五

 

 ラウンド・ザ・ワールド・ドリーム・エクスプレスがカナダのバンクーバー駅に到着したのは、一晩経って現地時間で午前六時を過ぎた頃だった。

 山々と海峡を背景にして朝陽に染まるバンクーバーの街並みは美しかった。住民がほぼ死滅しているであろうことを考えなければ、だが。

 道中のガイドウェイは少し損傷している場所もあったが、なんとか事故を起こさずにここまで辿り着いた。列車はゼンジロウ・ミフネの手動運転でうまく減速し、バンクーバー駅のホームに僅か三メートルほどのオーバーランで停車してみせた。

 本来はここで記念式典が行われる筈であったが、出迎えるべき人々はおらず、携帯端末の爆発で頭を吹き飛ばされたり射殺されたりした死体が数百ほど転がるだけだ。死体を片づける余裕のある者などいないし、ビューティフル・ダストも衛生面は気にしていないようだ。

 生きた人間の代わりに、中身の入っていないパワードスーツと自動戦闘ロボットが百体以上、ホームに並んで待ち構えていた。パワードスーツはアメリカ製の少し性能を劣化させたモンキーモデルだ。自動戦闘ロボットは歩兵の少ないカナダ軍のオリジナルモデルで、二メートル弱の身長に頭部はスモークガラスで覆われ、胴と手足は細長い。生身の人間ほどの臨機応変な動きは出来ないものの、大まかな指示に沿って素早く敵を追い、内蔵された機関銃と小型ミサイルで攻撃する。現状パワードスーツに中身がないため、ロボットの戦闘力の方が微妙に上になっている。

 停止した列車のドアを手動で開け、真っ先に降りたのは神楽鏡影だった。居並ぶ殺戮兵器群に対し身構えもせず、平然と間を抜けていく。ビューティフル・ダストが彼らの抹殺を一旦保留にしたことを、欠片ほども疑っていないように。いや、いざとなれば着物の袖から使い魔達を出して対処する自信があるのだろう。

 戦闘機械達はカメラで神楽を追視はしても、攻撃はしなかった。それを見届けた上で、ひょっこりとシアーシャが顔を出す。

「おじさん、大丈夫かな」

 神楽は立ち止まり、血色の悪い顔に薄い笑みを浮かべてみせた。

「私やあなた方は大丈夫でしょう。いざという時の対処も出来るでしょうし。一般の乗客の皆さんはやはり諦めてもらった方が良さそうですね。カナダの首相には申し訳ないですが」

 そんなことを言いながら、別に申し訳なさそうな表情は見せない。

「その通りである。戦力にならない人間を生かしておく理由はないのである」

 ビューティフル・ダストのコメントはホームのアナウンス音声でなされた。

「なら予定通り、私達だけで買い出しね。買い出しというか、補給というか。食べ物は間に合ってるから、お薬が優先で。診療所は七階って話だったね。ここは四階で」

 ラウンド・ザ・ワールド・レイルロードのバンクーバー駅はニュー・ニューヨーク駅のように高層ビル内にあったが、ホームはフロアの端に剥き出しになっており、町の景色が直接見渡せた。今もあちこちで煙が上がり、パトロールロボットが駆けているところを見ると、まだ少しは生き残りの住民がいるのだろう。

 ただ、人々を助けに行くほどの余裕は彼らにはない。

「死んじゃった人を運び出すのは、やっぱり無理みたいね。誰も引き取ってくれないもの」

 ホームにゴロゴロ転がっている死体を見て少女は言う。殺されてから一晩を過ぎ、既に腐臭を発し始めていた。

「列車内に置いていてもメリットはありませんがね。防腐処置が無理なら、私がミイラ化させますよ。こんなふうに」

 神楽が数メートル先の死体を指差してみせた。死体の紫色がかった皮膚がみるみる乾燥してしぼんでいき、十秒かそこらで完全にミイラになってしまった。

「うーん。腐っちゃうよりは、ましかなあ……」

 少女は可愛らしく小首をかしげる。客室の窓から乗客が恐る恐るホームを覗き、すぐにカーテンを閉じた。並ぶ戦闘ロボットを見れば降りたいと思う者はいないだろう。

「シアーシャ。こいつらは敵か」

 少女の頭の上からのっそりと顔を出し、イドが尋ねた。

「んー。敵だけど、今は敵じゃない感じ。用心はした方がいいけど」

「あの男は、敵じゃないんだな」

 指差した先には神楽がいて、苦笑させることになった。

「うん。敵じゃないよ。用心はした方がいいけど」

 優しく微笑してシアーシャは答えた。

「そうか」

 古い傷痕の残るイドの顔は、ボンヤリとして緊張感が薄かった。

「剣はちゃんと持っててね」

 少女が念を押すように言う。

「鞘がないから不便だ」

 無造作に握った聖剣から、巻いた布が落ちそうになっている。

「大事な剣だから。イドが自分の意志で受け取った剣だからね」

 諭されて、イドは露出した剣身をじっと眺め、それから呟いた。

「いい剣だな」

 古いトランクを提げた白いワンピースの美少女とロングコートの男のコンビは神楽に続いてホームへ降りた。先頭車両の運転席ではゼンジロウ・ミフネが厳しい顔で整備士達と話をしていた。式典もなく乗り降りする客もいない駅だが、停車中に整備士達が列車の点検をすることになっている。コンピュータ制御でなく完全な手動運転であったため、何処かにガタが来ていてもおかしくなかった。

 VIP用車両である二号車の窓から、カーテンを開けてウィリアム・セイン大統領が楽しげにホームを眺めていた。すぐそばには大統領首席補佐官のメモリーとソードガンを持つヴィクトリアが控え、万が一ロボットに銃口を向けられても対処可能な態勢になっている。同室しているトッド・リスモは小柄なティナと共に寝室に隠されていた。

 列車がホームと他のエリアを分断する構造のため、改札はエスカレーターを上った先の五階にある。ただしエスカレーターはビューティフル・ダストが省エネのためか停止させており、神楽達三人は横の階段を上った。改札を抜けてすぐの壁にある案内表示を確認する。

「うん。診療所が七階。エレベーターは……やめとくね」

「私は探し物がありますので、そちらはお二人でお願いします」

「おじさんの探し物って」

「バナナです。なるべく新鮮なものを確保しておく必要がありましてね」

 真面目な顔で神楽は答え、シアーシャは笑っていいものか迷っているような微妙な表情になる。

「バナナかあ。持ってないなあ。おじさんはバナナが好きなの」

「いいえ、特には」

 神楽はあっさり首を振り、売店の並ぶエリアへ歩き去った。

 シアーシャは血みどろで転がる死体を気にせず上階への階段を上る。イドは共に歩きながら、無表情に言った。

「人が沢山死んでいるな」

「そうね」

「戦争なのか」

「そうねえ……。うん、戦争だと思うな」

「そうか」

 イドは頷いて、剣に巻き直してあった布を外した。ボンヤリした雰囲気が姿勢と共に少しだけ変化する。いつ襲撃があっても対応出来る状態になっていた。

「ただ、戦争にしては、武器も持たずに死んでいる者ばかりだな」

 六階のフロアも死体ばかりだった。親子らしい、男女と幼い少年の射殺体もある。男の死体は家族を守るように覆いかぶさって倒れていた。

「そうね。頑張って応戦してる人も少しはいるだろうけど、殆どの人は何も出来ずに殺されちゃったみたい」

 シアーシャは特に悲しげな顔はしなかったが、いつもの微笑は消えていた。

「そうか」

 イドは少年の死体を見ながら、低い声で「許せないな」と呟いた。

 

 

 列車の整備士達は一流で、チーフは携帯端末の爆発で死んでいたが生き残った二人は最善を尽くした。ロボット達の前に出ることも恐れず、外側からの点検も済ませる。本来は種々のセンサーが得た情報をコンピュータが教えてくれる筈だが、ビューティフル・ダストに乗っ取られている現状では期待出来なかった。

「バッテリーと電磁推進機構は異常ありません。ブレーキは多少摩耗していますが問題ないでしょう。車体の傷み・歪みも目立ったものはありません。もっとスピードを上げても大丈夫ではないかと思います。勿論、ガイドウェイのコンディションにも左右されますし、慎重に加速して試す必要はありますが」

 整備士がミフネに報告する。

「そうですか。では、いざとなればすぐにでも発車可能ですね」

「はい。……ただ、あのブラックボックスについては、何ともいえませんね。開ける訳にはいきませんから」

 整備士の複雑な表情には、得体の知れないものに対する疑念と不安が混じっていた。

 先頭車両下部にある制御機構の一部が、漆黒の箱によって隠されているのだった。電子的な部分も、機械的な部分もそこには含まれていた。ビューティフル・ダストによる暴走をしのいで停車した際、シアーシャが施したもの。何処からか取り出した白い布をかぶせ、数秒して剥がしたらそうなっていたのだ。

「これできっと大丈夫よ。でも中を見ようとはしないでね」

 無邪気な笑顔で少女は告げたものだ。その時、横で見守っていた神楽もおかしなことを呟いていた。「観察者のいないブラックボックスの中では、あらゆる奇跡が許される」と。

 そんな訳の分からないものを鵜呑みにする彼らではない。しかし、渋い表情でミフネは言った。

「結果的にちゃんと動いているのなら、まあ……仕方ない、か」

 

 

「悲しいことだ。それに、恥ずべきことだ」

 九号車の四人部屋で、カナダ首相ティモシー・ハートは嘆いていた。

「我が国の国民が殺され続けているのに、私には何も出来ない。大臣達とも軍とも連絡が取れず、国民に警告を発することも、勇気づけることも出来ない。ならばせめて、母国の地を踏んで死ぬことが、私の責任ではないのか……」

 先程カーテンを開けて、ホームに並ぶロボット群を確認した後は、彼の膝は震えっ放しだった。

 五十三才、肥満体で丸顔、禿げ頭のハートは、「善人だけれど無能」とか「良くも悪くも凡人」と国民に評される男だった。食堂車両より先のVIP用客室を他国に譲ったのはカナダのおおらかさを示しはしたが、強国同士のギスギスしたせめぎ合いから少しでも逃れたいというハートの願望でもあった。

「はいはい。まあお気持ちは分かりますけどね」

 護衛の男が適当に相槌を打つ。首相の秘書は端末爆発の直撃を受けて即死し、もう一人の護衛は肉体の半分を機械化したサイボーグで半端な暴走の末射殺された。カナダの関係者で生きているのは首相と、薬物や遺伝子改造で肉体を強化したこの護衛だけだ。

「人類が絶滅して世界がもう終わりってことなら、『どうぞご自由に』って言いますけどね。まだ希望はあるみたいじゃないですか。なら、生き残って母国の復興に努めるのがリーダーの責任って奴じゃないですかね」

「……そうかも知れない。そうかも知れないが、本当に希望はあるのだろうか。コンピュータの反乱に、黒い化け物の群れが列車を追いかけてくるし……他にも色々とあるらしい。私のような凡人には、一体どうすればいいのかさっぱり分からない」

「凡人なら大人しく待つしかないんじゃないですか」

 耳の穴をほじりながら護衛は言った。敢えてお気楽な態度を装っていたが、彼のもう一方の手はスーツの内側の電子機器非内蔵型拳銃に触れていた。百体もの戦闘ロボットに攻撃されれば抗いようがないだろうが、彼は最善を尽くすしかなかった。

 

 

 神楽鏡影は無人の売店をチェックしていた。店員は逃げ去っているか死体になって腐臭を漂わせている。メープルシロップやメープルクッキー、スモークサーモンなど古くから定番の土産物が並んでいるが、果物は売っていなかった。何も取らず隣の売店に移る。

 二体のパワードスーツが距離を保って神楽についてきていた。店内の監視カメラも神楽を捕捉している。ビューティフル・ダストは、いずれ敵対することが決まっている相手の情報を集めておきたいようだ。神楽は気にするふうもなく店を巡る。

 果物を売っている店があった。イチゴにブルーベリー、ラズベリーなど地元産のものが多く、バスケットに何種類も収まったプレゼント用のものも売っていた。店先に並ぶ品には誰かの血液が飛び散っていた。

 奥の方にバナナがあった。青くもなく、熟れ過ぎてもいない。

「もう少し大きな方が良かったが……」

 神楽はバナナに右手を伸ばし、指先が触れる前に二房が袖に吸い込まれて消えた。袖は膨らみもせず、そもそもバナナの房は袖に入るような大きさではなかった。

 レジのあるカウンターに数枚のドル紙幣を置いて出ると、構内アナウンスに使われる天井のスピーカーからビューティフル・ダストの合成音声が神楽に向けて発せられた。

「疑問があるのである。人類の社会秩序が崩壊したこの状況で、店員もいないのに金を支払うのは不必要で無駄な行為なのである」

 AIの呈した疑問に、神楽はちょっと意外そうな、面白そうな薄い笑みを浮かべた。残りの売店をチェックするため歩きながら答える。

「全くの無駄ともいえませんね。今後社会秩序が回復する可能性があり、そうなったら監視カメラで録画されていた私の行動は窃盗として咎められるリスクを負うことになります。また、咎められないとしても、行動の積み重ねが習慣となり日頃の振る舞いを形成することを考えれば、反社会的な行動が習慣化するのは避けるべきでしょう。AIにも理解しやすい理屈としては、こんなところですね」

「なるほど、なのである。社会的生物である人類の一政策として、理解したのである」

「まあ実際には咎められようが私にはどうでも良いですし、反社会的な行動などといちいち考えている訳でもありません」

 神楽は建前をひっくり返し、漆黒の瞳を底光りさせながら本音を吐き出した。

「理屈より何より、私自身がそうした方がスッキリするからです。単なる自己満足ですが、人間とは割とそういうものですよ」

 スピーカーは今度は「なるほど」とは言わず、沈黙したままだった。

 

 

 駅ビル七階の診療所は、ベッド数は少ないものの負傷者の応急処置と救命に必要な薬品類や設備を揃えていた。そして、それ故に大量の死体で埋め尽くされていた。

 ビューティフル・ダストの宣言後に端末の爆発で負傷した人々が大勢運び込まれたのだろう。そこに無人のパワードスーツか自動戦闘ロボットが襲撃をかけ、負傷者も医療スタッフも皆殺しにしたのだ。

 死体を踏まないように気をつけても、乾いた血溜まりは床中に広がっていた。シアーシャは受付の裏に回り、薬品棚を見渡す。目をつけたのは抗生物質、鎮痛薬、精神安定剤、それから創傷用スプレー。患者の容態を自動判別して適切な薬剤を打ち込んだり電気ショックをかけたりするミニ・ドクターというポータブル治療装置もあったが、コンピュータが信頼出来ないため手を出さなかった。シアーシャはトランクの他にいつの間にか大きな籠を持っており、薬品をどんどん詰め込んでいく。

「手伝うことはあるか」

 イドが尋ねる。

「じゃあ、これ持っててね。……あ、剣もちゃんと持ってて」

「分かった」

 イドが籠を受け取ると、シアーシャは更に山盛りに薬品を積んでいった。トランクに入れないのは自分達の使う分を既に持っているのか。それとも、二人には薬品など必要ないということなのか。

 結局籠は二つになり、イドはそれを両脇に抱えた。

「これくらい、かなあ」

「薬か。役に立つのか」

 今更になってイドは尋ねる。

「うん、役に立つよ。今怪我して困ってる人も助かるし、薬のお陰で死なずに済む人もこれから出てくるかも」

「そうか。なら、いいな」

 イドは無表情に頷き、シアーシャは微笑んだ。

 診療所を出て階段に向かう途中で、不気味な轟音と震動が伝わってきて二人は足を止める。

「建物が崩れたな」

 窓から外を見てイドが言った。駅ビルの斜め向かいの高層ビルが倒壊したのだ。地盤が緩んで土台ごとひっくり返ったみたいな倒れ方で、ビルの側面が接地してグシャリと潰れている。その隣のビルも周辺の地面が陥没して傾き始めていた。

「何か出てきたな。黒い獣……の、群れだ」

 倒れたビルの下や陥没した地面から全身真っ黒な怪物達が次々と這い出してくる。四足だけでなく二足歩行だったり腕が八本だったり頭が二つあったりとバラエティに富んでいた。鋭い牙の生えた口が頭部だけでなく背中や脚にもあり、コンクリートの瓦礫に取りついてバリバリと食らっている。

「あれがハンガマンガよ」

「そうか。あれがハンガマンガか。この剣であいつらを斬ればいいんだな」

「そうよ。でも、数がドンドン増えてるから、ひとまずホームに戻って相談した方が良さそう」

 シアーシャの言う通り、地中から現れたハンガマンガは既に千を超え、瓦礫やらアスファルトやら街路樹やら何でも食べながら染みのように広がっていく。特にこの駅ビルに向かってくるものが多いようだ。

 イドの持つ聖剣に惹かれ、地中を一直線に掘り進んできたのだろうか。次元の穴が地下にあったのかも知れない。

「子供がいる」

 イドが一点を指差した。

 傾いてきたビルの五、六階。ベランダに現れた男が五才くらいの男児を抱えて途方に暮れている。殺人ロボットから逃れ引き篭もっていたのだろう。今更脱出しようとしても倒壊まで間に合わない。

「いるね。あのままだと助かりそうにないけど」

 シアーシャの目は親子らしき二人より下方、傾くビルを土台から齧りつつ登っていく無数の怪物達を見ていた。

「大人は仕方がない。生きるとは理不尽なもので、その覚悟をしておくべきだ」

 イドの声はいつもの虚ろで無感動なものでなく、重い怒りが滲んでいた。まとう空気がキリキリと張り詰めていく。

 相方の豹変ぶりにシアーシャは綺麗な眉を少しだけ持ち上げ、黙って見守るだけだ。

「だが、子供は駄目だ。子供は、大人になるまでは、理不尽から、守らねば……」

 子を抱えた男は周囲を見回して何か叫んでいるようだ。助けを求めているのだろうが、手を差し伸べられるような生者はもう町には残っていないだろう。

 と、男の額に穴が開き背後に赤いものが散った。ロボットの銃撃を受けたらしい。ビューティフル・ダストにとっては彼らを生かしておく意味などないのだ。

 男の死体が後ろにのけ反り、次にガクン、と膝が崩れて前に揺れ戻る。泣いていた子供が驚いて振り返ろうとする。男はベランダの柵に寄りかかって動かなくなる。子供の上体が柵からはみ出している。ビルがまた傾き、子供が柵から転げ落ち……。

 駅ビルのガラス窓をぶち破ってイドが飛び降りていった。二つの籠を置き、一振りの剣を握り締めて、七階の窓から。

「……久しぶりに聞いちゃったな。その台詞」

 シアーシャは小さく呟いた。その顔に浮かぶ微笑は嬉しげでもあり、少し寂しげでもあった。それから彼女は二つの籠を片手であっさり持ち上げて階段を下りていった。

 

 

 四十メートル近い高さがあった駅ビルの七階から、イドは軽い音を立てただけで綺麗に着地した。窓のガラスで頬が少し切れていたが気にする様子もない。

 地下から際限なく溢れてくるハンガマンガの群れの、半ばほどはそのまま建物や自動車などを食らい続けていたが、残りは乱入者のイドに反応して素早く襲いかかってきた。至近距離の怪物達を横薙ぎの一閃でまとめて斬殺しながら、イドの目は傾くビルを見上げていた。

 子供が落ちてくる。イドが跳躍する。続けてその足に食いつこうと数体の怪物が跳び、すぐに剣で輪切りにされる。黒い血飛沫が散る。少し遅れて跳んだ一体の頭をうまく踏みつけ、イドは更に高く跳ぶ。ジャンプの頂点で天を掴むように差し上げた左手が、幼児を完璧に受け止めていた。

 次々に跳ねてくる怪物を斬り殺しながら、黒い絨毯と化した地面の狭い隙間に着地する。聖剣の刀身に血糊はついておらず、温かみさえ感じさせるような淡く鈍い輝きを発していた。

 激しい動に続く、僅かな静の瞬間。

 千を超える黒い群れがイドを見つめ、幾重にも幾重にも取り巻いていた。彼らは普通の獣のように、雄叫びを上げたり唸ったりはしない。ただ、カツンカツン、と、牙を打ち鳴らす音だけが場を埋め尽くしていた。ハンガマンガの目は白目部分のない、真っ黒なガラス玉のような代物で、顔面にちゃんと二つあるものは少なく、一つしかなかったり一つもなかったり、逆に十個以上並んでいたり、位置がアンバランスだったり、目なのか丸い呼吸孔なのか分からなかったりした。ただ、濃密な憎悪と食欲が、ほぼ物理的な圧力と化して中心のイドへ集まっていた。数多くの同族を屠ってきた聖剣エーリヤに惹きつけられているのか。それともイドを極上の獲物とみなしているのか。

 イドはたじろぎもせず、抱き止めた子供の状態確認を優先する。タオル地のパジャマを着た男児で、特に怪我はなく衰弱もしていないようだ。驚きに目を見開いて固まっていたが、やがて顔を歪め、大声で泣き始めた。

 それが合図だったかのように怪物達が一斉に襲いかかる。イドは左腕で幼児をしっかりと抱え込み、右手で剣を振るう。横薙ぎするたびに十体前後が綺麗に両断され、黒い内臓と血を振り撒きながら倒れるが、それを踏み越えてすぐに後続が襲う。到底捌ききれる数ではなかった。

 風が吹く。チャチャ、チャキチャチャ、という奇妙な金属音が流れていく。

 ベリャリ、と怪物達が分解されてその場に散らばっていった。断面の角度はバラバラで、一体ずつ適当にブツ切りしていったようだ。異常なのはほんの一、二秒で数百体が分解されたその速度と、四肢の先端にあった指だけが、何故か丁寧に根元から切断され何処にも見当たらないことだった。

 鋭敏な聴覚を持つ者がいたら、奇妙な金属音が、チャキン、チャキン、という、ハサミで肉骨を断つ音だと気づいたかも知れない。

 包囲網が崩れかけたところに「イドッ」と上から声がかかる。シアーシャが四階のホームの端、フロアの端でもある柵の上に立っていた。少し足を滑らせるかバランスを崩すかすれば転落するのに、左手にトランクを持ったままで危うさを感じさせなかった。

「子供を連れてきてっ」

 少女の右手人差し指が地上のイドに向けられる。指先から光の帯が真っ直ぐに伸びていく。

 光の先端が三メートルほどまで近づいた時、イドは迷わず子供を抱えて跳んだ。ブーツの底が光の帯に触れ、突き抜けずに踏み締めた。帯を駆け上るイドを追って怪物達が光の帯に乗ろうとするが、素通りして落ちるだけだ。

 異常に高い跳躍で襲ってくる数体を斬り飛ばし、背後から襲うものは金属音を伴う風が分解し、イドは四階のホームに上りきった。

「もう発車しますっ」

 先頭車両のドアから顔を出してミフネが叫ぶ。ハンガマンガの襲来を知り、整備士達はもう乗り込んでいる。

 シアーシャが柵の天辺を蹴り、軽やかにホームに着地する。子供は凄い勢いで泣き続けている。ホームに並ぶパワードスーツと自動戦闘ロボットが一斉に外を向く。黒い怪物達が壁を齧り取りながら駅ビルをよじ登ってくるのだ。生き物だけでなく建物もロボットも食らうハンガマンガは、ビューティフル・ダストにとっても滅ぼすべき敵であった。

 斜めになった倒壊寸前のビルからとんでもない跳躍力を発揮して十数体がホームに飛び込んできた。ロボットの銃撃により、着地した時には半分ほどは穴だらけの死体と化していた。だが生きているものはロボットを押し倒して顔と腹に開いた口でガリボリと食らい始め、他のロボットから機関銃の連射を受けて肉片に変わったり、イドの剣でスライスされたりした。

 ハンガマンガ一体でも、接触すればロボット一体を破壊し得る強さを持っている。そして地中から溢れ出るハンガマンガは既に一万を超えていた。イドと神楽にロボット達が協力して迎撃すれば、ひょっとすると殲滅することも可能かも知れない。しかし、ガイドウェイを破壊されれば列車は動けなくなる。今ここでそんなリスクを冒すほどのメリットも、ビューティフル・ダストとの信頼関係もなかった。

「列車に」

 シアーシャが先導し、幼児を抱えたイドがホームを駆ける。神楽は列車の屋根に立ち、右手にジグザグに曲がった両刃の短剣を握りつつ、おそらく見えない使い魔を操っている。

 ゴリリ、とコンクリートの削れる音がしてホームが揺れる。駅ビルの柱が食われているのか。ガイドウェイまで沈んでしまったらアウトだ。と、百体以上のハンガマンガが一斉に飛び込んできた。イドの剣閃、神楽の使い魔による解体、銃弾の乱舞。弾幕の一部が別のロボットのボディで跳弾し、イドの片足を貫いた。イドが僅かに体勢を崩し、シアーシャが振り向いて駆け寄る。数体のハンガマンガが彼らに飛びかかろうとして、空中で急に動きが止まる。見えない網か何かに引っ掛かってしまったように。イドが剣を振り、輪切りの死体が床に落ちる。

「イド、大丈夫」

「大丈夫だ。小さなおかしな奴が敵を刻んでいるが、あれは味方でいいんだな」

 使い魔のことを言っているのだろう。列車の屋根から神楽が苦笑しつつ声を投げた。

「味方ですから気にしないで下さい」

 シアーシャが列車へ急ぐ。イドは幼児に流れ弾が当たらぬよう抱え込んで上体を屈めながらついていく。

「早くっ、こっちへ」

 手動になっているドアを開け、小太りの男が怒鳴る。黙って見ていられなくなったカナダのハート首相だった。「危ないから引っ込みなさい」と後ろから護衛が引っ張り戻そうとしている。

 柵を食いちぎり、ハンガマンガ達がどんどんホームに上がってくる。神楽の使い魔がそれらを分解し、しかしすぐに後続が這い上がる。ホームが怪物で埋め尽くされていく。

 列車が動き出した。ミフネももう待ちきれなかったようだ。イド達と列車の距離はほんの七、八メートルだが、ロボット達とハンガマンガの乱戦に巻き込まれ阻まれている。神楽も列車の保護を優先してイド達まで手が回らない。

「シアーシャ、しゃがんでくれ」

 イドが告げ、少女がしゃがむと同時に銀光が水平に一回転した。ヒュコッ、と軽い音が鳴り、範囲内にいた十数体のハンガマンガと二体の自動戦闘ロボットが輪切りとなった。

 瞬間的に生じた空白に、ハート首相が踏み込んできた。首相を離してしまった護衛は流れ弾で顔に傷を負っていた。

「こっ子供をっ」

 首相が伸ばした両腕に、イドが泣いている男児を押しつける。

「シアーシャも乗れ」

「分かった。イドも無茶しないでね」

 少しずつ加速する列車に男児を抱いたハート首相とシアーシャが乗り込み、イドは列車を守るためその場に留まった。食らいついてくるハンガマンガを即座に斬り捨てていく。

 豪雨のようだった銃声がまばらになってきていた。多勢に押し倒され食われ、戦えるロボットが減っているのと、そもそも弾薬ストックが尽きつつあるためだ。ハンガマンガはホームに溢れ返り、後続は果てしない。列車に取りつこうとするのをイドと見えない使い魔がぎりぎりで食い止めている状況だ。列車の先頭はホームを出ているが、二十四両編成の全長は七百メートル以上ある。

「あなたも乗って下さい。私が殿(しんがり)を務めます」

 列車の屋根から屋根に移ってホームに留まりながら、神楽がイドに告げる。

「もう少しここを守る」

 イドが剣を振りながら無表情に答えた。

 深緑の瞳は場の全体を広い視野で捉えつつ、必要に応じて素早く動き対象を注視する。それもほんの一瞬のことで、獲物を処理した後はすぐ全体視に戻る。戦闘中は瞬きをせず、顔の数センチ横を牙が通り過ぎても返り血が頬に飛んでも平然としていた。全身の各部が剣闘のためにコントロールされた正統派の剣士の動きであり、しかし、いざとなると極端に姿勢をねじ曲げる変則的な挙動もためらわない。肘から先だけの動きによる本来なら力不足の斬撃でさえ、恐ろしく正確に立てられた刃筋と聖剣の鋭利さでハンガマンガの首を落とすには充分だった。流れ弾による足の傷も、ダメージの深さを見切り敢えて受けた牙による傷も、彼の動きを損ねはしない。

 あらゆる危機的状況も冷徹にくぐり抜ける、熟練とか歴戦とかいうレベルを通り越した異常の戦士がイドであった。

 神楽はそんなイドの戦いぶりを横目で観察しつつ、左袖からもう一つの使い魔を放った。白い煙のようなものがスルスルとホームをはみ出して下へ回り込む。駅ビルの壁を齧りながら登ってくる黒い群れを煙がうっすらと包み込んだ。ハンガマンガ達の体がムクムクと膨れていき、破れた傷口から腐液を溢れさせる。十秒もすれば肉の溶け落ちた異形の骨組みだけが残り、その骨もクニャリと折れ崩れていった。腐肉を浴びても登ってくる後続をまた煙が包む。ビルの下の地面は大きな腐液溜まりと化していく。腐蝕が最後まで行き着くと透明な水となるのだが、次々に腐液が追加されるためそんな暇はなかった。

 増員が途切れ、ホームは解体する使い魔とイドの活躍で一時の平和が訪れた。銃声はとうに聞こえず、立って動いているロボットはほんの数体だけだ。

「乗って下さい。後は私がやります」

 二十号車の屋根の上で、神楽が改めてイドに告げた。イドはそれで漸く頷き、列車のドアは開いていないため屋根に飛び乗った。シアーシャと合流するつもりだろう、前の車両へと駆けていく。

 神楽は逆に、二種の使い魔にハンガマンガを蹂躙させながら後ろの車両へと移動する。一旦途切れた攻勢も地中から際限ない援軍を得て勢いを盛り返していた。ビルに取りつき、齧り、ホームに殺到してくる。ガクン、とまたホームが揺れる。ガイドウェイにも影響があったようで車両が僅かに沈んでいる。だが、まだ走行に支障を来たすほどではない。

 他のハンガマンガよりも巨大な個体が這い上がってきた。身長七、八メートルほどの猿に似た形状で、胸腹部全面にびっしりと牙が密集して生えている。

 キシュッ、と鋭い音が鳴り、神楽の顔の横を何かが通り過ぎていく。

 神楽は稲妻のようにジグザグに曲がった剣を顔の前に翳していた。高速で飛来した凶器を剣で弾いたのだ。

 雄々しく立ち上がった猿似の巨獣の、腹部がゾワゾワと蠢いている。並んだ牙が伸びたり引っ込んだり、内側に倒れたりまた立ったりを繰り返しているのだ。怪物の顔には目も口もなく、後ろで大きく揺れている長い尾の先に一つだけ目がついていた。

 腹部が波のようにうねると、無数の牙の列から数十本が散弾のように飛び出してきた。狙いは雑で、多くは同族の体を貫いたりビルの天井に刺さったりしたが、何本かは神楽に向かっていた。

 高速でスピンする鋭利な牙は、命中すれば胴を貫通し致命傷になり得るものだ。だが神楽は車両の屋根を歩きながら少し上体を傾けるだけで、頭の前と後ろ、両足の間、左腕と腰の隙間に牙を通過させて全て躱しきった。

 猿似の巨獣は再び腹をうねらせて更なる攻撃に移ろうとしたが、目のついた尾が尻から切れて落ちた。次の瞬間には手足も胴もザク切りに分解され、黒血を撒き散らして他の獣達の餌になった。

「これで、一段落かな」

 神楽は最後尾である二十四号車の屋根に移り、呟いた。二種の使い魔がもたらす分解と腐敗は襲来するハンガマンガをうまく抑えている。この分なら無事に列車はホームを出て逃げきれるだろう。

 ガキュン、という鋼鉄が断たれる音に、神楽は振り向いた。

 列車はホームを出ていく。一本のガイドウェイで世界一周を目指すラウンド・ザ・ワールド・ドリーム・エクスプレスは無事にバンクーバー駅を出発した。

 二十四号車だけを残して。

 離れていく列車の新たな最後尾となった二十三号車から、大きな女がガイドウェイに降りる。

 車両の接続部を切断した単分子ワイヤーソーをソードガンに巻き戻すのは、アメリカ大統領の護衛兼メイドを務めるガイノイド・ヴィクトリアだった。

 

 

 九号車の廊下で、カナダ首相ティモシー・ハートは尻餅をつき荒い呼吸を繰り返している。抱き締めていた男児は解放され、「ママ、ママッ」と叫びながら泣いている。先程まで彼を抱いていたのはおそらく父親だったのだろうが、先に母親の名を呼んでしまうのは仕方のないところか。シアーシャが無言で男児の頭を撫でている。

「私も、少しは、国民に顔向け、出来ただろうか」

 ハート首相の言葉に、銃弾が掠めて出来た額の裂傷をいじりながら護衛の男が返す。

「ほんの数メートル、まあ、往復で十メートルちょっと頑張っただけで、実際のところ役に立ったのかどうか怪しいもんですけどね。でもまあ、ちょっとだけ、かっこ良かったですよ。……ただ、出来れば、生き延びて欲しかったんですけどね」

 護衛の目は首相の座る床を見ている。赤い血溜まりがみるみる尻の下から広がっていく。ホームに出た短い時間で、彼は被弾していたのだ。致命傷が明らかな出血量だった。

「うん。すまない。君は職務をちゃんと、果たしたし、不備はないよ。……私は、やっぱり、情けない、男で……どうか、カナダの国民に……幸あれ……」

 死相を濃くして弱々しく語るハート首相を、シアーシャはじっと観察していたが、やがて無邪気な少女らしい態度で声をかけた。

「あの、おじさんって、あのお薬は飲んだのかな。カグラおじさんが配ってたみたいだけど」

「あ、ああ……あの、赤い薬、か……一日、四回、飲め、と、言われた……」

「あんな胡散臭い男の手作りっぽい丸薬など、とても飲む気になれませんけどね。うちの首相はお人好しだから素直に飲んでましたよ」

 護衛は皮肉に口元を歪める。

「ふうん、そうなんだ。傷が治りかけてるみたいだから。あのお薬って、ちゃんと効くんだね」

「えっ」

「えっ」

 ハート首相と護衛が互いの顔を見合わせた。首相の血色は回復していた。血溜まりも広がらなくなっている。

「あれっ。ということは、首相は生き延びちゃうんですか。最期の決め台詞を言っちゃったのに。『カナダの国民に幸あれ』って」

 ハート首相の顔が真っ赤になった。

 屋根から屋根へと渡り、開いたままのドアからイドがスルリと入ってきた。シアーシャに早速尋ねる。

「子供は無事か」

「うん。怪我もしてないし元気」

「そうか。なら、いい」

 無表情に頷くイドに、シアーシャは優しい微笑を向けた。

 

 

 二号車のアメリカ大統領用の客室で、大統領首席補佐官兼護衛兼メイドを務めるガイノイドのメモリーが大統領ウィリアム・セインに報告した。

「プレジデント、これよりヴィクトリアはキョーエイ・カグラとの戦闘を開始します」

「うん。適当なタイミングで支援してやってくれ」

 セイン大統領はソファーに深く腰掛け、上機嫌でワイングラスを傾けている。

「それでは、僅かな時間ですがおそばを離れますので、プレジデント、どうかお気をつけ下さい」

 メモリーはそれから若いゲストを無表情に一瞥し、静かに客室を出ていった。

 本来は二十二号車の乗客であるトッド・リスモは、不安げな顔でそれを見送った。ヒビの入った丸縁眼鏡をずらし上げ、彼は言った。

「あ、あの、ダールは、カグラを始末するなら全力で、と言ってたんですけど……」

 若者の後ろにはいつでも首を掻き切れる態勢で小柄のティナが控えている。

「そうだね」

 セイン大統領は余裕の笑顔で応じた。

「私のメイド達は心配症でね、私の安全をどうしても確保しておきたいらしい。それに邪魔な者達と引き離し、最適な状況を設定してこうなった訳だ。確かにヴィクトリアに、メモリーの遠距離からの援護だけでは『全力』の半分以下ということになるだろうな。だが、ね。うん。私のメイド達の力を甘く見ないで欲しいものだ」

 大統領の目は笑っておらず、トッドが下手な返答をすれば即座に首と胴が離れそうな雰囲気があった。

 なので若者は黙って下を向き、またずれてきた眼鏡をいじって場をしのいだ。

 

 

「おや、おや。助っ人に来てくれた訳ではなさそうですね」

 取り残された二十四号車の屋根からヴィクトリアを見下ろし、神楽が言った。苦笑を浮かべた唇の間から鋭い犬歯が覗き、昏い瞳は不吉に輝いている。

 ヴィクトリアは無言でガイドウェイ上を歩いてくる。二メートルを超える身長に、体重もおそらく百五十キロ以上あるだろう。ただしそれは彼女を構成する鋼鉄と機械部品のせいで、体型はアマゾネス的な筋骨隆々たるものでありながらも、野性的な色気を醸し出す見事なラインを保っていた。フリルのないシンプルなメイド服に、肘上までを覆う白い手袋。今その左右の手はソードガンを一つずつ装備している。手甲が広がったような楕円形の盾に、銃と折り畳み式の剣と単分子ワイヤーソーを内蔵した特殊武器。単分子ワイヤーソーは扱いが難しいが、機械のパワーと精密動作が加われば鉄板を切り裂く恐るべき兵器になる。

 褐色の肌に高い頬骨で、古いアメコミのヒロインのような顔立ち。眉は僅かにひそめられ、神楽を真っ直ぐに見据えている。アンドロイドに感情はなく、戦闘に際しわざわざ表情を作る必要はない。しかし今、神楽に向けられた視線は凛とした、殺気に似た圧力を孕んでいた。

 二十四号車の窓から乗客達が恐怖と不安に歪んだ顔を覗かせている。世界一周列車の初運行の切符を手に入れる幸運に恵まれ、更に携帯情報端末の爆発を生き延び、世界規模の災厄に、各国の首脳もいるこの列車に留まった方が危険が少ないと賢明な判断を下した者達だった。それが、沈みつつある駅に彼らの車両だけ取り残されることになろうとは。或いは、動き始めた列車が急に止まったことを不思議がっているだけで、車両が切り離されたとは理解していないのかも知れない。

 ハンガマンガの勢いは衰えず、際限なくホームに這い上がっては使い魔に分解されていく。群れの一部は駅ビルでなく、列車の去ったガイドウェイの方へと向かっている。聖剣を持つイドが列車に乗っているため惹き寄せられているのだろうか。

 そして、黒い怪物達はヴィクトリアにも襲いかかった。真っ先に噛みつこうと鋭い牙を剣のように長く長く伸ばすもの。仲間を踏みつけながら跳躍してくるもの。雪崩を打って押し寄せる飢えた怪物達に対し、ヴィクトリアは変わらず神楽を見据えているだけだ。いや、実際には二つの目以外にも体のあちこちに搭載されたカメラやセンサーが敵の接近をミリ単位で把握していた。

 全方向から襲い来るハンガマンガのうち、先頭の牙とヴィクトリアの距離が三メートルを切った瞬間、彼女は行動に移った。両腕を広げバレリーナのようにその場で高速スピンをしてみせたのだ。二秒ほどで十回転以上はしただろう。同時にギキュン、キュリッ、という金属の軋みが車両から聞こえた。

 ヴィクトリアを中心とした半径約四十メートルのエリア。その中にいた数百体のハンガマンガ達は、突進の勢いのままつんのめり、ホームやガイドウェイの床に激突した。その衝撃で黒い体が何枚ものスライス肉となってずれ、分かれていく。渦を描くように並ぶ無数のスライス肉は、丸い皿に盛りつけられたふぐ刺しみたいになった。

 神楽が屋根に立っている二十四号車にも複数の横線が生じていた。多少斜めになった線に沿って、車両の鉄板が、窓ガラスが、ずれていく。そして客室にいた乗客達の顔も。

 キキュ、ギュリ、ギー、と、嫌な軋みを上げながら、車両が鉄と肉のスライスとなってバラけていく。輪切りにされた乗客達は、何が起こったのかも分からぬまま即死であったろう。

「公式の有効範囲は二十四メートルということでしたが、意外に伸びるのですね。特注品でしょうか」

 崩れゆく列車から歩くだけでタイミング良くホームに降り、神楽は言った。無傷で、服にも破れ一つなかった。

 神楽の遥か後方、ガイドウェイそばの駅ビル内壁に、微かにキラキラ光るものが揺れている。

 極細のワイヤーが、片端が壁に突き刺さった状態で垂れ下がっているのだった。かなりの長さのものが勢い良くぶつかったらしく、ゴチャゴチャに絡まってしまっている。

 ヴィクトリアが左右のソードガンから伸ばした単分子ワイヤーソーのうちの一本だった。高速スピンによる遠心力を加えて周囲のハンガマンガも車両もビルの柱もスライスしまくり、ついでに屋根に立つ神楽も六度くらいは輪切りにする筈だった。

 だが神楽はそれを最小限の動きで躱しつつ、ワイヤーの一本を曲がった剣で断ち切ってみせたのだ。信じがたい動体視力であり、また、剣の鋭利さでもあった。

 ヴィクトリアは無表情に立っている。ソードガンから垂らしたままのワイヤーは左のものが十メートル程度しか残っておらず、右のものも黒い血にまみれて重くなっている。

「列車は行ってしまいましたが、どうやって合流するつもりですか。それとも、私を始末さえ出来れば使い捨てでいいということでしょうか。ガイノイドを大事にしているように見えましたけれど、所詮、ロボットに向ける愛情などその程度ということですかねえ」

 聞いているかも知れないセイン大統領へ向かって神楽は皮肉る。やはりヴィクトリアは反応を示さない。

 ズズッ、と、ワイヤーで斬られていた柱がずれていき、内部の鉄筋を晒しながら抜け落ちる。ビルがまた揺れる。ふぐ刺し状態にされたハンガマンガも、すぐに後続が這い上がり、一部は仲間の死体を食べたりしているがヴィクトリアと神楽に殺到する。神楽に近いもの達は見えない使い魔によって切り刻まれ腐らされる。ヴィクトリアの両腕が動き、血まみれのワイヤーが蛇のようにうねりながら持ち上がる。神楽の視線が僅かにそちらへ寄る。

 その時、音もなく、神楽の胸に大穴が開いた。黒い作務衣に直径二十センチほどの丸い焦げ目をつけ、その内側が丸ごとごっそりなくなって肉の断面を覗かせる。半ば以上抉り取られた心臓が、拍動と共に血液を外へ零していく。

 異変に気づいた神楽の表情は軽い驚きと、半笑いのような微妙なものだった。少なくとも、自分が死ぬと悟った顔ではなかった。

 ヴィクトリアが再びスピンを始めた。右のワイヤーで水平の広範囲斬撃を重ねつつ、左のワイヤーは巻き戻してソードガンから拳銃弾を放つ。高速スピンしながらも狙いは正確で、フルメタルジャケットとホローポイントの両方の特性を持つフラワーバレットは、殆ど反応出来なくなった神楽の額と首と左胸に穴を穿ち後方に血と肉片を撒き散らした。そして顔と首筋と作務衣の腹部分に水平の筋が走り、神楽の体は輪切りになって転がり落ちていく。ホームの床にぶつかるまで、数度の斬撃が加わり更に分割された。

 神楽鏡影はただの十数個の肉塊と化した。役目を終えたヴィクトリアはスピンを止め、列車の去った方向へガイドウェイを歩き始める。ガイノイドの脚力でも時速数百キロで走る列車に追いつくのは無理だろう。高速で移動する機能を持っているのだろうか。

 だが、ヴィクトリアは立ち止まった。振り向いて、神楽の死体を観察する。左のソードガンを肉塊に向けていつでも射撃出来る態勢だ。まだ襲ってくるハンガマンガは普通にワイヤーを振り回して斬殺する。

 ヴィクトリアが留まった理由は、見えない使い魔がまだハンガマンガの群れを迎撃し続けているためだった。

「残念です」

 神楽の声がしたのはヴィクトリアの足元だった。百分の一秒にも満たない情報処理で最適解を割り出した結果、左のソードガンが神速で床に向けられフルオートで弾を吐き出した。更に右のソードガンを離し、長手袋を引き裂いて右腕が花弁のように開く。芯として残った銀色の細い筒の先端はノズル状になっており、冷却機構が蔓のように筒に絡みついていた。メモリーに搭載されたものより有効射程は非常に短いものの、広範囲の標的を瞬時に蒸発させることが可能な超高出力熱線銃。それが大気を歪めながらフルパワーで放射されるとあっという間にガイドウェイの鉄板が溶け、その下のコンクリートまでみるみる溶けていく。

 そこに神楽はいなかった。グラリ、とヴィクトリアの体勢が崩れたのは熱線が足場を溶かしたためだけでなく、自身の右足も溶かしていたからだ。メイド服のスカートを蒸発させ褐色の皮膚を溶かし、見事な筋肉美を形作っていた形状可変シリコンの層を溶かし、露出した合金の骨格と関節機構も溶かして右膝はほぼちぎれかけていた。ヴィクトリアは表情を変えなかったが、この状況が想定外なのは間違いないだろう。熱線の放射を止め、左手をつこうとするがつくべき場所はドロドロに溶けている。撃ち尽くしていた左手のソードガンから折り畳み式の剣を伸ばし、溶けたコンクリートに突き立てたところでガギンッ、と妙な音がした。左肩と肘の関節機構が不具合を起こし動かなくなったのだ。咄嗟に姿勢制御機構が働いて全身各部の関節が動きかけ、ガキガキと嫌な音をさせて停止する。予算を惜しまず最先端の技術と素材を積み上げて作られた、ワンオフ機の超高級戦闘用ガイノイドが、長年野晒しで放置されたガラクタみたいにあらゆる箇所で不具合を起こしているのだった。コキン、と胴内で鳴った小さな音は、決して使用してはならない最後の手段、数十メートル四方の敵を巻き込む自爆装置のトリガーが空打ちした音だった。

 ヴィクトリアが溶けたコンクリートに沈む。美しい顔を焼きながら、金属のフレームを晒しながら、燃えるような赤い髪を本当に一瞬で燃やし尽くしながら。目のカメラはまだ神楽を探すように動いていたが、ジャリッと引っ掛かる音がして停止した。

 彼女の全身が沈みきると、ガイドウェイが崩れていく。ビルの耐久性が限界を超えたらしく、ホームが揺れ、柱が曲がり、天井が変形を始める。傾いた床が、壁が、ビルの内側に向かって崩落していく。売店もクリニックもデパートも娯楽施設も、放置された無数の人間の死体も、ロボットとハンガマンガの残骸も、這い上がりながら元気に建材を食らっていたハンガマンガも、全て呑み込んで崩れ去っていった。

 瓦礫の山となった駅ビルの横。変形してちぎれ残ったガイドウェイの端に、いつの間にか無傷の神楽鏡影が立っていた。

 地中から溢れるハンガマンガの勢いはやまず、バンクーバーの市街を黒く侵蝕し続けている。群れの一部は列車を追い、長い列になってガイドウェイ沿いを駆けていた。パワードスーツとロボット達が何台ものトラックに乗り込んで町を去ろうとしていた。ビューティフル・ダストはハンガマンガの物量に勝てないと判断してバンクーバーを放棄するつもりのようだ。

 まだ生きている住民も僅かに残っているかも知れない。だが、勿論神楽に彼らを助ける余裕などなかった。

「物理的に理解不能な現象を見たのである」

 小さな皿型のドローンが飛んできて、小型スピーカーから可愛らしい合成音声を発した。

「キョーエイ・カグラの分割された死体はホームに残っていたのである。しかしここにキョーエイ・カグラは生存しているのである。君が出現する瞬間を確認出来なかったのである。理解不能な現象が存在するということは、問題なのである」

「即ち、この世界には訳の分からないことが色々ある、ということですよ」

 ビューティフル・ダストの口癖を使い、陰気な苦笑を浮かべて神楽は言った。

「それでは列車に合流しますので、失礼」

 ハンガマンガに食われて沈みかけていたガイドウェイから跳躍する。高く、高く。落下に移る前に神楽の背中から翼が生えた。半透明の、蝙蝠のような黒い翼は素早く羽ばたいて神楽の体を宙に浮かせ、そこに二つの使い魔が戻ってくる。白い煙は作務衣の左袖に入り込み、煌めく鋭い風は神楽の体を支えて加速させた。更に高く、そして速く。ハンガマンガの届かぬ地上百数十メートルの高さを、神楽は猛速で飛行していった。

 

 

 ガイドウェイの上空を時速六百キロ近いスピードで進む神楽を、更に上空から眺める男がいた。

 その神楽がふと上を見たため、男は一瞬緊張する。だが神楽はすぐに前に向き直り、飛び去っていった。

「ふむ、気づかれたか。名を聞いたことはなかったが、こんな高位の魔術師が世に埋もれとったとはのう」

 男は誰にも聞こえぬ呟きを洩らす。それから大気に溶けて広がっていた霊体を小さく細くまとめると、シュルシュルと空を泳いで実体には出せない速度で神楽を追い抜き、ガイドウェイを辿っていった。

「ああ、いかんのう。ハンガマンガとやら、えらく足の速い奴もおるんじゃな」

 遥か前方、ガイドウェイ沿いに異常なスピードで駆ける黒い群れがいる。アンバランスに発達した太い脚で跳躍を繰り返すものや、百足のように脚が何十本もあるもの、車輪状の体を転がして進むもの、翼を羽ばたかせ飛行するものなどが、拾い食いもせず明らかに列車を追いかけている。

「指揮する者がおるのか。見る限りでは分からんが……むっ」

 男の霊体が群れを追い抜きかけたところで、ラウンド・ザ・ワールド・ドリーム・エクスプレスの車両が見えてきた。カメラやセンサーに頼れない手動運転のため、時速四百キロ弱とやや控えめな速度で走っている。追ってくる群れに彼らは気づいているだろうか。

 だがそれより問題なのは、左方から飛来する巨大な影だった。

「ああ、いかん。これはいかん。激ヤバだわい」

 尾の先まで含めれば体長二百メートルもありそうな暗赤色のドラゴンが、列車に向かって飛んでくるのだ。

 男は霊体を更に細くして加速し、列車に追いつくと最後尾二十三号車に飛び込んだ。連結部のドアは乗客が手動で閉じていたが、霊体なのでぶつかることなくすり抜ける。生きている乗客も自分の部屋に篭もっているため廊下には誰もいない。男はドアをすり抜けてどんどん前の列車に移っていった。

 九号車の廊下にはピリピリした雰囲気の剣を持つ男と少女がいた。男は常人には見えない状態であるが間違って攻撃されないように遠回りして、食堂車両も飛び越しその先の先の五号車、インド大統領の客室に飛び込んだ。

 インド大統領シャガラッシュ・バーラティカは六十五才で、額はかなり後退しているが綺麗に整えた顎髭を持ち、穏やかで知的な雰囲気の人物だった。

 三人掛けのソファーに座る大統領の斜め前、一人掛けのソファーの方で青白い肌の男が目を閉じている。霊体が鼻の穴にスルスルと入り込み、男は目を開けた。

「どうだったね,サフィード」

 バーラティカ大統領が尋ねると、青白い肌の男・サフィードは口を緩く開けて笑いに似た表情を作った。口の中で赤く長い舌がとぐろを巻いている。

「悪いニュースと凄く悪いニュース、それから良いのか悪いのか評価の難しいニュースがあるが、どれから聞くかね」

 サフィードの肉声にはペチャペチャと湿った音が混じっていた。皺がなく年齢不詳の肌はじっとりと薄く湿っており、首筋や頬に浮いて見える静脈はどす黒かった。まとったフードつきのローブは俗世から離れたことを示す薄茶色だが、個人の名を持つことからヨガの行者とは違うようだ。眉毛も髭もなく、フードで隠れているがおそらくは頭髪もないのだろう。瞳は完全に散大して黒々とした闇を覗かせていた。

 自称二千才を超えるというこの魔術師を、バーラティカ大統領は個人的な相談役として雇っていた。大統領職には実権が薄いとはいえ、今も宗教間の対立と混乱が続くインドでなんとかやってこれたのは、サフィードの情報収集力と暗殺・洗脳術によるところが大きかった。

 同行していた秘書は携帯端末で爆死し、護衛二人のうち一人は隣の客室のレジネラル一行の暴走に巻き込まれて死亡している。唯一生き残った護衛は負傷した顔に保護フィルムを貼り、客室のドア近くに立っていたが、サフィードに向ける視線は隠しきれない畏怖と嫌悪感に染まっていた。ちなみに、投影式テレビについたマイクはビューティフル・ダストに利用されないよう破壊してある。ミフネの指示で全ての客室がそうなっている筈だ。

 バーラティカ大統領は冷静な表情のままサフィードに告げる。

「緊急性の高いニュースから教えてくれ」

「ふむ。では凄く悪いニュースじゃな。ドラゴンがこちらに向かっておるぞ。キョーエイ・カグラが話しておったという、メギラゾラスという奴じゃろう。車両ごと丸呑みされかねん巨大さじゃ」

「それは……緊急だな。対処出来そうかね」

 大統領は表情を変えずに尋ねる。

「わしの力では歯が立たん。カグラと、イドという聖剣持ちの力量にもよるじゃろうが、正直なところ、勝ち目についてはまださっぱり分からんのう。取り敢えず、カーテンを閉めてソファーにしがみついておくことをお勧めするぞ」

 サフィードが説明する間に、護衛の男は窓から空の様子を確認していた。と、慌ててカーテンを閉め、大統領に報告する。

「み、見えました。まだ遠いですが、確かにこっちへ飛んできます」

「そうか。サフィード、次のニュースは何かね」

「悪いニュースじゃな。ハンガマンガで足の速い奴が追ってきておる。まあこれは、普通に迎撃するのではないかな。ドラゴンの襲撃とタイミングがかぶれば、後ろの車両に犠牲者が出るかも知れんが」

 他人事のようにサフィードは語る。

「最後のニュースは」

「うむ。アメリカ大統領のお人形が一体、カグラに仕掛けたんじゃが、あっさり返り討ちにされたぞ。最後尾の車両……二十四号車じゃったかの、切り離されてホームに取り残されとったのは、カグラを殺すために人形がやったんじゃろうなあ。……カグラはバラバラに刻まれたと見えたが、いや実際に刻まれた筈なんじゃが、そっちの死体とは別に、生きておった。ドッペルゲンガーの類じゃと思うが、あれを自在に使えるようならとんでもないのう。飼っておる使い魔も、あれほど強力なものは見たことがない。決して敵に回してはいかんじゃろうなあ」

「……。評価が難しいというのは」

「カグラは頼りになりそうじゃが、敵となる人類の脅威の方がそれを上回る可能性があることが一つ。もう一つは、カグラの目的が本当に人類を救うことなのか分からんということじゃな」

 バーラティカ大統領は暫く考え込む。そのうち、ゴロゴロという雷鳴に似た低い音が聞こえてきた。音は左から右へ通り過ぎ、遠ざかっていく。

「ドラゴン、ですかね。通り過ぎてくれたような」

 護衛の男が安堵の表情で語り、サフィードは冷酷な緩い笑みで彼の期待を打ち砕いてみせた。

 バーラティカ大統領は動揺することなく、次の疑問を呈する。

「セイン大統領は、どうしてカグラを襲わせたのだろう。力量を見極めるためか」

「あの男が大事なお人形を使い捨てにはせんじゃろう。本気で殺すつもりじゃったと思うぞ」

「……。まだ脅威の一つも解決していないのに、仲間割れ、か……」

「そもそも仲間ではないんじゃろう。気をつけよ、シャガラッシュ。ほんの少しの判断ミスが命取りになるぞ。ミスをしなくても運次第で死ぬがの」

 右の方からまた低い雷鳴が近づいている。車内アナウンスは特にない。そういう機能はビューティフル・ダストに奪われており、ミフネ達も手動運転で手一杯だろう。ただ、列車の速度が上がったようだ。

 バーラティカ大統領はソファーの肘掛けを掴み、目を閉じて静かに息を吐いた。

「この列車がニューデリーに着く頃、我が国はどうなっているのだろうな」

「そもそも着かないかも知れんがね」

 サフィードが早速皮肉ってみせた。

 

 

 二号車のアメリカ大統領の客室では、ウィリアム・セイン大統領が首席補佐官のメモリーに何度も聞き返していた。

「結局のところ、ヴィクトリアがどうして死んだのか、分からないというのかね」

「分かっているのは、ヴィクトリアの機構の少なくとも百十六ヶ所に、別々に不具合が生じたということです、プレジデント」

 メモリーは上品に優雅に、冷たく無表情に、説明を繰り返す。彼女は動く列車の屋根から四キロ以上離れていた神楽の胸部を超高出力熱線銃で撃ち抜き、神楽が単分子ワイヤーソーでバラバラになったのを見届けてから戻ってきていた。そして、その目を離した短い間にヴィクトリアから断末魔の不具合情報が届いた訳だが。

「その原因は、カグラに触れられたことではないのかね」

「ヴィクトリアの右足底部の感圧センサーは、靴越しに人間の手と思われるものの接触を感知しています。ただし、カメラではヴィクトリアの足元にカグラの姿は映っていませんし、超音波、赤外線などの各種センサーも周辺に人体の存在を感知していません。感知したのはカグラの声紋と一致する音声と、右足底部への『何か』の接触のみです。百十六ヶ所の不具合発生は右足から始まり胴体に、それから全身各部に波及していますから、『何か』の接触との関連が疑われます。しかし、不具合を生じさせた原理は不明のままです」

「……。魔術、ということかな」

「私には分かりかねます」

「FBIに魔術師を自称する男がいたな。ポラリスとかいう。胡散臭い男だったが、あの手の輩は早いところ皆殺しにしておくべきだったな」

 セイン大統領はにこやかに語るが目は笑っていなかった。ヒク、ヒク、と下瞼の辺りが痙攣を起こしている。

 そんな大統領を、トッド・リスモ青年は怯えた様子で見守っている。背後に立つティナは苦無に似た凶器を握ってトッドを見張っている。トッドは時折何かに聞き入るような仕草をして、見えない何かからのメッセージを受け取っているのかも知れないが、それを口に出すことは控えている。一言でも何か喋れば首を落とされかねない、異様な緊張感がこの部屋に満ちていた。

「現状で推測されるのは、キョーエイ・カグラは確実に殺害したと思われる状況でも生存している可能性があること、殆どのセンサーに感知されずに接近される可能性があること、接触されただけで重大な機能不全を起こす可能性があり、人間であれば死亡に至る可能性もあること、そして、キョーエイ・カグラにプレジデントが敵と認識された可能性が高いこと、です」

「うん、そうだね。じゃあ、バンクーバー駅に核ミサイルを撃ち込もうか」

 セイン大統領は笑顔のまま指示し、トッドは更に身を縮こませることになった。

 アメリカの持つ大量破壊兵器の殆どはビューティフル・ダストの管理下にあったが、大統領専用回線以外の通信を遮断していたスーパーステルス原子力潜水艦七隻は乗っ取られずに済んでいた。セイン大統領が現在所有する最大の切り札が二百機弱のSLBM……潜水艦から発射可能な弾道ミサイルだった。

「プレジデント、現状でその選択は性急ではありませんか」

 部外者のトッドの前で大統領が重要機密を喋ってしまったことを電子頭脳内でどう思考しているのか、メモリーはただ無表情に反論した。

「そうだね、性急過ぎるかも知れないね。しかし、ヴィクトリアが死んでしまったのだよ。私のこの苦しみは、理屈で処理出来るものではない。……私はねえ……今すぐに、全力でカグラをぶち殺したいのだよ」

 セイン大統領の目が笑っていない笑顔は微妙にバランスを崩し、破綻しかかっていた。膝の上に乗った拳が、血の気を失って白くなるほどに固く、握り締められている。

「物理的な殺害に失敗したのですから、核兵器でもキョーエイ・カグラを殺害出来ない可能性があります。不確実なことに切り札を使うべきではないと思われますが」

「しかしね、メモリー、既に私はカグラから敵と認識されている。反撃される前に始末する試みは間違いではないだろう」

「列車はバンクーバー駅から既に十キロメートル以上離れていますし、キョーエイ・カグラが特別な移動手段を持っていない限り更に距離は開くと思われます。何らかの手段で追いつかれた場合も、私とヴィクトリアの独断による暴走と釈明することは可能です。私達はAIも含めて特別製のワンオフ機であり、プレジデントのために独自の判断で行動することが実際に許されていますから。キョーエイ・カグラの言動からは、目的のためには多少のトラブルを許容する性格傾向が認められます。統計的には釈明が通る可能性は八十七パーセントです。また、もし釈明が通らなかった場合も複数の交渉手段が残されています。一つには列車自体を人質に……」

 セイン大統領はメモリーの説明を遮って首を振る。

「メモリー。たとえ方便であっても、私は自身の責任を君達に押しつけるつもりはないよ。とにかく私は今、核を使いたいんだ」

「プレジデント、重要な決断には冷静さが肝要です。今現在、冷静でないことを自覚しておられますか。血圧と心拍数が警告域まで上昇しています。まずはゆっくりと深呼吸を……」

「ハハッ、冷静でいられる筈がないさ。ヴィクトリアが死んでしまったのだから。私の大切なヴィクトリアがっ」

 最後は絶叫に近かった。その大統領の頬に手を添えてメモリーがいきなり接吻した。強引で、しかし優雅で、妖艶で、熱烈な、長いキスだった。トッドは顔を真っ赤にして見入っていた。

 三十秒ほどもして漸く唇を離し、メモリーが無表情に尋ねた。

「プレジデント、落ち着かれましたか」

「あ、ああ。落ち着いた。すまないな、メモリー。とんだ醜態を晒してしまったようだ」

「それだけ私達のことを愛して下さっているということですから、醜態などではございません」

「うん、そう言ってもらえると嬉しいな。……では、改めて、冷静に考えてみよう。相手は得体の知れない力を持つ、得体の知れない男だ。私はやはり、今のうちに全力で殺しておくべきだと思うのだが……おや、なんとここに、情報を持っていそうな者が一人いるじゃあないか。そもそも私をカグラにけしかけたのは君だ。ここは一つ、命懸けのアドバイスを拝聴してみようじゃないか」

 セイン大統領の下瞼の痙攣は治まっていたが、笑顔の中で笑っていない目は恐ろしく冷たかった。ティナの苦無に似た刃物がトッド・リスモの首筋に触れ、切っ先が僅かに皮膚を凹ませた。皮膚を破って肉に食い込むぎりぎり手前の、絶妙な力加減だった。

「あ……ああ、あの、ええっと。はい。幾つか、伝えるべきことは、ありますけど、あの、刃物が……」

「遠慮なく存分に話したまえ」

 大統領は容赦なく告げた。トッドはヒビの入った丸縁眼鏡の奥で目をギョロつかせながら、相手を刺激しないように小声で喋る。

「あ、あの、核ミサイルは、撃たない方がいいそうです。どうしてかというと、カグラは空を飛んで列車を追いかけてるそうで、だから、バンクーバー駅にはもういないそうです」

「……なるほど。それはもっと早く教えて欲しかったな」

「す、すみません。聞かれるまで待てって、ダールが。僕が自分から何か喋ろうとしたら、殺されてましたよね」

「うん、そうだね」

 セイン大統領は平然と答える。

「そっ。……それから、カグラは半分殺せたそうです。だから殺すことは可能だって……」

「ふうむ。半分とはどういう意味かね。所謂半殺しとは違うのだろう」

「ええっと、命を、一時的に二つに分割するんだそうです。片方が殺されても、ダメージは受けるけど死なないし、時間が経つと治るけど、暫くは分割出来なくなる、とか」

「ふうむ……それが本当だとすれば、なかなか良い情報じゃあないか。カグラを殺せる見込みもつくし、ヴィクトリアも無駄死にではなかったことになるな。それから、カグラがどんな力を使ってヴィクトリアを殺したのかは分かるかね」

「それは……すみません。分からないそうです。あ、時間がないので早く言います。ドラゴンが来てますけど、えー後二十二秒で列車が攻撃されます」

「なるほど、確かに時間がないな」

 セイン大統領が苦笑した。少し前から雷鳴のような音が響いていたが、もっと優先すべきことがあったので無視していたのだった。

「まずは見てみないと話にならないか」

「私が出てみます。分かったことはティナに伝えますので」

「いや、私も一緒に行こう。伝説のドラゴンが実在するのなら、この目で見ておきたい。あのイドという剣士と少女のそばにいれば、そうひどいことにはならないんじゃないかな」

 そう言っているうちに二十二秒経った。

 ガッギャーンッ、と、凄い音が聞こえ、走行中の列車が大きく揺れた。

 

 

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