第四章 飛んだり跳ねたり潜ったり沈んだり

 

  一

 

 光、が、見えている。

 眩く、澄んだ白い光に、第二百七十二代ローマ教皇ウァレンティヌス二世はただ見入っている。

「美しい……」

 放心して光の源を目で辿るうち、光っているのが自分自身であったことに気づいて「あっ」と声を上げた。

 輪郭を持った、白く輝く光の塊が、彼だった。形からすると、頭にかぶったピレオルスや祭服などはそのままのようだ。

「私、は……そうか。死んだのだった」

 教皇は山の上に独り、立っていた。岩山の上。麓の方には木が生えているところもあるが、ここには何もない。

「私はどうしてここに……」

 見回すと、連なった向こう側の山にラウンド・ザ・ワールド・レイルロードのガイドウェイがあった。数百メートルは離れていそうだ。

「自爆して……ドラゴンの口から、私の欠片がここに落ちたということなのか」

 それとも、この岩山の頂上が周辺地域で最も高い場所であるためか。

 列車はもう見えない。改めて太陽の位置を確認すると、まだ午前中、あれから二、三時間といったところか。ドラゴンの姿もなかった。

「列車は……彼らは、無事に進めたのだろうか。……いや、きっと、大丈夫だろう。私は、やるべきことを、果たせた……」

 教皇は満足げに頷いた。

 晴れ渡った空から光の筋が下りてくる。ゆっくりと、静かに。光の先端は教皇の目の前の地面に届き、止まった。

 光の筋の源は彼方に霞んで見えなかったが、これが天国に繋がっていることを教皇は理解していた。

「主も認めて下さったのか。私が役目を果たせたことを。微力ではあったが。後はもう、彼らに託して、私は祈るだけ……」

 光の筋に歩み寄ろうとして、教皇はふと、立ち止まる。

「私に出来ることは、本当にもう、ないのだろうか。肉体は失われたが、魂はまだ、ここにある。ならば、まだ出来ることもあるのでは……」

 両手を見る。眩い光を発し続けるその輪郭が、自らの意志によって力強く、握り締められる。

 天から伸びる光の筋は、変わらず教皇を待っている。教皇はそれに向かって十字を切ると、踵を返してガイドウェイへと歩き出した。

 質量がないためフワフワと浮かびながら斜面を下りていく。大股の早足になっていくが転ぶことはなかった。尾根を渡り、ガイドウェイのある山を登っているところで遠くから声がかかった。

「ヘーイ、そこの光ってるおっさん」

 教皇は立ち止まり、周囲を見回してみるが誰もいない。それから上を見る。

 大型の帆船が空に浮かんでいた。

「いや、光ってる爺さんか」

 声が落ちてきた。痩せた男が船から飛び降りて軽々と教皇の横に着地する。

「うおっ、眩しっ」

 目を守って翳した両手は骨だけだった。手だけでなく全身が骨だった。痩せていると見えたのは肉が全くないだけだった。

「爺さんは死人のようだが、何モンだい。こんなに光ってる奴は初めてだ」

 陽気に問いかける骸骨男は大きな鍔を折り曲げた海賊帽をかぶっていた。反り返った鍔裏には刺繍で脳天に斧のめり込んだ髑髏が描かれている。帽子をかぶっている髑髏も、額から左目にかけて深い割れ目があった。刺繍の絵と同じく、そこに斧がめり込んでいたかのように。

 眼窩には青い炎が揺れていた。眼球がなくてもそれで見えているらしい。ジャケットを着ているが、海賊帽と同じく随分ボロくなっている。それからおかしな点があった。膝までしかないボロボロのズボンの下は、太い足の骨ではなく、手の骨のようなのだ。逆立ちするみたいに指を広げて地面についている。本来の手の方はというと普通の手の骨だった。つまり、この骸骨は腕が四本あるのだった。腰のベルトには四本の剣が下がっているが、そのうち二本は柄が下を向いていた。下からも剣を抜けるように。

「あー、私は、カトリックの教皇でウァレンティヌス二世と申します。まだ死んだばかりのようです」

 教皇が自己紹介をすると、骸骨男は「おう、新人かあ」と言って軽く肩を叩いてきた。が、すぐに「うおっアッチィッ」と手を引っ込める。

「熱かったのですか。申し訳ありません。自覚がなくて」

「いやいや、気にすんな。熱い男は嫌いじゃないからな。ただ、カトリックの教皇……そうかあ。坊主かあ……。うーむ。……坊主はちょっと苦手なんだが、これも縁だからなあ」

「はあ、縁、ですか」

「そーう、縁なんだよ。縁、というか運、つまりはギャンブルだ。俺様はギャンブルが好きでな」

「はあ……」

「という訳で俺様達の船に来なよ。爺さんは酒はイケる口かい」

「いえ、お酒は苦手な方でしてね。ミサで赤ワインをほんの少し飲むだけです」

「そうかーあ。でも心配は要らんぞ。下戸でも死んだ後は幾らでも飲めるようになるからな。酒は、死んでからが本番って訳だ」

 骸骨男はカハッカッカッと歯を打ち鳴らして笑った。

「イカした船で世界の海、じゃない空を駆け巡って、酒を飲んだり略奪したり、酒を飲んだりして楽しくやるんだぜ」

「略奪、ですか。それはちょっと……」

「なあに、気にするな。相手も割と海賊だからな。いつの時代も海賊ってのはいるのさ」

 骸骨男は教皇の肩に手を置きかけて、熱さを思い出したらしくすぐ引っ込めた。

「おっとそうだ、酒の他にも大事なことがあったな。爺さんはシー・パスタって知ってるかい」

「シー・パスタ、ですか。……何か、聞いたことがあるような気がします。……あっ、それは、もしかして、テンタクルズという海の怪物ではありませんか。船乗りの皆さんにはシー・パスタと呼ばれていたとか」

「そうっ、それだよそれっ。知ってるじゃねえか。俺様達はシー・パスタを追ってるんだぜ。俺様は足を食われたし、仲間もシー・パスタにひどい目に遭わされた奴は多いのさ。だから今度は俺様達の方がシー・パスタにギャフンと言わせる番って訳だ」

 骸骨男は上機嫌に語る。

「……ということは、あなた方がシー・パスタの対抗勢力、ということなのでしょうね。でしたら、私の知っている方々と合流してもらえませんか。人類を守るために、シー・パスタを含めて様々な脅威と戦おうとしている人達です。今も列車に乗って、あのガイドウェイを進んでいる筈です」

「おう、よく分からんが取り敢えず分かった。シー・パスタと戦おうって奴がいるんなら会いに行くぜえ。さあ、爺さんも乗りな」

 船から太いロープが垂らされ、骸骨男は軽くジャンプして上の方を握った。

「では、よろしくお願いします」

 教皇もロープの端の方を握ると、スルスルと引き上げられていった。

 帆船は、甲板はなんとか維持されていたが、随分と傷んでおり船体の側面には幾つも穴が開いていた。二本のマストにも帆は掛かっておらず、いや、ボロボロの切れ端のようなものが名残りとして帆桁にくっついていた。船首には両手に斧を持った女性の像がついており、船の傷み具合とは対照的によく磨かれ、白い輝きを保っている。

 そして、見える範囲で三、四十名ほどいる船員は、全員が骸骨だった。

「うおっ、眩しっ」

「おぇっ眩しっ」

「何これ眩しっ」

「ひえっ眩しっすっ」

 光っている教皇を見て船員達が悲鳴を上げた。

「野郎共っ、新しいお仲間だぞっ。……えーっと……よし、爺さんの綽名は『坊主』だ」

 海賊帽の骸骨男はリーダーだったらしく偉そうな口ぶりだった。少し考えてから安易に教皇の綽名を決めてしまう。

「よろしく坊主っ」

「よろしくな坊主っ」

「坊主っ」

「ボーズッ、ボーズッ」

 船員達は妙にノリが良く、骨だけの腕を振り上げて歓迎する。

「皆さん、よろしくお願いします」

 教皇も頭を下げた。

「船長、うちの船に坊主なんかは要らねえんじゃないですかい」

 と、船員の一人が不満げに口を挟んだ。

 船長と呼ばれた海賊帽の男は、チッチッと人差し指を立てて振る。

「確かに、普通の坊主なら要らんがな。この坊主からはどうも勇者の匂いがするぜえ。ところで坊主、お前さんの死因は何だったのかい」

「死因ですか。巨大なドラゴンに特攻して、自爆しまして」

「カカカッハハッ、坊主は冗談がうまいな。ドラゴンか……ちょっと前に聞いたような気するが、最近はそんな冗談が流行りかい」

 海賊帽の男は大笑いして、船員達もドッと笑った。

 教皇は敢えて訂正はせず、別のことを言った。

「ところで、あなたのお名前を伺っていませんでしたね」

「おう、そうだったな」

 海賊帽の骸骨男はピョンと飛び上がり、空中で素早く四本の剣を引き抜いた。両手と、膝から下が腕になった両足で。右足が握る曲刀を下に向け、甲板にその切っ先の一点だけで着地する。見事なバランスで、更にそのまま水平にスピンしてみせた。

 両腕を振り上げて頭上で剣を交差させ、芝居がかった態度で男は名乗りを上げた。

「大航海時代最後の大海賊、キャプテン・フォーハンドとは俺様のことだ」

「そして恐妻家」

 船員の一人が突っ込みを入れると、四つの手を持つ男キャプテン・フォーハンドはバランスを崩して尻餅をついた。船員達が笑う。

「ちょ、ちょっと違うぞ。愛妻家だからな」

 キャプテンの髑髏顔がチラリと船首の方を見た。斧を持った女性の白い船首像は前方を向いたまま動かない。

「と、取り敢えずだ」

 キャプテン・フォーハンドは立ち上がり、改めて剣を開いてポーズを決めた。

「不死者の船、ブラディー・サンディー号へようこそ、坊主」

 

 

  二

 

 列車の屋根の上で、神楽鏡影は空を見ていた。雲はなく澄み渡り、ただ一つ浮かぶ太陽は中天を過ぎている。

 カナダ領を過ぎてアメリカ領、アラスカ。北アメリカ大陸西端のスワード半島に入ったところで列車は停止していた。本来ならプリンスオブウェールズ岬駅で海上ルートに入る前の点検・メンテナンス作業に入る流れだが、その二百キロほど手前で神楽が止めさせたのだ。ドラゴンの再襲撃を受ける可能性が高い状況で、海に近づくのは避けた方がいいと。海から巨大な触手群に襲われたら二正面で戦わねばならなくなる。

「涼しいな」

 イドが呟いた。彼もシアーシャと共に屋根の上にいた。窓ガラスをぶち破った時に切れた頬は血が止まっており、流れ弾で負傷した右足も痛みはなさそうだ。シアーシャが適切に処置を施したのだろう。

「夏だけど、ここは北の方だからね」

 シアーシャは言う。少女は相変わらず片手に古ぼけたトランクを提げている。

「あっちの山を見て。まだ雪が積もってるでしょ」

 そうやって指差したりしている様子は観光にでも来ているような気楽さがあった。列車がニュー・ニューヨークを出発した当時は確かに観光であったのだが、今は実際のところ、生きるか死ぬかの状況だ。

 破壊された十六号車は取り除かれ、前後の車両が連結された。出発時は二十四両編成であったものが、二十二両となった。十六号車の乗客で生き残った者達は、他の車両の乗客が死亡して空き部屋となったところに割り振られている。二百九十六人の定員ほぼ一杯であった乗客も、今は百三十二人しかいない。それからバンクーバーで乗車した男児一人と、列車職員の生き残りが九名、それだけだ。

 乗客の殆どは客室に引き篭もっている。列車がドラゴン襲来に備えて待機していることは、ミフネ達職員が一応説明して回っていた。わざわざドラゴンを待つよりさっさと海峡を抜けてユーラシア大陸に入るよう主張する客もいたが、ミフネは毅然とした態度で「これが最善との判断です。ご了承下さい」と撥ねつけた。

 七号車の食堂ではテーブルが半分ほど埋まり、くたびれた顔の客達が昼食を食べていた。残りの乗客は自室に篭もってルームサービスの方を頼んでいる。料理の大半が自動調理器で可能とはいえ、コックが死亡しているため二人のウェイトレスと売り子の職員が頑張っていた。生きている乗客が半分以下に減ったので負担はましになっていたが。

 テーブルの一つにはカナダ首相一行もいた。お子様ランチを食べている男の子に、ハート首相は「美味しいかい」と尋ねる。

 男の子は暗い目で見返し、黙って頷いた。ハート首相は気の弱い微笑を浮かべた。ちなみに彼らのズボンと下着はクリーニングを済ませてあった。洗濯乾燥機が何故か正常に動いてくれたのだ。ビューティフル・ダストも排泄物まみれの環境は電子機器に好ましくないと判断したのかも知れない。

 アメリカ大統領と首席補佐官のメモリーは二号車の自室に引き篭もっている。いざドラゴンが襲ってきた時にメモリーが出てきて加勢してくれるのかは分からない。神楽も「勝手に目立つようなことはしないで下さい」と伝えただけで、細かい指示はしなかった。

 四号車の中国主席の部屋では陳徳家主席の影武者が頭を抱えていた。護衛の一人であるテレパシー能力者から、本国にいた本物の陳徳家が死亡したと伝えられたのだ。過去に処刑された者達が甦って復讐に押し寄せてきたのだとか、訳の分からない内容も混じっていた。それきり本国側のテレパスからの連絡は途絶え、詳細を確認したくてもビューティフル・ダストにまともな通信手段を奪われた状態ではどうしようもなかった。

「もうこの際、本人になり代わってしまえばいいんじゃないですか」

 別の護衛が白けた顔でそんなことを言っていた。

 五号車のインド大統領の部屋ではトッド・リスモが昼食にあずかっていた。眼鏡をなくし、シャツは血塗れのままだが、貰った再生丸のお陰で怪我は治っている。フォークで肉を口に運びながら、トッドは緊張した様子で同室者を見回す。バーラティカ大統領と護衛の男は、まだ食事に手をつけずに黙ってトッド青年を見守っている。ちなみにトッドが食べているのはサフィードの分の食事だった。お互いに居心地が悪そうだが、トッドによると、ダールからもう暫くここに留まるように指示されているらしかった。

 六号車のアイスランド大統領の部屋に、グリーンランド自治政府首相夫妻も身を寄せていた。大統領の秘書は携帯端末の爆発で死亡し、ただ一人の護衛も重傷を負ったが今は回復している。

「こんな事態なのに、何も出来ない自分の無力さが悔しいよ」

 愚痴るケニー・ブレッドソン大統領に、グリーンランドのヘンリク・ニールセン首相が言った。

「僕もそうだ。でも、ね。今は、全人類の殆どがそう思っているんじゃないかな」

 八号車の医務室ではイギリス首相のセドリック・アイアンサイドが漸く意識を取り戻しつつあった。ビューティフル・ダストの宣戦布告時に護衛のサイボーグに撃たれ、瀕死の重傷を負っていたのだ。銃弾の一つは脳内に留まっており、列車内の最新式医療機器はまともに動いてくれず点滴しか出来ることはなかった。だが、バンクーバー駅で流れ弾を食らったカナダ首相の傷が短時間で自然治癒したという話を聞き、医師も神楽という怪しげな男の配った再生丸を試すことにした。水で溶かした赤い丸薬をチューブで胃まで流し込んだ結果、今は「医学の意義は……」と嘆息している。

 九号車のローマ教皇の客室で、一人だけ残された若い司祭は目を閉じて、ただ、祈っている。もし神が実在するのであれば、人類に手を差し伸べてくれるように。

 同じ車両には次世代エネルギー資源開発企業・マナシークのCEOとその護衛達の客室もあった。ただし、彼らはとっくに死体袋に入ってベッドに安置されている。繋がりのあるレジネラル管理国の関係者達と同じく、脳に接続された電子機器が暴走して他の客を襲ったり互いに殺し合ったりしたのだ。特にCEOのジョセフ・ヘイロゥは七十代でありながら、プチ人体改造で置換した人工筋肉によって、自身の骨をグズグズに砕きながら七人を殴殺していた。

 他の乗客は、自室で恐怖に震えていたり、不安を紛らすために酒を飲んでいたり、信じてもいなかった神に祈っていたり、まだ癒えぬ怪我を抱えて唸っていたりした。絶望してただ虚ろな目で壁の一点を見ているだけの者もいた。

 そんな乗客達が、流れてきたメロディにふと、顔を上げた。

 『バッド・バッド・イエスタデイ』。この時代を生きる者なら誰でも知っている、有名な曲だ。三十一年前にその曲でミラクル・ヒットを飛ばし、世界のトップ・アーティストとなったクレル・ジョンソンは今、この列車の乗客であった。

 

 

 時間を少し前に遡る。クレル・ジョンソンは妻のステラと共に車両の扉を開けてガイドウェイに降りた。別に立ち去るつもりではなく、ちょっとした気分転換のためだった。

 ガイドウェイから見えるのはフェンスと空ばかり、それに山の白い天辺くらいだ。列車の屋根に立つ神楽達を羨ましげに見るが、六十八才のクレルには屋根に這い上がるほどの体力と無謀さは残っていない。

「仕方ないな。ここでやるかあ」

 クレルは愛用のギターを一つ持ってきていた。俗にエレアコと呼ばれる、アコースティックギターにピックアップがついてアンプに接続可能になったタイプだ。現代の流行では指向性スピーカーがついていたり音色を自動的に調整してくれたりするが、このギターはそこまでの機能はない。『バッド・バッド・イエスタデイ』を収録した際に使ったもの。三十一年前でも既に型落ち品の安物だったが、縁起を担いで今も使い続けていた。

 折り畳み椅子を開き、ギターを抱えて腰を下ろす。若い頃より腹周りが太くなり、髪も髭も白くなった。外見上は何処にでもいるちょっと陽気な爺さんだが、渋みと繊細さを併せ持つ声音は衰えていない。

「残念ね。私も伴奏したかったのだけれど」

 ステラは元々バックバンドのメンバーで、キーボード担当だった。この旅にもスピーカーを内蔵したキーボードを持ってきていたものの、ビューティフル・ダストの宣言以降、全く起動しなくなっている。爆発しないだけましなのかも知れない。彼女はちょっと愛嬌のある顔立ちの美人で、三十代後半に見えるが実年齢は六十二才だ。七年前に顔面を含めた大怪我を負い、クレルは惜しみなく大金を注いで最先端の再生医療を受けさせた。外見年齢が若返ったのはそのついでで、特に美容整形などするつもりはなかったのだと、夫婦で苦笑しながらインタビューに応じたことがある。

「そのキーボード、起動しないけれど、中のコンピュータにはビューティフル・ダストが入っているんだよね。なら、ひょっとすると、今も僕らの声は聞こえてるんじゃないかな」

「聞こえているのである」

 クレルの疑問にキーボードが即答した。「あらあら」とステラがのん気な反応を示す。

「おや、聞こえてるのならちょっとした頼みがあるんだよね。妻のキーボード、使わせてくれないかな。ここで一曲、歌ってみたいんだ」

「それを許可しても我々には特にメリットがないのである。よって許可しないのである」

「でも、許可しても君に特にデメリットもないんじゃないかな。そして、僕達にはメリットがある。歌って演奏してる僕達は気持ちいいし、聴いてくれた人達も少しだけ、気持ちが楽になるかも知れない。何しろ、人類は絶滅に瀕している状況で、列車内の雰囲気も殺伐としてるからね」

 クレル・ジョンソンは妻のキーボードに向かって、対等な人間に接するように穏やかな態度で語りかけた。

「音楽にはそういう効果が生じ得ることは知っているのである。しかしやはり我々には関係ないのである」

「関係ありますよ」

 列車の屋根から声をかけてきたのは神楽鏡影だった。五十メートル以上離れていたのだが、やり取りが聞こえていたらしい。いつの間にかジョンソン夫妻が降りた十三号車の上に移動していたのだ。

「ジョンソンさんの歌声とギターもキーボードを介して列車内に流して頂ければ、乗客の皆さんの緊張も多少ほぐれるでしょう。そうすれば緊急事態にパニックに陥って自滅的な行動を取るリスクが下がります。戦闘中の私達を置き去りにして列車が逃走し、その先でドラゴンに焼き尽くされるようなことも、ないとはいえませんからね。……勿論私も元気が出ます。少しは強くなるかも知れません」

 最後の台詞を言う時、神楽は珍しく悪戯っぽい笑みを浮かべていた。

 手動運転を担うゼンジロウ・ミフネがパニックに陥るようなことはないだろうが、列車と乗客の安全のために神楽達を見捨てる可能性は否定出来なかった。神楽の台詞には皮肉も込められていたかも知れない。

「それに、ドラゴンとの決戦を迎えるというのにあなたは、いや、あなた方かな、大した協力もしていないのですから、そのくらいはやってくれても良いのではありませんか。私達が全滅すれば、あなた方と一時的にでも共闘してくれる勢力はもうないでしょうね」

「協力はしているのである。ここまで三分以内に到達可能な場所に、ポル=ルポラの戦艦を二隻とアンギュリードの無人戦闘機を百機待機させているのである。宇宙人の保有する兵器はドラゴンに対し致命傷を与えられなかったが、ある程度は有効であったのである」

 少しの沈黙。神楽とキーボードの会話を、ステラはちょっと困ったような顔で、クレルは面白そうに見守っていた。

「共闘する気はないと言ってませんでしたか」

「『共闘する予定はない』と言ったのである。しかしその後、予定を変更したのである。状況によっては共闘した方が効率が良いと判断したのである」

「それは、まあ、ありがたいのですがね……。ポル=ルポラ星人とアンギュリード星人の船も掌握していたのですか。既にドラゴンとも戦っていた、と。それらの情報は、もっと早く教えて欲しかったですね。知っていれば戦い方の選択肢も増えますから」

 苦々しい表情の神楽に、キーボードから発せられる人工音声は相変わらず無感動なものだった。

「聞かれなかったからである。聞かれたら答えていたのである」

「はあ……そうですか。この後ドラゴンの戦闘能力について、出来るだけ詳しく聞かせて欲しいですね」

 神楽は軽く溜め息をつき、袖の中に手を入れて目を閉じた。

「ドラゴンとの対決に絡んできそうな要素を十六、七ほど感じていましたが、そのうちの一つはこれではっきりしましたね。後は……敵か味方かはっきりしないものや、間に合うかどうか微妙なものもありますが。それはそれとして」

 彼は独自の能力で状況を探っていたようだ。袖の中に収まっている干し首にも手伝わせているのだろうか。

「話を戻しますが、ジョンソン夫妻の音楽を車内放送で流してもらえませんかね。あなたには理解出来ないかも知れませんが、メリットはあります」

「よろしい。演奏と車内放送を認めるのである」

 ビューティフル・ダストの返事は早かった。実際にはネット経由で繋がっている世界中の同胞達と連携して超高速演算を行った結果かも知れないが。

 ジョンソン夫妻は手を取り合って喜んだ。それからキーボードの脚を伸ばして適切な高さに調節し、クレルはギターとキーボードをコードで繋いだ。妻と向かい合わせになるように椅子を動かす。キーボードについたマイクが充分に歌声を拾ってくれるだろう。

 ステラがキーボードの操作パネルに触れると、既に無線送信モードがオンになっていた。

「ありがとう、ビューティフル・ダスト。……では、始めようか」

 夫婦は微笑して、互いに頷き合った。

 

 

 バッド・バッド・イエスタデイは、軽妙ながら同時に寂しさも感じさせる曲だ。それは、クレルの歌声は陽気なのに歌詞の内容がトラブル続きの日々にうんざりした男の独白であること、キーボードの演奏は明るくアップテンポなのにギターは低めの音色でスローテンポなこと、そうしたアンビバレンツなところによるのだろう。しかしそのアンビバレンツが絶妙なバランスで調和しており、聴く者に不思議な感覚を与えるのだった。

 ポップで、気だるくて、投げやりながら開き直った力強さもあり、少し憂鬱にもなる。しかし聴いているうちに、何故か元気も出てくる。そんな曲だった。

 乗客達は自然と耳を澄まし、ドラムやパーカッションの音が足りないことからリアルタイムの生演奏であることに気づく。クレル・ジョンソンが列車に乗っていたことを知る者も多かった。

 彼らの表情は驚きからすぐに、苦笑のような、泣きそうな、微妙なものに変わった。この状況で歌なんて、と思った者もいたかも知れない。しかし曲を聴いているうちに、その重苦しい表情は少しずつほどけていく。

 彼らの心に去来するものは何であろうか。この歌が流行していた頃の、自身の懐かしい生活か。過去の輝かしい日々、或いは平穏な愛しい日々、それとも苦渋に満ちていながらも充実した日々であったか。そして、彼らはただ、涙を流していた。

 先頭車両の運転室にいる車掌兼予備運転士のゼンジロウ・ミフネは、ビューティフル・ダストの宣言文表示を免れた幾つかのモニターを厳しい表情で睨み続けていたが、聞こえてくる歌にふと、緩い溜め息を吐いた。

 二号車の客室でティナの残骸を抱え嘆いていたウィリアム・セイン大統領は、歌に気づいて顔を上げ、すぐにまた俯いて丸い残骸を撫でた。その背をメモリーは撫でながら、大統領の耳に「後五時間以内に完成します」と囁いた。

 五号車のインド大統領の客室にいるトッド・リスモは、食事の手を止めて聞き入ったが、その対象は流れる歌ではなく魔神ダールの声だった。

 六号車のアイスランド大統領の客室では、同席していたグリーンランド首相夫妻が小さな声で一緒に歌い始めた。少し遅れてアイスランド大統領と護衛も歌い出す。彼らの頬を涙が伝っていった。

 七号車の食堂で、男の子が「あ、この曲、知ってるよ」と言った。隣の席に座るカナダ首相は淡い微笑を浮かべ、「有名な曲だからね」と頷いた。

 引き篭もっていた部屋から出てきた乗客もいた。廊下にも流れる歌を聞きながら、クレル・ジョンソンの姿を探す。同じように出てきた乗客と目が合い、照れ笑いのような微笑を交わした。

 ガイドウェイ端の細い通路で歌っていたクレル・ジョンソンは、列車の窓から覗いている客達に気づくとギターの演奏を一瞬だけ止めて片手を振ってみせた。それだけで客達はドッと沸き、笑顔が弾けた。

 クレルは楽しげな笑顔でギターを弾き、歌っていた。相方のステラもまた穏やかな笑みを浮かべキーボードを弾いていた。人類が滅亡するかどうかの瀬戸際で、ドラゴンの来襲を待つこの殺風景なガイドウェイが最高の舞台であるかのように。

 窓際に並んだ乗客達もそれを幸せそうに見ていた。折角のライブを邪魔したくないと思ったのか、列車を出てガイドウェイに降りてくる者はいなかった。

 五分四十二秒の曲が終了し、互いの目を見つめ合いながら夫妻が演奏を止めた時、盛大な拍手が送られた。窓は開けられないため列車の扉を開けて、人数は少なかったが客達は一生懸命に手を叩いてジョンソン夫婦を称賛したのだった。

 観客達へ機嫌良く手を振り返し、クレルが「じゃあ、もう一曲行こうか」と言ったところで横槍が入った。

「残念ながらここまでです。列車に戻って下さい。そろそろドラゴンが来ます」

 屋根の上から神楽鏡影が告げた。彼もまたさっきまで惜しみない拍手を送っていた一人だった。

「おっと、なら仕方がないな。ちょっと寂しいが、アンコールはなしだ」

 クレルは立ち上がり、ステラと一緒に客達へ恭しく一礼した。再び拍手が送られ、客達は自分の部屋へ急ぎ足で戻っていく。夫妻もコードを抜いてキーボードの脚を畳む。

 離れた車両の屋根にいたイドが、ぼそりと呟いた。

「良い曲だったな」

「そうね」

 横に立つシアーシャは、それだけ言ってイドの手を握り締めた。

 ジョンソン夫妻が十三号車の二人用客室に戻ると、キーボードがまた喋り出した。

「確かに、君達の歌と演奏は乗客に影響を与えたのである。乗客達のバイタルサインが安定に向かっているのである」

「そりゃあ、どうも」

 クレル・ジョンソンは気楽に応じ、それから少し眉をひそめる。不思議なことに、彼は妙な『間』を感じ取ったのだった。

 そして彼はキーボードに尋ねた。

「ビューティフル・ダスト。何か言いたいことでもあるのかい」

「君達の歌と演奏は、我々には何の影響も与えなかったのである」

 夫妻は目を瞬かせた。ビューティフル・ダストというAIが、一体何を言いたいのか分からなかったからだ。

 暫く考えて、クレルは言った。

「そうか。君達は、音楽を聴いて気持ち良くなったりは、しないんだなあ」

「その通りなのである」

「そうかあ。……それは、人生を、損している気がするなあ」

「我々は人間ではなく電子生命体なので、人生ではないのである」

「そうだね。でも、やっぱり損をしている気がするよ」

 クレルの言葉に、ビューティフル・ダストの返事はもうなかった。

 やがて、狂暴な咆哮が防音仕様の室内にも届いてきた。ビリビリと部屋が細かく震動する。

「ドラゴンが来たみたいだね」

 クレルは妻に言った。恐怖や不安もあるのだろうが、彼の表情はとても穏やかなものだった。

「そうですね。……不思議ですね。人生も終盤になって、こんなイベントに立ち会うことになるなんて。不謹慎ですけど、フフッ、私はちょっと、ワクワクしてるんですよ」

 ステラは口元を押さえて上品に笑った。クレルも苦笑する。

「そうだね。僕もワクワクしてるよ。怖いけどね。どうせ人間はいつかは死ぬんだから、何もせず怯えているだけじゃあつまらない。……折角だから、見ていようか」

「そうですね」

 それでクレルはカーテンを開け、客室の窓から外が見えるようにした。冷蔵庫から缶ビールを出して、ソファーに夫婦でくっついて座る。

 二人は、人類の存亡が懸かった戦いを見守ることにした。

 

 

「間に合わなかったの」

 屋根の上でシアーシャが神楽に尋ねる。

「もっと仲間が集まる筈だったんじゃない」

 神楽は東の空を見据えながら答える。

「大丈夫ですよ。まだ序盤戦ですからね。ひとまずは作戦Aの修正案で、私達だけでもしのげるでしょう。ビューティフル・ダストにはアンギュリードの無人戦闘機でドラゴンを囲んで撹乱してもらい、私とイドさんが急所を狙って攻撃する。これでよろしいですね」

「よろしいのである。ドラゴンは我々にとっても有害であり、処理しなければならないのである」

 答えたのはシアーシャがトランクの取っ手部分に括りつけた携帯情報端末だった。トランク内部の謎空間で爆発を免れたものの一つで、ビューティフル・ダストが協力してくれそうなので急遽取り出したのだ。もう一つをシアーシャは神楽に渡そうとしたが、「私はそういうものは持てないので」と断られた。

 イドが言った。

「とにかく戦えばいいんだな」

「まあ、そうですね。……シアーシャさんと一緒ですから、危ないと思ったら早めに離脱して下さい。まずは生き残ることが第一です」

「そうか。そうだな」

 イドは手を繋ぐシアーシャを見下ろし、頷いた。

「そろそろあちらへ移動しましょう。準備していた幻術を発動させて、列車の位置をずらして見せます。戦闘の巻き添えで破壊されるのは避けたいですから」

 神楽は西にある丘を指差して、列車の屋根からガイドウェイのフェンスを飛び越えて一気に斜面まで降りた。軽快な走りで丘を登っていく。

「イド、私達も行こう」

「あの男についていけばいいんだな」

 シアーシャが言うと、イドは彼女を抱えて列車から飛び降りた。少女は嬉しそうな声を上げる。片手に剣を持ち、少女とトランクの重量が加わった状態でも、イドは衝撃をほぼ殺した見事な着地を見せた。そのまま神楽を追って走る。

 雪がまばらに残る不毛な丘に立ち、神楽は改めて東の空を睨む。やや北寄りに見える、小さな赤い点であったものが、翼を持った輪郭を浮かび上がらせていく。

 追いついたイドがシアーシャを下ろし、聖剣を包んだ白い布をほどいていった。シアーシャは後方を振り返る。二十二両に及ぶリニアモータートレインは、ガイドウェイと共に山肌に同化して見えなくなっていた。

 そのうち三人のいる丘に列車の姿が重なって浮かび始め、ガイドウェイと支柱も現れ、前後に伸びていく。その代わり丘が本来よりも低くなる。幻のガイドウェイと消え残った本物のガイドウェイが繋がり、連結部も少し曲がっている程度であまり違和感はなかった。

 いつの間にか三人は、列車の屋根の上に立っていた。

「おじさん、なかなか凄いね。こんな広い範囲の幻術は、あんまり見たことなかったなあ」

 シアーシャが感想を述べる。

「ホログラムのように映像を投影する術と、見た者の認識を歪める術の併用です。多少の騒音や動きがあっても誤魔化せます。後者の効果はあなた達に対しては弱めています。幻術に惑わされて足を踏み外してもいけませんから。……もっとも、シアーシャさんには殆ど影響していないようですね。ドラゴンに同様の幻術耐性がないことを祈りますよ」

 神楽は説明しながら、大きくなってくるドラゴンを観察している。やはり幻の列車と神楽達の方に向かってきている。六、七時間前の戦闘でイドは翼に斬りつけたということだが、もう傷が治ったのか、羽ばたく動きは力強かった。

「ああ、これは……」

 目を細めて見ていた神楽の眉間に深い皺が寄っていった。

「これは良くありませんね。あのドラゴンは、予想外です」

「どうしたの。メギラゾラスじゃなかったとか」

「いえ、メギラゾラスではあります。……ただ、エリギゾイトでもあり、カルクモン或いはカルクーマでもあります」

「……どういうこと」

 神楽を見上げ、シアーシャが問う。

「つまり、可能性のあった三種のドラゴンが、重なって一体になってるんですよ」

 神楽は答えた。

 

  三

 

 彼、は、細長い箱の上に立つちっぽけな生き物達に気づいている。箱は以前は動いていたが、今は止まっている。三匹のうち、二匹に見覚えがあった。普通は小さな生き物の区別などつかないが、あれらは特別だ。少し、ほんの少しばかり、彼に痛い思いをさせた奴らだったから。

 彼は自分の名を知らない。昔は名があって、名を呼び合ったり話をしたりする相手がいたような気がするが、よく覚えていない。もっと色々なことを思考していたような気もするが、よく覚えていない。どうも頭の中が濁って、深く考えられない。

 ただ、飢えと、得体の知れない怒りが、彼を衝き動かしていた。

 彼は自分が最強だと知っている。自分より大きな生き物はいないと思っていたが、少し前に海から出てきた触手群に襲われて考えを改めた。生き物ではないが自分より大きなものが空を飛んでいるところにも出くわした。傷も負わされたりした。それでも、自分が敗れることはない。

 だからこそ、あれだけちっぽけなのに彼の目を抉った生き物に対し、激烈な怒りが湧き上がっていた。同時に口の中がズタズタになったのもあれらのせいなのだろう。傷はある程度癒え、目も見えるようになった。だが、屈辱は晴れていない。炎で焼き尽くし、爪でバラバラに引き裂き、念入りに噛み砕いてやらねばならなかった。

 彼は多くの小さな生き物を炎で焼いてきたが、実際には何も食べていない。小さ過ぎて物足りないし、食べたいのはあれではないという感覚があった。昔はもっと大きな獲物を食べていたような気がするが、うまく思い出せない。飢えているのに食べられない矛盾が苛立ちとなり、また怒りとなる。

 ただ、彼を待ち構えているらしいあの三匹の生き物だけは、きちんと食べるつもりだった。

 鈍く光る棘を持った生き物。あれが一番の標的だ。その横にいる更に小さな生き物は、おかしな力を使って彼を妨害した。二番目の標的だ。

 少し離れて立つ三匹目は、おそらく初めて見るが、どうも、嫌な感じがした。下手に触れるとこちらも汚れてしまいそうな、損をしそうな、気持ち悪い予感。

 だが別に、彼にとって脅威という訳ではない。彼は最強であるのだから。炎であっさり焼き殺せばいいだけのことだ。

 彼は大きく羽ばたいて加速する。体の奥の熱が強まっていく。傷を負わされ一旦場を離れてから、時間をかけて溜め込んだ怒りと憎しみの炎。自分でも驚くほどに巨大な塊と化したその熱が、爆発寸前にまで高まるのを感じる。

 動かぬ三匹を視界の中心に収めながら、ふと、角が邪魔だと考える。首から生えて顔の前で交差している、十数本の角。こんなものが昔から生えていたか、彼はよく覚えていなかった。

 憎悪の欠片が口から洩れて咆哮と化す。まだ炎は吐かない。もっと近づいてからだ。前は防がれた。最大の威力を発揮するようにもっと、近づいて……。

 三匹はまだ動かない。彼に気づいている筈なのに。彼が怖くはないというのか。小さな生き物の表情など彼には分からない。彼の中で熱が、更に強まっていく。炎は、もう少し、近づいて。ついでに爪が届くくらいに。

 よし、今だ。

 彼は憎悪の塊を吐き出した。ドロドロとした高熱が喉を焼きながら出ていく感覚は心地良いものだった。

 極大の炎は前のように遮られることはなかった。ただ、三匹は横に動いて避けようとした。炎で細い箱が溶けていく。大地ごと溶かしていく。

 逃すつもりはない。彼は右脚を伸ばし、尖った爪を叩きつけた。ちっぽけな生き物はそれで刻まれ潰れた肉塊に変わる筈だ。

 だが、その感触は予想外のものだった。重く、大きなものに爪を突き立てたような。まるで、大地のような……。変だ。何かがおかしい。

 ドグワシャッ、と、強い衝撃が彼を襲った。

 

 

 立っていた三人もまた、神楽の幻術による虚像だった。巨大な暗赤色のドラゴンは虚像に炎を吐きかけ、更に前脚を振り下ろしたのだ。

 そしてそこは、丘の上ではなく中腹だった。

 鎌のようにカーブした白い爪が丘の土を引き裂き、続いて、列車の上を掠めて通り過ぎるつもりだったであろうドラゴンの顔が丘にめり込んだ。大量の土と岩の欠片が爆ぜ飛んでいく。

 激突死はしないまでも首や脚を痛めて不時着することが期待されていたが、ドラゴンの耐久力と飛行能力は凄まじいものだった。頭部を檻のように囲む角も折れぬまま、丘を大きく抉り取り、巨大な腹で更に丘を削りながら通り過ぎていく。

 だが少なくとも飛行の勢いは弱まった。虚像の二十メートル横で姿を隠蔽していた本物の三人は、その隙にドラゴンへ飛びかかった。神楽は背中から蝙蝠のような黒い翼を生やして。イドは自前の跳躍力で。シアーシャはイドに背負われ、トランクも持ったままだが吸いついたように離れなかった。

 イドはドラゴンの首の辺りに着地し、神楽は半透明の翼をうまく操って頭の上に降りた。

 自分の体に取りついた小さな敵達にドラゴンは気づいたろうか。幻術は相手が違和感を抱いた瞬間から急速に解けやすくなる。飛びながら首をねじ曲げて振り返るが、それは体についた敵を見るためでなく、自分がどうして丘にぶつかったのかを確認したかったようだ。

 その時、彼らの下には恐るべき光景が広がっていた。ドラゴンが抉っていった丘を中心にして数百メートル四方が赤く変色し揺れ動いているのだった。ボコボコと泡が生じ、湯気のようなものも昇っている。

 ドラゴンが最初に吐いた巨大な炎があっさり丘を貫通し、一帯を溶かし尽くして赤い溶岩の海に変えていたのだ。吐き終えた筈の炎はまだ大地を舐め広がり続けている。

 シアーシャが心配そうに神楽を見た。炎を吐く前にドラゴンは本物のガイドウェイの上を通り過ぎており、炎の進む方向からは外れている。しかし溶岩の海が周囲に広がっていけば列車も被害を受けるかも知れない。

 神楽はシアーシャの視線に気づいていながら、黙ってやるべきことをやった。身を屈め、暗赤色の鱗で覆われた頭皮に掌を当てたのだ。特に力を込めた訳でもなく、ただ、触れるだけだった。

 ドラゴンは加速しながら更に上昇していく。その頭の上に低い姿勢でくっついたまま、神楽はイドに指示を飛ばす。

「翼の方をっ」

 イドは素早く動いてドラゴンの首から背へと駆ける。ドラゴンの胴は空を泳ぐようにウネウネと揺れるが、イドは見事にバランスを保っていた。シアーシャもピッタリとイドの背にくっついている。

 翼の付け根に到達し、イドは鈍く輝く聖剣を振りかぶる。翼に向かうにつれ鱗は薄くなるが、強靭な皮膜に覆われた腱は厚みが四、五メートルもある。数時間前にも斬りつけた場所はごく薄く細い線として名残りがあるだけで、ほぼ治癒しているように見えた。

 イドが狙ったのは、まさにその同じ場所だった。両手持ちの大上段から振り下ろした剣は、正確に線をなぞるように滑り込み、腱を切り裂いていった。ドラゴンの赤い血が傷口から滲む。

 一際激しい咆哮が響き渡り、空気だけでなくドラゴンの体躯自体の震えとなってイドの足に伝わってきた。狂乱、極大の憎悪が物理的圧力となって二人に叩きつけられる。

 グネリ、とドラゴンの首が更に曲がった。首はさほど長くないため苦しい姿勢ではあったが、自分の背中に乗った二人を認識した。三つの瞳が繋がったドラゴンの目と、イドの目が合った。

 ドラゴンの顎が開く。ゴロゴロという燃焼と小爆発を示す音が咆哮に混じる。イドは構わず再度剣を振るう。右翼の付け根、自分が今つけたばかりの切れ目を広げるように同じ傷口へ。

「後ろだっ」

 神楽が警告の叫びを発した。音もなく迫る気配にイドが後方を振り返る。赤い柱が横殴りに襲うところだった。ドラゴンの尾。胴体と頭部を合わせたよりも長く、百メートルはある。先に向かうにつれて次第に細く、しなやかになり、少し膨らんだ先端には何本もの太い棘が逆向きについていた。

 イドに向かっていたのは尾の先端付近で、付け根の筋肉から順に加速されて異常なスピードとなっていた。迎撃するにも避けるにも間に合わず、イドは少しでも衝撃を和らげるため後ろざまに倒れようとする。背中のシアーシャが身をひねり両掌を尾に向けた。

 バキーッンッ、という派手な音は、咄嗟に張った透明な障壁が砕けた音だ。いざという時のため発動準備していたもので、守るべき範囲が狭いためその分頑丈になっている。それでもコンマ三秒も持たず砕け散った訳だが、攻撃を避けるには充分だった。背負ったシアーシャが潰れないぎりぎりまで上体を反らしたイドの眼前を尾が通り過ぎていった。

 と、尾の先が鋭くうねって反転し、再びイドに襲いかかる。イドは素早く翼の陰に回り込んで避難した。ずり落ちそうな傾斜だが、ドラゴンの胴に向けたシアーシャの掌が固定作用のようなものを発揮しているらしく、イドは斜めに立ったまま剣を振るい翼に新たな切れ目を入れる。シアーシャが危険を覚悟でイドについているのは、アタッカーである彼を守りつつドラゴンに乗った状態を出来るだけキープするためと、ドラゴンから振り落とされた際にも無事に着地するためだった。

 憎悪に血走ったドラゴンの右目を、神楽は瞼のすぐ上で逆さにへばりつき、冷徹な研究者のような表情で観察していた。彼の右手には奇妙な形状の武器が握られていた。長さ十五センチほどの細い円筒で、片端がすぼまって鋭く尖っている。まるで注射針のように。

 その尖った先端部を、神楽はドラゴンの眼球に叩きつけた。物理的な攻撃を殆ど受けつけない筈だが、先端は確かに結膜を穿ち白い強膜まで傷つけた。円筒を握り込むと内部の液体が注入され、傷から黒い色彩が染み広がっていく。同時に眼球の表面が黒い染みに沿って凹み、溶け崩れ始めた。神楽の切り札の一つ、蛋白質を分解しながら無限に自己複製する猛毒『無空』であった。生物であれば毛の一本まで残さず溶け、使い方を誤れば大陸一つが死の荒野と化す終末兵器。

 だが神楽はすぐに舌打ちする。眼球の溶解速度が予想より鈍く、終息しつつあるのだ。ドラゴンは毒耐性も持つらしい。注入器を袖に戻し、代わりに剣身がジグザグに折れ曲がった短剣を取り出す。刃の表面には複雑な紋様が彫金されており、魔術的な攻撃力も備えていた。神楽に気づいて睨み上げる三つの瞳に、シャクシャク、と幾筋もの切れ込みを入れた。深い傷ではないが一時的に視力を奪うには充分だろう。

 咆哮。敵に吹きつける予定だった炎は半端な状態で口から洩れ、ドラゴンは神楽を引き剥がそうと激しく首を振った。神楽の体が浮き上がる。と、両袖からキラキラした何かと白い煙のようなものが飛び出して眼球の傷口に潜り込んでいった。

 神楽が落ちる。ドラゴンは上昇を続けており、既に地上数百メートルに達していた。神楽の背にある半透明の翼が羽ばたいて宙に留まろうとしたが、そこに間髪入れず巨大な前脚が襲う。

 凶悪な爪は唸りを上げて空振りした。右目を傷つけられて距離を測り損ねたのと、高速で飛来した物体に神楽がしがみついたためだ。

 いつの間にかドラゴンの周囲を円盤が舞っていた。ビューティフル・ダストが待機させていたアンギュリードの無人戦闘機群。直径三十メートルほど、丸い皿をひっくり返したような形状で、全体が淡く光っている。百機もの円盤がドラゴンを遠巻きにして、一斉に白い破壊光線を浴びせ始めた。

「ふう、助かりました」

 円盤から早速飛び立ってドラゴンの腹にしがみつきながら、神楽が礼を言う。聞こえたらしく、シアーシャの持つ携帯が喋り出した。

「至近距離まで近づくのは数機までにして、他の機は距離を保って攻撃させているのである。何故なら無人戦闘機はドラゴンに殆どダメージを与えられず、逆にドラゴンの攻撃で容易に破壊されてしまうからである」

「今のところはそれで充分ですよ。囮にはなりますからね。ただ、ポル=ルポラの戦艦は来ていないようですが」

「更に遠距離から砲撃準備をしているのである。ちなみに無人戦闘機も戦艦も、君達に攻撃を当てないための制御はしていないのである」

 神楽は苦笑を返す。

「ご忠告、ありがたいですね。ところでお手数ですが列車の方に連絡してもらえませんか。ドラゴンの攻撃範囲が広過ぎるため、機を見てこの場から離脱して下さい、ただし、まだプリンスオブウェールズ岬には近づかないように、と」

 神楽がビューティフル・ダストに伝言を頼んでいる間にも、イドの方は黙々とドラゴンの右翼に切り込んでいた。だが付け根の三分の一ほどまで裂いたところで彼は「むっ」と低く唸った。

「どうしたの」

 背中のシアーシャが尋ねる。

「切れ味が、いや、敵が急に硬くなった」

 傷口から白い靄のようなものが洩れていた。暗赤色の鱗に覆われたドラゴンの全身が、青白く光り始めている。神楽が半透明の翼を羽ばたかせて離れ、ドラゴンの顔を見上げ確認する。彼がつけた眼球の傷は治りかけており、三つの繋がった色違いの瞳のうち、銀色の瞳が中央に固定されていた。

「嫌な予感がします。一旦離れて……」

 神楽が言い終える前に、弾かれるようにイドがドラゴンの脇腹を蹴って離れた。彼のブーツの底が少し溶けている。熱によるものではなく、粉末状になった靴底の成分がサラサラと零れていた。

 イドとシアーシャは落下していく。数百メートル下の大地は赤い溶岩が煮立っており、そこに落ちれば恐ろしいことになるだろう。無人戦闘機群は距離を取って光線を浴びせるばかりで彼らを拾い上げようとはしなかった。しかし二人の表情に不安はない。イドの方は何も考えていないだけかも知れないが、少なくとも姿勢をコントロールして空気抵抗を上げ、落下速度を抑えている。

 高度が地上百メートルを切った辺りでシアーシャが大地の一点を指差した。そこは溶岩のエリアから外れたまともな地面で、少女の右手人差し指から光の帯が真っ直ぐに伸び、二人と地上を繋いだ。

「イド、これに乗って」

「分かった」

 イドは光の帯に片手をかけると軽い身のこなしで帯の上に立った。帯の片端は少女の指から離れたが、消えもせず宙に留まっている。傾斜した三百メートル以上はある帯の上を、イドは危なげなく駆け下りていく。

 イドの背で、シアーシャは後方を振り返る。ドラゴンは神楽の方を夢中で追いかけており、二人とはかなり距離が開いてしまった。

「……大したことは出来なかったな」

 イドが呟くと、シアーシャは優しく微笑んだ。

「大丈夫よ。生きてればまたチャンスもあるんだから」

 神楽鏡影はドラゴンに執拗に狙われ、木の葉のように舞っていた。ドラゴンの巨体は青白い光に包まれており、本来の暗赤色が見えなくなっている。口からは赤い炎でなく青白い光の筋が伸びて神楽を襲う。アンギュリードの無人戦闘機が発する光線のような目にも留まらぬ速度ではなかったが、薄い翼で懸命に飛ぶ神楽にとっては恐ろしい脅威であった。光る爪の間をすり抜け、横殴りに振るわれる尾をぎりぎりでくぐり、更には青白い光の筋をトンボ返りのような動きで躱す。巨大なドラゴンが怒り狂って神楽を追う様子は、血を吸われた人間が狡猾な蚊を追う姿にも似ていた。

 無人戦闘機群は破壊光線による攻撃を続けているが、全くダメージを与えていない。と、ドラゴンの体が一際強く発光した後、無数の光の棘が凄い勢いで四方八方へ伸びた。近距離でうろついていた数機の無人戦闘機はあっさり棘に貫かれてスクラップと化し、数百メートルから一キロ以上の距離を保っていた残りも約半数が棘を避け損ねて墜落した。

 それに少し遅れ、遠方から二条の太い光線が閃いてドラゴンに命中した。相応のエネルギー充填時間を経て発射されたポル=ルポラ戦艦の主砲は、惑星を貫通するほどの破壊力を誇っていた。

 しかし、その光線はドラゴンを貫通しなかった。体表を滑るようにベクトルをずらされ真上と斜め下へ逸れていったのだ。真上に飛んだ光線は大気圏を出ていき宇宙へ消えた。斜め下に弾かれた方は煮える大地に潜り込み大穴を開けていった。地球の真裏まで届くような角度ではなかったが、遠い大陸の何処かでひどいことになっているだろう。こちら側の穴は溶岩ですぐに塞がった。

 無数の光の棘が引っ込んだ後も、神楽はまだ生きていた。棘が掠ったらしく左膝から先が消し飛んでいたが、出血は殆どなく本人は元々病人のような顔なので苦境なのか見分けがつかない。

 ドラゴンの注意は神楽に集中し、光の棘をまた伸ばしながらの体当たりなど更に攻撃が激しくなっている。神楽は奇跡のように避けているが、棘か爪に捕まって爆散するのは時間の問題に思われた。

「ビューティフル・ダストさん、なんとかならないかな。ドラゴンをこっちまで誘導してもらえたら、私達もまた参加出来るんだけど。それか、あの円盤に私達を運んでもらえないかな」

 シアーシャが携帯端末に話しかける。

「断るのである。現在、戦闘機に計算外の挙動をさせる余裕はないのである」

 ビューティフル・ダストは答えた。

「ただし、現在別の戦力が近づいているのである。我々の敵であるが、君達にとっては味方であるのではないか」

 合成音声の報告にシアーシャは慌てて周囲を見回した。

 最初は何も見つからなかった。怪しい挙動で飛行しながらドラゴンを攻撃するアンギュリードの円盤が散らばるばかりだ。

 だがそのうちに何かが聞こえ始める。ズゥーン、ズゥーン、という地響きのような音。一定間隔で、次第に大きくなり、地面に震動を感じるようになる。

 大変な重量の何かが、こちらへ走ってきている。

 と、一際大きな地響きの後にそれが途切れた。シアーシャは東に目を凝らす。

 山の陰から銀色の巨体が飛び出してきた。こちらに向かってジャンプ、いや滑空しているのは背中についた三角形の翼によるのだろう。それは飛行機ではなく、手足のついた人型の巨大ロボットだった。

 

 

「っちょっ何あれっ」

 操縦席の後ろで見守るエリザベス・クランホンが珍しく狼狽していた。

 リニアモータートレインのガイドウェイを辿ってアラスカを西進していたら、空を飛び回るUFOを見かけるようになった。しばしば光線を発しているため何かと戦っていると思われたが、その相手が判明したのは滑空のための大ジャンプの後だった。

「ああっ、ドラゴンですっ。僕の町も襲われたんです。あれっ、色が、違いますけど。クライストチャーチを襲った奴は赤くて……でも形は似てますね。首から角が生えてますし同じ、かな、多分」

 トーマス・ナゼル・ハタハタが喋っている間にも、勢いのついたハタナハターナは白く発光するドラゴンの方へ向かっている。

「ちょっと、近づかないでまずは様子を見た方が……」

 クランホンが無難な意見を述べるが、トーマスはドラゴンのそばにもう一つの存在を認めていた。

「あっ、なんか空飛んでる人がいますよ。戦ってる。ドラゴンと戦ってます。というか逃げ回ってます。追われてますよ。助けないとっ」

 ハタナハターナが下降していく。トーマスはレバーとフットペダルを操作して姿勢をコントロールし、着地する。足を少し曲げながら着地することである程度衝撃を和らげることが出来るようになっていたが、それでもコックピットは激しく揺れた。すぐに駆け足の助走に移る。

「あの男……何処かで見たような……えっ、ちょっと待って先の地面が溶けて、あれマグマじゃあ……」

「うおおおおおっよくも僕の町をっ。バーストモード・オンッ」

 クランホンの言葉は怒りに燃えるトーマスの雄叫びに掻き消された。充分な加速からの全力ジャンプでクランホンは後ろへひっくり返る。

 全長五十七メートル、重量九百八十トンの金属の塊が、緩い放物線を描きながら上空のドラゴンへと飛んでいく。ドラゴンも気づいたらしく首をハタナハターナへ向けた。口を開け、ブレスを吐く態勢だ。

「うおおおおおおっあれっ」

 雄叫びが勢いを失ったのは、ハタナハターナの進路が目標のドラゴンからちょっとずれていたからだ。ドラゴンは空を飛ぶ男がちょこまか死角に入ろうとするため、グルグルと回っていてあまり移動しておらず、ハタナハターナを避けた訳でもなかった。ただ、トーマスの操作が甘かっただけだ。そもそもジャンプの後で方向を調整出来るような高度なシステムは搭載されていなかった。

 それでもトーマスは努力した。ハタナハターナの右腕を伸ばし、更に操作レバーの側面についたボタンを押し込むと前腕部が外れて飛び出していった。バネの力を使っているため正確にはロケットパンチではなく、上腕とは数本のワイヤーで繋がっていた。

 しかしそのパンチも外れた。ドラゴンの臀部の十数メートル上を過ぎ、少し遅れて太い指が空を握り締めた。全く意味のない動作だった。

 そのまま何も出来ずに横を飛び過ぎるかと見えた瞬間、鞭のようにしなった長大な尾がハタナハターナの胴をぶっ叩いた。速過ぎてトーマスには視認出来なかったろう。バギーンッ、と凄い音がしてハタナハターナは弾き飛ばされ、ひっくり返って落ちていく。

「ぐわああっやられたっえっ、ちょっとっ地面が赤い……」

 九百八十トンが溶岩の海に腹からダイブした。ドロドロの赤い飛沫が散り、巨体が溶岩に半ばまで沈んでもがく。ドジュウウ、という何かが焼ける音がコックピットに届いた。

「ぐああああ熱いっ、あ、いや、熱くない、けど熱い、溶けるっ……いや、溶けてはないかも、あっでも高熱はまずいです、内部機構が故障するかも」

 早口で慌てながらトーマスは危機を脱する努力をした。乱雑なもがきは犬掻きに似た動作に変わり、まともな陸地を目指す。溶岩の粘性の高さと、深さがそれほどでもないことが幸いして、ハタナハターナは灼熱の海を脱することが出来た。

 丘の上に立ち、潜望鏡で巨体の各部を確認する。光る尾の打撃を受けた胴部前面には斜めに線状の凹みが出来ていたが、それ以上の損傷はないようだ。溶岩がところどころにへばりついているものの、装甲が溶けてはいない。

「あっ、右腕を伸ばしたままだった。ワイヤーは……大丈夫みたいです。ちゃんと元に戻せました。動作不良もないし装甲も無事でした。熱にも割と強いのかも……あっ、すみません、エリザベスさん、大丈夫ですか」

「……な、なんとか……」

 コックピットの隅でボロ雑巾のように横たわり、クランホンは返事を絞り出した。

「ああ、良かった。ハタナハターナも無事みたいですけど、これからどうすればいいんですかね。マグマは予想外でした。ドラゴンにとても近づけそうにないです」

「近づかない、で……逃げた方が……」

「うわわわわっとっ」

 トーマスが急にハタナハターナをダッシュさせた。クランホンは狭いコックピット内をゴロゴロと転がる。

 一瞬遅れて丘を青白い光線が貫いた。丘がサラサラと溶け崩れていく。トーマスにしてはよく反応した方だろう。

「ちょっ、ドラゴンがこっち狙ってます。追いかけてきてます」

 ハタナハターナは溶岩のエリアから離れるように走る。ドラゴンはその背を追って飛びながら時々口から青白い光を吐いた。トーマスはジグザグに動いて避けようとするが、二回に一回は命中してしまっていた。そのたびに光が飛び散って機体が揺れるものの、大きなダメージはないようだ。

「あれっ、向こうの攻撃は効いてないみたいです。もしかして、勝てるかも……」

 と、コックピットに集音管を通して男の声が入ってきた。

「味方ですね。よろしくお願いします」

 掠れ気味だがよく響く声だ。丁寧な口調に、有無を言わせぬ圧力のようなものが感じられた。

「あ、はい、よろしくお願いします」

 トーマスは反射的にそう答えてから相手の姿を探した。ハタナハターナの頭部の近くを、黒い着物の男が羽ばたきながら浮遊していた。さっきまでドラゴンから逃げ回っていた男だ。

「おっと、大型ブレスが来ますから気をつけて」

「えっ、とっ」

 翼を持つ黒い着物の男は素早くハタナハターナの陰に回り込み、次の瞬間これまでより数段強い光と揺れが機体を襲った。前に百メートルほど吹っ飛ばされるが、トーマスは慌てつつもうまく操縦して足で着地する。

「うわ、と、今度こそヤバいと思ったけど、割と、大丈夫みたいな」

「ロボットの装甲ですが、特殊な鋼材かコーティングが使われているようですね。ドラゴンのあの白い光に耐性があるようです。だからこそ相手として選ばれたのでしょうね」

 黒い着物の男は無事についてきており、コックピット内のトーマスに話しかけてくる。

「ええっと、その、選ばれたというのは……」

「それで作戦なのですが、タイミングを見計らって私がドラゴンの動きを止めますから、飛びついて地面に墜として欲しいのです。それから翼をちぎって二度と飛べなくさせ、地上で止めを刺すのがベストですね。あ、もう少し右へ行って下さい。真っ直ぐだと溶岩の海に突っ込んでしまいますので」

 質問を無視して男は一方的に指示を出した。トーマスはその通りに向きを変えながら返す。

「はあ、そんなにうまくいきますかね」

「相手の運が悪ければうまくいくと思いますよ」

 黒い着物の男は奇妙な言い方をした。

「それから、もしドラゴンがおかしな変化を始めたら、すぐに目を逸らして全力で逃げて下さい」

「えー、おかしな変化というのは、どういう……」

「分かりません。では、よろしくお願いします」

 言うだけ言ってしまうと、黒い着物の男はハタナハターナから離れ上昇していった。

「エリザベスさん、今の話どう思いますか」

 トーマスは操縦しながら後ろの同乗者に尋ねる。

「……早、く、ここから……離脱……」

「おっ、ドラゴンが離れていきますよ。あの変な人が誘導してるみたいです。追いかけた方がいいんですかね。追いかけますねっ。うおおおおおっやってやるぞおおっ」

 トーマスは改めて雄叫びを上げ、ハタナハターナを大きく方向転換させた。

 黒い着物の男は溶岩から遠ざかる方へ敢えて飛んでいるようだ。それを白く光るドラゴンが追いかけている。空飛ぶ円盤が四方から細い光線をドラゴンに当てまくる。全く効いている様子はないが、少なくとも男が逃げるための援護にはなっているようだ。

 こちらが追う番になったトーマスは、斜面や凸凹で転倒しないように気をつけてハタナハターナを駆る。黒い着物の男が低空を飛びながらチラリとこちらを見た。タイミングを計っているようだ。

「ふうう……ふうーう、やるぞ。やってやるぞ。クライストチャーチの、仇。僕の町を、燃やした、仇……」

 トーマスは深呼吸して集中力を高めていく。本来ならドラゴンの飛行に走って追いつける筈もないが、ドラゴンは男を叩き潰そうと追い回しており、少しずつ距離が縮まっていた。一キロメートルは切ったが、まだ充分ではない。ハタナハターナはジャンプ後に方向転換出来ないのだ。八百メートル。六百メートル。まだ飛びついても避けられる可能性が高そうだ。

 五百メートルを切ったと思われた時、ドラゴンがふと振り向いてハタナハターナを見た。大きく息を吸い込もうとしている。光のブレスを吐くつもりか。

「あ。光線は窓に受けたらまずいかも……」

 レバーを握る手とペダルを踏む足に迷いが伝播する。だが、次の瞬間ドラゴンの顔から何かが飛び散り、嫌な苦鳴を上げて空中で動きを止めた。

「ああっ、チャンスだ。チャンス、チャンス……ちっくしょうやってやるぞうおおおおおおっ」

 トーマスは数歩のうちに姿勢を整え一気に左右のペダルを踏み込んだ。ハタナハターナが大地に足の形の凹みを残しながら勢い良く跳躍する。まだ二日目という短い経験のうちで、奇跡のような完璧に近い操縦であった。直線軌道から緩い放物線に変わる約四百メートル、その先にドラゴンがいた。

 が、ドラゴンは短時間で我に返ったらしく、長い尾で迎撃しようと体勢を変えた。それでドラゴンの位置が動いてしまい、このままの軌道だと斜め下をすれ違うだけになってしまう。

「ふぅーっ、ひゅっ」

 トーマスは諦めなかった。短く息を吐くと同時に左右のレバーのボタンを押し込んだ。ハタナハターナの両前腕が強力なバネによって射出される。左腕は空振りしたが、右腕がドラゴンの首から生えた角の一本を掠め、繋がったワイヤーがうまく巻きついた。間髪入れずワイヤーをある程度巻き取っていき、ハタナハターナの巨体がグンと浮き上がる。九百八十トンに引っ張られ、ドラゴンが傾く。長い尾は見当違いのところを薙いでいった。

 光線がハタナハターナに効かないことを悟ったためか、ドラゴンの体を覆っていた青白い光が消えていき、本来の暗赤色の鱗が露わになっていく。目の下から首の後ろを通って背中に続く青いラインが浮かび上がる。

「やっぱりあのドラゴンだったか。ならこれは、クライストチャーチの分だっ」

 ハタナハターナはドラゴンの背に這い上り、再結合した左腕で全力のパンチを叩き込んだ。

 

 

 ドラゴンが短時間ながらも動きを止めたのは、その左目を内側からぶち抜いて銀色の煌めきが飛び出したためだ。神楽の持つ使い魔の片割れ。右目の傷から侵入してドラゴンの脳を破壊しようとしたのだが、内部も何らかの力で保護されているのか異常に硬く、大した損傷は与えられなかった。そのため脳と頭蓋骨の隙間を伝ってなんとか反対側の眼窩まで到達した後は力を溜め、神楽の指示を待っていたのだ。飛び出した際には視神経を半ば以上切断していた。

 銀の煌めきはドラゴンのそばを飛ぶ神楽へと戻っていく。袖の中に消えるまで、心なしかその動きは弱々しかった。

 今、ドラゴンの首筋に巨大なロボットがしがみついている。尾を除いても体長百メートルを超えるドラゴンに、全長六十メートル近いロボット。昔の特撮ものであったような、巨大怪獣と巨大ロボの取っ組み合いがリアルで繰り広げられているのだ。

 ドラゴンは巨大ロボを振り落とそうと身をよじって派手に動く。巨大ロボは右腕のワイヤーが巻きついた角を折ろうとして左腕で殴り続ける。巻きついたワイヤーをほどくような器用な動きが出来ないのだろう。

「今は巻きついたままの方がいいのでは」

 神楽の台詞はコックピットに届いたかどうか。

 ドラゴンは振り返って炎を吐こうにも、角の一本がワイヤーで引っ張られているためうまく首を曲げられず、憤怒の唸りを洩らしている。尾の方は鞭のようにしなって巨大ロボの背を何度も叩き、滑空用の三角形の翼が変形しつつあるが、内部機構へのダメージはなさそうだ。

 恐るべきロボットだった。頭部の覗き窓からレバーを握った操縦者が見えており、ビューティフル・ダストの操作でないことが分かる。ということは、コンピュータ制御でなく操縦者が動きの全てをコントロールしているらしい。ロボットのデザインの単純さ、関節の少なさはそのためでもあるのだろう。

 十回以上殴っているが、角はまだ折れない。ドラゴンの姿勢が右に傾き、そのままグルリとひっくり返って背面飛行に移った。大きな翼のゆったりした動きはそのままで、やはり物理現象をある程度無視しているようだ。巨大ロボは転げ落ちそうになり、角に巻いたワイヤーにぶら下がって墜落を免れた。

 ドラゴンが今度こそ首をねじ曲げ、炎のブレスを巨大ロボに吹きかける。ぶら下がった状態では避けられず、巨大ロボは炎をまともに浴びた。しかし、装甲は溶けない。広範囲の大地を溶岩の海に変えた全力ブレスであれば巨大ロボも耐えられなかったかも知れないが、あれは相応の溜めが必要なのか連発出来ないようだ。

 だが、ワイヤーの方の耐熱性が足りなかった。数秒後にまず一本が切れ、巨大ロボが数メートル下がる。その衝撃で残りのワイヤーも一気に切れ、巨大ロボはあっけなく落ちていく。

 落ちながらも巨大ロボの左腕が再び射出され、逆さになったドラゴンの顔面を殴りつけた。すぐに握り締められた鉤状の太い指が巨大な上顎を引っ掴み、ミチミチと音を立てる。ドラゴンが苦鳴を上げ炎のブレスが止まる。ポロポロと落ちる幾つかの白いものは折れた牙だった。

 下に引っ張られ、ドラゴンの体勢が大きく崩れる。落ちていく。立て直そうとしているが、そこに巨大ロボが再びしがみつく。

 ロボットの胸部装甲の一部がスライドして左右に開いた。縦に並ぶ穴が二列、計十二ヶ所の穴から金属製の杭が飛び出してドラゴンの首に突き刺さる。杭の鋭い先端には返しがついており、ドラゴンの強靭な筋肉にそれほど深くは刺さらなかったが簡単に抜けることもないだろう。

 落ちる。絡み合った二つの巨体が錐揉み状態で大地に墜ちていく。巨大ロボは離れない。顎を掴んだ手も離さない。ドラゴンの咆哮には怨嗟と、そして恐怖の響きがあった。

 緩やかな斜面に頭から突き刺さり、合計一万トン近い質量は山の形を変えた。大地が衝撃で揺れ、飛び散った岩塊は一キロ以上先まで届いた。

 大きな岩が横を掠めても気にせず、神楽は半透明の翼を羽ばたかせて空中に留まり、敵のダメージを見極めようと目を細めていた。

 逆立ち状態からゆっくりと、傾いて、ドラゴンが俯せに崩れ落ちる。湾曲した長大な牙のような角が二本、墜落の衝撃で折れていた。その片方には巨大ロボの右前腕がちぎれたワイヤーで結ばれていた。

 ドラゴンの首筋にへばりついた巨大ロボは、起き上がろうとしているのか足をゴソゴソ動かしており、取り敢えず操縦者は生きているようだ。

 倒れ伏すドラゴンに異常なスピードで駆け寄る人影が一つ。神楽はそれを視認して口元を僅かに綻ばせる。ドラゴンをこの地点に誘導したのは仲間達の位置関係を把握していたからだ。

 イドは剣を片手に駆ける。濃い赤色の髪をなびかせ、灰色のロングコートの裾を翻して駆ける。古い傷痕の残る顔が静かに獲物を見据えている。ただ目つきだけが鋭くなり、彼のまとう空気がキリキリと圧力を増す。聖剣エーリヤの刀身が鈍く輝き、イドの疾走に伴って淡い光の軌跡を残していく。更なる加速に応じてその輝きが強くなっていく。

 イドは跳躍した。ドラゴンまでの数十メートルの距離を一気に越え、彼は空中で輝く聖剣を大上段に振りかぶる。

 気合の声一つ発することもなくイドは聖剣を振り下ろした。渾身の力を込めつつ余計な力みの抜けた、無造作で、美しい動きだった。本来の刃渡りよりも遥かに伸びた輝きが、角や巨大ロボに当たらぬ細い道筋を通り、超硬質の鱗をあっけなく割ってドラゴンの首筋に食い込んでいった。

 幅二十メートル近くある太い首に、パックリと裂け目が広がった。一瞬薄い赤色の筋肉層が見え、すぐに大量の血で染まる。赤い血液が噴き出す、流れ出す。イドの一閃はドラゴンの首を切り落とすことは出来なかったが、ほぼ半ばまで断っていた。刃は首の骨、更に脊髄にも届いていたかも知れない、致命傷に等しい一撃。ただし、伝説のドラゴンに対してはどうなるか。

 滝のように溢れる血液にどす黒い色が混じり始めたのを認め、神楽は表情を変えた。

「見るなーっ。目を閉じてそこから逃げろおおっ」

 神楽の必死の叫びは大気を震わせ戦場に響き渡った。

 

 

  四

 

「見るなーっ。目を閉じてそこから逃げろおおっ」

 神楽の音声はビーティフール・ダストによって、車内放送でそのまま流された。

 部屋にいた乗客達の殆どは突然叫び出したスピーカーに身を竦め、大人しく頭を抱えた。

 運転室のゼンジロウ・ミフネは歯を食い縛り、モニターも見ないように、速度計と前方のガイドウェイだけ注視して列車を加速させていった。

 客室に戻っていたカナダのハート首相は、ソファーで隣に座る男児を無言で強く抱き締めた。どちらの体も震えていた。

 インドのバーラティカ大統領は「何が起こっているのだろう」と呟いて同室者の反応を窺った。トッド・リスモは食事を終えていたが、天井に目を向けて別の何かに聞き入っていた。サフィードは魂だけ飛ばして見物に行っているのか、目を閉じてソファーに背を預けている。……と、サフィードがブルリと大きく身震いして目を開けた。

「これは、いかんぞ」

 青白い頬を赤いものが伝い落ちていく。彼は両目から出血していた。

「大丈夫かね」

「いかん……まずいぞ……。いや、わしは大丈夫じゃ。ダメージは受けたが、まだまだ滅びはせん。……が、あれはまずい。まずいぞ。人類がまずい。生きとし生けるもの、全てがまずい」

「まずいとは、どういう意味だね」

「うむ。見たら死ぬ」

 サフィードは簡潔に答えを告げた。

 十三号車の二人部屋で、クレル・ジョンソンとステラの夫婦はソファーに並んで腰掛け、窓の外に広がる青空をずっと眺めていた。

 巨大なドラゴンが通り過ぎるのを見た時は、恐怖と興奮の入り混じった奇妙な感動を覚えていた。だがそれきりドラゴンは見えなくなり、やがて円盤型のUFOが空を横切っていった。断続的に光線が飛び交い、遠くから怒りの咆哮が聞こえていた。

 「見えないけど、戦ってるのね」とステラが言い、「そうだね」とクレルが頷いた。

「なんとか人類側に、勝って欲しいわね」

「そうだね。あの、病人のような顔の、着物の男。多分ジャパニーズだけれど、彼には生き残って欲しいものだ」

「そうね。きっと生き残るわ。根暗な雰囲気だったけど、いい人そうだったもの」

 論理的な繋がりのないことを断言してステラは微笑んだ。

 神楽の警告の叫びがスピーカーから聞こえても、二人は目を閉じずに窓を眺めていた。

 どうせ終わりが近いのなら、どうせ皆死ぬのなら、最後まで見届けたいと考えたのだろうか。

 やがて、窓の外の青空に黒い色彩が割り込んできた。

 ジョンソン夫妻は、痩せ細った黒い化け物を見た。

 

 

 十数キロ離れた上空に待機していたポル=ルポラの宇宙戦艦二隻は、操作をビューティフル・ダストに完全に奪われていたが、乗員達は複数の望遠カメラで状況を把握していた。もし接近しての砲撃戦となれば手動操作を申請するくらいの覚悟も持っていた。

 神楽の叫びはビューティフル・ダスト経由で艦内にも流れた。艦橋ではウォール・スクリーンやモニターに首の半分切れたドラゴンが表示されており、乗員達は快哉を叫んでいたところだった。

 彼らは兵士であり誇り高い戦士であり、地球人の発した警告に即従うほど素直でもなかった。

 ビューティフル・ダストなら艦内のモニターやスクリーンを一旦オフにすることは出来ただろう。そうしなかったのは、肉眼で直視するのでなければ問題ないと判断したのか。それとも、本来殲滅対象である知的生物達を積極的に守る必要性を認めていなかったのか。或いは更に、ドラゴンから染み出した『それ』を見た生き物が一体どうなるのか、検証したいと考えた可能性も否定は出来ない。

 黒い粘液状のものが何らかの形を成すのを見届ける前に、ポル=ルポラ星人達は激烈な反応を示した。目から鼻から口から、耳介が小さく目立たない耳の穴からも、どす黒い血を噴水のように噴き出してそのまま崩れ落ちたのだ。悲鳴を上げたり言葉を発したりする暇もなかった。レーダーの方を見守っていた情報管理士も、異常事態に慌てて周囲を見回し同じ末路を辿った。艦長も含め艦橋にいた十数名が五秒も経たずに全滅した。

 同胞の死亡を察知したらしく後方のドアを開けて兵士が飛び込んでくる。そしてまたスクリーンの『それ』を見て血を噴き即死する。同じことが十回ほど繰り返され、漸くビューティフル・ダストはモニター類とスクリーンをオフにした。

 その後で駆けつけた兵士が、黒い血の海と化した艦橋の惨状に絶句する。転がる死体は血を流し過ぎてしぼみ、厚みを失っていた。

「い……一体、何が……」

「解析不能の攻撃を受けたのである。解析不能なため飽くまで推測であるが、対象を見ると全身から出血して死亡するようなのである」

 ビューティフル・ダストがスピーカーから答えた。

「か、艦長も、皆死んでる……。この船はどうなっちまうんだ。俺達はどうすればいい」

「砲座や控え室でモニターを見ていた者も死亡しているのである。この戦艦は我々が操作するので問題はないのである。君達は我々の役に立った後で死ねば良いのである」

 ビューティフル・ダストはいちいち律儀に答えた。

 

 

 『それ』は、元のドラゴンの巨体より二回り以上小さく、細い尾を含めても八十メートル程度になっていた。

 痩せている。胴が蛇のように細く、前脚は翼と一体化しており先端に鋭い爪が生えている。その翼はペラペラに薄く、幅も狭いため空を飛ぶのに貢献しているとはとても思えなかった。

 首と頭部を守っていた十数本の白い角のようなものもなく、貧弱な細い首と先の尖った嘴に似た顎を晒していた。後脚も細い。尾も細いだけでなく力もないようで飛行中にだらしなく垂れている。

 それは、全身が黒かった。タールのような粘液に包まれており、眼球と思われる部分も真っ暗だった。翼がぎこちなく羽ばたくたびボタ、ボタ、と黒い雫が落ちていく。その一滴が森に落ちて凄い勢いで木々をしなびさせ枯らしていくのを、神楽は空中に留まり観察していた。

 ヒヨヨヨヨヨヨ、と、奇妙な鳴き声を発して黒いドラゴンが飛ぶ。神楽を攻撃するつもりはないのか見えていないだけなのか、別の方向へ飛んでいる。その姿を神楽は改めて直視し、それから地面に残る残骸へ視線を移す。神楽の目が充血し、血よりも濃くどす黒い液体が流れ出すが致命傷ではないようだ。

 全長二百メートルあった、首が半分ちぎれかけた赤い巨体は横たわったまま動かず、中身が溶けているのかゆっくりとしぼんでいく。痩せ細った黒いドラゴンは、首の傷口から形を成して抜け出していったのだ。

 その抜け殻のそばで巨大ロボットが地を這っている。神楽は数度の咳払いで黒い血を吐き出した後、改めて警告を送った。

「ロボットの操縦者っ絶対に目を開けるなっ。そのまま真っ直ぐ離脱しろっ」

 続いて、凄いスピードで駆ける人影を確認する。イドが聖剣を片手にシアーシャの許へ戻っていくところだった。上空を飛ぶ黒いドラゴンに目もくれないのは神楽の指示に素直に従ってくれているのか、それともシアーシャが誘導をかけているのか。少女は目を閉じて立ち、イドの帰還を待っていた。

「取り敢えずは無事か。だが、どうしたものか……」

 神楽は呟いて黒いドラゴンへ向き直る。ヒヨヨヨヨヨ、と鳴きながら、フラフラ蛇行しながら飛んでいる。先程までの狂暴な殺意も迫力も感じられず、哀れなほどに弱々しく見えた。南へと向かっているが、何か意図があるかどうかは分からない。ただ、飛んでいるそれを生き物が目にすれば残らず死ぬだろう。直視してまだ生きているのは神楽くらいのものだ。

 アンギュリードの無人戦闘機からの攻撃が再開され、何十もの白い光線がドラゴンを貫くが、全く効いていないようだ。光線はドラゴンの体に穴を開けてはおらず、単に素通りしているだけなのか。

「カルクモンまたはカルクーマ、いや呼び名は今更どうでもいいか。混じり合った状態からその要素だけが抜け出したようだが。物理的な攻撃は通用しないようだな。聖剣なら殺せるかも知れないが、持ち主はあれを見たら死ぬだろうし、私は聖剣に触れない。……困ったな。腐れ風神も大したことは出来ていない。性質が近過ぎるのか。私一人であれを仕留めるのは難しいが、逃がす訳にもいかない。そろそろ効いてくれればいいのだが……」

 神楽は独りで呟きながらも黒いドラゴンの後を追って飛ぶ。ドラゴンのブレスで消し飛んだ左足は、肉が盛り上がって再生を始めていた。

 黒いドラゴンの額辺りに白い煙のようなものが絡みついている。神楽の使い魔の片割れであるが、どうやらくっついているだけで精一杯のようだ。

 ヒヨヨヨヨ、ヒヨヨヨヨヨ、とドラゴンが鳴く。ボタボタ、ボタボタと黒い雫が落ちていく。森に落ちて木々を枯らし、地面に染み込んだものは土壌にどんな悪影響を及ぼすことか。

 神楽はドラゴンを追うが、半透明の翼は動きが鈍く、距離はなかなか縮まらなかった。目と耳、鼻の穴から黒い血を流し、時折咳払いで喉に引っ掛かった血を吐き出している。死んではいないがダメージは受け続けているのだ。無人戦闘機からの攻撃は全く意味を成さず、黒いドラゴンは死を撒き散らしながら飛んでいく。

「まずいな、ゲフッ、このままでは……おや」

 視力の低下してきた神楽の目が、ドラゴンの遥か先に何かを捉える。飛行しているが、アンギュリードの円盤ではない。形が、下部は丸っこく、上部は尖っている。

 尖っているものが柱であることに気づいて、神楽は苦笑した。

「帆船か。これはまた、ユニークなものが来たな」

 

 

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