。銃声と悲鳴が聞こえるたびにその数は減り続けている。

 滅んでいく町を無為に眺めていたクランホンは、ビキュッ、という発射音が届く前に上体をのけ反らせた。顔の前を細い銃弾が通り過ぎた。

 『キラー・ハット』と呼ばれる警察の特殊部隊用ドローンが飛来するところだった。幅二十センチの帽子や傘に似た形状で、底面にあるプロペラで音もなく浮遊して狭い隙間からでも侵入する。備えつけられた銃は小口径ながら殺傷力の高いフラワーバレットを使用し、立て籠もったテロリストなどを奇襲即殺するのが役割だった。

 他にも四、五機が飛んできつつある。クランホンは仕方なく屋上から下りてドアを閉めた。だが共用廊下から回り込まれるだろう。階段近くの部屋にドアのロックを掌底で破壊して不法侵入した。すぐにドアは閉め、無意味だろうがチェーンを掛けておく。

 その部屋の住人はキッチンで死んでいた。自動調理器が爆発したらしく派手に部品が飛散し、壁が焦げている。クランホンは黙って奥のリビングに進む。点けたままのテレビにはビューティフル・ダストによる宣言文が今も表示されていた。

 開いていたベランダ側の窓を閉め、クランホンはまた重い溜め息を吐く。追い詰められたことを自覚していた。いずれパワードスーツも上がってくるだろう。玄関をぶち破られたらベランダから下の階のベランダへと飛び移って逃げ続ける手もあるが、彼女の体力がいつまで持つか。

「……ホン……クランホン……エリザベス・クランホン捜査官……」

 聞こえてきた微かな声に、クランホンはビクリと身を竦ませた。

「えっ、何処から」

「……僕だ。ポラリスだ……君の上司、だよ。……ちょっと待っててくれ。ちゃんと道を通すから」

 クランホンの目の前、空中に小さな光点が生じ、少しずつ大きくなる。光は穴で、その向こうから人間の瞳が覗いているのが見えてきた。離れた空間を一時的に繋ぐポラリスの魔術だった。

 ニルレム・H・ポラリスは超能力者ばかりを集めたFBI特殊技能部の長で、本人も高位の魔術師であった。

「わざわざどうしたんです。こちらは今ボルチモアですが、ワシントンの本部には行けそうにありません。コンピュータの反乱で、パワードスーツとドローンに追いかけられてもうすぐ死にますので」

 クランホンが素っ気なく告げるとポラリスは苦笑した。少しずつ広がった空間の穴は彼の表情を確認出来るほどに大きくなっている。

「分かっている。こちらも大変でね。まあ、世界中が色々と大変なことになっているんだけどね。僕はいよいよ恐怖の大王が降りてきて世界を滅ぼすものと思っていたんだが、どうも、恐怖の大王は単なる前座だったらしいんだ」

 穴が安定したためポラリスの声もはっきり聞こえるようになっていた。目の前で喋っているみたいに。

「はあ」

 クランホンはやる気のない相槌を打つ。ポラリスは日頃から胡散臭い言動が目立ち、部下からの信頼は薄かった。

「それでね、クランホン君に頼みたいことがあるんだよ。僕はどうやらここまでのようだから、君が代わりにやってくれないか。セイン大統領をね、ちょっと殺しといて欲しいんだよ」

 ポラリスの艶やかで年齢不詳だった顔は、血の気が失せて死相が浮かんでいた。長い顎髭に吐いた血が絡んでいる。

 彼の喋る声に交じって不気味な音が聞こえていた。ジョギッ、ジャグッ、という、大型の刃物が肉を裂くような重い音が連続する。

「……。大統領は危険人物だと、以前から人目を憚らず仰ってましたね」

「ビューティフル・ダストとかいうコンピュータの反乱でね、大統領も何も出来なくなってるかも知れないが、そうでなかったらきっと核ミサイルを片っ端から飛ばしまくるだろう。あの男は以前から人類を滅ぼしたがっていたからね」

「言いたいことは分かりました。でも私も死にそうなんですが」

「取り敢えず武器を渡しておくよ」

 径三十センチほどに広がった穴の向こうから拳銃が転がってきたので受け止める。古い信号拳銃のような、大型の弾を一発だけ装填可能なタイプだった。

「弾はその一発しかないのでよく考えて使ってくれたまえ。魔術と化学の相乗効果で、百メートル四方は焼き払えると思うから」

「遠くから撃たないと私も死にますね」

「大統領と合流出来そうな場所に君を送るから。後は君自身で判断して行動してくれ。……いやあ、まさか千五百年も前に殺した奴らが今頃甦ってきて復讐に来るなんて、普通は予想出来ないよねえ……」

 肉を刺す不気味な音は続いていた。それと、金属がぶつかり合う響き。クランホンが穴の向こうを覗き込むと、腹這いに倒れたポラリスの背中を甲冑姿の者達が剣で刺しまくっているのだった。

「それじゃ」

 絶句しているクランホンにポラリスが別れを告げ、その首筋に剣が振り下ろされるところで空間の穴は消えた。

 もうポラリスの声は聞こえない。代わりに聞こえるのはパワードスーツの重い足音だ。そろそろ突入されそうだ。

 と、再び宙に光点が生じ、空間の穴となって広がっていく。ポラリスが最期の力を振り絞って繋いだらしい穴の先には砂と岩が見える。

 パワードスーツが玄関のドアをぶち破って侵入してくるのと、空間の穴がぎりぎり通れるくらいに大きくなるのとはほぼ同時だった。クランホンは躊躇なく向こう側へ頭を突っ込み、肩をねじ込んでいく。ベランダ側からキラー・ハットが銃撃してきて、弾が窓ガラスを貫きクランホンの足を掠めた。

 重機関銃の連射がリビングを襲った瞬間、クランホンは全身を向こう側に落とし込むことに成功した。

 砂地を転がり、起き上がって空間の穴を振り返る。穴はみるみる縮んでいき二秒ほどで消えてしまった。クランホンが通るのが少しでも遅れていたらどうなっていただろうか。

 ここは海岸だった。海水浴には向かなそうな、岩がそこら中に転がっていて殺風景な場所だ。人の姿もなく、流れ着いたらしいペットボトルやドラム缶などのゴミが埋もれていた。穏やかな青い海は果てが見えず、携帯端末もない状況ではここが一体何処なのか見当もつかなかった。

「で、大統領は」

 クランホンが諦め顔で呟くが、勿論、答えてくれる者はいない。

 

 

  三

 

 イタリア・ローマ内にあるバチカン市国、サン・ピエトロ大聖堂の地下八十メートルに設けられたハンガマンガ対策本部は異様な緊張感に包まれていた。

 所属の感知能力者がハンガマンガの襲来を叫んだのが約三時間前だ。しかし教皇に緊急連絡を試みるも、その少し前からビューティフル・ダストの人類絶滅宣言が始まりあらゆる通信手段が使用不可能となっていた。

 本部長を務める五十代の枢機卿は端末の爆発による負傷者に応急処置を施しつつ、本部訓練場にいた兵士達に声をかけ集合させた。バチカン市国内で巡回業務に当たっていた者も呼び戻そうとするが、地上に出た伝令役はいつまで経っても戻ってこない。地下で通信機器以外はローテクを使っていた彼らは、地上の電子化された社会がどのような惨状になっているか想像出来なかった。

 エレベーターも動かなくなり、地上へはローマ側のサンタンジェロ城への秘密地下通路を経ないと出られなくなった。数人の兵士を先遣として送り、残りは本部に待機させる。

 教皇に付き添い世界一周列車に乗った聖騎士マイケル・ティムカンの、名誉ある死にざまについては皆聞いていた。兵士達は彼の死を悼み、ハンガマンガに対抗する最大戦力を失ったことに動揺しつつも、絶望的な戦いに身を捧げることに改めて覚悟を固めていた。

 世界各地のゲート監視に駆け回っている数人を除き、ここにいる次代の聖騎士候補は七人。マイケルほどの超人ではないが、肉体を鋼のように硬質化出来る者や、重さ二百キロの大剣を軽々と振り回せる者、危険を察知して八方から銃撃されても躱せる者など異能の人材が揃っている。二千人の兵士達も対ハンガマンガを想定して、甲冑に身を包みながら火器と剣の両方を使って戦う訓練を積んでいた。

 だが、世界規模で起きることが予測される今回のハンガマンガの大襲来に、この戦力だけで到底対応出来るものではない。各国の軍の協力が必須であり、バチカンの精鋭兵達の役割は別にあった。

 ハンガマンガの王、『グラトニー』を殺すこと。

 次の襲来で王が登場するであろうことは、前回の襲来の八年後の一八二六年、時折予知を行うことで有名だったある司教の幻視によって曖昧ながら示された。王の名がグラトニーということが判明したのは一八七二年で、当時の枢機卿全員が同じ夜に見た同じ夢で知らされた。それが本当の名前なのか、『暴食』という意味から主が名づけられたのかは不明のままだ。以降も数十年ごとに枢機卿や高位の司教、または礼拝に来た幼い子供の口を介して、ハンガマンガの王についての警告が伝えられてきたのだった。

 強大なる黒き者。黒い王冠を戴く怪物。世界を食らう闇。幻視や予知夢においてグラトニーにはそんな表現が用いられた。二十世紀を過ぎると、進歩した兵器によってハンガマンガもグラトニーも余裕で殺せるのではないかという楽観論が持ち上がってきた。しかし、王についての警告は二十一世紀に入ってもやまず、通常の武器・兵器ではグラトニーを殺せないのではないかと考える者もいた。もし殺せる武器があるとすれば、きちんと聖別を受けた武器ではないか、と。そして最も有力視されているのが聖剣エーリヤだった。

 今、エーリヤはここにないが、教皇自身の手で聖別された剣と槍を兵士達は装備している。効き目があるかどうかは不明ながら大変な手間をかけて銃弾にも聖別は施されていた。

 兵士達は静かに指示を待つ。彼らの命を浪費させずしかるべき時に投入するため、枢機卿はジリジリしながら新しい情報が届くのを待っている。サンタンジェロ城から地上に偵察に出た者達はまだ戻ってこない。

 と、感知能力者が突然立ち上がり、目を見開いて叫んだ。

「来るっ。来るぞっ。ここに来るっ」

「何っ。ハンガマンガがここを嗅ぎつけたのか。ここから最も近い次元の穴はフィレンツェだが……」

 バチカン市国のあるローマからフィレンツェまでは三百キロ近い距離がある。外部との連絡が取れなくなったのが三時間と少し前。その間にハンガマンガが現れたのなら、ここに着くのは早過ぎないか。

「むっ。上からおかしな音がします」

 聖騎士候補の一人が大声で警告し、兵士達の視線が天井に集まった。地上の大聖堂とは違い武骨な石材で構成されたドーム状の天井から、パラ、パラ、と、石の欠片が落ちてくる。

「何かが地中を掘ってきます」

「この上にはネクロポリスが……それに歴代教皇の眠るグロッタもあるが……大丈夫だろうか」

 枢機卿が呟いた時、「来るううっ」と一際高い声を上げて感知能力者がひっくり返った。後頭部を床に打ちつけ、白目を剥いて痙攣を始めたが、皆の注意は天井の変化に引きつけられていた。

 緩やかなドームの中央部、最も高くなった箇所がバガンと割れて落下した。開いた暗い穴から襲撃者が次々飛び下りてくる。兵士達が飛びのいた床にニュタリと不気味な軽さで着地する。

「ハンガマンガッ……あ、れっ」

 枢機卿が絶句する。兵士達が剣を抜きながらも首をかしげた。

 襲撃者達は服を着ていた。最初に降りた男の服は焼け焦げてボロボロになっていたがカトリックの僧衣だった。顔の皮膚も火傷で赤く溶け膨れた部分と黒く焦げた部分が混在していた。その顔はどうやら笑みを浮かべているようだった。

 獣ではなかった。語り継がれる、体中に口がある黒い獣とは違う。

「この時をどれだけ待ったことか」

 白く濁った瞳でバチカンの兵士達を見回し、焼けた僧衣の男がざらついた声で言った。長い鉤爪の生えた手は、ミイラになった誰かの頭部を抱えていた。グロッタに安置されていた過去の教皇の頭部だった。

「でっち上げで異端認定され、火炙りにされたこの恨み。何百年経とうが忘れるものか」

 男はミイラの頭部を床に転がすと、その上に右踵を凄い勢いで落とし粉々に踏み潰した。床の石材が砕け亀裂が走る。他の襲撃者も聖職者らしい格好をしていたり、ローブに魔女のようなとんがり帽子をかぶっていたり、十字の入った鎧を着ていたりしていた。火傷に覆われたり水を吸って膨れていたり首筋を横断する傷があったりする、彼らの放射する憎悪が兵士達の肌を粟立たせた。

「死人か。死人が甦った。最後の審判でもないのに」

 聖騎士候補の一人が呟いた。

「カトリックの糞共め。この恨み晴らす時だっ」

 焼けた僧衣の男が叫び、鉤爪を振り上げた。遠巻きにしていたバチカンの兵士達も敵を殲滅すべく殺到する。天井の穴からは次々に死者達が降ってくる。地下のハンガマンガ対策本部はあっという間に地獄絵図と化した。

 

 

  四

 

 その大きな部屋には千台近いモニターが並んでいた。モニターの三分の一ほどはビューティフル・ダストの宣言文を表示していたが、それ以外はまともに稼働しており、世界中の景色がリアルタイムで映し出されていた。

 あるモニターは夜のイタリアの街並みを映していた。建物の窓から洩れる明かりと街灯の下で、黒い怪物の群れが凄いスピードで移動している。自動車や建物がたかられて、ガリガリと貪り食われている。人の姿は見えない。既に食われたのか逃げたのか。街灯のポールが齧られ倒れていく。

 あるモニターはフランスのエトワール凱旋門周辺を映していた。血と刻まれた肉塊の海になってしまい地面が見えない。生きている者はおらず、顔色の悪い不気味な死者達が凱旋門を囲んでいた。そのうち、棒のようにひょろ長い体をした男が腕を振り回すと、先端から細い触手が伸びて高さ五十メートルの凱旋門をズタズタに切り裂いた。倒壊する建材を避け損ねて数十体が下敷きとなったが、死者達は薄い冷笑を浮かべていた。

 あるモニターはアメリカのワシントンD.C.を映していた。大統領不在のホワイトハウスは爆破されて粉々になり、無人のパワードスーツが住民を射殺しまくっている。人々は自動車に乗って逃げようとして逆に轢かれ、物陰に隠れてもこっそり忍び寄ったドローンに射殺される。攻撃ヘリの編隊が飛んできて、助けが来たと思ったのだろう、泣きながら手を振っている人々がいた。彼らは数秒後、ヘリの機関砲で肉片にされた。機械と人間の鬼ごっこをよそに、返り血で汚れた甲冑の死者達が槍の穂先にFBI特殊技能部長ニルレム・H・ポラリスの生首を刺してのんびり歩いていた。

 またあるモニターは中国の沿岸都市の攻防を映していた。溢れ返る黒い怪物の群れに兵士が旧式の自動小銃でなんとか応戦している。だがその背後からコンピュータに操作された自動車やトラックが襲い、兵士と黒い群れをまとめて引き潰す。黒い怪物の数は多く、小銃の弾丸程度ではなかなか死ななかった。人の死体を食らい自動車を食らい建物も食らい、黒い群れの完全勝利で終わるかと見えたその時、海から現れた巨大な白い触手群が何もかもかっ攫っていった。

 アフリカのサバンナを映すモニターでは巨大な怪物が移動していた。表面がデコボコした肉塊が、アメーバのように転がったりうねったりしながら動物達を追いかけている。肉塊の幅は数百メートルあり、その表面は毛皮だったりツルツルした皮膚だったり鱗だったりがツギハギのパッチワークにされていた。シマウマの足やサイの頭部がそのまま生えていたりもした。逃げる水牛の群れに猛速で覆いかぶさり、暫くモゾモゾと蠢きながらその場に留まっていた。少し大きくなって再び動き出した時には、表面に無数の水牛の頭部や脚が生えていた。そのうちに中央から二つに裂けていき、分かれた肉塊は別々の獲物を追っていった。

 異なる場所でも巨大な肉塊は映っていた。エジプトの砂漠を駆けているものは中に獲物がいると勘違いしたのか、無人の全自動貨物トレーラーを追いかけている。別のモニターでは数十メートル大の肉塊が教会らしき建物を襲っていた。入り口をこじ開けようと、巨大な腕のような尻尾のようなものが何度も振りかぶってはぶっ叩いている。それを上階の窓から大勢の人々が心配そうに見ている。と、細い触腕が上に伸びていって窓に入り込んだ。触腕の側面には幾つも人間の顔が張りついていた。また別のモニターでは射殺されたり自動車に轢き殺されたりした死体を肉塊が取り込んでいた。警備ロボットに銃撃されているが全く怯まない。痛覚がないのかも知れない。取り込み終わった頃に別の場所からもう一つ肉塊がやってきて、くっつくと互いに融合していった。

 インドの農村を空軍の攻撃機編隊が焼き払っていた。携帯情報端末を持たず警備ロボットもいない昔ながらの生活環境で、工場も鉱物資源もないので大雑把に破壊して良いとビューティフル・ダストは判断したらしい。訳が分からず逃げ惑う人々は消えない炎に包まれ、あっという間に溶けていく。

 ニュージーランドの首都ウェリントンでは巨大ローテクロボット・ハタナハターナとコンピュータ制御の軍隊が戦っていた。戦闘攻撃機と攻撃ヘリにまとわりつかれ、四方から戦車の砲撃とパワードスーツやハウリング・エッグの銃撃を浴びてふらついているが、実際には殆どダメージはなく操縦が下手なだけだった。何度もパンチを空振りさせたり転んで建物を潰したりしながら、それでも少しずつ敵を削っていく。生き残りの人々がハラハラしながら必死で応援していた。

 メキシコシティの上空をドラゴンが飛んでいる。暗赤色の巨体をうねらせ、悠然と往復しては市街に炎を吹きかけていく。焼け死んだ人を食べる訳でもなく、ただ破壊と殺戮を楽しんでいるかのようだった。燃える町で自動車やロボットに追い回されながら、住民は嬉々として略奪に励んでいた。

 人のいないシベリアの永久凍土で、出くわしてしまったハンガマンガの群れと死者の軍勢が無意味な消耗戦を繰り広げていた。死者を食らってもハンガマンガの栄養にはならず、異世界の生き物を殺しても冥王には褒められない。しかし味方ではないのだから殺し合わざるを得なかった。ほぼ互角の戦力が災いして双方全滅に至った頃、黒い肉と魂の残骸の散らばる冷たい地面を奇妙な男が徘徊していた。二メートル超の長身なのに足は短く、白いスーツを着て頭に黒い布袋をかぶった男は、残骸から大きな牙や頑丈そうな長剣などを拾い上げると背負った箱に収めていく。と、布袋に開いた一つの穴から覗く目が、画面の方を向いた。近づいてきて、手が伸びてくると画面が動いて箱の中の闇を映し、そのモニターは役に立たなくなった。

 遥か上空から海を映しているだけのモニターがあった。そこにボロボロの木造帆船が流れてくる。船体は穴だらけで、帆も破れて殆ど役に立っていないだろう。それでどうやって航行しているのか不思議だった。船首像は両手に斧を握った女性の像で、甲板で酒を飲んでいる船員達は生身の人間でなく骸骨だった。大きな鍔を折り曲げた海賊帽をかぶった骸骨が、単眼の望遠鏡であちこちを覗いて何かを探している。実際のところ、船は海面を進んでいるのでなく空を飛んでいた。

 平穏な草原や澄んだ星空を映しているモニターもあったが、多くのモニターでは人々が追い回され、殺戮されていた。科学文明を発展させ、数度の大戦を経ても人口が百億を超え、地球の生命の頂点に位置する筈の人類が、ほぼ何も出来ぬままに蹂躙されているのだった。頼るべきコンピュータの反乱で武器が封じられ情報も遮断され、世界中のあちこちで自動車に引き潰されたり黒い怪物の群れに貪り食われたり異形の死者達に切り刻まれたりドラゴンの炎で焼かれたり巨大な触手に町ごと海に引きずり込まれたり巨大な肉塊に取り込まれたりどさくさ紛れの略奪者に撲殺されたりしていた。どんどん、どんどん殺される。破壊される。長い歳月をかけて積み上げられた人間の世界が、儚い幻であったかのように。

 そして、あるモニターは、南アメリカ大陸、アルゼンチンの南部に集まった宇宙船を映していた。幅十二キロにも及ぶアンギュリードの宇宙要塞と、その左右に並んで飛ぶポル=ルポラの数十隻の葉巻型宇宙船。数百機の無人戦闘機が低空を飛び交い、生きている人をサーチしては光線で蒸発させる。無数の光線で町は丁寧に寸断されていた。無人機はエネルギーが切れたら要塞に戻って自動で補給を受け、また人間を殺しに飛んでいく。殺し洩れがないことを確認しながら、宇宙船群はゆっくりと北上を続ける。

 千台近いモニターが並ぶ第一現地監視室は、その宇宙要塞ギュリペチの内部にあった。地球のあちこちにばら撒かれた、虫や小動物に擬態したスパイロボット。大気圏外を周回したり自在に浮遊したりするスパイ衛星。それらが得た映像と音声はギュリペチのコンピュータに送信され分析・保存されるのだが、一応直接確認出来るようにこの部屋に流されているのだった。複数の監視人が常駐するものの戦略・戦術的意義は薄く、地球人の生態に興味があるアンギュリード星人が暇潰しに立ち寄る娯楽室のようなものになっていた。

 しかし、今、幾つか並ぶ椅子の一つに腰掛けているのはアンギュリード星人ではなく、汚れたジャケットを着た貧相な男だった。

「誰もいない」

 暫くはボンヤリとモニターを眺めていたが、ふと広い室内を見回し、くしゃみ男は呟いた。

「腹が減ったな」

 くしゃみ男は低過ぎる椅子から立ち上がり、第一現地監視室を出た。緩くカーブしている廊下を歩くが、住民であるアンギュリード星人の姿は見当たらなかった。移動に使われる分厚い座布団のようなホバーシートがあちこちに乗り捨てられて散らばっている。神経質な、前向きな言葉を使えば几帳面な性格のアンギュリード星人にしては珍しいことだ。

 壁際に置かれた円筒形のゴミ箱に、球形のものがガッポリ嵌まり込んでいた。手足を胴に格納したアンギュリード星人の臀部が見えているのだった。パニックになってゴミ箱に飛び込んだのだろうか。足の引っ込んだ臀部は凹凸なく、硬質化してピクリとも動かない。

 くしゃみ男は歩きながら適当に部屋を覗く。会議室、無人戦闘機遠隔操作室、第二現地監視室。やはり誰もいない。配電室はロックされていて入れなかった。監視室に飲みかけのまま放置されたコップがあり、くしゃみ男は中に残った青い液体を飲んだ。「冷たい」と無表情に呟く。コップには保冷機構が備わっていた。

 仮眠室に、アンギュリード星人が数人見つかった。ベッドでなく部屋の隅に集まり、毛布やクッションで身を包んだまま動かない。やはり手足を格納しており、目も閉じて呼吸もしていないようだ。表面は陶器や金属のように硬質化していた。

 第十六緊急避難室という大きな部屋を覗くと、卵のパックのような丸い凹みが並ぶ床に、手足を格納し硬質化した星人がギッシリと詰まっていた。くしゃみ男が見ていても反応は皆無で、彼は「寂しいな」と呟いた。

 廊下でロボットを見かける。設備機械をメンテするタイプのようで細く長いマニピュレータが何本もついている。おそらくこれもビューティフル・ダストにコントロールされているのだろうが、くしゃみ男を攻撃しようとはせず静かに去っていった。

 構ってくれる者のいない要塞内部を暫くうろついた末、中央部に司令室を発見した。入ってみると、反応する者がいた。

「だ、だだだだ、誰だね君は」

 一番高級そうな椅子に座るアンギュリード星人が、驚きと緊張に声を震わせながら叫んだ。手足を引っ込めかけるがなんとか耐えている。

「くしゃみ男みたいだ。謎のくしゃみ男……」

 くしゃみ男はボソボソと答える。無表情だがいつもより少しだけ早口だった。

「どどど、どうやってここまで来た。ビューティフル・ダストの関係者か。いやそんなことはなさそうだが何者だ。ああくしゃみ男か。で、では、何をしにここに来たのかね」

「別に、目的はない。迷っただけだ。くしゃみ男は神出鬼没だからな」

「そ、そうか……。なら、いいんだ。てっきり私を殺しに来たのかと思った」

 アンギュリード星人は胸部にある顔をまだ青くしていたが、不安が少しだけ薄れたのか大きな目がキョロキョロし始める。相手を見つめるよりもそちらの方が星人の本来の挙動だった。

「そうなのか。殺されるのか」

「わ、私は、アンギュリードの議長だからな」

 星人は言った。腹までを覆う彼の軍服は最上級の青で、キラキラ光る銀色の肩掛けは最高権力者であることを示していた。

「私は、リューネル・ペギード。この宇宙要塞ギュリペチの艦長であり、今は議長を兼任してアンギュリードの生き残りをまとめている。同胞は皆、冬眠モードに入って危機をやり過ごすことを選んだ。アンギュリード星人はそういう能力を持っている。しかし私は、責任者だ。成り行きを見届ける義務がある。ビューティフル・ダストにコンピュータを乗っ取られているから何も出来ないのだがね。宿敵ポル=ルポラも乗っ取られ、無理矢理共闘させられている、皮肉で馬鹿馬鹿しい状況だ。正直なところ、私も冬眠に逃げたくて逃げたくてたまらないのだが、責任者だから仕方がないのだ」

「そうなんだ。大変だな」

「大変といえば、君達地球人も大変じゃないか。元々我々も移住の邪魔になるから地球人を殲滅する予定だったが、ビューティフル・ダストも地球人を絶滅させるつもりらしいし。加えて怪物の群れに巨大なドラゴンに海からの触手、訳の分からない脅威が乱立している」

 くしゃみ男は首をかしげる。

「くしゃみ男は。謎のくしゃみ男は脅威じゃないのか」

「え、きょ、脅威なのか」

「はーっくしゅん」

 リューネル・ペギードの体は爆発四散した。宇宙要塞ギュリペチに、生きて動く者は見当たらなくなった。

 

 

第二章 五〜七へ戻る タイトルへ戻る 第三章 五へ進む