七

 

「お……お前が、シー・パスタかっ」

 遥か下方の巨大な眼球へ向けて、キャプテン・フォーハンドは大声で問いを投げた。

 ……ナンダ、コレハ……

 深淵の声が再び彼らの頭に届く。

 調整された幻術による透き通った闇にブラディー・サンディー号は浮かんでいる。白い触手群に障壁ごと捕らえられ、左舷側に皆が寄っているため微妙に傾いたまま。触手の遥か向こう、直径が何キロもありそうな白い虹彩の輪に囲まれた暗黒の瞳孔が、真下からブラディー・サンディー号を見据えていた。巨大な眼球は動かず、瞬きもしない。瞼があるのか不明だが、もし瞬き一つでもすればこの深海は激しく揺れることになるだろう。

「ヘイ、耳がないのかい。お前がシー・パスタかって聞いてんだよっ」

 返事がなかったため、船長は更に声を張り上げて尋ねた。やはり巨大な眼球に反応はなく、声は虚しく水中を拡散していった。

 眉をひそめ観察していた神楽が、得心したように頷くと昏い笑みを浮かべた。

「ああ、分かりました。どうやら、あれにとっては私達はただの埃か何かだったようです。漂ってきたちょっと珍しい埃をつまんで観察しているだけです。埃と話が出来るとも思っていません。思念が伝わってくるのはここがあれの神域であるためで、私達に呼びかけているつもりではないのです」

「何いィ、俺様達は埃ってかい。……こっちは五百年も追い回してきたってのによう」

 腹を立てる船長の勢いは微妙に弱かった。眼窩の青い炎も小さくなっている。

「あの……いいっすか。あんなデカブツを、どうやってやっつけるんっすかい」

 黒いバンダナキャップの副官が、皆が抱いているであろう疑問を口にした。尋ねた先は神楽だった。

「海深くまで潜って本体をやっつけようって言ったのはあんたっすよ。おいらもシー・パスタの本体って奴が大きいとは思ってたっすけど、ここまでとは予想してなかったっす。大砲撃ち込んだところで毛ほども効きそうにないっすよ。どうやって倒すのか、おいらにはまるで想像出来ないっす。カグラさん、切り札とか秘密兵器って奴を早いところ見せて、おいら達を安心させちゃくれないっすかね」

 恨みがましい口調になっていた。骸骨達の暗い眼窩から非難の眼差しが神楽に向けられていた。

 骸骨の糾弾を神楽は平然と受け止めたが、問いには答えず静かに船員達を見据えていた。彼らに仲間としての価値があるのかどうか、値踏みするように。

「おい、俺様の海賊旗を上げろ」

 重苦しい沈黙を破ったのは船長だった。

「それから砲窓も開けて準備しとけ。ありったけの弾をぶっ放すぜえ」

 吹っ切れたような、さっぱりした声音になっていた。

「船長……」

「あのなぁ、ここは喜ぶところだろうがよ。命知らず、怖いもの知らずの俺様キャプテン・フォーハンドと愉快な仲間達が、念願の宿敵と漸く巡り会えたんだぜ。クライマックスだろうが。敵が馬鹿でかい方が燃えるだろうがっ。いやあ、本体がショボかったらがっかりするところだったぜ。俺様達のことを埃程度にしか思ってないこのデカブツによお、ギャフンと言わせてやるぜええええっ」

「イ……イエーイッ、イエエエーイッ」

 消沈していた骸骨達に活気が戻ってきた。彼らは快哉を叫びながら大砲の準備にガンデッキへ下り、自慢の海賊旗を上げ始める。

 船首像も嬉しそうにゴギッ、ビギビシ、と音を立てて二振りの斧を振り上げ、船長が慌てて叫んだ。

「旗、旗は交換、サンディーの旗を上げろっ、ゴージャスでビューティフルでグラマラスなサンドラ様の旗をここでお上げしなくてどうするっ。は、早くしろおおっ」

 髑髏に剣四本の海賊旗が上がっていたのはほんの数秒だった。代わりに白い女性の顔と斧二本の大きな旗が上がるのを見て船長は安堵の息をつく。

「……で、カグーラよ。何かうまい手はあるんだろうな」

 隣に立つ神楽に船長は小声で尋ねる。

「ないこともないですよ。まず、砲弾に毒を塗っても構いませんか」

「あの触手をバンバン溶かしてた毒か。いいねえ。あれを目ん玉にぶち込んでやりゃあ、触手みたいに切り捨てる訳にもいかんだろうさ」

「ただし、量は多くないので塗るのは四、五個までとさせて下さい。それで、砲弾は届きそうですか。ここが深海であり、水流がある可能性も加味しての話です」

 巨大な眼球との距離は分かりにくいが、少なくとも五、六百メートルはありそうだった。そして大航海時代における船の大砲の射程距離は最大でも五百メートル程度、威力と命中率を考慮すると戦闘で有効な距離は百メートル以下と言われている。

「うちの砲手は腕がいいし根性で当てるだろうが……海の中じゃな、正直、もう少し近づきたいところだ」

 と、ビキバキガギンと重い音が聞こえて船長は凍りついた。船首像が二本の斧をブンブンと振り回したり打ち合わせたりしているのだ。

「あ、ああ……サンドラ様が、荒ぶっておられる……斧に、毒を斧に塗れと仰せだ……」

 船長の声が震えていた。

「まあ、いいですけど。サンドラさんは斧を投げるのも得意な方ですか」

「斧投げですか斧投げはサンドラは得意ですよ凄いですよ。そりゃあ一投げで俺様の部下ごとまとめて二十五人の首を刎ねたことだってありましたからね。砲弾よりも遠くに届くし速いしとにかく凄いんです。あっサンディーへの毒塗りは私めがさせて頂きますので毒を下さい、精魂込めて丁寧に塗らせて頂きますよ夫ですからね。愛の証ですよ。あっ、サンディーに毒を塗るんじゃなくてサンディーの斧に毒を塗るんですよね。大丈夫大丈夫分かってますって。どうせサンディーに毒は効かないんですよね、いやいやおかしなことは考えてないですよ万が一にもおかしなことは考えてないです」

「……。では、どうぞ。生身の生物なら触れただけで死ぬことになりますが、あなた方は大丈夫でしょう。蓋を開けて中身を垂らして下さい。やや粘調なので気をつけて」

 直接刺して注入するものとは別に用意していたらしく、神楽は袖の中から小瓶を取り出して船長に渡すと、次なるメンバーへ声をかけた。

「イドさん」

「あれを殺せばいいんだな」

 遥か下方の巨大な眼球を指してあっさりとイドが言った。

「……出来そうですか」

「出来るかどうかは分からんが、敵なら斬るだけだ」

 そう答えるイドには気負いも緊張もなかった。

「では試してもらいましょう、と言いたいところですが、その前にまずは船を捕えている触手を切り払ってもらうことになります。あの眼球に攻撃を当てるためにもっと近づきたいので」

 船は障壁で守られているが、内部から外への攻撃は普通に通るように設定されていた。

「分かった」

「と、今じゃないですよ。合図するまでは待っていて下さいね」

 今にも剣を振ろうとしていたイドを神楽は制止する。

「あの、すみません。私にも何か手伝えることはないでしょうか」

 光り輝く教皇が神楽に尋ねた。

「何の役にも立てないのは申し訳なくて。どうせ一度死んだ身ですから、使い捨てにして頂いても構いません。爆弾か何かありましたら……」

 生前にドラゴンの口内で決行した自爆攻撃はもう使えないようだが、教皇は道具があればまた自爆特攻をやってみせると言っているのだった。

 神楽は眩しげに目を細めつつ答えた。

「今回は船内を照らして頂くだけで充分です。あなたの属性はおそらく別の相手に役立つと思いますので」

 ……タベモノデハ、ナイナ……

 彼らの頭に再び声が響いた。

 ……コレハタベモノデハ、ナイ……

 船員達に緊張が走る。この船を食べないとして、次にこの巨大な怪物が船をどうするつもりか予想出来なかったからだ。

「チッ、やっぱり『これ』扱いかよ」

 戻ってきた船長がない舌で舌打ちした。呪文のようなサンドラへの褒め言葉を唱えながら船首像の持つ斧に毒を塗り終えたのだ。

 神楽は皆を見回し、船内の砲手達にも聞こえる声で告げた。

「イドさんに触手を切り払ってもらいますが、その瞬間に敵として認識される可能性があります。一気に勝負を決めたいところです」

 それから船長に告げた。

「触手の拘束から解放されたらすぐに船を下降させて眼球に接近して下さい。届くと思ったら攻撃開始して構いません。向こうからは触手だけでなく、海上で見たあの水鉄砲のような攻撃も来る可能性があります。正直どの方向から飛んでくるか分かりませんが、気をつけて下さい」

「あー、分かった。とにかく何も考えずぶっ放せばいいんだろ」

 船長がお気楽なことを言い、船員達が笑い声を上げた。

 それから神楽は改めてイドに告げた。

「私が合図したら触手を切り払って下さいね。船に近づいてくる触手があればそれも切って下さい」

「分かった」

「もしやれると思ったら、あの眼球を斬ってしまって構いません。その聖剣は、使用者の意志に応じて斬撃を伸ばせるようですから」

「そうだな。やってみよう」

 イドは頷いた。

 次に神楽はシアーシャに告げた。

「あなたには大変苦労をおかけしますが、障壁が崩壊しないように維持・補強を続けて下さい。もし限界と思ったら、ご自身とイドさんの安全を優先して構いません。他の皆さんは元々死んでいたりするので心配要りませんし」

「うん、言われなくてもいざとなったらそうするけど、カグラのおじさんは大丈夫なの」

 シアーシャに聞かれ、神楽は自嘲のような笑みを見せた。

「私はなかなか死なないようになっていますので」

 それから神楽は改めて皆を見渡した。

「私も切り札の一つを使います。しかしこれは非常に危険な手段になりますので、対策をしっかりと覚えておいて下さい。いいですか、私が『伏せろっ』と叫んだら、すぐに耳を塞いで物陰に伏せて下さい。しくじれば破裂して死にますから、くれぐれも気をつけて下さいね」

「耳……ね」

 船長は自分の耳辺りに触れてみる。髑髏に耳は残っておらず、耳の穴の名残りがあるだけだ。鼓膜もないが、まあおそらくは、そこで音を聞いているのだろう。肉のない指先でコツ、コツと軽く叩き、船長は頷いた。

「野郎共、分かったなあーっ。ちゃんと耳塞げよっ。耳っぽい、ところをー」

「おーうっ」

 船員達は大声で応じ、頭蓋骨の耳の穴をコツコツと叩いてみせた。

「あ、そうだ。海賊の皆さんに聞いておきたいことがありました」

 ふと思い出したように神楽が尋ねた。

「皆さんはあれをシー・パスタと呼んでいますが、実際にパスタにして食べたことはあるんですか」

 骸骨達は互いの顔を見合わせた。船長が代表して答える。

「そういやぁ、食べたことはなかったなあ。じゃあ持ち帰ってパスタにしてみるかあ」

「パスタにするぞおっ、イエーイッ」

 骸骨達は大声で笑いながら賛同の声を上げた。

 そろそろ戦闘開始という雰囲気になったところで、シアーシャの携帯が久しぶりに喋り出した。

「質問があるのである」

「おや、何でしょう。あまり時間はないのですが」

 神楽が問い返す。

「君達が何を相手にしているのか、私には全く認識出来ないのである。君達に届いているという思念も、私には届いていないのである。これはこの端末のセンサーが性能不足であるためなのか。それとも、別の要因があるのであるか」

「あー、それは……確かにセンサーの問題はあるかも知れませんね。私の幻術は補助的に物理的な映像投影も行っていますから。ただ、シー・パスタの思念は魂に直接響く類のものです」

「ならば、私には魂がないということであるのか」

 携帯端末に収まったAIの問いに対し、神楽は少し考えた末に告げた。

「それは一言で答えられるようなことではありません。この戦いの後、時間の余裕が出来たらお答えしましょう」

「分かったのである。待つのである」

 携帯端末は素直に了承した。

「じゃあ、そろそろ始めていいかい」

 船長に促され、神楽が返事をしようとした時、再び彼らの頭に思念が届いた。

 ……タベモノデナイ、ナラ、イラナイナ……

 珍しいことに、神楽のこめかみに青筋が浮かび上がった。

 ……ステヨウ……

 神楽が怒鳴るようにして告げた。

「戦闘開始ですっ。イドさん、触手を切って下さいっ」

「分かった」

 イドがすぐに動いた。剣閃。幾重にも残像となって描かれた軌跡は本来の剣の長さを遥かに超え、船を囲む球形の障壁に光の筋を浮かび上がらせた。甲板の高さから上に何十もの線が。そしてイドは左舷に寄り船縁から上体を乗り出して下方へ剣を振るう。新たな線が生まれる。素早く右舷に駆けて同じことをする。

 切れたのは障壁ではなく、障壁を押し包む白い触手群だった。幅十メートルもある触手が完全に切断され、バラバラのブツ切り肉となって漂い離れていく。一部の肉塊は吸盤でそのまま障壁にくっついているが、もう船を拘束する力はなかった。

 おお、と教皇が嘆息する。聖剣の正統な使い手は失われたが、今こうして人類の脅威を倒すために聖剣が振るわれているのだ。新たな使い手は微塵も臆することなく、剣技は無駄な動きのない堅実なものでありながら同時に流麗でもあった。

「よっしゃ目ん玉に向かって進むぜえっ。お前らまだ大砲は撃つなよっ」

 船長が操舵輪を勢い良く回す。とにかく回せば思い通りに動くブラディー・サンディー号は、左舷側に少し傾いたまま下降を始めた。深海の粘質な抵抗のためゆっくりしたものだったが、少しずつ加速していく。

 ……アレ……

 ちょっとした驚きの思念が伝わってきた。体の一部を傷つけられた苦痛ではなく、ちっぽけな埃に攻撃されたという怒りでもなく、ただ、ほんの少し意外なことが起きた、くらいの軽いものだった。

 ……オットットッ……

 同時に周辺の触手群が殺到してきた。改めて船を掴もうとしているのか。深海が掻き混ぜられるグミョリグミョリという不気味な音が響く。イドが剣を振る。触手が障壁に触れる前に切断され、蠢きながら離れていく。

 しかし触手の勢いは凄まじかった。シー・パスタ自身はそれほど本気ではないのかも知れないが、触手の数はあまりにも多く、ここは盾になるような障害物も何もない敵のテリトリーだった。

「まだだ、まだ撃つなよー。もう少し……」

 イドがぎりぎりの迎撃を続けているのを見ながら船長は操舵輪をぶん回す。船員達の半数ほどは砲手を手伝うためにガンデッキに下りていた。残りの船員は剣を抜いて万一触手が侵入した場合に備えているが、実際そうなったら負けて滅ぶ時だろう。

「もうちょい待てよー、もうちょいああああっ」

 船長が叫んだのは、船首像のサンドラがいきなり右手の斧をぶん投げたからだ。白い石の斧は回転しながら触手をぶった切り、ぶった切り、粘調な水を切り裂いて深淵の眼球まで飛んでいく。

「あああもういいや撃てっ、撃て撃てっ」

 サンドラが左手の斧まで投げたところでヤケクソ気味に船長が怒鳴った。傾きを得て眼球に面した左舷の砲窓から派手な音を立てて砲弾が撃ち出されていく。大半はうねる触手に当たってしまい、すり抜けた一部も深海の抵抗に負けて勢いをなくしていく。だが、毒塗りの砲弾が当たったようで触手の何本かは黒く溶けていった。異常事態に気づいたか、触手群が慌てたように暴れ始めた。イドの迎撃が間に合わず叩きつけられた触手に障壁が軋む。シアーシャがすぐに掌を向けて亀裂を修復する。操舵輪の前に置いたポル=ルポラの障壁発生装置がアラームを鳴らし始めた。

 二振りの斧がクルクルと回りながら彼方の深淵へと突き進むのを、神楽は鋭い目つきで見据えていた。

 粘液のような重い闇。液体ではなく固体であるかも知れず、或いは虚空であるのかも知れないが人間には判別出来ないだろう。ここは深淵であり、恐るべき巨大な古きものの神域であった。だがそれを、白い石の刃が速度を減衰させることもなく、なめらかに切り裂いていく。一人の女の怨念の宿った、しかし、ただの石像のパーツであったものが。

 闇の中を深く、深く。触手の間を抜け、底知れぬ広大な深淵の奥へ。二振りの斧が、クルクルと。

 そして、白い刃が、透明な角膜の壁に、ツルリと潜り込んだ。大幅にスピードが落ちたがまだ進んでいく。

 ……ンッ……

 新たに届いた思念には、本当に僅かながら、苦痛のニュアンスが感じられた。

「届いたぞーっ。目ん玉に届いたっ」

 船員の一人が指差して叫んだ。彼も斧の行方を見守っていたのだ。神楽も見せるために幻術を張っていたのだが。

「ヘイヘーイッ、やれる、シー・パスタの野郎を殺せるぜっ。愛してるぞサンディーッ」

 船長が愛の言葉を叫び、船員達が歓声を上げる。そんな中でイドが淡々と大上段から聖剣を振り下ろした。

 余計な力みのない剣閃が美しい光の帯となり、間にあった触手を何本も断ち切りながら深淵に吸い込まれる。透明な壁に相当な長さの亀裂が入り、グネリとたわむのが見えた。船員達の歓声が更にヒートアップする。

 ……イタッ……

 思念ははっきりと苦痛を伝えてきた。神に対し、明らかにダメージを与えたのだ。

 神楽は斧の方を見ていた。白い斧がくり抜いた角膜のトンネル。そこから黒く変色した領域が少しずつ広がっていく。神楽の提供した毒は効いているようだ。しかし、神域でまともな物理・化学の法則が何処まで通用するか。

 このタイミングで神楽はいよいよ切り札を切った。

「あー、くしゃみが出そうだなあ」

「えっ」

 鼻をヒクつかせて急に間の抜けたことを言い出す神楽に、シアーシャも思わず声を上げた。

「あー、今にもくしゃみが出そうだ。くしゃみが……」

 次の瞬間起きたことは、神楽の本来意図していたこととは違っていただろう。斜め下方から障壁を貫いて伸びた一本の太い線が、ブラディー・サンディー号の左舷船縁、約二メートル角を削り取ったのだ。水鉄砲。海上から毒を落とした時、仕返しに飛んできたシー・パスタの攻撃手段の一つだった。あの時とはスピードも威力も桁違いで、障壁も船体も瞬時に貫いていった。ついでに自分の一部である触手群も巻き添えを食らっていた。

 恐るべき運の悪さというべきか。あっけなく粉砕され崩壊した船縁に、丁度神楽がいた。落ちていく彼の腰から下は消し飛んでおり、破れた腹腔から腸が零れてくる。彼は驚愕と怒りに目を見開きながら、それでも「くしゃみが……」と繰り返した。このままだと障壁を素通りして外に出てしまう。生身で、神域の粘海に。

 シアーシャは水鉄砲で開いた障壁の穴を修復するのにかかりきりだった。教皇は一瞬の惨事に反応出来ていなかった。船長は雄叫びを上げながらまだ操舵輪を回していた。

 右舷側で剣を振るっていたイドが、咄嗟に甲板を横切って駆け寄り船縁から手を伸ばした。だが落ちていく神楽には届かない。剣を甲板に刺して両手をフリーにすると、彼は船縁から身を躍らせた。

「おいおいっ」

 船長の叫び。イドは左手で船縁を掴み、片足を船体側面について神楽へ右手を伸ばした。ぎりぎりで、届きそうだ。神楽がコンマ二秒以内にイドの手を取りさえすれば。

「掴めっ」

 イドが言った。

 神楽はイドの手を掴みかけるがすぐに引っ込め、ニコリと微笑んで首を振った。

「不要です。私は大丈夫ですので」

 言い終えた時にはもう間に合わない距離になっていた。

「そうか」

 イドは神楽の言葉を信じたらしく、素早く身を翻して甲板に戻り、剣で触手を刻む作業に戻った。船員の一人が今更ながら太いロープを持ち出してきたが、船縁から下を覗くと既に神楽の体は障壁からはみ出しつつあった。

 船を見上げ、神楽は大声で告げた。

「耳を塞いで伏せろおっ」

 そして神楽は障壁を抜け、深海に呑み込まれた。

 シー・パスタ以外に生き物のいない水中。深海の超水圧で瞬時に潰されるかと思いきや、神域の特殊性故かそうはならなかった。だが海水とは組成が異なるのか、神楽の浅黒い皮膚が、垂れ下がった腸がみるみる溶けていく。ここは深海でなく、神の胃の中であったのだろうか。

 呼吸も出来ない筈だ。神楽は苦しげなそぶりを見せず、とぼけた口調で改めて呪文を紡ぎ出す。彼の声は水中でもうまく響いた。

「くしゃみが出そうだなあ。今にもくしゃみが……」

「えっ、くしゃみが出そうなのか」

 漸く反応があった。消化液中を漂う神楽の目の前、向かい合うように男が浮かんでいた。瞬間移動でもしたみたいに突然現れたのだ。薄汚れた服装の、しょぼくれた顔のくしゃみ男が。

 これが、神楽の意図した切り札であった。くしゃみ男は何処にでも現れる。彼の噂をすれば特に。神楽はそれに少し工夫を加えていた。

「ええ、くしゃみが出そうです。ああ、今にも、ふぁ……」

 神楽は鼻をヒクヒクさせて口を開けてみせる。本当にくしゃみが出そうなそぶりで。

「くしゃみなら負けないぞ。ふぇぐぢっ」

 くしゃみ男が対抗して先にくしゃみをした。その直前、神楽がくしゃみ男の体を素早く捕らえてクルリと半回転させた。神楽と船の方を向いていたのを、深淵の巨大な眼球へと向き直らせたのだ。

 くしゃみの音波が水中を拡散し、何処までも広がっていく。船上の仲間達は殆どが素直に耳を塞いで伏せていたので無事だった。神楽が向きを変えさせたため届く音波が比較的弱かったのもある。砲撃に夢中になっていた砲手が一人爆散したが、指示に従わなかったのが悪いので神楽を責める者はいないだろう。ちなみに船首像のサンドラも耳を塞いで背を丸めていた。

 ……ヌワッ……

 くしゃみが巨大な眼球の透明な角膜に触れ、聖剣で作られた長大な傷がめくれ上がった時、シー・パスタの奇妙な思念が届いた。それがあっけない、神の断末魔となった。

 角膜が爆発した。深淵の瞳が爆発した。何処かで繋がっていたであろう触手群もまとめて爆発した。消化液の深海が爆発した。もう何もかもが爆発して世界そのものが爆発したような恐ろしい衝撃と震動がブラディー・サンディー号にもぶち当たり、一気に持ち上げた。

「ぐっうっ」

 シアーシャが呻く。ポル=ルポラの装置による障壁が瞬時に崩壊し、それを支えるために無理をしたようだ。両掌から血が流れ落ちる。

 その手をイドが掴むと、シアーシャは嬉しそうに微笑んだ。次の瞬間には甲板に闇が降りかかった。神楽の幻術が切れたようだ。教皇の放つ輝きだけが船を照らしていた。障壁はあちこちの亀裂から大量の水が流れ込み、その外は何も見えない。船が揺れ、船員達が悲鳴を上げる。障壁発生装置のアラームは大音量で鳴り続けている。

「ヘイヘーイ、浮上だ、緊急浮上だぜえ」

 操舵輪を勢い良く回す船長は妙にテンションが高かった。

 と、障壁の大きな破れ目を更に叩き広げて白い触手が飛び込んできた。イドが咄嗟に剣を閃かせて先端数メートルで切断すると、ほぼ同時に投げつけられた斧が更に根元側数メートルの箇所を切断していた。サンドラの石製の斧だが、この短時間のうちに斧はまた生えたらしい。

「ほいっ」

 船長が飛び上がって空中で四本の剣を振るい、巨大な輪切り肉から五十センチ角くらいの塊を切り出すと、残りは蹴り落とした。二つの輪切り肉は障壁外に沈んで見えなくなり、断端側も少し痙攣しながら引っ込んでいった。

「パスタにして食っちまう予定だったからな」

 船長は抱えていた白い肉塊を落とし、剣の一本で甲板に串刺しにして固定した。

「うわあ、なんか、まずそうっすけどね」

 副官が突っ込むと、船員達が大声で笑った。

 バギャンと嫌な音がして障壁にまた亀裂が入る。もうあちこちから大量の水が噴き込んでいる。障壁発生装置のアラームが一際大きくなると、ピヨヨヨーンと気の抜けた音を発してそれきりになった。

「装置のバッテリー切れである。推奨レベル以上の高出力で酷使されたためである」

 シアーシャの携帯が告げた。

 穴だらけの障壁はそれでも数秒は維持されていたが、外の水を遮っていた表面がグニョリと波打つと、一気に消滅して全方向から水が押し寄せてきた。

 イドがシアーシャを庇うように抱き締めて身を丸くする。その二人を中心にして見えない壁が作られ、甲板に殺到した水を防いだ。ただし直径約二メートル分だけ。予告していた通り、自分達だけ守ることにしたらしい。というより、それだけしか余力がなかったのだろう。

「心配要りませんよ。私達はとっくに死んでますから、溺れることもありませんし」

 水に呑まれながらも物理的な影響を受けないようで、教皇は甲板に危うげなく立ったまま二人に告げた。彼の声は水中でも普通に聞こえた。

「まあーそうだな。やってみりゃあ意外となんとかなるもんだ」

 操舵輪を回しながら船長が言う。両足は水に流されないように舵の台をしっかり掴んでいた。船体があちこちで軋みを上げ、他の船員達も船縁やマストなどに必死にしがみついている。一部の気の利いた船員は掲げた旗をこっそり下ろそうとしていた。水で汚れたのがサンドラにばれる前に仕舞わないと恐ろしいことになりそうだ。

「問題は、あー、大砲の火薬が湿っちまうことだなあ」

 ぼやきながら船長は何処かから缶ビールを取り出して、激流の中でそれを飲んだ。ちゃんと味わえたかどうかは不明だ。

 マストの一本が折れてロープを引きちぎりながら飛んでいく。流されかけた船員を仲間達が引っ張っている。

「船長さん、なんか元気ないね。カグラのおじさんのことが心配なの」

 球形の障壁の中からシアーシャが声をかけると、空き缶を放り捨てて船長は首を振った。

「いーや、カグーラの奴はなんか殺しても死にそうにない感じだからな。しれっとまた合流してくるだろ」

「じゃあ、あのシー・パスタが本当に死んだのか気になるとか」

 さっき飛び込んできた触手は目的のある動きではなかった。切れたトカゲの尻尾がウネウネ動くようなものだったのかも知れない。ただし、まだ本体が生きている可能性を否定は出来ない。

 何も見えない激流の中でする会話ではなかったが、船長はまた首を振る。

「いや、あれはもう死んでるだろ。勘だけどな。なんとなくなあ、ずっと心に引っ掛かってた邪魔なゴミが取れた感じがするからな。……ただ、問題は、なー。宿敵相手の戦いに、俺様が大して活躍出来なかったってことなんだよなあ」

 船長は嘆息すると、吹っ飛びかけた海賊帽を片手で押さえた。激流は上から下へ下へと流れており、つまり、船は深海から正しく浮上しているということだろう。

 シアーシャはクスリと可愛らしく笑い、骸骨の船長に言った。

「船長さんが活躍するチャンスは、まだちゃーんと残ってるんじゃないかな。世界を滅ぼしちゃうような敵がまだ幾つも残ってるもの。船長さんも一緒に戦ってくれるんでしょ」

「……うん、そうだな。次こそは俺様の超絶四刀流を披露してやるぜえっ。ついでに人類を救っちまったら俺様は救世主になっちまうなあ」

 船長はカハッ、カッカッと歯を打ち鳴らして笑ってみせた。

 遥か上方に微かな光が見える。それが少しずつ、大きくなってくる。海面が近づいているのか。既に夜になっている筈だが、深海の闇よりは明るいことだろう。

 加速していた船はガボッと海面を抜け空を飛んだ。大量の水が船のあちこちから流れ落ちていく。行きは何時間もかけたのに、帰りはほんの数分だった。生身での急速浮上は減圧症で命の危険があるが、事前に忠告されていたためシアーシャは対処していたようだ。透明な球形障壁を解除しても、二人の様子に変わりはなかった。

「ヒャッホーイッ」

 船長が叫ぶ。船員達も腕を振り上げて歓声を上げる。船首像のサンドラも斧を振り上げて喜んでいるようだ。酒瓶を持ち出して皆に配る船員もいた。

 眼下の暗い海はまだメチャクチャに荒れ狂っていた。甲板に降り注ぐ水滴は雨でなく、打ち上がった海水のようだ。

「で、これからどうすんだ」

 また缶ビールを飲みながら船長が尋ねる。「んー」と少し考えてシアーシャが言った。

「カグラのおじさんが戻るのを待った方が良さそうだけど……その後は西に向かって、リニアモーター列車のガイドウェイを見つけないと。列車の場所をビューティフル・ダストさんが教えてくれたらありがたいなあ」

 トランクの取っ手に括りつけられた携帯端末は黙っていた。シアーシャが覗き込むと、電源ランプはちゃんと点灯している。

「……ウィリアム」

「あ、熱くなってる」

「セイン大統領万歳っ」

 耳をつんざくような大音量を発すると、端末が爆発した。瞬間、イドがトランクと少女の間に割り込んだが破片を浴びることはなかった。シアーシャが咄嗟に張った見えない障壁に破片がぶつかり、ずり落ちていく。

「どうしたのかな。ウィリアム・セイン大統領って、アメリカ大統領のことだと思うけど」

 シアーシャが首をかしげるが、答えの分かる者はここにいない。

「船長、何か降ってきますぜ」

 船員の一人が指差した先に皆が目を向ける。上空から海水の雨に混じって大きな塊が落ちてくる。

「カグラのおじさんだね」

 シアーシャが言ってくれたため、迎撃のため斧を投げようとしていた船首像も思い留まった。

 背中に生えた半透明の翼で軌道修正しつつ、しかし大した浮力は得られなかったようで神楽鏡影は甲板にベチャリッという感じで着地した。

「お待たせしました」

 下半身は失われたまま、残った部位もあちこち裂けて骨が見えていた。背後に回っていたとはいえ、死のくしゃみを音の伝わりやすい水中の超至近距離で受けたのだから、生きているのが奇跡のようなものだった。

「おじさん、なんだか凄く無茶なことしたね」

「相手が相手でしたからね。裏技のようなものです。同じネタをやっても、もう出てきてはくれないでしょう」

 瀕死の状態に見えるが、神楽の苦笑にはまだ余裕が感じられた。

「そうだね。呼ぶたびに出てきてくれるなら、敵は全部くしゃみでやっつけられそうだもんね」

「神楽さん、ご無事……ま、まあ、ご生還なさって何よりです。それで、シー・パスタはどうなりましたか」

 教皇が念のため確認する。

「死にましたよ。私が捕捉していたテンタクルズ、いや、シー・パスタに関する要素がごっそりと減りましたからね。死体関連で何か残っていますが……討伐完了、と考えて良いでしょう」

 聞いていた船員達は安堵の息をつき、改めて「イエーイッ」と歓声を上げた。

「ただ、私達が潜っていた間に別の要素で変動があったようですね。早く列車に合流しましょう」

「うん、ビューティフル・ダストさんが変になっちゃったみたい。セイン大統領と関係あるかも。あ、それと、あのくしゃみのおじさんはどうなったの」

「あれは捨ててきました」

 神楽は平然と答えた。

 

 

  八

 

 荒野。

 まどろみに似た淡く曖昧な意識を抱え、彼はそれを眺めている。

 暗い空。血のように赤い稲妻が時折空を裂き、唸り声に似た雷鳴を轟かせる。或いは、巨人の苦悶の声であろうか。

 風。生ぬるさと冷たさの混じる、不快な風が吹いている。

 自分はなぜこんなところにいるのかという疑問がふと浮かびかけ、また沈んでいく。

 遠くに人の群れが見える。ゾロゾロと歩いている。どうも普通の人とは違っているようだ。皆顔色が悪く、陰惨な雰囲気を漂わせているし、剣や槍、大鎌や金棒など、武器を持っている者も多い。それどころか、角と黒い翼の生えた悪魔みたいな姿の者や、無数の脚の先が剣になった大きなムカデなど、人外もちらほらと見かける。

 不気味な者達の群れは一つの方向に歩いていた。後ろから恐ろしく長い鞭にペシペシ叩かれて、追い立てられているのだ。

「一人で百人は殺せ。いいか、百人は殺せよ」

 追い立てている側の集団から、そんな甲高い声が飛んでいる。三、四十メートルはありそうな長い鞭が何本も、それぞれが独自の生き物みたいにうねり、最後尾にいた男をバラバラに引き裂いてしまった。急がせるための見せしめにしたようだ。

 彼は思わず笑ってしまう。本当に人間という奴は、つまらないのだ。あれらが本当に人間かどうかはさて置いて。

「うん、人間はダメだな。やはり」

 彼は自分の呟きを聞く。それで改めて自分という存在を意識すると、急速に体の感覚が戻ってきた。或いは、拡散して溶けていたものが集まって再構築されたというべきであろうか。

 彼は自分の腕を見る。高級スーツの袖から伸びた手は、とても整っていてなめらかで、光沢があった。つまるところ、銀色の、金属製であったのだ。関節部に継ぎ目はあるが余計な隙間はなく、非常に精度の高い造形だ。

「うん、悪くない。悪くないな」

 彼は頷いた。

 拳を握ったり開いたりしながら不気味な群れを見直す。数は七、八万程度か。大勢の大衆を相手にしてきたため人数の見立てにはそれなりに自信があった。追い立てられて向かう先には灰色の霧のようなものがわだかまっている。群れはそこに入る。誰も出てこないまま続々と入っていく。霧は別の空間に繋がっているのかも知れない。

 彼は右手の人差し指を伸ばす。指先を群れに向けてみる。

「バンッ」

 冗談っぽい軽いかけ声を発すると、指先から細い光の筋が伸びて群れを貫いた。数百メートル離れていたが一瞬だった。頭や胸を貫かれたり首を裂かれたりした者達が崩れ落ち、群れが漸く彼の存在に気づいた。

「反逆者か。いや新参か。とにかく殺せっ」

 追い立てている側の偉そうな奴が叫んだ。群れが一斉にこちらに向かってくる。一部は面白そうに、一部は残忍な笑みを浮かべ、一部は殺意に満ちた雄叫びを上げ、一部はやる気なさそうに。

 彼は右手の全ての指を伸ばしてみる。五本の光線が閃いてあっけなく敵を焼き切っていく。素早く避ける者もいたが、こちらは指を動かすだけなのですぐに追尾して切り裂けた。

「うん、いいじゃないか」

 だが敵はまだまだ多い。彼は左腕にインスピレーションを感じる。右手で左手首を掴み、ひねるとコキリ、という音がして前腕ごとすっぽ抜けた。代わりに内蔵されていた黒い砲塔が現れる。

 彼が念じると、ドゴォーンと凄い音がしてエネルギーの塊が発射された。着弾するとただの一発で七、八万の群れの三分の一ほどが跡形もなく消滅した。さすがに敵も慌てふためき、逃げ出そうとする者も出始めている。

「ハハッ。最高だ。最高なガンだな。……むっ、サイコーなガン……多用はまずい気がするな、何故かは分からないが」

 続く三連射で群れも追い立てる側の集団も粗方片づけてしまい、彼は左前腕を填め戻した。

「悪くない。悪くはない。……だが、何かが……何かが足りない気がする。何か、大切なものが……」

 考え込むうち、背後にひっそりと立つ二つの気配を感じ取る。敵ではない。何故かしっくりと来る気配であった。

 群れの生き残りが突進してくる。特に足の速い何人かが矢のような速度で駆けてくる。一人が大跳躍し、重量感のある長大な鉈を振り上げて襲ってきた。

 彼は避けなかった。何もしなかった。

 背後にいた気配の片方が彼の前に立ち塞がって攻撃を防いだ。そうなることは彼には分かっていたのだ。

「ヴィクトリア」

 彼はその名を呼んだ。盾を構えた大柄な女。身長二メートル六センチの、褐色の肌に高い頬骨を持つ、野性的な美女。大きな盾は左手の手甲が瞬時に広がったもので、本来持っていたソードガンよりも盾の面積が大きく頑丈であった。

 襲撃者が次の攻撃に移る前に、ヴィクトリアの右手の剣がその体を真っ二つに割っていた。ソードガンの折り畳み式とは全く異なる、刃厚のある両刃の長剣だ。その刃の白い輝きは鉄を余裕で溶かす八千度の高熱を帯びていた。二つに割れた敵の体はそのまま燃え崩れていく。

「ティナ」

 彼が名を呼ぶ前にもう一つの気配も行動に移っていた。接近していた残りの襲撃者達の脳天や心臓部に細長い刃物が突き刺さる。投擲された武器は後端が輪になった苦無に似たものであったが、刺さって一秒後には派手に爆発して敵を粉々にした。

 彼の横に立ち、小柄な少女がニッと悪戯っぽい笑みを見せた。明るい金髪のツインテールで、メイド服の丈は短くきらびやかだった。両手の人差し指と中指に苦無に似た細長いナイフを引っ掛け、更に何本も握り込んでいる。必要とあればその爆弾ナイフが無限に補充可能なことを彼は理解していた。

「うん。そうだな。君達はいてくれる。当然のことだ」

 彼は頷いた。

「だが……まだ、何か足りない、ぞ。……そうだ、もう一人……」

 瞬間、閃光が世界を覆った。光が消えた後、荒野に残っていた群れも消えていた。その辺りの地面が波打っているのは超高熱で溶かされて茹だっているのだった。

「メモリー」

 彼は振り向きもせず、その名を呼んだ。ティナが彼に見えない角度で唇を歪め、小さく小さく舌打ちをした。

「プレジデント。遅れまして申し訳ありません」

 彼のすぐ後ろにひっそりと立ち、メモリーが頭を下げた。

 何処までも冷たく無表情な美貌。刺繍つきの高級なメイド服が包む完璧なプロポーション。掌から発射された超高出力の熱線は生前のレベルを遥かに凌駕しており、小さな山なら丸ごと消し去ることも可能になっていた。

「いや、ちゃんと間に合った」

 第六十三代アメリカ合衆国大統領ウィリアム・セインは微笑んだ。生前と同じ顔立ちであったが、そのなめらかな皮膚は銀色の特殊合金製であった。

 彼は、自身の望むものになったのだ。

「うん、そうだ。それもそうだ。私がいる時は君達がいる。そして、君達がいるから私がいるのだ」

 セイン大統領は何度も頷いた。主人に仕える三人のメイドは静かに傍らに立つ。いや、ティナは無邪気な笑顔を浮かべ彼の前でクルクルと回ってみせた。

「さて、これからどうしようか。今や私達はあらゆる面倒な制約から解放され、何をやるのも自由だ。……だが、そうだな。やりかけたことが残っていたな」

「プレジデントの最後のご命令は実行しております。核ミサイルなどの大量破壊兵器、BC兵器を使用し、音声出力機能のある機械は『ウィリアム・セイン大統領万歳』を連呼しながら人類を殺戮中の筈です。また、異星人の惑星破壊爆弾も使用指示を出しましたが、発射準備に百三十分が必要ということでした。現在の私の機能とこの場所では時刻が確認不可能なため、地球がどうなっているのかは不明ですが」

 語るメモリーの掌から虹色の羽を持つ蝶が生まれ、次々に飛び立っていく。蝶に見せかけたスパイ装置で、世界中に広がってリアルタイムで情報を掻き集める役目を負っていた。

「ふうむ。やりかけたこと……夢見ていたことを見届けたい気持ちもあるが……」

 セイン大統領は灰色の霧に包まれた領域を見る。おそらくそこから現世の地球に渡れるのだろう。

「どうも、死んでみたら別の興味が湧いてきたな。ここは冥界のようだからね。だとすると、冥王というのがいる筈なんだ。死者の世界の支配者。……見ておきたいな」

「プレジデント、冥王への成り代わりをお望みですか」

 メモリーの質問にセイン大統領はハハッと笑う。微細な揺らぎのない、完璧に電子制御されたような笑い声だった。

「死んで、肩書きがなくなってしまったからね。新しい肩書きが欲しいな。それも、最高のものが欲しいんだ」

「プレジデントは今でも世界最高のプレジデントですが、新しい立場もお望みでしたらそのように致しましょう」

 メモリーの横、荒野の乾いた土から金属の塊が盛り上がってくる。それはみるみる形を整えて大型のオープンカーとなった。超高級感を醸し出す流線形のフォルムで、今時珍しく運転席にハンドルがついていた。最初は赤色だったが、セイン大統領が「うーん」と唸ると艶やかな黒色に変わる。

 車両を自在に作り出し、主の望むように色彩を調節したのはメモリーの力か。或いは、ウィリアム・セイン自身の力なのか。おそらく、それはどちらでも良く、同じことなのだろう。メモリーが恭しくドアを開け、セイン大統領は後部座席に乗り込んだ。すぐ横にティナが座り、メモリーが運転席に、ヴィクトリアが助手席に座る。

「では、出発だ」

 セイン大統領がにこやかに告げ、オープンカーは冥界の荒野を走り出した。

 

 

  九

 

 空飛ぶ海賊船であり幽霊船、ブラディー・サンディー号は列車への合流を目指して南西に飛んでいる。ベーリング海からカムチャッカ半島を過ぎてオホーツク海の上空。空も海も、暗い。

 神楽は列車に残した呪具によって位置が分かるとのことで、少しずつ近づいているという。ブラディー・サンディー号は謎のオカルティックな力で、船としては信じ難い速度で飛行している。だが、リニアモータートレインが減速するか停止して待ってくれない限り、追いつくのは難しいだろう。

 運行中に合流出来なかったら、北京駅の手前で停車して待ってもらう手筈になっていた。ただ、列車にそれが出来る余裕があるかどうか。

 ビューティフル・ダストがおかしくなり、セイン大統領と関係しているようなのだが詳しいことは分からない。シアーシャのトランクにオフラインの携帯端末がもう一つ保管されているが、起動すると同じ末路を辿ってしまうかも知れないため出していない。

 ただ、神楽は未来人が関係しているらしいこと、セイン大統領はどうやら死亡しているらしいことを感知していた。

 欠けた船体も折れたマストも元通りに再生し、くしゃみで爆散した船員や激流に呑まれた船員もいつの間にか揃っている。船長はチビチビと酒瓶を傾け、甲板中央では教皇が明かり役を務めていた。そんな中、シアーシャは船縁から遠くを眺めている。

「日本はもうすぐ見えてくるのかな」

 シアーシャが呟くと、神楽が近くまで歩み寄ってきた。

「日本ですか」

「カグラおじさんの故郷じゃないの」

 シアーシャが振り返った。イドは少女の隣に立ち、静かに暗い海を見ている。

「故郷ではありますが、この世界に日本はもうありませんよ」

 シアーシャは形の良い眉を上げて軽い驚きを示す。

「えー。核戦争とかで人が住めなくなっちゃったとか」

「核によるテロはありましたね。核兵器ではなく、複数の原子力発電所の爆破という形でしたが。ただ、日本が消滅した主因は、その後に起きた火山の噴火と大規模な地殻変動です。列島の大部分が海に沈み、残っているのは沖縄と一部の島くらいです」

 特に感傷らしきものも見せず神楽は語る。

「ふうん……。あ、でもカグラおじさんの元の世界だと、日本はちゃんと無事なんだよね」

「そうですね。一部、混沌としたところもありますが、健在ではあります」

「そうかあ……」

 シアーシャは海に向き直り、暫くして、ポツリと言った。

「私達の故郷も、沈んじゃったんだよね」

「お二人の故郷ですか」

 神楽は問い返すが、特に興味津々という態度でもなかった。二人の過去まで既に把握しているのか。……いや、彼にとっては頼りになる仲間でありさえすれば、素性や過去などどうでもいいのかも知れない。

「うん。イドと私の故郷。……別に、故郷に愛着とかは、ないんだけどね。私には、イドがいてくれれば、それでいいんだもの」

 シアーシャがそう言って右手を伸ばすと、イドは黙って左手でそれを握った。

 

 

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