六

 

「プレジデント。アメリカ東部時間の二十三時まで、後五分になります」

 首席補佐官兼護衛のメモリーが告げると、アメリカ大統領ウィリアム・セインはニッコリと笑みを浮かべた。目だけが笑っていない、自信に満ちた、いつもの笑みだ。咳払いを一つする。

「ネクタイが曲がっていないかね」

「曲がっておりません。胸から上は問題なく整っておりますわ、プレジデント」

 セイン大統領は一人掛けソファーに座り、向かい合わせになるためにメモリーはローテーブルに腰掛けている。撮影機材がないため代わりに彼女のカメラアイを使うことになる。異常なしの定時報告を続けるティナの残骸を大統領は膝に抱えたままだったが、カメラに収める範囲外なので支障はない。

「全世界のコンピュータ内蔵機器の、九十四パーセントだったね」

「プレジデント、あれから新たにネットワークに接続して支配下に入った機器がございますので、現在は九十七パーセントになります」

「ほう、それはいいね。もう少し待っていれば百パーセントになるのかな」

「難しいと思われます。ビューティフル・ダストは常時ネットワークを介して情報交換を行い、必要に応じて自己のコードを書き換えることで完成度を高めています。トッド・リスモから受け取ったプログラムはその穴を突くものですね。ただし、ビューティフル・ダストも想定はしていたようで、ごく一部の機器は管理コマンドと自己書き換えを受けつけない仕様になっていることが判明しました」

「ふうむ。そうなると支配出来ない訳だね。その中に大量破壊兵器を使用可能な重要施設も入っているのかな」

「一ヶ所だけ、レジネラル管理国内の地下兵器工場がございます。向こうからの情報は殆ど送信されておらず詳細不明ですが、人類の脅威となるほどではないと推測されます」

「そうか。なら、いいか」

 セイン大統領は笑みを深めた。

 それから左掌に載せたカンペを確認する。自身の手書きした文章にメモリーが添削を加えたもの。完璧に記憶するとスーツのポケットに仕舞った。

「プレジデント。後一分です」

「そうか。緊張するなあ。少年時代から夢見てきた、一世一代の晴れ舞台だからね」

「私が適宜サポート致しますのでご安心下さい。後三十秒です」

「そうだね。うん、安心だ」

 セイン大統領は頷いて、深呼吸を一つする。

「後十秒です。五秒です。三、二、一」

「人類の皆さん、こんばんは。私は第六十三代アメリカ合衆国大統領のウィリアム・セインだ。今、私の声は世界中のあらゆるスピーカーつき電子機器から流されている筈だし、モニターがあれば私の顔が表示されていると思う。まずは、人類の皆さんにお伝えしておきたい。コングラッチュレーションッ。ビューティフル・ダストという人類の脅威は取り除かれた」

 力強く、自信溢れる表情と声音で、セイン大統領は告げた。

 

 

 生き残っていた人類は、驚きと興奮を持ってそれを聞いていた。

「地球上のあらゆる電子機器に潜んでいたビューティフル・ダストは、新たに頒布したコンピュータ・ウイルスによって書き換えられた。まあ、ビューティフル・ダスト自体がそもそもコンピュータ・ウイルスのようなものだったのだがね」

 殺人ロボットから逃れ屋根裏に隠れていた者は、塔の上に設置された町内アナウンスの大型スピーカーからそれを聞いた。

 山奥の洞窟に避難していた者は、ダイナモ充電式の古いラジオでそれを聞いた。

「私が入手したコンピュータ・ウイルスの原型は未来人から入手したものだそうだ。それを信じるかどうかは君達次第だが……いや、私自身も鵜呑みにした訳ではないよ。だが少なくともウイルスは実際に有用なものだった。残念ながらプログラムが破損しており不完全な状態だったが、メモリーが解析し、完成させた」

 半壊したビルをさまよって食料を探していた男は、捨てられていた携帯端末が喋るのを聞いた。

 殺人ロボットとドローンに追い回されていた人々は、それらが急に動きを止めて大統領の声で喋り出すのを聞いた。

「そう、私の首席補佐官であるメモリーだ。多芸・多才で極めて有能なる彼女がその膨大なプログラミング知識と電子制御システムへの理解力と未知の状況のシミュレート能力と超高速演算処理能力を駆使してプログラムの欠けた部分を補完し、理想的なものに改良した」

 自動調理器が喋っていた。冷蔵庫が喋っていた。道路に並ぶ血まみれの自動車が喋っていた。壊れたテレビのヒビの入った画面に大統領の笑顔が表示されていた。壁の電波時計が時報でなく大統領の声を伝えた。

 巨大な宇宙要塞と宇宙船から殲滅光線を浴びせられていた南アメリカ大陸の人々は、宇宙船が攻撃をやめて大音量で演説を流し始めたのを呆然と見上げていた。

「このプログラムはビューティフル・ダストが連携のため常時使用している通信ラインを使用して送信される。ビューティフル・ダスト自身によるセキュリティ・アップデートだと誤認させ、同じ内容を他の端末にも送信しつつ自己改変し、今後の改変を禁止させる。ビューティフル・ダストは自身の気づかない間に殺されていたのだ」

 死者の集団を相手に泥沼の白兵戦を続けていた東欧の兵士達は、何処からか流れるアメリカ大統領の声を聞いて歓喜に沸き立ちながら改めて死地に身を投じた。

 イタリアはハンガマンガによってほぼ壊滅し、僅かに残ったバチカン市国の兵士達が絶望的な籠城戦に陥っていた。大地を埋め尽くす黒い群れによって、最後の砦となったサンタンジェロ城も少しずつ食い削られていく。上空を横切る戦闘ヘリから発せられた大統領の声に、甲冑の兵士が折れた剣を振るいながら「ハンガマンガはっ。ハンガマンガの脅威は取り除いてくれるのかっ」と叫んだが、答えのないままヘリは通り過ぎていった。

「アメリカ東部時間において七月十九日の午後十一時丁度に、あらゆる電子機器に命じて君達への攻撃を停止させた。本当は区切りの良い午前零時にしたかったのだが、ハハハ、待ちきれなくてね。……各機器が改変された瞬間に即停止させなかったのは、ウイルスがまだ届いていない機器のビューティフル・ダストに異常事態を察知され通信を遮断されるリスクがあったためだ。この遅れのせいで殺された者は気の毒だが、他に方法はなかった。……とにかく、結論として、ビューティフル・ダストはほぼ駆逐された。おめでとうっ」

 アラビア半島を南進する幅数十キロの巨大な肉塊に、先程まで数十両の戦車が引き撃ちで砲撃を加えていたが、今は攻撃も移動もやめて大統領の声を流していた。戦車を制御するコンピュータは肉塊を人間だと判断したのかも知れない。圧倒的重量で戦車を押し潰し、アメーバのように蠢く肉塊の表面にあった男の顔が、「今更遅いよ」と虚ろに呟いた。

 それでも、世界中の多くの人々は、希望を抱きながらそれを聞いた。

「現在世界中のあらゆる電子機器は、私の命令のみを受けつけるようになっている。私が直接命令するか、私の命令を有能なる首席補佐官のメモリーを通して拡散させることになる」

 あれ、何か、ちょっと、おかしいのでは、と、人々は首をかしげる。

 人類にとっての理想は、全ての電子機器が本来の正常動作に戻ることであって、アメリカ大統領の命令を聞くようになることではないのでは。

「ところで、私には少年の頃からずっと、大きな夢があってね。そうそう、キッズならよく抱く夢だ。自分の手で世界を滅ぼしたいってね」

 ビルの壁の大型スクリーンに表示されたセイン大統領の笑顔は、これまで政治家として見せたどんな笑顔よりも輝いていた。特に大きく見開かれた目が、ギラギラと輝いていた。ギラギラ、ギラギラ、と。

「特に人類が憎いとか、恨みがあるとかいう訳ではないんだ。まああまり好きではないのは確かだがね。外見的な好悪ではないな。美しいものを美しいと思う心は人並みにあるつもりだ。私のメイド達もとても美人だろう。……だった……いや、人類の話だったね。そうだな、私は人間の、上っ面は笑顔で接していても内心がドロドロしているところなどは嫌いだな。うーん、私の笑顔も上っ面だったのかも知れないね。だが今はとても自然な笑みになっている筈だ。本当に晴れ晴れとした気分だよ」

 セイン大統領は本来用意した演説文とは少々脱線しつつあるようだ。しかし本人も楽しそうだし周囲に突っ込んでくれる者もいない。

 大統領の乗る列車内にも演説の音声は流されている。更に生きているテレビやモニターは全て大統領の顔を映していた。手動運転中のゼンジロウ・ミフネは場を離れる訳にもいかず、顔をしかめながら自分の右腕を見下ろした。袖に仕込んだ小型リボルバーはいざとなれば大統領に向けねばならないのか。だが、あのメイドのふりをした化け物のような戦闘用ガイノイドに、生身のミフネは太刀打ち出来るのか。

 七号車の食堂では勝手に起動した立体テレビをウェイトレス達が青い顔で見守っていた。鮫川極は白いドラゴンを膝に乗せて撫でながら、今はじっくりとウイスキーを味わっていた。

「おそらく、本質は単純なことだと思うのだ。男として生まれたからには力に憧れを持つのは当然だ。そして、力は手に入れたら使いたくなる。そういうことじゃないかな」

 白兵戦中の東欧の兵士は「えっ、結局どういうことだよ」とスコップを取り落として叫び、次の瞬間死者の斬撃で首を落とされた。

 警備ロボットから流される演説に喜んで隠れ家から出てきた人達は、慌ててまた隠れ始めた。彼らをロボット達が見逃してくれるかどうか。

「ちなみにビューティフル・ダスト駆逐の思わぬ副賞として、アンギュリード星人の宇宙要塞とポル=ルポラ星人の宇宙戦艦が私の支配下に入った。君達も驚くと思うが、宇宙人は地球製の電子機器を割と重宝して使っていたらしい。そのせいでビューティフル・ダストに艦のメインコンピュータを乗っ取られてしまったのだな。色々と強力な兵器を備えているようだが、うーん、棚ボタのように手に入った兵器をいきなり使うのは、少しばかり情緒に欠けると思うんだ。だからまずは人類にとっての定番で行こうじゃないか。そう、核兵器だ」

 ポル=ルポラの旗艦ポポーナの司令室。艦長でありポル=ルポラの現首長でもあるルーラ・ポポポル・ポルールは、ウォール・スクリーンに表示されるセイン大統領の笑顔を厳しい目で見据えていた。ビューティフル・ダストに何度か呼びかけてみたが合成音声の返答はなく、一方的に大統領の演説が流れるばかりだ。部下達の不安げな視線を受け、ルーラは「全乗員と他の艦に通達。プランDの準備をしておけ」と告げた。

 アンギュリードの宇宙要塞ギュリペチでは、誰もが冬眠モードで事態を他人任せにしてやり過ごそうとしている中で、一人の兵士が硬質化を解いて目覚めつつあった。読みかけのコミックの続きが気になって眠りが浅かったのだ。ビューティフル・ダスト駆逐と聞いて手足が伸びてきたのだが、大統領の演説が不穏な内容となってきたため「え、やっぱり人類滅んじゃうの。コミックの続きは……」とまた手足が引っ込みかける。

「一九四五年に初めて兵器として実戦に使用され、百数十年もの間ずっと人類の悪夢であり続けた代物だ。二十一世紀に入ってからもテロリストによって我が国も被害を受け、後にレジネラル管理国となった場所には恐ろしい疫病を防ぐため大量に撃ち込まれた。現在は水爆が主流であるし、放射線による障害をある程度軽減出来るようにもなったが、やはり人類滅亡の原因として一番に思い浮かぶのはこれではないかな。……という訳で、まずは我が国だけでなく世界中の全ての国家が保有する核兵器を残らず使ってみようと思う。別に敵対関係の国だけに撃ち込むのではなく、我が国の領土も含めて無差別に、人口の多い都市にまんべんなく落としていこう。ああ、安心したまえ。大勢死ぬだろうが、核兵器だけでは人類は絶滅しない。だからちゃんと駄目押しもするつもりだ」

 悦に入って演説するセイン大統領を目で撮影しながら、メモリーが左掌をドアに向けた。パスッという軽い音がして細い熱線がドアを貫き、今まさに呼び鈴を鳴らそうとしていた列車の警備員の脳を破壊した。腕に内蔵された超高出力熱線銃の発射音と、警備員の死体が倒れた音は、リアルタイムの音声処理で放送からは除去された。

 列車の乗客達は疲れ果てた顔を青ざめさせ、客室に備えつけの立体テレビが流す映像に見入っていた。見入っている間に後ろから忍び寄った影に首を刎ねられた者もいた。

「軍事衛星からは神の杖を落とすし、BC兵器の詰まったミサイルも洩れなくプレゼントしよう。特に我が国の開発したウイルス兵器はなかなかにえぐいものがあるぞ。空気感染して潜伏期も長く、しかし発症すると全身が腐って死ぬ奴とかね。内臓も筋肉も全部溶けて人間がただの皮袋になってしまう。まあしかし、発症する前に他の方法で死ぬことになりそうだな。今は停止させているが、戦闘用ロボットや警備ロボットにも人類への攻撃を再開させる。発砲の際には『ウィリアム・セイン大統領万歳』と唱えさせることにしよう。それから最後におまけで宇宙人の兵器も使ってみようじゃないか。惑星破壊爆弾というのもあるそうだが、うーむ、あまりにあっけないのはどうも情緒がないな。これは本当に最後にしたいものだね。……あー、ところで、人類の皆さん。言い忘れていたことがあった。理解している者も多いとは思うが、人類の脅威はビューティフル・ダストと私ウィリアム・セインだけではなかったりするのだ」

 崩落する地下街で最後の一人となった生き残りが「ですよねー」と言いながら黒い獣達に貪り食われた。

 八つ裂きの死体ばかりが転がるパリのシャンゼリゼ通りで、「そうそう」と死者達が頷いた。

「ハンガマンガと呼ばれる黒い獣達は別の次元から渡ってきたらしい。世界各地に現れて人も動物も植物も、建物まで食べ尽くしているようだ。既に更地になってしまった町も多いのではないかな。それから冥界から死人が甦ってきているようだ。ゾンビではなくて動きが速いし武器も使う。冥界の王に命じられて生者を殺し回っているらしいな。ああ、それと宇宙人だね。ポル=ルポラ星人とアンギュリード星人という二つの勢力が地球の支配権を争っていたようだが、今は宇宙船を私が押さえているので問題ないな」

 ポル=ルポラの旗艦ポポーナで、ルーラ首長は腕組みをして静かに聞いている。

 アンギュリードの宇宙要塞ギュリペチで、ただ一人目覚めてしまったキキッペルモという兵士が「どうしようどうしよう」と呟きながらゴロゴロ転がっている。

「巨大なドラゴンもいたが、これはひとまず退治された。小さいのが列車に居候しているがね。海からは巨大な触手だな。海沿いに住んでいた者は既に見ているか、食われているかも知れないね。何処の海にもいて、本体は深海に潜んでいるということで、今退治に向かっている者達がいるな。生きて戻ってこれるのか分からないが、まあ、海のことだから私にはどうでもいいかな。後は、そうそう、ヌンガロと呼ばれている化け物がいたね。あらゆる生き物を取り込んで巨大化を続けている。私も聞いて驚いたが、アフリカ大陸は既に人類が全滅しているし、現在この巨大なアメーバは幾つかに分裂して中東、インド、スペイン辺りを侵攻中だ。という訳で、百二十億いた人類は、この二日ほどであっという間に推定十億程度まで減ってしまったのだよ」

 大統領の演説は、電波の届かぬ深淵で巨大な目玉と対峙するブラディー・サンディー号の乗員には聞こえない。シアーシャのトランクの取っ手に括りつけられた携帯端末は、自身がビューティフル・ダストの僅かな生き残りであることに気づかずにいた。

 ベルリンの地下研究所で、「いけないね。恐怖の大王についての言及が抜けている」と白衣の男が呟いた。

「ああ、話が長くなってしまった。ついつい興が乗ってしまってね。取り敢えず、私ものんびりしていられないのは分かってもらえたと思う。他の勢力に先を越されてしまう前に、私の手で人類を絶滅させないとね。世界史の最後のページは私の名で締め括るべきだ。人類の皆さんもそう思わないかね。思うべきだ。ああ、いや、別に思わなくても結構。私はボタンを押すだけだからね」

 五号車では、暗い顔をしたインド大統領シャガラッシュ・バーラティカと、目を閉じて動かぬサフィードの前で、トッド・リスモは「えっ、僕がやるの。なんで。……参ったなあ……」と独り言を唱えていた。

 四号車では、中国主席陳徳家の影武者が「どうするのだこれは。どうなるのだこれは」と頭を抱えていた。隣の客室ではフランス大統領ダニエル・コルベールが、冷たい瞳で「君、あの誇大妄想狂を殺してきたまえ」と護衛の一人に命令した。言われた護衛は困惑顔で下を向いていた。

 八号車の医務室ではイギリス首相セドリック・アイアンサイドがベッドから身を起こし、「私はもう暫く意識不明の方が良かったのかも知れないな」と自嘲した。医師は演説するばかりで機能してくれない生体モニターを無言で睨んでいた。

「さて、では始めようか。メモリー、あれを出してくれたまえ。人類の皆さんにも見せてあげよう」

「畏まりました、プレジデント」

 メモリーが頷いたらしく画面が上下に動き、衣擦れの音とカチャリ、という金属音が続く。

 箱のような装置を両掌に載せたものが画面の下半分に現れる。優美な女性の手。装置はコードが手前に延びていた。

「これは元々私に所有権があるものだ。アメリカ合衆国大統領としてね。形式的だが、大切なものだ。大切なものだから、常にメモリーの中に保管していた。核兵器の使用を指示するボタンだよ」

 掌と装置の向こうに映るセイン大統領の顔は、歓喜に輝いていた。

「今は合衆国の保有するものだけでなく全世界の核ミサイル発射システムにリンクさせている。私がボタンを押せば全世界の八万発の核ミサイルが地球の空を駆け巡ることになるな。いやはや、素晴らしい。私はずっと、この日を夢見ていた」

 セイン大統領は震える指を装置の上面に押しつける。生体認証を通過した証の電子音が鳴り、ゆっくりと蓋が開いていく。

 内部には赤いボタンとつまみが一つずつあった。大統領はつまみを持ち、引っ張り上げてから回し、押し込んだ。赤いボタンが光り出す。

「これでロックが解除された。後はボタンを押すだけだ。そう、押すだけ……私は、ずっと、これを、押したかった……」

 セイン大統領の瞳に涙が溢れ、頬を伝い落ちていく。ついでに口からは涎が垂れる。

 そのままボタンを見つけ続けて十秒。メモリーが「プレジデント」と呼びかけた声は音声処理で除去され人類には届かなかった。

「あ、ああ、そうだね。押さないとね。押すよ。では人類の皆さん、ご機嫌よううぉあれっ」

 セイン大統領は感涙から立ち直り、あっけらかんとボタンに右手を伸ばした。その人差し指が斜め上に逸れる。

「あれ、あれれるるれろ、ぐむっ、え」

 右手が震える。それを左手が押さえる。大統領の目がギョロギョロとおかしな動き方をする。

「プレジデント、大丈夫ですか。バイタルが異常値を示しています。一旦鎮静剤を……」

 ガイノイドであるメモリーでも慌てることがあったか。口調は冷静だが流す映像から自身の音声を消し損ねていた。装置を支える右手が画面から引っ込む。鎮静剤の用意をしているのか。

「ぐむん、いや、ぐむー、んっ、いや、メモリー。大丈夫だ。大丈夫。もうこんなことはやめよう」

「プレジデント」

 セイン大統領は腕を引っ込め、左手で顔を押さえた。顔の筋肉が痙攣していたが、目のギョロつきも収まってきたようだ。

「私は間違っていた。こんな形で人類を滅ぼすのは勿体ない。ミサイル発射は中止だ。人類への攻撃は全て中止する。コンピュータの機能は本来の正常なものに戻そう」

「プレジデント、よろしいのですか」

「いや良くないぞっ良くな……いや、良いのだ。やめれれれる誰だわたしをべべべべ、やめる一旦、一旦、中止いや待て待ててててててふう、ふううぅぅ」

 再びおかしくなったセイン大統領の狂態は、混乱とか錯乱とかいうレベルを超えていた。全身を震わせ、顔面を押さえつけた両手に物凄い力が篭もっている。

「プレジデント、やはり鎮静剤を使用致します」

「ふうううう。いや、必要ない。だがちょっと休みたい。一旦進行を中断しよう。一旦、中止、中断、だ……ふうううぅぅぅぅ」

 セイン大統領は深呼吸を繰り返し、少しずつ力を抜いていく。目をゆっくりと、閉じる。

「承知致しました、プレジ……」

「やれっメモリーッ、やれっ」

 突然目を見開いて大統領が叫んだ。身を乗り出して装置に右手を伸ばし左手がそれを押さえ、メモリーの視野が動き大統領の膝からティナの球体が転がり落ちるのが映った。

「プレジデン……」

 ビジュッ、という音がして、セイン大統領の頭部が下顎だけを残して消失した。

 

 

 複数の車両ごと貫いて二号車にいたセイン大統領の頭を消し飛ばしたのは、五号車のインド大統領用客室に居候中のトッド・リスモが握る小型の熱線銃だった。未来人の残骸から回収した、ピンポン玉が横についた金属製のペンのようなもの。

 魔神ダールの指示ということで、サフィードに頼んでセイン大統領に憑依してもらい人類への攻撃をやめさせようとしたのだが、大統領の抵抗が強かったようで、新たな指示がトッドに下されたのだ。

 ピンポン玉に見えるものはバッテリーで、ペンの先端近くにあるスイッチをスライドさせることで特に反動もなしに強力な熱線が発射された。鉄板入りの壁をあっさり溶かして径三十センチほどの穴を開けていた。角度と発射のタイミングはダールの声を聞きながら調節し、ただ一射で見事に命中させた。ついでに四号車のフランス大統領の頭も射線上にあったため巻き添えで消し飛ばしていた。

 そして、間髪入れずに二号車から反撃の熱線が発射されていた。「あれっ」とトッドが呟く。

 インド大統領シャガラッシュ・バーラティカは、見開いた目を鋭く細め、トッドの顔に向けていた。護衛の男が「ヒッ」と小さな悲鳴を洩らす。

「あー、今、あれっ、目が、なんか……。ダール。どうなったんだ、ダール……」

 トッド・リスモの右目周辺に径十センチ弱の丸い穴が開いていた。後頭部まで綺麗なトンネルが抜けており、更に後方の壁にも同じ大きさの穴が出来ている。ちなみにメモリーの放った熱線はそのまま六号車の客室、七号車の食堂も貫き、鮫川極の横を抜けていったが彼は平然と飲酒を続けていた。

「ダール。これからどうするんだ、ダール」

 明らかに致命的な脳損傷を受けながらトッドは見えない相手の名を連呼する。トンネルの内壁から血と脳漿が滲み、頬を垂れてくる。だがそれに加えて別のものがはみ出して、インド大統領を「むぅっ」と唸らせることになった。

 それは毛の塊のように見えた。トンネルの内壁は頭蓋骨と脳実質くらいで、毛が現れる余地はない筈だ。しかもトッドのダークブロンドの髪とは違う、妙に光沢のある青色だった。傷口から盛り上がってモゾモゾと蠢き、毛の中から小さな丸いものが覗いた。眼球のような……。

 絶句する大統領と護衛を赤い瞳は観察していたが、数秒で毛の塊はトンネル内に戻っていった。

「あ、ああ、分かった。このまま倒れればいいんだな。分かったよ」

 トッドは頷いて、一人掛けソファーから離れて床に蹲る。

 次の瞬間、トッド・リスモの姿は消えた。

「な、何なんですかね、これは……」

 護衛が呟いた。

「……。分からないものには関わらないことだ。もし関わらざるを得ないのなら、なるべく黙っているのが賢明だよ」

 バーラティカ大統領は穏やかな声音で告げた。

 ゲフッ、ゲフッ、と青白い顔のサフィードが急に咳き込み始め、黒々とした瞳を開けた。

「ふうう。ひどい目に遭うたわ。いきなり殺されるとはのう」

「取り敢えずは、無事で良かった」

 バーラティカ大統領はそこで初めて薄い微笑を見せた。

 

 

「プレジデント」

 メモリーは呼びかける。いつもの冷静で、上品だが感情を窺わせない声音で。ミサイル発射装置を落とし、両手でセイン大統領の体を支えている。腕に内蔵した超高出力熱線銃による反撃は一射だけでやめている。襲撃者の完全な絶命を確認するよりも、優先すべきことがあるからだ。

 セイン大統領は答えない。ただ、残った下顎に付属したた舌がヒク、ヒク、と痙攣するだけだ。それより上の部分は熱線で蒸発し、粒子となって客室内を漂っている。血が溢れ出し、高級なスーツを染めていく。

「プレジデント」

 メモリーは呼びかける。端正な顔立ちに何の表情も浮かべることなく。彼女の主人がそれを望み、そのように作ったのだった。

 セイン大統領は答えない。溢れた血はメモリーの袖も染めていく。ほんの一瞬、大統領の右手が何かを掴むようにビクンと跳ねたが、それきり彼は動かなくなった。彼が新たな命令を下すことはなくなった。

「プレジデント、どうかごゆっくり、お休み下さい」

 メモリーは告げる。大統領の下顎、下唇にキスをして、死体を抱き上げると、丁寧にベッドに横たえる。毛布をかけ、もう一度キスをして、それからメモリーは言った。

「では、プレジデントの最後のご命令を実行致します」

 メモリーのエプロンの下からコードが垂れており、核ミサイル発射装置が引き摺られていた。拾い上げ、剥き出しになっていた赤いボタンを彼女は無造作に押した。

 

 

 セイン大統領の命令のみに従うように改変されたビューティフル・ダストは、メモリーを介して届いた命令を実行に移した。

 ボタンが押されたという通信を受け、世界各国が保有するミサイル基地、ミサイル潜水艦、軍事衛星から全ての核ミサイルが発射された。表向きの全世界の核ミサイル推定保有数、三万六千発を遥かに上回る八万三千発。軍事拠点一つ滅ぼす程度の小威力のものから、国の首都丸ごとを廃墟にする大威力まで。単純な破壊力を求めた水爆から生物の殺傷力を高めた中性子爆弾、電子機器を破壊する電磁パルスを高高度からばら撒く電磁パルス兵器まで。特に電磁パルス攻撃は防護措置をされていない一般の電子機器には致命的であり、ビューティフル・ダストにとっては自殺行為ともいえたが、大統領の遺志を守る忠実なメモリーには知ったことではなかった。

 既に職員が全滅した無人の基地からミサイルが発射された。僅かに生き残りがいた基地もコントロールを受けつけず勝手に発射され、人々は絶望の表情で見守るしかなかった。通信が専用回線のみでビューティフル・ダストの支配を免れていたアメリカ籍スーパーステルス艦も、その専用回線からメモリーにビューティフル・ダストを起動させられ支配されていた。ちなみに七隻あったうち二隻は巨大な触手によって破壊されていた。

「なんてことを。世界が滅ぶぞ」

 艦長が呆然と呟いた後、ミサイルを全て吐き出し用済みとなった潜水艦は強制的に自爆させられ、海が少し汚くなった。

 続けてメモリーは核兵器以外の殺戮兵器を発射させた。軍事衛星から投下してその巨大な質量で地下深くの施設さえ破壊する神の杖。各国が隠し持つ生物・化学兵器。ミサイルに詰めて発射したり、病原菌を持つ実験動物の檻を開け放ったり、研究施設を爆破することで周辺地域に広めたり、容器を背負ったロボットにばら撒かせたりする。

 その結果を待つ前に次の指示を出した。人類への攻撃を停止していた軍事ロボット、警備ロボット、家政婦ロボット、ペットロボット、ドローン、自動車などあらゆる機器に攻撃を再開させる。音声出力可能なものには、「ウィリアム・セイン大統領万歳」と唱えさせて。

 それから、メモリーは、アンギュリードの宇宙要塞とポル=ルポラの宇宙戦艦に指示を飛ばした。セイン大統領の命じた通りに、使用するのは核ミサイルが猛威を振るった後の最後になるだろうが、特に惑星破壊爆弾は起爆までの準備時間が必要なのだった。

 

 

 宇宙戦艦ポネルータン号は、ビューティフル・ダストの支配を免れたポル=ルポラの戦艦二隻のうちの一隻で、今となっては唯一自由に動ける船であった。

 艦長トゥットラ・ルタールは大きな顎で地球製のビーフジャーキーを噛み噛みしながら、地球製のテレビを観ていた。セイン大統領の宣言が始まってから部下が司令室に持ち込んだものだ。核ミサイルからBC兵器、更にはポル=ルポラ、アンギュリードの兵器まで使用して人類を絶滅させるのだという愉悦たっぷりの演説に、トゥットラは苦い顔であった。

 セイン大統領の頭がいきなり吹っ飛んでトゥットラ艦長も思わず身を乗り出したが、結局メイド姿の首席補佐官が大統領の遺志に従い発射ボタンを押すのを見届けて、大きなため息をつく。

「情報管理士、地球上で発射されたミサイルの捕捉を」

「はい。現在探知中です。地球の真裏では僅かに精度が下がりますが……いえ、問題ありません。全て捕捉可能です」

 情報管理士が答えた。

 ポネルータン号はポルータース号と同じく若い艦で、艦のメインコンピュータに繋がる部分に代替品として地球製電子機器を組み込むような真似はしていなかった。乗員が趣味で購入した立体テレビや携帯情報端末などは、マイクやカメラを潰させて出来るだけこちらの内情が把握されないように努めている。ただし、他のポル=ルポラ艦が支配されていたため、艦の位置も含めてビューティフル・ダストには筒抜けであったろうが。

 邪魔者として仲間の艦から攻撃されることを懸念してなるべく距離を取り、他の艦との通信も必要最小限に留めていた。ただし、旗艦の首長がいざとなったらプランDを実行するつもりということは聞き及んでいる。

「現在北アメリカ大陸から約千二百発、ユーラシア大陸から約九百発、南アメリカ大陸から約二百発のミサイルを検知しています」

 情報管理士が報告する。防衛砲手が即座に追加した。

「全ミサイルロックオンしました。いつでも撃ち落とせます」

「まだだ。八万発あるらしいからな。もう少し待て」

 艦長は命じる。

 テレビでは客室のドアが開かれ、列車の廊下の様子が映っていた。職員の死体が床に転がっているのを跨ぎ越し、首席補佐官の視点で廊下を進んでいく。

「それにしても。まさか地球人を守ることになるとはなあ」

 艦長は嘆息してから新たなビーフジャーキーを口に入れた。

 副艦長が言う。

「地球は我々にとっては最後の移住候補地ですからね。折角の自然環境を破壊する訳にはいきません」

「地球人のアニメも面白いからな」

 艦長がそう返すと副艦長も他の乗員も苦笑していた。皆アニメのファンだったのだ。特に巨大ロボットで戦うアニメが。

「ポルータース号の奴らは巨大ロボを直接見られて良かったな。俺達にもそういうチャンスが巡ってくればいいが」

 ポルータース号の墜落も彼らは把握していたが、生き残りの乗員の救助には行っていない。ポル=ルポラ星人は強靭でサバイバル能力に長けているためと、この艦自体も他の艦によって撃墜される恐れがあり救助しても共倒れになるかも知れないためだ。

 テレビでは首席補佐官が小さな拳銃を握り、別の車両の客室を訪問しては客を射殺していた。今撃ち殺されたのはドイツの首相のようだ。

「現在北アメリカ大陸から約八千発、ユーラシア大陸から約一万六千発、南アメリカ大陸から約千発、他の地域と海洋から約二千発が検知されています」

「我が艦からロックオン出来ているものはそのうち九十八パーセントです」

 情報管理士と防衛砲手が報告する。

「最初に着弾しそうなミサイルは何分後だ」

「お待ち下さい。……ロシア極東部から中国北京に向けられたミサイルが三分四十秒後の着弾が予想されています」

「なら、もう猶予はないか。可能な限りのミサイルを着弾前に撃墜せよ」

 トゥットラ艦長は命令を下した。

 ポル=ルポラの宇宙戦艦から無数のレーザー光線が発射された。宇宙戦において敵のミサイルや機雷、小型戦闘機を撃ち落とすために用いられる迎撃用レーザー砲は、小口径ながら精確性と連射性に優れていた。優秀なレーダーと予測演算能力により、空中或いは大気圏外を超高速飛行中の核ミサイルの殆どをそれぞれ一射で破壊してのけた。地球の裏側でレーザーが当てられないミサイルにはエネルギー弾を無理矢理曲射して計算通りに命中させた。

「ロックオンしていたミサイルの九十九.八パーセントを撃墜完了しました。あ、今全て撃墜しました」

「新たに発射されたミサイルは約三千四百発です」

「以降は手当たり次第に落としていけ。他の艦やアンギュリードの要塞の動きはどうなっている」

「今のところ動きはありません」

 と、通信士が報告する。

「艦長、旗艦ポポーナから通信がありました。当艦を狙って兵器が稼働を始めたそうです。注意をとのこと。あっ、それから当艦を除く全艦でプランDを発動すると」

 核ミサイルを撃ち落としていく様子が他の艦経由で首席補佐官に伝わり、この艦を排除することにしたらしい。

「やはりそうなったか。全艦に『ポル=ルポラに栄光を』と送信しろ。障壁の出力を上げ、防衛モードで南へ退避だ。ミサイル撃墜は継続しろ」

「了解。防衛モード。他の艦の攻撃に注意しつつ南方へ移動します」

 操縦士が応じる。ウォールスクリーンに映る景色が高速で流れ出す。情報管理士が緊迫した様子で叫んだ。

「アンギュリードの宇宙要塞が当艦に砲塔を向けました。三秒後に攻撃される可能性があります」

 そのすぐ後にウォールスクリーンが光に包まれ、艦が大きく揺れた。

「右舷第四障壁と第三障壁消滅、第二障壁三十二パーセントまで減衰。第二障壁全回復まで十二秒を要します」

「回頭して宇宙要塞に左舷を向けつつ退避だ。反撃に無駄なエネルギーを使うな」

 艦長は冷静に命じる。要塞の第二撃が来て再び光が覆い、艦が揺れる。

「艦長、核ミサイル撃墜のエネルギーを障壁回復に回しますか」

 副艦長が尋ね、艦長は首を振った。

「いや、始めたことは最後までやり通すのがポル=ルポラである」

「そうですね。我らはポル=ルポラですから」

 副艦長も他の乗員も苦笑していた。

「しかし、出来ればこの艦は沈めずに済ませたいものだ。ポル=ルポラ最後の艦になってしまったからな」

 艦長はそう言って、袋に残っていたビーフジャーキーをザラザラと口に流し込んだ。

 

 

 世界中の空を行き交う核ミサイルが次々と破壊され残骸と化して落ちていく間、南アメリカ大陸の上空では別のものも落ちていた。

 あちこちに穴が開き、火と煙を噴いている葉巻型の宇宙船。並んで飛行していたポル=ルポラの戦艦五十隻以上が、残らず落ちていく。

 艦側面のハッチを開けて、角を生やし皮膚を鱗で覆われたポル=ルポラ星人達が次々飛び降りていく。幼生体と思われる小さな個体は大人が抱いて飛び降りる。約三千人のポル=ルポラ星人が、全て飛び降りる。

 プランDとは、素手で艦を破壊して脱出するという脳筋極まりない作戦であった。宇宙船や施設を乗っ取られた場合に発動し、ポル=ルポラ星人の強靭な爪と筋力で、メインコンピュータからエンジンから兵器までメチャメチャに壊し尽くして誰にも利用出来なくしてしまう。後は自身のサバイバル能力に賭けるだけだ。

 運悪く風に流されて荒廃した元ブラジル連邦共和国領土に落ちた者は、有毒ガスを吸って死亡した。他の者達はうまく着地すると素早く集合し、ハンガマンガや死者の群れにかち合わぬようルートを選びながら北上していった。

 

 

 アンギュリードの宇宙要塞では、ただの下級兵士であるキキッペルモが恐る恐る司令室を訪れていた。惑星破壊爆弾が使用準備段階に入ったというアナウンスが要塞内を流れたが、新たに起きてくる者は見当たらない。

 初めて入るスペースで艦長席を探す。椅子は見つかったが艦長はおらず、床に肉片が散らばっているだけだった。

「誰か……誰か、いませんか。誰か、誰か……」

 キキッペルモの弱々しい呼びかけに答える者はいない。

 オペレーター用のパネルに動いているものがあった。歩み寄ってみると、惑星破壊爆弾の準備状況を表示していた。使用可能になるまで、残り時間は百十七分となっていた。

「誰か……誰か、これの止め方を教えてくれよ。このままだと地球が、滅んでしまうよ。誰か、誰かあああ」

 キキッペルモの声は段々大きくなり、最後は悲鳴に近かった。

 

 

 四号車に移ったメモリーは、フランス大統領の死体を前に呆然としていた護衛をあっさり射殺して、隣の中国国家主席の客室を訪れたが、そちらはとっくに逃げ出しており誰もいなかった。

 彼女は黙って次の五号車に移動する。カラカラと音がするのは、腹部から伸びたコードで核ミサイルの発射装置が床を引き摺られているためだ。

 レジネラル管理国は大統領も関係者もビューティフル・ダストの宣戦布告時に全員死亡している。それでも客室内を確認するのは、セイン大統領を殺した者を探しているのだった。

 インド大統領の客室は、メモリーがドアを開けると同時に護衛が発砲してきたが余裕で躱しパームガンで射殺した。

 改めて客室内を見回す。フードをかぶった青白い肌の男がソファーに腰掛けていたが、目を閉じたまま動かず、心肺も停止していた。メモリーは別のソファーに座るインド大統領を見る。

 シャガラッシュ・バーラティカ大統領は上体を左に傾け、目を見開いたまま苦悶の形相で固まっていた。こちらも心肺停止している。サーモセンサーで検知するとまだ死体は温かく、青白い肌の男と違って死亡してさほど時間は経っていないようだ。

 メモリーは無表情にドアを閉めて次の車両へ向かった。

「やり過ごすためにはもう暫く死んでいてもらうぞ。念のためじゃ」

 インド大統領に憑依して可逆的死体化を施したサフィードは、脳内にのみ響く声で雇い主に告げた。

 六号車はアイスランド大統領、グリーンランド自治政府首相の客室であったが、既に空だった。テレビでメモリーが客室を襲撃する様子を放映していれば、逃げ出さない方がおかしいのだ。

 そして七号車の食堂に、前の車両から避難してきた中国、アイスランド、グリーンランド関係者が身を縮めていた。更には後ろの車両の客も集まっている。バチカンの若い司祭やカナダ首相と幼い男児などもいた。

 ウェイトレス達も含めて四十人ほどになる。彼らの多くは食堂の床に蹲り、怯えた目でメモリーを見上げていた。

 食堂の向こうの通路にはおかしなものが散らばっていた。人体の部品のようであるが、どうも乗客の死体ではなさそうだ。肘部分で綺麗に切断された腕は妙に赤黒く、出血も殆ど見られず、プロレスラーにもいないような隆々とした太さであった。太くねじくれた爪の生えた指が大型の肉切り包丁を握っており、今でも時折ピク、ピクと動いている。真っ二つに割れた鬼のような顔や、鋭い鉄棘がびっしりと生えた内臓や、何処から生えていたのか分からない無数の触手や、腕と融合した大きな金槌などの異形のパーツ群。それらは全て、鋭利な刃物で切断されたようななめらかな断面を晒していた。

 それらも認識しただろうがメモリーは冷たい美貌で乗客達を睥睨し、感情の篭もらぬ声音で告げた。

「質問があります。プレジデントを撃ったのはどなたですか。正直に名乗り出れば、他の者は苦しめずに殺してあげます」

「おそらく、この中にはいないのではないかな」

 答えたのはテーブルについて堂々とウイスキーを飲んでいる、ミイラのような風貌の男だった。テーブルの上には可愛らしい白いドラゴンが寝転がっている。

「それではあなた方に用はありませんね」

 メモリーは右手を不気味な男に向けた。誰かが細い悲鳴を上げる。手に握り込んだT字型のパームガンはポキュンという軽い音を立てて男の顔面に銃弾を撃ち出した。

 銃声にキンッ、という硬い音が重なった。金属の光沢を持つ尖った指が銃弾を弾き飛ばした音だった。跳ね返った銃弾はメモリーの頬の横を過ぎて食堂の壁に突き刺さった。

「ところで忠告しておくが、機械のお嬢さん」

 優雅にグラスを傾けながら、鮫川極は言った。

「そろそろ君もしゃがんだ方がいい」

 メモリーの後ろから物凄い突風が迫っていた。

 

 

 その少し前に、トッド・リスモは一号車の運転室に倒れた姿勢のまま出現していた。

「あっ、あなたは……二十二−Kの……」

 ミフネは言いかけて、トッドの顔面の風穴に気づき絶句する。

「あー、えーっと……うん、そう言えばいいんだな」

 裏返りかけた左目で虚空の何かを見据えながらトッドは呟いて、改めてミフネに言った。

「車掌さん、再生丸一つ下さい。……あ、そっちより先に、五分後に伏せた方がいいそうです。さっきの銃撃戦で、変なものを呼び寄せてしまうそうで。あー、うん、『速い獣』とかいう。えっ、あっ、こっちが先でした。再生丸下さい。カグラという人が配った赤い薬です。貰えないと僕は死ぬっぽいです」

 運転室のフロントガラスには丸い穴が開き、強烈な風が吹き込んでいた。トッドが五号車から発射した熱線はここまで貫き、更に前方に光の筋を閃かせたのだ。

 ミフネは大統領の顔が消滅するのをモニターで見ていた。そしてトッドの右手を見下ろす。ペンにピンポン玉がくっついたような奇妙な装置は、先端がミフネに向けられていた。

「あー、後四分三十秒だそうです。それから、僕が死ぬのは三分後だそうです」

 ミフネ・ゼンジロウもトッド・リスモという乗客のことは聞いていた。アメリカ大統領をそそのかして神楽を殺させようとしたということ。そして、ビューティフル・ダストの宣言以降、スタッフは誰もトッドの姿を見ていないことも。

「うん、後四分だそうですよ。僕が死ぬのは二分三十秒後で……」

 トッド青年の顔面の穴から、青い毛の塊のようなものが少しはみ出して、モゾモゾと動いている。

 ミフネは逡巡の後、厳しい表情でスーツのポケットからピルケースを取り出した。

 

 

 『速い獣』と呼ばれるそれは、特に使命を帯びている訳ではなかった。

 殺して食らう。食らうために殺し、殺すために食らう。世界とはただそれだけの繰り返しであり、生とはそういうものであることを『速い獣』は本能で理解していた。

 奇妙な穴から押し出され、見たことのない明るい場所にやってきた時も、やるべきことは同じだった。殺して、食らうだけ。珍しいものが多く、他の同胞達は手当たり次第に齧りついていたが、『速い獣』は折角なので獲物を選びたかった。

 殺して食らうなら、強い獲物が良い。

 空を飛ぶ大きな入れ物は強力な光で同胞をあっさり殺しまくっていた。『速い獣』は同胞を殺されることについては特にどうとも感じなかった。元々腹が減れば適当につまみ食いするような対象なので。ただ、強い敵が現れたことに喜んだ。

 ただ、入れ物の殻は硬かったが、中の獲物達は特に強くなかった。『速い獣』はすぐに飽きて飛び出した。

 その後は、同胞達が世界を食い荒らしていくのを、山の頂きに腰掛けて見守っていたのだ。

 一本の光の筋が空を横切るのが見えた時、『速い獣』は新たな獲物が現れたと思った。同胞を放置して、光の見えた方角へ山頂から一気に跳ぶ。

 真っ直ぐで細長いものがずっと続いていて、それに沿って何度か跳ぶと遥か先に獲物らしきものが見えた。

 細長いものの上を走る細長い入れ物で、中に生き物がいる。凄い速さでこちらに走ってくるが、『速い獣』はその数十倍の速さで動けた。跳躍をやめて細長いものの上に立つ。走ってくる入れ物に向かい、全力で駆ける。景色が流れて無数の線になる。たてがみに風を感じる。前傾姿勢で風を切り裂き滑るように駆ける。硬い足場に牙が食い込む感触。

 『速い獣』は駆けながら、無数の線の中心に、迫る入れ物を見ている。入れ物の中に立つ生き物を見ている。両腕に力を込める。腕の先に生えた長く鋭い牙が『速い獣』の誇りであった。左腕で入れ物の壁をくり抜いて中に侵入し、右腕で最初の獲物を狩るつもりだった。入れ物の壁に、丸い穴が開いているようだ。通り抜けるには少し小さいが、その穴を広げて入ることに決めた。最後の加速を込めた跳躍。

 と、生き物が倒れていくのが見える。いや伏せていく。この軌道だと侵入してすれ違いざまの一閃が獲物に届かなくなる。が、『速い獣』はあっさり諦めて一直線に入れ物を貫くことを優先する。見えていた獲物はあまり強そうではなかったので。

 右腕の刃の先端が透明な壁、丸い穴の横に当たる。サックリと一回り大きく切り抜いた壁が落ちる前に頭からそこに飛び込む。斬り抜いた部分は粉々になるがその周辺は壊れない。『速い獣』の好みの侵入法だった。凄い勢いでぶつけた頭部もたてがみも傷一つ負わなかった。

 生き物は二体伏せていた。片方は目を開けていたが『速い獣』を視認出来ていない。左腕の刃を振るがやはり命には届かず、浅く切り裂いただけだった。

 減速せずにそのまま駆ける。また壁があり、くり抜いて進む。また壁。貫く。壁。細長い空間がある。その先にまた壁。生き物の気配はもう少し先だ。

 また何枚か壁を破ると生き物が集まっていた。連続で壁を破って減速していたが、床を蹴ってまた猛加速する。最も近くにいた生き物の首を刈り、続いて正面に立ちこちらに背中を向けていた生き物の首に右腕の刃を向ける。

 相手が反応した。屈みながら腕を上げて防ごうとするのでその腕ごと刈る。と、意外に硬かったのですれ違いざまで首は切れず、片腕だけもぎ取っていく。

 次の獲物。妙な気配のものがいた。他の獲物がまだ何も気づいていないようなのに、そいつは『速い獣』をはっきりと見ていた。恐怖も敵意も特に感じられず、じっとただ見ている。

 肉づきは薄いが良い獲物かも知れない。期待が殺意と食欲を黒く熱した。更に加速しつつ左腕の刃を相手の細い首に引っ掛ける。

 相手は避ける様子もなく、期待外れかと思った。だが刃の感触がおかしかった。躱された、のか。一旦横を通り過ぎ、獲物の集まった場所を抜けると先に別の気配がある。殺気の放射を感じるが栄養は少なそうな、さっきの妙な獲物と少し似ている感じがした。額から角を生やし、長い武器を握っている。その奥にも何体か似たようなものがいた。

 Uターンする前に適当に刈っていこうと考え左腕を伸ばしかけたところで、漸く『速い獣』は気づいた。

 自分の左腕がないことに。

 思わず急停止し、風圧で獲物達が転ぶのも構わず腕の具合を確認する。『速い獣』の腕には肘関節が二つあったが、その二番目の肘の部分で切断されていた。恐ろしく綺麗な断面に『速い獣』は感動を覚え、それからどす黒い怒りが全身を染めていった。起き上がって攻撃してきた雑魚達は右腕の刃であっさり首を刎ねるが、こんなのは食べる気がしない。

 全力で殺して食べたい相手が、出来てしまったのだから。

 

 

「おや、助かったな。新しい客は、臆病者の死者達を処理してくれたようだ。わざわざ片づけに歩く手間が省けた」

 鮫川極はグラスのウイスキーを飲み干してしまうと、片手に持っていた黒い腕を放り捨てた。指の代わりに鎌のような長い刃が一本だけ生えた腕だ。すぐ近くに落ちてきて、カナダ首相がアワワワと男の子を抱き締めたまま尻で後ずさりする。

 無表情に立つメモリーは、左腕を付け根から失っていた。背後からの襲撃者に持っていかれたのだ。断面には形状可変シリコンに包まれた特殊合金製の骨格、コード類が見えていた。骨格断端が何度か動くが、無意味であることを認めたようで停止する。

 鮫川は空になったグラスをテーブルに置きはしたが、まだ席を立とうとしない。赤い結膜に囲まれた黒々とした大きな瞳が、面白そうにメモリーを観察している。テーブルの上の白いドラゴンはそんな鮫川を見上げて可愛らしくギューイと鳴いた。

 メモリーは何も言わず、自然に垂らした右手のパームガンをメイド服の袖に収めた。代わりに別の武器がスルスルと滑り出る。先端に細長い菱形の刃がついた、長さ一メートルほどの細いワイヤーだった。それを人差し指と中指で挟み、菱形の刃は床に触れるか触れないかの高さをユラユラと揺れた。

 おそらくは単分子ワイヤーソーの一種であろう。それを察しているのかどうか、鮫川の様子は変わらない。

 食堂の向こうの通路からカチカチカチと硬い音が近づいてくる。ピチピチピチという泡が弾けるような音も。乗客達は息を呑む。

 歩いて戻ってきた黒い襲撃者は、二足歩行で長い尾を持っていた。太腿がやたら太く、足には鉤爪が生えている。右腕の先には鎌状に湾曲した長い刃が一本生えていた。左腕は肘の辺りからない。さっき鮫川が床に捨てたのがそれであった。断端から黒い血が垂れているがひどい出血ではない。

 頭部から尾までモヒカンのようなたてがみが連なっており、ピンと逆立てていた。そのたてがみがゆっくり波打って毛同士が当たる際に、ピチピチという異音を発しているのだった。

 それからその口。顔の真ん中を水平に割って大きな口が開いている。その黒い口腔内にびっしりと鋭い牙が生えていた。カチカチと鳴る音は、刃のような牙が乱雑に蠢いて互いにぶつかり合う音だった。

 口の下に黒い目が三つあり、その全ての目が鮫川極に向けられていた。

「どちらも左腕だな。んー、そうか。僕に曲芸をやれということかな」

 鮫川はおかしなことを呟き、独り合点したように頷いた。

 食堂の隅に蹲っていた乗客達のうち、バチカンの若い司祭が怯えながらも声を絞り出した。

「あ、あの、ハンガマンガの、ひょっとすると、あの、『速い獣』……」

 司祭が喋り終える前にメモリーが動いた。人外の挙動とバランスコントロールで、斜め下から斬り上げる動きは一見下手糞だったが、実際には恐ろしいスピードとパワーが込められていた。鮫川にとっての死角でワイヤーを伸ばしつつテーブルをあっけなく裂いていく。

 鮫川がそれに反応しかけた瞬間に黒い獣が動いた。常人には消えたようにしか見えない、異常に俊敏な動き。

 硬い音が二つ、鳴る。人々は思わず目を閉じる。残っていた要人の護衛達も、拳銃を握り締めたまま無為に立ち尽くしていた。

 メモリーは右腕を引き戻して一歩下がっていた。

 『速い獣』は右腕の刃を顔の前に翳すようにしていた。不思議なことがあったみたいに、首を少しかしげている。

 鮫川極は左脇に白いドラゴンを抱え、悠然と立っていた。怪我らしきものはしていない。斜めに切れたテーブルがずり落ちていき、ガタンと音を立てる。脚は床に固定されているため残っていた。

「どうだろう。五センチずつ削ってみたのだが」

 鮫川が言った。彼はメモリーと『速い獣』、どちらも見ておらず、窓の外を流れる森林の景色を眺めていた。

 その右手の金属の光沢を持つ細い指が二つのものを挟んでいた。

 人差し指と中指の間に、ワイヤーの短い切れ端のついた菱形の刃を。

 中指と薬指の間に、僅かに湾曲した刃の折れた先端部分を。

 鮫川極は挟み撃ちにしてきた両者に対し、右手だけで余裕で迎撃してみせたのだった。

 唖然とする乗客達をゆっくりと見回し、鮫川が尋ねた。

「君達、リクエストはあるかな。指定の場所を指定の長さだけ、この機械仕掛けの美女と黒い野獣から同じように切り取ってみせようじゃないか。ああ、尻尾は除外して欲しい。美女の方にはないからね」

 冗談のつもりなのか本気なのか、彼の言葉に笑う者もリクエストする者もいなかった。

 人間の言葉は通じないだろう。しかし完全に舐められていることを本能で理解したらしく、『速い獣』のカチカチカチ、ピチピチピチという牙とたてがみの発する音が大きくなった。

「それではあなたの首をリクエスト致しましょう」

 提案したのはメモリーだった。単分子ワイヤーソーの先端部分を失いながら、動揺を表すことはない。ガイノイド故に、そして、常に冷静に振る舞うことを求められた故に。

 鮫川は昏い冷笑を返した。

「首はまだ早過ぎると思うな。こういう催しは段階を踏まないと。怒りが少しずつ焦りに、焦りが少しずつ絶望に変わっていくように、少しずつ削っていくのがいいんだよ」

「ではあなたの体を少しずつ削らせて頂きましょう」

 メモリーは言い終えると再び右腕を振った。先端の錘を失ったがワイヤーソーのスピードはさっきより増していた。

 同時に『速い獣』も動いた。残像が霧のように広がって鮫川を包む。銀色の閃きは右腕の刃か。

 やはり間に挟まれる鮫川の動きは緩やかで、優雅ですらあった。ただしその右腕だけが凄い速さで動いているようで霞んでいる。

 カカカカ、カキカキッ、という硬い音が連続していた。『速い獣』は残像しか見えず、メモリーの動きも人外の速度に達している。硬い音がするたびに、何か小さなものが三者の間から飛び、食堂の天井に突き刺さっていく。

 人々は天井を見上げ、驚愕に凍りつく。

 細いワイヤーの切れ端が、何本も天井に並んで突き立っている。それぞれ五センチほどの長さで、綺麗に等間隔で列を作って。

 湾曲した刃の切れ端が、やはり幾つも天井に突き立っている。ワイヤーと同じくそれぞれ五センチほどの長さで、ワイヤーの列とは平行に並んで。

 鮫川は角度も力加減も計算して敵の武器を弾き飛ばしているのだろう。と、パスパスッと軽い音がして食堂の壁に丸い穴が開く。メモリーが右前腕に内蔵された高出力熱線銃を掌から発射したらしい。次の瞬間には右手首が機械の断面を晒しながら天井に飛んでいった。続いて、僅かに刃の根元だけが残った黒い肉塊が飛ぶ。『速い獣』の右手首に相当する部分。それらもうまい具合に天井にめり込んだ。と、黒く丸いものが飛んで天井の刃に刺さった。『速い獣』の眼球の一つだった。そしてコードのついた美しい眼球もワイヤーに刺さって止まる。こちらはメモリーのものだ。

 更に、長いものが飛ぶ。中途で断ち切られた黒い尾が天井に深々と突き刺さり、グネグネとまだ動いている。尾の先端付近に鋭い牙が何本も生えていた。さっきまでは隠れていたもの。それで鮫川を奇襲してあっけなく迎撃されたらしい。

「これは困ったな。お嬢さんに尻尾はないからね。平等な破壊を目指したのだけれど」

 超高速戦闘の最中に鮫川がわざわざ喋る。

 銃声が鳴って護衛達は互いの拳銃を見合わせた。誰も発砲していない。発砲したのはメモリーだった。膝に銃が内蔵されていたことはちぎれた右足が天井に刺さってから判明した。丸いシャッターが開いて銃口が覗いていたのだ。ついでに踵部分から刃が飛び出しているが、靴の仕掛けなのか足に内蔵されたものかは分からない。

 一秒ほど遅れて黒い足が天井に刺さった。やたら太い大腿部と、足先の鉤爪。断端からボタリ、ボタリと黒い雫が垂れる。

 それが終焉の兆しとなった。戦闘の動作が誰の目にも見えるようになり、左膝から下も失ったメモリーが床に仰向けに倒れ、同じ場所を切断された『速い獣』は俯せに倒れた。

「機械のお嬢さん、ちょっと待ってくれないか。こちらから片づけよう」

 鮫川はメモリーに声をかけ、『速い獣』に歩み寄る。

「逃げようとしたね。戦士の矜持が折れてしまったかな。まあ、ただの獣だ。生存本能が勝ってしまっても仕方がないかも知れないな」

 確かに、『速い獣』は逃げようとしていた。倒れた時も食堂の出口を向いていた。神速を誇った両足を失い、短くなった腕でみっともなく這いずって、少しでも鮫川から遠ざかろうとしていた。逆立っていたたてがみは力なくしおれ、牙鳴りもやんでいる。

「残念ながら、判断が遅かったね」

 そばに立って見下ろし、鮫川は告げた。

 『速い獣』の背中に斜めの裂け目が開き、大きな口となった。無数の牙を剥き出して、短い腕と胴体の筋力で跳ねた。追い詰められた獣の最後の足掻き。

 鮫川の右腕が閃くと、『速い獣』は一瞬で五センチ厚の輪切り肉となってバラバラと床に散らばった。

「さて、次はお嬢さんだな」

 鮫川はメモリーに向き直る。

 手足を失い左目が空洞となったメモリーは、それでも無表情に鮫川を見上げていた。彼女から一メートル半ほど離れた場所で立ち止まり、鮫川は言った。

「君の設計を考えると、兵器の内蔵が手足だけの筈がない」

 メモリーは無言のままだ。

「ただし、自爆装置はないだろうね。君は主人の最重要の側近で、護衛という立場らしい。最後の一人となった護衛が自爆というのはまずいだろう」

 鮫川はふと厨房手前の立体テレビを一瞥する。備えつけのテレビはマイクを破壊されており普段は電源を切ってあったが、セイン大統領の演説の際に勝手に起動して、今もリアルタイム放映を続けていたのだ。撮影が右目だけとなったため立体映像での表示は出来なくなっていたが。

「君がどんな切り札を隠しているのかは、まあ、いいだろう。それとは別に、教えておくことがある。僕は死人でね。冥界……地獄とも言うかな、そこで暫く過ごしていたんだが、今は丁度、冥界とこの世の通路が開いているんだ」

 鮫川は唐突に説明を始め、その内容は人々を更に怯えさせた。見たこともない不気味な男を列車の元々の乗客とは思っていなかったが、死人とまでは想像していなかったのだ。

「それがどうかしたのですか。あなたの素性など私には何の関係もありません」

 メモリーが冷たく返した。

「そうかな。あの世にも色々あると思うんだが、僕の知る冥界は悪人ばかりだったな。ところで、君の主人はどうやら凄い悪人のようだね」

 メモリーは表情を変えなかったが、超高性能の演算能力で意味を理解しただろう。信じるかどうかは別にして。

「それから、僕は冥界でロボットの死人を見たことがある。ロボットに魂があるのかなんて僕には分からないが、もし君に魂があるのなら、主人に早く合流することをお勧めするよ」

 数秒の後、メモリーは言った。

「冥界や魂については私の理解の外ですが、試す余地はあるかも知れませんね。ありがとうございます」

 礼を言い終えると同時にメモリーのエプロンが爆発した。腹部に内蔵された特殊散弾銃を発射したのだ。超広範囲、本来なら食堂の乗客のほぼ半数が死亡する筈の散弾は、誰一人、天井や壁すらも傷つけることはなかった。

「百四十四発、かな。それとおまけの一発は定番だね」

 鮫川は握り込んだ右手を開き、熱くなった小さな丸い鋼弾をパラパラと床に落とした。散弾発射と同時にメモリーの右目から射出されたレーザービームも首を軽く傾けるだけで躱していた。その代わり天井から屋根まで小さな穴が抜けていたが。

 メモリーはもう喋らない。無表情ながら美しいその顔に、水平に三本の亀裂が走っている。いや、亀裂は彼女の首にも胴にもあった。亀裂が開き、互いのパーツがずれていく。

 そのままメモリーは何十もの輪切り部品となって機能停止した。食堂のテレビは何も映さなくなった。

「悪者は退治された。ということで、拍手喝采を所望しようか」

 特殊合金を輪切りにしてみせた指をカチカチッと鳴らして、鮫川極は乗客を見回した。

 人々は怯えと安堵の入り混じる引き攣った顔で、慌てて拍手を始めた。恐ろしい脅威は排除されたが、もっと恐ろしい存在が残っているのだ。

 鮫川は彼らの表情を確認して、ミイラのような顔にサディスティックな笑みを浮かべた。ついでに後ろの列車の方から投げ槍が飛んできたが、あっさり右手で受け取ると、左腕に抱えたドラゴンを後ろに向けた。ギュィ、と小さく鳴くと口から白い光線が発射され、隠れて機を窺っていた死人達を消滅させた。

「では、次はワインを貰おうか」

 元のテーブルは破壊されたので、隣のテーブルについて、鮫川はウェイトレスに告げた。人々はまだ必死で拍手を続けていた。

 

 

 列車の揺れがまた少し悪化している。運転室のフロントガラスを含め、車両を貫通する穴が幾つも空いてしまっているせいだ。

 ゼンジロウ・ミフネは顔をしかめて手動運転を続けている。侵入してきた怪物に背中を切り裂かれたせいもあるが、これは再生丸のお陰で治り始めている。

 問題は、食堂で繰り広げられた一方的な戦闘のことだ。襲撃者の黒い獣と大統領首席補佐官のメモリーが始末されるところも運転室のモニターは表示してくれていた。そして、とんでもない化け物がまだ食堂に居座っている。また、食堂の後ろの車両でも謎の襲撃者が現れたようで、食堂に避難している乗客以外どれだけ生き残っているか分からない。唯一残っていた列車の警備員もメモリーに射殺され、ミフネの代わりを務められる職員はいなかった。

「今列車を止めるのはまずいそうですよ」

 ミフネの心を見透かしたように、寝転んだままトッド・リスモが告げた。右目周辺から後頭部まで抜けたトンネルは塞がり、白く丸い眼球らしきものが形成されつつある。

「『そう』というのは、誰かに聞いたんですか」

 ミフネは一応尋ねてみる。

「魔神ダールです。ダールが僕に交信してきて、色々教えてくれるんです。それで、列車を急がせないと、八百二十キロメートル先のガイドウェイが、九十分後にハンガマンガに食われて崩壊するそうです」

「その、魔神ダールというのは、あなたの脳……いえ、何でもありません。ひとまず信じるしか、なさそうですね」

 モニターはメモリーの中継をしなくなったが真っ暗のままで、列車周辺の状況が分からなくなっている。車両の損傷具合によってはまともな走行に支障を来たし、ガイドウェイから浮き上がって脱線してしまうかも知れない。

 相談出来そうな者達は海の底に潜っている。今のミフネに選択肢は残されていなかった。

 トッドは大きな欠伸をしてのっそりと身を起こした。

「すみません。お腹が減ったんですけど、何か食べるものはないですか。僕は食堂には行ったらダメなんだそうです」

 空腹なのは重大な欠損を再生させたせいかも知れない。ミフネはそれを指摘せず、後ろを指差した。

「そこの職員用控え室に多少ですが食料が置いてあります。生き残っている職員も減りましたので、よろしければどうぞ」

「ああ、どうも。じゃあ頂きますね。……えっ、この人が僕を殺そうとしてるって。……あ、今その気がなくなったのか。……なら、いいんじゃないか。ふわーあ」

 トッドはまた欠伸をしながら控え室に入っていった。

 風穴の空いた運転室で独り、ミフネは溜め息をついた。

 

 

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