第六章 大怪獣大決戦

 

  一

 

 アメリカ合衆国、テキサス州ヒューストン。午後十一時三十五分。

 生き残った人々は、上空を浮遊して迫る巨大要塞を呆然と眺めていた。

 ハンガマンガの来襲する次元の穴や冥界との通路からは外れ、ビューティフル・ダストによるロボットや自動車の襲撃だけであったため、ヒューストンにはまだ数万人が生き延びていた。彼らは殺人機械から必死に逃げ隠れて一日半を過ごし、セイン大統領の演説を聞いて狂喜した後で絶望に叩き落とされ、大統領の頭が吹っ飛んだ映像を見て戸惑いながらも少し安堵したが、首席補佐官メモリーが核ミサイルの発射ボタンを押したため人類の滅亡を確信したのだった。

 しかし核ミサイルは飛んでこず、発射されなかったのか、或いはたまたまヒューストンは標的にならなかったのか判断がつかぬまま、彼らは待つだけで神経を疲弊させていった。

 そして、「ウィリアム・セイン大統領万歳」と連呼して生存者を探し回る機械達にうんざりした市民達はついに怒りを爆発させた。バールや鉄パイプ、規制された後も隠し持っていた古い銃器で反撃に転じたのだ。

 「テキサスを舐めんなっ」と叫びながらロボットを取り囲んで殴りつけ、突き倒して関節部やカメラを破壊する。既に弾切れの機体が多く、ビューティフル・ダスト健在時の連携が失われて各個撃破が可能になったことも幸いした。巨大なアームを振り回す災害救助用大型ロボットには苦戦したが、いつの間にか混ざっていた覆面の大男が重量六トンのロボットにジャーマン・スープレックスを決めて完殺した。「Muscle!」とプリントされたTシャツの大男は皆の喝采を浴びながら何処かに去っていった。

 さすがに全ての自動車や屋内を徘徊する家政婦ロボットまで殲滅するのは無理だが、ひとまず比較的安全なエリアを確保出来たと思われた頃、上空にそれが現れたのだった。

 嘗ては宇宙を二分したアンギュリード星人の最後の拠点、宇宙要塞ギュリペチ。不規則に明滅するライトによって卵形の輪郭が浮かび上がっている。

 次第に大きくなっていく、夜空を覆い尽くそうとするほど巨大な宇宙船に、ヒューストンの人々の心は改めて絶望に染められていく。とうとう『答え』が訪れたのだと、握っていた武器を落とし、逃げることも忘れてただ巨大卵に見入っていた。おそらく超特大の破壊光線が発射され、都市ごと彼らを蒸発させるのだろう。或いは上空から毒ガスを噴霧して人々を生きたまま腐らせるのか。いや、人々はセイン大統領の演説を思い出す。宇宙人は惑星破壊爆弾という最終兵器を持っているのだと。ここで彼らは地球の消滅する瞬間を見届けることになるのか。

 ヒューストンの市民がそんな諦念を抱えて見上げていた間、幅十二キロメートルの宇宙要塞は悠然と移動しながらライトを明滅させるだけだった。

 人々は知らなかった。ギュリペチは南アメリカ大陸を北上していた頃は側面に並ぶ砲台から拡散粒子砲を閃かせ、周囲に円盤型無人戦闘機が飛び交いながら殺人光線を連射する悪夢のような光景を繰り広げていたのだ。今や砲台は沈黙したままで、殆どの無人戦闘機が格納庫内で充電待ちとなっていた。

 やがて、側面上部から白煙が昇り始め、人々はいよいよその瞬間が来たと身を硬くする。

 何も起きぬまま、更に別の複数の場所から煙が昇り、人々は毒ガスが噴霧されているのかと慄く。

 ビギッ、ガリガリガリッ、と嫌な音が轟いて、要塞の下部が剥がれて落下していく。爆弾が投下されたのか、と思いきや、そのままメキシコ湾に着水して巨大な飛沫を散らしただけで何も起きなかった。

 様子がおかしいことを人々が漸く確信したのは、巨大な要塞が空中でゆっくりと傾き始めたからだ。

 あちこちで吹き出す煙が激しくなる。開け放しのハッチから円盤型の無人戦闘機がずり落ちていく。ライトの明滅ペースが遅く、なり、次第に暗く、なる。傾きながらねじれ、また何処かの部分が落下する。

 要塞自体の高度が下がってきていることに気づき、人々は声を上げる。傾いてフラフラしながらまだこちらに向かってくる。

「墜落するぞ、逃げろっ」

 誰かの叫びをきっかけにして人々は走り出した。向かってくる巨大要塞から少しでも離れようとするが、要塞の飛行速度は一見ゆっくりでも人間の足とは比べ物にならない。車道に近づき過ぎて自動車に轢き殺される者もいた。

 振り返り振り返り、彼らは逃げる。要塞が夜空を大きく占め、のしかかってくる。ゴリゴリと何かが砕ける音を雷のように轟かせ、直径十二キロの宇宙要塞が落ちてくる。誰かがライフルを発砲したが、外装に届いたのかどうかすら定かではなかった。

 要塞は、ガルベストン湾上空にまで近づき、途中で更にねじれたため減速しながら、ゆっくりと、横倒しになって、大地に不時着した。湾のすぐ横にあるクリア湖を中心に、周辺数キロの家屋と逃げ遅れた数千人が潰されることとなった。その中には皮肉なことに、ヒューストンの観光名所の一つであるジョンソン宇宙センターもあった。

 湖の水が高く舞い散り、ギシギシゴリゴリと要塞がたわみ装甲がまた剥がれ落ちる。残っていたライトも消えていき、所々で煙が上がるだけの、巨大な残骸がそこに横たわっていた。

 生き残った人々はただ、遠巻きに見守っている。物好きが近寄ってみるが、卵形の巨大要塞の外装は人間にとってはオーバーハングで触れられず、近づき過ぎると要塞が少し転がっただけで潰される危険があった。

 何の変化もなく三十分以上が経過した後で、ガターン、と、新たな装甲板が落ちる。地表から高さ十五メートルほどの場所だった。そこから静かに細長いロープが下ろされる。

 人々は、プルプルと体を震わせながらロープを伝い降りてくる丸い影を見た。着地に失敗してゴロリと転がり、プルプルしながら起き上がる。

 何人かが持っていた懐中電灯の光を当てると、浮かび上がった影は怯えたように身を竦ませた。

 卵に似た丸っこい胴体に細い手足の生えた、マザー・グースのハンプティ・ダンプティを連想させる生き物がそこにいた。首がなく顔が胸部にあり、鼻と口に比べて目が異様に大きくギョロギョロ動いている。胴体半ばまであるズボンと腕の付け根まで覆う手袋は埃とオイルで汚れていた。

 遠巻きにしていた数千人の市民に注目され、手足が亀みたいに胴体に引っ込みかけてはまた伸びるということを繰り返しながら、異星人は口をモゾモゾ動かし始める。しかし声が小さく、人々には全く聞き取れなかった。

「何言ってんだ、聞こえんぞーっ」

 勇気のある誰かが怒鳴りつけると、異星人は手足が完全に引っ込んで地面に転がってしまった。暫くしてまたノソノソと起き上がり、今度は少しだけ声が大きくなる。

 それでも聞き取れないため人々は異星人へ近づいていく。百メートル、五十メートル、三十メートル。

 人々の接近に怯えたらしく、異星人の目のギョロギョロ具合が激しくなる。彼は震え声で、やっと人々の耳に届く言葉を発した。

「わ、私は、キキッペルモ……アンギュリード、ギュリペチ要塞所属の二等現地監視員、キキッペルモです。艦長が……アンギュリードの議長でもあったリューネル・ペギードが死亡し、他の士官も冬眠モードから復帰していないため、やむなく末端の兵士である私が、アンギュリードの代表として地球人の皆様にご報告とお願いをさせて頂きます」

 人々は異星人と話が通じることに驚きつつ、静かに次の言葉を待った。

「ギュリペチ要塞の管理システムはビューティフル・ダストという地球産プログラムに乗っ取られ、あらゆる兵器と無人戦闘機が制御不可能となりました。ビューティフル・ダストの意志によって、南アメリカ大陸南端から地球人を殲滅しながら北上していきました。南アメリカ大陸の人類は九十パーセント以上が……死亡している筈です。こ、これは、アンギュリードの意志ではありません。地球征服はポル=ルポラと決着をつけた後で取りかかる予定でしたので。地球人の皆様にはご理解頂ければと……お、お願い申し上げます」

 地球人を殺戮したことについて人々がどう反応するか、キキッペルモは慎重に観察し、言葉を選びながら説明を続けた。

 人々は割と冷静だった。散々ロボットや自動車に追いかけられたし、大統領の演説で世界規模でメチャクチャなことが起きているのを聞いているのだ。乗っ取られた宇宙要塞が南アメリカ大陸の人類の殆どを殺したとしても、今更気にしなかった。殺されたのは自国民ではないし。

「そ、それで、その後、コントロールの権限がビューティフル・ダストから、アメリカ合衆国のセイン大統領に移ったらしいのですが、要塞の保有する惑星破壊爆弾が起動させられました。アン、アンギュリードとしては、本来全く使う予定のなかったものです。移住する予定の惑星を破壊してしまっては、何にもなりませんので」

 人々の表情が緊張に引き締まる。待ちきれない誰かが叫んだ。

「それで、爆弾はどうなったんだっ。これから爆発するのか」

 その言葉に過剰反応して一部の人がヒッと悲鳴を上げる。キキッペルモもヒッと悲鳴を上げたが、なんとか手足を収納せずに答えることが出来た。

「爆弾は、大丈夫、です。起爆前に停止しました。停止させるために、要塞の自爆機構を発動させることになりましたが」

 安堵しかけた人々は、自爆という不穏な言葉に顔を強張らせる。

「ビューティフル・ダストの時は完全に制御不能でしたが、権限が移ってからは新たな操作の追加なら可能になりました。惑星破壊爆弾の起動停止を受けつけなくても、自爆機構が発動すると他の殆どの電源がオフになるので。それから要塞が自爆するまでの十二分以内に、なんとか自爆機構の回路を物理的に切断して、私達は破滅を免れることが出来ました。起き出して協力してくれた技術者達のお陰です。結果的に要塞は墜落することになりましたが」

 キキッペルモが降りてきたハッチから、何人かのアンギュリード星人がひっそりと覗いていた。彼らもまた臆病で地球人達の前に立つのが怖かったので、キキッペルモに損な役回りを押しつけたのだ。

 そしてキキッペルモはその場に膝をつき、前のめりになって顔面を地面に押しつけた。異星人の見せた土下座に人々はどよめく。

「私達にはもう何もありません。船も兵器も、アンギュリードの科学技術の結晶である機器の殆どが使えなくなり、残ったのは脆弱な生身の体だけです。どうか……どうか、地球人の皆様、私達アンギュリードをこの星に置いて下さい。二度と地球人の皆様に敵対しようとか、征服しようとか大それたことは考えません。地球人の皆様のご迷惑にならぬよう、ひっそりと大人しく生きていきます。ですからなにとぞ、私達に生きる権利を……」

 人々が戸惑っている間に、ハッチから次々と同じ体型の異星人がロープを伝い降りてきて、短い手足で不器用な土下座を始めた。

 プルプル震えている異星人達を見ているうちに、誰かが「まあ、いいんじゃないか」と言い出した。

「仲良くやっていけるんなら、別に追い出す理由もないな」

「人類も随分と減ったみたいだし、彼らが住む余裕くらいあるだろう」

「俺は宇宙人を歓迎するぞっ。ずっと地球外知的生命体の存在を信じて、待ってたんだからなっ」

 一部は妙に盛り上がっていたが、全体としても受け入れて良いような緩い雰囲気になりつつあった。

「あ、あの、それから、よろしかったら……」

 土下座したままキキッペルモがつけ足した。

「地球のコミックなんですが、電子書籍を読んでいる途中で端末が動かなくなってしまって。『H○NTER×HUNT○R』の三十九巻の丁度クライマックスのところで……。そちらの図書館などで、紙の書籍として読ませて頂けないでしょうか」

 キキッペルモが命懸けで惑星破壊爆弾の起動を阻止した、一番大きな理由がそれであった。

 人々は微妙な顔を見合わせた。彼らは知っていた。その世界規模で人気が出たコミックは、作者が奇跡的に存命中にもかかわらず何十年も休載したままで、四十巻以降が出版されていないのだった。

「あ、ああ、図書館にきっとあるぞ。好きなだけ読むといい」

 一人が涙をこらえて声をかけた。人々はアンギュリード星人に優しくしてあげようと決心した。

「おーい、アンギュリードッ」

 遥か後方から大声が聞こえ、人々は振り返ってギョッとする。

 集団がこちらに駆け寄ってくるのだが、彼らは人間ではなかった。角の生えたトカゲが服を着て二足歩行しているような姿だった。大きな顎には牙が並び、片手に七本ずつある指には鋭い鉤爪が伸びている。数百、いや千を超えるトカゲ人間達が異様な素早さで駆けてくるものだから、人々は恐怖で固まったり腰を抜かしたりした。だが地球人を放置してその間を抜け、彼らは土下座するアンギュリード星人達に向かっていた。

「アンギュリードッ、お前達、まさかっ」

「うわっ、ポル=ルポラ、えっ、そんなまさかっ」

 アンギュリード星人達も驚いて身を起こす。

 ポル=ルポラ星人達は一気に距離を詰め、その鋭い牙や鉤爪で襲いかかるかと見えたが、寸前で急停止した。

 アンギュリード星人とポル=ルポラ星人が、同時に同じ台詞を叫んだ。

「まさか、話が通じるのかっ」

 人々が呆気に取られて見守る中、嘗て宇宙を二分した異星人達は興奮して語り合う。

「つ、通じないと思っていたんだ。ポル=ルポラは同胞以外は皆殺しの蛮族なんだと。だから言葉が通じないんだと。先に殲滅してしまわないと安心出来ないと、俺、じゃない私達はずっとそう思っていたんだ」

「話し合いの場に出てもお前達はギーギー喚くばかりで、我々を馬鹿にしているのだと思っていたのだ。日本語が通じると知っていたら、戦争などせずに済んだかも知れぬのに」

「日本語は簡単にマスター出来るから皆習得したんだ。地球のコンテンツを楽しむなら必須だし、アンギュリードの第二公用語になっていた」

「我々もそうだ。だから地球の文化もすぐ理解出来た。あの『一時間で完全マスターする日本語』のお陰でなっ」

 地球人達も納得の表情で頷いていた。彼らも小学校で『一時間で完全マスターする日本語』を読み、英語とは別に日本語も完璧に習得していたのだった。世界中の人々がそうしているので、全世界に向けて発信するスピーチや文章は日本語が使われることが多く、電子書籍も日本語ばかりだ。数時間前に放送されたウィリアム・セイン大統領の人類抹殺宣言も日本語であった。

「もう戦争はやめよう。まずは話し合おうじゃないか。話をして、互いのことを理解するのだ。地球のエンターテインメントの好みとかな。例えば巨大ロボットの登場するアニメとか」

「そうですね。私は念能力やスタンド使いに憧れてまして。『HU○TER×HUNTE○』はご存知ですか」

「あ、ああ、『HUN○ER×HU○TER』はなあ……」

 こうして大勢の地球人に祝福されながら、長きに亘ったポル=ルポラとアンギュリードの宇宙戦争は終結した。

 

 

  二

 

 北京は燃えていた。

 最初はビューティフル・ダストによる人類絶滅宣言だった。自動車やロボットが人を殺し始めて大騒ぎになったが、北京にはかなりの数の兵士が駐屯していて、コンピュータを組み込んでいない銃器がまだ主流であったため、ひとまずはなんとか鎮圧に成功した。かなりの死傷者が出たようだが、テレビもネットも使えないため情報が得られず、「安全は確保された。おかしなことを考えるな」と叫んで回る兵士達を市民は信用するしかなかった。

 だが暫くすると別の騒ぎが勃発した。兵士達に襲いかかっている顔色の悪い者達が何なのか、市民には分からなかった。だが襲撃者の中に二十年前に獄死した筈の活動家・林尽怜がいることに気づき、これが反乱である可能性に思い至ったのだ。

「陳徳家を殺せっ、独裁者を殺せーっ」

 叫び始めたのは不気味な襲撃者と北京市民、どちらが先だったろうか。いつの間にか両者は一緒になって兵士を攻撃していた。角材や包丁や中国拳法で戦う市民達は、銃で撃たれ倒れてもその屍を踏み越えてすぐに後続が突撃する。この機会を逃せば超監視管理独裁ディストピアに子々孫々磨り潰されるしかないことを理解していたのだ。

 顔色の悪い者達の働きも凄まじかった。特に林尽怜は何十発も銃弾を浴び血塗れになっても、悪鬼の如き形相で兵士の首に齧りつき、笑いながら内臓を引き摺り出していた。他にも両腕が刃になっている者や翼のある虎や、六本ある腕に別々の武器を持った四つ目の巨人などが大喜びで兵士を殺しまくった。

 反乱は北京全体に拡大した。人々は兵士を殺しながら共産党の中枢である中南海地区に押しかけ、陳徳家を称えるスローガンが掲げられた新華門をくぐる。映像でしか見たことのなかったきらびやかな国家主席公邸……通称陳徳家宮殿を目指して進軍する。膨れ上がった暴徒は数十万人規模となっていた。市民を轢き潰すための戦車はビューティフル・ダストの騒動で既に破壊されており、兵士は銃弾が尽きたところで逃げ出したり降伏したり市民と一緒になって反乱に加わったりした。ただしそんな兵士の多くは恨みを溜め込んだ市民達によって八つ裂きにされた。

 宮殿周辺は人が集まり過ぎて身動きが取れず、何がどうなっているのか分からない状況で、そのうち「陳徳家を誅殺したぞーっ」という叫びが伝わってきた。その真偽は確かめられないが取り敢えず人々は喜びに沸き……そして、新たな脅威の存在に気づいたのだった。

 謎の顔色の悪い者達が、北京市民も殺し回っているのだ。

 彼らは別に市民の味方という訳ではなかったらしい。いや、林尽怜などは味方であったのかも知れないが、その彼も今は宮殿の壁に張りついて、それぞれの手に掴んだ市民の死体を笑いながら貪り食らっていた。

 歓声と喝采は悲鳴に変じた。異常な強さとしぶとさを持つ謎の化け物達に、北京市民は原始的武器のみで対抗せざるを得なかった。

「どうしてだ。どうして俺達を殺そうとする」

 市民の一人が泣きながら問うた。

「さあな。楽しいからじゃねえか」

 刃渡り三メートルはある青龍刀を振り回しながら、豚の頭を持つ男が答えた。

 抗う者、逃げ出す者、呆然と立ち竦む者、座り込んで泣き出す者。殺される。ただ殺される。差別なく、容赦なく、解体され、肉塊に変えられていく。

 しかし北京市民は圧倒的に多かった。顔色の悪い者達は数千人程度いたと思われるが、北京市民はビューティフル・ダストの騒動後も一千万人以上、都心部でも五百万人以上が生き残っていた。斬られながら腹を裂かれながらも必死で食らいつき、皆でのしかかり、動きが取れなくなった敵を何百回も刺してグチャグチャにしていく。

 そんな殺し殺され、血で血を洗う混沌の地獄絵図が一日半ほど続き、漸く化け物達を駆逐したと思われた時にはいつの間にか市街が燃えていたのだ。

 戦闘の混乱で偶然火事になったのもあるだろうし、化け物がわざと火を点けたのもあったかも知れない。また、火事場泥棒を目論んだ市民による放火もあったかも知れなかった。火に巻かれ逃げ惑う人、燃えて倒壊した建物に潰される人。しかし大半の市民はただただ疲れ果て、ボンヤリと炎に見入っていた。

 そんな夜の北京に、ラウンド・ザ・ワールド・ドリーム・エクスプレスが入ってきたのだった。

 リニアモーター列車専用に建てられた北京駅ビルは中華人民共和国の威容を示すために二百階建ての超巨大施設となっていた。二つの騒動で一部は崩れ、側面も焼け焦げていたが、一応全体としての形は保たれ、十二階のホームを貫くガイドウェイも無事であった。

 その高いガイドウェイを列車がゆるやかに減速しながら静かに滑ってくる。市民の視線が列車に集中し、その上に浮遊するものに気づいてギョッとする。

 夜闇に紛れて一隻の船が空を飛んでいたのだ。炎と煙で淡く照らされる木造の船体は古ぼけてあちこち穴が開いていた。帆船であるが帆も破れていて切れ端程度しか残っていない。そんなボロ船が、何故か列車と同じスピードで飛んでいた。甲板には乗組員らしき人影が幾つか見えたが、一つは妙に光り輝いて船の輪郭を目立たせていたし、他は妙に痩せ細っていた。

 異常な状態の列車と船が、市民の注目を浴びながら駅ビルに入っていく。と、船の方は入れずにビルの側壁にぶつかった。ゴヅンッ、と鈍い音が響き、その後に「アワワワウワワワワッ」と怯えた悲鳴が聞こえた。壁が崩れる音もしたが、幸い列車の屋根が潰れるようなことはなかったようだ。

 ホームの様子は外からは分からない。ビル内はまだ殺人ロボットや略奪者が徘徊しているかも知れなかった。

 そのうち、誰かがビルからガイドウェイの方に出てきて、浮遊する船から下がったロープに掴まった。甲板まで引っ張り上げられる。続いて屈強な体格の人影がもう一人甲板まで上がると、船がゆっくりとビルの前面に回り込んでくる。

 船縁に立つその人物の顔が、近くにいる光り輝く人影のお陰で地上の人々にもよく見えた。驚きと恐怖のどよめきが上がる。

 北京市民を見下ろしているのは中華人民共和国の現国家主席・陳徳家であった。

「生きていたのか、ヤバイ、ヤバイぞ……」

「そういえば列車で世界一周中だったな。なら宮殿で殺したという話は嘘だったのか」

 ざわめく人々に対し、陳徳家が両腕を広げて静粛を求めるジェスチャーをする。もし弾が残っていれば今からでも射殺しようと試みる者がいたかも知れないが、残っていないので皆黙り込んだ。独裁者に対する恐怖が、本人を直接目にすると市民を金縛りにしていた。

 船上で、陳の斜め後ろに立つ護衛らしき屈強な男がメガホンを手渡した。電子機器が使えないため原始的なプラスチック製の円錐だ。

 陳徳家は大きく深呼吸をして、真面目な表情でメガホンに口を当て、地上の人々に語り始めた。

「愛すべき人民達よ。私は陳徳家本人ではない。暗殺対策に用意された、ただの影武者である。陳徳家は世界一周列車の大行事にも、暗殺が怖くて影武者を遣わしたのである。そして、本物は宮殿で既に誅殺されている」

 訓練された影武者の声は単純なメガホンでもよく響いた。

 市民達が安堵の息をつく。しかし、独裁者が死んだとして、この国がどうなっていくのか、不安感が改めて人々を侵蝕していく。また次の独裁者が現れるだけかも知れない。本物を殺したついでに影武者を始末しておいても損はないかも、と一部の者は考え始めていた。

 と、いきなりその影武者が両腕を振り上げて絶叫したのだ。

「民主化万歳っ、共産党クソッタレッ、民主化バンザーイッ」

 人々が呆気に取られたのは一瞬だ。すぐにどよめきが波のように広がっていき、それが更に叫びへと変わる。

「民主化万歳、民主化万歳っ」

「共産党クソッタレッ、もう二度と独裁なんかさせるかぁっ」

「民主化バンザイッ、バンザーイッ」

 北京市民が両腕を上げて万歳を繰り返す。唱えながら笑っている。笑いながら泣いている。

 駅ビルから静かに列車が滑り出していく。飛行するボロ船も列車を追って動き出す。船上では影武者が民主化万歳を繰り返しながら人々に手を振っていた。人々も手を振り返し、歓声を上げた。

 列車がガイドウェイを加速していき、幽霊船ブラディー・サンディー号も加速する。燃える市街地が遠ざかった頃、護衛の男が影武者に尋ねた。

「これで、良かったのだろうか」

 影武者は疲れた顔で嘆息する。

「分からない。分からないが……私に出来るのはこれしかなかった。せめて……今よりましな国になって欲しいものだ」

「まあ、飲めよ。面倒臭いこと考えるより、飲むのが一番だぜ」

 キャプテン・フォーハンドが影武者の肩に手を置き、缶ビールを渡した。

「あ、ありがとうございます。と、ところで……列車の方に戻りたいのですけれど……」

「おう、いいぜ。ここから飛び降りたら丁度列車の屋根だ」

 船長は気軽に船縁を指してカハッカッカッと笑う。冗談なのか本気なのか分からない。神楽やイド達を見てきたので生身の人間に対する意識がずれてしまっているのかも知れない。

 ちなみに船長の海賊帽は中央上部が縦に裂けていた。船首を駅ビルの壁にぶつけてしまった際、怒ったサンドラが斧をぶん投げたのだ。身を屈めるのがほんの僅かでも遅れていれば、船長の頭は粉々になっていただろう。

「私がお運びしましょうか。お一人ずつならなんとか抱えられると思いますよ」

 光り輝く教皇が提案すると、影武者は眩しげに目を細めながら慌てて辞退した。

 

 

「ふう。なんとか新しいものを確保出来ました」

 列車内の廊下で神楽が息をつく。ホームに停車している間に素早く無人の売店を回ってきたのだった。あちこちに死体が転がり、店内は荒されて残った品も少なかったが、数房のバナナを手に入れ、袖の中に収めることが出来た。

「カグラおじさんって、どうしてバナナを集めてるの。特に好きじゃないんだよね」

 シアーシャが尋ねる。彼女とイドは神楽と一緒に構内を巡って医療品などを探したのだが、襲ってきた警備ロボットを撃退したりしているうちに時間切れとなってしまった。北京駅に長居すべきでなく、五分で発車することはミフネと事前に申し合わせていた。

 神楽が何よりバナナを優先して探していたことがシアーシャは気になったらしい。

「今後のために必要なのでストックしているのです。私が持っているとすぐ駄目になるので、新しいものを常に補充しておきたいのですよ」

 神楽は苦笑して、袖の中からバナナを一房取り出してみせた。シアーシャが形の良い眉をひそめる。

「こっちはバンクーバー駅で手に入れたものです。買った時は普通に食べられる状態だったのですが」

 約二十二時間前には熟れてもいなかったバナナが、真っ黒に変色して小さくしぼんでいた。

「腐っているな」

 イドが呟く。バナナに伸ばしかけた彼の手を、シアーシャがすぐに引っ張って止めた。触れると悪いことが起きるかのように。

「カグラおじさん。新しいバナナ、私が持っててあげようか」

 シアーシャの提案に、神楽は少し考えてから頷いた。

「そうですね。では一房お願い出来ますか。まだ直接触っていないのでそれほど害はないと思いますよ」

 微妙に不穏なことを言い、神楽が右腕を軽く振る。袖の中から先程手に入れたバナナが一房飛び出して、見えない何かに支えられているようにゆっくりと落ちてくる。

 シアーシャはいつの間にか持っていた白い布を広げ、バナナを包み込んだ。待ち構えていたように自動的に開いたトランクに収め、丁寧に閉じる。

「必要になったら言ってね。食べちゃわないように気をつけるから」

「食べたら駄目なのか」

 イドの呟きにシアーシャは微笑した。

「晩ご飯にしましょう。あれ、お昼ご飯だったかなあ」

 三人は前の車両へ進む。二十二両編成に縮んだ列車は、後半部には乗客がいない。死体を通路に現世へ渡ってきた死者達によって殺戮されてしまった。僅かな生き残りは食堂や医務室に近い車両の客室に移っている。

 列車の職員で残っているのは車掌兼予備運転士のゼンジロウ・ミフネを筆頭に整備士が二人、食堂のウェイトレスが二人、医師と看護師が各一人、食事を客室まで運ぶ役も務めるパーサーが一人で、計八人。

 VIPは、アメリカやロシア、ドイツ、フランスの関係者は全滅している。イギリス首相は重体から回復したが秘書や護衛は全員死亡している。影武者であることが判明した中国の主席と護衛四人は無事で、今は二人が幽霊船の方に移っている。インド大統領は得体の知れない相談役と一緒に生き残った。アイスランドの大統領は秘書を失い護衛一人が健在、グリーンランド自治政府首相は妻と共に無事だ。カナダ首相は護衛一人が健在で、バンクーバーで拾った男児と行動を共にしていた。バチカンの生き残りは若い司祭だけだが、教皇が死亡後も現世に留まっているので一応カウントしておくべきだろう。それでVIP関係者は計十七人。

 それから神楽鏡影にイドとシアーシャ。正式な乗客ではないが途中参加してきた鮫川極に、小さなドラゴンが一匹。最後に、無力な一般の乗客が十六人。総計四十六人プラス一匹が現在の列車のメンバーだった。

 ……いや、見つかっていないがトッド・リスモという青年もまだ列車内にいる筈だった。アメリカ大統領の客室から消えた後はインド大統領の客室で過ごしていたらしい。そして奇妙な光線銃を使い、三両先で演説をぶっていたアメリカ大統領を射殺したと。トッド自身もメモリーの反撃で頭部を貫通する致命傷を負ったが、その後突然姿が消えたという。逆らうとどうなるか予想のつかない不気味さがあったとインド大統領は説明した。青白い肌のサフィードという相談役はずっと黙っていた。

 北京駅手前で停車中にミフネとも話を済ませている。運転室のフロントガラスは丸い穴が開いたところを強化アクリル板で修復し、ミフネ自身も再生丸のお陰で負傷は治っていたが制服の背中は派手に裂けていた。『速い獣』にやられたらしいが、微妙に緊張した様子で話すミフネを、神楽は皮肉な笑みを浮かべながら深く追及しなかった。ただ、話を聞く間、職員用控え室のドアにずっと片手をついていた。

 三人が食堂に戻ると、鮫川極と白いドラゴンはまだ酒を飲んでいた。鮫川を怖れて他の乗客は寄りつかなくなり、今は隅のテーブルでイギリス首相が静かにスープを飲んでいるだけだ。

「お帰り。北京では大した敵はいなかったようだね」

 鮫川が髑髏に薄皮を張りつけたような顔で陰惨な笑みを見せた。

「ええ、中国国家主席の影武者さんが面白い演説をやったようですが、あなたはそういうものには興味ないでしょうし」

 神楽はいつものテーブルにつき、ウェイトレスにコーヒーを頼んだ。彼が座る椅子はスタッフのある種の配慮で専用の予約席扱いとなっていた。他の客が間違って座り、おかしなことが起きないように。彼の触ったコーヒーカップも使えなくなってしまうのだが、乗客が減って食器が余っているので問題なかった。

 向かいの席に座り、シアーシャは二人分のサンドイッチセットを注文する。彼女は食べ方の簡単な食事にすることが多かった。

 ワイングラスを揺らしながら鮫川が尋ねる。

「これで残りの敵はどのくらいだったかな。海の怪物は片づき、ドラゴンも、まあ、可愛らしくなった。ビューティフル・ダストというコンピュータ・ウイルスは上書きされ、それをやったアメリカ大統領も今やただの首なし死体だ。困ったな。僕は大したこともしていないのに、もう終盤なのかな」

 神楽は一瞬天井を見上げる。ハンガマンガの肉片とガイノイドのパーツが並んで突き刺さったままだ。この程度は鮫川にとって『大したこと』ではないのだろう。不気味だが、スタッフも鮫川が怖くて取り除けないのだった。

「大きなものは三つ、ですかね。ハンガマンガに冥界の侵略、それからヌンガロという巨大な陸の怪物がいる筈です。宇宙人の二大勢力についてはなんともいえませんね。宇宙船はビューティフル・ダストに支配されていた筈で、今も復旧した訳ではないでしょう。私の占いではどうも、ポル=ルポラとアンギュリードの両勢力とも人類の脅威ではなくなっているようですが、詳しいことは分かりません。他にも幾つかの要素が残っているのを感じますが、どの程度の脅威なのかは実際に近づいてみないと判断がつきませんね」

 神楽は袖の中に手を入れてモゾモゾさせながら語る。

「ハンガマンガと冥界の方はまたいつぶつかってもおかしくないですし、インドに入るくらいからヌンガロの方もそろそろ当たるかも知れませんね」

 コーヒーとサンドイッチセットが届く。ウェイトレスはこの状況でも真面目に仕事をこなしていた。

 早速サンドイッチにぱくつきながら、ふと気づいたようにシアーシャが言った。

「カグラおじさんって、コーヒーばっかりで、ご飯食べてるところ見たことがないなあ。お腹は空かないの。それともこっそり何か食べてるのかな」

 神楽は苦笑した。

「体質が変わってから食事を楽しめなくなりましてね。味がしないのですよ。死ににくくなりましたし、食べなくても支障ないので仕方のないデメリットだと割り切っています」

「それは気の毒だな。死んでいる僕でさえワインと血の味わいが分かるというのに」

 鮫川がそう言って赤ワインをクイッと飲み干した。冗談のつもりなのか分からないので、誰も笑わなかった。

「食事中に失礼するが、君がミスター・カグラということでいいのかね」

 隅のテーブルにいたイギリス首相が声をかけてきた。セドリック・アイアンサイド、痩身でいかめしい顔をした元軍人で、現在八十代前半の筈だ。最初のビューティフル・ダストの宣言時に護衛から撃たれて瀕死の重傷を負い、暫く昏睡状態であった。

「そうですが」

 振り向いて神楽は答える。

「君の提供してくれた薬のお陰で私は助かったらしい。礼を言う」

「いえいえ、礼ならドクターに言って下さい。私は再生丸を配っただけで、あなたの生死には興味ありませんでしたから」

 正直な発言に、アイアンサイド首相はニヤリと渋い笑みを見せた。

「君の意志や興味がどうであろうと、君のお陰で私が助かったのは事実だ。……それで、人類側のリーダーであろう君に改めて尋ねたいのだが、人類が生き残れる可能性はどの程度だろうか」

 こちらも直球な質問であった。

「そうですね……。セイン大統領の演説によると、あの時点で人類は十億人程度まで減っていたそうです。以降も減り続けているでしょうけれど、そうですね、絶滅はしないと思いますよ。何故なら、私は勝ちますから」

「自信があるようだな」

「ええ、ありますよ。ただ、勝利した時に人類がどのくらい残っているかはなんともいえませんね。一億人か、一千万人か。百万人くらいか……。まあ、種の存続が可能な程度の個体数は残るんじゃないですかね」

「……そうかね。今の私には何も出来ないが、君達と人類のために祈るくらいはさせてもらうとしよう」

「丁度教皇が霊体となって上を飛んでますから、ご利益もあるかも知れませんね。ああ、イギリスはプロテスタントでしたか」

「大丈夫さ。カトリックもプロテスタントも、神は同じだ」

 アイアンサイド首相はそう言って十字を切り、食堂を去っていった。他に誰もいない自分の客室で、ひっそりと過ごすのだろう。

 

 

 同じ頃、現在の最後尾になる二十三号車の客室で、トッド・リスモは冷蔵庫からビールを取り出して飲んでいた。先頭車両の職員用控え室にいた筈だが、いつの間にか彼はそこにいたのだ。

「もっとましな食べ物があればなあ。ここはつまみばかりじゃないか」

 ぶつくさ文句を言いながら彼はサラミを食いちぎる。

 ミフネから貰った丸薬のお陰で、メモリーに撃ち抜かれた頭部の傷は完全に治癒していた。血塗れのシャツは脱ぎ、死んだ乗客の持ち物を漁って新品に着替えた。サイズが大き過ぎるTシャツの背中には「IMMORTAL」の文字がプリントされていた。

「食堂に行っちゃ駄目なのか。それか、ルームサービスを頼むとか。……はあ、僕は命を狙われてるのか。どうしてなんだろう。あんたの指示に従ってるだけなのに。割と良いことをしてるつもりなのになあ。列車も救ったし、人類も救ってるんじゃないのか、僕ってさあ。モテモテになってもおかしくはないのに……」

 

 

  三

 

 紫色に濁った空の下、黒く輝くオープンカーが冥界の湿地を駆けていく。

 地面の見えない水辺や柔らかい泥濘の上も、車は全く危うげなく滑るように進んでいる。時速三百キロ以上のスピードが出ていた。

 パパパ、パパパパ、と、オープンカーから断続的に光が発せられる。少し遅れて遠くで派手な爆発が起きる。爆発には赤黒い血と肉片が混じっている。

 彼方を進む軍勢に接近しながら、オープンカーから射撃しているのだ。

 死者の軍勢。冥界で掻き集められ、現世へ侵攻すべくゲートに向かっているのだろう。いずれ劣らぬ極悪人共であろうが、彼らが喜んで進軍しているのかは定かではない。ただ、彼らが現世に辿り着くことはなさそうだ。今もみるみる数を減らしているのだから。

 オープンカーの後部座席に立ち、メイド服を着た野性的な美女が重機関銃を連射していた。本来は三脚が必要な機関銃を軽々と抱え、発射の際にかなりの反動がありそうだが彼女はびくともしない。

 助手席ではメイド服を着た美少女がライフルで狙撃していた。今時珍しいボルトアクションで、一発撃つたびに次弾を送り込む動作は恐ろしく素早くスムーズだった。少し不満げに口を尖らせているのは、武器の都合で席を移動させられたためだ。

 運転席ではメイド服を着た美女が小型拳銃を片手にハンドルを操っていた。上品で冷たい美貌は前に向けたまま、握り込んだT字型のパームガンで左方の軍勢を射撃する。銃声は殆ど聞こえず、彼女の姿は何処までも優雅であった。

 撃ち出された無数の銃弾は異常な破壊力を発揮し、一発で数十体を貫通したり百体以上を巻き込んで爆発したりしていた。

「十九世紀には走る列車からバッファローの群れを撃ちまくるツアーがあったらしいな。肉も取らずに死体を放置して、絶滅寸前にまで追いやったそうだ。うん、まあここでは幾ら撃ち殺しても絶滅なんてしそうにないし、取る肉もないがね」

 後部座席にゆったりと座る男が言った。高級スーツを着た、銀色に輝く男。彼の皮膚はなめらかな特殊合金製で、関節に継ぎ目が見えるが余計な隙間のない精緻な造りをしていた。

 ウィリアム・セイン、第六十三代アメリカ合衆国大統領。

「プレジデント、バッファローの大量殺戮はネイティブ・アメリカンの食糧源を減らして弱らせる目的もあったそうです」

 運転席のメモリーが補足する。車体の下からビチビチと何かが潰れるような音と呻き声が聞こえているが彼らは平然としていた。湿地のあちこちでは死者達が溺れ、のたうちもがいていた。確固たる自己を確立出来ない半端な悪人達を、オープンカーはあっさり轢き潰していく。汚い血や肉片が漆黒のボディにへばりついても、数秒後には元の艶と輝きを取り戻していた。

「なるほどね。うん、ならばこうやって冥界の兵を減らしていくのも意味はあるかも知れないな。痺れを切らした冥王が向こうからやってきてくれるかも……」

 泥濘から突然巨大な腕が飛び出してオープンカーを掴もうとした。だが車体に触れる前に四つほどに分解され落ちていく。セイン大統領の横に立つヴィクトリアが目にも留まらぬ剣技で輪切りにしてみせたのだ。断面は超高熱で炭化して出血もしなかった。

 幅五メートルほどもある手首がそのままオープンカーにぶつかりかけ、助手席から跳躍したティナの蹴りで高く弾かれていった。見事なボディコントロールで元の助手席に着地し、美少女は可愛らしく辛辣な言葉を吐く。

「ヴィクトリア、下手糞」

 ヴィクトリアは凛とした眉をほんの二ミリほど動かして不満を表明した。左の手甲を瞬時に盾に変形させて肉塊を弾き飛ばす準備は出来ていたのだ。

 セイン大統領は快活な笑い声を上げる。メイド達のギスギス具合が自身の愛情を独占したいがためと彼は理解しており、互いの殺し合いに発展しない限りは黙認する方針であった。

 と、今や超高性能カメラと化した彼の目が前方の泥濘にあるものを認め、「おや」と呟く。

「メモリー、あれを」

「畏まりました」

 間髪入れずメモリーの右手から単分子ワイヤーが伸び、溺れもがく男に絡みつき泥濘なら釣り上げる。

「ああ、首から上だけでいいよ。汚いからね」

 ヴィクトリアが即座に剣を振り、伸びた白い閃きが男の首を切断する。胴体はそのまま力なく泥へ落ちていった。何処から取り出したのかティナが金属製の盆を差し出すと生首が綺麗に着地した。

 盆を受け取ったセインはにこやかに生首を見つめる。

「いやあ、三年前の米中平和式典以来ですかな。整形させた影武者ばかりで、本物に会うのは実に久々です。暗殺にビビリまくっている臆病者のヘナチョコ野郎だといつも私は思っていましたよ。ハハハ」

 盆に乗る生首は、中華人民共和国国家主席・陳徳家のものだった。既に死人なので首だけになっても動いているが、目を下に向けて小さな声で「これは夢だ、これは夢だ」と繰り返しているだけだった。

「うん、夢ではないんだなあこれが。あなたは死んで、所謂地獄に落ちている訳ですよ。地球規模の大混乱に乗じて反乱でも起きましたか。富の独占に監視弾圧粛清処刑で、国民からは恨みを買いまくってましたからね。ふむ、そういえば活動家の林尽怜が甦って暴動に参加していたという情報もあったようですな」

 セインが上機嫌に語っている間もオープンカーは高速走行を続け、死者の軍勢に爆撃のような銃撃を行っている。

「いやあ、エンペラー・陳、あなたが中途半端な悪人で本当に良かった。私は自分よりも邪悪な存在が許せない性格でね。やはり一番でありたい。あなたが非情冷徹で罪悪感の欠片も持たず恐怖を感じないナチュラルボーンな虐殺者だったら、私のライバルになり得たのに、ハッハハハ。……ふう。言いたいことを言ったらすっきりしたな。うん、もうこれは要らない」

 セイン大統領は元独裁者の生首を後ろに放り投げた。助手席からティナが投擲した苦無似の刃物が生首の右目に突き刺さり、泥濘に落ちる前に爆散した。

 オープンカーと軍勢との距離は一キロを切った。最初の銃撃で指揮官らしき者達は始末しており、烏合の衆となった死者達は逃げる者と待ち構える者、向かってこようとする者でゴチャゴチャになっている。

 ティナがライフルの先端に大型のグレネード弾を装着し、斜め上に向けて発射した。計算された放物線軌道を描いて飛んだグレネードは、混乱する軍勢の中心に着弾して数千程度始末するかと思われたが、見えない壁に当たったみたいに空中で爆発することとなった。

「おや」

 セイン大統領が呟き、メモリーが車を急停止させた。

 真上から差した太い光が軍勢に降り、巨大な白い柱と化す。死者達は戸惑い顔で空を見上げる。セイン達も空を見上げる。

 暗い紫色だった空に丸い穴が開いており、そこから垂直に光が差していた。この薄暗い冥界に差し伸べられた、天国からの救いの手のように。

 皆が見ている間にその光の柱を通って巨大なものが降下してくる。ゆっくりと、いや、どんどん加速して軍勢のど真ん中に勢い良く着陸した。まだ五、六万程度残っていた軍勢の約半数を潰し、残りもゴミのように吹っ飛んで空中で見えない壁に激突しベチャリベチャリと潰れていった。

 それは、白い神殿だった。土台となる四方に広がった石段の中央頂きに、エンタシス柱の並ぶ上に屋根のついたギリシャ式の神殿。柱の前や石段に強者の気配をまとう異形の死者達が並んでいる。全身が燃えている巨人や、胴体から数十本の腕を生やし首から上も腕になっている剣士、無数の骨を組み上げて構成された大蛇、紙のように薄っぺらでユラユラ揺れるスーツの紳士など。

 強者である筈の彼らが、何故か一様に緊張と怯えを滲ませていた。その感情が向かう対象は神殿の中心にいた。

 屋根に天窓があるらしく空から差す光は神殿中心部にも注いでいる。そんな眩い光を浴びながら真っ黒な人影が玉座に座っていた。

「んー、今回の登場の仕方はなかなか良かったんじゃないか。ラスボスっぽい演出だったろう」

 やや気取った調子だが渋みのある声が冥界に響き渡った。

「おや、漸く冥王とやらのご到着かな。冥界の軍勢を殺し回っていたのになかなか現れなかったから、臆病風に吹かれたのではないかと思っていたところだよ」

 オープンカーの後部座席で余裕の腕組みをしてセイン大統領が煽る。白い神殿まで数百メートルの距離があったが、彼の声も高出力スピーカーを使ったみたいにはっきり届いた筈だ。

「ん、んー、現世に送り出す予定の軍勢が襲撃を受けていると聞いていたが、君達のことか。私の選んだ冥界十三将も何人か消されたようだし。んー、今残っているのは何人だったかな。いや、そんなことはどうでもいいか」

 人影は、映像を雑に塗り潰したみたいに真っ黒で、輪郭が歪だった。それでも少し首をかしげ、右手人差し指を立ててみせたのが分かる。

「新参の移住者らしいが、君ぃ、『臆病風に吹かれた』という言葉は訂正しておこう。ラスボスというのは登場を焦ってはいけない。悠然と、多少遅刻して部下がある程度やられた頃に登場するくらいが丁度いいんだ。そもそも、自分より弱い相手に怯える馬鹿はいないさ」

 セイン大統領がメタリックな顔をイラ立ちに歪め、すぐに笑みへと変える。

「自分でラスボスと名乗るラスボスはいないよ。そんなことを口にしたら、格が下がってしまうからね。もし現実に自称する者がいたら、うん、ちょっと頭のおかしい気の毒な人かも知れないね。おや、なんだか全身黒タイツの変態がいるじゃあないか。顔を隠しているということは、やっぱり臆病者なのかな」

 黒い人影が衝動的に玉座から立ち上がりかけ、ふと我に返ったように座り直した。

「ん、んー、ラスボスはクライマックスまで顔を見せない方がかっこいいと思わないか。コミックの古典だとジョジョの三部なんかがそうだ」

「序盤からラスボスが姿を見せている作品もある。ゲームだとファイナルファンタジー6などだな。ラスボスの心情を描写しやすいし、うん、私はそちらの方が好みだね。ところで私は世界一周列車に乗ってこのイベントの序盤から活動しているんだな。おや、ということはもしかすると、ラスボスというのはそこの黒塗り男ではなく、私のことかも知れないぞ」

「ん、んー。なるほど、なるほど……」

 怒り出すかと見えた黒い人影が、妙に上機嫌な声音になっていた。神殿に並ぶ死者達の緊張が強まる。

「つまり、挑戦者現る、という訳だな。実に、いい。クライマックスの前にもう少し、ラスボスの強さを見せつけるデモンストレーションが必要だと思っていたんだ」

 セイン大統領が何か言い返そうとした時、ヴィクトリアが急に右手の長剣を水平に振った。熱線が刃の延長となって空中を払い、ズビゾョリと何かが焼ける音がする。ティナが玉座の人影を狙いライフルを発射したが、銃弾は水中を進むみたいに減速し軌道も逸れていった。

 何処までも冷静にメモリーが報告した。

「プレジデント、既に攻撃を受けています」

 オープンカーの幌が持ち上がる。いやそれは布ではなく鋼鉄の板で、屋根を形作った後でみるみる分厚く頑丈な装甲と化していく。フロントガラスも鉄板に覆われて小さな覗き窓だけが残り、側面窓も鉄板が持ち上がっていく。タイヤが大型化しボディも一回り大きくなり、オープンカーだったものはあっという間に黒い装甲車に成長していた。更に前後部、側面、屋根から半円形の大きな刃がせり出してくる。単分子で形成されたそのエッジは微細な震動を続けており、あらゆるものを切り裂く鋭利さと強靭さを備えていた。

 装甲車が猛スピードで発進する。銃眼から機関銃やライフルの弾が撃ち出され、半円の刃は見えない何かを切断していく。

 が、装甲車の勢いは次第に弱まり、車体が地面から浮き上がった。まるで見えない巨大な手に掴まれたかのように、半円の刃がへし曲がり、分厚い装甲がギチュギチュと軋みを上げて変形していく。

 そのまま押し潰されるかと見えた刹那、フロントの装甲を内側から貫いて超高密度のエネルギー弾が発射された。軌道を逸らされることなく一直線に飛び、白い神殿の柱を十数本と屋根の四分の一ほどと並んでいた強者の三人ほどをスコンと削り取っていった。遥か彼方の山に着弾し、大きな爆発を起こすと山は消えていた。

 新しい半月刃が生えて見えない何かを削り裂いて車体が着地した。装甲が再び膨らんで前よりも更に厚くなっていく。

「おや、冥王というのも意外に大したことないのかな。私の射撃の腕が下手糞でなかったらここで終わっていたところだ」

 前のシートに乗り出し、フロントの装甲に開いた穴から顔を覗かせてセイン大統領が挑発した。左肘から生えた黒い砲塔が次の発射を待って小さな雷光を散らしている。

 欠けた神殿の中央玉座から動かず、黒い人影は余裕たっぷりに語る。

「ん、んー、今度の挑戦者はなかなか活きがいいじゃないか。現世への親征まで時間潰しが必要だったところだ。精々頑張って長持ちしてくれたまえ」

 突進していた装甲車が急に垂直に飛び上がる。自らジャンプしたのではない。乱暴に放り投げられたみたいにグルグル回りながら高く、高く。数百メートルの高度に達した時に再びエネルギー弾が神殿に向けて発射され、見えない力に打ち返され丸っきり別の方向へ飛んでいった。

 

 

  四

 

 空飛ぶ幽霊船ブラディー・サンディー号はヒマラヤ山脈上空を高速飛行していた。

 列車が北京を過ぎて約八時間。中国本土ではハンガマンガの群れを何度か撃退したくらいで大きなトラブルはなく、チベット自治区に入ってからも敵を求めて高原をさまよう死者の軍をスルーして平和に通過した。そして、ヒマラヤ山脈を貫いたトンネルに列車が突入すると、船はさすがについていけず山の上を越えることになった。

 各所に設置したカメラも通信も使えない状態で暗いトンネルを抜けるため列車は減速せざるを得ず、船が先回りして向こう側に危険があったら出来る限りすみやかに排除する方針となっている。トンネルの出口手前で列車は待機し、安全が確保されたら出口側から神楽が入って連絡する予定だ。

 という訳で、現在船には神楽達が乗っていた。ちなみに中国国家主席の影武者と護衛はとっくに列車に戻っている。

 現地時間で午前二時前後。八千メートル級の山が並ぶその上を船は越えようとしている。夏だが恐ろしい寒さで、肉のない骸骨船員達も震えながら教皇を囲み光に当たっていた。

 シアーシャとイドは手を繋いで船縁から前方を眺めている。昼間であれば少しは夏の緑が見えたかも知れないが、今は闇に切り立った輪郭が浮かび上がるだけだ。山を越えたらインドの様子が分かるのだろうか。もし生き残っている人がいれば点々と都市の明かりが見えるかも知れない。或いはそれは人を殺すために徘徊する機械達のライトであったり、単に町が燃えているだけだったりするかも知れないが。

「イド、寒いかな」

 シアーシャが尋ねる。

「寒くない」

 イドは簡潔に答える。実際のところ、シアーシャは自分達二人だけを薄い結界で包んで温度と気圧をコントロールしていた。

 神楽鏡影は船首に近い場所に立ち、腕組みして下界の様子を観察している。黒い作務衣似の着物が寒そうだが、厳しい表情は寒さのせいではないようだ。

「ヘーイ、カグーラ、心配かーい」

 舵は副官に任せ、キャプテン・フォーハンドが神楽の横に立つ。といっても触れるのは嫌なようで、一メートル半の距離をしっかり保っていたが。

「心配とは少し違います。そろそろ敵と遭遇する可能性が高いので、出来るだけ早く見つけたいだけです。先に見つけて有利な条件で戦いたいですからね」

「まーあ、大丈夫じゃねーの。シー・パスタもやっつけたんだからよう。あれよりでかくてヤバイ敵なんてのはまあ、いねえだろうさ。……ところで、シー・パスタのパスタはまずかったなあ、カハッカッカッ」

 船長は痛快そうに笑いながらワインをラッパ飲みする。北京手前で列車に合流した際、持ち帰った肉塊を食堂で調理してもらったのだ。船長はまずいまずいと言いながら完食し、ドラゴンは一口食べてすぐ吐き出した。他の誰も食べようとしなかったので、船長は鍋ごと船に持ち帰って部下達に食べさせたのだった。長年追い続けた宿敵を食べるのは儀式的な意味合いもあっただろう。ただし、彼らは何を食べても飲んでも結局床に零すだけなのだが。

 背骨とズボンをワインで濡らし、船長は空になった瓶を船外に放り投げる。雪で覆われた山の斜面に瓶が突き刺さる。人類が滅亡しなければ後の登山家が見つけて面白がってくれるかも知れない。

「船長、もうすぐ山の天辺を越えますぜ」

 見張り台に立つ骸骨が報告した。

「よーし、いよいよか。俺様達の大活躍のチャンスが待ってるかもなあ。あー、頂上越えたらちょっと減速な」

 船長が命じ、黒いバンダナキャップの副官は「了解っす」と応じた。

「そういやこの辺で一番高そうな山を越えてるが、ここがエベレストかい」

 船長が尋ねると、神楽も特に意識していなかったようで小首をかしげた。

「エベレストはもっと東にあると思いますが。アンナプルナかな。いや、デリーに真っ直ぐ辿り着ける位置関係で……」

 などと言っている間に船は頂上を過ぎた。

 新しい景色が広がる、というほどでもなく、まだゴツゴツと切り立った岩山が並ぶばかりだ。

「あんまし変わんねえな。まずはトンネルの出口を探すかい。レールが走ってるとこから辿りゃいいだろ」

「レールではなくガイドウェイですね。もう少し進めば見えてくるかも知れません」

 神楽が訂正しつつ、闇の中で目を凝らす。船長は単眼の望遠鏡を部下から受け取って目に当てた。眼球がなく青い炎が揺れるだけの眼窩で、何処まで見えていることやら。

「ねえ、あれを見て」

 シアーシャの声に神楽達が振り返る。少女が指差す方向を全員が注視した。

 やはり暗いため大まかな輪郭でしか分からないが、特別なものは見当たらないようだ。

「ヘイ、ガール、あれってどれだい。まだ山ばかりだが」

「あれよ、天辺の丸い」

「丸い……あー、山だなー。それがどうした」

「山じゃないよ」

 シアーシャが指摘した瞬間、山の一つと思われた輪郭が僅かに動いた。船員達がどよめき、神楽が目を細める。

 のっそりと、緩やかに、巨大なものが動き出す。ヒマラヤ山脈の八千メートル級の頂きには及ばないが、それでも高さが二千メートル以上はあるのではないか。

 丸っこい輪郭に別の形が生える。細長い、触手のような腕のようなもの。数百メートルの長さがあったが先端は陰になって見えない。のっそりと、移動する。こちらではない何処かへ向かっている。

 目を凝らしていた神楽が低い声で告げた。

「ヌンガロかと思いましたが、黒い。ハンガマンガです。おそらくあれが『大きな獣』でしょう」

 光る教皇が身を震わせた。

「そんな、あれが……大き過ぎる。砦ほどの大きさのものがいたという記録はありましたが……あれが『先触れの四獣』の『大きな獣』だとしても、生き物としての限度を超えています」

「こちらに来て沢山食べたのかも知れませんね」

 神楽が適当なことを言う。

「ま、ままあ、シー・パスタよりは小さいな、カハッ」

 船長は笑い飛ばそうとしたが少々ぎこちないものになっていた。

「あれを斬ればいいのか」

 イドが無表情に尋ね、神楽は「ちょっと待って下さい」と返した。

「意識が何かに向いています。敵意……何かと戦おうとしています。もう少し高度を上げつつ進んでもらえますか」

 船長が振り向いて頷きだけで指示を出し、副官が操舵輪を回していく。視界が広がり、山々の向こう側にあるものが見えてくる。

 動いている巨大な獣以外に、インドの広大な土地に少し明かりが見えた。だがそれは殆どが燃えている林で、電灯の点いた町らしきものはごく僅かだった。そしておそらくはそこも人を殺すロボットが徘徊する死の町となっているだろう。

 モゾリ、と、暗い大地に動くものがある。

 丘に見えたもの。高さは四、五百メートルというところか。それが更に盛り上がったかと思うと横にずれ、頂きが沈んでいく。そしてまた盛り上がる。丘が移動しているのだ。いや、丘だけでなく、よく見ると周辺の土地が丸ごとグネグネと蠢きながら移動していた。

「あれがヌンガロですね。漸く直接見ることが出来ました。どうやら『大きな獣』はあれと戦うつもりのようです。……さて、高みからじっくりと観察させてもらいましょうか」

 神楽が人の悪い笑みを浮かべた。

 

 

第五章 七〜九へ戻る タイトルへ戻る 第六章 五〜六へ進む