五

 

 二大巨獣の戦いは、ゆっくりと始まった。

 『大きな獣』はオーストラリア大陸を荒らして生き残りの人類や動植物を食い散らすと、新たな食べ物を求めてインドネシアに渡った。その時点で一緒に地球に渡った他のハンガマンガは『大きな獣』に食い尽くされていた。インドネシアを蹂躙して生き物も森も建物もない更地に変え、そこからマレーシアに跳んだ。タイ、ミャンマーと食べ歩きツアーは続いた。森が畑が消え、人も動物もいなくなり、ロボットも建物さえも食われて『大きな獣』の通った後には荒野しか残らなかった。途中に死者の軍勢ともぶつかったがあっさり貪り食った。とにかく何でも食らい、高さ四百数十メートルであった『大きな獣』は、インドに到達する頃には二千二百メートルまで巨大化していたのであった。

 ヌンガロは分裂と合体を繰り返しながらアフリカ大陸の人類と動物を全て取り込んだ後、ヨーロッパに進出した。一部はスペインに上陸し、一部は中東方面に、そして一部はインドに。インドではビューティフル・ダストの操る殺戮向けの機械に対して人口が膨大であったため、当時まだかなりの人が生き残っていたが、津波に呑まれるみたいにあっさりヌンガロに呑み込まれていった。分裂して獲物を探し、ある程度取り込むと合流して巨大化する。それを繰り返しながらインドを舐めるように食い尽くし、今や体積推定不可能なレベルまで成長していた。

 『大きな獣』は辿り着いたインドに食べ物が殆ど残っていないと知り、ヒマラヤ山脈を越えて北に行こうとしたところでヌンガロの存在に気づいた。

 ヌンガロもまたインドで目ぼしい生体反応がなくなり、中東方面を荒らしていた分体と合流するため移動しかけたところで巨大な生命体の接近を知覚した。

 『大きな獣』は二キロメートルを超える背丈にずんぐりした胴体で、両肩からは二本ずつ長い腕のようなものが伸びている。下半身は弛んだ皮がスカートのように広がって脚が見えなかった。頭部には目鼻がなく、牙が並ぶ大きな口だけが開いていた。体の表面は漆黒だが、普通のハンガマンガと違ってゴワゴワした粗い毛皮であった。

 ヌンガロは高さ数百メートルで、一時的に盛り上がった時は一キロを超えることもある。横の広がりは長いところで二十キロほどもあった。巨大なアメーバかスライムのような形をしているが、表面を近くでよく観察すれば凹凸に気づく筈だ。人間や動物を取り込んで融合したが元の形状がある程度保たれており、顔や頭、手足や尻尾などが乱雑に生えているのだった。超絶的な自重によって潰れてしまっている部分も多いが、虚空を掴もうとするかのように握って開いてを繰り返す人の手や、まだ生きているみたいに口を動かしている顔もあった。

 『大きな獣』が山脈から離れ、ヌンガロに向かっていく。巨体のためのっそりとした動きに見えるが実際には恐ろしいスピードだった。スカートがブワブワと揺れてその風圧だけで木々が倒れ、地響きでヒマラヤの山々が震えた。

 ヌンガロがグネグネと変形しながら移動する。一部を仮足のように伸ばし、そこに後ろから肉が追いついて膨らんでいく。上であった面がやがて下になり、下であった面が顔を出してくる。木々を押し潰していくが通り過ぎた後にも残っており、取り込んではいない。ヌンガロが求めているのは動物だけのようだ。一部には尖った牙が並んだ漆黒の皮膚や、巨大な吸盤が並んだ触手が混じる。ハンガマンガやテンタクルズの肉も取り込んでいたらしい。ちなみに冥界からの死人も取り込んでいたが、さすがにイメージから作られた仮の肉体と融合は出来なかったようだ。死人が力尽きて消えた後は単なる空白となり周囲の肉で埋めていた。

 『大きな獣』が四本の腕を持ち上げ前方に伸ばす。幅百メートル、長さは一キロを超えている巨大な腕がグネリ、グネリと動く。関節がないのか、或いは無数にあるのか。腕の先には太い爪の生えた指が並んでいるが、掌と思われる場所には大きな口が開いていた。腕からでも獲物を貪り食らうことが出来るように。超巨大な怪獣は咆哮を上げることもなく、牙同士がぶつかるカチカチという音は地響きに紛れた。

 ヌンガロが移動しながら表面の数ヶ所を隆起させる。槍のように真っ直ぐに伸びた先端は『大きな獣』に向けられている。広大な陸地が動くようなヌンガロの移動で潰される森や町が破壊音を発し、ヌンガロ自体が発する微かな音を聞き取れる者はいなかった。ムィムィ、ヒュハ、ヒュハ、という奇妙な音。それは、取り込まれた生き物達のまともに機能しなくなった肺が巨体の移動に伴い押し潰され、口鼻から自然に洩れる呻きであった。

 近づく。巨大な山と巨大な陸地が互いに近づいていく。山脈の上から見守る幽霊船など、彼らにはちっぽけ過ぎて意識の外であるようだった。

 最初に攻撃を仕掛けたのはヌンガロの方だった。槍のように細長く突き出した先端から固形物が射出されたのだ。それは取り込んだものの融合対象にならなかった自動車などの金属塊を、圧縮して弾丸にしたものだった。直径一メートルから五メートル程度、下手すると数百トンの質量にもなる塊が、筋肉の集合体によって異常な加速を受け高速で飛んでいく。

 百発を超える巨大弾丸は『大きな獣』の黒い体に突き刺さった。しかし、びくともしない。弾丸は硬質な毛皮を貫き数十メートルも肉に潜り込んだものもある。だが身長二千メートルを超える巨獣には何の意味もなかった。

 『大きな獣』が変わらぬペースで進む。いよいよ至近距離に達した時、四本の長大な腕が鞭のように叩き下ろされた。それを払おうとするかのようにヌンガロから生えた槍が伸びたが、腕の一本が触れるとあっさり折り取られていた。折れた部分はもがきながらも、そのまま麺でも啜るように『大きな獣』の腕先に吸い込まれていく。

 他の三本の腕はヌンガロの平たい本体をぶっ叩いた。その周辺の肉が揺れるがヌンガロも巨大過ぎるためダメージは殆どなさそうだ。と、腕がバウンドして持ち上がった時にはそれなりの大きさの肉塊を咥えていた。腕先が噛み砕き、呑み込んでいく。

 ヌンガロにとっては蚊に刺されたほどのダメージもなかっただろう。そのまま突進して『大きな獣』にぶち当たる。動く陸地のタックルを受けて山がさすがに後退した。それでも倒れることはなく、太い首が伸びる。大きな口が更に大きく開き、ヌンガロの体にグォバァリと食らいついた。胴体にも縦の亀裂が入ったと見えたら巨大な口であった。長さ一キロメートルにも達するような口がヌンガロを齧る。カステラでも齧るようにあっさり削り取っていく。

 ヌンガロは『大きな獣』に当たる以外の部分を変形させて回り込ませ、左右から背後までを埋めつつあった。棘のように尖った部分がヌンガロの毛皮に突き刺さり、少しずつ奥へ食い込んでいく。

 『大きな獣』は四本の腕と首と胴体の口を使って凄い勢いでヌンガロの肉を貪り食らっていく。特に胴体の口は一齧りで数百メートル四方の肉をちぎり食らっていた。『大きな獣』の背丈が少しずつ、高くなっていく。どういう消化力を持っているのか、食べながらすぐ自分の肉にしているらしい。

 ヌンガロは食われても構うことなく『大きな獣』を囲み終えて逃げ場をなくすと、盛り上がった肉で相手の全身を包み込んでいく。

 身じろぎによって絶え間なく地響きが続き、二体の巨獣がお互いを食らい取り込もうとする恐ろしい戦いが繰り広げられていた。

 

 

 幽霊船の一行は『大きな獣』とヌンガロの戦いを息を詰めて見守っていた。

「これって……どうなるの」

 シアーシャが神楽に尋ねる。少し呆れたような口調であった。

「ヌンガロが『大きな獣』を取り込むのが先か、『大きな獣』がヌンガロを食い尽くして消化するのが先か、ということになりますかね。普通に考えれば圧倒的に質量の多いヌンガロの勝ちになりそうですが、相手は異世界の生物ですから、さて、どうなるでしょうね」

「カグラさん、今のうちに先制攻撃した方が良いのではありませんか。こうやって見ている間にも、生き残っているインドの人々が彼らに潰されているかも知れません」

 心配げな教皇の言葉に、神楽は冷徹な視線を返した。

「生き残りは既に殆どいないと思いますよ。それに、犠牲者を減らすために余計なリスクを背負うつもりはありません。私達には人類という種と世界の存続が懸かっていますからね」

 教皇は言い返すことが出来ず、ただ輝く体で立っているしかなかった。

 そして神楽は軽く溜め息のようなものをつくと、袖の中から先の尖った細長い円筒形の武器を取り出した。蛋白質を分解しながら無限に自己複製する、究極の猛毒『無空』を収めた注入器だった。

「しかし、切り札を使ってみるチャンスではありますね。今度はシー・パスタのように自切されなければいいのですが。船長さん、あの怪獣達に出来るだけ近づいてもらえますか。……っと、奥さんは斧を投げるのが得意でしたね。ここからでも命中させる自信がおありのようですから、斧に塗らせてもらいましょうか」

 途中でゴリビキ、と船首像が動いたので神楽は慌てて提案することになった。

 船長が毒を受け取ろうと手を伸ばした時、閃光が世界を覆った。

 荒れ果てた大地で絡み合う漆黒の巨獣と合体アメーバが明るく照らし出される。『大きな獣』の巨大な口内に並ぶ無数の牙。数多の人間と動物の肉を合体融合させたヌンガロの異形。船上の多くの者がそれに気を取られたが、神楽とシアーシャは空の方を見ていた。

 強烈な光を投射しているのは全長二百メートルを超える葉巻型宇宙船だった。派手な戦闘を経たのだろう、暗赤色の船体は所々に破損して修復した跡がある。

 ポル=ルポラ星人の宇宙船。今もコンピュータを乗っ取られ、セイン大統領の遺志によって人類滅殺に動いているのか。

 いや。宇宙船の上に立っているものを見て、神楽は疲れた声で呟いた。

「こんな時に趣味に走らなくても……」

 からくり巨大ロボット・ハタナハターナが、ビームサーベルのような光る剣を握って立っていた。

 

 

 宇宙船はビューティフル・ダストの支配を免れたポル=ルポラの戦艦二隻のうちの一隻、そして今となってはポル=ルポラ唯一の宇宙船となったポネルータン号であった。

 核ミサイルの大半を撃ち落とした後アンギュリードの宇宙要塞から砲撃を受け、ボロボロになったがなんとか墜落せずに耐えた。応急修理を施しながら同胞達の安否を探るうちに、彼らはヒューストンでの奇跡的な和解を知ったのだった。

 宇宙要塞ギュリペチと無人戦闘機群は電源停止により沈み、ポル=ルポラの他の戦艦も乗員自身の手で空中分解した。満身創痍のポネルータン号を撃墜する勢力はなく、船がヒューストンに駆けつけたのは約四時間後のことだ。ポル=ルポラ星人達は合流を喜びながら、首長ルーラ・ポポポル・ポルールを含めて戦える者達が船に乗り込んだ。ついでにアンギュリードの技術者達も宇宙要塞から使えそうな僅かな武器を引っ張り出してきて同乗した。アンギュリードの新しい議長役を押しつけられたキキッペルモもヤケクソ気味に乗り込んだ。彼は『HUN○ER×HU○TER』の真実を知ってしまったのだ。

 必要最小限の修理を終え、地球人から温かい声援を送られながら、最後の宇宙戦艦ポネルータン号は出発した。彼らの目指す先は、北半球のガイドウェイ上を走り続けるラウンド・ザ・ワールド・ドリーム・エクスプレス。その列車が人類を救うために走っていることを彼らは聞いていた。ドラゴンと戦った戦士達が乗っていることを知っていた。

 異星人達も参加したいと思ったのだ。人類を救い、地球を守るために。

 その途中で巨大ロボを拾い、ロボが保護していたポルータース号の生き残りを回収し、ついでとばかりに改造したビーム砲を持たせ、彼らは万歳を唱えた。自らの船をガンダムのサブフライトシステムみたいに巨大ロボの空中サーフボードにして、彼らは趣味を満喫しながら今ここに参戦を果たしたのであった。

「ついにこの時が来たか」

 司令室ではポル=ルポラ首長ルーラ・ポポポル・ポルールが、胸までかかる白いたてがみを撫でながら満足げに頷いた。

「長生きはしてみるものですな。巨大ロボと怪獣の戦いをこの目で見ることが出来るとは」

 ポネルータン号艦長トゥットラ・ルタールが感慨深げに応じる。左隣の席に首長を座らせているが、艦内では艦長が一番偉いので卑屈な態度は取らない。ヒューストンで調達したビーフジャーキーを大事そうに噛み噛みし、首長には分けてあげないのだ。

「破壊光線の飛び交う戦争に人型巨大ロボなど全くのナンセンス、と考えていたが、何だろうな、この胸の奥に感じる熱さは」

「効率や実利とは別の次元にあるもの。……やはり、ロマンでしょうなあ」

 そんなことを言っている艦長の右隣には専用の椅子を用意されたアンギュリード星人が二人並ぶ。まだうなだれているキキッペルモに代わり、技術者のドッギュールが発言した。

「では、ビームソードの切れ味を試してもらってよろしいですか。ぶっつけ本番ですので、まずは柔らかそうなものからお願いします。問題ないようでしたら、出力を調整してブレードを伸ばすことも出来ますので」

 ドッギュールはアンギュリード技術者の中でも超優秀で、惑星破壊爆弾を停止させるための手順を考えたのも彼だった。アンギュリード星人の宿命である臆病さも、専門分野に集中している間は軽減されている。

「えー、じゃあ、あの腕の辺りを狙ってみます。右の腕です、今相手の肉にめり込んでゆっくりウネウネしてるところ。移動の方、よろしくお願いします」

 天井のスピーカーからトーマス・ナゼル・ハタハタの声がした。ポル=ルポラ製の通信機を渡してあるためロボ側と意思の疎通が可能になっていた。

 艦長が命令を下した。

「よろしい。では戦闘開始だ。艦は加速してあの怪獣の腕の下をくぐるように通り抜けよ。奴らの仲間はちっぽけでも障壁を貫通したそうだから、触れないように気をつけろ。砲手はまだ待機だ」

「了解っ前進しますっ」

 操縦士が牙を剥き出して気合を入れ、操縦桿を握り締めた。七本の指は精妙に動き、宇宙戦艦はなめらかな加速を見せる。もっと鋭い挙動も可能だが、エンジンの破損で本来の三割程度の出力しか出せないのと、ロボの操縦士やアンギュリード星人の脆弱な肉体に配慮したためもあった。

 亀裂の入ったウォールスクリーンが絡み合う怪獣達を映し出す。それがみるみる近づいてくる。下手すると黒い巨獣の胴体に激突しそうだが、ポル=ルポラの乗員達は平然としていた。操縦士の腕を信じているのか。いや、自分自身の力を信じているのだ。

 

 

 全長五十七メートルのハタナハターナは船首の屋根に立つ。両足は落下しないよう力場で固定されているが、必要であれば司令室からの操作で解除することも出来る。

 ハタナハターナの右手に握らせたビームソードは、元は宇宙要塞ギュリペチの防衛用ビーム砲であったものだ。宇宙船で仲間を回収に来たポル=ルポラ星人達は、巨大ロボを目にしてやはり歓声を上げながらペタペタとボディに触れまくり、更には卵のような体型の宇宙人を引っ張ってきてガンダムのビームサーベルを持たせたいと議論し始めたのだった。その結果、独立したバッテリーを柄の部分に内蔵したロマン兵器が誕生してしまった。残念ながらハタナハターナの指は精密動作が不可能なため、ビームのオン/オフや出力調整は司令室にいる技術者がコントロールする。

 操縦士のトーマス・ナゼル・ハタハタは艦の加速を感じながら、ふうぅ、と息を吐いて緊張をほぐそうと試みる。そしてレバーを操作してハタナハターナの右腕を振り上げた。有効距離を八十メートルに設定されたビームのヴヴヴヴヴーン、という唸りがコックピットまで聞こえている。ビームというのが正確には何を出力しているのかトーマスには分からない。ただ、恐ろしく強力なエネルギーということは知っている。操作を誤ると自身のボディや戦艦の装甲まで切り裂いてしまうほどに。ハタナハターナの全高よりも長いので扱いには注意が必要だ。

「ヒャッホーッ、やっちまえっブラザーッ」

 そんなトーマスの横でテンション高く雄叫びを上げるのはルラコーサというポル=ルポラ星人だった。左腕を失い、負傷した脇腹に治癒促進シートを巻いている。沈みゆくポルータース号から最後に飛び降りた彼をハタナハターナで見事にキャッチした訳だが、仲間の船がやってきてもそちらには乗り込まず、そのままコックピットに居着いてしまったのだ。

 エリザベス・クランホンは後ろでクッションを抱え、冷ややかな視線をそんな二人の背に投げていた。

 窓から見える光景が猛速で流れていく。ウネウネと蠢く巨大な化け物に囲まれた、黒い巨大な怪獣が腕を振り回して暴れている。ただし、そのうち右の腕の一本が化け物の肉に先端をめり込ませているため動きが制限されている。狙うはそこだった。

 トーマスがやるべきはタイミングを合わせてハタナハターナの腕を振り下ろすだけだ。細長い葉巻型の宇宙船は見事なコントロールでアーチ状になった腕の下へ向かっている。コンピュータ制御のような正確さだが、実際には生身の操縦士が素手でレバーを操作していることをトーマスは知らなかった。

 更に加速する。トーマスの体がシートに押しつけられるが目は標的から離さない。右のレバーを握る手がピクッと動く。

「今だっ」

 ルラコーサが叫ぶのとほぼ同時に、トーマスはハタナハターナの右腕を一気に振り下ろした。艦のスピードに対して最大限タイミングを合わせたが、からくり機構の僅かなタイムラグが災いした。ブレードを水平まで振り下ろし終えたのは巨獣の腕の下を通り過ぎた後だった。

「……ぅおっ」

 ルラコーサの驚きの声は、潜望鏡によって後方の様子を確認したからだ。微妙に切り損ねた筈が、実際にはビームソードの異常な破壊力によって巨大な腕を殆ど切断してしまっていた。

「凄えっ」

「いいぞいいぞっ」

「ヒャッホーイッ」

 歓声はルラコーサだけでなく通信機からも聞こえた。ノリノリの宇宙人達にクランホンが鋭く警告する。

「下から来るっ気をつけてっ」

 即座に艦は上昇を始める。ガツンガツンと激突音が聞こえ、艦が少しだけ揺れた。何が起こったのか、ハタナハターナからは死角になって見えない。

 通信機から艦長の声が教えてくれた。

「ヌンガロが触手を伸ばして攻撃してきた。障壁にダメージが入ったが問題ないレベルだ。鉄の塊も飛ばしてきたがこれはノーダメージだった。それにしてもエリザベス、よく気づいたな。野生の勘という奴か」

 クランホンは少しムッとした表情になる。

「ESPです。元々の素質に訓練を積んで……」

「つまり野生の勘だな。素晴らしいっ」

 クランホンはもう反論しなかった。

「ビームの出力は問題ありませんがやはり反撃のリスクがありますね。次はブレードを倍に伸ばします。取り扱いには用心して下さい」

 技術者の甲高い声が聞こえ、ハタナハターナの持つビームソードが伸びていく。倍ということで百六十メートルとなっている筈だ。ビームの輝きは少し薄れたが、ヴヴーンという唸りは変わらない。

「反撃されるリスクを考えたら、最初は長めから始めた方が良かったのではないですか」

 クランホンが質問する。

「初っ端から特攻かけるのはロマンだからな」

「うむ、ロマンなら仕方がない」

「遠距離から砲撃すれば済む話ですけど、ロマンですからね」

 艦長と首長と技術者の声が答え、クランホンは目を見開く。

「えっ、砲撃出来たんですか。ならなんでわざわざ剣持たせて接近戦なんか……」

「だから、ロマンなのである」

「ヒャッホーッ、ロマンだあーっ」

「まあ、ロマンですからねえ」

 ルラコーサが叫び、操縦者のトーマスまでもが頷くのを見て、クランホンは死んだ顔で後ろからトーマスに蹴りを入れた。

「えっ痛っ、なんでっ」

「さすがは野生の勘だっ」

 ルラコーサがまた嬉しそうに叫ぶ。クランホンは彼の負傷していない方の脇腹に靴先を突き込んだ。

「ぐっ、うぅ……さすが……」

「腕が繋がり始めています。あの怪獣は再生能力も備えているようです」

 通信機から誰かの声が報告した。

 ポネルータン号は大きくUターンして再び前方に化け物達を捉えた。確かに黒い巨獣のちぎれかけていた腕がくっついて、接着部分が膨らんでいる。と、その下からヌンガロがグネグネの触手を伸ばし、黒い腕に巻きついて引っ張り始めた。ブチッ、とついたばかりの腕がちぎれてヌンガロに呑み込まれるのが見えた。

「え、えーっと、この場合って、どっちを先にやっつけるべきなんですかね」

「両方まとめてやっちまえばいいんじゃないか」

 トーマスの疑問にルラコーサが明快な答えを返した。

「今度は横薙ぎで行ってみよう。あの首っぽいところをぶった切る勢いでやっちまいな」

 艦長の声と共に艦が加速していく。トーマスはレバーを操作して右腕を垂直に振り上げ、それから水平にシフトさせた。百六十メートルに伸びたビームが細長い戦艦の右横に突き出す。そこから更に後ろに振りかぶるのは肩関節の構造的に不可能であったが、トーマスはロボの腰を回転させて可能にした。

 戦艦の接近に気づき、巨獣が残った腕のうち二本を振り上げて迎撃態勢に入る。戦艦は巧みなコントロールで化け物達の左横を掠めるように高速移動する。下の方でガツンガツンと何かがぶつかる音がする。ヌンガロがまた攻撃しているようだが戦艦が揺れるほどではない。

 長大な腕の間を戦艦がすり抜ける。ルラコーサの「行けーっ」というかけ声にトーマスの呼気が重なる。レバー操作にペダル踏みも加え、ハタナハターナは腰を回転させながら水平斬りを振りきった。

 大きな口だけついた巨獣の頭部。それを支える長く伸びた首にパックリと裂け目が開いていた。

「腕が来るっ」

 クランホンの警告。戦艦は急加速したが強い衝撃を食らって激しく揺れる。クランホンが壁にすっ飛び、咄嗟にクッションを体との間に挟んだ。

「後ろから腕の叩きつけを食らった。一旦距離を取るぞ」

 通信機が発する艦長の声は平静だったが、混じって聞こえる喧噪はダメージの重大さを予感させた。

 戦艦は化け物達からかなりの距離を取って向きを変えた。投射される光によって相手の様子はよく見える。巨獣の首筋は斜めに裂けていたが、断面から出血は見られず、新たな肉が盛り上がっていく。結局致命傷にはならなかったようだ。

 だが再生中のそこにヌンガロの触手が絡みついた。腕の時みたいに引きちぎるのではなく内部に潜り込もうとしている。と、断面に無数の牙が生えて触手を食いちぎった。

「うーん。なんか訳の分からないことになってますね。あれって斬って殺せるのかな」

 トーマスが首をかしげる。

「出力的にはブレードをもう少し伸ばせそうです。今の長さの五割増しと行きましょう」

 技術者が報告する。続いてテンション高めな艦長の声が。

「艦砲使用も解禁するが、一発派手な奴を決めようじゃないか。ハタナハターナの足は力場で固定されているから逆さになっても落ちないぞ」

「えー、逆さ、ですか。つまり……」

「背面飛行大上段斬りだっ」

 ヒャッホーッ、というポル=ルポラ星人達の叫びが聞こえた。トーマスのすぐそばでもルラコーサが片腕を突き上げて叫んでいた。後ろでクランホンは嫌そうに耳を押さえた。

 グルーリ、と、視界が回転していく。右に傾き、一気にひっくり返って上下逆さになる。コックピットの天井に着地してクランホンが悪態をつく。ルラコーサはトーマスのシートを掴んで天井への落下を防いでいる。

「あー、もう一気に伸ばしてしまいましょう。最大出力でブレードを二キロメートルまで伸ばします。怪獣を真っ二つに出来ますよ。振り過ぎて船も真っ二つにしないよう気をつけて下さい」

 逆さ状態で調整しているのか、技術者の苦しげな声がした。ブレードがグングン伸びて訳の分からない長さになってしまう。バチバチと時折火花が散るのは出力が不安定になっているためか。

「全速力でゴーッだっ」

 艦長が叫ぶ。星人達の雄叫びが聞こえる。

「畜生、暗黒大陸編を信じていたのに」という誰かの嘆きも聞こえた。

 逆さ状態のまま艦は空を駆ける。これまでの気遣いを吹っ飛ばした激しい加速にトーマスの体が押しつけられシートが軋みを上げる。クランホンは丸くなってコックピットの壁にへばりついている。

 目標の巨獣はヌンガロに全身をたかられて一回り大きくなってしまっていた。無数の動物や人体で構成された混沌模様と、本来の漆黒の毛皮が入り混じりまだらになっている。巨獣の黒い腕は途中からヌンガロの触手になり、肉に食らいついた巨大な口を別の肉が覆いつつある。もう何処までが巨獣で、何処からがヌンガロなのか分からなくなってきていた。

 戦艦は突撃する。そのまま巨獣の胴体にめり込みそうな勢いで突っ込んでいく。障壁が破られる危険も承知の上で。トーマスがやってくれることを信じているのか。或いは、ただ、ロマンだからなのか。

 戦艦の砲台から発射された黄色の破壊光線がヌンガロを焼いていく。熱さや痛みを感じているのか、ヌンガロの大地がグネグネとうねる。巨獣の腕の一本が真正面から殴りつけようとしたが、光線に炙られて軌道が逸れた。そこに船首が潜り込む。

 のしかかる有形無形の圧力に耐え、血走った目で瞬きもせず、トーマス・ナゼル・ハタハタはレバーを押し出した。異常な集中力が発揮され、ハタナハターナの持つビームソードはヌンガロの分厚い肉を切り裂いていき『大きな獣』のスカートを割り、そのまま胴体から首筋、大きく口の開いた頭部までを真っ二つにした。パックリと開いた巨大な肉の隙間を戦艦が通り抜けていく。

 更に、ブレードが水平に達したところで彼はレバーを止め、中央の別のレバーを引いた。ハタナハターナの胴が勢いよく水平回転し、それによって二キロメートルのブレードが巨獣の割れた胴体を更に輪切りにした。一回、二回、三回転と、更に半分回ったところで戦艦は完全に通り過ぎ、ブレードも届かなくなった。

 逆さ大上段斬りに加えて逆さ水平斬り三回転半という超大技を、トーマスはこの正念場でやってのけたのだった。

「ビューティホーッ」

 ルラコーサが狂ったような歓声を上げた。通信機からの音声も喝采とポルポルポルという奇妙な音で満たされた。

 戦艦がグルーリと横回転して上下が元に戻った。クランホンがクッションをうまく使って着地する。

「っと、なんか真っ赤になってますよ」

 トーマスが指摘した。ブレードが激しく火花を散らしながら明滅する。柄の部分が赤熱しているが、今手放す訳にはいかなかった。

「やはり無理があったようだな。一旦出力を落とす……ああ、駄目だ壊れた」

 技術者が言い終える前に柄が爆発し、ビームで構成されたブレードは消滅した。

「ハタナハターナは無事かね」

「えーっと、大丈夫です」

 鉤状の指を開閉させるが特に問題はなさそうだ。ただしサブフライトシステムごっこは終了を余儀なくされる。

「怪獣の方は致命傷と思われる。しかしヌンガロはしぶといな。怪獣と完全に同化しようとしている」

 首長の声がした。

 縦に割られ更に数回輪切りにされた巨獣は、断面同士がくっつく前にヌンガロの触手が大量に入り込み、バラバラのまま取り込まれていく。腕の一本が断末魔のように踊ったが、それもアメーバに呑み込まれていった。

 光線による砲撃は続いている。広範囲を焼くためエネルギーを拡散させているが、相手の質量が膨大過ぎて大したダメージにはなっていないようだ。もし全体の動きを統制するような中枢器官があるのなら、それを撃ち抜けば殺せるのだろう。しかし、無数の生き物を手当たり次第に合体させたこの巨大アメーバに、そんな上等な器官の存在をポル=ルポラのセンサーも感知出来なかった。

 そのうちにヌンガロの前面に漆黒の毛皮が配置され、光線のダメージが更に減衰される。取り込まれても強靭さを保つ巨獣の毛皮を防御に使うだけの思考力があるようだ。

「このまま焼き尽くせますかね。宇宙船の電力は大丈夫ですか」

 トーマスが尋ねる。

「出力はこれが目一杯だがエネルギーは半永久的に持つ。焼き尽くすまで何時間かかるかは分からんが」

 艦長が答えている間、クランホンは立ち上がって眉をひそめていた。

「どうも嫌な予感がします。もっと距離を取った方が……避けてっ」

「何。回避っ」

 司令室側でも察知したようだが一瞬遅かった。ヌンガロが激しく揺れると中から槍状に固められたパーツが何十本も発射されてきたのだ。径十数メートル、長さは百メートルを超える槍の多くは骨や金属を集め圧縮したものであったが、一部は巨獣の黒い肉と牙を使っていた。葉巻型の戦艦が回頭しかけたところに四本がぶち当たり、うち二本は障壁に弾かれたが残りは中央部側壁と尾部に突き刺さった。特に尾部に刺さった槍は反対側の装甲まで貫通していた。戦艦が派手に揺れ、傾き、フラフラしながらなんとか姿勢を戻す。

「だ、大丈夫ですかっ」

「問題はない。うむ、メインシステムは無事だ。こんな原始的な怪獣にしてやられるとは予想外だったが、戦いとはそういうもんだよなあ」

 艦長の声は喜んでいるようでもあった。通信機が更に慌ただしい状況を伝えてくる。

「かっ艦内にめり込んだ敵の投射武器から、くっついていた肉が動き出しましたっ。襲ってきます」

「チッ。焼き払え。迂闊に近寄るなよ、取り込まれるぞ」

「艦長、空に浮かぶ船から地球人が何かを呼びかけています」

「あのボロ船か。音声を拾え。何と言っている」

「砲撃をやめて離れて欲しいそうです。攻撃の邪魔になるとか」

「ふむ。砲撃中止。もっと高度を上げろ」

 やり取りを聞いたトーマスが、夜空の一点を指差した。

「ボロ船って、あれのことですよね。あの人達も来てたんですね……あ、なんか投げた」

 

 

 ブラディー・サンディー号の船首像であるサンドラは、笑っているのか怒っているのか見分けのつかない形相で両腕を振り抜いた。待ちきれなかったのだろう、神楽が正式にゴーサインを出す前に。いや、そもそも待つつもりなどなかったのかも知れない。

 同じ石材で形作られた幅広の斧が回転しながら一直線に飛ぶ。刃に塗りたくった猛毒『無空』が遠心力で飛び散ってしまいそうだが、そもそも幽霊船にまともな理屈は通用しない。

 船からヌンガロの最も近い部分まで十五キロほどの距離があったが、流星と化した二振りの斧はほんの二秒弱で越えてみせた。ドゥパッ、と水飛沫のような肉飛沫を大量に散らしてヌンガロの内部に潜り込む。片方は膨らんだ中央部に、もう片方は漆黒の毛皮に覆われた前部に。

 結果は十秒ほどで見えてきた。斧の開けた穴はすぐに塞がったが、その場所に小さな黒い点が浮かび上がる。

 二つの点は凹んでいき二つの黒い穴となり、穴は次第に大きくなっていった。ゆっくりと、いやどんどん加速していく。無数の融合した肉達がどす黒く変色してドロドロに溶けていく。

「効いてるみたいね」

 そんな様子を船縁で眺めながらシアーシャが言う。

「でも、あの毒が広がって、インドは不毛の土地になっちゃうかも」

「今更ですね。既に不毛の土地ですよ」

 神楽は平然と返す。

「それに、『無空』は溶かすものがなくなれば失活しますから、後からまた緑は戻るんじゃないですか。元通りになるには何十年かかるかは知りませんが」

 そんなことを言っている間にも黒い穴は広がっていく。

 ヌンガロは対処するために間違った選択をした。広がる穴を塞ごうと周囲の肉を寄せ集めたのだ。結果として更に毒が浸透し被害が加速していく。

 構成要素である無数の動物達が溶けていく。牛の顔がクシャリと凹みながら溶ける。アフリカから渡ってきたであろうキリンの首が曲がりながら溶ける。ワニの胴体が膨らんで弾け、黒い液体を撒き散らす。

 無数の人の顔が、悲しげに歪みながら溶けていく。彼らにまともな意識が残っていたのかは分からない。船上から異常な視力で見守る者達が、勝手に悲しげな顔と感じてしまっているだけかも知れなかった。

 頑丈な『大きな獣』の漆黒の毛皮も泡を吹きながらゆっくりと溶けていく。黒い毛が浮き上がり、細くなり、溶けて雫となって落ちた。

 横幅の長いところは二十キロもあったような巨大な怪物も溶け続けて半分くらいの大きさに萎んでいた。このまま完全に消えてしまうかと思われたが、神楽が軽く溜め息をついて言った。

「それなりに考えるだけの頭はあったようですね」

 テンタクルズは溶ける触手を自切して本体を守った。それに対してヌンガロは、まだ無事な部分が本体から分離して、小さなアメーバになって逃げ始めたのだった。

 径二十メートルほどの球体となり、突き出した動物の脚や触手で地面を蹴って転がり逃げるもの。バッタのような巨大な脚を何本も組み上げ、高く跳躍して逃げていくもの。騙せると考えたのか樹木に擬態して少しずつ這っていくもの。蛇のように細長くなって地面に潜ろうとするもの。そんなバラエティに富んだ形態でバラバラに逃げ散っていくヌンガロのパーツ達を、上空の葉巻型宇宙船から発射された破壊光線が次々と焼き尽くしていった。連携している訳ではないのに、ポル=ルポラ星人はなかなか機転が利くようだ。

 本体は溶け続け、元の大きさの一割程度まで縮んでしまったところで、まだまともだった部分が風船のように膨れ始めた。膨らみ過ぎて破裂すると中から四つ足の生き物が飛び出していく。それも無数の動物を組み上げたもので、体長が百メートル以上あった。胴体に比べ脚が太く、巨体には似合わぬスピードで駆けていく。宇宙船から光線が飛ぶが、素早いジグザグ走行でうまく避けていた。

「おや」

 神楽が呟く。

 四つ足のヌンガロが逃げる北西方面に、別の巨大な肉塊が待っていた。さっきまではいなかったものだ。山の陰になって全身は見えないが、最初に見たヌンガロと同じくらいの質量がありそうだった。

「もっと前に分かれていたものが、助けに来たのですかね。まだ世界中に散らばっているとすれば、『無空』が幾らあっても足りそうにないですが……むっ」

「あっ、今、変な感じが……」

 神楽に続き、シアーシャが眉をしかめた。イドが聖剣に巻いた布を取り、鈍く光る剣身を露わにする。

 ピシッ、とガラスにヒビが入るような音が聞こえ、船員達が身を竦めた。シアーシャの透明な障壁が割れる時の音に似ていたが、何処で鳴ったのか分からないくらいに派手に轟いたのだ。

「あれです」

 神楽が指差した。北西からやってきた新たなヌンガロの、その真上。宇宙船からの強力な照明が小さな異形を浮かび上がらせる。

 それは、体長二メートルほどの、漆黒の怪物だった。やや丸く膨らんだ胴体に丸い頭部、腕と足も二本ずつあった。腕の先端には細い紐のようなものが数本垂れ、足は華奢で自重を支えるのも難しそうに見えた。腹部には大きな縦長の裂け目が開いており、その奥にはただ暗い赤色だけがあった。

 頭頂部には金色の毛髪が生えている。顔には口らしきものはなく、丸い目が幾つか水平に並んでいた。

 怪物は宙に静止していた。よく見るとその周囲に光を淡く反射するものがある。ほぼ透明な薄い羽が四枚、怪物の背中から伸びており、高速で微細な羽ばたきによって体を浮かせているのだった。

 人間と同程度の大きさ、『大きな獣』やヌンガロと比べるとゴマ粒みたいな体でありながら、不気味な存在感を放っている黒い怪物。神楽は冷たい声で告げた。

「あれがハンガマンガの王、グラトニーです」

「あれが……。いや、しかし、先触れの四獣はまだ二体しか出ていません。『速い獣』と『大きな獣』しか……」

 教皇が呻く。神楽は首を振り皮肉な笑みを作った。

「既に世界の何処かで登場済みかも知れませんよ。とにかく、あれを殺せばハンガマンガには勝ちが決まります」

「ほーん。あんま強そうじゃないよな」

 船長がのんびり言う。

 ピユーイ、という高い笛の音のようなものが聞こえた。

 羽の生えた怪物・グラトニーから黒い線が長く長く伸びていた。四本の線は空から斜め下へ、地上で逃走部分と合流したヌンガロの巨塊にかかり、その肉にめり込んであっけなく切り裂いて反対側へと抜けた。宇宙船が発射する高出力の光線みたいに。違うのは、黒い線の軌跡が残像のように、薄いカーテン状になって空間に残っていることだ。

 その四枚のカーテンがグニャリ、と歪んでいくと、ヌンガロの肉も一緒に歪んでいった。裂け目がねじれて肉の断面が見える。

 カーテンがグラトニーに向かって引っ張られる。ヌンガロも引っ張られる。薄いカーテンがグラトニーに近づくにつれ小さく絞られていく。ヌンガロのスライスされた肉も小さく絞られていく。ヌンガロはグネグネ蠢いて抗っているが、完全に捕らえられ、逃げることも出来ないようだった。

 グラトニーの胴体にある縦長の赤い裂け目にカーテンが吸い込まれた。そしてヌンガロも圧縮されながら吸い込まれていった。素麺でも啜るみたいに、ズルズル、ズルズル、と。全長数キロから十数キロメートルもありそうな巨大な肉塊が、二メートルの体躯の中へ、ほんの三十秒ほどで吸い尽くされてしまった。

 冗談のような光景に、誰もが沈黙していた。教皇の輝きが弱くなり、その体もプルプルと震えて見える。

 やがて神楽が疲れた声で言った。

「グラトニーの意味は『暴食』だそうですが、いやはや、これは大食いのレベルが違いますね」

 シアーシャが神楽を見上げて尋ねる。

「カグラおじさん、あれに勝てそう」

「さて、どうでしょう。ひょっとすると防御力は低くて、攻撃が当たればあっさり殺せるかも知れませんよ。あまり強そうではないらしいですからね」

 神楽はからかうような視線を船長に向けたが、相手は知らないふりをしていた。

 黄色の光線が飛んだ。ポル=ルポラの宇宙船からの攻撃。適度に幅を絞られた光線は宙に静止するグラトニーを焼き尽くしたかに見えたが、イドが珍しく緊迫した声で「速いっ」と叫び振り向いた。皆もイドの視線を追って振り返ると、葉巻型宇宙船が薄いカーテンによってスライスされていた。

 ヌンガロの巨大な槍が二本突き刺さった宇宙船の上に、グラトニーが浮かんでいる。一瞬でそこまで移動し、腕先から生えた紐で宇宙船をぶった切ってみせたのだ。綺麗に輪切りにされ、宇宙船が五つに分解していく。船の上に立っていたハタナハターナも片腕と胴体を斜めに断ち切られていた。

 そのままバラバラに落下するかと思われたが、薄いカーテンに重力を操作する力でもあるのか、力なく宙を漂っている。そしてカーテンがグラトニーへと引かれ、宇宙船も引き寄せられていく。硬質な金属で作られている筈の船体がグニャーリと歪んでいく。

「空間が歪んでいるようですね。そうか。空間を操作する能力によってこちらの世界に通じるゲートも作られているということか。ということはグラトニーを殺せば……」

「それより、見ていていいの。このままじゃ宇宙船の人達が食べられちゃう」

 シアーシャがさすがに心配そうな顔で神楽を見上げた。しかし幽霊船から宇宙船まで距離があり過ぎる。

「っと、そうですね。異常なスピードですが、捕食の間は動いていない。サンドラさん、お願い出来ますか」

 船首像は神楽達からは横顔しか見えなかったが、ニヤリと笑ったようであった。手の中に再生していた二振りの斧が間髪入れずにぶっ飛んでいく。放物線を描くような悠長さはなく、光線に負けぬ速度で一直線にグラトニーの胴と頭に向かっていた。

 ギャイィンッ、と高い音が鳴った。イドがシアーシャを庇うように立ち聖剣を差し上げていた。「あっ」とシアーシャが驚きの声を洩らす。船員達は斧の飛んだ先にグラトニーがいないことに気づき、それからやっとそのグラトニーが目の前にいることに気づいたのだった。

 イドの持つ剣に黒い紐が絡んでいた。グラトニーの右腕先から伸びたそれは、柔軟でありながら恐ろしく強靭で、ぬめるような輝きを持った爪であった。その爪は聖剣の刃に数センチ食い込んでいた。数多のハンガマンガを屠り、走る列車からコンクリートの床に突き刺しても無事だった聖剣が。そして爪はイドの左側頭部にも食い込んでいた。頭蓋骨を割り脳にも届いているかも知れないダメージに、イドは表情を変えずただ鋭い視線をグラトニーに向けていた。

 グラトニーの頭部に並ぶ四つの丸い目は、昆虫のような複眼だった。目以外には何もないため表情は分からない。ただ、冷え冷えとした意思を船上の者達は感じ取った。

 ただ、食べる。毎朝の決まった食事としてマーガリンを塗ったトーストに手を伸ばすような、ごく自然で、何の感情も含まない食欲であった。

 短い舌打ちと共に、神楽の両袖からキラキラした何かと白い煙のようなものが飛び出した。敵を切り刻む使い魔と腐らせる使い魔。特に前者は常人には見えないほどのスピードで動くが、グラトニーは瞬時に別の場所にいた。神楽達が並んでいた船の左舷から、右舷を通り過ぎて五十メートルほど離れて浮かんでいたのだ。

 ピューィー、と高い笛の音のようなものが響いていた。

 グラトニーの今度は左腕から長く伸びた四本の爪が、ブラディー・サンディー号を五つに割っていた。爪の残像が四枚の薄いカーテンと化して船体を貫き、骸骨船員の何人かは体を真っ二つにされていた。

「イドッ」

 シアーシャが叫ぶ。イドの握る聖剣エーリヤは、食い込んでいた爪があっさり通り過ぎて、剣身の半ばほどで綺麗に断ち切られていた。

 イドの頭は、左側頭部から頭頂部近くまでスライスされていた。赤い髪がついた頭蓋骨の一部がずり落ちていき、脳の断面を晒す。

「あ、聖剣、が」

 教皇はカーテンによって左首筋辺りから胴を縦に割られていた。落ちていく折れた刃に手を伸ばそうとするが、カーテンにくっついたみたいにその場から動けなかった。

 船首からゴリ、リ、と重い音がする。白い船首像が胸の高さで輪切りにされ、ずれていく音だった。カーテンに付着しているせいで完全に分離することを免れているが、ギ、ギューッ、という呻きを船首像は発した。

「サ、サンドォラアーッ」

 船長が妻の名を叫ぶ。常に妻の脅威に怯えていた船長の声音に滲むのは歓喜ではなく、自身の断末魔にも似た魂の悲鳴であった。

 神楽が飛んだ。背中から蝙蝠のような半透明の翼を生やし、右手にはクリスダガーに似たジグザグに曲がった短剣を、左手には鎌状に湾曲した剣を握り締めて。それらの刃にはうっすらと黒い液体が塗られていた。生き物殺しの猛毒『無空』。その刃をグラトニーに届かせる自信があるのかどうか、神楽は薄い唇を歪めて強烈な笑みを浮かべ、牙のような犬歯を覗かせていた。

 分割された船がグニャーリ、と、歪んでいく。グラトニーの左腕から伸びた爪は船ごと乗員を吸引しようとしている。乗員の姿もゆっくりと歪んでいく。「え、ヤバイヤバイ」と骸骨達が騒ぎ出す。ガラスの割れるような音は、シアーシャが抵抗するために出した障壁が一瞬で破れたものだ。空中にいる神楽も空間の歪みと無縁ではいられなかったらしく、飛行する速度が次第に、落ち、て、いく。

「あー、くしゃみが出そうだ。くしゃみが……」

 神楽がわざとらしく呟いた。

「えっ、くしゃみが出そうなのか」

 神楽の目の前に貧相な顔のくしゃみ男が出現した。巨大な神の棲む深海で行われたのと同じやり取りだった。同じネタでは出てきてくれないだろうと神楽自身は言っていたのだが、日本には天丼という文化があったのだ。

 テンタクルズを爆殺したように、グラトニーを始末出来るか。死と破壊のくしゃみが届くまでグラトニーはその場に留まってくれるだろうか。

「ええ、くしゃみが今にも出そうでグッ」

 それ以前の問題であった。グラトニーの自由な右腕が閃いて、くしゃみ男と神楽はまとめて数分割されていた。くしゃみ男は首と胸と腰で輪切りにされた。神楽は寸前で剣を交差させて受けつつ首を反らし、首の切断だけはなんとか防いだが、腹部と両太股が輪切りにされた。二本の剣もあっさり断ち切られていた。

「なんか扱いがひどいような」

 くしゃみ男の生首が呟きながらゆっくりと落ちていく。神楽は胸から上だけの状態でもまだ翼を羽ばたかせてグラトニーに近づこうとしていた。肺と心臓の覗く断面からボタボタと血を流しながら。

 そこに船上から新たに飛び出す者があった。僅かな助走から船縁を蹴り、生身ではあり得ない跳躍を見せたのは軽量故か。両手にそれぞれ握った剣を振り上げ、両足代わりの両手も剣を握る異形ならではの構えを見せ、キャプテン・フォーハンドはハンガマンガの王を怒鳴りつけた。

「俺様の女に何しやがるんじゃボケがっ」

 船長は本当に怒っていた。彼我の実力差を失念するほどに。彼がどれほど剣の達人で、人間には不可能な四刀流を使いこなす傑物であっても、十数キロの距離を瞬時に移動し巨大な宇宙船をぶった切る化け物相手には荷が重過ぎた。

 グラトニーは右腕を振ろうとして、爪が何かに引っ掛かる。神楽達を輪切りにした長い爪の一本に、白い煙のようなものが絡みついていた。そして同じ爪をキラキラしたものが付け根側へと伝い走っている。神楽の二つの使い魔は、交差させた剣が断ち切られるまでの僅かな時間に取りついていたのだ。

 だがそれも一瞬のことだ。改めてグラトニーが右腕を振ると、白い煙もキラキラした何かも霧散した。黒い爪は船長の腰椎を通り過ぎてその体を上下に分断した。

「クソッ、タレがっ」

 船長が上半身と下半身から計四本の剣を投げつける。見事なコントロールでグラトニーの胴へ切っ先を向けて突き刺さり、いや、中央の赤い裂け目にそのままチュルリと吸い込まれていった。ダメージは皆無のようだ。

「畜生……」

 勢いをなくして船長の体は落ちていく。その途中で空間の歪みに捕らえられ、結局グラトニーへ引っ張られていく。

 幽霊船も歪みながら時折断面を晒しながら引っ張られていく。少しずつ小さくなって。くしゃみ男の生首も流れに捕らえられていた。

「カグラおじさんっ、どうすればいいのっ」

 崩れ落ちたイドを抱いてシアーシャが叫ぶ。

「暫く持ちこたえて下さい」

 答えた神楽はグラトニーの三メートル手前にいた。胸から上だけで翼を使ってなんとか飛んできたが、近づくほどに空間の歪みを受けて自由に動けなくなっていた。圧縮されて姿が小さくなり所々が波打っている。折れた剣も捨て、両手を広げて軽くホールドアップしていた。自分がもう食べられるだけの無力な存在だとアピールするかのように。ただし、彼の瞳は殺意にギラついていた。

 そして神楽は何も出来ぬまま、グラトニーの胴体の赤い裂け目に吸い込まれていった。

 グラトニーの吸引は続く。神楽の残っていたパーツも吸い込まれ、くしゃみ男の体も生首も食われた。左腕の爪に繋がる黒いカーテンは幽霊船とその乗員を引っ張っていく。マストがクニャリと曲がっていく。分割された船体同士が変形してぶつかり合うが音はしない。船員達は恐慌状態になっている者と反撃を試みる者、先に吸い込まれそうな船長を助けようとロープを投げる者などに分かれた。しかし舷側から発射した砲弾も投げたロープもすぐに勢いをなくして吸引に捕らえられる。

 シアーシャが両腕を上げて結界を張ろうとするが、効果が生じた途端にパリンとあっけなく割られるという繰り返しだった。幽霊船とその周囲の空間はグラトニーによって完全に掌握されていた。

 その少女の膝の上から、イドがユラリと起き上がり、剣を握って立った。折れた聖剣エーリヤは刃渡りが四十センチほどになっていたが、淡い輝きは失われていない。脳の断面を晒しながら、イドの目はまだ戦う意志を宿していた。

「おおっ、イドさん……」

 教皇が驚嘆の声を洩らす。

 脳を損傷して右手を動かせなくなったか、左手に持ち直し、イドは黙って聖剣を振った。爪の軌跡から形成された黒いカーテンに裂け目が出来る。よろめきながら右舷へと駆け、船体に吸着したカーテンを切り裂いていく。

「イド、無理しないでっ」

 シアーシャが声をかけるが、イドは振り向かず「ここが正念場だ」と応じた。

 船体の一部がガクンと沈む。切り裂いたところは吸引を免れるようだ。だがグラトニーがそれを放置する筈もなく、イドもそれを分かっているのだろう、敵から視線を外さなかった。

 グラトニーの自由な右腕が斜めに振りかぶられる。船を重ねて刻むつもりらしい。その爪の一本はイドを狙うだろう。イドのまとう空気がキリキリと硬質化していき、左目から溢れた血が頬を伝い落ちる。

 だが、グラトニーの爪は襲ってこなかった。超高速の羽ばたきで宙に静止していたグラトニーの姿勢が揺らぎ、胴体が膨らんだように見える。

「ゴベエエエエエエエエベベベボエエエエ」

 グラトニーのそれは声ではなかった。胴体の赤い裂け目から極彩色のドロドロしたものが噴き出した音だった。

 滝のように大量に落ちていく。溶け崩れて半ば液体と化しているが、動物の脚らしきものや人間の腕らしきもの、筋肉や骨が見え、先程吸引したヌンガロと思われた。それだけでなく長大な紫色の毛の塊や、所々に膨らみのある触手、曲がった金属の柱に見えたが巨大な動物の牙らしきものなど、地球の生物ではなさそうなものも混じっていた。しつこく溶け残ったものもあるが、生きているものはなさそうだ。ヌンガロのパーツも力なくピクピクと痙攣するものを稀に見かけるくらいだ。それらはただドロドロと落ちていき大地を汚していく。

「ああ、悪いものを食べちゃったんだね」

 グラトニーの盛大な嘔吐を見て、ふと気づいたようにシアーシャが呟いた。

「ひどい言い方ですが、その通りです」

 すぐ後ろで神楽の声が聞こえ、少女は驚いて振り返る。

「おじさん、食べられたんじゃなかったの」

 神楽は無傷で立っていた。

「食べられたのは半分です。そっちもまだなんとか生きていますよ」

 その少し後に、嘔吐の滝から泳ぐようにして胸から上だけの神楽が抜け出してきた。だが既にかなり溶けて赤と黄色の粘液になりかけており、背中の翼で数度羽ばたいただけで、力なく落下していった。

「ああ、今死にました」

 船上の無傷な神楽は他人事のように言った。

「大丈夫なの」

「まあ、半分ですから」

 元々重病人のようにやつれた顔のため、ダメージがあるのかどうか表情からは分からなかった。

 グラトニーはまだ吐き続けている。姿勢が急に揺れ始めたのは、背中の羽の一枚が抜け落ちたためだ。見ている間にもう一枚、ほぼ透明な薄い羽が薄い煙に絡みつかれながら落ちる。落ちながら溶けていく。腕がブルブルと震え、振り上げようとした右腕の爪が根元から次々と折れて落ちた。キラキラした何かが周囲を素早く飛び回っていた。

 使い魔達の活躍を見ながら神楽は呟いた。

「随分と格が落ちましたね。疫病神を食べてしまったのですから当然ですが。イドさん、その聖剣でトドメを刺してもらえますか。おそらくはそれが正しい筋でしょうから」

 真っ二つになってカーテンに張りついている教皇も「もしそれが可能でしたら、どうか、お願いします」と言い添えた。

 イドはよろめきながらまだ黒いカーテンの除去を続けていたが、二人の言葉に頷いた。その動作で左側頭部の断面から新たな血と脳漿が零れた。

「イド……」

 シアーシャは非難の視線を神楽に向けたが、彼はやはり平然としていた。

 イドは半分の長さになった聖剣を左手で振り上げる。右腕は動かず、足もうまく力が入っていない。その背中にシアーシャが触れると姿勢が安定した。イドは聖剣を逆手に持ち替えて投擲のフォームになった。

 グラトニーはまだ吐いている。頭部に並ぶ複眼も黒い体液らしきものを漏らしていたが、食材に向けられた冷酷な視線をまだ感じ取ることが出来た。

 分割した船を捕獲していた左腕の爪が、黒いカーテンをほどき引き戻されていく。再度攻撃してくるつもりか。また、船と繋がっていなければ、羽が半分になっていても投擲された剣など余裕で避けられるだろう。

 イドの迷いを見透かしたように神楽が告げた。

「心配ありません。必ず当たりますよ。相手の……」

 吸引されなくなった船がグラリと下に揺れた。瞬間、グラトニーの左腕が閃き、イドが聖剣を投げた。

 投擲は常人の目にも留まらぬ速さだったが、宇宙船の破壊光線さえ避ける化け物にとってはどうだったか。

 そして、折れた聖剣は、グラトニーの首の付け根に、深々と鍔元まで突き刺さっていた。

 振り下ろされた爪は何も斬らずに通り過ぎた。爪の一本は根元付近で折れ、もう一本は腐りかけた肉と共にすっぽ抜けていたのだ。

「……運が悪いので」

 神楽が自信満々な台詞を終えた。

「外したかと思った」

 イドが呟くように言うと、力尽きて崩れ落ちる。それをシアーシャが抱き締めるようにして支えた。

 グラトニーの首、剣が刺さった場所から亀裂のような白い線が広がっていく。四つの複眼がクシャリとしぼみ、ドロドロに溶けていく。もしかすると既に視力は大幅に低下していたのかも知れない。

 残っていた爪も全て抜け落ちる。腕の先から黒い体液が洩れる。胴体の裂け目から噴き出す極彩色のドロドロは暗赤色に変わっていた。

 剣を中心にして放射状に広がった白い線が全身に回った頃、グラトニーの胴が急に膨らんでいった。爆発するかと見えたが、またゆっくりと元の大きさに戻っていく。裂け目からの消化物の噴出がやんだ。

 次の瞬間、グラトニーは爆散した。飛び散った体は粉々で跡形も残らなかった。

 骸骨の船員達は呆然と見ていたが、船の各部が落ちながら離れていきそうになってどよめき、割れた甲板に這いつくばったりマストにしがみついたりした。バンダナキャップの副官が操舵輪に飛びついて勢いよく回す。空中分解しかけていた船が再びまとまっていき、多少のずれは残るがうまくくっついた。それで落下速度も和らいでいき、浮遊状態を取り戻した。

「あっ、船長はどうなった」

 船員の一人が叫んだ。船縁から下を覗くと、グラトニーの吐物で極彩色の海が広がっていた。それがインドの大地にどのような影響を及ぼすのか定かではないが、あまり良いことはなさそうだ。

「おーい、引き上げてくれえ」

 下から船長の声がする。かなり近い。

 先程船員が投げたロープを、船長の上半身が掴んでぶら下がっていた。届かなかった筈だが、グラトニーが吸引を解除した際にうまいこと掴まったようだ。

 甲板に引き上げられてすぐ船長は「サンドラは……」と船首を見やり、すぐに「ヒッ」と悲鳴を上げた。

 爪に輪切りにされた白い船首像は元通りにくっついていた。いや、胴が伸びてこちらへ振り返り、満面の恐ろしい笑みを船長に向けていたのだ。

「船長がかっこ良く愛を叫んじゃったっすからねえ。いよっ、色男」

 副官にもし肉があれば、その顔はニヤついていただろう。

 動けるようになった教皇はイド達の前にいた。神楽は黙って二人を見下ろしていた。

 シアーシャの膝に頭を乗せ、イドは目を閉じて横たわっている。

 イドは、死んでいた。

「ハンガマンガの王は倒せましたが、イドさんを犠牲にしてしまった。私のせいです。私が……聖剣を託さなければ」

 教皇は輝きの中で泣いているようにも見えた。

「ううん、違うよ」

 シアーシャは優しい顔で首を振った。

「イドは自分の意志で受け取ったんだから」

「……。カグラさん、あの薬は。あの、相当の重傷でも治るという丸薬は……」

「渡していましたよ。イドさんが飲まないことは分かっていましたがね」

「それはどうして……」

 教皇の問いに神楽は軽く肩を竦めただけで答えず、船長に告げた。

「船が動くなら、あちらのバラバラに落ちた宇宙船の方に向かってもらえますか。列車を呼ぶ前に、まず生存者を救出しましょう」

 

 

 幽霊船がフラフラしながらその場を離れた後で、極彩色の海を歩く者がいた。

「ローギは探す〜ローギは拾う〜良いもの〜悪いもの〜腐ったもの〜」

 微妙に調子外れな歌を歌うのは身長二メートルを超える白スーツの男だった。恐ろしく胴長短足で、肩幅はやたら広いのに腰は細い。頭から黒い布袋をかぶり、大きな金属の箱を背負っていた。

「ローギは運ぶ〜博士に届ける〜強いもの〜弱いもの〜腐ったもの〜」

 男はドロドロの消化物の海に沈むことなく歩いている。その靴底が水面から僅かに離れ、浮いていた。

 布袋に一ヶ所だけ開いた穴から血走った瞳がキョロキョロと海を見渡しているが、やがて男は立ち止まり、極彩色の海に長い腕を突っ込んだ。

「ローギは探す〜ローギは拾う〜良いもの〜悪いもの〜腐ったもの〜」

 引っ張り出されたものは黒く細長い棒だった。いや、緩く湾曲し、ぬめるような輝きを持つそれは、グラトニーの爪だ。

 男は背中の箱を下ろしかけ、ここが消化物の海であることに思い至ったようだ。長い腕を背中に回して箱の蓋を開けると、十メートル近くあった爪をうまく中に放り込んだ。

「ローギは運ぶ〜博士に届ける〜強いもの〜弱いもの〜腐ったもの〜」

 歌いながら男はまた歩き出した。広大な極彩色の海の上で、何かを探して。

 

 

  六

 

「ん、んー。死者の力の源が何だか、君は知っているかな」

 塗り潰したように真っ黒な人影・冥王ハスナール・クロスは玉座から問いかける。優しい声音であったが、無知な子供に言い聞かせるような、嫌な優越感が滲んでいた。

 相手の答えはない。ただ、ベチベチと何かを叩くような音が続いている。ベチベチベチベチ、延々と。

 冥王の神殿はほぼ全壊し、そばに控えていた強者達も残っているのはほんの数人になっていた。彼らは立って動かぬまま目だけで右を見る。それからすぐ左を見る。また右を見て左を見る。延々と、凄いスピードで眼球を往復させていた。

 その視線の先には、空中で五十メートルほどの距離を左右に往復する黒い金属球があった。直径四十センチほどの綺麗な球体だが、超絶的な動体視力を持つ者がいれば表面に走る幾つもの歪んだ線が見えただろう。まるで、別の形だったものをクシャクシャに丸め、丁寧に丁寧に、時間をかけて整えたように。

 鉄球が右に飛ぶとベチッと音が鳴って左に跳ね返る。するとまたベチッと音が鳴って右に跳ね返る。それを高速で繰り返しているため叩く音は連続して聞こえ、鉄球の残像が水平に重なっていた。

 冥王は続けた。

「死者の体は物質化しているが、生きている訳ではない。所謂精神力、魂の力……そういうものによって構成され、動かされている。派手に立ち回る、生前持っていたような特殊な能力を使う、損傷した体を修復する。そのたびに精神力を消耗していき、尽きれば消えてしまい、無に帰る訳だ。精神力は……そうだね、愛情や憎しみの強さとか言い替えてもいいな。強い感情があれば、それだけ頑張れるということだ」

 返事をする者はいない。側近達は黙っている。冥王の言葉が自分達に向けられたものでないことを理解している。

 ベチベチベチベチベチベチベチベチ。鉄球の往復は続く。延々と。何も変化はない。

「ん、んー。つまり、だなー。プレジデント、だったかな。君は随分とメイドフェチのメカフェチだったようだが、君のメイドやメカへの愛情なんて、所詮はその程度のものだった、ということだなあー。いやあ残念、実に、残念だ」

「……まだ、だ……。私の愛は……」

 声がした。小さな、呻くような声が。

 超高速水平往復を繰り返している鉄球の中から、その声は聞こえた。

 ウィリアム・セイン大統領はそこにいた。愛する三体のメイドガイノイドと武装装甲車ごと、見えない強大な力によって小さく丸められ、反撃の余力を完全に失って。

「んー。おかしいな。今誰かの声が聞こえたような気がしたが、錯覚だったようだ。プレジデントともあろう者が、あんな弱々しい声を出す筈がないからな」

 片耳に手を添えるようなポーズを取って冥王は煽る。ベチベチベチベチ、見えない打撃は続けられ、まだ鉄球から声は出ていたようだが小さ過ぎて打撃音に紛れてしまった。

「ん、んー。メイド達の発言がないのも気になるな。とっくに滅んでしまったのかな。だとすると、君への愛情などその程度だったのだろうね。……いや、待てよ。んー、悲しい仮説が浮かんできたぞ。もしかすると、メイドロボなんてものはそもそもいなかったのかも知れないぞ。ロボットに魂はないだろうからな。冥界のメイド達は君の力の一部、自分の妄想で作り上げたただの虚像だったのかも知れない。いーやはや、実に、悲しいことだなーあ」

 メチッ、と不気味な音がして、往復運動している鉄球に亀裂が入った。高密度に圧縮されたそれを内側から無理矢理こじ開け、光る目が覗く。ウィリアム・セイン大統領のカメラアイは、機械でありながら怒りと不安を滲ませていた。

「嘘だ。彼女達は……」

 彼は最後まで言い終えることは出来なかった。見えない巨大な力によって鉄球は厚さ二センチにまで一瞬でプレスされていた。

「んー、悲しいことだ。弱者には発言権すらないのだから」

 平らになった鉄球は空中で折り畳まれ、またプレスされ、また折り畳まれる。繰り返すうちに元は大型装甲車であったものはどんどん小さくなっていき、最終的には大きさ一センチほどの黒い鉄片になった。

 それも駄目押しの一叩きでパチンと弾けて消えた。

「さて、ある程度時間潰しにはなったが、現世の方はどうなったかな。ヨーロッパは綺麗に掃除出来たか」

 神殿の後部で這いつくばって避難していた、首から上が無数の目になった男が報告する。

「ヨーロッパの生者殲滅はほぼ完了し、後は隠れた僅かな生き残りを探している段階とのことです。自動機械や黒い獣の群れ、巨大アメーバなどとの戦闘は続いていますが、こちらの圧倒的優位が覆ることはないと思われます」

「うむ。後は待つだけだな」

 黒い人影は頷いた。

「現世ではどういう演出で登場するか、考えておかねばな。かっこよく、私の恐ろしさが自然に伝わるような……いや、しかし凝り過ぎるのも興醒めになってしまうかも知れないな。シンプルでさり気なく、そしてセンスのある……ううむ……」

 全壊した神殿から垂直に光の柱が立ち昇る。それから土台の石段ごと浮き上がり、神殿は紫色の空へ消えていった。

 

 

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