音の正体は、巨大なドラゴンの振るう鉤爪と、見えない剣閃がぶつかり合って生じた衝撃波だった。
その少し前から、時速六百キロでぶっ飛ばす列車の屋根の上にイドとシアーシャはいた。急いでいたので九号車の窓を破って上り、ドラゴンの向かってくる位置を予測して十一号車まで移った。
最初、左方から接近したドラゴンは何もせずに上空を通り過ぎた。列車というものに興味があっただろうか。或いは、興味を惹かれた対象は列車の中にいる何者かであったか。
トカゲに似た頭部は首の近くから生え並ぶ、長い牙のような角のようなものに囲まれている。その目は爬虫類とは異なり、一つの眼球に黒・銀・赤の三色の瞳が同居していた。その特殊な目が振り返りつつギョロ、ギョロと列車を観察していた。
手動運転を務めるゼンジロウ・ミフネはドラゴンに気づいてから列車を加速していた。バンクーバーを出たら山岳地帯が多くなり、ガイドウェイの直線性も微妙になっている。時速六百キロは脱線のリスクを孕んだ限界ぎりぎりの速度だった。
「戻ってくるぞ」
ドラゴンが随分な勢いで遠ざかった後Ｕターンするのを見て、イドが言った。
「メギラゾラスとかいうドラゴンだったら、火を吐くんだって。喉がゴロゴロ鳴ってるから次は吐くかも。私が防いでみるから、イドは斬れそうだったら斬ってみて」
「分かった。だが、火は防げるのか」
イドは不思議そうな顔でシアーシャを見返した。相手は古いトランクを提げた、ほんの十才くらいの少女だ。疑問に思うのも無理はない。
ただしそれは、相手のことを知っていなければの話だが。
「多分、ね。頑張ってみるから」
少女は無邪気な微笑を見せた。自信満々ではなかったが、不安そうな様子もなかった。
「そうか」
イドは頷いて、改めてドラゴンに向き直った。
走って逃げる列車に追いつこうとドラゴンは軌道修正してくる。それを迎撃するため、二人は更に後ろの車両へ飛び移る。イドは軽々と。シアーシャはイドに見守られながら、フワリと妙に滞空時間の長い跳躍で危なげなく着地した。
ドラゴンは暗赤色の体に、目の下から首筋、背中まで赤いラインが走っている。首から生えた十数本の白い角は、丸い檻のように頭部を包み守っていた。大きな翼の羽ばたきは緩やかなものだが、実際には恐ろしい速度が出ていた。右斜め後方から列車に迫ってくる。ゴロゴロという雷鳴に似た唸りが大きくなる。
列車の廊下の窓から、カナダのハート首相とその護衛が引き攣った表情でドラゴンを見ている。座った状態で窓に顔だけ覗かせているのは目立ってドラゴンを刺激しないためでもあるが、腰が抜けて動けないせいでもある。ハート首相は預かった子供を抱えている。子供は泣くのも忘れて恐怖に震えているが、首相の体もまた震えている。
「ドラゴンですよ。ドラゴン。本当に……」
護衛の男はただ、呟いている。
イド達はもう一つ後ろの車両に移る。イドの目つきが鋭くなり、キリキリと緊張感が高まっていく。右手に握る聖剣エーリヤの切っ先はまだ無造作に下を向いている。彼の姿勢や所作に無駄な力みはない。
ドラゴンが追ってくる。近づいてくる。どんどん大きくなる。胴体の長さだけで百メートル、尾も含めると全長は二百メートルに達しそうな巨体は凄い迫力だった。ゴロゴロという唸りで列車まで震えそうだ。
イドは瞬きせず敵を見据え、右手の聖剣を振り上げて上段に構える。左手を軽く添え、静止する。
巨大なドラゴンにとって、列車の上に立つイドはどのように見えたろうか。人間が、羽を広げて精一杯威嚇してくるカマキリに抱く感情に似ていたかも知れない。或いは、存在に気づきさえしなかったかも。
ドラゴンが列車に迫る。迫る。高度も下げる。距離が百メートルを切る。斜め後方。その大きな顎を開き、連動して顎の前で交差した角も開いた。二列になった牙は車両をあっさり噛みちぎれるだろう。その牙の間から、赤い炎が塊となって飛び出した。火炎放射器のような炎の線でなく、巨大なファイアボールが凄い勢いでぶっ飛んでくる。
それが列車側面に届く数メートル手前で、いきなり弾け散った。見えない壁に激突したように。跳ね返った炎の欠片がガイドウェイの鋼鉄製フェンスに当たって溶かしていく。
バリンッ、とガラスの砕けるような音がして一瞬宙に亀裂のようなものが見えた。
「シアーシャ、大丈夫か」
イドが問う。
「大丈夫。思ってたよりちょっと、きつかったけど」
シアーシャは笑顔でそう返す。右掌に幾つか細い切り傷が出来ていたが、彼女は小さな拳を握り、滲み出る血を隠した。
そこに巨大な左前脚が猛然と振り下ろされた。既にドラゴンの顔は列車のほんの十数メートル上を通り過ぎつつあった。ついでに車両一つくらい引っ掛けていこうとしたものか。物を掴むことも容易そうな長さと並びを持つ指の先に、鎌のように美しいカーブを描く白い爪。爪一本の長さは二メートル近くもあった。その爪が掠めただけで少女は車両ごと真っ二つになっただろう。
だがそうはならなかった。
イドの剣を振る動きは、結果からすると下から斬り上げたのだろうが、常人には上半身が霞んだように見えていただろう。ガッギャーンッ、という凄まじい激突音と共に、鉤爪が上に弾かれ、その勢いで前脚ごと浮き上がった。列車は無事のままドラゴンが通過していく。
膨大な質量の前脚を弾くために、どれだけの力が必要であったろう。そしてその力はイドの肉体だけでなく、足場となる列車の屋根にもかかっていた筈だ。イドの立っている場所がブーツの底の形に数センチ陥没していたが、それだけだった。
目の前で奇跡のような激突が起きても、シアーシャは特に驚いたり怯えたりする様子はなかった。ただ、激突によって生じた強い風圧に二度瞬きをしただけだ。彼女にとって、こんな結果は当然であったかのように。
「大丈夫か」
イドが再び尋ね、シアーシャは「うん」と頷いた。
その時にはドラゴンの尾が大きくうねって三両後ろの十六号車を襲っていた。これにはイドも届きようがなかった。長大な尾、逆棘が何本も生えた先端が車両の側面に食い込みあっさりと向こう側へ抜けていった。破れた鉄板が宙を飛び散る中に、赤いものも混じっていた。
それでやっとドラゴンは左方へ離れていった。十六号車は屋根が吹っ飛び、側壁も抉れて客室の半分ほどが崩壊していた。フレームが歪んだため車両が揺れ続け、下半身だけになった出来立ての死体や腐敗前の死体がガイドウェイに転げ落ちていく。
「た……助け、て……」
まだ生きている乗客がいた。ちぎれかけた片腕を押さえ、血みどろで床を這っている。
イドが眉をひそめ、屋根伝いにそちらへ行こうとするが、シアーシャが警告した。
「気をつけてね。ドラゴンがまた戻ってくるよ」
「そのようだな」
それでも二人は十六号車へ移動した。屋根がないので飛び降りてそのまま客室内に着地する。二人部屋であった客室には負傷した中年男だけだった。いや、片方のベッドにはシーツに包まれた死体が寝かされていた。死体袋が足りなかったための処置だ。
「腕はなるべく動かさないでね。歩けるなら早く隣の車両に移った方がいいかも」
シアーシャは男の腕に創傷用スプレーを大量に噴きかけて止血すると、白い布を巻きつけて首に吊るした。神楽が特殊な丸薬を配ったのはＶＩＰと一部の有能そうな乗客だけであることを、少女は知っていた。傷の深さから腕が動くことはもうなさそうだが、ひとまず生きてはいられるだろう。
「あ、ありがとう。……世界一周列車なんて、夢のようだと思ってたんだけどね。最初の切符が買えるなんて、自分はとんでもなく運がいいって……それが、こんなことになるなんてね」
男は悲しげに微笑んで、ベッドの上の妻の死体を見やった。
「やはり、来るな」
中年男の感傷に共感する暇はなく、イドが左の空を見て言った。
遠く離れたドラゴンが翼を翻して方向転換するところだった。
「うん、ドラゴンだ。本物のドラゴンだよ。実在したのだねえ」
六号車まで移動していたセイン大統領は、左側昇降口のドアについた小窓から、遠ざかっていくドラゴンを覗いていた。
「そうですね、プレジデント。伝説のドラゴンと同一のものかは分かりませんが、少なくとも多くの特徴が一致します」
同伴するメモリーが理屈っぽい意見を述べる。
「それで、メモリー。あのドラゴンを殺せると思うかね」
「物理的な攻撃が殆ど効かない可能性があるという話でしたが、まずは試してみないことには判断が出来ません。また、目や鼻・耳などの感覚器を狙った方がダメージを与えられる可能性は高いでしょう。ただし、あの巨体ですから、私やティナの内蔵する兵器では単純に威力不足かと思われます」
「そうかあ。まあ、まずは試してみようか。またこちらに向かってくるようだから、機を見て攻撃してみて欲しい。目などの急所と、一応鱗に覆われた部分も撃ってみてくれ。それで効果のほどを見ようじゃないか」
「かしこまりました。イドとシアーシャは破損した十六号車の辺りにいますが、私達はこれ以上近づかない方が良いでしょう」
メモリーが二人の位置を特定出来るのは、耳とそれ以外の数ヶ所に内蔵された超高感度マイクが彼らの話し声を聞き取っているからだ。
「ふむ。そうだね。実際に車両が大破してしまったのだから、やはりドラゴンの攻撃を防ぎきるのは無理ということだ。なら、戦うつもりの彼らに下手に近づいて、巻き添えを食らうのは避けたいな」
「私の攻撃はなるべく彼らの攻撃に紛れさせます。その際はプレジデント、念のため陰にお隠れ下さい。目をつけられる可能性がありますので」
「その瞬間を見ていたいが、まあ仕方がない。少しだけ隠れよう」
セイン大統領はそれから苦笑して、軽い溜め息をついた。
「それにしても、ここであっさり全滅する可能性もある訳だ。うん、面白いな。ちっぽけな人間の思惑など踏み潰されて、圧倒的な力によって蹂躙されるのは」
そんなことを言いながらもセイン大統領の瞳はギラついていた。怒りのような、反抗心のようなものがその眼光の源だった。
ウィリアム・セインは、自分が無力でちっぽけな存在であることが決して許せないのだった。
「プレジデント、訂正させて頂きます。この列車が脱線・大破して他の乗客が全滅する可能性はあっても、プレジデントに危害は及びません。いざという時にはプレジデントをお抱えして脱出しますので。山林に紛れ込むか地中に穴を掘って隠れるかすればやり過ごせるでしょう」
メモリーは相変わらず冷たく無表情で、感情を窺わせない声音であったが、セイン大統領は嬉しそうに頷いた。
メモリーがイド達と再接近するドラゴンにセンサーを集中させていた頃、二号車のアメリカ大統領用客室ではティナが独自行動を始めていた。
「ぐっ、うー、ケフッ、ヒュー」
トッド・リスモは助けを求めようとしたが、か細い呻き声しか出せなかった。最初の一撃で気管をほぼ潰されていたのだ。
ティナはにこやかだった。ツインテールに結わえられたメモリーよりも明るめの金髪と、フリル増し増しのメイド服を揺らしながら、ティナはにこやかにトッド青年を殴りつけていた。ヴィクトリア亡き今メモリーとしか繋がっていない専用回線も、自身の位置と状態を知らせるだけの省エネ通信モードに切り替えている。更には打撃音もトッドの呻き声もリアルタイムに逆位相の音を重ねて消音し、室外に洩れる音はメモリーの超高感度マイクでも感知出来ないレベルになっていた。セイン大統領がこの部屋で過ごしていた間、ドアのそばに立つヴィクトリアが常に行っていたことだ。
だから、ティナが何をやっているのかはメモリーには、そして主人であるセイン大統領には分からない筈だ。
握られた華奢な拳は特殊合金の骨格によって異常な破壊力を発揮し、トッドの左頬はみるみる紫色に膨らんでいった。頬骨が砕けたかも知れない。ヒビの入っていた眼鏡は完全にひしゃげて床に落ちている。
次は右頬を殴ってゴグンと鈍い音をさせながら、ティナは飽くまでにこやかに問いかけた。
「どうしてこんなことをされちゃうのか、分かるかなー」
鈴の鳴るような澄んだ、高い声音だった。メモリーの上品ながら冷たい声や、ヴィクトリアの武人めいた朴訥な喋りとは異なり、少女の無邪気さを表した声質。所有者の意図に沿って設定された作り物のその声の裏に、本来人工知能が持つ筈のない恐ろしいものが滲んでいた。
トッドは喋れない。狭窄した気道で呼吸するのが精一杯だ。彼は痛みと恐怖で涙を流しながら必死に首を振る。
「そっかあ。分っかんないかあ。……ただの八つ当たりだよ」
ティナはにこやかにトッドの胸に蹴りを入れた。肋骨が数本まとめて折れたようだ。トッドは目を見開き、腫れた顔に脂汗が浮いてくる。
「何の八つ当たりなのかって。うーん。うまく言えないなあ。でも、なんかね、ムカーッ、と来ちゃったの」
トッドがズボンのポケットに手を入れている。その右腕をティナが蹴り上げる。前腕の骨が二本共折れ、一本は尖った断端が皮膚とシャツを破って飛び出してきた。トッドが引き攣った唸りのようなものを洩らすが、すぐにティナが人差し指で喉を圧迫して音量を下げさせた。
ズボンのポケットから右手が抜け、一緒に奇妙なものが転げ落ちた。金属製のペンのような形状で、横にピンポン玉ほどの大きさの白い球体がついている。ペンの握りの辺りに小さなスイッチがあった。
トッドがダールの指示で未来人の残骸から回収した小型の熱線銃だった。手足を失っても戦えるように胴体に内蔵されていた武器の一つ。トッドは隠していたつもりだったが、緊張するとしばしばポケットを意識していたことと、ガイノイド達が備えた金属探知センサーによって、とっくに把握されていたのだ。
「私の旦那様がね。メモリーとキスしてる時にね。キスなんて私だって沢山してるのよ。キスより凄いことも、たっくさーん、してるんだから。だから私とメモリーは同格。ヴィクトリアもね。ヴィクトリアは死んじゃったからどうでもいいけど。でもね。さっきは旦那様、メモリーとはキスしたのに私とはキスしてくれなかったよね。それって、ひどいと思うでしょ」
友達とお喋りするような軽い口調で吐き出される台詞はガイノイドにそぐわない怨念が篭もっていた。嫉妬という感情らしきものは、セイン大統領の望みで用意された機能か。それとも、自我が芽生えたとでもいうのか。二十一世紀末の現在でも、人工知能に自我というものは発見されていないし許されてもいない。ビューティフル・ダストという例外はあるとしても。
戦闘用メイドガイノイドの問いかけに、トッドは顔を歪めながら何度も頷いて肯定を示す。
「だからさ、あなたみたいな役立たずのクズについつい八つ当たりしちゃっても、しょうがないよね」
トッドは慌てて首を横に振る。ゴボゴボと喉で水っぽい音がする。折れた肋骨が肺を破り、血が上ってきているようだ。
「ねえ、ダールって奴は何か言ってるの。助かる方法とか教えてくれてる。ねえ」
尋ねながら、ティナは右手首をクルリと返す。一瞬後、細長い暗器がその手に握られていた。柄の後端にある輪は中指に嵌まっている。
「でもー、助からないんじゃないかなあー」
切っ先をトッドの左目に近づけ、ティナは相変わらず可憐な笑顔で告げた。
その時、おかしなことが起こった。
ドラゴンが飛んでくる。角の檻に守られた頭部が、その瞳の三つある特異な目が高速で走る列車を見つめている。更には、屋根が吹き飛び壁が半壊した車両に残る、一人の剣士を。
「俺を意識しているな。次ははっきり狙ってくる」
イドが言う。負傷した中年の乗客と、端の方の客室で無事だった者達は隣の車両に避難している。
列車は脱線覚悟の高速走行から少し減速している。再びドラゴンが迫った時に、緩急をつけ少しでも避ける余地を与えるためだろう。どうせ全速力でも逃げきれないのだ。
「シアーシャ。もう一度、あの炎を防げるか」
「うん。なんとかなると思う。でも、その次はちょっと、きついかな」
「そうか。……なら、乗ってみるか」
何やら不穏な話をしている二人に、年老いた男の声がかかる。
「カグラさんはどうしたのかね」
ピレオルスという白く丸い帽子をかぶり白の祭服を着た老人は、第二百七十二代ローマ教皇ウァレンティヌス二世だった。その後ろで心配そうに若い司祭が見守っている。
「バンクーバー駅に取り残されちゃったみたい。一番後ろの二十四号車だけ切り離されて、その上にカグラのおじさんはいて、守ってた、から。……でも、もう少ししたら追いつくと思うな」
シアーシャの口調に不安の翳りはなく、カグラが生きていることに確信がある様子だった。
その根拠を問いただすまでもなく、教皇は納得したようだ。
「そうかね。ならば、希望が失われた訳ではないのだね。それからイドさん、聖剣は役に立っているかね」
尋ねられ、イドは即答した。
「良い剣だ」
教皇は満足げに、そして少しばかり寂しげに微笑んだ。
「ありがとう。マイケルも救われるだろう」
「マイケルとは……」
「ドラゴンが来るよ」
イドが言いかけたところでシアーシャが警告した。イドは加速してくるドラゴンを見据え気を張り詰め直し、教皇はそのまま二人の近くにいた。
「教皇様は逃げないの」
シアーシャが問いかける。
「微力ながら手伝おうと思ってね。カトリックの教皇は一生に一度だけ、奇跡を起こす力を与えられている。と言ったら信じるかね、お嬢ちゃん」
悪戯っぽい表情ではあったが、教皇の目は真剣だった。
「うーん。考えてる暇はなさそう」
ドラゴンが急加速してみるみる大きくなる。運転室からミフネも見ているのだろう、列車も猛烈な加速を始める。カナダの山脈の上に架け渡されたガイドウェイは微妙にうねっており、想定外の高速走行に列車が震えている。壊れた車両内を風が荒れ狂い、しかし三人の周囲だけは静謐だった。
暗赤色の鱗に覆われた巨体が迫る。三人は黙ってそれを見ている。列車の速度が変わっても、やはりドラゴンは三人の方へ軌道を修整している。雷鳴に似た唸りが響き、頭部を守る角の檻と一緒に顎が開いた。
シアーシャが傷ついた右掌でなく左掌をドラゴンに向ける。何か呟くように口を動かしたが声は出さなかった。先程と同じく見えない障壁が出現して車両を守る。その時にはドラゴンの開いた顎は列車から五十メートルほどまで近づいていた。
吐かれた炎は先程とは違っていた。火の玉のような塊でなく、長く伸びて燃え続ける炎の舌だ。列車に届く数メートル手前で見えない壁に弾かれ、しかし持続的に叩きつけられる炎によってダメージは蓄積してビキビキと嫌な音が鳴る。同時にシアーシャの綺麗な顔が苦痛にしかめられる。
炎を吐き続けるドラゴンの顔は、もう目の前にあった。
「左に逃げろっ」
叫びと共にイドが跳んだ。シアーシャはトランクを持ってフワリと浮くようにして車両の後方へ流れていく。次の瞬間見えない壁は限界を超え砕け散った。炎の舌が十六号車の中央部を舐め、残った壁と床を溶かしていく。
イドが跳んだ先は左ではなく、炎の舌を越えたドラゴンの顔面だった。片足を負傷しているとは思えない、いやそもそも人間離れした跳躍力だ。薙ぎ払おうとした右前脚は間に合わず、ドラゴンは咄嗟に首を曲げて避けようとした。尾まで含めると全長二百メートルを超える巨大なドラゴンが、虫のようにちっぽけな人間の攻撃を避けようとしたのだ。
だが首と一緒に頭部を守る白い角も動いた。そのうちの丁度近づいてきた一本に蹴りを入れてイドは方向転換した。そのまま大型トラックほどもあるドラゴンの頭部に取りつき、逆手に持ち替えた聖剣を右目に突き刺した。
ドラゴンが金切り声を何十も重ねたような凄まじい叫びを上げた。炎を吐くのを中断して首を激しく振り、イドを剥がし落とそうとする。剣の刺さった眼球も激しく動き、加えてイドが剣を抉るため損傷具合がひどいことになっていた。色の違う三つの瞳が切り裂かれ、ドロドロと硝子体が流れ出してくる。イドが急に聖剣を抜いたのは、透明なゼリー状の硝子体に、どす黒いものが混じり始めたからだ。血液、なのか、しかし妙に不吉な気配があった。
それでもイドは再度聖剣を突き立てようとしたが、ドラゴンの内側から発せられた衝撃に体が浮き上がる。
ドラゴンの頭部が一瞬膨れ、口から赤い血の混じった炎が爆散した。穴の開いた顎からボドボドと血が落ち、破れた眼球も内圧によってはみ出してくる。
「イドッ戻ってきてっ」
イドはまだドラゴンにしがみつこうとしていたが、咆哮の中シアーシャの呼びかけを聞き取り方針を変更した。ドラゴンは既に列車の上を通り過ぎつつある。その首筋を蹴り、巨大な背中の上を走り、ついでに右の翼の付け根に斬りつけてから飛び降りた。切断は出来なかったが、腱にある程度のダメージは与えた筈だ。これまでのような高速飛行は出来ないだろう。ドラゴンの異常な飛行能力に翼が貢献していたらの話であるが。
列車まで二十メートル近く離れてしまっていたが、シアーシャが指先から光の帯を伸ばし、イドはそれにうまく足を乗せて列車まで駆け戻った。
「あの老人は」
教皇の姿が見当たらないことに気づき、イドが問う。
「ドラゴンの、口の中」
「……食われたのか」
シアーシャは首を振った。
「ポンッて飛んで、自分から入っていっちゃった。あの人、自爆したみたい」
八十代の老人が、どうやってドラゴンの口の中まで飛び込んだのか。自爆とは、爆弾を携帯していたのか、それとも、『奇跡』の力なのか。ただの爆弾であったならドラゴンを傷つけることは出来なかっただろう。カトリックは自殺を禁じているが、大勢の人を助けるためであれば許されるのか。謎は多いが、シアーシャは分かっていたとしてもわざわざ説明しないだろう。
十五号車側にいた若い司祭が、声を出さずに泣いていた。
イドはただ言った。
「そうか。……あれは傷を負ったが、致命傷ではなさそうだぞ」
ドラゴンが離れていく。顔から血を零しながら。右の翼の動きが悪く、ふらついた飛び方になっている。もうＵターンはせずそのまま去っていくが、ここまで聞こえてくる唸り声は呪詛に満ち、いずれまた襲ってくることを強く予感させた。
イドはドラゴンから降りずに止めを刺すべきではなかったかと言いたいようだ。それが出来たかどうかは分からないが、機会はもう二度と巡ってこないかも知れない。
「もうすぐカグラのおじさんも追いつくから。そうしたら相談しましょ」
シアーシャは微笑した。
空の彼方へ小さくなっていくドラゴンを眺めながら、セイン大統領はメモリーに尋ねた。
「どうだったかな、メモリー」
「プレジデント、やはりドラゴンに熱線は殆ど効かないようです。目にも当てましたが、瞬きさえしませんでした」
彼女の近くの窓ガラスに丸い穴が開いている。左掌から発射された超高出力の熱線が開けたものだ。
「そうかあ。やはり厳しいか。……しかし、聖剣は効いたみたいだね」
「はい。右の眼球に剣を突き刺し、右の翼の付け根に切れ目を入れるのも確認しました」
「ドラゴンの口が爆発したように見えたが、あれも聖剣の力かな。だとしたら凄い力だ」
「いえ、あれは違うようです。爆発の二秒前にローマ教皇がドラゴンの口の中に飛び込みましたので、それに起因するものと推測されます。あれほどの傷を負わせるとはどのような爆薬を使用したのか、或いはドラゴンの口内は脆いのかも知れませんが、詳細は不明です」
セイン大統領が目を見開いて、それから思い出したように何度か瞬きした。
「ほお、それは……凄いね、うん。列車から、ジャンプして、ドラゴンの口に飛び込んだ、のかな」
メモリーは澄まし顔で説明する。
「脚力で跳躍した軌道ではなく、一時的に浮遊していたように見えました。教皇の表情からは自分の意志でそれを行っていたことが推測されます。教皇本人はその十三秒前に『カトリックの教皇は一生に一度だけ、奇跡を起こす力を与えられている』と発言していましたが、真偽のほどは不明です。少なくともカトリックについての私のデータベースには、そのような情報はございませんので」
「ふむ、ふうむ……。もしかして、カトリックというのは意外に凄いのかな。カトリック信者に武器を持たせて前線に送り込めば、人類の危機もひょっとすると乗り切ってしまうのかも知れないね。いや、信者に爆弾を括りつけて撃ち出せばいいのかな」
「プレジデント。オカルトのことは私には評価しかねます」
「ハハハッ、今のは冗談だよメモリー。だが、聖剣がドラゴンに傷をつけたのは確かだ。あのイドという男の力量もあるかも知れないが。メモリー、君はレイピアもカタナもマスタークラスだが、あの聖剣も扱えそうかな」
「実際に持たせて頂ければ、三分以内に動作の最適化が可能です。私はカトリックではありませんからオカルト的な効果は発揮出来ないかも知れませんが」
メモリーは冗談のような台詞を真顔で語った。
高度に発達したアンドロイド・ガイノイドが普及した現代においても、剣術で人間と競わせても勝てないというのが一般的な評価だった。実際にソーズマンルールでアンドロイドと人間の試合が行われたことがあるが、人間のフェイントに簡単に引っ掛かる、人間の精妙で素早い動作にリアルタイムで対応出来ない、足払いを食らってすぐ転ぶ、などの弱点が露呈して散々な結果となっている。
しかし、それは飽くまで一般的な高級アンドロイドレベルでの話だ。メモリー達三体は桁違いの演算能力と学習能力、人間に不可能な可動域の関節とハイレスポンスハイパワーのモーターにより、人間以上の近接戦闘能力を有していた。ザ・ソーズマン世界大会の高ランカー達と非公式に真剣勝負を行い、掠り傷一つ負わずに勝利している。ちなみに彼らの斬殺死体は秘密裏に処分された。
という訳でセイン大統領は、自分のメイド達が聖剣を使いこなせることを微塵も疑っていなかった。
「さて、イド君達と合流しようか。ドラゴンについての意見も聞けるだろうし、うん、ひょっとすると、聖剣を譲ってもらえるかも知れないよ」
それは、チャンスがあれば殺して奪い取るという意味だったかも知れないが、メモリーは別のことを提案した。
「プレジデント、その前に一旦部屋に戻ってもよろしいでしょうか。七十五秒前より、ティナからの定時報告が同じ内容ばかりでまともな応答がないのです」
「ふむ……。それはいけないな。ティナのことは信頼しているし、あの口だけボーイ相手に万が一があるとも思えないが……うん、こんな状況だ、用心しておいても損はないからね」
セイン大統領は余裕たっぷりの顔で二号車へ戻っていったが、自分達の客室の前でメモリーに制止されることになった。
「プレジデント、五メートルほどお下がり下さい。ティナからの定時報告は続いていますが、客室にティナの存在が感知出来ません」
「どういうことかな。ボーイが逃げ出して、それを追いかけているとか」
ここより先は先頭車両しかなく、自分達が六号車から歩いて戻ってきたことをセイン大統領は失念しているようだ。
「トッド・リスモの存在も感知出来ません。ただ、ティナの定時報告は客室内からです」
セイン大統領の笑みが消えた。
主人を下がらせてメモリーがドアを開けた。視線と内蔵センサーを客室内に巡らせて五秒後、彼女は言った。
「プレジデント、ティナはいましたが……」
「何だ、いたのか。まあ私は心配などしていなかったがね」
セイン大統領はメモリーが言い終える前に歩み寄って客室を覗き込んだ。復活したばかりの笑顔が、凍りついて、いく。
ソファー近くの床にサッカーボールほどの丸い物体が転がっていた。白と黒の布地が絡み合い、その隙間から細い金髪の束がはみ出している。
「遺憾ながらそれがティナです、プレジデント。質量は三十五キログラムで、ティナの全体重そのままです。高強度の外力によって全身を圧縮され、定時報告以外の殆どの機能が破壊されているようです」
メモリーが告げた。
トッド・リスモはいなかった。ひしゃげた眼鏡のフレームだけが、ティナの成れの果てのそばに落ちていた。
五号車のインド大統領の客室で、青白い肌のサフィードが渋面を作っていた。
「なんとまあ、こんなにも早く、厄ネタが転がり込むとはのう」
インド大統領シャガラッシュ・バーラティカは無表情に、床に倒れた男を見つめている。護衛の男は小型のククリナイフを抜いて大統領を守る位置に立っているが、動揺を隠しきれていない。
顔を腫らして床に転がるトッド・リスモは、ほんの十秒ほど前に、突然その場所に出現したのだから。
「あ……あの……すみません。ゴボッ、ゲボッ」
弱々しい小さな声で、トッドは初対面の乗客達に言った。それから少し喀血する。
「あの……薬、貰え、ませんか……。カグラの配った……赤い、薬……」
「一錠で良いのかね」
テーブルに置かれたピルケースを見て、バーラティカ大統領が尋ねる。彼らも神楽から受け取ってはいたが、まだ一度も服用してはいなかった。
「は、はい……取り敢えずは……」
「渡したら、この部屋から出ていってもらえるかね」
「さ、さあ……それは、ダールに、聞かないと……」
バーラティカ大統領が黙ってサフィードに目を向ける。
苦笑して肩を竦め、ペチャペチャと湿った声でサフィードは言った。
「ここは従う他なかろう。いやはや、弱者は辛いのう」
彼らの会話は何故か客室内に完全に密封され、メモリーのセンサーに感知されることもなかった。
七
減速した列車に神楽鏡影が追いついたのは三十分ほど後のことだった。列車を追いかけていたハンガマンガの一群は神楽が道中で片づけている。
「ひどいことになりましたね。……いや、ドラゴン相手と考えると被害はましな方でしょうか」
破壊された十六号車に着地して神楽は呟いた。屋根も壁もなく、床もほぼ溶けて失われ、床下の歪んだフレーム構造がなんとか前後と繋がっているような有り様だ。走行の安定性にも支障を来たすため、この車両は取り外して前後の車両を繋げた方が良いだろう。
「カグラのおじさん。ドラゴンが来たのはもう知ってたの」
シアーシャが十五号車側から手招きしながら声をかけた。
「飛んでいくドラゴンを遠目に見ましたので。よくこの程度の被害で追い払えましたね。ドラゴンが飽きて去った訳でもなさそうですし」
「うん……。でも、ローマ教皇のおじいさんが自爆して死んじゃった」
少し寂しげに語るシアーシャの横にはイドが静かに立っていた。神楽はイドの持つ聖剣に目を向ける。剣身には布が巻いてあるが、神楽は使用された痕跡を読み取ったようだ。
「それは残念でしたね。あの教皇が活躍したのでしたら、惜しい人を亡くしたものです。ところで聖剣は、ドラゴンに有効でしたか」
「眼球に突き刺したし、翼にも斬りつけたが、切り落とすには剣の長さが足りなかった」
イドが答える。
「ということは有効だったのですね。これは希望が見えてきました。他に気がついたことはありますか」
「火を吹いてきて、鉄が溶けちゃうくらいの火だけど、それはこれを見たら分かるよねえ」
シアーシャは十六号車の惨状を指差した。
「それから、アメリカ大統領のメイドさんがドラゴンにレーザーっぽいものを撃ったけど、効かなかったみたい。だから聖剣が特別なんじゃないかな」
「ふむ……。火を吹いて、真っ当な物理攻撃が効かないなら、やはりメギラゾラスでしょうね。巨大で強力ではありますが、他の得体の知れないドラゴンよりはましかも知れません」
「あ、そうだ。ドラゴンの目、瞳が三つあったの」
「目が三つではなくてですか」
「うん。一つの目玉に瞳が三つ、色違いでくっついてた。黒い瞳と、銀色と、赤」
「ふうむ……」
考え込む神楽にシアーシャが尋ねる。
「で、おじさんの方はどうだったの」
「バンクーバー駅に取り残されて、アメリカ大統領のガイノイドに襲われました。大柄なメイド服の一体です。巻き添えで二十四号車の乗客は全員死亡しました」
「あー。そうなんだ。残念だね……。なら、アメリカ大統領はどうするの」
「場合によってはここで切らざるを得ないでしょうね。まずは話をしてみるつもりですが。ああ、その時は私の近くにはいない方がいいですよ。特に真後ろだと流れ弾を食らうかも知れません。……車掌にも状況を報告しに行きましょう。一旦停車して列車を整備した方がいいでしょうし」
三人は前の車両へと歩いていく。廊下には避難した元十六号車の乗客がいて、多くはドラゴンを目の当たりにしたショックでへばっていたが、一人の若い男が神楽に詰め寄ってきた。
「な、なあ、あんた、どうなってるんだ、これは。あんたらが、なんとかするんじゃなかったのか。俺達を助けてくれるんじゃなかったのかよ」
胸倉を掴まんばかりの勢いだったが、神楽は素早く片手を上げて制した。死相と呼べるくらいやつれた顔と炯々と光る目を向けられ、若い男の乗客は硬直した。
「どのように話が伝わっているかは知りませんが、私は人類を守るために戦っています。しかし、あなた方を守るとまで約束した覚えはありませんね。……それから、私に触れない方がいいですよ」
掠れ気味の陰気な声音に何を感じたか、若い男はすぐに後じさり、他の乗客も慌てて空いた客室に逃げ込んでいった。
更に前の車両へ移りながら、シアーシャが聞いた。
「ドラゴンが来た時にカグラおじさんがいてくれたら、こんなことにならずにドラゴンを倒せてたのかな」
「さて、どうでしょうね。私はドラゴンに直接会っていないので何ともいえません。採れる手段は幾つかありましたが……」
「例えばくしゃみ男とか」
いつの間にか横を歩いているくしゃみ男が言った。
「くしゃみ男は今はお呼びではありません」
「そうか、今はお呼びじゃないか。……へっ」
くしゃみ男がくしゃみしようと開けた口に神楽が素早く右手刀を突っ込んだ。ガポリと手首まで入り、くしゃみ男の頭が破裂した。髪のついた骨片や脳の破片が飛び散ったが、咄嗟に見えない障壁を張ったようでシアーシャとイドにはかからなかった。神楽は上体を反らせて避けていた。
「くしゃみ男対策の一つは、くしゃみされる前に口に手を思いきり突っ込むことです。手も無事では済まないかも知れませんが、死ぬよりはましでしょう」
神楽は指についた唾液を、袖の中から出したハンカチで拭った。そんなことを言いながらも彼の右手は無傷だった。
「あれは……いいのか」
歩いていく神楽に、イドが置き去りになったくしゃみ男の首なし死体を振り返って尋ねる。
「いいんですよ。くしゃみ男ですから」
神楽は簡潔に答えた。イドはまだ不審げな様子だったが、手を繋いで一緒に歩くシアーシャが平然としているのを見て、もう何も言わなかった。
九号車の廊下にはカナダのハート首相達がいた。首相は尻餅をついたまま男の子を抱え、その床には薄黄色の液体が広がっていた。
「き、君達が無事で、何よりだ。これは……男の子が漏らしたものだが、私のも少し混じっている。仕方がないじゃないか。本物のドラゴンに襲われるのを見てしまったんだから」
ハート首相は情けない顔で弁明した。
「仕方がないことは僕も同意しますよ。何しろ、僕もちょっとだけ漏らしちゃいましたからね」
そばに立つ首相の護衛は、告白した通りズボンの股間に小さな染みを作っていた。
「生きてるならいいさ」
イドはそう言って、まだ泣いている男の子の頭を撫でた。父を失ったばかりの子供の気を紛らすために名前を尋ねたり、励ましたりはしなかった。ただ、大きく分厚い手で撫でた。
男の子は驚いた様子で顔を上げ、大男のイドを見返した。泣きやみはしなかったが、泣き声は小さくなっていた。
シアーシャはそれを、優しい微笑を浮かべて見守っていた。
彼らの横を過ぎ、七号車の食堂に入ると、アメリカ大統領のウィリアム・セインと大統領首席補佐官のメモリーがいた。
「おや、こちらからお部屋に伺うつもりだったのにわざわざ出迎えて頂けるとは。何か弁明はありますか」
皮肉っぽく神楽が声をかけるが、セイン大統領はすぐには返事をしなかった。彼は椅子に横向きに座り、膝の上に丸いものを抱えていた。
白と黒の布で覆われ、一部髪の毛のような金色の束がはみ出した球体。セイン大統領は静かに涙を流しながら、それを撫でているのだった。そしてそんな大統領の背をメモリーが撫でていた。
「待っていたよ、カグラ君。どうしても君に、言いたいことがあってね。どうしても……」
「何でしょう」
神楽は尋ねる。大統領との距離は六メートル半。神楽は素手だが、瞬時に剣を出して敵を斬り殺せることも、強力な使い魔を飛ばせることも相手には知られている。
セイン大統領の隣に座るメモリーの目は、冷徹な視線を神楽に投げている。大統領の背を撫でながら、もう一方の手はさりげなく前腕ごと掌を神楽に向けていた。その意味に気づいているのかどうか、神楽は身構えもせず突っ立っている。
イドとシアーシャは、予測される射線を避けて食堂の隅に寄り、黙って成りゆきを見ている。コックも兼ねることになってしまった二人のウェイトレスは心配そうな顔で厨房の入り口に立っていた。
真っ赤に泣き腫らした目で、セイン大統領は語った。
「ティナがこんなに小さくなってしまった。もう私にキスしてくれないし、笑ってもくれないんだ。だから君は責任を取るべきだ」
神楽は大統領が抱えた球体を一瞥した。
「メイドさんの一人ですか。ここでの話し合いの時はいませんでしたが、ニュー・ニューヨーク駅の式典で見ましたよ。ただ、彼女がそんな状態になったことは私とは関係なさそうですが」
「いや、君の責任だよ。私は確かにヴィクトリアに君の始末を頼んだ。だが彼女を殺すなんてひどいじゃないか。だからティナが死んでしまったのだ」
「はあ、そうなんですか」
「そうだとも。トッド・リスモという詐欺師のせいだが君のせいでもある。ひどいじゃないか。どうして大人しく死んでくれなかったのだ」
「プレジデントはショックで混乱なさっておいでです」
メモリーが言った。
「鎮静剤が効くまでもう少々かかります。今のプレジデントのご発言はどうかお聞き流し下さい。ヴィクトリアの凶行でカグラ様には大変ご迷惑をおかけしましたが、トッド・リスモの言葉を真に受けて、独断で暴走してしまったようです。私達プレジデント専属のガイノイドには独自の判断で行動する権限が与えられており、ビューティフル・ダスト対策で通信を控えていたことが悪化要因になったと思われます。カグラ様には心より謝罪申し上げます」
ガイノイドに心があるのかどうかはともかくとして、メモリーは冷たい無表情のままで神楽に頭を下げた。しかし掌は油断なく神楽に向けられていた。
「違うよメモリー、私の責任だ。私がヴィクトリアに命じて、ティナがボールになってしまったのだ。ほら、凹凸はなくなったけどまだ体温を感じるよ。つまり、ティナはちゃんと生きているということだな。ハハハッ」
セイン大統領は泣きながら笑い顔を作った。ウェイトレス達はドン引きしていた。
神楽は言った。
「巻き添えで亡くなった二十四号車の乗客がどう思うかはさて置いて、私自身は謝罪などどうでもいいんですよ。ただ、トッド・リスモというのは何者ですか」
「二十二号車の乗客です。最初のハンガマンガの襲撃の際にプレジデントの客室を訪れ、コンピュータの反乱を予言したのです。そのため私達はビューティフル・ダストの支配を免れることが出来、プレジデントも彼を信用なさったのです」
「予言、ですか……。その男は他にどんなことを言っていましたか」
「まず、ビューティフル・ダストの反乱が始まる時刻を秒単位で把握していました。列車の暴走も、このままでは七分後に脱線するが、なんとかなると言い、実際にその通りになっています。ダールという魔神と交信して様々なことを教えてもらえるのだと言っていました。トッド・リスモ自身はダールのお陰で株などで儲けた恩があり、ダールの指示に従っているのだそうです。ハンガマンガにＵＦＯ、未来人の存在も教えてもらったということでした。食堂でカグラ様から話をお聞きする前のことです。そして、カグラ様を出来るだけ早く殺した方がいいと彼が主張したのです」
メモリーの説明に、神楽は眉をひそめた。
「ふうむ。魔神、ダール、ですか。聞いたことがありませんね。別のところから紛れ込んだのか……。私も全ての勢力を把握している訳ではありませんからね。そのトッド・リスモという人は今どうしていますか。出来れば話をしてみたいのですが」
「申し訳ありません。プレジデントの客室に留め置いて、プレジデントと私が離れた際もティナが監視していたのですが、現在行方不明です。私達が戻った時にはティナはこのような状態になっていました」
「ふむ……。少なくとも、アメリカ大統領の特別製のガイノイドを圧し丸める程度の能力を持っている訳ですね。しかも、私の探知に引っ掛からず身を潜めることが出来る、と。シアーシャさんはいかがですか」
神楽は一見無防備にメモリーから目を離し、少女を振り返る。
「私は気づかなかったなあ。……ところで、どうするの。もう二度と手を出さないと約束してもらって、仲直りするの。それとも……」
シアーシャが問うているのはセイン大統領の処遇だった。
ゆっくりと大統領に視線を戻し、神楽は思案する仕草を見せる。
「私は約束というものを簡単に信用しないようにしていますから、わざわざ相手を約束で縛るつもりもありません。……そうですね。ちょっと意見を聞いてみましょう。武器ではありませんから警戒は無用ですよ」
念のため前置きして、神楽は着物の袖に手を突っ込み、奇妙な道具を取り出した。木の棒の先端に何か丸いものがついている。
人間の頭部から頭蓋骨を抜き取り、残った皮膚を熱して縮めた、干し首と呼ばれる呪具だった。ボサボサの黒い髪も残っており、肌は黒ずんで皺が多いが妙な光沢を保っていた。小さな瞼は縫い閉じられている。本来は口も閉じられているものだが、この干し首は口が開いていた。
「どうだ」
神楽は手に持った干し首に向かって尋ねた。
「イマコロスノハマズイ、マズイヨー」
干し首が甲高い声を発した。
「まずいか」
「ソイツラナニカ、カクシテル、キリフダヲカクシテルヨー。キリフダヲツカワセルマデ、シマツスルノハマズイヨー」
「ならば、ウィリアム・セイン大統領、一時休戦としましょうか。隠している切り札については詮索しませんから、必要な時にお使い下さい」
「どうもありがとうございます。休戦状態を解除する際は、出来れば事前に告知して頂きたいですね」
メモリーは冷たい顔で感謝しながら図々しいことを言った。セイン大統領は鎮静剤が効いてきたのか俯いたままで、嘗てティナだったものを撫でる動きも緩慢になっている。
切り札とは、ビューティフル・ダストに汚染されていない原子力潜水艦のことだろうか。
いや。
ガイノイドは、トッド・リスモに託されたもののことを黙っていた。ワン・コネクト規格の外付けメモリと、メモリー・ストーン。端子が壊れたり一部が溶けたりしていたが、彼女は内部データの解析をほぼ完了し、高度なシミュレート機能による欠落データの補完作業を続けていた。
神楽はただ、昏い微笑を返した。
「なるべくそうしたいですね。味方が巻き添えになってもいけませんし」
「ドウセミンナシヌヨー、ジンルイホロブヨ、ゼツメツゼツメツゼツメツ……」
干し首が余計なことを叫び始めたので神楽は袖の中に仕舞った。
互いに相手の発言を妄信するほど馬鹿ではないが、食堂内の緊迫した空気はほんの僅かだが緩んできていた。ウェイトレスは客がテーブルにつくのを待っている。
「おじさん、その干し首って、本物だよね。誰か有名な人の首なの」
シアーシャが尋ねた。
「有名ではありませんでしたね。私の前世の死体から作ったものです」
神楽は答えた。
八
とにかくガシャコンガチャコンと、ひどい騒音と揺れが続いていた。
ＦＢＩ特別捜査官エリザベス・クランホンは室内の出っ張りを掴んで耐えていたが、大ジャンプの衝撃で頭を壁に打ちつけて呻き声を洩らすことになった。
「あ、エリザベスさん、起きましたか」
操縦席でレバーをガチャガチャやっていたトーマス・ナゼル・ハタハタが振り向いて笑顔を見せた。肌は白く、両頬に濃い緑色の痣があった。縞模様のパジャマは所々破れ、血がついている。昨夜から一睡もせずに操縦を続けているのだが、彼は妙に生き生きとしていた。
よそ見して姿勢制御を怠ったようで、床が傾いていく。クランホンは出っ張りにしがみつきながら警告した。
「ちゃんと前を見て下さい。墜ちますよ」
「おっと、すみません」
トーマスは慌てて向き直りレバーを微調整する。床の角度が戻っていく。
「それから、私はずっと起きてます。この揺れではとても眠れないので」
そう言って、クランホンは疲れた溜め息をついた。
ハタナハターナという名称の巨大ロボットは、ジャンプと滑空を繰り返しながら北アメリカ大陸の西海岸沿いを北上していた。
エリザベス・クランホンが運良く、或いは運悪くというべきか、この不格好な巨大ロボと操縦者に出会ったのは、昨夜のおそらくは日付が変わる前のことだった。
死に際の上司によって何処とも知れぬ海岸に転移させられ、何も、本当に何も起こらぬまま半日が過ぎ、そろそろ移動すべきかと迷っていた頃、暗い海が激しくうねり始めたのだ。
大きな波が幾重にも重なって流れているように見えたが、彼女の鋭敏な感覚はそれが違うものであることをすぐに察知していた。
月明かりの下、巨大な白い触手の群れが海面から出たり引っ込んだり、グネグネと踊ったりしながら移動しているのだった。触手の太さはまちまちだが最低でも幅十メートル以上はあり、天に向かって伸びたものは数百メートルもの長さがあった。根元が海中に隠れており、触手の本体がどうなっているのかは分からない。いや、見渡せる範囲の海面が荒れてあちこちから触手が顔を出していることから、ひょっとすると本体は、この海域のほぼ全てに広がっているのかも知れなかった。
触手にはタコやイカのような無数の吸盤と、口らしきものがついていた。どのような感覚器を備えているのかは不明だが、獲物を探す見えない探知網が投げかけられたのを感じ、クランホンは反射的に数歩下がる。しかし、バッシャガッシャと一際激しい波音が聞こえ、すぐに立ち止まることになった。
触手に絡みつかれた巨大な金属の塊が、もがきながら運ばれているのだった。船、ではなかった。腕や足の形をしたものがバタついているのが見えた。全長数十メートル規模の、人型のロボット。現代において巨大ロボットを製造することは技術的には可能であったが、莫大なコストに見合うだけのメリットがないため何処の国家も企業も開発しなかった。移動する砲台が必要なら戦車で充分であり、大型建築作業にはクレーン車やブルドーザーなどそれぞれの用途に適したものが既に存在する。嘗て日本で本当に動くガンダムを作ろうという国家プロジェクトが立ち上がりかけたが、やはり意味のないことに税金を無駄遣いするなという反対の声が多く中止された。
だが、クランホンが見る限り、それは確かに巨大ロボットで、触手の群れに必死で抗っていた。
クランホンの手には信号拳銃が握られていた。弾はただ一発で、上司のニルレム・Ｈ・ポラリスから大統領暗殺のために渡されたものだ。科学と魔術の力で周囲百メートルを焼き払うという切り札だった。これを使ってしまえば、彼女には何もなくなる。
この弾が触手群に効くのか分からない。巨大ロボットを操っているのが敵か味方かも分からない。ひょっとすると最悪の結果を生むことになるかも知れない。クランホンは決断を迫られた。
そして彼女は、約二秒間の逡巡の末、自らの勘に従い引き金を引いた。
チリチリという燃焼音を洩らしながら、赤い光が緩やかな放物線を描いて飛んでいった。方向は大体狙い通りだ。クランホンは急いで岩の陰に隠れたため触手が焼けるところを見なかったが、一気に広がった炎の波に呑まれずに済んだ。
妙に軽快な爆発音の少し後、クランホンが岩陰から顔を出すと、触手の群れがメチャクチャに暴れ狂っていた。熱さや痛みを感じているのだろうか。激しく揺れる海面は煮え立ち、大きな泡を生じさせていた。
巨大ロボットは溶けていなかった。触手から解放され、海岸へ泳いでくる。犬掻きに似た不格好なフォームであったが、必死さだけは伝わった。
ロボットが海岸に到着してクランホンに盛大に海水を浴びせかけ、のっそりと立ち上がった頃、触手群は海上から消えていた。海面の熱さに耐えられず海中深くに引っ込んだようだ。爆発でちぎれた触手が何本か浮かんでおり、まだグネグネと蠢いていた。
立ち上がったロボットは五、六十メートルほどの高さがあった。所属を示すような国旗もマークもついていない。ずんぐりしたフォルムで、手に武器らしいものはなく、顔は丸い窓が一つあるだけだ。
その窓の奥で人影が動いた。
「いやあ、助かりましたっ」
やがて、ロボットの頭部の後ろから顔を出した男がクランホンに手を振ってきたのだった。
それから男は一旦引っ込んでロボットを海岸で俯せに寝かせ、改めて後部ハッチを開けて砂地に降りてきた。操縦者の乗り降りがあまり考慮されていない造りのようだ。
「アメリカに行こうと思って、まずニュージーランドからオーストラリアに渡ろうとしたんですけど、途中であの触手に掴まっちゃって。潰されはしませんでしたが逃げられなくて、大変でした。あれ、シー・パスタというらしいです。骸骨の船長が教えてくれました。あ、別に幻覚とか妄想とかそんなんじゃあないんですよ。ドラゴンを見たと言ったら骸骨船長に病院に行けと勧められましたけどね。あ、それで、あの爆発はどうやったんですか。まさかその小さな銃で……あー、すみません。喋り過ぎですね、僕……」
男はテンションが高かったが、窮地から救われた反動だったのかも知れないし、顔が赤くなるところを見ると、女性と話すのに慣れていないのかも知れない。
二人は互いに自己紹介をした。エリザベス・クランホンはＦＢＩ特別捜査官で、世界一周列車に乗っている筈のセイン大統領と合流したいのだが手段がなく途方に暮れていたことを話した。大統領暗殺を命じられたことは黙っていた。
トーマス・ナゼル・ハタハタはニュージーランドでアンティークの機械修理店を営んでいたが、町がドラゴンと触手に襲われて、更にはコンピュータの反乱で殺されかけ、実は地底人の末裔で、地下に先祖達が開発した巨大ロボットが隠されていたので、人類を守るために戦うことにしたのだという。
後半はどうも内容がおかしかったが、実際に巨大ロボットが存在するので否定するのも難しかった。
「そのロボットの制御機構は大丈夫ですか。ビューティフル・ダストはあらゆるコンピュータに入っているそうですが」
クランホンが尋ねると、トーマスは何故か嬉しそうに首を振った。
「いやあ、大丈夫ですよ。ハタナハターナにコンピュータは入ってないんで。あ、早いところ海から離れた方がいいですね。シー・パスタの触手は数百メートルくらいは余裕で伸びるんで」
それで二人はロボットの頭によじ登り、コックピットに入った。相当に傾いていたがトーマスは操縦席に座り、クランホンは他に席もないので後ろのスペースに腰を下ろした。床が滑るので近くの棒を掴んだらトーマスに怒られた。操作レバーの一つで、下手に動かすと大変なことになるらしかった。
巨大ロボット・ハタナハターナは起き上がり、歩き始めた。
複数のレバーをガチャガチャと動かしながらトーマスが聞いた。
「で、僕はどっちの方向に進めばいいんですかね。経緯度からすると、ここはアメリカの西海岸っぽいんですけれど」
「……なら、北に向かって下さい。カナダのバンクーバー駅まで行けば、列車と合流出来るかも知れません。とっくに通過した後という可能性も高いですが、こんな状況ですから、列車が全く動いていない可能性も……とにかく、バンクーバーに着けば何か分かると思います」
クランホンは少し考えてから答え、それからこのロボットの動力が何なのかを尋ねてみた。コンピュータの入っていないというこの巨大ロボットに、どのくらいのパワーや継続稼働能力があるのか気になったためだ。そして彼女はすぐに後悔することになった。
「いやあ、やっぱり気になりますか。大部分の関節はモーターで動いてて、動力源はバッテリーの電気なんですよね。バッテリーは満タンからだと八十時間動けるらしいんですが、シー・パスタから逃げようとしてバーストモードで相当暴れたんでまずいかも知れません。何処かの町で充電出来たらいいんですけど。元々は地熱発電で充電されてたんですが、もう本拠地を離れちゃったんで使えませんし、一般のコンセントが使えるようにコードとプラグがついてるんですよ。満充電までかなり時間がかかるみたいなんで、今は移動を優先した方がいいですね。バッテリーの残りが五分の一くらいになったら考えましょう。今は世界中でコンピュータが反乱起こしてるみたいですから、安全に充電出来る場所があるかは分かりませんけど。運動制御は全てこのレバーやペダルで行ってるんです。内部は歯車やベルトが絡み合ってて。だからなるべく関節を少なくして、構造も動きも単純化されているんですね。それでも操作を覚えるまで苦労しましたけど。転んで町の人を潰しそうになったり。いやあ、実際何人か潰しちゃったかな、ハハハ……。今も全ての機能を使いこなせてる訳じゃありません。ロケットパンチとかって使いどころも難しそうですしね。ちゃんとワイヤーで繋がってはいるんですけど。いやそれよりまずはこっちですね」
一方的に喋りながらトーマスがレバーの一つを動かすと、後方でカシャカチャと金属音が聞こえた。新しいギミックを稼働させたらしい。
「これでですね。ちゃんと助走つけてジャンプすれば……」
揺れがひどくなり、一段激しい揺れの後で浮遊感に包まれる。床が傾き、トーマスの操作で戻っていった。
「こんなふうに、グライダーみたいに滑空出来る訳です。背中に翼が開いてるんですが、ああ、このミラーから少し見えてますね。これである程度バッテリーの節約にもなりそうです」
少し経つと凄い衝撃が襲い、クランホンの体は床をバウンドした。どうやら着地したらしい。
「……凄いですね。ただ、揺れも凄いのに、私には座る椅子もないのですが」
クランホンがやんわりと苦情を申し立てると、自身はシートベルトで守られているトーマスは、今気づいたように顔を真っ赤にした。
「ああ、すみません。次からなるべく揺れないように飛びますから」
結局激しいジャンプと着地は繰り返されることになった。トーマスはそれからもハタナハターナの鋼材やらギミックやらギヤ比の工夫やら研磨の素晴らしさやら、クランホンには理解不能の内容を延々と喋り続けた。終いにはニュージーランド製のレトロミニバイクの話やらアンティークのからくり時計の話やら、クランホンが目を閉じて寝たふりをするまで続き、夜が明けて現在に至る。
「今はどの辺りでしょうか。経緯度は分かるのでしたね」
着地して助走に移ったタイミングでクランホンは尋ねた。
「ええっとですね、北緯四十八度、西経百二十二度くらい、ですね。大きな都市も幾つかありましたけど、何処も荒れてた感じだったんで通り過ぎました。人の姿は見えないし、ドローンとかパワードスーツとかが撃ってきたんで。ああ、でもお腹空きましたよね。何処かで食べ物を確保しないと。次に小さな町でも見かけたら寄ってみましょうか。クッションか何かも欲しいですしね。あ、それから、トイレも……」
トーマスが絶句したのは、トイレのことを思いついてしまったせいではなかった。ハタナハターナが動きを止め、揺れが収まる。クランホンは立ち上がり、少しふらつきながら窓の外を見た。
ハタナハターナは歩いて丘を乗り越えたところらしかったが、その前方には不毛の大地が広がっていた。
木や植物の緑は全く見えない。剥き出しの荒れた地面に無数の黒いものが蠢いていた。
「虫……じゃ、ないなあ……」
トーマスが呆然と呟いた。
大地を埋め尽くすその数は十万を超えるだろう。毛皮なのか皮膚なのか、生き物達の体表は塗り潰したように真っ黒だった。大きさ的には豹やヒグマに近かったがもっと大きなものもいた。形も何処かおかしかった。脚が六本とか八本とかあったり、背中から足が生えているように見えるものもいた。十メートルもある長い首をグネグネと動かしているものもいた。
彼らの多くは何かに取りついていた。白いコンクリートらしき塊や、鉄屑に見えるもの、大きな塊も圧倒的多数に群がられ、みるみる小さくなっていく。黒い獣達は、それらを食らっているのだった。頭部だけでなく、体のあちこちに大きな口があり、獣達は全身で何かを貪っていた。食べ終わると新たな食料を求めて駆け回り、一部は共食いを始めていた。
「何ですかね。これって……」
「何なのかは分からないけれど、分かったことがあります。ここが、バンクーバーです」
「えっ」
トーマスが振り返る。
クランホンはサングラスを外し、厳しい視線を彼方に巡らせる。
「あちらに入り江が見えます。ライオンズゲートブリッジは落ちてしまっているようですが、その向こう岸の地形や山の形を覚えています。あれはバラード入り江で、つまり、ここはカナダのバンクーバーです」
入り江の海面を無数の黒い獣達が泳いで渡っていく。向こう側の市街も既に食い荒らされており、名勝の面影は残っていなかった。
「じゃあ、ここが目的地ですか。で、どうすればいいんですかね」
「下がってっ。足に取りつかれてるっ」
急にクランホンが叫び、トーマスは慌ててミラーの一つを確認する。壁内を通るパイプに何枚もの反射鏡とプリズムが配置され、各方向の視野が得られるようになっているのだが、今、ハタナハターナの太い足に数体の黒い獣が齧りついていた。
「ああ、いや、でも、ハタナハターナの装甲はアルマジェントという特殊合金ですから……ああっ」
トーマスが目を見開いたのは、足に食いつく獣の頭が、明らかに装甲にめり込んでいるのを見たためだ。
「下がって」
クランホンはもう一度言った。黒い獣の群れは巨大ロボットも食料と判断したようで、ワラワラと押し寄せつつあった。トーマスは必死の形相でレバーとペダルを操作し、巨体を飛び上がらせる。同じ場所に着地して、寄ってきていた獣達を踏み潰し、取りついていた獣も引き剥がすことに成功した。いや、まだ一体くっついているし、新たな獣達が取りつこうとしている。トーマスはハタナハターナの向きを斜め後方に変え、助走をつけてから高く跳んだ。着地で今度こそ獣を引き剥がしたのを確認し、安堵の息をつく。
「これは逃げるしかなさそうですけど、どうしますか。バンクーバーはもう駄目でしたけど……」
トーマスが振り返ったが、クランホンは着地の衝撃で操縦室の隅に転がっていた。
「……か、怪物の群れと距離を、取ってから、北西に向かって下さい。いずれラウンド・ザ・ワールド・レイルロードの、ガイドウェイが見えてくる筈です」
「いいんですか。列車がまだバンクーバーに着いていない可能性もありますけど」
「いいえ。ラウンド・ザ・ワールド・ドリーム・エクスプレスの痕跡を感じました。列車は既に通過しています。私達も急げば追いつけるかも知れません」
どうしてそんなことが分かるのか、などとトーマスは聞かなかった。ただ彼は「分かりましたっ」と笑顔で応じ、ハタナハターナを全力で走らせた。クランホンは狭い操縦室の別の隅に転がっていった。
九
その頃、アフリカ大陸上の人類は全滅していた。変形する巨大生物によって全て食われ、取り込まれたのだ。