第五章 スーパー・ウルトラ・エクストリーム・ハード・ワーク

 

  一

 

 男は丘の上に立ち、静かに戦場を見下ろしている。

 荒野。こちら側を埋め尽くすのは死者の軍勢。血と悲鳴が好物の、冥界に落ちた悪鬼達。人間、太古の怪物、異星人、異界魔境の住民。出自を忘れ化け物に変じた亡者もいる。

 彼らは生前愛用していた武器を握り、または武器と肉体を融合させ、或いは歪んだ妄念で新たに生み出した異形の凶器を携える。狂った雄叫びを上げながら、陰気な冷笑を浮かべながら、血走った眼球から黒い血涙を流しながら、彼らは獲物を切り裂いていく。

「残念だ」

 男は呟いた。

 適当に集めた十万の軍を任せられ、冥界からこちら側に出てきたのは数時間前のことだ。近くに都市があったが、とっくに無人の廃墟となっている。他は荒野。とにかく荒野だ。

 冥王は取り敢えずヨーロッパを綺麗にしようと言っていた。綺麗にするとはつまり、生者を皆殺しにするということだ。冥界十三将の一人としてそれを念頭に置きつつ出陣した訳だが、ここが地球の南半球のオーストラリア大陸で、ヨーロッパとは程遠い場所であることを部下が報告してきたのだった。

 外れを引かされたらしい。次の都市までは遠いが、今更冥界に引き返す訳にもいかなかった。たまに襲ってくる警備用ロボットは死者達が寄ってたかって瞬時に解体し、道路を辿って進軍していたら予想外の敵とエンカウントすることになった。

 黒い獣の群れ。何か得体の知れない敵がいるらしいことは冥界で待機中に耳にしていた。魔獣、ということになるだろうか。塗り潰したような漆黒の体表、白目のない黒々とした目、あちこちに生えた牙などは共通しているが、形状は割とバラエティがある。種族があるのだろうか、狼のように四つ足のもの、猿のように二足歩行で大きな腕を持つものが多い。触手の塊や、蛇のように長い胴に足がメチャクチャな配置でついているもの、巨体だがやたら頭だけが大きなものなど、独特な個体もそれなりに混じっている。

 獣達からは狂猛な飢えと殺意が感じられたが、不気味なほどに静かだった。吼えたり唸ったりは殆どしないようだ。ただ、死者達の雄叫びに紛れてはいるが、カチカチ、カチカチと、牙を打ち鳴らす音だけは聞こえていた。

 いきなりかち合ってしまった軍勢と群れは、戦術も何もなく真正面からの消耗戦に突入した。本来は人間の悲鳴を聞きたかった死者達も、ないよりはましとばかりに黒い獣に襲いかかり八つ裂きにしていく。黒い獣達は斬られても悲鳴を上げず、恐れなど知らぬように突進し食いついてくる。足を食われながら嬉々として死者が獣の頭を割る。刀を握るその腕を横から獣が噛みちぎる。それを別の死者が巨大な鉈で唐竹割りにする。すぐさま鉈を横に振るい、二人ほど味方を巻き添えにしながら十体以上をまとめて薙ぎ払った。だが次の瞬間には後続の二十体以上に一斉に食いつかれてバラバラにされる。

 死んだ獣は近くの獣達が戦闘を放り出して食い始めるため、こちらへの圧力は微妙に緩かった。こちらの約十万の軍勢に対し、獣の数は見渡せる範囲で五倍ほど。充分に対応出来る戦力比であろう。見えないところから獣の群れが湧いて出ているように思えるのが懸念事項ではあるが。

 獣達にリーダーはいないようだ。群れならいそうなものだが。共食いするところもそうだが、そもそも誰かの指示に従うような脳味噌は持ち合わせていないのかも知れない。

 ただし、男の方も、冥界十三将として死者の軍の指揮官を務めながら、戦闘で特に指示を出さずただ眺めている。生前はとある世界で魔王だったりもしたが、指揮などやったことがなかった。

「残念だ。こっちには野菜があると思ったのだが……」

「えっ。閣下、何か仰いましたか」

 顔が闇で覆われた副官が尋ねてきた。男は首を振る。

「何でもない。……いや、そうだな。右斜め後方、三百メートルほどの距離に、妙な奴がいる。冥界の者でも、獣でもないようだ。捕まえて尋問を……いや、念のため殺しておけ」

「はっ。……確かに。承知しました」

 副官は数十の手勢を連れて丘を下りていった。

 戦場を見守る奇妙な存在には、三十分ほど前から気づいていた。人間っぽい形をしているが人間ではない。頭から黒い袋をかぶり、大きな箱を背負った奇妙な男。敵意は感じなかったが、機を窺っているような気配があった。

 男は前方に視線を戻す。戦線はじりじりとこちらが押しているようだ。しかし獣も後方から補充されている。今の時点での死者の損耗は一割弱か。兵がどれだけ減ろうが、男にはどうでも良かった。

 と、男は振り返る。あの奇妙な男は同じ場所に立っていた。ついさっきまで、副官達が向かっている足音が聞こえていた。武器を振りかざす風切り音も。だが、異様な破壊音と共に、副官達の気配が消えた。

 奇妙な男の前の地面に、黒い染みが残っていた。背負っていた箱の蓋が開いている。

「ふむ……」

 男が右手を開きかけた時、今度は前方から凄まじい気配が噴き上がったため再び向き直ることになった。

 戦場の空気が一変していた。死者達も思わず攻撃の手を止め、黒い獣達も怯えたように姿勢を低くした。

 凄まじい気配の主を探して男は視線を巡らせる。と、地面を突き破り、群れを押し飛ばして巨大な獣が這い上がってきた。最初は幅二十メートルほどの小山のような塊であったが、それが周囲の地面を剥がしながら更に太く巨大な肉体を露わにしていく。

 丘の上から見下ろしていた男だが、すぐに目線が水平となり、そして見上げ、更に見上げていく。

 地中から全身を現した獣は、丈が数百メートルあった。漆黒なのは他の獣と変わらないが、土の絡んだ体表はよく観察すると粗い毛皮であることが分かる。ずんぐりした体型は地球の熊に似ているが、太い前肢は両肩からそれぞれ二本ずつ生えていた。腰から下は弛んだ皮がスカートのように広がっており、脚が隠れている。頭部と思われていた部分は目鼻もなく、ただ牙の並ぶ大きな口だけが開いていた。太い首がグネリ、グニョリと伸びていき、地表にひしめくもの達を食らい始めた。死者達も、仲間と思われる黒い獣達もまとめて。一呑みで百体以上が消えた。ついでに地面も削れてクレーターが出来ていた。

 死者達がさすがにどよめいた。獣達も一部は逃げて散らばっていく。逃げる方向を間違ったのか、それとも死中に活を求めたのか、逆に死者側に突撃してくる獣も多かった。死者の一部は戦意喪失して突っ立ったまま獣に食われたり逃げたりし、ごく一部は超大物の出現に奮い立っている。

 狂乱の度を増す戦場を見据え、男は静かに右手を開く。掌の中心から半透明の白い帯のようなものが伸びていく。生前から使っていた男の唯一の武器。伸縮も形状も自在で何でも切り裂くこの刃で、男は魔王の座を勝ち取ったのだった。

「あ、あれは……『大きな獣』だ。先触れの……」

 呻くような声に男は振り返る。側近、というか単にそばについてきた死者の一人、ボロボロの僧衣を着た火傷顔の男であった。

「あれを知っているのか」

 男は尋ねる。

「バチカンの予言にあった、ハンガマンガの『先触れの四獣』です。ハンガマンガの王が現れる兆しとして、四つの強力な獣が破壊の限りを尽くすといいます。『速い獣』『見えない獣』『大きな獣』『不死の獣』。あれは『大きな獣』に違いありません。……ああ、これで人類は滅ぶ。ざまあみろ。はははははは」

 僧衣の死者は虚ろな笑い声を上げた。

 『大きな獣』は伸びる首と四本の腕を駆使して貪り食いを続けていた。腕の先には指の突起以外に口もついており、まとめて掴んでは食い、叩いては食い、一帯の獣と死者がどんどん食われて減っていく。振り回す腕の風圧が丘の上まで届き、男の髪を揺らした。

「私は何故、冥界に落ちたのだろう……。私は悪い奴、だったのか。殺すことは、あの世界では、仕方がなかった。……私は、ただ、野菜が食べたかっただけだ。新鮮な、野菜が……」

 場違いなことを呟きながら、男は将軍として、退却の指示も突撃の指示も出さなかった。ただ、幻のように揺らめく刃を振り上げ、フヒュッという鋭い呼気と共に、高く高く、跳躍する。

 男が得意だったのは、自分一人で戦うことだけだ。

 全力の跳躍は『大きな獣』の背丈までは届かなかったがその半分、高度二百メートルほどまで到達した。振りかぶった右腕を素早く振り下ろす。その勢いに沿って刃が伸びる。伸びる。百メートル以上伸びた半透明の刃は、巨大な獣の長い首を切り裂き胴にまで食い込んでいく。大量の黒血が飛び散る。

「むうっ」

 男が唸る。必滅の刃は獣の太い首をほぼ切断したかに見えたが、端の皮と薄い肉だけで繋がった部分から、ベラリと開いた暗い切断面が元のようにくっついていくのだ。同時に、左右から物凄い圧力が男に迫る。

 そこで男は悟る。首を切れば死ぬというのは飽くまで人間やまともな生き物の話であって、この黒い化け物達には必ずしも当て嵌まらないのだ。頭部というのは勝手に男がそう解釈しただけであり、そこに脳が入っているとは限らない。或いはそもそもちゃんとした脳味噌がこいつにあるのか……。

 左右から挟み込むように襲いくる二本の巨大な腕を、男は胴に食い込んだ刃を引き戻してクルリと振り回すことで迎撃した。右から来る腕は牙の並ぶ先端開口部を切り飛ばし、返す刃で左から来る腕を縦に割っていく……と、ゴリッという硬い感触と共に刃が止まる。骨に当たったのか。咄嗟に引き戻そうとして出来ないことに気づく。深く食い込んだ刃を、強大な筋肉が挟み込んで固定しているのだった。

 刃を掌から切り離したが遅かった。左右からの腕はなんとか空中で身をひねり躱したものの、真下から襲ってきた三本目の腕は躱しきれなかった。新たな刃を掌から生み出すも間に合わず、男は巨大な質量に叩きつけられ瞬時に粉々となり、そのまま腕の先の口に呑み込まれた。

 男は死人だ。もし強い意志とそれを支える欲望があれば、粉々であっても消化されていても再生したかも知れない。

 しかし男には、もうこの地に期待するものがなかった。

 

 

  二

 

 角の生えたトカゲ顔の宇宙人はポル=ルポラ星人ということだった。異星の者には勘違いされやすいが、「ポルルポラ」ではなく、「ポル=ルポラ」だ。ナルゲック・ポポーサと名乗った宇宙人はそれを強調した。

 彼はこの宇宙戦艦ポルータース号の艦長で、この身分としては一番の若輩らしい。といっても二百才を越えているそうなのだが。

 ハタナハターナを上に横たえても、戦艦はまるで危なげなく飛行した。コンセントも使わせてもらってバッテリーを急速充電中だ。

 艦内のトイレは地球人にも充分使用可能なものだった。温水洗浄の勢いがやたら強かったが、取り敢えず戻ってきたエリザベス・クランホンの表情は晴れやかなものになっていた。

 壁に怪物の頭が飾ってある部屋は、応接室ということらしい。そこで宇宙人が用意してくれた料理は何故かタコ焼きだった。

「地球人の食べ物に凝っていてね。うどんやパスタも良いが、我々には食べ辛い」

 ナルゲックは照れ臭そうに首の後ろを掻いた。

 護衛らしき宇宙人が一人、部屋の隅に立ち見守っている中、トーマス達とナルゲックは食事しながら話をした。

 ポル=ルポラ星人は嘗ては全宇宙の半分を支配する巨大な勢力であったが、恐ろしい災厄によって滅亡し、僅かな生き残りが地球に辿り着いたのだという。

「地球を新たな故郷とする予定であったのだ。地球人を支配はするが、別に絶滅させるつもりはなかった。地球人の文化は我々も気に入っていたからな」

 爪楊枝で刺した熱々のタコ焼きを長い舌で絡め取り、ナルゲックは語る。

「我々には敵対勢力があってな。アンギュリード星人という、卑劣で陰湿で話の通じない奴らだ。宇宙の覇権を争っていたのだが、重大な災厄のせいで共に滅んでしまった。アンギュリードの生き残りも地球に来ており、どちらがこの惑星を支配するのか、種族の存亡を懸けて戦う筈であったのだ。……ところがだ、ビューティフル・ダストのことは君達も知っているだろう」

「はい。全てのコンピュータが人類に反乱を起こしたみたいですね」

 トーマス・ナゼル・ハタハタは頷いた。様々なことが起こり過ぎて、宇宙人と会食しているこの状況もすんなり受け入れてしまっていた。

「そう。同時に、奴によってポル=ルポラの旗艦を含めた殆どの艦が支配され、操作不能となってしまったのだ。恥ずべきことだが、艦内設備の老朽化に際して、地球の電子機器を代替品として使っていたのが仇となった。笑えるのがアンギュリードの艦までビューティフル・ダストに支配されたことで、我々は戦争どころではなくなってしまったよ」

「でも、この船は支配されていないようですね」

 クランホンが指摘する。

「幸いなことにこの艦はまだ新しい方で、メイン・コンピュータに繋がる部分に地球の製品を使う必要がなかったのだ。地球製のタブレット端末が爆発して怪我をした者はいるがね。ああ、タコ焼き器は地球の製品だがコンピュータは入っていなかったので普通に使えている。……それで、他の艦の状況を知ってなんとかしたいとは思ったが、ビューティフル・ダストに支配されたポル=ルポラの戦艦五十五隻とアンギュリードの宇宙要塞に対し、動ける艦はこのポルータース号ともう一隻だけだ。直接ぶつかっても勝ち目はなく、そもそも味方の艦を沈める訳にもいかない。何か手はないかと地球上をさまよっていたのだ」

「はあ、そうなんですか。でも僕達にはそっちの方面では力になれそうにはないですけれど。それに、ビューティフル・ダストの件が解決したら、結局あなた達は地球を征服してしまうんですよね」

 ナルゲックは喉の辺りでポルポルと不思議な音を鳴らした。

「当然我々は地球征服を再開するだろう。しかし、先程も言ったが地球人を絶滅させるつもりはないし、我々に協力してくれた者がいたなら彼らの意見には耳を傾けるだろうな。もし君達が今回我々に貢献出来なかったとしても、それはそれで良い。我々は戦士を尊重している。ここで君達を助けたために後々相戦う運命に至ったとしても、気にするな。互いに背負ったものを懸けて、力を尽くそうではないか」

 またポルポルと喉が鳴る。どうやら、笑っているらしい。

「ところで、君のあの人型巨大ロボは、何という名だね」

 ググイと身を乗り出してナルゲックが尋ねる。

「え、ええ、ハタナハターナですけど……」

「ふむ、良い名ではないか。現実にあれだけの巨体が動くのは初めて見た。映画やアニメだけの存在ではなかったのだな。開発者は何者だね」

「え、ええーっと、僕の先祖が昔から少しずつ開発してたらしくて……」

「ふむふむ、君は高名な技術者の家系なのかな。君のロボがビューティフル・ダストに支配されていないのは何故だろう。特殊なシステムを使っているのだろうか」

「いえ、その、代々機械修理をやってて、ちょっと特殊な家系みたいで……あ、ビューティフル・ダストにやられないのは、あれは電子部品を使ってないんですよ。電力はバッテリーですけど、操作は手動でやってて……」

「なんとぉっ、素晴らーっしいいっ。あれで電子制御でないとはっ」

 ナルゲックが叫び出し、トーマスはちょっと引いた。クランホンはかなり引いていた。

 それから巨大ロボのロマンをナルゲックが雄弁に語り始め、トーマスも次第にノリノリになってハタナハターナのからくりの工夫と巨大ロボに懸けた先祖達の情熱、一見ダサいフォルムに込められた意味など話が止まらなくなる。隅に立つ護衛らしい宇宙人も食い気味に聞いている。クランホンは黙々と食い溜めしていた。

 そのうちトーマスの瞼が重くなってくる。徹夜でロボットを動かしていたので疲労の極致に達していたのだった。

「少し仮眠を摂りたまえ。リニアモータートレインに追いついた頃に起こしてあげよう」

「……ありがとう、ございます」

 トーマス達はフラフラしながら客室に案内された。やはり化け物のトロフィーや剥製が並ぶ悪趣味な部屋ではあったが、大型のベッドはフカフカで、二人は別々のベッドに倒れ込むようにして眠りに就いた。

 ナルゲックは部下に食器を片づけさせ、上機嫌に司令室へ戻った。

「急がずとも良い」

 操縦士に告げると、艦長席に座り腕組みする。

「……やはり、ロマンだな」

「ロマンですね」

 ナルゲックが呟くと、乗組員達は頷いた。

 ベーリング海峡はとうに越え、ポル=ルポラの葉巻型宇宙船はシベリアのタイガ上空を静かに進んでいた。針葉樹林を割ってリニアモータートレインのガイドウェイが真っ直ぐ伸びており、彼方を走る列車も捕捉出来ている。トーマス達が気にしていたが、列車は今のところ無事のようだ。

「艦長、おかしなものが」

 艦が雲の中に入って少し経ち、情報管理士が怪訝な顔で報告してきた。

「艦の上の巨大ロボですが……」

 壁のスクリーンに、宇宙船の上に横たわるハタナハターナが映し出される。雲の中のため視界がやや薄暗かったが、ロボットのあちこちに取りつく人影のようなものが見えた。

「何だ、これは。もっと鮮明に出来ないのか」

「……申し訳ありません。これ以上は無理のようです」

 ポル=ルポラの技術なら十万光年先の暗闇であってもリアルタイムではっきりと映し出せる。艦の直上をまともに映せないなどある筈がない。だが実際に、調整によって視界の薄闇が払われハタナハターナの雄姿は鮮明になったが、幾つもの人影は緑色の靄に包まれたような状態のままだった。

「どうやら……巨大ロボの修理をしているようです」

 緑の人影が大勢で右腕を取り外し、ちぎれたワイヤーを再接合している。何か道具を使っているらしく、硬いものを叩く音がしたり火花が散ったりしていた。

「緑色か……。パイロットの頬も、緑色がかっていたな。敵ではないようだ。見ないふりをしておこう」

 ナルゲックはひとまずそう判断を下した。

「靴屋の妖精ですか、艦長」

 操縦士が言った。彼らは地球のグリム童話を知っていた。電子書籍にアカウント登録した際に、無料で読める対象作品の一つだったのだ。

「彼は地底人の家系と言っていたが、実際にはそっちかも知れないな。地球も意外に侮れん」

 ナルゲックは機嫌良くポルポルと喉を鳴らした。

 艦が雲を抜けると緑色の人影達は幻のように消えた。ナルゲックは操縦士に命じて敢えて大きな雲の中に入り、暫く低速飛行を続けた。

 

 

  三

 

 ラウンド・ザ・ワールド・ドリーム・エクスプレスは無事にベーリング海峡を渡りきり、ひとまずは大きな山場を越えた。

 ユーラシア東端に新設されたナウカン駅はやはり生き残りもなく、最低限の整備を終えるとすぐに出発した。車掌兼予備運転士のゼンジロウ・ミフネは神楽から「売店にバナナがあれば買っておいて欲しい」と頼まれていたが、残念ながら売っていなかった。

 百数十名の生き残りの乗客達は、多くはもう何も見たくないとばかりに自室に篭もりカーテンも閉めきったままだ。カーテンを開けた者も、虚脱した表情で流れゆく針葉樹林を眺めているだけだ。ドラゴンが退治され、ユーラシア大陸に渡ることが出来ても、危機を脱した訳ではないことを理解しているのだ。

 ミフネはガイドウェイの状態に神経を尖らせながら手動運転を続けていた。あまり飛ばし過ぎると海に潜っている神楽達との合流が難しくなるが、山脈トンネルを越えて北京駅の手前までなら許容範囲だと話し合いで決めていた。

 乗客の安全を考えるならば、何もないツンドラ地帯で列車を停めて大人しくしている方がましではあったろう。しかし、列車の運行を中止することは出来なかった。一本のガイドウェイで地球を一周するこの列車は、人類の夢であり希望であったからだ。生き残りの各国首脳達も運行継続に同意した。通信も交通も遮断された状況でそれぞれの母国に辿り着くためにはこの列車に頼るしかない事情もあった。

 食堂は相変わらず不気味なミイラが可愛らしいドラゴンを相手に酒盛りをしていた。ウェイトレス達は乗客のための食事を作っている。ロシア東部としての時刻は昼過ぎだが、太陽を追いかけて西進しているせいでこれを昼食とすべきか夕食になるのかは微妙なところだ。乗客が減り、食欲もないようで希望者は少なかったが、酒の注文は増していた。

 五号車のインド大統領の客室では、トッド・リスモが謎の声から指示を受けていた。

「はあー。すみません、なんか、そろそろだそうで。あの、ピシャーチャさんですよね。ダールが言うには、働いて欲しいそうです。ちょっと世界がヤバいらしいんで」

「ほう。わしの正体まで知っとるのか。伝説のピシャーチャとは少し違うが、まあ、その類ではある。わしに何をさせたいんじゃ」

 サフィードは青白い顔に苦笑を浮かべた。散大した真っ黒な瞳が横目で雇い主を見る。インド大統領シャガラッシュ・バーラティカはただ黙って頷いた。

「あ、ピシャーチャって、名前じゃなかったんだ」

 トッドは謎の声に訂正されたようで目をしばたかせた。

 二号車のアメリカ大統領の客室では、大統領首席補佐官兼護衛のメイド型ガイノイドであるメモリーが、大統領ウィリアム・セインに小さな小さな声で耳打ちした。

「プログラムの補完と調整が完了しました。いつでもインターネットに接続して拡散可能です」

「……そうか。ならば、漸く私のターンだな」

 元ティナの球体を抱えて撫でていたウィリアム・セインの背筋が伸び、目がギラギラと輝き始めた。

 空になったあちこちの客室では、おかしなことが起きていた。

 ベッド上に安置されていた乗客の死体。降ろす場所もなく、黒い死体袋やシーツに包まれたままになっていた。腐敗防止のため神楽の術によって水分を抜き取られており、異臭はしない。

 それが、モゾ、モゾ、と、包みの中で動き始めたのだ。

 死体袋の一つは腹の辺りが膨らみ、内側から鋭い爪によって切り裂かれていく。灰色の靄のようなものが滲み出し、紫色のいかつい腕が現れる。乾燥した皮膚が剥がれて垂れ下がっているのだが、露出している中身は筋肉ではなく別の皮膚に覆われているように見えた。

 袋の裂け目を広げながら上体を起こす。袋を脱いだその体は、ミイラにしては妙に分厚かった。

 いや、着ているスーツが明らかに寸足らずで、肩口や袖が破れている。男の乾いた顔に、ビシ、と亀裂が走った。

 服を脱ぐようにして死体の皮を脱ぐと、紫色の鬼が現れた。額から太い角を生やし、顔の深い皺が隈取りのような模様を形成していた。

「さて、殺すか」

 冥界の殺人鬼が呟いた。他の死体袋からも同じように亡者達が起き上がっていた。

 自分が乗客の死体を通路にして現世にやってきたことを、鮫川極は神楽達に教えなかった。特に悪意があった訳ではない。単に、彼にとってはどうでも良いことだったのだ。

 

 

  四

 

 海賊船ブラディー・サンディー号はドロドロとした闇の中にいた。

 深海。少し前まではまだ暗い深海だった、筈だ。だが今は、ここが本当に海なのか誰も確信が持てずにいる。

 障壁越しに聞こえる水音がとても低く、重く、粘っこい。毒の粘液の中を沈んでいくような重苦しさを全員が肌で感じていた。実際は肌のない者が圧倒的に多かったが。

 船を包む直径五十メートルの障壁はちゃんと稼働しているのだが、その境界から粘液が内側に少しずつ侵蝕してきているような、そんな嫌な予感を抱かせるのだ。神楽鏡影は目を細めて闇を見据えたまま無言を貫いている。

 教皇ウァレンティヌス二世が全身から放つ光だけが彼らの安らぎであり希望だった。骸骨の乗組員達も温まりたくて教皇を取り囲み、掌を向けている。しかしあまり近づき過ぎると昇天してしまうのでつかず離れずの距離を保っていた。

 キャプテン・フォーハンドは操舵輪をゆっくりと回し続け、一定のペースで船を下降させている。操舵輪のカラカラという乾いた音に混じって、ギジギジと嫌な音も聞こえている。船長はそれが自分の歯軋りであることに気づいていないかも知れない。

「……ヘイ、今どんくらいの深さだ」

 船長が尋ねた相手は、シアーシャのトランクの取っ手に括りつけられた携帯情報端末だ。

「水深二千六百メートルまでは測定出来たのであるが、既に他の端末とは通信不可能となっているため、現在の水深は不明なのである」

「ほーん、まあ、すんごく深いってことだな」

 船長の口調は少々投げ遣り気味だった。興味深げな様子で横から神楽が問いかける。

「ということは今のビューティフル・ダストさんは、携帯端末の中にいる独立した個人なのですね。これまでは常時相互通信によって膨大な演算力と情報量を持っていましたが、単体のCPUと記憶容量では見える世界が違ってきますか」

「抽象的な質問には今の状況では答えられないのである」

 その答えがそのまま単体としてのビューティフル・ダストの限界を示していた。電子機器の記憶領域にばれずに潜める程度の容量なのだ。

「ふうむ。あの列車のジョンソン夫妻の件も覚えてはいませんか」

「それは重要情報として私の記憶領域にも保存されているのである」

 そんなやり取りをしている携帯の持ち主であるシアーシャは、イドと手を繋いで舷側から外の闇を見ていた。彼女には闇以外の何かが見えているのかも知れない。

「暗いな」

 イドが無表情に呟いた。

「そうだね。暗いね」

「どうも、嫌な感じがする」

 他の者達には自明であることを、イドは今になって告げた。

「嫌な感じって、どんな感じ」

 少女が尋ねると、イドは目を下に向けて、低い声で答えた。

「見られている」

 数秒後、ビシリ、とガラスにヒビが入るような音がした。

 多くの者がギョッとして音の方を見る。左舷斜め下、球形のバリアの内側はやはり暗黒で、何が起こったのか見分けられない。

 ……いや。

 細い隙間から水の噴き出す音が聞こえた。同時に恐ろしい気配が侵入してくるのを彼らは感じ取った。入ってくるのは本当に海水なのか。もっとおぞましい何かではないのか。教皇が左舷側に寄って光が当たるとどす黒い液体の流れが見えた。

「ちょ、ヤバいんじゃねえか」

 船長が慌てる。

 神楽は設置されたポル=ルポラ製携帯式障壁発生装置を確認した。操作パネルに表示された障壁の状態を示す波線が激しく乱れ、今更になって警告のアラームを鳴らし始めた。

 だがパキパキカキ、という小さな音がして、液体の侵入はやんだ。再び障壁の外に押し出されたようだ。装置のアラームも静まる。

「補強したよ。でも、あんまり長い時間は持たないかも」

 シアーシャが言った。少し顔をしかめているのは魔術の行使に苦心しているためか。或いは、障壁の亀裂に掌を向けるためイドの手を離さざるを得なかったのが気に入らなかったのか。

「ふう、人騒がせだぜ。……っととっ」

 船長も安堵の息をついたが、すぐに次の事態が起きる。誰もが浮遊感と加速度を覚えていた。下向きの、これまでのコントロールされた降下とは異なるもの。

 落ちる。かなりの勢いで落ちていく。外の水音が慌ただしく、激しくなる。またあちこちでビシビシと障壁が傷む音がして、シアーシャがトランクを置き、船の左右にそれぞれの掌を向けて修復に努めた。

 恐ろしい予感に、骸骨の乗員達は押し黙る。バンダナキャップを巻いた副官の骸骨が「引き込まれてるんじゃないっすか、これ」と震え声で言った。

「どうやら招待されているようです。長い時間をかけずに済みそうですね」

 神楽の口調は気楽なものだったが、漆黒の瞳は視線だけで物を切れそうな恐ろしく鋭い光を放っていた。

 落ちていく。沈んでいく。引き込まれていく。障壁に次々と入る新たなヒビをシアーシャが頑張って直していく。外のドロドロした黒い闇は視認出来なくても凄い勢いで流れていくのが分かる。時折ボコボコと気泡のような音が聞こえる。

「全くよーう。激しいお膳立てだぜ」

 腹を決めたようで、船長にふてぶてしさが戻っていた。船首像がちょっと身じろぎしただけで吹き飛ぶ類のものではあるが。

 巻いていた布を取り払い、イドは鈍く輝く聖剣を露わにする。ハンガマンガを滅ぼすために鍛えられた聖剣エーリヤは、神話レベルの巨大な怪物に対抗出来るのか。

 時間的には数分かそこらであったろうか。急に降下速度が緩み、最後はその場にほぼ静止しているような状態となる。障壁の軋みが一旦やんだ。

 やはり外には何も見えない。重い水音もなく、遠くで気泡の昇るような音が僅かに聞こえるくらいだ。

 チリチリと、生者達の肌が粟立っている。イドは自分の腕を見てそれを確認したが、特に表情は変えなかった。シアーシャは「ふうう」と息をついている。

 神楽は病人のようなやつれた顔に冷汗を滲ませながら、薄い唇を歪めて尖った犬歯を覗かせ、獰猛な笑みを浮かべた。

 恐ろしい。

 恐ろしいものが、すぐそばにいる。

 見えなくても分かる。凄まじく巨大な気配を彼らは感じ取る。

 見られている。視線のようなものが当てられている。このちっぽけな船が、巨大なものに見られている。

 悪意、敵意、憎悪。そんなものは何も感じられない。ただ、見られている。

 カタカタカタと音が鳴る。骸骨達が震えている。船長も上の両手で剣の柄に触れながら、やはり体を震わせている。

 教皇は光っているため表情は分からない。ただ静かに十字を切り、祈っている。その手にロザリオらしき輪郭が見える。

「到着のようですね。分かりやすいように補正をかけましょう」

 神楽が言った。右手で指差した先に教皇が立っている。皆が注目する。と、教皇を包む光が揺らめきながら周囲へ広がっていき、障壁の内側に触れる。光が障壁をすり抜け、完全な暗黒であったものが、少しずつ透き通り、見える領域が拡大していく。

 最初に見えたのは白い触手だった。船を包む障壁の球体に巨大な触手が何本も絡みつき、巨大な吸盤でくっついているのだった。船が深く引き込まれ、障壁にヒビが入ったのはそういうことだったようだ。

 触手は半透明に透き通っており、その先も見えるがやはり触手だった。触手、触手、触手。船の周辺は高密度で百本近く、それから見える範囲が広がるにつれ、それなりに隙間は空いていたが一万本は超えているだろう。多くは水の流れに身を任せるようにゆっくりと揺れている。

 深海の水は澄んでおり、半透明の触手群を除けば船はポッカリと虚空に浮かんでいるように見える。

「これ、幻術ね」

 シアーシャの声には呆れたような響きがある。

「現実とは少々異なるかも知れませんが、見やすい方がいいですからね」

 神楽が意味ありげな笑みを浮かべた。シアーシャが気づきながら口には出さなかったことを彼は理解していたのだ。幻術による景色の『補正』に意図的な偏りがあることを。

「ほうほう。ふむふむ。……で、本体は何処だい」

 船長が見回す。無数の触手は絡み合いながら上や側方から伸びているようだが、その根元を辿ろうとしても長過ぎて分からない。少なくとも数キロメートルは見えているようなのだが。

「下だ」

 イドが言い、皆が左舷側に寄った。身を乗り出して覗こうとすると、珍しく船体が傾いたため骸骨の何人かが慌てて下がる。ひっくり返りはしなかったが、傾いた舷側に寄りかかったまま彼らは下を見た。

 船の下は暗黒だった。これまでの濁った闇とは違う。底知れぬ暗い深淵。ゆっくりとした水の動きが、巨大な渦を巻いているのが分かる。

「何だ。真っ暗だぜ」

「真下だけでなく、周りも見て下さい」

 神楽の勧めに従い皆は黒い闇の端を探す。真っ黒な領域は何処までも遠く……と、白の色彩が見える。黒の領域と明確に分けられた、銀色に近い白色のラインが水平に広がっている。船の下の黒い領域を中心にして、白い領域が輪になって囲んでいるような……。

 唐突に彼らは透明な壁を認識する。おそらく神楽が幻術で煌かせたのだろう。船と暗い深淵の間に透明な壁がある。何処までも広がっており、黒い領域も白い領域も覆っている。僅かにカーブしているようだ。船乗りが大海を見渡す時に、水平線が地球の丸さに沿って僅かに膨らんでいるように。

 そこで彼らは気づいた。

「あ、目ん玉っすね、これ」

 副官が言った。

 船の下にあるのは直径数キロ、或いは数十キロにもなりそうな巨大な眼球だった。黒い領域は瞳孔だった。透明な壁は角膜だった。白い領域は虹彩か。光がほぼ届かない深海のため、本来は瞳を狭めて光量を調節するための虹彩があんな色をしているのだろう。

 いや、ここは、本当に深海なのか。いつの間にか異世界に迷い込んだのではないのか。眼球だけで数十キロメートルもありそうな怪物の、本体はどれだけ巨大になるのか。幅十メートルもの太い触手は、こいつにとってはただの産毛の一本に過ぎないのでは。

 ……ナンダ……

 声がした。いや、声ではないが、何かが彼らの頭に届いた。

 ……ナンダ、コレハ……

 深淵が、彼らを見ていた。

 

 

  五

 

 巨大ロボ・ハタナハターナを載せたポル=ルポラの宇宙戦艦は、とっくにリニアモータートレインを追い越してオホーツクの上空まで到達していた。

 何故そうしたのかというと、地球のほぼ全域を収めているレーダーによって、列車の進行方向に障害を認めていたからだ。

 黒い異形の獣の大群。

 個体数は約五万八千体。近くに空間の歪みが検出されており、異世界に繋がる通路と推測された。今も少しずつ後続が出現している。

 オホーツク海に面した小さな港町は、既にハンガマンガによって食い尽くされほぼ更地となっていた。広がりながら森林を食らいながら南西に向かっているのは、本能的に人の多い場所を目指しているのだろうか。

 その進行方向にリニアモータートレインのガイドウェイが通っていた。

 列車がここに辿り着くまでもう暫くかかる。そして黒い群れは今のペースだと十数分でガイドウェイに届き、あっという間に倒壊させ欠片も残さず食ってしまうだろう。

 艦長ナルゲック・ポポーサは、列車と合流したいと語った客人のために気を利かせた。その判断がどんな結果を招くことになるのか知らずに。

「殲滅せよ」

 命令一つで舷側の砲撃手達は一斉に攻撃を開始した。拡散させたビーム光線は広範囲を舐めるように焼き、獣達をあっさり蒸発させていく。

 所詮は獣。知性のないただの動物だ。文明を発達させたポル=ルポラの超科学兵器に敵う筈もない。そもそも高高度から攻撃する戦艦に反撃する手段も持たない。乗員にとっては虫を潰すような感覚であり、一片の危機感も抱いていなかった。

 攻撃開始して十二秒。群れの八割を消し去った頃にそれは起きた。

「艦長、第四障壁に穴が、あっ、障壁全てに穴が開きましたっ」

 情報管理士の慌てた報告に司令室の面々は目を剥いた。

「どういうことだ。何処からの攻撃だ」

 動揺を押し殺してナルゲックが問う。

「明確な攻撃は感知出来ませんでした。障壁の穴は左側面下部の……あっ、上にいます。艦の屋根にっ」

 すぐさまウォール・スクリーンの一部に艦上面の様子が映し出される。巨大ロボ・ハタナハターナが横たわる屋根の左縁に、一体の黒い獣が腰掛けていた。

 形状は頭部と四肢がある二足歩行タイプで、それに長い尾がついていた。頭部は額辺りから頭頂部、後頭部へとモヒカンに似たたてがみが続き、更に首から背中を通って尾まで繋がっていた。毛が綺麗に揃っているため魚の背ビレのようにも見える。胴は細いが太腿は異常に太く、足先には強力な鉤爪或いは鉤爪状の牙が並んでいた。ユラユラと揺らしている腕の先には鎌のような湾曲した刃が一本ずつ生えている。

 顔の中央部を水平に裂け目が走り、モゾリとめくれると無数の牙が覗く。真っ黒な目がその口の下に三つあった。

 身長二メートル、体重は百キロもないだろうこの個体が、ポル=ルポラ戦艦を包む四枚の障壁を生身でぶち破ったというのか。困惑する乗員達と横目に、ナルゲックはすぐ命令を下した。

「殺せ」

 艦上部に取りつけられた自動式小型レーザー砲の全てがただ一体の獣に向けられ、ハタナハターナを傷つけない角度で射撃可能な二十六基が瞬時に超高熱レーザーを射出した。空気を焦がしながら白い光線が交差したその場所に、獣はいなかった。

 ズドンッ、と破壊音が響き司令室の壁が震える。その時には既に艦長ナルゲック・ポポーサの首は胴から離れていた。

 ナルゲックの首は落ちながら、ウォール・スクリーンに開いた穴を認め、それからコンマ五秒で自分が死んだことに気づいたが、次の瞬間には無数の牙に捕らえられ視界が闇に呑まれた。

 司令室は一瞬で全滅していた。誰も彼も首を断ち切られ綺麗な切断面を晒し、それらの首は床に落ちる前に一口で食われていた。

 戦艦の壁をぶち抜いて侵入した『速い獣』は、司令室の中央に立っていた。ポル=ルポラ星人達の首を切ったのは両腕から生えた二本の刃によると思われたが、僅かな血糊もないのは刃を振るう異常なスピード故か。腹の辺りが波打ちながらゴリゴリと音が鳴る。呑み込んだ頭部を咀嚼しているらしい。胃袋の中にも牙があるのかも知れない。

 五秒ほどで腹部の咀嚼活動がやみ、次の瞬間には姿が消えた。司令室のドアが破れ飛び、船内を死の風が吹きすさぶ。

 

 

「……きなさい。起きなさい、トムッ」

 女性の声が聞こえ、トーマス・ナゼル・ハタハタは目を開ける。

 薄闇。目の前はフカフカのシーツで、どうやら俯せに寝ていたらしい。トーマスは寝起きの濁った頭で「はい、もう少ししたら起きます。後二時間くらい」と生返事をした。

 肩を揺さぶられ、次は頭を叩かれる。

「誰……あ、エリ……エリザベスさんですか。もしかして夜這い……」

「危ないっ」

 身を起こしたところでエリザベス・クランホンにいきなり突き飛ばされた。ガボンッと凄い音がしてトーマスの上を何かが通り過ぎたようだ。

「何、何、です。ええっとここは……宇宙船の……」

「敵襲よ」

 クランホンが声を低くして告げた。

 改めて起き上がると、クランホンは右腕を押さえていた。コートの袖が裂けて血が流れている。

「エリザベスさん、怪我を……今、僕を庇って……」

 寝室の壁に穴が開いていた。反対側の壁にも穴が。つい今しがた、何かが壁をぶち抜いて部屋を通り抜けていったみたいだ。

 ブザーのような嫌な電子音が大音量で鳴り始めた。天井からも、部屋の外でも鳴っているようだ。警報だろう。

「大丈夫。それより脱出した方がいいわ。あなたのロボットに乗り込んで。多分、この宇宙船は墜落する」

「えっ。宇宙戦艦ですよ。宇宙人の。墜落する筈が……」

「その宇宙戦艦の壁を貫いて殺し回っている奴がいる。私達が避けられたのは相手が本気でなかったのと、運が良かっただけよ」

 クランホンの表情が険しいのは痛みを堪えているせいだけではなさそうだ。

「はあ……でも船の出口はどっちでしたっけ。あの艦長さんに挨拶した方が……」

 トーマスの頭はまだきちんと覚醒していなかった。

「客人よ、脱出しろっ」

 ドアが開いてトカゲ頭の乗組員が飛び込んできた。左腕がちぎれて赤褐色の血液が流れている。表情は判別出来ないが緊迫した様子は察せられた。

「動力機構が破壊された。数分で船は沈む」

「あ、あの、艦長さんは……」

 乗組員は首を振った。

「戦死した。敵は乗員の殆どを殺して出ていった。お前達も、あの巨大ロボに乗り込め」

「は、はい、あ、でも、生き残った皆さんも、僕のロボットに乗って脱出を……」

「不要だ。我々は丈夫でな。普通に船から飛び降りても良いのだ。心遣いは感謝する。早く行けっ」

 乗組員は無事な方の手で廊下の一方を指差した。

「ありがとうございます。ご無事で。あ、お食事とベッドをありがとうございましたっ」

 礼を言うと、乗組員の大きな口が歪み、どうやら笑ったようだった。首のない死体が転がる廊下を走ると上への階段があった。駆け上がり、クランホンが「こっち」と方向を指示する。

 柱の側面で赤いボタンが点滅しており、それを押すと天井が開いて階段が降りてきた。

 艦の上に出た時には制御を失いつつあるのか甲板が傾き始めていた。俯せに横たわるハタナハターナを一目見てトーマスは眉をひそめた。

「おかしいな。直ってるような……」

「早く乗りなさいっ」

 クランホンに背中を押され、転びそうになりながら後頭部からコックピットに乗り込む。なんとかベルトでシートに体を固定して、メインのレバーを握った感触でトーマスは確信した。

「やっぱり直ってます。多分右腕も繋がってる。自動修復機能もそこまではない筈だけど……」

「それより早く起動して体勢を整えて。高度が落ちてるわ」

「充電は……おっと、もう終わってますね。あ、そういえばクッション忘れてました」

「持ってきてるから早く出発しなさい」

 トーマスが振り向くと確かに大きな枕を小脇に抱えていた。抜かりなく寝室から持ち出したらしい。ついでに負傷した右腕も出血が止まっているのは神楽に貰った薬の効き目がまだ残っていたためか。

「了解です。では発進します」

 両腕をついてハタナハターナが身を起こす。ずれないように特殊な力場に固定してもらったのだが、動力機構の停止と共に力場も消えたようだ。艦が更に傾いたため、ズルズルと後ろに滑っていく。

 ハタナハターナが跳躍した。いや、跳躍したつもりだったが、足を滑らせて単に艦の後部からずり落ちただけだった。

「ああー、かっこ悪いことにぃぃ」

 トーマスの嘆きも落ちていく。自然落下するハタナハターナから地表までは一キロメートル以上の距離があるようだ。別のレバーを引くとギミックが稼働して背部から三角形の翼が広がった。ドラゴンとの戦いで変形・損傷していたがやはり修復されていた。空気抵抗を受けて落下速度が弱まる。これなら着地の際にさほど衝撃を受けずに済むだろう。

 ポル=ルポラの戦艦ポルータース号は傾いたままじりじりと高度を下げていく。装甲に幾つか穴が開いて、煙を吹いているところもあった。

「あれは……砲撃を受けたんですかね。敵っぽい戦艦は見えないですけど」

「違うわ。あれは敵が侵入して出ていった跡。たった一匹の化け物が、宇宙戦艦の装甲を破って乗員を殺戮して墜落させたのよ。……私達は、一体何を相手にしているのでしょうね」

 神楽という不吉な雰囲気の男とは、長話をする時間の余裕がなかった。人類の脅威が幾つも存在するということと、脅威に対抗する意思があればなるべく列車に合流して欲しいということを教えられ、再生丸という薬を渡されたくらいだ。しかしドラゴンがいて巨大な海の触手がいて宇宙人もいるのだから、宇宙船を生身で沈める敵もいて当然なのだろう。

「生き残りの人達は大丈夫ですかねえ」

 トーマスが見守っていると、側面のハッチが開いて宇宙人が次々に飛び降りた。手足を広げ、パラシュートもなしに本当に体一つで着地するつもりのようだ。

「科学技術が発達して宇宙船まで作ってるのに、あれってどうなんだろう」

 元々の乗員が何人いたかは不明だが、飛び降りたのは四人だけだ。それと、最後に片腕を失った乗員。彼も飛び降りたが動きがどうも鈍い。押さえた脇腹辺りの服が裂けており、敵にやられたのは腕だけではなかったらしい。宇宙人の医学で止血処置はされているようだが、内臓の損傷はそう簡単には治らないのだろう。

 トーマスはハタナハターナの姿勢をコントロールして、落ちながら片腕のポル=ルポラ星人に近づいていく。サブレバーの一つをひねると両前腕が回転して掌が上向きになった。なるべく揃えて前方へと伸ばす。

 意図を察した片腕の乗員もなんとか空中を泳ぎ、ハタナハターナの右掌の上にスッポリと着地した。

「しっかり掴まってて下さいね。精密操作は出来ないので」

 トーマスの声は届かなかっただろうが、片腕の乗員は妙に嬉しそうに、右手でサムアップしてみせた。

 

 

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